Archive for the Category ◊ 紀行文 ◊

Author:
• 火曜日, 11月 04th, 2008

さざんかの紅と白が眼の底に残っている。今回の教室は、阿波市(旧阿波町)の庁舎の右隣にある会館で行われた。その庁舎の庭先に、さざんかの花が寒空の下で揺れていた。風に吹かれて、紅と白の花が咲き誇っていた。さざんかは旧阿波町の町の花だった。

花の香りを後に残して、阿波市担当の当社の井本君の車で泊まるべき宿を探して、車を走らせた。

阿波市には、土成町と市場町、そして阿波町に、温泉があるという。いつも徳島へ出張の際には、徳島市駅前のビジネスホテルに泊まるが通例だった。あまりに味気ないので、今回は地元の宿に泊まりたかった。

市役所から北の山にむけて、10分ほど走らせると、山の裾野に【土柱ランド新温泉】という看板があった。

予約もなしの、とびこみ客だったが、幸い日曜日で泊まり客も少なく、金・土は満員でしたが、今日はゆっくり泊まれます、という女将の返事だった。

寒い。今年一番の寒波だった。山の町は、徳島市内よりも2〜3度温度が低いという。それにしても暖房のボタンを点けても、いつまでたっても部屋は冷えたままだ。

思わず温泉に入った。ラドン温泉だった。今日の運動教室を思い出しながら、身体を温めた。

火照る身体のまま、食事となった。吉野川の鮎、たらいうどん、山菜。女将が土地の話をしながら、ビールの栓をぬいてくれた。“夜の土柱”も是非見てください、ライトアップしてあるから。歩いて2〜3分の裏山にあります、と言う。

“土柱”県人ながら、私ははじめて土柱という言葉を耳にした。「世界の3大土柱のひとつです」。

結局、寒さのあまり、浴衣で外へ出るのを渋った私は、夜の土柱を見ることはなかった。

南の山脈から朝日が顔を出した頃、7時、私は朝食の前に、宿の裏山にむかって歩きはじめた。“土柱とは何か?”

坂道を歩いてしばらくたつと、山の斜面が鋭く、大きな力で、削りとられたように、土がむきだしになっていた。

土の柱が何本も、まるで塔か、筍かのように、中空に屹立していた。なるほど、見事な景観だ!

絶崖には、深い淵が幾筋も走っていて、雨の力か、風の力か、途轍もない大きな力が、長い長い時間をかけて、浸食し、風化させ、土の柱を露わに晒していた。

百万年の時間の皺が、土の柱という形にあらわれていた。なるほど、砂岩、貢岩、粘枚岩、石灰岩が混ざっていて、弱い部分が消えて、強い部分が残ったのだ。

中世期の白亜紀の地層だと、立看板に書いてある。そうすると、約130万年前のものだ。

高さが約50メートル、幅は約100メートルはあるだろう。谷の底には草が繁っていて、中腹には大小の裸の“土柱”があり、松の木が土柱の頂きに生えていたりもする。

私は人間の生命をこえた、巨大な時間を感じながら、寒空の下で、土柱を注視した。

人間は人を超えたものに遭遇すると、一瞬、判断停止の状態に陥ってしまい、我にかえるのを危うく忘れそうになる。

鳥が啼いた。私は我に返って、宿へと戻った。吉野川の南の山脈が朝日に輝いていた。

宿からJR山川駅へと向かった。

冬の吉野川が眼下に流れていた。川は人を育て、植物を育み、長い長い時間をかけて、生きものたちに、豊

Author:
• 火曜日, 11月 04th, 2008

糖尿病になって、その人がかかる医療費は、平均2000万円だと、田中先生は語る。阿波市の国保の加入者の3割が、医療機関で糖尿病の治療を受けている。医療費は毎年2億円づつ、増えているのだ。

何がなんでも、意識的な運動習慣を市民の間に根付かせないと、市の財政が、医療費で破綻してしまうだろう。本当に深刻な問題である。

さて、田中先生の「1分運動から始める糖尿病予防」の提案は、2つだった。

徳島県は阿波踊りの本場である。夏、八月には、全国から数十万人の観光客が来る。観るだけではなくて、参加して、踊る。

田中先生は「阿波踊り体操」を考案したのだ。誰にでもできる身近な踊りに、ストレッチと筋力づくりと全身運動をつけ加えて、音楽に合わせて踊るのだ。なるほど、これなら音楽に合わせて、1分間は踊れる。先生は「阿波踊り体操」を全県にひろめている。評判は上々だとか。

講義を聴いていた参加者が立ちあがると、全員が音楽に合わせて、踊りはじめたのだ。6割の人がはじめてだったが、さすがに徳島の人たちだ。眼が輝き、手足がしなやかに動き、ストップという声で、そのままのポーズで動作が止まる。ストレッチの効果だ。CDがあれば、自宅でも実行できる。

もうひとつは、10〜15cmの台を用意して、左右の足を交互に台座にのせる、ステップだった。1日100回で充分に効果がでる。

とにかく、どうにかして、今までよりも動いてもらわなければならない。今よりも動く工夫が大切だ。
 ①車を自転車にする
 ②自転車を徒歩に変える
 ③なるべく階段を使う
 ④トイレは遠い場所でする
 ⑤昼食はちょっと離れた店に行く

実行するのは本人だ。病気で泣くのも本人自身だ。元気な人が増えれば、地域社会も豊かになる。

幸い、阿波市には吉野川という財産がある。見事な川を眺めながら堤を歩いてみる。旧市街の町々にウオーキング・ステーションを作って、仲間づくりをして、四季折々に語らいながら歩く習慣ができれば、町と町の交流ができて、人々の会話が弾み、4つの町が、ひとつの阿波市へと結集できるのではないか、と私は考えるのだが。

一人ではできないことも、グループができて、習慣が身につけば、恵まれた環境を本当に生かすことが可能になると思う。

吉野町、土成町、市場町、阿波町をぐるりと廻ってみたが、広い田畑があり、家々にも広い庭があり、綺麗に人の手がゆきとどき、市全体は、外目には豊かな生活に見えた。

人間は動く動物だから、とにかく車社会の弊害から脱出しなければ、心身の健全な未来はない。今日からスタート、現在(いま)からスタートだ。(つづく)

Author:
• 火曜日, 11月 04th, 2008

私の頭の中には、一昨年読んだ徳島新聞のトップ記事との強烈なキャッチフレーズが貼りついたままだった。なぜ、こんなことになったのだろうか?一昨年、JR徳島駅で、上京の際に買った新聞には<徳島県の糖尿病の死亡率。13年連続ワーストワン>とあった。覚えているだろうか? 昔、秋田県が脳卒中の死亡率が全国ワースト1(ワン)だった。もちろん、秋田は雪国である。運動不足になるほど冬は長く、雪は深い。新鮮な野菜が少ない。漬けものを食べる。寒いから塩っぱいものを好む。酒が美味い。呑みすぎる。家庭でも、食堂でも、味が濃い。いわば、雪国の食生活と習慣が生みだした病気だった。秋田県では、小学生からの食生活を変え、教育の場から、街での味まで気を配って、脳卒中での死亡を防ぎ、ワースト1の汚名を返上した。予防教室を徹底した。では、気候は温暖で、冬でも新鮮な野菜があり、味も薄味で、都市のような通勤地獄もない。いわば恵まれた風土で、なぜ糖尿病死亡率・全国ワースト1の県になるのか?

 私たちの少年の頃は、糖尿病は少なくて、「あれはお金持ちで、贅沢な生活をしている人がなる病気や」と大人が語っていた。

徳島大学の田中先生の講義と実技は、私の疑問に見事に答えてくれる、有意義で楽しい教室だった。

田中先生は、糖尿病のメカニズムを説明した後で、徳島県の現状分析を試み、病気の原因を指し示した。

スクリーンに2枚の写真。
 ①車だらけで、渋滞している風景
 ②歩いている人の群れる風景
どちらが東京で、どちらが徳島でしょうか?

①が徳島、②が東京だった。
 
 1日の平均歩数(他都府県との比較)
 徳島県人…6200歩
 長野県人…8600歩
 大阪府人…8500歩
 
東京都人…8300歩
 全国平均…7200歩

 肥満率
 徳島県…ワースト3
 青森県…ワースト2
 沖縄県…ワースト1
ちなみに、高知県はワースト15
      香川県はワースト14
      愛媛県はワースト13である。

つまり、歩数は肥満率に正比例している。糖尿病で、現在最も話題になっているのは、急上昇している沖縄県である。

「今日は車ですか? 自転車ですか? 歩きですか?」ほぼ全員が、今日、会場には車で来ていたのだ。

四国には、四国八十八ヶ所を廻る、お遍路さんという立派な風習があり、全国から歩き遍路が集っている。お遍路さんは1日平均4〜5万歩は歩いている。昔は隣の町へは、歩いて行ったものだと、田中先生は語る。

徳島県・阿波市もまた、山形県の河北町同様、まったくの車社会に変貌していたのだ。

徳島県の標語

 「徳島県、動かんケン
   このままじゃいかんケン」
1に運動、2に食事、しっかり禁煙 最後に薬

阿波市は、糖尿病死亡率がおそろしく高い。
全国平均を100とすると
県内男性143
県内女性135
阿波市男性167
阿波市女性194となっている。
  (徳島新聞発表)(つづく)

Author:
• 火曜日, 11月 04th, 2008

阿波市は四国を代表する、吉野川の中流域の北岸にひろがる市である。旧吉野町、旧土成町、旧市場町、旧阿波町が平成17年に合併した、新しい市である。人口約4万3000人。私は全国を歩いて、利根川・信濃川・北上川・石狩川など、日本を代表する見事な川をたくさん見てきたが、河口の水量は、四国三郎・吉野川が日本一だと思う。いや、水量ばかりではなく、その姿も堂々としている。

出身地はどちらですか、と訊かれる度に、私は「徳島県です」と答えて、すぐに「徳島と言っても、私の郷里は高知県と徳島県の県境にある宍喰(ししくい)という町です」と応えることにしている。半農半漁の、美しい静かな過疎の町だ。

同じ徳島でも、私たちは徳島市の人からは、南の人ですか、人がおおらかで、人情味があって、やさしい人が多いですね、と言われる。つまり、田舎の人である。のんびりしている。

だから吉野川を中心にひろがる市町村のことはよく知らない。旧池田町まで、車で町々を尋ね歩いたことが一度あるくらいだ。

しかし、徳島から高松へ出て、岡山廻りで東京に上京する際、いつも洋々と水をたたえた吉野川の姿には眼をみはったものだ。

四国は、徳島(阿波)、香川(讃岐)、高知(土佐)、愛媛(伊予)からなる島であり、瀬戸大橋が完成するまでは、舟で本州に渡った。

今では淡路へ、今治へと大橋が3本も架かって、電車やバスや車で本州へ道路を通って、通うことができる。

瀬戸内海はもちろんだが、太平洋側の徳島、高知も、陸の道以上に、海の道が発達していた。いわば海の民、海洋民族である。

フェリーで大阪へ、和歌山へ、神戸へ、岡山へと、四国の人々は海の足(海の道)を利用してきた。

同じ四国でも1県1県、風土や気候はもちろん、言葉づかいや単語までちがう。いや、同じ県でも、南と北、都市と地方では、その差が大きい。県外の人がきけば、同じように聴こえても、地方に住んでいると、隣の町の人とも、微妙に、言葉がちがう。方言は本当に風情のある言葉だ。

言葉は正に生きものである。その土地の文化や伝統や習慣が作りあげてきたものが、方言だ。血の通った言葉である。表情も微妙なニュアンスまで伝わる。私たちの少年時代は、その方言を学校で修正されたものだ。標準語が正しく、一番いい言葉だ、と教えられた。あれは、いったい何だったのか?

日本には今でも、何千もの方言が生き生きと使われているだろう。統一化は便利かもしれぬが、味わいというものが消えてしまう。

宍喰を7時17分に出発して、特急・剣山に乗り、阿波・池田方面へと向かった。美しい海を右手に眺めながら、快晴の空の下、電車はいくつものトンネルをくぐり、川を、橋を渡り、平野を横切って北上する。

快晴と言っても、都市の快晴とは訳がちがう。山の稜線、樹木の1本1本がくっきりと見える。光の強度がちがう。風が吹き、草花も、石までが浮かびあがっている。透明な水が流れて、泳いでいる川魚の影が、川底に写っている。

特急といっても、東京の快速くらいのスピードで、ゆっくりと、眼で風景を楽しめるのだ。徳島駅に着くと、特急で約30分、普通で約1時間のところに阿波市がある。

電車は、徳島平野を流れる吉野川の南岸を走り続ける。左手に低い山脈、右手には広大な徳島平野。電車からは、残念ながら吉野川は見えない。鴨島、川島を過ぎて、JR阿波山川駅にて下車する。無人駅である。山が接近してきた。阿波市役所までは、タクシーで約10分である。

12月3日。

今日はヘルスアップ事業の予防教室がある。徳島大学の田中俊夫先生による「1分間運動からはじめる糖尿病予防」が開かれる日だ。(つづく)

Author:
• 火曜日, 11月 04th, 2008

西洋医学と東洋医学を語れる講師は少ない。長島寿恵先生は、東京薬科大学にて薬学(西洋医学)を学び、幼い頃から岳父にツボや鍼灸などの東洋医学を教わっている。したがって、講話や実技の指導も和洋の入り混じったものになる。

糖尿病のメカニズムからはじまって、メタボリックシンドロームの解説は西洋の知であり、五色の食材が何に効くのか、頭から、耳、手、足のツボはいつでも誰にでもできる東洋の知である。

身土不二、一物全体食など、6千年間続いている中国の食の文化の奥は深く、カロリーを中心とする(成分)西洋の文化に勝るとも劣らない。

ウオーキングの指導では、日本の短距離界のエース末續選手が学んだ“ナンバ歩き”を取り入れて、参加者全員が実行した。

笑いの渦が起こった。

昔の日本人は、右足と右手、左足と左手を一緒に前に出す歩き方をしていた。明治に入ってからの日本人は、左足と右手、左足と右手と交互に出して、リズムをとりながら歩く方法を学んだ。

もちろん現代人は、自然に左右交互の手足の動きを取り入れた、西洋式の歩き方をしている。

“ナンバ歩き”は古い日本人の歩き方の長所を再び甦えらせたものである。山を登るときなどは“ナンバ歩き”の方が疲れにくいそうだ。

“教室”はあくまで楽しく、楽しみながら効果を出さねば長続きしない。

30分歩こう、1万歩あるこうと言っても、単なる義務感ではなかなか続かないし、日常生活に溶け込めない。五感を生かして、眼で紅葉を、耳で鳥の声を、鼻で菊の香を、舌で食材を、肌で風を味わいながら歩いてみると、ウオーキングの幅がひろがる。

揉み、叩き、さすり、押して癒す、ツボ、東洋医学も再度見直されて、きっちりとした効果測定がなされるべき時期かもしれぬ。

休憩のあと、ホテルの安永さんから温泉の歴史とその効果についての講話があった。約30分。“上手な温泉の入り方”である。

①まずかけ湯から

②体を慣らす半身浴

③体を洗う

④入浴時間はほどほどに

⑤浴後はシャワーを浴びないで

⑥水分補給を充分に

そして酒を飲んだ後の入浴の禁止や注意。【禁忌症】についての大切なお話。

さて、お昼は京須かおる先生(管理栄養士)のレシピをもとにして550キロカロリーの食事をホテルで作ってもらい、全員でいただいた。人参で色をつけたご飯、鳥肉、野菜など。見た目には本当に量が少ない(日頃、いかにカロリーを摂りすぎているのかがわかった)。

満腹感を得るためには、食べ方の順番というものがある。野菜から食べるのだ。30回噛む。早食いの癖(習慣)のある私には、30回が長い。量が少ない。しかし実際に教わってみると、食生活の見直しが如何に必要かがわかった。

希望者、体調のいい人は温泉に入って、今日の講習会はおしまい。

地の利を生かして、環境を利用して、温泉・食事・ウオーキングの合体したプログラム。伊豆の国市のヘルスアップ事業の成功を祈りたい。

Author:
• 火曜日, 11月 04th, 2008

温泉旅館で朝風呂に入った。極楽である。ひなびた昔ながらの温泉につかりながら、温泉街がたどっている光と影を思った。温泉地は昔から観光と湯治を売り物にしてきたが、社会の環境が変わって、社員旅行が減り、旅のスタイルが変わってしまった。若い人たちの生活・気質が大きく変化した今、新しく生まれ変わる運命にある。

一方で健康づくりに温泉が役立つと、温泉郷もそのPRに余念がない。また、都市にない自然を求めて、樹木や森に思いを馳せる現代人の心情もある。地方の商店街が、シャッター街に変貌している事実を各地で目にしている。

長岡温泉郷もまた、伊豆の国市という新しい名を得て、生まれ変わろうとしているように見受けられた。

資源は豊富で、恵まれた土地だから、知恵と工夫次第で再生は可能かもしれない。

今日の「温泉パワーでウエストすっきり!教室」の会場は、川のほとりの「おおとり荘」で行われる。

講師は長島寿恵先生。薬剤師、運動指導士、温泉療法アドバイザー、西東京糖尿病療養指導士など多面的な貌を持つ先生である。

9時30分スタートまで約1時間ある。見事な堤防があるので、思わず朝の散歩となった。「おおとり荘」という名前ではあるが、実は、鉄筋コンクリートの6〜7階建ての立派な観光ホテル(?)なみである。

ホテルの庭を出ると道路があって、その向こう側に、まだ緑を残した草原があり、狩野川が流れている。支配人の話では、快晴の日には左手に富士が見えて、見事なロケーションだという話だった。曇天で残念。

土手に上がると、左から右からウオーキングを楽しむ市民の方が早足で、次から次へと歩いてくる。

眼の前は、180度、伊豆の山々だ。河原には柳、ススキが揺れていた。眼を空に向けると、太い高圧線が走っていて、大きな鳥が30〜40羽ほどとまっている。二羽、三羽と宙に舞い、孤を描きはじめたので、その鳥がカラスではなく、トンビだとわかった。

群生する植物、街にひろがる緑の木立からは、小鳥の囀(さえず)りが風に乗って聴こえてきた。

伊豆の地は温暖で、11月だというのに、20度を超える暑さだった。

ゆっくりと、ゆっくりと孤を描くトンビが急降下して、川面に突入する。戻り鮎か、川魚を狙ったのだろうか?

街をめぐると、弘法の湯とか、温泉旅館、ホテルが軒を並べていた。

のんびりとした風景は癒しの湯にぴったりの情緒をかもしだしていた。

ホテルの一室に、教室の参加者が続々と集まっていた。これから4時間「ヘルスアップ事業」の基礎講座が催される。(つづく)

Author:
• 火曜日, 11月 04th, 2008

はるかな昔の話であるが、学生時代、青春の真っ盛りに、過剰な熱にうかされて、車で伊豆の長岡をめざして、車を走らせたことがある。文学仲間が集って、同人雑誌を出していた。その夜も4・5人が集って、文学談義に花を咲かせていた。

誰かが「夜の富士」を見に行こうかと提案した。富士という名前が夜の街に飽いた心にしのびこんできて、私たちの首根っこを押さえた。あとは勢いにまかせて、深夜の東名高速を走り続けた。闇の中に富士が見えたのか、もう記憶にはないが、その夜は、長岡のひなびた旅館に泊まった。翌日、伊豆スカイラインを走った。富士が眩しく輝いていた。

今から思えば、衝動的で冷や汗がでる。長い間、西伊豆には足を運んでいないから、30数年ぶりの“長岡の夜”になる。

沼津インターで東名高速を降りると、一路、長岡へと車を走らせた。

“長岡温泉郷”の看板を見たのが7時だから、2時間ばかりかかったことになる。

社員旅行、修学旅行、温泉旅行が盛んだった頃の賑わいはなくて、街は妙に静かだった。昔は浴衣姿で下駄を鳴らして、観光客が夜の街を闊歩していたものだったが…。

時代が変わってしまったのか。

“ゆもとや旅館”は、昔の旅館そのもので、部屋は柱も天井も古びてはいたが、妙に落ち着いた。トイレは共同で、部屋の外にある共同トイレだった。

食事は大広間で、客は私たち二人だけだった。昔の記憶をたどって、昔、とめてもらったのが、この宿かどうか訊いてみたが、どうやら別の旅館らしいと言うことだった。

魚中心の夕食に舌鼓を打って、真新しい畳の匂いを嗅ぎながら、昔の賑わいのあった頃の幻を思い描いてみた。あの頃、温泉は人であふれていた。

夜風に吹かれてみようか? 尾沼君に声をかけて、夜の温泉郷の探訪となった。人影も疎らで、やはり少し淋しい。30年代、40年代のあの熱気がないのだ。若い人たちは、もう温泉には足を運ばないのだろうか。旅館の下駄を鳴らして、昔日をしのびながら、ふらりふらりと歩いてみた。

歌声が流れてきた。カラオケの店だ。ストレス解消にと、店に入ってみた。中高年の男女がカウンターに座ってマイクを握っていた。大きな声で歌を歌うと、心の中に溜まっていたものが声とともに、外へ流れ出て、少しは気分がすっきりする。日頃は大声で笑ったり、叫んだり、とにかく声帯を使うことが少ない。

歌を聴くと、私たちと同年代で、昭和10年20年代生まれの、商店街で働く人たちのグループだった。いわゆる流行歌・歌謡曲で育った世代だ。美空ひばり、フランク永井、石原裕二郎、水原宏、耳に馴染んだ人たちの歌ばかりだった。

長岡の夜は、そうして更けていった。(つづく)

Author:
• 火曜日, 11月 04th, 2008

【伊豆の国市】は、いわゆる平成の大合併で誕生した新しい市である。長岡町、韮山町、大仁町が合併した。人口は約5万人、1.9万世帯。もちろん、名前の通り伊豆半島にある。

富士山の優美な裾野が海に向けて伸びきったあたり、裾野市、三島市があり、駿河湾に面した沼津市、そのあたりに小さなこんもりとした山々が幾つか点在して、伊豆の国市がひろがる。

伊豆半島には伊豆と名のつく市や町が5つある。東伊豆町、南伊豆町、西伊豆町、伊豆市(旧修善寺町など)、そして伊豆の国市である。

何度か大きな合併劇があった。その度に村や町の名前が消えていく。消えた名前を惜しむ人、残念がる人、名前は単なる地名の象徴ではない。生活や文化や歴史がその名前に張りついている。【江戸】は【東京】となった。もう大昔のことになるが。100年も前のことだ!

しかし、新しい名前にも、なるほど、素敵だと感心する名前もある。

【伊豆の国市】も実に見栄えのする、いい名前だと思う。

静岡、伊豆といえば、もちろん富士山、お茶、みかん、そして温泉だろう。

川端康成の「伊豆の踊子」はもちろん、松本清張、梶井基次郎や井上靖など、多くの文人、作家、画家、音楽家などが伊豆を訪れ、たくさんの作品を残している。

東京のサラリーマンが社員旅行、温泉旅行で最も利用し、愛したのも伊豆だろう。

伊豆の国市では、国保ヘルスアップ事業に地元の温泉を利用した計画を策定した。名づけて「温泉パワーでウエストすっきり!教室」である。

静岡県は、健康長寿日本一を目指して、ファルマバレープロジェクトをモデル事業として立ちあげ“かかりつけ湯”を創設した。伊豆には約57の温泉がその指定を受けている。

①健康プログラムの開発・温泉療法医・温泉入浴指導員が入浴のアドバイスをしてくれる。

②糖尿病などの予防メニュー、食品アレルギーを持った方に対応したメニュー食が提供される。

③健康増進のために運動メニューがあり、文学散歩コースを紹介したり、多様なサービスが受けられる。

④連泊や平日利用の方には割安な料金もある。

とにかく多様な方法で、おもてなしをしてくれるプロジェクトが“伊豆かかりつけ湯”である。

当初、私は東海道新幹線“ひかり”で東京駅から三島駅(約60分)まで乗車して、伊豆箱根鉄道駿豆線に乗り換えて、伊豆長岡駅(約21分)のルートを考えていた。そこから温泉宿までバスで10分の距離だった。

営業課長の尾沼君が、当地まで車で行くというので、思いがけぬ車の旅となった。

東京・両国の当社を出発したのが、すでに5時を廻っていて、大都市のネオンは煌々と輝き、東名高速に乗るまでは、おびただしい光の渦ばかりが眼についた。めざすは伊豆長岡温泉郷の“ゆもとや旅館”である。(つづく)

Author:
• 火曜日, 11月 04th, 2008

会場の広場で車の数をかぞえてみたら、27台あった。最初に来たときには3〜4台しか止まっていなかったから、24台増えたことになる。参加者は27人だ。いったい、どのくらいの距離を車で走ってきたのだろうか?とても気になった。

食生活の個別指導がはじまった。その間参加者は、和室で談笑しながら待っている。何人かの人にインタビューしてみた。

「今日は会場へは何で来ましたか?」

笑いながら、ほとんどの人が「もちろん、車です」と応える。

「何分くらいかかりましたか?」

「5分」「2分です」「3分です」

歩いても5分から10分で会場に着く人たちまで、ほとんどが車で来ていた。

「今日はわくわくダイエット教室ですよね」

「習慣なんです。なにしろ、ほとんどの家が、車、2台3台持っていますから」

「いやいや、時には家族の数よりも車の台数が多い家もありますよ」

まったくの車社会だった。以前は果樹園、田んぼ、畑へは歩いて言った。会社や工場へはバスがあった。今ではバスの本数も少なくなって、お年寄りが病院へ行くときに使う程度らしい。

生活の中に(歩く)ということがないのだ。意識して行かなければ、いつも車に頼ってしまう生活が、地方の現実だった。都市生活者の方が歩く機会が多いことは、明らかだった。

生活の足として車が登場する。車が必需品になる。経済、生活の向上で便利な生活が実現される。その結果、車にのることが習慣となった。

で?その結果は? 運動不足、肥満、糖尿病ということになった。

昔、食生活改善は、貧しい食生活を改めて栄養を摂って、カロリーを増やし、豊かな身体をつくりあげることだった。

今は、食生活も栄養過多、カロリーの摂りすぎ、食べすぎ、呑みすぎが問題になっている。皮肉なものだ。豊かさがアダになる。

集団指導では、加藤先生から栄養のバランスのとれた食生活、生活習慣病を防ぐメタボリックシンドロームを予防する食生活改善の知恵と工夫を、具体例をあげて、お話があった。

「肥満を解消したい人は手をあげて下さい」

ほとんど全員が笑いながら手をあげる。気質が明るくて、実直な町民だとの印象を受けた。

一人一人に、今後自分が改善する食生活について発表してもらう。人前での宣言は、記録をするのと同じくらい効果がある手法だ。

①間食をひかえます②ビールの量を減らして焼酎にする③夜食を食べない④甘いもの、くだものを控える⑤野菜をたくさん食べる⑥糖分を減らす⑦揚げ物を控える⑧よく噛んで食べる⑨早食いをあらためる。

約束する。公言する。それは、実行へとつながる第一歩だ。実現可能な改善目標をたてて、一人でも多くの人が、ダイエットに成功してもらいたい。

北国の夜は4時を廻ると、もう窓に闇が押し寄せている。講義のあとも個人面談が続いた。夏なら7時頃まで明るいが、晩秋である。6時、今日の「わくわくダイエット教室」が終わった。加藤先生、参加者の皆さん、ご苦労さま。感謝。

河北町には、ホテル、宿が見あたらず、東根市まで車で走って、駅前のホテルで一泊した。

それにしても、この車社会、町をあげての意識改革、構造改革、社会の仕組みまでをも考えなければ、“習慣”は変革できないかもしれぬと深い溜息をついた。もうすぐ一帯が雪に覆われてしまう冬という季節が到来する。

Author:
• 火曜日, 11月 04th, 2008

11月の菊の香りが広場に漂っていた。今回の会場は、河北町の農村環境改善センターである。講師は米沢の大学で教べんをとられている管理栄養士の加藤哲子先生である。参加者の一人一人が、カメラで撮影した自分たちの食事を、先生に分析してもらい、アドバイスを受ける。個別指導を受ける日である。

ちなみに開講式は、9月27日に行われた。講師は医学博士で長年糖尿病を予防する運動プログラムを開発され、現場での指導で効果をあげてきた藤沼宏彰先生だった。先生は無理をしないで、楽しみながら(?)日常生活の中で、実行して習慣化できることをモットーにして、指導されている。

会場の入り口には、菊の大輪の花が数本あって、その形、真っ白な色(なぜ植物から白が出てくるのか、いつも不思議に思っている)が見事だった。その傍らには、一本の茎か、数本の茎か見分けがつかぬが、その枝に、数百個の小さな花が咲いていて、楕円形にひろがった姿は、飛行機の翼のようだった。

開始まで1時間あり、スタッフが準備をする間、ふらりと散歩に出た。その町を知るには観光名所ではない、普通の生活の場を見るのが一番だ。

極々普通の町の路地を、あちこちと自由に歩いてみた。どこの庭先にも花があって、その香りが路上に漂っていた。足にまかせて西里地区を歩くと、晩秋の景色の中に花々の色彩が色鮮やかに、空気までも染めていた。

見慣れない光景に思わず足を止めた。広い庭の植木に、円錐形の形にした竹をたてかけて、細ひもで結んでいた。大きな植木には、太い木を寄せ木にしてある。黙々と作業をする手を、黙礼して、見せてもらった。

北国の冬支度だった。

冬には雪が1メートルも降る地方だ。植木も放っておくと、雪の重みで倒れたり、折れたりしてしまうのだろうか?

寺社があった。【曹洞宗永昌寺】とある。左手には朱に燃えるもみじがあった。門をくぐると、空気が凜と張りつめていて、音という音が吸い尽くされたような静寂があった。砂に箒(ほうき)の後が生々しい。

町のあちこちに用水路があって、透明な水が流れていた。しばらく歩くと、小学校があった。教室から遠く、子供たちの声がきこえてくる。校庭に入ると、校舎の入り口に鉢がたくさん並んでいた。

どの鉢にも咲き終わったあとの花の跡があり、鉢には子供たちの学年と名前を書いた札がついていた。(花を育てる)心のかたちを教えている。さすがに紅花で栄えた土地柄だ。長い時間をかけて育んできた文化が、こうして脈々と子供たちに受け継がれている。

河北町には紅花の交易で豪商となった堀米家があり、【紅花資料館】には紅花染の豪華な着物やひな人形が展示してある。

里の子たちにも文化と伝統は受け継がれていた。花を通じて、情操を育てるという形の中に、昔の姿が残っていた。柿の北限と言われる山形県だが、確かに熟した柿の実があちこちに点在していた。(つづく)