Archive for the Category ◊ 密教と説話文学 ◊

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• 金曜日, 2月 19th, 2016

(1)21世紀の時代において、受苦の思想は、存在するのだろうか?

「説話」や「説話文学」は、はるか千年も昔のものに過ぎないものであろうか?

①現代に至る、「説話文学(仏教)」の水脈。
昭和三十二年に、突然、異様な文学が出現した。深沢七郎の『楢山節考』である。

自由、平等、平和、自我の確立、基本的人権、マルクスの唯物史観、サルトルの実在主義の時代に、「棄老伝説」を主題とする、まるで、説話のような、しかも、リアリティのある、現代小説が登場した。自然主義の大家(キリスト者)・正宗白鳥、昭和の天才作家・三島由紀夫、戦後派の代表・武田泰淳(浄土真宗の僧)が、絶賛した。

七十歳になると、村人は、神の棲む楢山に、連れて行かれ、そこで、餓死する。生き延びる為に、老人は(私)を棄て、殺すことで、他の者を、生き延びさせる、という内容である。楢山は、死者の山、死の世界であった。受苦の思想のひとつの型か?

真言密教の世界を、現代小説『月山』に表現した森敦である。昭和四十五年の芥川賞(当時六十二歳)。山形県、庄内の、死の山と呼ばれる、出羽三山のひとつに、ある男が、夏から春にかけて、破れ寺に棲み、死と生の間を彷徨する、そして、何処ともなく去っていく話である。幽冥の世界を描く文体は、正に、思想の彫刻であった。中世に地続きの、歴史を感じさせる名作である。小島信夫は、数百年、生き残る、文体・作品と評している。

山川草木悉皆仏性の世界である。

庄内をはじめ、東北地方には、断食をしてミイラとなり、(即身仏)と呼ばれるものが六~七体ある。(即身成仏=真言ではない)現在も、即身仏に法衣を着せて、お寺に(受苦菩薩)として祀っており、多くの信者が参拝している。仏が、人々の、さまざまな苦を引き受けている、現代の実例であろう。

日本人の文化、風俗、ルーツ、歴史に、新しい視点と考察を打ち立てたのは、柳田国男の「民族学」であろう。全国各地に伝わる民話、伝承、昔話、神説を、集めて、分析する「民族学」の樹立は、小説や歴史書以上に、生きる人間、生活する人間の姿を、浮かびあがらせた、大きな仕事であった。

『遠野物語』(岩手の遠野の人、佐々木喜善の語る民話を、柳田国男が、文章にまとめたもの)や『山の人生』には、中世の説話に劣らぬ人間の伝承が息付いている。

日本人とは何者か?という、大きな、大きな主題が、柳田の民族学に展開される。

『日本の昔話』 『地名の研究』 『日本の祭』 『日本の伝説』 『妹の力』 『雪国の春』 『昔話と文学』 『海上の道』 『桃太郎の誕生』等々

若き日に、抒情詩人であった柳田は、文学を捨て、東大卒業後、農産省の役人となって、その立場を利用して、全国津々浦々の民話と伝承を集め、民族学を、科学として、樹立した。

『山の人生』序章に、美濃の国の山人が、斧で、十三歳の息子ともう一人の子供を、打ち殺してしまう話がある。食べるのもが尽きて、子供たちが、これで、わしたちを殺してくれと、材木を枕にして、仰向けに寝た。男は、夕日に、頭がくらくらして、二人の首を切り落とす話だ。柳田は、強く言う。これは現実である。事実は、空想で書いた世界(小説)よりも、はるかに深い。作家、友人の、田山花袋に、材料を提供したが、花袋は、私の力に余る、と拒み、自然主義の『蒲団』を書いた。

折口信夫、南方熊楠、谷川健一と、「民族学」は、学問として、発展していった。

中世の説話も、文学の視点から読むよりも民族学の視点で、読み、考察すべきであろう。

最後に、昭和の”僧侶”が如何に、生きたか、を刻明に描いた作品『快楽(けらく)』がある。戦後派を代表する、思想家・作家・宗教者、武田泰淳の作品である。人肉を食べた話『ひかりごけ』 『わが子・イエス・キリスト』 思想小説『富士』 『司馬遷』など、人間如何に生きるべきか、僧とは?宗教者とは?何者かと問い続けた、泰淳である。浄土真宗の、大寺院の息子。東大で、中国文学を学ぶ。マルクス主義者となる。そして、作家へ。

文学とは?宗教とは?人間とは?そんなに深く、思索した小説家は、他にない。

僧侶となる若者には、絶好のテキストであろう。泰淳のコトバ「我慢しています」

(2)自殺と僧の受苦思想
戦争は人類がかかえている最大の難問である。昭和六十年代のベトナム戦争の折、ベトナムの禅僧が、給油を被って、焼身自殺をした事件があった。人々の罪を背負っての自殺か?戦争に抗議する為の、自殺であったか?ここにも、受苦の思想が息付いていた。

紀州には、南方の、補陀落浄土をめざして、僧たちが、舟で、海へ、沖へ、南へと、漕ぎ出す、風習があった。食べものもなく、飲みものもなく、陽に焼かれて、海、水の中で、自死してしまう。衆生の身代りに、一身に、苦を背負っての、補陀落渡海であった。民衆たちは、有難い、僧の入水に、手を合わせたが、死を恐れて、舟から逃げだす僧たちがいた為に、舟に、板を釘付けにして、脱出できないように、閉じ込めた事例もある。

庄内の断食、紀州の入水(入海)ベトナムの焼身、そして、土や穴の中に入る方法。

神、仏に、生命を捧げて、衆生の苦の、救済を試みる僧たち。

<僧>とは、いったい、何者だろう。

仏、法、僧(三宝)。
発心(菩提心)し、出家し、授戒し、修行して、涅槃(ニルヴァール)に至り、悟り、仏になろうとする者たち。仏の力で、衆生を救済する者たち。

しかし、21世紀の日本では、人間が傷つき、病み、壊れ、十年間、自殺者は、二万人を超え続けている。病い、貧困、失業、いじめ、人間関係の悩み、苦痛、絶望から、自らの手で、生命を断つ。可愛そうに。私の近親者でも、五人の自殺者がでた。自殺は、(私)を二度殺す、悲しい行為である。誰もが、絶望の淵に立った時、一度や二度、神、仏に、助けてくれ!!と叫んだにちがいない。

私の差し伸べた手もとどかなかった。

神や仏の手も。

(3)中世の説話と説話文学
「信仰を啓蒙するために教理をすえた人間生活の具体的事象を語るのが説話である」
「そしてその人間の生活様式の類似性を利用して積極的に編慕されたものが説話文学である」(下西忠著-『密教と説話文学』より)

中世の、説話と説話文学の代表作。
①『日本霊異記』(平安時代の初期)
我が国最古の説話集。作者は、薬師寺の私度僧-景戒。漢文である。全百十六話。因果応報が主旨で、仏教説話。序文では、仏教に対して、間違った考えを持たず、悪を犯さず、善行を積み重ねなさい、とある。

②『今昔物語』(平安後期)源隆国遍?
質・量ともに、我が国最大の説話文学。「今は昔・・・」ではじまる本文。全三十一巻。漢字仮名交り文である。天竺、震旦、本朝と三国の説話。天皇、僧侶、商人、農民、盗賊まで幅広く収録。仏教ものと世俗ものに別れる。

③『発心集』(鎌倉初期)作者は『方丈記』の鴨長明である。漢字片仮名交り文。和と漢が融合している。全八巻。大原、日野に、庵を結んだ長明が、人間如何に生きるべきか、正しい仏教の修行(行い)とは何か、と考えて発心、出家、往生など、さまざまな事例を綴った”正しい仏道”のすすめである。

さて、本題の『宇治捨遺物語』である。(鎌倉初期) 『宇治大納言物語』(現存せず)の影響を受けて成立。従って、編者は?源隆国か?和風、和文脈中心で、漢字ひらがな交り文と、読み易い。「是も今は昔・・・」ではじまる。約八十話の仏教説話、霊験譚、往生譚など。その他、世俗譚、霊異、英雄譚など。正しい僧ばかりではなく、いかさまの僧も登場する。

百三十三話「空入水したる僧の事」

当時、入水は、西方極楽浄土へ、往生するものと信じられていた。京の、祗陀寺の、ある聖が、桂川に入水して、往生を遂げると、予告し、百日懺法を行うと、参拝者が、大勢押しかけてきた。さて、当日、河原の石よりも多い群衆が、入水を見ようと集ったが、聖は、あれこれ文句をつけて、一向に、入水しない。そして、入水したと思ったら、溺れて男に救出される。お金を集める為の、猿芸者であったのか?入水=自殺を、本気で恐れたのか?往生する(信)もなかったのか?滑稽で、無残な、失敗となる。単なる、皮肉、笑話か?僧に対する信頼のゆらぎを描きたかったのか?最後の、編者の一行が、利いている。大和から、瓜を、ある人のもとへ送ってきた、その上書きに、「先の入水の上人」を書いてあった。瓜は大和の特産である。瓜は、水に沈まない。聖の、ジョーク、言いわけであろう。聖は、トリックスター(道化者)を演じているのだ。(哄笑)中世人の笑いが聞こえる。

受苦の精神が笑いものにされた。

3・11以降、私は、一人の死者を心の中に棲まわせている。遠藤未希さん。南三陸町の役場職員。「大津波です、みなさん、高台に逃げて下さい!!」政治家、科学者、学者の声が死んだ中で、その声は、唯一、生きている、受苦菩薩の声であった。合掌。法身は語る!!

(高野山大学大学院レポート)

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• 金曜日, 2月 19th, 2016

(1)中世の思想の、核となる、鍵ワードは”あはれ”と”無常”である。

世界に誇る、中古の、恋愛小説『源氏物語』(あはれ)軍記物語『平家物語』(無常)はもちろん、日本初の、批評の書『徒然草』も、”あはれ”と”無常”が、主題である。

”無常”は、仏教用語である。
諸行無常
諸法無我
涅槃寂静
一切は、ただ、過ぎていく。常なるものは何も無い。無常迅速に変化していく、人も自然も。(発心へ)(出家へ)
”あはれ”は、和語である。

日本人の心性から出たコトバである。
人に、物に、自然に、感動・感嘆するコトバだ。趣きがある。感心する。情がある。悲しい(哀しい)と含む意味は、複雑で、漢字・漢文から来たものではない。

(2)中世という時代
1. 政治
天皇、貴族、武士による、政権闘争、三巴の時代である。天皇中心の政治が終って、貴族が、摂関(藤原道長)が実権を握り、貴族文化(平成時代)の”雅び”が華ひらくが、武士の抬頭によって、鎌倉に、幕府が開かれ、二重権力の治世となる。

保元の乱、平治の乱、源平の合戦、そして南北朝の権力闘争と、軍事力を誇る、武士が天皇・貴族にかわって、政の権力を握った。

2. 宗教(仏教)
仏教の伝来(552年)以来、鎮護国家と済民利他が、仏教の目的であった。しかし、奈良仏教は、学問仏教と呼ばれるように、仏典、漢文を読める、天皇、豪族、学僧、渡来人(僧)たちのものであった。

平安時代は、貴族仏教、権力と仏教が、結びつき、浄土信仰が盛んになる。

厭離穢土 欣求浄土
西方極楽浄土を希求する貴族たちの間に、浄土宗(念仏)が拡がった。

戦乱に次ぐ戦乱、平氏の敗残兵が、数百人高野山へ。疫病、大火、地震、飢餓(『方丈記』)で、現世は、地獄と化して、民、百姓衆生の間から、自然に、仏を求める声があがった。鈴木大拙は、「日本的霊性」が誕生して、はじめて、日本人が、心から、仏教を願ったと分析している。

法然、親鸞の、浄土宗、浄土真宗は、ただ、”南無阿弥陀仏”の六文字の名号を唱えれば、浄土に往生できるという、(他力本願)革命的な、念仏宗教で、民、百姓、衆生の圧倒的な支持を得た。親鸞も、また、戦乱で、父母を亡くして、お寺に入り、僧となった。しかし後に、寺を出て、非僧非俗の身で、念仏による布教を行なった。世は、正に、乱世であった。

3. 日本文
一万年も続いた縄文時代は、土器、土偶を作り、見事な、紋様と彫刻を生み出したが、残念ながら、(文字)の発明には至らなかった。

中国から、漢字が伝わるまで、日本人は、文字を持たず、話し言葉の世界だけで生きていた。

中国語(漢字)を日本語(話し言葉)で読むという、大実験は、世界の、どの民族も、為し得なかった、快挙であった。(万葉仮名)

漢字を、その本来の、意味を無視して、日本語(和語)で読む。(『万葉集』)『古事記』

漢字から、片仮名、平仮名を発明して、漢字読み下し文、漢字片仮名交り文、そして、終に、漢字ひらがな交り文=「日本文」が登場した。中世の、最大の、文化的事件である。

東洋一の漢字学者、白川静は、「日本文」こそ、日本人が発明した、最高の文化であると、力説している。

「日本文」は、漢、和、仏を、自由自在に、盛り込む、正に、思考の器である。

漢字の意味と力強さ、繊細で、複雑な、ひらがなの自由さ、そして、仏教思想の核となる仏語。

『徒然草』も『源氏物語』も、「日本文」の発明なしには、出現しなかっただろう。

(3)兼好の(卜部兼好-本名)批評精神、思考の自由さ、博識は、どこから来たのか?

卜部家は、代々、朝廷に仕える神秖官である。兄は、天台宗の大僧正・慈遍、次兄も、民部大輔・兼雄、兼好(三男)も、蔵人、左兵衛佐として、働いている。(生活人)

有識故実は、もちろん、『識語』(漢)、『摩訶止観』(仏)、『源氏物語』『枕草子』『今古集』(和)、先達の、西行法師、鴨長明の和歌や散文まで、読破している、大知識人である。

生死の年月日は、不明であるが、1283年~1352年、七十歳の頃、没したか?

三十一歳で、出家し、「遁世」し、世捨人の法師となる。沙弥戒を授け、僧となるも、具足戒は授けず、寺院にも宗派にも属していない。(自由な精神)

親鸞が、非僧非俗の者であるなら、兼好は、依・食・住と医を、生活の礎とする、生活人(俗)の眼と、無常、発心、出家-閑かで、簡素な、”寂”の世界で、仏とともに生きる僧(聖)の眼の、複眼を持ち合わせた、人生の達人である。(一町歩の田も持っている)

この立ち位置が、あらゆるものを、(天皇・僧・貴族・武士・百姓)相対比する兼好の持質である。

さて『徒然草』は、出家後、三十七歳から十一年ばかりの歳月をかけて、書かれた「批評」である。(決して、『枕草子』のような、随筆ではない)

序段十全二百四十三段。たった一行の、筒言から、原稿用紙六~七枚のものまである。内容は、人間が生きる、生活全般にわたっている。お金についても、酒、友、恋愛、手紙、祭、家、出世、老い、死、読書・・・もちろん中心は、無常、発心、出家のすすめ、人生の生き方(あはれ)にある。

『徒然草』の特徴は
1. 「無常観」(無常迅速)の表出
2. 「機知(ユーモア)」の出現(知的笑い)(ファルス)
3. 「批評(クリテイク)」精神
4. 「日本文」による思索
にある。
一言半句が、各段の中心となっている。

「あやしうこそ ものぐるほしけれ」(序段)

校注者、西尾実、奈良岡康作は「妙にバカバカしい気持がする」(岩波文庫版)と、現代語で、解釈している。

『徒然草』は、字義の解釈では読めない。兼好の心境そのものを読み込まねば、わからない。

出家した僧・兼好が、人間を、人生を、仏教を、探求するのである。必死で、書き綴る文章が、「バカバカしい気持」である訳がない。(つれづれ・・・は一種のポーズ、スタイル)

ここは、書くこと自体の、神妙な、ココロの状態、(事実と書かれているもの)その境界。(胡蝶の夢-荘子)の世界に似ているのだ。

(4)宗教者、僧に対する、兼好の眼は、実に、相対的で、厳しい。歌聖・西行や、『夢の記』を綴った明恵上人に対しても、批評(エセー)の眼は、冷静である。

なぜか?

末法の時代である。釈尊の死後、正法の時代、像法の時代、そして、法を滅び、悟る者もなく、乱れた世の中の到来である。

兼好も、僧たちの墜落に、厳しい、批判の眼を向けている。

さて、二百三十六段「丹波に出雲とえ小所あり」は、五十二段「仁和寺にある法師」と文章の構造は同じである。

誰かに聴いた、僧たちの話(行動、信心)に、最後の一行で、兼好が批評をするというスタイルである。(伝聞+批評)

丹波の国の出雲神社を読んだ瞬間に、読者は、出雲の国の大社を思い浮かべて、何か、悪いこと(本物と贋物?)を予感してしまう。

僧たちが連れそって、丹波の国の出雲神社を拝み、信を起こし、ふと気がつくと、聖海上人が「御前なる獅子・狛犬、背きて、後さまに立」っているのに気が付き、これは、何か深い理由があるにちがいないと、感動する。神社の神官を呼んで、その理由を訊くと、なあに、子供たちが、いたずらをしただけですと、獅子と狛犬の向きを直した。(笑話)

兼好は「上人の感涙いたづらになりけり」と、皮肉とも滑稽ともつかぬ批評文を、最後に置く。(信を起こすとは何か?)

仁和寺(大寺院)の法師は、長年、思っていた、石清水八幡宮へ、歩いて、お拝りに行き、山の下にある、極楽寺・高良を拝んで帰ってきた。帰って、他の僧に、人々が、山の上へ上へと登っておったが、あれは、いったい、何なのだ?神にお参りするのが目的なのにと話をした。もちろん、本殿は、山の上にある。

兼好の言葉「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。」(祈りとは何か?)

教訓を越えた、痛烈な批評である。

師資相承の仏教である。「戒」律を守ってこその仏教である。伝統を重んじた兼好である。しかも、透徹した眼力は、乱れた世相の中にも、本物を視る。機知がある。批評がある。”無常”と”あはれ”を覚知した兼好の眼。

(高野山大学大学院レポート)