Archive for the Category ◊ 読書日記 ◊

Author:
• 火曜日, 3月 22nd, 2022

1.「われもまた天に」(新潮社刊)古井由吉著
2.「ホモ・デウス」上・下巻(河出書房新社刊)ユヴァル・ノア・ハラリ著
3.「竹内浩三詩文集」(風媒社刊)-戦争に断ち切らけた青春- -小林察編-
4.「組曲わすれこうじ」(新潮社刊)黒田夏子著
5.「伊東静雄詩集」(岩波文庫刊)杉本秀太郎編
6.「いのちの初夜」(角川文庫刊)北條民雄著
7.「霧の彼方 須賀敦子」(集英社刊)若松英輔著
8.「かか」(河出書房新潮社刊)宇佐見りん著
9.「推し、燃ゆ」(河出書房新潮社刊)宇佐見りん著
10.「須賀敦子の旅路」(文春文庫刊)大竹昭子著
11.「わたしの芭蕉」(講談社刊)加賀乙彦著)
12. 詩集「夜景座生まれ」(新潮社刊)最果タヒ著
13.「永瀬清子詩集」(思潮社刊)
14.「短章集-蝶のめいてい・流れる髪」(思潮社刊)永瀬清子著
15.「短章集-焔に薪を。彩りの雲」(思潮社刊)永瀬清子著
16.「追跡 藤村操-日光投瀑死事件」(発行 ブイツーソリューション刊)猪股忠著
17.「水のように」(朝日新聞出版刊)浪花千栄子著
18.「未来タル」詩の礫 十年記(徳間書店刊)和合亮一著
19.「計算する生命」(新潮社刊)森田真生著
20.「私のエッセイズム」(河出書房刊)古井由吉著 エッセイ撰 堀江敏幸監修
21.「古井由吉論-文学の衝撃力」(アーツアンドクラフツ刊)富岡幸一郎著
22. 句集「句集 若狭」(角川書店刊)遠藤若狭男著
23.「大洋を行く宣教」(イーグレス刊)篠原敦子著
24.「麒麟模様の馬を見た」(メディア・ケアプラス刊)三橋昭著
25. 詩集「おだやかな洪水」(土曜美術社出版販売刊)加藤思何理著
26.「音楽の危機」(中公新書刊)岡田暁生著
27.「最澄と徳一」(岩波新書刊)師茂樹著
28.「海をあげる」(筑摩書房刊)上間陽子著
29.「二千億の果実」(河出書房新社刊)宮内勝典著
30.「ヒトの壁」(新潮新書刊)養老孟司著
31.「言語と呪術」(慶応義塾大学出版会刊)井筒俊彦著

眼。近視である。眼鏡をかけても、視力は、0.6。乱視である。月は、いつも二重に見える。蚊が点となって飛ぶ。飛蚊症である。光が飛んで、空間に波が立って、歪む。閃輝暗点である。眼が霞む。老化か?目薬を刺して。1時の読書が、限度となった。テレビを観る、新聞を読むのも、小さな字は辛い。
眼科へ行ってみた。(緑内障)だと告げられる!!少しショック。眼圧が高いのだ。左眼は1割しか見えていない。幸い右眼は、8割くらい見える。脳がバランスをとって、モノを見ている。このままだと、左眼が失明する。で、どうするのか?
手術でも治らない。(白内障なら完治できる)結局、目薬を差して、現状を保つしか術がない。やれやれ、唯一の楽しみ(読書)の継続が危なくなった!!
しかし、考え方次第である。左の眼が失明しても、まだ、右眼が残っている。歩けるだけで、セイカツが保てるのだ。

さて、50年も続けてきた「読書」がピンチに陥った。もう、余分なものは読めない。大事な「本」だけ読みたい。
足の衰えは、歩けば防ぐことができるが、眼は、使いすぎないように、ぼんやりと、緑の樹木、風景、空を見て休めるしか術がない。
(読む)は(書く)である。(書く)は(読む)である。銅貨の表と裏の関係にある。思考を紡ぎ、世界を書いている。「文」を書くと、必ず、頭の中で、ひとつの世界を読み取っている。言葉で書きながら、言葉を読みながら、「コトバ」に至る!!

1.「われもまた天に」
おそらく、日本文学が、最高の「文体」を持つに至った、作家が、古井由吉であった。その古井由吉が死んで、もう、3回忌になる。雑誌「新潮」が、「古井由吉の文」(三回忌に寄せて)と題して、アンケート特集を組んでいる。
蓮見重彦、平野啓一郎、又吉直樹など、作家・評論家たち18人が、古井の「文章」を引用して、論じている。その中でも、珍しく、古井由吉の妻、睿子さんが、エッセイを載せている。
思想は「文体」の中にしかない。実証したのは、古井由吉の残した小説群だ。「われもまた天に」は、未完の「遺稿」を含む、短篇小説、4作である。どの文章を読んでも、古井由吉という判が押してある。思考の、感覚の、意識の、言葉の触手が時空を超えて、四方八方にのびて、ひとつの小宇宙を創っている。誰も、真似のできない文体である。
終には、「徒然草」や「枕草子」の世界に地続きになって、(私)など、消えてしまう。畏ろしい文体の世界である。

2.「ホモ・デウス」
世界に衝撃を与えた前作「サピエンス全史」に続く大作である。
地球という小さな小さな惑星の上で自然に進化して、四つの革命を成し遂げたホモ・サピエンス。認知革命・思考革命・科学革命・人類の統一。そしていよいよ、宇宙へ。ホモ・デウスの時代へ。
(意味)(意義)というものがなくなる時代。テクノロジーの発達。量子力学。AI。遺伝子操作。進化にもニンゲンの手が入る。(カミ)の領域へ。もう、ニンゲンから超ニンゲンへ。ホモ・テデウス(カミ)の領域へ突き進むしかない。(科学)は?宇宙に立つむかえるのか?(宇宙)に、ニンゲンは(意味)を発見できるのか?
大きな、大きな問いの「本」である。

3.「竹内浩三詩文集」~戦争に断ち切らけた青春~
未だに、人類は「戦争」(殺し合い)を克服できる知恵をもてないでいる。普通の人間が、ある日、突然戦場へと送られてしまう。(日常)が壊れてしまう。セイカツが、破壊される。好きな仕事(映画)を断念する。竹内浩三が残した「詩」や「日記」。痛切である。
「死者のうた」「骨のうたう」は、「病死やあわれ兵隊の死ぬるやあわれ とおい他国ひよんと死ぬるや だまって だれもいないところで ひよんと死ぬるや-(略)なんいもないところで 骨は なんにもなしになった(国のため 大君のため 死んでしまうや その心や)
絶唱である。24歳で戦死!!無名の戦士の、普通のヒトの魂の叫び声が聞こえてくる(詩)と日記。

4.「組曲わすれこうじ」
史上最高齢で、芥川賞を受賞した出世作「abさんご」から、7年を経てようやく、第二作品集「組曲わすれこうじ」が出版された。76歳での受賞が、話題を読んで、12万部が売れた。ただし、独特の文体に苦戦して、最後まで読み終えた読者は、1割もいただろうか?
「読書会」で、テキストとして、取り上げて全員で読んでみた。不評であった。難解だ。何を言いたいのか、わからない。作者のマスタベーションではないのかと 酷評が多かった。読む(黙読)ではなくて、声に出して朗読して下さい。とアドバイスをした。「平家物語」のように。
登場人物の名前がない。会話文がない。物の名前がない。句読点がない。漢字がひらがなになっている。横書きである。過去・現在・未来がない。いや、ひとつの文章の中にある。
17の章、組曲からできている短篇集である。約200ページの薄い「本」である。黒田は、この作品に7年の歳月をかけている。読者が、1日や2日で読み解ける訳がない。ほとんど、(詩)と言ってもいい作品だ。
内的リズム、意識の流れに触れると黒田の世界=宇宙が現れてくる。最高の魅力。黒田は、この文体でしか書けない。世界に、立ちむかっている。1000人?いや100人?限られた読者にしか、読めない、味わえない(小説)である。この小説の一番の読者。一番深く、詳しく、ていねいに、読み解ける人は批評家(蓮見重彦)である。

5.「伊東静雄詩集」杉本秀太郎編、注解。
若い頃から、何度も何度も、伊東静雄の「詩」を読んできた。リズム、文体、思想の三位一体を可能にした「詩」。
伊東の立ち姿が好きであった。激しさと静かさが同時に内包されている「詩」。三島由紀夫が絶賛したのもよくわかる。しかし、今回、杉本秀太郎の(注解)(解説)を読んで、驚愕した。
こんな読み方もあるのか?萩原朔太郎は、いったい何を読んでいたのか?(私も)

6.「いのちの初夜」
再読。いや、もう、何回も読んでいる。詩人・石原吉郎は、生涯、この作品を読み続けた。なぜ?何に魅かれて。
(極限)ということ。人間存在が、吐き出す(極限)での言葉の力。その生命力。絶望の底の底でつかんだもの。そんなニンゲンの(声)に、石原吉郎は魅力されたのか?と。

7.「霧の彼方 須賀敦子」
作者・若松英輔は、評論家・詩人・クリスチャン。若松には、井筒俊彦論がある。
書くこと。考えること。祈ること。-若松は、その三点で井筒から大きな大きな影響を受けている。須賀敦子もクリスチャンである。若松は、信仰とは何か?コトバとは何か?書くとは何か?と問うことで(須賀敦子)の評伝を書いている。
約470ページの大作である。若松の著書「イエス伝」とともに読み直してみた。若松は、妻をなくしている。須賀は夫をなくしている。(死)がひとつのバネになって(書く人間)への舵を切った二人。その(虚無)の底から、コトバが立ちのぼってくる。ニンゲンは、一度死んで、その中から、再生して、コトバへとむかう。悲嘆を知った人のコトバは、響き合って、あたらしい力となる。不思議だ。

8.9.「かか」「推し、燃ゆ」
書評欄を見てほしい。

10.「須賀敦子の旅路」
須賀敦子はイタリア(主にミラノ)で、学び、働き、結婚し、帰国した。(夫に死なれて)
大竹は、イタリアでの須賀の足跡を追って、追体験しながら、イタリアを訪れたことがない人々(読者)にもわかるように、ていねいに、(須賀敦子)の姿を活写している。写真もなかなか良い。初期の頃の、須賀敦子論であろう。

11.「わたしの芭蕉」
加賀乙彦は、精神科医・小説家。日本のドストエフスキーではないかと思えるほどの、長篇小説家である。
「帰らざる夏」「宣告」「湿原」「永遠の都」「雲の都」など、大河小説家。長篇、大河小説の文章と、俳句~日本で、世界で?一番短い文章作品の関係は?加賀乙彦が、芭蕉の俳句に魅せあられているとは、知らなかった。
思考とうねる文体と構造力。加賀の長篇小説は、体力がないと読めない。100メートル走とマラソンがちがうように短篇と長篇の文体、リズム、呼吸もちがう。
(美しい日本語)を俳句に求める加賀。単なる作家の楽しみではない。研究者も驚くほどの、(俳句)の言葉の分析。味わい方。言葉を鍛えて、俳句そのものを楽しむ、そんな一面があるのか。加賀乙彦の言葉の底力の源泉が俳句とは!!

12.「夜景座生まれ」
「人間原理」から遠く離れて、「宇宙原理」を求めて、言葉からコトバへと(詩)を書く最果タヒの言葉の自由度には、いつも、感服する。しかし、若い若いと思っていた最果タヒも「詩歴」を見ると、もう、35歳。新しい言葉、感性、想像力、発想だけに頼っていては、あぶない年齢に入った。インターネットで詩?を書きはじめて、17年になる。8冊の詩集を出版。最果タヒという音源からは、いつも自由な言葉が流れてくる。どこまで、このスタイルが続くのだろう。おそらく、(宇宙)へと旅立ちたいのだろう。(真実)も(絶対)も消えた時代の詩人。

13.14.15「永瀬清子詩集」「短章集-蝶のめいてい・流れる髪」「短章集-焔に薪を。彩りの雲」
はじめて、永瀬清子の詩を読む。明治の女(39年)である。私の祖母の代の詩人である。今から116年も昔に生まれて、詩を書いた。いや、単に、詩を書いただけの詩人ではない。農業にも従事した。事務の勤め人もやった。主婦であり、子育てをするよき母親でもあった。岡山県の地方に棲み続けた。原水爆に反対する行動の詩人でもあった。
「あけがたにくる人よ」「美しい国」「グレンデルカの母親」「女の戦い」「外はいつしか」
これらの詩は、令和の時代に生きる私たちの耳にも、心にも、充分にとどくものである。封建の匂いが残る時代に、これらの詩は、ニンゲンの力を放っている。
私が永瀬の詩や作品に強く魅かれたのは、実は、二冊の「短章集」があったからだ。単なる短い詩という訳ではない。見事なアフォリズムである。永瀬の思想の核がこの短章集の中にある。宮沢賢治への熱い思いも入っている。「詩について」や「詩についての三章」は、永瀬の力強い宣言である。詩人であると同時に、地に足のついた生活人でもあった。アフォリズム畏るべし!!

16.「追跡 藤村操-日光投瀑死事件」
「明治の青春」は、山形県出身の藤原正を中心にして、斎藤茂吉、阿部次郎、藤村操、安倍能成、岩波茂雄、魚住影雄の七人を論じた、600ページを越える大作・労作であった。著者・猪股忠は、その七人を、一冊一冊、ていねいな「単行本」にして、出版し続けている。早稲田で国文学を学び、小説や評論を書いていた。山形の高校の教師で生計を立てながら、郷土の先輩たち・文学者たちの著作を読み、資料を集め、若き日の面影を、ていねいに活写している。
高校教師を定年となった今、著述に打ち込めるのも、第二の人生としては、実に、有意義な、生きざまである。七人の文学者を、七冊の「本」で表現する試みは、ひとつのライフ・ワークであろう。友人として拍手を送りたい。

17.「水のように」
大阪の友人・建築家の歌一洋君から一冊の「本」が送られてきた。歌一洋君は、四国八十八ヶ所に「へんろ小屋」を創り続けている。(ライフワーク)徳島海南高校の同級生である。建築・設計では、さまざまな賞を受賞している、関西では、有名人(?)である。
「水のように」は、浪花千栄子の著作・自伝である。NHK連続テレビ小説『おちよやん』のモデルとなった女優が、浪花千栄子である。昔、小学校の頃、毎夕、ラジオドラマを楽しみにして聴いていた。「おとうさんはお人好し」アチャコ(夫)と浪花千栄子(妻)が繰りひろげるホームドラマであった。幸せな女優生活に至るまで、貧乏の底の底で生きてきた少女時代、結婚、夫の浮気と実生活でも苦労も見事に活写された自伝であった。
歌一洋君が、なぜ?この本を私に?「本」の巻末に、解説があった。古川綾子(上方芸能研究者)さんが、ていねいな解説を書いている。実は、古川さんは、歌一洋君のあたらしい”妻”であった。なるほど、なぜ、この「本」を、私に送ってきたのか、ようやく、その意味がわかった。謎が解けた。歌一洋君、お幸せに。

18.「未来タル」
東日本大震災から10年になる。(大地震、大津波、原発事故)
ニンゲンの意識が、ゼロ・ポイントに陥る、大惨事であった。コトバも死んでいた。和合は、「詩の礫」と題した、ツイッター詩を、同時進行で書き、詩集として発表した。大きな反響を呼んだ詩であった。(肯定する者、否定する者、両論あったが)
詩が生きていた。いわゆる(現代詩)など、和合にとって、どうでもよかったのだろう。衝動に迫れれて、手が動いた。
あれから10年!!
本書「未来タル」は、詩、十年記、そして、若松英輔、後藤正文との対話による。何もかもが具体的である。頭で考えたものは何もない。身体で体験して、心が感じたままが(詩)(文章)になっている。
和合は、悲と苦の中で、覚醒した。観念的なもの、抽象的なものには何もない。ただ、眼に見えない放射能とココロはある。

19.「計算する生命」
中学・高校時代は「数学」が嫌手であった。「計算する」ことすら、嫌手であった。「虚数」がでてくると、ますます、「数学」がわからなくなった。
「零の発見」は、「数」の面白さを目覚めさせてくれた一冊である。「数学から超数学へ」(ゲーデルの証明)なども読んでみた。佐々木力の「数学史」(900ページの大作)は、何かわからないことがあると、ページをめくっている。ニンゲンと数の歴史がある。森田真生の「数学する身体」は、数学者・岡潔とアラン・チューリングを論じる非常に利戦的な「本」であった。(独立研究者)である森田真生は、ニンゲンを、(計算する生命)と捉えている。ココロや意識が、どのように、(数)と関係するのか、今後も、研究を見守っていきたい。第二の岡潔になれるのか?

20.「私のエッセイズム」
「表現は無力である」古井由吉は、その地点から「文章」を書きはじめている。モノもコトもヒトも、知れば知るほどその表現は、不可能に接近する。古井由吉の「小説」に親しんできた者にとって古井自身の「思考・認識・思想」は、どんなところから出発しているのか、知りたくなる。「小説」と「エッセイ」は、まったく異なる生きのもである。「目の前にある物事をもう一度自分の手ではじめから素描してみようというエッセイズムの行き方は、私の思考の出発点である。」(古井)
本者は、堀江敏幸が、数多い古井由吉のエッセイの中から、47作品を撰んで、監修した作品集である。言葉について、翻訳について、歌について、創作について、戦争につちえ、小説について、さまざまな分野の古井由吉の(声)が鳴り響く、心がゆたかになるエッセイ集である。作家の(秘密)の核がこの「本」にある。

21.「古井由吉論-文学の衝撃力」
作者・富岡幸一郎は、「戦後文学」を読むことで、評論家の道に入った人である。そして、内村鑑三やカール・バルトなどの神学者の著作を通じて、「キリスト教信仰」を得た人でもある。
さて、日本でもっとも難解な小説は、埴谷雄高の「死霊」であろう。自同律の不快という思想・形而上学的なテーマがとても難解である。
古井由吉の小説も、実に、難解である。何が?(文体)そのものが、読み解くのにむつかしいのだ。あくまで、扱っているテーマーが、難解だという訳ではない。粘着力の強い、独特の文体は、まだ、読者が接したことのない、未知の領域の、新しい発見の言葉から成っている。
まだ、古井文学全体の分析・注解を行った「本」はない。あらゆる作家・評論家が、古井由吉の(文体)に挑んでいるが、完全なる評論は出ていない。初期作品の分析は、柄谷行人の評論が秀でている。(文体)の分析・注解は、短篇集「水」を扱った蓮見重彦の評論が見事である。
さて、富岡幸一郎が、「古井由吉の文学」全体を論じている。同時に、二度にわたる古井自身へのインタヴューも収録している。「作家の誕生」「文体の脱構築へ」「黙示としての文学」「預言者としての小説家」の回章から成る評論集。
富岡は、古井文学の中に、旧約聖書の預言者のメッセージを読みとっている。思想(政治)や宗教とは縁が遠い古井文学に対して、富岡は、古井の言葉に預言者のメッセージを読みとる本書である。

22.「句集 若狭」
旧友・遠藤若狭男(喬)・早大国語国文科のクラスメート・文学の友(「あくた」同人)が逝って、もう4年になる。
ときどき、思い出してみては、「神話」から5冊目の句集「旅鞄」を取り出して、俳句を読む、眺める、ある種の感慨にふける。
さて、ある日、遠藤君の奥さま(歌人)から第6句集が届けられた。大谷和子さんは(あとがき)で句集が、なぜ「遺句集」ではなくて第6句集のなのかを、述べている。(遠藤は第6句集の計画を立てていた)
また、収録作品が1285句と、今までの句集の3倍も多い理由についても。(どの句には、遠藤の生の一瞬がある)幸い、句集は、評判も良くて、「俳句四季」には、二つの書評が載った。「俳句」にも、「この道ゆけば」というエッセイを、菊田一平が書いている。歌人であり、俳句も作る和子夫人があればこその(第6句集)であった。
遠藤君、いい奥さんと一緒で良かったね。幸せ者だよ君は。
句集「若狭」には「微苦笑」と「言霊」という(俳句+散文)の章がある。敬愛する作家・三浦哲郎からのハガキや詩人・金子光晴との遭遇・三島由紀夫の思い出など、そして、高校時代の俳句雑誌への投稿、入選句の紹介などがあって、人間・遠藤若狭男を知る上で、貴重な文章となっている。
・ふるさとは歩くが楽し草ひばり
・青き踏むときをり死後のこと思ひ
・雪晴のこの道ゆけば若狭なる
・わが死後のわれかも知れず秋の風
・春雷や少年遠き海を愛す
・林檎青顆少女に少年のみ傷つく
「たかが俳句 されど俳句」俳句道に一生をかけた遠藤若狭男(喬)の(声)に終日耳を傾けて。どの句にも、遠藤の(人柄)が滲み出ていて、俳句を流れる時空に、我を忘れて、浮遊している。中原中也と同じくらい深い(抒情)の俳句、詩心。

23.「大洋を行く宣教」
孔子も、イエス・キリストも、ソクラテスも、釈尊も、自分の言葉を「本」として、書き残さなかった。「論語」「新約聖書」「ソクラテスの弁明」「ブッダの言葉」すべて、弟子や使徒たちが(師)の言葉を(傾聴)して、記憶によって、書き記した「本」である。
名著「遠野物語」も、民族学者、柳田国男が、地元の人から(傾聴)して、書き綴った「本」である。(傾聴)という力-声の力が、言葉(文学)の力となって「本」として残り、人類の(知)の財産となっている。
本書も、理由があって、キリスト者となった作者・篠原敦子が、先輩の、橋本千代子宣教師に(傾聴)して、書かれた「本」である。橋本夫婦は、宣教師として、文学をもたない、パプアニューギニア島の小さな村に渡って、現地の言葉を学び、新約聖書を、その言葉に「翻訳」をした。思えば、聖書や仏典も、さまざまな国の言葉に、翻訳されている。時代を超えて。地域・国を超えて。(言葉の力)が、いかに、人間を活性化するか。言葉にならぬ苦労の跡を、著者は、私を殺して、ひたすら、橋本千代子の言葉に耳を傾けて、一冊の「本」とした。共生・共感がなければ、容易に成し遂げられぬ(行為)を支えるのは(信仰)という力である。
25年の歳月をかけて、文字をもたない少数民族の言葉(話し言葉)を収得して、(文字)にするという行為は、(言葉の力)を信じたればこそ、実現できたものであろう。そして人には、それぞれの役割がある。翻訳する人もあれば、その行為を広く伝達する者もいる。本当に必要な仕事とは、地の塩のようなものであろう。篠原敦子も(傾聴)に徹していい仕事をした。

24.「麒麟模様の馬を見た」
毎晩、ラジオの「深夜放送」を聴きながら眠るのが習慣になっている。11時15分から朝の5時まで。眠くなった時、ラジオのスイッチを切る。ある日、ある夜、幻視を見て、そのまま幻視を絵に画くという人が登場した。興味があるので、翌日、書房に行って、取り寄せてもらった。
「幻視」や「幻聴」を見たり、聞いたりする人は、けっこういるものだ。芥川龍之介も、光の歯車が廻るのを視た。車谷長吉(直木賞作家)は、スリッパが空を飛ぶ風景を視た。
私も、光の渦が、空に飛ぶのをよく見る。(閃輝暗点)父が四国で死んた時、千葉に住んでいる私は、父の幻視を見た。暗闇の庭に父が立っていた。軍服を着て、両手を大きく空にあげて、口からは赤く長い舌が出てきて、舌には、何やら文字が書き刻まれていた。実に、自然な光景だった。(実は幻視だったか?)
幻視・幻聴は、普通の人間にとっては、一種の狂気である。昔は、精神分裂病といわれていたが、今では統合失調症と呼ばれている。あるはずのないものが見える。聴こえないはずのない音が聴こえる!!
作者の三橋昭さんは、見えないはずのものが見えて(幻視)それを絵に描いている人だ。レビー小体型認知症という病名である。猫、魚、花、蛙、ネズミ、馬とさまざまなものが見える。幻視と空想はちがう。幻視は、実にリアルである。
「本」を読みながら、人間の不思議を思った。幻視・幻聴、妄想、錯視、せん妄・・・
「人間の人体」は、まだまだわからない未知のものである。不思議は、普通の(私)に、日常にある。

25.「おだやかな洪水」
ユニークな資質・感性・想像力をもっている詩人。加藤思何理の8冊目の詩集である。日本の(私小説)(私詩)という風土から脱け出た、スケールの大きな詩人である。シュールで、アバンギャルドで、メタフィジックで、いつも、もうひとつの(世界=宇宙)を掲示してくれる、実に、スリリングな詩人。
本書は「神」から「眼」まで57作品と間奏・インタビュー(6本)a~fが、創作の秘密を解くために、挟まれている。(性)と(夢)は、加藤の創作の種子である、核である。
「ぼくの詩は、いわば一人称の視点で撮影されたサスペンスフルな映画みたいなものです。」
詩人の、一式真理の評
「父と母をめぐるフロイド的エロスの大三角。そして死者である母を、父と死の双方から(書く)ことによって取り戻そうとする試みがテーマだ」
日本からも、ポーやマラルメやボルヘスのような詩人が出現してほしいものだ。

26.「音楽の危機」
怨歌の藤圭子と同じくらいに、クラッシクのバッハが好きである。ギターを弾き、サクソフォンを吹いていた。日曜日の朝は、9時から約45分、ラジオで、クラッシクの番組を聴く。世界の武満徹に私の小説集(著書)をお送りして、二度、ハガキをもらったことがある。(私のお宝)
「音楽の危機」は、実に、刺激的な新書であった。新型コロナウイルスのパンデミックで、ほとんどの(生)の音楽が聴けなくなっった。著者は、音楽の消滅を危惧して、コロナ渦にあって、音楽の原点とは何だったのか?と思考する。本当に、音楽は終ってしまうのか?社会の人間にとって、音楽は必要か?音楽家の役割とは何か?距離とは?舞台とは?場とは?非常時下の音楽とは?終りのある音楽からサドンデスの音楽へ。未来の音楽は、どのようにあるべきか?
その論考は、単なる音楽の歴史や種類を論じるというよりも、(音)の原点にまで登りつめるものであった。音楽に関心のある人には、是非お読みいただきたい1冊である。

27.「最澄と徳一」
日本の仏教史において、最大の論争が「三一権実論争」である。天台宗の開祖、最澄と、東国の法相宗の徳一が5年にわたって論争を交わした。華厳と唯識の争いである。
声聞・縁覚・菩薩の三乗は、衆生を導く方便!!とする最澄。真実は”一乗”である。(三乗方便一乗真実)説の最澄。一切衆生悉皆成仏性である。
徳一は、三乗の差別は真実!!「五性各別」によって証明。(三乗真実一乗方便)
作者は、あらゆる資料を駆使して、この論争を読み解いていく。8年間、高野山大学大学院で修学した折、「テスト」に、この問題が提出された。空海も、徳一から論争を挑まれたが、空海の(答え)は、残念ながら残っていない。

28.「海をあげる」
著者の上間陽子は、第二の石牟礼道子になるかもしれない。本書を読み終った、私の感慨である。
上間は、沖縄県生まれ。現在、琉球大学教育学研究科の教授。普天間基地の近くに、夫、娘と共に住んでいる。東京で、沖縄で、未青年の少女たちの支援、調査に携わってきた。東京で、夫の不倫・離婚と辛い経験をして、沖縄に帰って再婚。そして、基地問題へと目覚めていく。少年、少女たちの声を(傾聴)して、沖縄の差別や貧困によりそって、壊れていくニンゲンを、やさしくていねいに、描きあげた。
「問題」は足許に眠っていた。石牟礼道子が、水俣の病者に、寄りそって、闘ったように、上間も、崩れていく、少年、少女たちに身をもって、支援の声をおくり続けている。感動ものの一冊である。

29.「二千億の果実」
宮内勝典は、日本人を超えてしまう、スケールの大きな作家である。「南風」で文藝賞を受賞。ハルピンで生まれ、鹿児島の高校を卒業。アメリカへ。世界の60カ国を歩く。1944年生まれであるから、もう、78歳になる。「グリニッジの光を離れて」や「ぼくは始祖鳥になりたい」など全人類を見渡すような、大きなテーマで、小説を書いてきた。
本書も、全人類二千億人の物語である。ホモ・サピエンスの誕生から、もう、ニンゲンが、二千億人の生まれたのだ。地球に生まれた、心をもって、生きた人間2000億人を描き尽くすという野望は無理としても、26作品から成るこの小説集には、さまざまな人間が登場する。天才アインシュタインや革命家チェ・ゲバラまで。千葉県の房総半島に棲んだ自身の物語「養老渓谷」もある。その構想力と、想像力に恥じない作品集である。
なお、ご子息は、SFや純文学小説を書いている、宮内悠介氏である。正に親子鷹。

30.「ヒトの壁」
「バカの壁」が450万部売れたそうである。NHKテレビでも、養老先生と愛猫まるの番組が放送されている。正に”時の人”である。解剖学者としての、専門家としての、著書「からだの見方」や「唯脳論」は、硬質で、一部の人が読むだけのものであった。なぜ「バカの壁」が一般の人々にも売れたのか?本人もよくわからないという。ひとつは、ライターが書いた「本」である。私は、そのやさしい語りが、一般受けしたのではないかと推察している。
さて「ヒトの壁」は、壁シリーズの4作目。養老先生も84歳になった。コロナ渦に考えてきたこと「人間論」が、本書のテーマである。心筋梗塞を病ったり、愛猫まるに死なれたり、「生老病死」に立ちむかう養老先生の思索の日々がある。
「万事テキトーに終ればいい」(本人の思い)鎌倉には、大好きな「虫」の館も完成した。(数億円の印税の力はすごい)
私は、解剖学者としては、養老先生の恩師・三木成夫の業績が偉大であると思う。「海・呼吸・古代形象」「人間生命の誕生」「生命形態の自然誌」「生命形態学序説」など、その発見と研究は、感動的である。ただし、一般の人々には、あまり知られていないが。隠れた名著である。三木成夫は、ほぼ、天才である。

31.「言語と呪術」
3~4年かけて、井筒俊彦全集13巻をていねいに読破した。大きな、大きなコトバの力をもらって、感動した。若い頃に読んでいれば、(私)自身の生き方も変わったかもしれないと思った。
「本」との出合いも、人との出合いも、人間の運命を大きく変えてしまう。もう、井筒俊彦も、すべて、読み終えたし、と思っていたら、実は、英語で書いた論文、研究書、著作がたくさんあった。カナダやテヘランの大学で、研究していた時、教授として、講義をしていた時、発表した著作である。
慶応大学出版会が「英文著作翻訳コレクション」として、全七巻を発行している。おおきな喜びであった。また、井筒俊彦の(声)が聴ける。吉川幸次郎の監修で読んでいた中国の古典「老子」と、井筒俊彦訳注の「老子道徳経」で読んでみた。今、また「言語と呪術」を読書中。
東洋哲学全体を視野に入れた井筒の研究は、英米人に、どのように読まれたのか?日本人が英文で書いたものを日本人が日本語に翻訳する!!いったい、何と言っただろうか。井筒の文体、言葉、鍵ワードを押さえての翻訳、訳者にも大きな困難とプレッシャーがあるだろう。一冊一冊が、大作であるから、また、数年間、楽しい読書ができる。至高の時。

Author:
• 火曜日, 1月 12th, 2021

新型コロナ禍の時代である。
セイカツのリズムが随分と変わった。早稲田の、稲門会の「読書会」がなくなった。市民のための「読書会」がなくなった。(他人の声・感想を聞くのは、実に、楽しい)
「読書」は、もちろん、独りで行う行為である。(読めば話したくなり、書いてみたくなる)
ステイ・ホーム、(家にいろ)(外へ出るな)ソーシャル・ディスタンス(距離をとれ)三密を守れ(密集・密接・密閉)。マスクに、手洗いに、うがいの実行。コロナを予防するために、日々の楽しみのほとんどが消えた。「読書会」「映画会」「ゴルフコンペ」「囲碁の会」「散策の会」「新年会・忘年会」「暑気払い」「カラオケの会」「旅」。
ヒトと交流するニンゲンである。ほぼ独居状態で、セイカツしている身であるから、一日に、一回も他者と会話をしない日がある。もっぱら、自分自身との対話である。友から、電話がくると、ついつい、長話になる。人恋しいのである。言葉を忘れそうになる。気がつくと、独り言を言っている。

読むこと、書くこと、歩くこと、瞑想すること、私の一日は、四つの柱でできている。
ところが、夏の猛暑で、熱中症になって、不眠と食欲不振と自律神経失調症が重なって、三ヶ月ほど、読む、書く、歩くの三つの柱が崩れた。残ったのは、呼吸法と、瞑想法だけとなった。
軽い老人ウツが来た。コロナウツの一種か?
毎年、八月に、一年間に読んだ「本」を「読書日記」として、その感想を書いているが、今年はその原稿を書けぬまま、十二月になった。
涼しくなり、寒くなり、どうやら、不眠も解消した。しかし、眼が弱くなった。長時間「本」を読むと、眼がハレーションを起こして、空間が、風景が、活字が歪む。困ったものだ。もう、なかなか、長いものが読めない。俳句(芭蕉)や和歌(西行)を読んで、楽しんでいる。

エネルギーの低下は、そのまま「生」の質の低下である。

もう、言葉の向こうに、コトバがある「本」しか、読みたくない。いったい、何人の作家が、思想家がそんなコトバを書いているのか?数えるほどしかいない。

ひとつの作品に魂を震撼させられると、その作家の書いたすべての作品を読みたくなる。そして、最後に(死んだ人なら)「全集」(著作集・作品集)を読みたくなる。(作品・随筆・日記・手紙)
私の本棚には、今まで、50年間に読んできた「全集」(著作集)が並んでいる。
ドストエフスキー全集、エドガー・アラン・ポー、ヴァレリー、マラルメ、バタイユ、ユング、フロイド、エリアーデー。弘法大師(空海)、北村透谷、夏目漱石、志賀直哉、梶井基次郎、小林秀雄、中原中也、井筒俊彦、宮川淳、須賀敦子、吉本隆明、埴谷雄高、(安部公房、大江健三郎、島尾敏雄作品集)等々・・・。
秋山駿は、「全集」はないが、ほとんどすべての「本」を読んでいる。石原吉郎も、池田晶子も。古井由吉も(現代の最高の作家)(私)の書くコトバの源泉である。

この十年では、三~四年かけて、井筒俊彦全集と、須賀敦子全集を、隅から隅まで読んで、感動した。二人とも、言葉の向こうに、コトバを発見した人であった。

いつも、誰かの「全集」を読んでその人のコトバと共に、生きている。さて、これから、誰の「全集」を読んでみようか?

「ベンヤミン・コレクション」全七巻を入手した。平均600ページもある「全集」?である。
眼が弱ってしまった(私)に、これだけの分量が、読めるだろうか?ベンヤミンの思考を追って、言葉の向こうに、コトバを発見したいと念じている。
(私)が読む、最後の「全集」になるかもしれない。

1.「宇宙と宇宙をつなぐ数学」IUT理論の衝撃(角川書店刊)加藤文元著
2.「空海の行動と思想」(高野山大学刊)静慈圓著
3.「母の前で」(岩波書店刊)ピエール・パシェ著
4.「江藤淳は甦える」(新潮社刊)平山周吉著
5.「プシュケー」(他なるものの発見Ⅱ)(岩波書店刊)ジャック・デリタ著
6.「夏物語」(文藝春秋刊)川上未映子著
7.「ていねいに生きて行くんだ」(弦書房刊)前山光則著
8.「そのうちなんとかなるだろう」(マガジンハウス刊)内田樹著
9.「恋人たちはせーので光る」(リトルモア刊)最果タヒ著
10. 詩集「花あるいは骨」(土曜美術社出版販売刊)加藤思何理著
11.「宮沢賢治 デクノボーの叡智」(新潮選書刊)今福龍太著
12.「海と空のあいだに」石牟礼道子全歌集(弦書房刊)
13. 詩集「QQQ」(思潮社刊)和合亮一著
14.15.「荒川洋治詩集」(続)(続続)(思潮社刊)
16.「法華経」上・下刊 サンスクリット原典現代語訳 植木雅俊訳
17.「ベンヤミン・コレクション①-近代の意味」(ちくま学芸文庫刊)
18.「老人と海」(新潮文庫刊)ヘミングウェイ著
19.「日はまた昇る」(新潮文庫刊)ヘミングウェイ著
20.「武器よさらば」(新潮文庫刊)ヘミングウェイ著
21.「ヘミングウェイ全短編集②」(新潮文庫刊)
22.「ライ麦畑でつかまえて」(白水社刊)サリンジャー著
22.「フラニーとズーイ」(新潮文庫刊)サリンジャー著
23.「山岸哲男詩集」(土曜美術社出版販売刊)
24.「海を撃つ」(みすず書房刊)安東量子著
25.「岸辺のない海 石原吉郎ノート」(未来社刊)郷原宏著
26.「ネーミングは招き猫」(ダビッド社刊)安藤貞之著
27.「一色真理詩集」(土曜美術社出版販売刊)
28.「川中子義勝詩集」(土曜美術社出版販売刊)
29.「鏡の上を走りながら」(思潮社刊)佐々木幹朗著
30.「純粋な幸福」(毎日新聞出版刊)辺見庸著
31.「ベンヤミン・コレクション②-エッセイの思想」(ちくま学芸文庫刊)
32.「樋口一葉を世に出した男-大橋乙羽」(百年書房刊)安藤貞之著
33.「ベンヤミン・コレクション③-記憶への旅」(ちくま学芸文庫刊)
34.「時間はどこから来て、なぜ流れるのか?」(講談社ブルーバックス刊)吉田伸夫著
35.「ベンヤミン・コレクション④-批評の瞬間」(ちくま学芸文庫刊)
36.「22世紀の荒川修作+マドリン・ギンズ 天命反転する経験と身体」(フイルムアート社刊)編著者 三村尚彦・門林缶史
37.「ベンヤミン・コレクション⑤-思考のスペクトル」(ちくま学芸文庫刊)
38.「続・全共闘白書」(情況出版刊)
39.「ベンヤミン・コレクション⑥-断片の力」(ちくま学芸文庫刊)
40.「サピエンス全史」上・下巻(河出書房新社刊)ユヴァル・ノア・ハラリ著
41.「21Lessons」(河出書房新社刊)ユヴァル・ノア・ハラリ著
42.「詩への小路」(講談社文芸文庫刊)古井由吉著
43.「古井由吉-文学の奇蹟」(河出書房新社刊)
44.「ベンヤミン・コレクション⑦-<私>記から超<私>記へ」(ちくま学芸文庫刊)
45.「心教を以って尚と為す」(敬文社刊)小泉吉永著
46.「読書の愉しみ」壬生洋二著

1.「宇宙」と名の付く「本」なら、なんでも読みたい。なぜ?結局、人間は、宇宙を知らなければ、自分たちの「存在理由」も発見できないから。
疑問、問いが発せられるなら、必ず「解」=「答え」はある。
中学・高校の「数学」は嫌手であった。「零の発見」を読んでから、「数学」の面白さに驚いた。超難解な、長年解けなかった「フェルマーの最終定理」や「ポアンカレ予想」についての解説書を読んで興奮した。まだ誰も解けぬ「ABC予想」に挑む、数学者・望月新一が提唱した「未来からきた論文」を(IUT理論)数学者、長年、望月の話を聞き、論文を読み込んできた、加藤文元が一般向きに、解説した「本」。専門の数学者たちにも、わからないという、超難解な論文・理論。なぜ?わからない?今までの、数学に使用されたコトバとはまったく異なるコトバで、書かれている。国際的(国と国)という。望月のコトバは、「宇宙際」である。つまり、宇宙と宇宙をつなぐコトバ・発想で、書かれている。一読したが、十分の一もわからない。再度、挑戦したい、スリリングな「本」である。

2. 静慈圓は、学僧である。しかも「行動の人」である。高野山大学大学院で、サンスクリット語を教わった。徳島県出身。自ら「曼荼羅」をも描いた。何よりも、中国に渡って、長安までの道を、空海が歩いた道を歩いて、(空海の道)をひらいた行動の人。中国と日本の仏教の架け橋を創った僧である。本書は、空海の書いた原文を読んで、空海の思想と行動を読み解いたテキスト。ヒマラヤ・チベットで、様々な曼荼羅を発見し、長安への2400キロの道を歩き(空海ロードと命名)伝燈阿闍梨職位を受ける。高野山清涼院住職。

3. なぜ?何が、思想家・作家・辺見庸のココロを震撼させたのか?辺見庸が、「偉大な本である」「私の聖書である」と絶讃しているので、私も読んでみた。
なるほど、ここには、一切を、自分のコトバで考える、思索者がいる。100歳の母(ユダヤ人)を前にして、見る、語る、思考する、その「文体」が、実に見事である。
モノを考えるということが、どういうことか、「本書」は教えてくれる。やはり、作家は「文体」で考える人種である。散文、記事、レポート、小説、詩、評論を書いている、さまざまな「文体」を創出している辺見庸だからこそ、「本書」を読み解けた。

4. 江藤淳・吉本隆明の時代があった。(右と左であるが、実に仲が良かった)
江藤淳が自死して、もう20年になる。堀辰雄(結核)や太宰治(自殺)を否定した、生命力の、力の人、江藤淳(自らも結核)その江藤淳が、(自殺を否定)妻に死なれ、自らも病んで、これは、もう自分ではないと、自殺した。
江藤淳の思想とは、いったい何だったのか?
「本書」は、編集者として、江藤淳の近くで、日常を知った者が、思想家・江藤淳を、(評論家、裸の人間)考察した、力作である。783ページの大作。

5. 若い頃、デリタの「グラマイトロジーについて」と「差異とエクリチュール」に圧倒された。いったい、これは、何だ?と。碩学・井筒俊彦を唸らせた、デリタの考察。「本書」は、「脱構築の人」デリタの、中期の代表作12のエッセーを収めたもの。私にとって、うれしかったのは、デリタがアフォリズムを書いていた事実である。
「不時のアフォリズム」そうか、デリタも、アフォリズムを最高のコトバと考えていたか。感動、感謝を。

6. 「夏物語」を読む。作家は、結局、書く言葉がどれほど深くにまで届くかに尽きる。誰の言葉でもない、誰でも使っている言葉が、作家の手によって、オリジナルの言葉になる。そして、作家は、言葉の向こう側にあるコトバをも、表出しなければ、本物ではない。川上未映子も、そのことを直観している、数少ない作家の一人であろう、と思う。(詩)からスタートしたのも、ひとつの要因であろう。「夏物語」は、著者がはじめての1000枚の、長篇小説、大作である。読むのが辛くて、2~3回中断した。その理由は?
①私の体調不良、長時間の読書に眼が耐えられない。ハレーションを起こして、空間、風景、文字が歪む。
②「乳と卵」の続篇であるような「貧乏物語」の前半。主人公の原風景。父の不在。貧乏という桎梏!!母系家族。
しかし、単なる人情咄が存在論へと至る後半は、川上が「言葉」から「コトバ」に至る、真骨頂である。この世は生きるに値するのか?で、子供を生む世界であるのか、ないのか?子供は、どこから何から生まれてくるのか?
川上は、近松門左衛門のような関西の(語り=物語)の系譜の上に位置している。伝統をしっかりと継承している。同時に、(考える)という思考の核をも持っている。彼女の特質と心性であろう。
読み終えて、最後の四行がココロの中に響き続けた。
「その赤ん坊は、わたしが初めて会う人だった」
見えるか?川上未映子のコトバが!!

7. 「ていねいに生きて行くんだ(本のある生活)」(熊日文学賞受賞)
日本人には、随筆・随想・エッセイがよく似合う。大作品ではない。日々の思いのあれこれを、自然に、自由に書き綴る。批評眼を光らせて。昔から「徒然草」や「枕草子」という傑作がある。本書は、前山光則が、出版社のコラムページに、書き綴った二百五十余篇の中から、70篇を抽出したものである。日々の出来事・旅の思い出・考え、感想などを「本」にからめて、自由に語っている。
島尾敏雄、石牟礼道子、種田山頭火、淵上毛錢、若山牧水、中原中也と、文学者・詩人・歌人との出会い・邂逅も、いかにも前山光則らしい。
視点、立ち位置が、とても、ヒューマンである。等身大のニンゲンとして、読み、書き、語るその姿勢が、人を、やさしい気持にさせてくれる“人柄“が実にいいのだ。「ていねいに生きて行くんだ」(淵上毛錢の詩の一節)というタイトルにも、作者のココロのあり方が滲みでている。
熊本で高校教師として、セイカツしながら「文学」に生きてきた前山光則である。地に足をつけて。
昔、大学時代、ある出版社で編集のアルバイトをした。その時に、同じアルバイト学生の前山光則に会った。笑顔がよく似合った。当時から「島尾敏雄」を論じて、書く「文学青年」であった。あれから、50余年の月日が流れた。一昨年、ガンで、最愛の妻を亡くした。食事も咽喉を通らぬほど落ち込んで、大丈夫かなと思ったが、こうして「本」を出版するエネルギーを持つに至った。何があっても、書いてこそ「文学者」である。まだまだ続く、エッセイ。楽しみだ。行けるところまで行って下さい。旧友文学仲間の重田昇より。

8. 「そのうちなんとかなるだろう」
内田樹も、終に「自伝」=「私の経歴」を書くようになったかという深い感慨がある。内田樹の「本」は、文庫本と新書で十冊ほど読んでいる。
「レヴィナスの愛の現象学」「私家版・ユダヤ文化論」が内田の思想を代表していると思っている。翻訳者・武道家・大学教授、そして哲学する人である、内田樹。
内田の思想は「師」を得るところからはじまる。合気道の師「多田宏」宗教者の、思想家の師「レヴィナス」
「師」のコトバを翻訳し血肉とする。
つまり、松のことは松に習え、竹のことは竹に習えという形から入る手法である。松のコトバを聞く、竹のコトバを聞く、石のコトバを聞く、という手法は、一番の学習方法である。そこから、自分自身の思考、コトバが紡がれてくる。
「そのうちなんとかなるだろう」(タイトル)は、芸人・歌手の植木等の歌の文句である。「本」の帯には、七つの事件が記されている。
①いじめが原因で小学校登校拒否
②受験勉強が嫌で日比谷高校中退
③親の小言が聞きたくなくて家出
④大検取って東大に入るも大学院3浪
⑤8年間で32大学の教員公募に不合格
⑥男として全否定された離婚
⑦仕事より家事を優先して父子家庭12年・・・
本書は、出版社からの、インタヴュー(語り下ろし)という手法で作られた。(後で加筆)
いわば、小説で言えば「私小説」である。自らの負・傷・苦・悲を語って、昇華させる手法である。七つの事件のどれひとつを取っても、気が滅入って、ココロが折れそうな事例である。おそらく、その瞬間には、内田も頭をかかえて、苦悩したにちがいない。しかし、すべてを、クリアして、生き延びている。それらを支えたものが(合気道)と(宗教哲学=レヴィナス)であったのだろうと推察する。
内田樹が今の内田樹になった理由が、この本の中にはぎっしりとつまっている。(行動=身体)と(思索=精神)二つの歯車を廻し続ける内田樹である。 

9. 「恋人たちはせーので光る」
ここではない、どこかへ、連れていってくれるのが、最果タヒの詩を読む、理由とスリルである。踊る最果タチのコトバを読むのは、実に、楽しい。発行された、すべての詩集に目を通している。
ただ、少しだけ、心配がある。イメージ、発想、直観がいつか、枯れてしまわないだろうか?自己模倣に陥ってしなわないだろうか?(現実)を踏みはずしてしまわないだろうか?コトバの世界・宇宙が収縮してしまわないだろうか?もちろん、(私)の心配など、最果タヒには、一切、関係がない。
「ぼくは一人きりで生きて、神様になろうかと思っている」(座礁船の詩)
「本当は生まれる前から知っていて」(人にうまれて)「呪いたい」「世界を恨んでしまいそう」「言葉は通じないものだ」最果タヒは、確実に、「詩の言葉」から「コトバ」へと移行している。
天才・ル・クレジオになってしまうかもしれない、最果タヒ。

10. 詩集「花あるいは骨」
加藤思何理の詩は、いつも迷宮へとヒトを誘う、あらゆる言葉の幻種を、交配させた詩の言葉に満ちている。感性、発想、心性が、日本人離れしている。
私は、加藤の詩を読むといつも、「バタイユ」を思う。リアリズムでは、読めない詩なのに実に、リアルである。いわば「メタファー詩」である。言葉が、コトバに変化している。「不死の人」ボルヘスを思わせる。七冊目の詩集である。あらゆる時空を、自由自在に走りまわる、そんな詩風は、「来たるべき書物」(モーリス・ブランショ)を期待させる。日本人の読者には、なかなか受け入れられないかもしれない。しかし、長い眼で見ると、一人、二人と、読んで、論じてくれる人が増えていく、そんな詩であると思う。自分自身を信じて。精進する(釈尊)

11. はじめて、今福龍太の「本」を読む。子供から大人まで、宮沢賢治の詩ほど、多くの人に、読まれた(詩)はないだろう!!
市民の読書会で、賢治の「銀河鉄道の夜」を読んでみた。講師として、三十人ほどの、作家たちの作品を選んで、読んできたが、驚いたことに、参加者の大半が、賢治を読んでいて、そのうち半分が、宮沢賢治の故郷、花巻を訪れていることだった。
生前は、詩人たちや、数百人の読者にしか、知られなかった「詩」が、今は、国民の「詩」になっている。
もちろん、専門の詩人、評論家たちも、さまざまな、読み方をしていて、詩の深さを物語っている。宗教と科学と詩が合体したのが賢治の詩、思想であるから、簡単で、やさしい言葉の奥にも、いつも、深いコトバが隠れている。
入沢康夫・天澤退二郎・吉本隆明などの「宮沢賢治論」とも、一味ちがう、今福の論考は、視点は、私には、実に、新鮮だった。こんなにも、じっくりと、楽しく読めた「本」は久し振りである。何よりも、ケンジの詩と匹敵する地の文章が身に沁みた。ケンジの魂の存在まで感じられた。愚者=デクノボーの思想は、今福の発見であろう。だから「読書」はやめられない。感謝。

12. 「苦海浄土」を書いた石牟礼道子の言葉の根は、いったい、どこにあるのだろう?そんな疑問が、私の中にあった。
「海と空のあいだに」は、石牟礼道子の全歌集である。670余首が収録されている。唸った。

いつの日かわれ狂ふべし君よ君よ その眸そむけずわれをみたまえ

雪の辻ふけてぼうぼうともりくる 老婆とわれ入れかはるなり

おとうとの轢断死体山羊肉と ならびてこよなくやさし繊維質

短歌の中に、石牟礼の、心性、感性、思想の芽が表出されていた。(狂)の世界。どこにも(私)の場所がないという心性。「石」に感応する心。(苦)とともにある感情。若くして、ニンゲンの世界に(苦)と(悲)しか見ていない。もちろん、石牟礼は、短歌の言葉の向こうに、「コトバ」を見ている。その「コトバ」が見えなければ石牟礼の言葉は、わからない。
短歌の世界と「苦海浄土」の世界で、コトバは、共振していたのだ。詩文から散文へと、移行しても石牟礼の見るものは、ちっとも変わっていない。解説は、生前、石牟礼道子と親交のあった、文芸評論家・前山光則である。声に、言葉に、生身に、ていねいに寄り添った文章は、正に(魂の交感)を見る思いの、ココロのこもったものであった。

13. 「QQQ」和合亮一の詩集を読む。
来年の三月で、3・11東日本大震災から、もう、十年になる。大地震、大津波、原発事故と人類が経験したこともない大惨事・大事件であった。詩人・和合亮一は、大事件、大災害、大凶事と同時的に、ツイッター詩を書いた。いや、手が動いた。コトバが降りてきた。「詩の礫」である。「詩の黙礼」「詩の邂逅」の三部作を出版した。あれから、もう、九年の月日が流れた、その時は、当然、苦しい、辛い、悲しい、しかし、その後も、苦しい、辛い、悲しいは続いている。
あの時、私は、ニンゲンの生き方、その存在理由も、一切が変わる変わらなければならないと思った。
狂おしい、意識が、ゼロ・ポイントに陥った。そこから、どんなコトバが誕生した?そんな思いで、和合の「QQQ」を購入して、一読した。感想は、複雑で、微妙なものであった。理由は?
今、また、世界中を騒然とさせる新型コロナ・ウイルスが猛威をふるっているからだ。ふたたび、人間の原理、思想が問われている。
(ニンゲンに何が出来る!!)和合のように、同時進行で、この新型コロナ禍のニンゲンを書くことができるか?誰が書いている?毎日、毎日、新聞、テレビの放送、報道は、確かにある。しかし・・・それは・・・おそらく、ニンゲンの根源を問うコトバではない。
さて、大災害の時は、もちろん苦しいが、その後も、また苦しいのだ。和合の新作を読んで、ココロが疼いた。読むのが辛い。大きな、大きな、問いが和合に来るのだが、「詩」のコトバは、それに答えることが出来ない。もう、「詩」の完成など、どうでもいいのだ。ニンゲンの、来たるべき姿を、和合よ、啓示してくれ。

14.15. (現代詩作家)と名乗っている荒川洋治詩集を二冊読む。あれから、今、荒川洋治は、どんな現代詩を書いているのか?と。
同時代人である。同世代である。同じ大学であった。若い頃「水駅」には大きな衝激を受けた。まるで、純粋詩、純粋言語だ、ポール・ヴァレリーの言うところの。見事な詩集だった。いったい、どこで、そんなコトバを身につけたのだろう?これから、どうするのだろう?何を書くのだろう。
文学から、遠く離れて、セイカツしていたので、その後の、荒川洋治は、読んでいない。
現代に、詩人は、生きられるのか?詩を書いて、セイカツできるのか?(中原中也は、父が医者。ほとんど仕送りでセイカツしていた!!宮沢賢治は?父が商人だった。学校の先生は、少し経験したけれど、親がかりのセイカツ。)
荒川の詩「ライフワーク」によると、新聞や雑誌に、書評を書きエッセイを書き、(年間二百本も)セイカツしていた。詩集の出版社を創って(紫陽社)、ラジオのパーソナリティを勤めて、大学の先生になって、セイカツしながら「現代詩」を書き続けた。
荒川のエッセイは、視点が面白い。「文学は、実学である」なるほど。書評も、アッと驚く発見があって、実に、スリリングなものを書く。そして、「詩」は、あらゆるものを素材にして、書き綴っている。詩「美代子、石を投げなさい」は、荒川洋治が、なぜ、(現代詩作家)を名乗るのか、その理由を解きほぐしてくれる傑作だ。俗も聖も、世間も政治家も、現代詩作家・荒川洋治の手にかかると、クスッと笑えてしまい、笑いがそのまま歪みになるー複雑な感慨がある。
特に「父」や「母」をテーマにした詩は、今まで、誰にも書けなかった視点と切り口で、肉親を分解している。唸った。こんな書き方をして大丈夫なの?と。詩の言葉が、誰にでもわかる言葉なのに、いつのまにか、知らない時空に連れ出されて荒川にしか見えない「コトバ」で終ってしまう。なるほど、詩人である。現代詩作家。二週間ほど、二冊の詩集をじっくりと時間をかけて熟読した。(新型コロナ禍の中で)もう、荒川も古希になった。日本芸術院賞、思賜賞を受賞した。(現代詩作家)おそるべし。

16. 「法華経」
仏典の大半は、中国から、漢文として(漢字)無文字の日本へ入ってきた。中国では、サンスクリット語から中国語に翻訳されたものである。(インド人僧・善無畏、中国僧・三蔵法師玄奘などが苦労して翻訳)日本では、中村元が「ブッダのことば」「ブッダの最後の旅」として、釈尊の経典を、サンスクリット語から日本語に翻訳している。経典の王さまと呼ばれている「法華経」を、サンスクリット語から現代文に翻訳した、植木雅俊は中村元の弟子である。釈尊の説いた教え、実践が、誰にでもわかる、日本語として翻訳された。文学的な物語として、読んでも、実に面白い。

17.31.33.35.37.39.43
いつか、本腰を入れて、思想家・ヴァルター・ベンヤミン(ドイツ)を読みたいと思っていた。全七巻、平均600ページの大著である。三年、四年かけて、読み込みたい。いつも、誰かの、全集を読んでいる。ドストエフスキーから、須賀敦子まで。約二十人ほどの、全集を読んできた。
「(私)記から超(私)記へ」タイトルを見ただけで、ゾクゾクする。さて、全巻、読み切れるか?

18.19.20.21
大学(稲門会)の「読書会」の講師をしている。ヘミングウェイを読もう。「老人と海」。「映画会」では、「武器よ、さらば」を観た。短かい、動詞と名詞の文章で、スポード感があって、心地良い。文章と行動の人・ヘミングウェイ。日本の開高健が似ている。

22.
今、なぜ、サリンジャーなのか?60年代に、世界中で、一世風靡をしたあのサリンジャーが、村上春樹訳で帰ってきた。村上春樹の作品の根には、ボガネットやフィッツジェラルドなどのアメリカ文学がある。村上春樹は小説の休暇の折りに、翻訳で文章を鍛えている。
庄司薫の「赤頭布ちゃん、気をつけて」(芥川賞)も、当時、サリンジャーの物真似だと随分騒がれたものだ。サリンジャーの影響は、実に大きい。

23. 
「山岸哲男」は、父をなくし、母をなくし、孤児となった。(まるで川端康成のようだ)そして、文学・詩にむかう。「男と女の」詩ばかり書いている。吉行淳之介、渡辺淳一のように。
なるほど、世の中には、男と女しかいない。男と女の現代の風景詩とでも呼べばいいのか?少し、物悲しい詩風ではなるが・・・。

24. 「海を撃つ」
3・11から、すでに、10年になろうとしている。なかなか、3・11を表現し切った作品には、お目にかかれない。余りにも、余りにも、大きな、大惨事であったから、ニンゲンの言葉が追いつかない。
「海を撃つ」は、偶然、原発事故のあった、福島へと移住した、女性の視点で、現在進行系の、さまざまな事象、現象を追った、地に足のついた記録と考察である。ニンゲンの裸形を追って。安東量子が、偶然、投げ込まれた、原発事故の起きた(現場)で、進化している。その言葉が、実に、重い。

25.
詩人。新聞記者、文芸評論家。リアルタイムで、最高の詩人、石原吉郎の詩を読み続けてきた、郷原宏(H氏賞受賞詩人)による、石原の評伝である。
シベリアのラーゲリーで八年間、苛酷な労働と非人間的な扱いのもとで生きてきた、拘留生活。海を渡って帰国。日本の日常に還っても、ラーゲリーでの傷は疼き続ける。日本語を学び直すために、(詩)を書いた石原吉郎。
あの強度のつよい、文体、詩語はいったい、どこから来たのだろう。そんな長年の私の問いに、「本書」の郷原宏は、見事に答えてくれた。「聖書」を読んだ石原吉郎。「いのちの初夜」(北條民雄)を生涯の愛読書とした石原吉郎。
詩の芥川賞といわれるH氏賞の受賞、詩人会会長、方々での講演、名声は日毎に高くなっていくが、ココロの虚無は、ますます深くなっていった。裸のニンゲン石原吉郎の形姿と詩人の頂点にまで昇りつめた石原吉郎のコトバ。そのふたつの姿を、詩人・郷原宏は、「評伝」として、書きあげた。(石原吉郎)そのものを知る力作であった。

26. 
若き日に、大岡昇平の「野火論」を書いた安藤貞之である。早稲田で、国文学を学ぶ。芥川賞作家(黒田夏子)NHKアナウンサー(元)下重暁子は同級生である。「ネーミングは招き猫」は、単なるコピーライターの「本」ではない。
日本の古典から海外文学まで読み込んだ。「言葉」をめぐる本である。

27.
詩人の中の詩人である。詩人にしかなれない心性をもっている。「父と子」の地獄の関係。コトバの迷宮の中に棲んでいる一色真理。一言も口を訊かない小学生の一色真理。
鎌倉時代の禅僧・明恵は見た夢を、生涯「夢の記」として、書き記した。「一色真理の夢千一夜」は膨大な夢の数々にあふれている。詩の転期は、やはり「純粋病」(H氏賞受賞)であろう。どこまでも、どこまでも、ココロの一番深いところへと降りていくコトバ。
解説を伊藤浩子が書いている。心理学を学問としたフロイドの理論を使って。しかし、実は、一色の詩は、ユングの世界である、と私は思っている。ある会合の度で(ある人を偲ぶ会)一色真理は、初期の詩集と詩の雑誌をプレゼントしてくれた。「戦果の無い戦争と水仙色のトーチカ」「貧しい血筋」等々。やはり、初期詩篇は、まだ、一色真理のコトバになっていない。「純粋病」からが、詩人・一色真理のコトバだ。
なお、「歌を忘れたカナリヤは、うしろの山へ捨てましょか」は、半自伝的作品。全共闘運動の息吹きが、鳴り響いている。闘争家・革命家の一色真理がいる。越えれば発狂するような、危険なコトバの上を歩き続けている一色真理。

28.
書評欄を見て下さい。キリスト者の詩人。

29. 「鏡の上を走りながら」佐々木幹朗。
ほぼ半世紀ぶりに、佐々木幹朗の詩を読んだ。実に、なつかしい名前。同世代である。団塊の世代。全共闘世代。同じ年。
昔、一度だけ、生身の佐々木幹朗に会っている。いや、見たことがある。慶応大学の三田で、石原吉郎の講演会があった。石原は、全共闘世代によく読まれていて、スターであった。パネラーとして、詩人の清水昶と佐々木幹朗が招かれていた。私は、「三田新聞」の編集長、中田一男に呼ばれて、何か、質問をしてくれと頼まれていた。で、「北條民雄の『いのちの初夜』がなぜ、石原さんの生涯の愛読書であるのか、訊いた。北條民雄は、ハンセン氏病を患った作家・川端康成に発見され、認められ、たった23歳で死んだ。天才小説家。たった2年半の執筆生活。佐々木幹朗は、石原吉郎の詩の解説と注釈をした。詩人というよりも、全共闘の、闘士という風格、風貌をしていた。
さて、詩集「鏡の上を走りながら」であるが。
①想像力と技術力を駆使した詩よりも、3・11の現場に出かけて、被災者の話に耳を傾けて、聞き書きした詩が面白かった。こんな詩を、30作・50作と作れば柳田国男の「遠野物語」になるのにと思った。(傾聴の力は、僧たちの説法よりも強い)
②もうひとつ「もはや忘れてしまった平成という時代の記憶」(詩作品)四十三歳から七十一歳までの自伝的記録である。まったく詩らしくない詩である。永井荷風の日記「断腸亭日乗」のような(事実)のもつ力を感じさせた。「何もしなかった」「母が死んだ」「父が死んだ」
そうか。そのように生きてきたのか。そんなことがあったのか。なるほど。やっぱり型に入ったサラリーマンとしては、生きてゆけなかったか。旅へ。海外へ。山へ。ノマドのようなセイカツ。活字の向う側にある、佐々木幹朗の姿を眺めながら、あれから、50年、無常迅速であったな、と、感慨が深まった。

39. 秋山駿が死んで、古井由吉が死んで、もう、声を聴きたい、文章を読みたい作家がいなくなったと思っていた。辺見庸がいた。
小説、エッセイ、紀行文、評論、そして「詩」を書いている。なぜ、辺見庸は、多様なコトバを書くのか?そのスタイルでなければ、書けないものがあるから。私は、そう考えている。
辺見庸が解体されていく。辺見庸のコトバが分解されていく。つまり、辺見庸もニンゲン。そして、老いていくという(事実)。溶けていくのは、辺見のコトバか精神か?この詩集は、その序曲か?世界が、ニンゲンが壊れていくから鏡としての、作家・辺見庸も壊れているのか?(作家に引退はない!!)
(老い)三島由紀夫が、もっとも嫌いおそれてもの。(老い)書けなくなった川端を自殺へと追いこんだもの。(老い)武田泰淳を「目まいのする散歩者」にしたもの。辺見庸もその渦中にいる。

32. 「樋口一葉を世に出した男 大橋乙羽」安藤貞之著
明治の文化の香りが、文章から数多くの写真から、立ち昇ってくる見事な「本」である。評伝である。「大橋乙羽」とは、いったい、何者か?が「本」の主題である。明治の、日本初の編集者の正体を求めて、当時の、本、雑誌、写真、資料や文献を収集して、十数年、それらが語るところのものを分析し、資料の欠けたところは、想像力という橋を架けて、推理して、明治の研究者しか知らない(?)「大橋乙羽」という男を探求した力作である。
安藤貞之は、早稲田で国語・国文学を学び、大岡昇平の「野火論」という評論を書き、卒業してからは、美術・デザインを学び、会社の名前や商品の名前をつける、ネーミングの仕事、コピーライター、編集者、エディターとして、活躍をした。会社退職後は、いつか来た「文学」の道に戻って、「大橋乙羽」の研究に十数年を費やした。編集者、山形・米沢出身の小説家・博文館という出版社の専業家、政治家、文人、作家たちを写した写真家、美術家、装幀家、そして、旅行家と多面的な顔をもつ男であった。
実は、「本書」は、作家・安藤貞之の死後出版された。ガンであった。病床にあっても、なお、書き続けて、妻や子供たちの助けもあって「一冊の見本」を見て、安藤は、旅立った。「日本経済新聞」「東京新聞」大橋乙羽の出身地でもある山形県の新聞でも、書評された。好評であった。
早稲田のOBたちの集い「稲門会」では「読書会」(講師-重田昇一年四回)を行っている。安藤貞之もその中心メンバーであった。一言半句を探求して、いつも、見事なレポートを持参してくれた。「草枕」とは何か?と。「読書会」の後で「重田さん、少し文学の話しませんか」安藤さんとの対話では、どこまでも、いつまでも、終りのない、楽しい「文学談」であった。最後の手紙には、私の詩「何?誰?何処?」を病床で毎晩読んでおります。重田さん詩が、よくわかるようになりました。との手紙。「(無)から来た(私)という賽子を今日も振り続けている」ではじまる宇宙の中のニンゲン(私)を歌った詩である。
多面的な顔をもつ男・大橋乙羽を語りながら、実は、自分の仕事の姿、その意味を、探り続けていたのではなかったか?一人でも多くの人に、この「本」を読んでもらいたい。(合掌)

34. 「時間はどこから来て、なぜ流れるのか?」吉田伸夫著。
「時間」と名のつく「本」なら、なんでも読んでみたい。少し前に「時間は存在しない」というカルロ・ロヴェッリの「本」を読んだ。どうやら、時間は、人間の意識が生みだすものらしい、と。本書では、時間は、過去から未来へと流れていないという主張が展開されている。結局、人間の意識が、その働きが時間を感じてしまう、中心になる。ニュートンの、空間、時間「絶対時間」から、アインシュタインの「時空」が合体した、相対性的な「時間」。時間、空間、意識、そしてニンゲン(私)不思議な現象である。

36. 
天才・荒川修作が死んで、もう、何年になるのだろう?アラカワの「私は死なない」「天命反転」という命題は、今どうなっているのか?誰が引き継いでいるのか?22世紀に(アラカワ)は、どのように生きているのか?
岡山の奈義へ、岐阜の養老天命反転地へ、三鷹の天命反転住宅へと足を運んだ。そして、アラカワの「本」を眺めたり読んだりしている。紀行文風な「アラカワ論」を書きはじめている。

38.
もう、約50年になる。「全共闘」の運動から。あれから、それから、闘争者たちは、どのように、生きてきたのか?75問のアンケートから、それぞれが自由に選んで解答している。456人超の回答が集った。深い、深い溜息。無常迅速の月日の中で・・・。

40.41 「サピエンス全史」
世界中で1000万部以上、売れた「本」。なぜ?著者は、イスラエル人。歴史学者。ユヴァル・ノア・ハラリ氏である。
①認知革命 ②農業革命 ③人類の統一 ④科学革命
「歴史」いわゆる「歴史」を語る視点ではない。新しい切り口。で、モノの考え方、見方が、今までとちがってくる。その発想が、おそらく、多くの読者を刺激したのだろう。新しい(知)
「21Lessons」に、面白い文がある。知人に誘われて、瞑想をはじめた。先ず、呼吸から。吸っては吐く呼吸法。その時、私は、私のことを何もしらないと感じる。「サピエンス全史」よりも、呼吸法・瞑想の方が深い!!と気がついた。毎日、毎日、ハラリ氏は、瞑想をしている。なるほど。実は、私も、呼吸法・瞑想をしている。(知)よりも深い。

42.43
現代日本の最高の文体を誇る作家・古井由吉が死んでから、古井の「本」(ほとんど持っている)を、再読している。「水」や「山躁賦」や「杳子・妻隠」「仮往生伝試文」や「円陣を組む女たち」(処女作)最新の「この道」遺稿集「われもまた天に」など。
「詩への小路」小説家・散文家・翻訳家である古井由吉が「詩」について、「詩のコトバ」について、自由に語っている。そして、リルケの代表作「ドゥイノの悲歌」を自ら翻訳して、注解を加えている。「自分は小説と随想の間に生息する者かと思った」と楽しんで、青春とともにあった「詩」の世界を再現している。
「古井由吉」(文学の奇蹟)が出版された。蓮見重彦、柄谷行人、吉本隆明、小島信夫と「文学・思想」を代表する者たちによる(古井論)

45.
作者の小泉吉永は、かつて、私の経営する出版社の、優秀な編集者であった。高校教師の時、神田の古本屋で「江戸時代の寺子屋の教科書=往来物」に出合う。それから、編集者、大学講師をしながら、「往来者」の研究者、収集家、第一人者となる。現在は(私塾)を開いて、往来物を教え、講義・講演そして、歩いて、(現場)を尋ねる催し物もしている。本書は、その成果のひとつ。頑張れ、小泉吉永!!

46. 「読書の愉しみ」壬生洋二
ヒトは会社を退職しても、ニンゲンを引退する訳にはいかない。さて、何をする?どうやって生きる?この高齢者社会で「老い」は突然やってくる。
壬生洋二は、若き日には、詩人であった。早稲田の学生時代「あくた」という同人誌に、鮮やかなコトバで、(現代詩)を書いていた。もちろん、(詩)で飯は食えぬから大手企業のサラリーマンになった。約四十年、勤めあげて、自由の身となった。
現在は、毎日図書館へ通って「本」を読み、その感想をブログに書いている。もう十年以上。三百回を越えている。好評で、多くの読者を得ている。(他人との対話が成立)「純文学」から「落語」まで。散策の折りに、見たものを写真に撮り、考えたことを文章にする。四季の中に、風景の中に、風俗の中に、発見するよろこびがある。そして、テーマ毎に、分類して、何冊か「本」にしている。十数冊の私家本である。(ひとつの存在理由?)ここに、現代の、無名の一人の、兼好法師がいる。「つれづれなるまま、日ぐらし硯にむかいて、こころにうかぶ、よしなしごとを、そこはかとなく・・・」一言半句の中に、キラリとひらめくものがある。はやり、昔、詩人だった!!

(重田昇のホームページ「読書日記」より、重田ワールド覗いて下さい。)

Author:
• 木曜日, 9月 19th, 2019

1. 正訳「源氏物語」第一巻(勉誠出版刊)中野幸一著
2.「空海教学の真髄」『十巻章』を読む(法蔵館刊)村上保壽著
3.「幻色江戸ごよみ」(新潮文庫刊)宮部みゆき著
4.「須賀敦子の本棚」没後20年・文豪別冊(河出書房新社刊)
5.「石牟礼道子」(さようなら 不知火海の言魂)(河出書房新社刊)
6.「新約聖書」ヨハネの黙示録 訳と注解(作品社刊)田川建三著
7.「日の名残り」(早川書房刊)カズオ・イシグロ著 ノーベル賞記念版
8.「東大駒場全共闘エリートたちの回転木馬」(白順社刊)大野正道著
9.「日大全共闘1968版乱のクロニクル」(白順社刊)眞武善行著
10. 正訳「源氏物語」第二巻(勉誠出版刊)中野幸一著
11. 句集「をどり字」(深夜叢書社)井口時男著
12. 詩集「森田進詩集」(土曜美術社出版販売刊)森田進著
13. 詩集「えみしのくにがたり」(土曜美術社出版販売刊)及川俊哉著
14. 詩集「星を産んだ日」(土曜美術社出版販売刊)青木由弥子著
15.「オウム真理教の精神史」(春秋社刊)大田俊寛著
16.「読書という荒野」(幻冬舎刊)見城徹著
17.「文字渦」(新潮社刊)円城塔著
18.「ユング心理学と仏教」(岩波文庫刊)河合隼雄著
19. 正訳「源氏物語」第三巻(勉誠出版刊)中野幸一著
20. 正訳「源氏物語」第四巻(勉誠出版刊)中野幸一著
21. 正訳「源氏物語」第五巻(勉誠出版刊)中野幸一著
22.「須賀敦子さんへ贈る花束」(思潮社刊)北原千代著
23.「蜩の記」(祥伝社文庫刊)葉室麟著
24.「川のあかり」(祥伝社文庫刊)葉室麟著
25.「映画『夜と霧』とホロコースト」(みすず書房刊)ファン・デル・クープ編 庭田ようこ訳
26.「おくのほそ道」芭蕉(岩波文庫刊)萩原恭男校注
27.「芭蕉紀行文」芭蕉(岩波文庫刊)中村俊定校注
28.「芭蕉七部集」芭蕉(岩波文庫刊)中村俊定校注
29.「芭蕉」(新潮社刊)山本健吉著
30.「われもまたおくのほそ道」(日本放送出版協会刊)森敦著
31. 正訳「源氏物語」第六巻(勉誠出版刊)中野幸一著
32.「超越と実存」(「無常」をめるぐ仏教史)(新潮社刊)南直哉著
33. 小説「明恵」(上・下巻)栂尾高山寺秘話(弦書房刊)高瀬千図著
34. 正訳「源氏物語」第七巻(勉誠出版刊)中野幸一著
35. 正訳「源氏物語」第八巻(勉誠出版刊)中野幸一著
●正訳「紫式部日記」(勉誠出版刊)中野幸一著
36.「吉野弘詩集」(ハルキ文庫刊)
37.「三島由紀夫ふたつの謎」(集英社新書刊)大澤真幸著
38. 正訳「源氏物語」第九巻(勉誠出版刊)中野幸一著
39. 正訳「源氏物語」第十巻(勉誠出版刊)中野幸一著
40. 小説「月」(角川書店刊)辺見庸著
41. 詩集「天国と、とてつもない暇」(小学館刊)最果タヒ著
42.「ある家族の会話」(白水ブックス刊)ナタリア・ギンズブルク著(須賀敦子訳)
43.「大拙」(講談社刊)安藤礼二著
44.「エチカ スピノザ」(NHKテキスト刊)國分功一郎著
45.「人生百景 松山足羽の世界」(本阿弥書店刊)遠藤若狭男著
46. 詩集「川を遡るすべての鮭に」(土曜美術出版販売刊)加藤思何理著
47.「ビッグ・クエスション」(NHK出版刊)スティーヴン・ホーキング著
48.「銀の匙」(岩波文庫刊)中勘助著
49.「あれは誰を呼ぶ声」(アーツアンドクラフツ刊)小嵐九八郎
50.「この道」(新潮社刊)古井由吉著
51.「明治の青春」猪股忠著

「本」のないセイカツは、(私)には考えられない。コトバのないセイカツ(沈黙していてもコトバはある)も(私)には考えられない。思考するためだ。
「読書」は、日常生活と思考生活の両車輪のひとつである。おそらく、いつも、ココロの歩行をしていたいのだと思う。足で遠くまで行かなくても、ココロの深みへと歩いて行きたいのだ。
すべての「本」を捨てて、「本」から遠く離れて生きたいと、実行している人、友人もいる。しかし、考えてみると「本」はコトバの宇宙である。「宇宙」も一冊の「本」(テキスト)である。文字、声以外のコトバを放っている(宇宙)である。
感じたり、意識したり、考えたりする(私)は、いわゆる「本」に頼るか、「宇宙」(存在のテキスト)に頼るかして、生きている。
あらゆる存在は、コトバを放っている。いや、「存在」はコトバであるから、生きている限り、コトバからは離れなれない。
「本」を捨てて生きる人も、結局は「宇宙」という「本」(テキスト)の中を漂っている。
ニンゲンは何処に生きている?もちろん、存在が置かれた場所であるが、同時に、ココロの位相にも生きている。
異なる時代、異なる場所にいる人とも共時的に生きることができる。「読書」の最高の快楽はそれである。
現在の(私)は年間30~50冊が「読書量」の限界である。体力・気力がいつまで続くかわからない。今回も、「本」を読んで、思った感想を自由に書き記してみた。

1.10.19.20.21.31.34.35.38.39.「源氏物語」
千年の時を超えて、なお、読み継がれる、日本の小説の最高峰『源氏物語』
21世紀、原文で読める人は少ない。で、幾人もの文人、作家たちが、古文を現代文へと翻訳して、一般の、普通の読者の道標となった。与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、瀬戸内寂聴・・・等々。

中野幸一は、国文学者である。研究者である。作家たちの、現代語訳の長所も短所も見極めた上で、「本文対照の正訳」として『源氏物語』全十巻を上梓した。「正訳」が鍵ワードである。時代考証はもちろん、史料、文献の考察から「本文」=「物語」の本質を、口語で語ってみせた。
私は、学生時代、中野幸一先生から『枕草子』の講義を受けた生徒である。作家・川端康成から新進気鋭の国文学者として、その論文を認められた、講師であった。(残念ながら、中野先生の『源氏物語』の講義はなかった)

80歳の喜寿のお祝いの時、先生は、もう、自分は完了してしまったニンゲンとして、周囲から扱われていると思い、それで終わってたまるかと、『源氏物語』の口語訳に挑戦して、全十巻を、約4年の年月をかけて、完訳した。見事な仕事である。正しく「老人力」の勝利である。
大学を卒業して、50年経って、現在『正訳・源氏物語』を愉しんでいる。感謝である。
先生、ありがとうございました。

2.「空海教学の真髄」
『意識と本質』で、井筒俊彦は、「存在はコトバである」と語った。村上保壽は『空海からの「ことば」の世界』で、空海の書いた「ことば」は、いわゆる社会的な言葉ではなく、大自然の存在の、如来の「ことば」であると、「言葉」と「ことば」を区別した。
つまり、空海は「行」の人であって、悟った心境を「ことば」で語った、思考の人・宗教者であると、単なる天才・空海論を否定してみせた。
さて『空海教学の真髄』は真言密教の教学・教義を膨大な空海の著作の中から選んで「十巻章」と名付けたものである。
三部書『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』はもちろん、空海の重要な著作はすべて含まれている。ただひとつ、龍樹の『菩堤心論』が含まれている。空海の思想に最も大きな影響を与えた書である。いや、空海の思想の(核)となったものである。

東北大学で、哲学を学んだ村上が、真言密教・空海の世界へと舵を切り、西洋哲学を捨てて、密教の教学と「行」に生き、ついに、伝燈阿闇梨まで至った生きざまは、現代人にとって「僧」とは何者か、「信仰」とは何か、宗教者空海は、現代を生きるニンゲンに、何を与えてくれるのか、身をもって示してくれる本書である。

3.「幻色江戸ごよみ」
流行作家の、エンターテイナーの小説類は、ほとんど、読むことがない。もちろんミステリイも読まない。今回、はじめて宮部みゆきの、短編集を読んでみた。
大学の旧友が、突然、難病で急死した。国文学者であった。その旧友の奥様が、実は、「朗読会」の案内をくれた。で、テキストが「幻色江戸ごよみ」だった。(千葉・市原市にて)
宮部みゆきの、物語作者として、言語感覚に触れた。藤沢周平同様、一言半句に、プロの眼と腕を感じた。

4.「須賀敦子の本棚」
死後20年たっても、なお、愛読されている、須賀敦子の文体の力。「コトバ」を生きた、須賀敦子の生涯が見えてくる一冊。

5.「石牟礼道子」(さようなら 不知火海の言魂)
ニンゲンの根源から流れてくる言葉の世界を掬いあげた人。小説・思想・ふつうのニンゲンが突然かかえてしまった「難問」に正面からむかいあった、共に生き、コトバ化した石牟礼道子。言葉にならぬコトバを、よくぞ書き切ったものだ。力業である。そのコトバが消えるはずがない。正に(言魂)である。

6.「新約聖書」ヨハネの黙示録 訳と注解
ニンゲンおそるべし。ニンゲンの仕事は、こんな高みまで昇りつめることができる!!
共時性を感じるコトバ。イエス・キリストが生きた時代の息吹きが、鮮やかに甦る、そして現代にも圧倒的な力で迫ってくる。田川建三の思想の集大成。とにかく、本文は、もちろん、「訳と注解」が、ニンゲンの眼を開き、ココロを一番深いところまで導いてくれる。稿を起こして十数年、何万枚にものぼる原稿、おそらく、(現世)は消えて田川建三は、イエスと共に、考え、語り、生き、古代を現代に変えて、(信仰)の位相に生きていたのだろう。感謝である。

7.「日の名残り」
大学のOB会にて「読書会」のテキストに使用。ノーベル賞記念版でも読んでみた。(作家・村上春樹のエッセー付き)

8.9.
とうとう「全共闘」運動も「歴史」になった。50年!!一昔である。もう語ってもいいだろう。長い間、ココロの深処に秘めていたことを、(私)のコトバで語ってみる。
いったい、あれは、私にとって、何だったのだろう?そして、その結果、私の(生)は、どのような道程になってしまったのか?本気でモノを考えはじめた、自面の青年が、そのように(社会)に立ちむかったのか?革命はどうなったのか?そして、古希を過ぎた現在は?世界は?自己否定、権力、安保、天皇制、ベトナム戦争、革命・・・。東大全共闘を、日大全共闘を本気で闘った二人の回想録である。
歩いてみなければ見えない。生きてみなければわからない。過剰な青春という時を、全共闘という、普通の学生が、何を闘い、何を喪い、何を得たのか、人生の検証が、今、行われている。

11. 句集「をどり字」
第一句集「天来の独楽」は、理のコトバに生きる井口時男が、日々の心情や思いを「俳句」という五・七・五という定型の芸術に身をゆだねた、新鮮な驚きをもたらした「本」であった。
当然、第二句集は、その深化にある。「をどり字」と銘打った俳句。井口時男が敬愛する、詩人・石原吉郎も、晩年には、自由散文詩から、短歌へ、俳句へとコトバの裾野をひろげてみせた。俳句の言葉も、最後は、存在のコトバへと、突き進むのであろうか?私の気に入った俳句を、二つ、三つ頭の中に、いや声として、ココロの深部に刻み込み暗誦してみる。
「多摩川に無神の自裁雪しきり降る」 

12.「森田進詩集」
牧師詩人。14歳で洗礼を受ける。66歳で神学の大学に入る。そして牧師に。当然にも、詩と信仰が、森の作品の(核)である。信仰は美学を排除するか、合一するか?「剣玉」は、それを象徴する作品。

「詩と思想」の総集長としての森田さんから、何回か、作品の依頼を受けた。何かの会合で、立ち話をした。ある日、突然、訃報を聴いた。詩集「野兎半島」は、森田進を代表する詩集。合掌。

13.「えみしのくにがたり」
まだ、あの大地震・大津波・原発事故の3・11に、それに均り合うコトバを与えた作品には出会ったことがない。いや、3・11を表現することは不可能かもしれない。なぜ?
3・11は、コトバの外部に厳として存在している大事件だから。コトバを喪った作家、詩人はたくさんいる。意識は、ゼロ・ポイントに落ちた。しかし、ニンゲンは、なんとしても、3・11を語ろうとする。
「えみしのくにがたり」は、古事記、日本書紀、旧約聖書のコトバを現代に再生させて、祝詞会はコトバの世界を創出した詩集である。
コトバの異化作用である。詩のタイトルからして「水蛙子の神に戦を防ぐ為に戻り出でますことを請ひ願ふ詞」である。東北の「えみしのくに」のヒトの声が聞こえてくる新鋭の詩集。

14.「星を産んだ日」
十七年間の出来事が詩となった。父の死と新しい生命の考察。円環するニンゲンの生命。仏教的な輪廻の匂いはしない。もっと、垂直に流れる。(血)の匂いがする。(赤い一本の流れ)結ぼれである。あちことに(狂)があふれている。このエネルギーは、いったい、何であろうか?破壊の後のカタルシス?

15.「オウム真理教の精神史」
宗教とはいったい何だろう?ニンゲンだけが(宗教)に目覚めた。さまざまな悲しみ、苦しみ、貧しさ、不幸から救われるもの?いや、人それぞれか?自力であれ、他力であれ、カミ・ホトケに救われるという宗教。もちろん、無神論者もいる。

麻原彰晃・オウム真理教の教祖。本人は、自分を「最終解脱者」と称した。(日本では、私は悟ったという僧侶はいない)出家して、オウムの信者となった青年たち(東大、京大、早稲田、慶応と一流大学の卒業生・・・医師、弁護士・・・知識人たち・・・)
なぜ、彼等は、オウムに入信したのか?なぜ、大量殺人事件(サリン)を起こしてしまったのか?
新進気鋭の学者や研究者たちが、なぜ麻原のオウム(教義や修法)を支援したのか?
大田俊寛は若き宗教学者である。オウム事件によって、失墜した(宗教学)学問の修復を図る。キリスト教(グノーシス主義)の研究者。「ロマン主義・全体主義・原理主義)の視点から論じる力作である。

17.「文字渦」
「文字」について文字で書かれた文字が主人公の小説(?)である。円城塔の頭の中は、いったい、どうなっているのだろうと、「文字」で書かれた小説を読むたびに不思議に思う。(スリル満点の探求譚)一瞬にして「文字」が飛ぶ。とんでもない時空に・
「文字」をめぐる12の短篇から成る。本文のコトバ「真言ラジオ」「「アミダ・ドライブ」「浄土テクノロジー」なんという名付け方、発想の妙、小説は、なんでもありの自由な器であるが、円城の手にかかると「宗教=仏教」世界までが、刷新されて、思わず、笑ってしまう。実は、高笑いしているのは、作者の円城塔自身ではないか。博識で、変化自在の円城ワールド。川端康成文学賞受賞も、なんだか、おかしい?(笑)

18.「ユング心理学と仏教」
フロイドよりもユングが好きである。ゆえに、河合隼雄の著作に魅かれる。「昔話」や「明恵」はユング研究者・河合隼雄の読み込みに、思わず、唸ってしまった。本書でも、「牧牛図と錬金術」は、禅の世界とユングの世界が見事に通底している。

22.「須賀敦子さんへ贈る花束」
北原千代(H氏賞受賞)による、敬愛する作家・須賀敦子に捧げる13の花束(エッセイ)である。
モノに、ヒトに、コトに、コトバに、実に、ていねいにあたる人柄が、エッセイの各所にあらわれていて、ココロが自然に開かれていく。論評や探求のコトバではなく、須賀の自由な、強度の整った文体に触れて、自然にココロの深処から湧きあがる感慨を、自分のコトバのリズムで綴っていくエッセイ。
北原の個人誌詩「ばらいろ爪」に十二回にわたって連載されたものに、書き下ろし一篇を含めたエッセイ集。見知らぬ須賀敦子を求めて、その生涯を、作品に添って、ていねいに読み解いていく。誰の為でもない。自分のココロの滋養となる読書であり、感想であり、生きられるコトバの世界の発見の書である。

23.「蜩の記」24.「川のあかり」
縁があって、二冊ほど読んでみた。なんでも読む、新しい作家を探すのが趣味の、大学時代の旧友、文学仲間が大阪から電話してきた。
「ええ文体もった作家やでえ。若いもんはかなわんわ。まあ、読んでみ、時代小説やけどな」
「藤沢周平みたいなかい?」
「ちがうな、九州が舞台や、江戸時代かな。推理小説みたいで、まあ、気晴らしになる」
なるほど、簡潔な文体で、風景描写からはじめる物語は、一気に読めた。テーマは?幽閑であり、その日々であり、武士の生きる姿であり(死)であった。

大原富枝の名作「腕という女」を思い出させる作品であった。限られた生命を生きる蜩にニンゲンの幽閑された短い生を重ね合わせている。
唯一、気になったのは、会話の文である。江戸時代、九州が舞台であるが、方言ではなく、現代の標準語が使われているために。(ところどころに九州弁あり)時代や風土の匂いが立ち上がってこない。

25.「映画『夜と霧』とホロコースト」
フランクルの「夜と霧」(本)は、魂を震撼させられた一冊であった。映画化された「夜と霧」(ドキュメント)は、高校時代、田舎の映画館で観た。ドイツ軍・ナチスによる、ユダヤ人のホロコースト。強制収容所でのドキュメント映画。
本書は、ホロコーストの実態を、アラン・レネ監督がドキュメンタリー映画としてまとめたものの世界への影響とその波紋を、国別にまとめたものである。

長編小説「百年の歩行」を書くために、資料として、毎日少しづつ読んでいる。

26.27.28.29.30
大学のOBによる「読書会」で芭蕉の「おくのほそ道」をテキストに使うために、少し、まとめて、芭蕉の作品、俳句、関連の評論などをまとめて読んでみた。(40年以上前に読んだ作品の再読である。芭蕉おそるべし。新鮮な発見が、コトバの中から立ちあがってくる。(不易流行か)
放浪の作家・森敦は『月山』で芥川賞を受賞。すでに、還暦を越えていた。時の人となった森敦は、NHKに促されて、四国八十八ヶ所を歩いて、おくのほそ道を歩いて、放映の後、「本」にまとめている。
森敦の若き日の深い教養(読書)が、真言宗に、俳句にむけられて、なるほど、名作『月山』の背景にはこんな思想が隠されていたのかと思わず、納得。

32.「超越と実存」
お寺の子が、僧侶になるのが普通の時代である。なぜ?現代の僧侶たちは大半が結婚をするから。お寺の子。「僧侶」が職業になってしまった!!昔は、僧侶は、妻帯しなかった。世を棄てて、出家をして、独り、悟りを求めて、修行をする。そして、衆生を救う僧となった。
南直哉は、お寺の子ではない。普通の家の子である。大学を出た。就職をした。会社を辞めた。出家をした。真理を求めるために、悟りを開くために、衆生を救うために、出家をしたのではない。成仏や悟りを求めなくて、なぜ、南直哉は、出家の道、僧侶の道へと門をくぐったのか?
一、死とはなにか
一、私が私である根拠は何か
この二つの疑問を解くために、南直哉は、僧侶となった。(なるほど、会社勤めでは解けず)そして、道元のコトバに出会う(正法眼蔵)浄土をも信じない僧侶、三十余年の修行を経て、「無常」をめぐる仏教史を書いた。(釈尊から道元まで)
八年間、真言宗・空海を修行した(私)にとって、本書は、現代の(僧侶)のひとつのあり方として、深く感動させられた「本」である。感謝を。

36.「吉野弘詩集」
詩とはいったい何だろう?詩人とはいったい何者だろう?吉野弘の詩を読みながら、そんな素朴な、根源的な問いが起ちあたってきた。イメージで、発想一発で、感性で書いた詩は、一瞬、新鮮で、驚きがあるが、いつのまにか、古びてしまう。セイカツの中にとけ込んで、(私)と一体と化したコトバ、詩は、地味だが、とても長持ちする。なぜか?
(私)が生きた(生)であるから。(私)が生きられた時空のことだから。
そして、個人的なものが、いつのまにか伝染して(他人のココロに)普通になる。藤沢周平、城山三郎、そして秋山駿のコトバ。簡単で、深く、根源的で、しかも力強い。
① I was born ② 祝婚歌 ③ 夕焼け
どれも自分自身の(生)の、セイカツの一番深いところから起ちあがってきたコトバである。
詩など読まない人でも、耳から聴くと、深く、なるほどと頷いてしまう詩。誰も読まなくなった現代詩への吉野弘の意識的抵抗・実践の詩。

37.「三島由紀夫ふたつの謎」
「社会学者」というものが(私)にはよくわからない。医師、弁護士、詩人、作家、評論家。明確なイメージを結ぶものと、いつまでたってもよくわからない存在者。大澤真幸は、社会学者である。「キリスト教」について、「仏教」について、「文学」について、論じたり書いたり、その幅広さには驚きもするが、いつも、何者、あなたは?と思う。
さて、三島由紀夫が、割腹自殺(1970年11月25日)した日から、もう約半世紀の時間が流れようとしている。早稲田大学のキャンパスで、三島由紀夫が自衛隊に突入のニュースを聴いて、友人と、市ヶ谷まで駆けだした日のことが、まるで、昨日の出来事のように思い出させる。(あの声、あの叫び声)「思想でも人は死ぬ」
さて、三島由紀夫の思想とは?大澤真幸は、六歳で、三島由紀夫の切腹事件を知り、十六歳で『金閣寺』を読んで衝撃を受け、天才・創造者の謎に立ちむかうことになる。
「仮面の告白」「金閣寺」「豊饒の海」の主作品の分析、読み解きから、「太陽と鉄」(私が一番好きな作品)まで、社会学者の大澤真幸が挑む。三島由紀夫のイデアと行動の謎に迫る力作。(大澤の決着のつけ方が面白い)

40.「月」
小説「月」は、さまざまな鍛えられた五つの文体によって書かれた辺見庸の代表作になるだろう。三島由紀夫の「金閣寺」に相当する。(書評で詳しく論じてみる)

41. 詩集「天国と、とてつもない暇」
コトバが詩である。コトバが詩を書いてしまう。(私)が書くのではなくて、無限回転する宇宙の風景とカーテンの揺れる部屋が同時に、共時的に存在する。
「だれも本当は死なないのです」(蜂の絶滅)「ぼくの体とともに、宇宙を、回転している」(100歳)「何も知らないからこそ詩が書けるかもしれない」(あとがき)
最果タヒの詩は、いつも、解けない謎にむかっている。だから、面白い。

42.「ある家族の会話」
訳者は、文章家の須賀敦子である。イタリアに留学し、イタリアの男性と結婚し、死別、帰国して、大学の講師。教授となり、イタリアを中心としたエッセイを書き綴った名・文章家である。(没約20年)
須賀は、ナタリア・ギンズブルクの小説を読み、震撼させられて、翻訳し、私も文章が書けると、目覚めた人である。須賀は、ナタリアの小説、文章から何かを発見し、何を学び、何を得たのだろうか?そんな思いで、本書を読んでみた。

日本の私小説に似た、ナタリア本人の家族の物語である。島崎藤村の「家」(小説)のように。しかし、徹底している。小説のまえがきで、ナタリアは断言する。場所、出来事、人物はすべて現実に存在したものである、と。人名もありのままである。まるで、ノン・フィクションノベルである。ただ一点、私自身のことは、ほとんど書いていない。語り手にて徹している。あくまでも、イタリアの、その時代の、自分の(家族)の物語である。家族の一人一人が放ったコトバが中心になる。ナチスの、ムッソリーニのファシズムの嵐が吹きすさぶ時代である。
おそらく、自由な、語り口の、コトバの息が、コトバの息吹きが、存在としてのコトバが、須賀の全身に浴びせられたのだろう。
(私)という光源を通じて、こんなにも生き生きと、ニンゲンが活動する世界が描ける。(私)を無にすれば・・・。須賀が、小説ではなく、(事実)を中心にしてエッセイ(じじつ)を書くに至った大きな理由が、この小説にはある。

33.「明恵」
作家が、詩人が、イエス・キリストや釈尊や高名な宗教者・空海、親鸞、日蓮、最澄、道元を小説化すると、必ず大きく躓いてしまう。ポイントは(信仰)の、(悟り)の深さであり、行(修法)の実践である。
洗礼を受けた者、出家して、得度した者であっても、作家は作家である。どうしても、(文学・芸術)の道と宗教の道には、矛盾が横たわる。しかし、それでも、作家は、宗教者をモデルにして、小説を書きたい、書く、書いた。司馬遼太郎の「空海の風景」高村薫の「空海」立松和平の「道元」五木寛之の「親鸞」と遠藤周作の「沈黙」等々。私は、宗教小説として、最高の作品は、ベトナム出身のディック・ナット・ハン師による「ブッダ」だと思っている。
さて、高瀬千図氏は、20年の歳月をかけて、歴史小説「明恵」上下巻、約2000枚を書き終えた。ほとんどニンゲンの半生をかけて、挑戦した大作である。

鎌倉時代の僧侶。両親をなくして仏門に。京都・高山寺・故郷の和歌山で修行する。華厳宗の中興の祖。華厳宗と真言宗の融合の祖。生涯、見た夢を「夢記」として記録した、孤高の僧。心理学者・河合俊雄の「明恵」夢分析がある。

高瀬氏は、著作・史料の読み込み、得度して、修行に入り、(教学)と(事相)から、明恵の信仰と実践に迫る。「唯識」も「三密」も、容易に体得できるものではない。何度か、もう、私には書けないと断念したという。当然、仏教の深みに、躓いただろう。

約半年間かけて読了した。立派な仕事だと思う。「衆生救済」と瞑想による「意識の変革」が、明恵の旗印であった。「人は人のあるべきように生きる」明恵の有名なコトバである。

改めて、本の扉を見ると、「文学の師、森敦先生と人生の師、原田正純先生の御霊にこの著作を捧げます」とある。なるほど、あの「月山」の作者、森敦が、文学の師、手本であったか。

私事。八年間、高野山大学大学院にて、「密教・仏教・空海」を修学したが、得度もせず、灌頂も受けず、行にも励まぬ学生では、とても「空海」は書けない。断念。実践なしに宗教はなしである。

43.「大拙」
折口信夫の研究者・そして文芸評論家だと思っていた、安藤礼二が、知の巨人・鈴木大拙に挑んだ力作である。
「日本的霊性」(岩波文庫)と「禅とは何か」しか読んでない鈴木大拙であるが、安藤礼二の大きなプログロムに添って通読した。出家・得度した僧でもない(?)鈴木大拙が、いったいどのようにして禅を修得し、アメリカにまで「ゼン」を広げる人物に成長したのか?私の興味はそんなところにあった。(大拙は居土として、在野で仏教を、禅を修行した、僧ではない)

「インド」にはじまり「芸術」に至る全八章の中で、当然にも、圧巻は第六章の「華厳」と第七章の「禅」である。

盟友、西田幾太郎との思想交流は、西洋の、デカルト・カント・スピノザの哲学に対して、華厳経の「四法界」(事事無礙法界)つまりは、東洋の仏教思想を対峙させて、それぞれが、新しい、オリジナルの思想の樹立へと邁進する様は(知)の火花が散る場面である。

論考の中心は、なんと言っても「禅」である。「禅」の探求と、その実践なくしては鈴木大拙は語れない。思想の(核)だ。同じ頃、禅僧の南直哉の「超越と実存」を読んでいたので、(道元・曹洞宗)大拙の禅との比較ができて、とても面白かった。
(ちなみに、研究者・安藤礼二氏は禅を実践しているのであろうか?)

それにしても、大拙の人間関係・研究対象の拡がりは、そうして、その影響は、音楽家・ジョン・ケージにまで至るとは。文芸評論家とばかり思っていた安藤礼二が、いつのまにか、宗教研究者になっていた。安藤さん、文献学者だけではなく、たまには、瞑想もしているのかなあ。(呟き)
「大拙」は大変勉強になりました。お礼。

44.「エチカ スピノザ」
青年時代の読書は①デカルト ②パスカル ③スピノザの順番であった。(私は考える、だから私がある)・・・つまり、(私とは何か)という問いの前に立ちすくんでいた。そして、足許に、宇宙の深淵を見るパスカルに移った。(人間は考える葦である)パスカルのアフォリズムにココロが騒いだ。そして、スピノザの世界へ。

レンズ磨きの職人が、宇宙について神について考察する。その考察の手法に魅かれた。その「外部世界」宗教の神のいない世界・汎神的世界。宇宙そのもののスピノザ宇宙。

45.「人生百景 松山足羽の世界」
私の文学の友、旧友の俳句・俳人論。福井・若狭を故郷とする遠藤若狭男が、同郷の先達・俳人・松山足羽を論じた著書。

俳人が俳句を論じる。俳人が(他の)俳人を語る。当然にも、そこには、自らの俳句観が現れる。
昨年の暮れの12月に「喪」のハガキをもらった。遠藤若狭男死す。ガン。難病。もうすぐまた一年が来る。否、まだ9月か。
声。遠藤の声が聞きたいと思い「人生百景」を入手。
俳句集・五冊は、いつも贈ってくれた。評論集は、専門的すぎると思ったのか?いただいていなかった。インターネットを使って、妻に、買ってもらう。

俳誌(川)に、平成22年4月から平成28年3月まで連載したもの。28年9月刊。そういえば、何か、大きな賞をもらったと、年賀状に書いてあった。(俳句の世界には不案内で)

「石鹸玉人生百景すぐ消ゆる」(この)本のタイトル「人生百景」のモト。
「春寒や妻を着替人形に」
「つくつくぼうしつくつくぼうし愛の欲し」
「高雲雀長病み妻は声が出ぬ出ぬ」
言霊論あり、俳句の文体論あり、第二芸術論の否定あり、人生探求派の人生あり・・・あの静かな男・遠藤若狭男が「俳句に芸術」を求める、希求する声が響きわたっている。「本物の俳人」松山足羽への温かいオマージュである。

46. 詩集「川を遡るすべての鮭に」
「分野」を超えるコトバの交配師である。詩、小説、アフォリズム、作中劇、対話、Q&Aと、コトバの垣根を、壁を崩して、破壊してしまう、快楽のエクリチュールが疾走する「本(テキスト)」である。
凡庸な、日常の断片が、衰弱したコトバで書かれる詩が大半の現在、夢を、エロスを、少年愛を、自由自在に書き尽くす、ポップな文体が生み出す、快楽と笑いと探求のテキスト宇宙は、実に瑞々しい、生命の球体である。
日本の、湿った「私性」の匂いがどこにもない。私が想ったのは、ブルトン・ブランショ、クロソフスキー、ロートレアモン、そして、バタイユである。
誰もが見ているはずのものが、誰もが知っているはずのものが、具象が、コトバによって抽象となって、結晶する世界。加藤ワールドである。加藤は、さまざまなコトバを、シャッフルして、その幻種を交配してみせる。単なる写実はつまならい。ここにあるものから、思うものへと昇華しなければ、(詩)ではない。(「熱いフライパンの上のバター」が最高)
自由なコトバの交配は、疾走する透明で、ポップな文体にある。
読者は、これが「詩」か?「小説」かと悩む必要がない。加藤が放ったコトバに、ゆっくりと身をゆだねてみる、そこには、まだ、名前のないものたちが、新しく名付けられる世界が顕現している。

47.「ビッグ・クエスション」
アインシュタインに次ぐ、100年に一人の天才。ホーキング博士。
(神)の存在。(宇宙)のはじまり。(未来)の予言。(ブラックホール)の正体。(タイムトラベル)の可能性は?(地球外知的生命)の存在。(AI)はニンゲンを超える。いったい、宇宙において、ニンゲンに何が出来るか?
宇宙で、意識をもち、自己発見し、世界を発見し、AIを創り出した人類の不思議。
ニンゲンよりも能力が高くなってしまうAIの進化。自己増殖し自己進化し、あらゆる点においてニンゲンの能力を超えてしまうAI。はたして、ニンゲンに、コントロールできるか?不可能ならば、ニンゲンは、AIのもとで生きる生物になってしまう。
原発の爆発事故で、ニンゲンは、まだ、放射能をコントロールできないと判明したー大事故・大事件。同じように、AIも、膨大な記憶と判断力で、ニンゲンを超えてしまう。ニンゲンをコントロールするAI。ホーキングは、(AI)に対する(法)が必要だ、と警告している。
DNAの自然進化ではなくて、AIは、おそろしいスピードで自己進化する存在者になる可能性がある。作り出したのは、ニンゲンの手だ。
時空に果てがない。時間に境界がない。
(私)たちニンゲンは、他の宇宙をみることはない。
ニンゲンは、ほんのひととき、宇宙での生命をたのしんでいるだけの存在か?
想像力と思考実験。ビッグ・クエスチョンに胸おどらせる人もいれば、眼の前の快楽に、日々を楽しむ人もいる。(200億年後のビッグ・クランチは関係ないと)
ニンゲンは、好奇心の塊りである。スティーヴン・ホーキング亡き後も、誰かが、ビッグ・クエスチョンを考え続けなければならない。ホーキング博士、ありがとう!!

48.「銀の匙」
岩波文庫のロングセラーである。文庫本では、漱石の「こころ」と同じくらい、売れ続けている。中勘助の名前を知らない人もいるのに。市民のための「読者会」で、テキストに選び、読んでもらった。
20代、30代の方でも感動する作品であった。

49.「あれは誰を呼ぶ声」
内省と自己検証の時代に入った。何が?全共闘世代が。60年代の後半から70年代の半ばにかけて、全国の学園に吹きあれた学生運動に主体的に係わった若者たちが、もう古希に達して、自らの青春にかかげた夢と志と半世紀を生きのびた現実との相克を、語りはじめた。
小嵐九八郎のこの小説の舞台も、70年前後の、政治の時代である。二人の政治青年(早大生と日大生)と北海道から上京して、看護婦か保母になるための学校に通う女性の、三人の視点から描かれている。
羽田闘争、国際反戦デー、ベトナム戦争反対運動、東大・日大闘争、新宿騒乱事件、70年安保闘争、成田空港反対闘争、内ゲバ・連合赤軍事件、爆弾闘争(三菱重工爆破)あげれば切がないほどの事件や闘争が、ひとつの絵巻きもののように、小説に刻み込まれている。普通のどこにでもいる青年が、政治活動のセクトに入って、混沌とした時代を、思想を身につけ、行動し、時代の波を全身に受けて、流されていく。
三島由紀夫の割腹自殺、川端康成のガス自殺、野坂や五木の文学と、あらゆる風俗や事件が匂いたつように描かれる。そして、セクトの政治活動に疑問を抱き、脱退して、農業に生きる男と女になる。時代の空気がプンプン匂ってくる小説である。主人公たちは、決して、本気で革命のビジョンを抱き、政治活動をしたのではない。共産主義をの国をつくるとか、天皇制を廃止するとか、国のかたちを変えるとか、存在や意識の変容をめざすとか。
政治の季節が終わったのは、浅間での連合赤軍の事件や内ゲバの連続で、いわゆる、全共闘の普通の学生たちが”政治”から身を引き、企業戦士となりはじめた頃である。
三島由紀夫が最も嫌った”日常”何事も起きず、ただ、日々が流れ去る”日常”のセイカツに、青年立ちが重心を移しはじめたからだ。主人公と女性の農業によるセイカツがどうなったのか、残念ながら、この小説には書いていない。願わくば、ドストエフスキーの「悪霊」の政治青年たちのような思想を深化させる人物を、一人くらいは登場させてもらいたかった。存在革命を語る青年とか。
おそらく、この小説は、小嵐九八郎自身の、内省と人生の検証の総括であろう。

50.「この道」
おそらく、古井由吉・日本の小説家として最高の文体を確立した作家だと思う。”内向の世代”と呼ばれた作家たちの代表である。”政治”とは、ほぼ、無縁の小説。日常の不思議、存在そのものの不思議を、これほど見事に抽出してくれる作家は他にない。”思想”は文体の中にしかない。誰が書いているのか、エッセイか小説か随筆か、分野も見分けがたいコトバが、ひとつの意識という光源から放たれて、まるで、コトバ自体が生きもののように自己増殖していく小説である。古井さんには、もう、いわゆる小説を書く意識さえないようにも見える。しかし思わぬ告白の一行がひそんでいる。「自身、墓というものを持たぬことに定めている」と。心境の探化と徹底がある。まるで、小説かエッセイか評論かわからない。三島由紀夫の作品「太陽と鉄」を読んだ時と同じような、ココロの一番深いところにあるものに触れているコトバの感触がある。
小説のタイトルは「この道」である。古井由吉の「生」が、ある一点にむけて、静かに歩行している。(死)がひそんでいる。語り得ぬものへコトバがにじり寄っていく。もう、これ以上は、不可能だという地点まで。初期作品「円陣を組む女たち」や「杳子・妻隠」から愛読してきた古井由吉の作品である。まだ、誰も、到達したことのない、比類のない文体に触れて、ある種の感慨を禁じ得ない。古井さん、長生きして、コトバを私たちに下さい。

51.「明治の青春」
ヒトは、なぜ、「本」を書くという奇妙な衝動に身を委ねるのだろうか?声を他人に投げかけるため?いや、内なるもう一人の自分に語るため?形にならぬものに「本」という宇宙の形を与えるため?
猪股忠は、旧友である。大学の文学仲間である。同人誌「あくた」のメンバーであった。
まだ何者でもない、過剰な意識をかかえた青年たちが集って、同人誌「あくた」が歩みはじめた。文学青年、哲学青年、政治青年がいた。13号まで続いた「あくた」に、猪股忠は三つの作品を発表している。
①詩「古いノートから」(室生犀星風な抒情詩)(第三号)
②「『刺青』論考」(谷崎潤一郎論)力作80枚(第五号)
③小説「さい果て」中篇(第六号)
猪股忠は、東北・秋田の出身である。ショーペンハウエルやヤスパースやサルトルの哲学を読み、伊藤整の小説の方法論を読み、北国の孤独な抒情詩を書く、「文学青年」であった。早稲田大学で国文学を学ぶ。大学卒業後は、山形県の教員試験に合格して、約四十年、山形県内の高校教師(国語・古文)として、停年まで勤めあげた。
教師としてセイカツしてきた猪股忠が青春の原点に戻って、書いた作品が「明治の青春」である。(晩学のすすめ)
藤原正を中心軸として、山形出身の斎藤茂吉、阿部次郎、そして、一高の仲間たち、藤村操、安倍能成、岩波茂雄、魚住影雄の七人の「青春時代」を論じている。
本書は、644ページの大作である。猪股は、著書、資料、文献に細かく目を通して、七人の青春群像を描き出した。歌人、哲学者、経営者、教師と、大きな仕事をした者たちのまだ何者でもなかった「青春」の日々、交流、思索、苦悩、自殺(藤村操)と、もがき、あがくニンゲンの実像が浮かびあがってくる、労作である。
猪股は、自らの夢を、七人の夢に重ね合わせて、自らのココロを検証したかったのかもしれぬ。ドストエフスキーの小説の主人公は大半が「青年」である。何者かわからない、何を考えているかわからない、何をするかわからない。怪物のような存在「青年」である。
若き日の猪股の夢は①学問に縁のある職業につくこと ②自費出版でもいいから、一生に一冊は本を出したい、であった。
五年も七年もかけた、「本」が完成した。これが、猪股忠の「本」である。もう一人の猪股忠の貌が「本」の中にある。正に、夢は叶うものではなく、叶えるものである。
なお、本書は、発行者が猪股忠の自宅になっている。関心のある方は以下の住所に連絡して、購入し、じっくりと読んで、楽しんでいただきたい。
〒993-0075 山形県長井市成田3067-2 TEL・FAX:0238-84-6119 「猪股忠」宛
定価2,800円

Author:
• 月曜日, 6月 11th, 2018

1.「苦海浄土」(河出書房新社刊)石牟礼道子著
2.「評伝 石牟礼道子-渚に立つひと」(新潮社刊)米本浩二著
3.「天災から日本史を読みなおす」(中公新書刊)磯田道史著
4.「刺青・性・死」(逆光の日本美)(講談社学術文庫刊)松田修著
5.「夫・車谷長吉」(文藝春秋社刊)高橋順子著
6.「仏教思想のゼロポイント」(悟りとは何か)(新潮社刊)魚川祐司著
7.「小説における反復」(作品社刊)坂井真弥著
8. 詩集「グッドモーニング」(新潮文庫刊)最果タヒ著
9. 詩集「空が分裂する」(新潮文庫刊)最果タヒ著
10. 詩集「死んでしまう系のぼくらに」(リトルモア刊)最果タヒ著
11. 詩集「夜空はいつでも最高密度の青色だ」(リトルモア刊)最果タヒ著
12.「開高健の文学世界」(アルファベータブック刊)吉岡栄一著
13.「芥川追想」(岩波文庫刊)石割透著
14.「輝ける闇」(新潮社刊)開高健著
15.「夏の闇」(新潮社刊)開高健著
16.「花終る闇」(新潮社刊)開高健著
17.「日の名残り」(ハヤカワ文庫刊)カズオ・イシグロ著
18.「遠い山なみの光」(ハヤカワ文庫刊)カズオ・イシグロ著
19.「浮世の画家」(ハヤカワ文庫刊)カズオ・イシグロ著
20.「わたしを離さないで」(ハヤカワ文庫刊)カズオ・イシグロ著
21.「忘れられた巨人」(ハヤカワ文庫刊)カズオ・イシグロ著
22.「浮虜記」(新潮文庫刊)大岡昇平著
23.「野火」(新潮文庫刊)大岡昇平著
24. 詩集「絶景ノート」(思潮社刊)岡本啓著
25.「永山則夫の罪と罰」(コールサック社刊)井口時男著
26. 詩集「愛の縫い目はここ」(リトルモア刊)最果タヒ著
27.「数学する身体」(新潮社刊)森田真生著
28.「文部科学省は解体せよ」(扶桑社刊)有元秀文著
29.「わたしたちが孤児だったころ」(ハヤカワ文庫刊)カズオ・イシグロ著
30.「夜想曲集」(ハヤカワ文庫刊)カズオ・イシグロ著
31~37.「須賀敦子全集」第2巻~第8巻(河出文庫)
38.「千年後の百人一首」(リトルモア刊)最果タヒ+清川あさみ著
39.「道の向こうの道」(新潮社刊)森内俊雄著

「読書」にもいろいあって、体力と時間とココロの用意がなければ、読めない「本」がある。作者自身が、生命がけで、ココロを叩き割られながら、書いている「本」がそれである。
意識が、はじき飛ばされてしまい、ココロは作品の色に染めぬかれて(出口なし)の状態になる。長い間『苦海浄土』を避けてきた。

①②偶然、米本浩二著『評伝 石牟礼道子-渚に立つひと』を読んだ。石牟礼道子その人を追った労作であった。その「本」に導かれて、『苦海浄土』に挑戦している。超大作である。一息ついては、休み、休んでは読み、石牟礼道子の世界に入っている。まだ、先は、長い。

③『天災から日本史を読みなおす』司馬遼太郎の次に、(歴史)を読み込んでいると言われている人、磯田道史。磯田の祖母が、徳島県牟岐町の出身と知る。徳島出身の私も(三つ隣の町)地震・津波に悩まされてきた昔話をよく聴いた。磯田の読み込みが面白い。

④『刺青・性・死』谷崎潤一郎の小説『刺青』は、美人の肌に刺青を刻む男の話である。彫師は、日本では、異端の仕事である?刺青は芸術か?美は異端の美か?私の甥(弟の長男)が、彫師になった。「刺青」とは何か?その歴史を知りたかった。

⑤『夫・車谷長吉』車谷の『四国八十八ヶ所感情巡礼』を「図書新聞」で書評をした。車谷本人が会社を尋ねて来たという。お礼のためか?さて、本書は、詩人でもある妻、高橋順子が夫・車谷を回想したものである。小説家と詩人の夫婦。そのなれそめから、夫の病い、お遍路、不意の死までを、ていねいに語っている。
島尾敏雄、ミホ夫妻にどこか似ている。夫が病気に、妻が病気にのちがいはあるが。

⑥『仏教の思想のゼロポイント』魚川祐司は、僧侶ではない。従って、どの宗派にも属していない。東大で、インド哲学・仏教学を専攻している。ミャンマーに渡って、5年間、テーラーワーダ仏教の教理と実践を修学している。
<釈尊>によりそって、日本仏教は、なぜ悟れないのか、と考察している。立場が、自由だから、<釈尊>のコトバにそって、語ってくれる。日本の仏教とは?と疑問をかかえる人はたくさんいる。<釈尊に帰れ!!>という書でもある。

⑦『小説における反復』「文芸賞」を受賞した作家の、最後の小説である。偶然作者の知人から頼まれて、感想を5枚ほど書いて、本人に送った。ていねいな礼状が届いた。数か月後に、坂井さんは逝ってしまった。
日々の、仕事、ニンゲンの「反復」する行為がテーマであった。横光利一、椎名鱗三、黒井千次等の「仕事」を継ぐ労作であった。
(後日、知人から、重田さん、いいコトバをありがとう、坂井の冥途へのいい土産になりましたと電話あり)

⑧⑨⑩⑪㉖㊳ 天才ランボーの詩、天才ル・クレジオの小説を思わせる詩人の登場である。<詩>が読まれない、日本の現代。コトバが、数万人の人に読まれている詩人である。そのコトバの自由度が、とても高く広い。ひとつの才能である。特に『千年後の百人一首』には驚愕した。単なる「百人一首」の解釈や注釈ではない。古代の、時代の(情景)や(意(ココロ))を最果の光のコトバが、現代の風景の中に顕現させるのだ。(和歌)の五七五七七が、自由な散文詩となっている。見事である。古代のコトバによる情景もココロも捨てずに、しかも、革新されたコトバで新しいリアリティをもって、世界を出現させる。正に(最果タヒワールド)である。
清川あさみの百の絵が、実に素晴らしい。コトバと絵のコラボレーションが、一体化している。

⑫⑭⑮⑯「稲門会」の読書会。開高健の世界を読む。テキスト『輝ける闇』
行動の人、食の人、釣りの人、そして何よりも「文体」を生命とした作家である。<純文学>の作家でも、「文体」らしきものを持たない者が多い現在、開高健を再読すると、眼が洗われる。一言半句に、開高健の審美眼がキラリと光る。しかし、同時に「文体」を持つ者は、追いつめられて、文章が書けなくなる。「闇」の三部作の『花終る闇』では矢は尽き、刃は折れて、苦闘する開高の姿が見えてくる。

⑰⑱⑲⑳㉑㉙㉚ カズオ・イシグロの世界へ。5歳で長崎からイギリスへ。主題は<記憶>である。
一作一作、場所も時代も変えているが、<文体>は変わらない。5年に一作しか書かない。(日本では、食べていけないだろうが)全世界で、読まれている。
<記憶>ニンゲンのアイデンティティを追求する姿勢が、読者の共感を呼ぶのだろう。<物語>モノカタリの人である。実によく取材し、観察し、熟考し、リアルを感じさせる<文体>を創出している。
<日本>と<イギリス>「と」がポイントである。「と」の深淵。

㉒㉓ 市民の「読書会」のテキストである。(春と秋に、市民の方たちにむけた「読書会」があって、私は、講師をしている)
『浮虜記』と『野火』第一次戦後派、ニンゲンの根源的テーマを小説にした。野間宏、武田泰淳、堀田善衛、椎名鱗三、埴谷雄高、梅崎春生・・・等々。
(戦争という事実)と(小説の創造力)

㉔『絶景ノート』中原中也賞とH氏賞をW受賞した詩人の第二詩集である。おそらく、現代詩の最前線の、若手の詩集であろう。
<旅>が舞台である。<日常>からのタビ。熊野へ。タイ・ミャンマー・ラオス・カンボジア・ベトナム。五感が捉える、風景、ヒト、コト、モノ、時間、空間、コトバが疾走する!!
疾走?少しだけ、吉増剛造さんのコトバの影響があり、しかし、そこから、自らの新しい地平へと、伸びるコトバがあって、確かに「ノート」のコトバになっている。「ノート」のコトバは秋山駿。着地できる「日常」はあるのだろうか?コトバは「日常」を生きられるのだろうか?

㉕『永山則夫の罪と罰』井口の30年にわたる<永山則夫>へのこだわりを、どのように考えればいいのだろうか?30年間、井口が書いてきた永山則夫論の集大成。コトバとニンゲン論でもある。(犯罪)の秘処を探っていいるのではない。あくまで、永山則夫が書いたコトバを徹々的に文学的に、考察している。
なぜ?ヒトは、コトバで起ち、コトバで生きる動物である。コトバを知らず、私のコトバを持てない貧困のうちにある者は、どうやって、(私)を表現する?井口は、あきらかに、自分の中にいる、もう一人の永山則夫を、凝視している。”私”も永山則夫であったかもしれないと。

㉗ コトバに生きる人=文学者。色と線に生きる人=画家。数・数学に生きる人=数学者。
『数学する身体』コトバは不思議だ。数はもっと不思議だ。宇宙を表現する、数、数式、E=mc2。算数から超数学まで。

<数>が、古代から、ニンゲンを魅惑してきた。大学の先生ではなく(独立研究者)として生きる、数学者・森田真生。手本は(岡潔)である。農耕と数学と念仏三昧の日々を生きた天才である(岡潔)。存在、在ることの不思議と発見から<数学>がやってくる!!
(コトバ)と(数学)何にせよ、驚きのないところに発見はない。だから、野に(私)を放つ。普通の日常に(私)を放つ、ただ、宇宙に在る!!と。

㉘『文部科学省は解体せよ』タイトルは、実に、過激であるが、読んでみると、ていねいな<教育論>である。
文部省は、小学生から、英語を学ばせる計画である。有元は断言する。ニンゲンとして生きるためには、英語ではなく、母語=日本語で、深く、思考できるように育てることが第一だと。
中学校、高校でも、生きた英語を教えられる教師がいないのに、英語教育のいろはも教わっていない、小学校の先生方が、どうやって、生徒に(英語)を教えられるのか?有元は、高校教師を経て、文部省に入る。アメリカで開発された読書による国語の指導法「ブッククラブ」を調査・改良して、日本で普及されている。いわば(考えるニンゲン)づくりをめざしている。教育者なら、一度は、読んで、耳を傾けてもらいたい「本」である。

㉛~㊲ ココロが渇いている時、良質のコトバを読みたいと思う。ていねいに、ていねいに人生を生きた人の声を聴きたいと思う。なかなか、そんな極上のコトバには出会わないが。
『トリエステの坂道』に、偶然出会った。どのエッセイも、読後には必ず、涼風が身体の中を吹きぬけた。実に、見事な文体の結晶があった。思わず、「須賀敦子全集」を購入した。熟読した。唸った。いったい、須賀敦子とは何者だ・・・と。
ココロの皺が眼に見える。他人への眼差し、仕事への熱情、文学、詩へのオマージュ、底に流れる宗教者としての息づかい・・・。イタリアでの生活、翻訳、結婚、労働、夫との死別、日本への帰郷・・・。日記、手紙、詩、翻訳、そして、見事な随筆。
疲れた時、神経が尖った時、ココロが渇いた時、須賀のコトバを、聖水のように呑む。たった7~8年の作品であるが、(全集八巻)は、一人のニンゲンの発見に至る愉楽がある。

㊴『道の向こうの道』森内俊雄、実に、なつかしい名前である。私の学生時代、新進気鋭の小説家であった。実にユニークな感性、不思議な物語。
25歳の時、小説『風の貌』を上梓した私は、敬愛する森内俊雄に読んでもらいたくて、手紙を出した。新潮社の別館で、カンズメになって、小説を書かされていた。閑かな一軒家で、庭が見える部屋でお会いした。机の上には、原稿用紙とペンと十字架があった。何度も芥川賞の候補になったが、どういう訳か?受賞できなかった!!(李恢成は受賞したのに、ロシア文学の同級生)
その森内俊雄が、八十代をむかえた。”純文学”で、生涯を貫いた作家である。作品に登場する場所、地名、喫茶店、酒場、食堂、すべてがなつかしい。早稲田の先輩でもある。(詩人であった!!知らなかった)(俳句を詠むのは知っていたが)
内向の世代(古井由吉、後藤明生、宮原昭夫、阿部昭)の一人であった。
森内さん、何時か、お目にかかりたいですね。もう、書くものすべてが、作品です。お元気で。ご健筆を!!

Author:
• 月曜日, 4月 17th, 2017

1.「戦争は女の顔をしていない」(岩波書店刊)スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著(三浦みどり訳)
2.「井筒俊彦全集」第12巻アラビア語入門(慶応義塾大学出版会刊)
3.「流」(講談社刊)東山彰良著
4.「淵上毛錢詩集」(石風社刊)前山光則編
5.「時間」(岩波現代文庫刊)堀田善衛著
6.「パウル・ツェラン詩文集」(白水社刊)飯吉光夫編・訳
7. 詩集「聖地サンディアゴへの道」(土曜美術社出版販売刊)富田和夫著
8.「武満徹・音楽創造への旅」(文藝春秋社刊)立花隆著
9.「我が詩的自伝」(講談社現代新書)吉増剛造著
10.「クレーの日記」(新潮社刊)南原実訳
11.「破船」(新潮文庫刊)吉村昭著
12.「星への旅」(新著文庫刊)吉村昭著
13.「関東大震災」(新潮文庫刊)吉村昭著
14.「戦艦武蔵」(新潮文庫刊)吉村昭著
15.「三陸海岸大津波」(文春文庫刊)吉村昭著
16. 詩集「怪物君」(みすず書房刊)吉増剛造著
17. GOZOノート②「航海日誌」(慶応義塾大学出版会刊)吉増剛造著
18. GOZOノート①「コジキの思想」(慶応義塾大学出版会刊)吉増剛造著
19. GOZOノート③「わたしは映画だ」(慶応義塾大学出版会刊)吉増剛造著
20.「心に刺青をするように」(藤原書房刊)吉増剛造著
21.「重力の虹」上・下(新潮社刊)トマス・ピンチョン著(佐藤良明訳)
22.「井筒俊彦全集」別巻(未発表原稿他)(慶應義塾大学出版会刊)
23.「真理の探求」(仏教と宇宙物理学者との対話)(玄冬社新書刊)佐々木閑・大栗博司著
24.「その島のひとたちは、ひとの話をきかない」(青土社刊)森川すいめい著
25.「中論」上・中・下(第三文明社刊)龍樹著(三枝充恵訳)
26.「鉄格子のはめられた窓」(ルートヴィヒ二世の悲劇)(論創社刊)クラウス・マン著(森川俊夫訳)
27.「生き心地の良い町」(講談社刊)岡壇著
28.「在りし、在らまほしかり三島由紀夫」(平凡社刊)高橋睦郎著
29.「般若心経・金剛般若径」(岩波文庫刊)中村光・紀野一義訳注
30.「炸裂」(河出書房新社刊)閻連科イエン・クエンマー著
31. 詩集「真珠川Barroco」(思潮社刊)北原千代著

1.「戦争は女の顔をしていない」
トルーマンカポーティの『冷血』は、事件を追いながら、同時に(事実)を積み重ねて書くという、衝撃的な、ノンフィクション・ノベルの最高峰となった。この作品『戦争は女の顔をしていない』も、従軍女性記者が、戦争の中の、女たちを取材して、(事実)を書き記したものである。(ソ連の従軍女性たちの声を発掘)した稀有な作品。ノーベル賞受賞作家のデビュー作。ベラルーシ出身。 

2. 語学の天才、数十カ国語を話した、井筒俊彦のアラビア語入門。単なる語学の本ではなく、アラビア思想も語ってくれた。

3.「流」台湾出身。九州に棲む。直木賞受賞作品。
スリル満点の読みもの。日常生活の、細部を描く作家が多い現代に、大きな「物語」を語ることができる作家の出現であった。

4.「淵上毛錢詩集」
小さなコトバの中に、熊本の方言の中になんとも言えぬ、人間味があふれる詩集である。肉声が詩の中に響きわたる詩人である。

5.「時間」
『広場の孤独』や『方丈記私記』や『ゴヤ』で知られた、戦後派の作家である。『時間』は、中国人の視点から描かれた「南京事件」が主題である。解説は、作家辺見庸氏。「歴史と人間存在の本質を問うた戦後文学の金字塔」

6.「パウル・ツェラン詩文集」
「20世紀ドイツ最高の詩人。旧ルーマニア領、現ウクライナ共和国で、ユダヤ人の両親のもとに生まれる。ドイツ語を母語として育つ。」「言語」しか信ずるものがない、絶望の淵で、詩作を続けた。コトバがそのまま、モノとコトになっている。精神病を患って、セーヌ川に投身自殺。ニンゲンの、最後の拠りどころ、コトバを生きた人。

7.「聖地サンディアゴへの道」
語学学者による詩集である。温和な人柄がそのまま、ゆったりとした詩風をつくりだしている。

8.「武満徹・音楽創造への旅」
思想の人・立花隆が、こんなにも、音楽に精通しているとは、驚きであった。武満徹をライブで聴き、感動し、音楽を学び、分析し、ロングインタビューを試みた「本」である。武満徹も立花隆を信用して、徴に入り、細に入り、語りつくし、立花は、武満の音楽創造の秘密に迫り、終に、ニンゲン武満徹を、見事に浮かびあがらせている。

9.16.17.18.19.20
詩人のM氏と二人で、東京都近代美術館で催された「吉増剛造展」を観に行った。(聴きに行った)詩人の個展?いったい何があるのだろう?吉増独自の写真、記録ビデオ、絵のような、詩の文字、銅版画、吉本隆明・中上健次の原稿、(声)を集めたカセットテープ(数百本?)もう、これ以上観ると、聴くと、神経が破れる、と会場を後にした。50年前、吉増の「黄金」詩篇に感動して、憑かれたように、吉増剛造の世界を読んできた。「吃る人」「分裂している人」「閉じ込もる人」「叫ぶ人」現代の、唯一人の生きる(詩人)であろう。文学には、詩には、独自の、ニンゲン宇宙があると、証明してくれる稀有な詩人である。

10.「クレーの日記」
『ゴッホの手紙』は、長い間、私の枕頭の書であった。ヒトが生きるとはどういうことか?仕事とは何か?ニンゲンとは何か?そんな声が響いてくる。「クレーの日記」も、「ゴッホの手紙」に匹敵する「本」であった。あの絵画の背後に、こんな、コトバがあったのか、と、クレーを見直した。

11.12.13.14.15
市民の為の「読書会」を頼まれて、『破船』が、テキストとして選ばれた。これを機会に、吉村作品を読んでみた。いわゆる「純文学」から「戦記物」へと舵を切った、吉村作品、『三陸海岸大津波』は、3・11があった為か、非常に、魅力された作品であった。

21. 世界の深甚徴妙で超難解な小説といえば、
①ドストエフスキーの四大長編
②ジェームス・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』
③埴谷雄高の『死霊』
そこに、第四の作品が加わった。トマス・ピンチョンの大作、『重力の虹』である。「読解不能」であって「猥褻」とされる、2900枚の超問題作。佐藤良明が、翻訳に七年を要した。

22.「井筒俊彦全集」
最終巻。3~4年、井筒俊彦を読み込んできた。空海以来の、語学の天才であろう。思想は、日本を超えて、世界的である。感謝と!!

23.「真理の探求」
仏教学者と宇宙物理学者との対話である。(仏教)も、また、時代とともに、その受容と解釈が変わる。

24.27
私の故郷の徳島県、海部郡、海陽町が、二人の学者にとりあげられた。「海部町が日本で一番、自殺率が低い」という理由で。(私の故郷はお隣りの宍喰町ー合併)

25.「中論」
第二の仏陀と呼ばれる龍樹(ナーガルジュナ)の主著である。仏教学者中村元が、50年間『中論』の研究をしている。(『空の論理』)「空」と「縁起」と「中道」。仏教ー日本の八宗の祖である龍樹。その思想は、深甚微妙であって、一読、二読でわかるようなものではない。読破したよろこびが、今、私にある。

26.「鉄格子にはめられた窓」
トーマスマンの息子の小説である。偉大な父をもって、父と同じ仕事をする者の、困難と悲劇。(自殺)

28.「在りし、在らまほしかり三島由紀夫」
三島由紀夫に、詩を認められて、三島が自殺するまで、親交のあった、詩人による三島論である。学者、評論家には、わからない、生身の三島由紀夫が、語られていてとても、スリリングな本である。

29.「般若心経・金剛般若経」
日本人には、一番よく知られているお経、(一番短かい)「般若心経」いろいろな解釈がある。「空海」さんにも、「般若心経秘鍵」がある。

30.「炸裂」
ノーベル賞に、もっとも近いといわれている、中国人の作家の長編小説。骨太な文体で、奇怪な世界を出現させる。

31.「真珠川・Barroco」
十年ほど前、見知らぬひとから、一冊の詩集が贈られてきた。(『ローカル列車を待ちながら』)二十年も、詩を書くのを止めていたこと。夫の転勤でドイツで生活したこと。更に転勤で、徳島へ。(徳島)は私の故郷である。何かの縁だと思って、感想をお送りした。オルガンを弾いて、詩を書くひと。今年のH氏賞受賞者が「北原千代」さんだと、日経新聞で知った。第四詩集であった。おめでたいことである。(詩集については、私のホームページの書評欄に書かせてもらった) 

Author:
• 金曜日, 3月 18th, 2016

1. 小説「ブッダ」(いにしえの道 白い雲)(春秋社刊) テイク・ナット・ハン著
2. 句集「流砂」(ふらんす堂刊) 光部美千代著
3. 「ブッダの幸せの瞑想」(サンガ刊)  テイク・ナット・ハン著
4. 「死もなく、怖れもなく」 (春秋社刊) テイク・ナット・ハン著
5. 「幽霊の真理」(水声社刊) 荒川修作・小林康夫 対談集
6. 「絶歌」(大田出版刊) 元少年A著
7. 「空海はいかにして空海となったか」(角川選書刊) 竹内孝善著
8. 「江分利満氏の優雅な生活」(新潮文庫刊) 山口瞳著 (再読)
9. 「説話集の世界①②巻」(古代・中世)(勉強社刊)
10. 「中世説話の世界を読む」(岩波書店刊) 小峯利明著
11. 「日本古典文学と仏教」(筑摩書房刊) 石田瑞磨著
12. 「電車道」(新潮社刊) 磯崎憲一郎著
13. 「東京発遠野物語行」(論創社刊) 井出彰著
14. 「井筒俊彦全集」(第11巻-意味の構造)(慶応義塾大学出版会刊)
15. 「仏教文学概説」(和泉書院刊) 黒田彰・黒田彰子著
16. 「新約聖書」(作品社刊) 訳と注 田川建三訳著
17. 「倫理とは何か」(ちくま学芸文庫刊) 永井均著
18. 「科学者は戦争で何をしたか」(集英社新書刊) 盛川敏英著
19. 「犬の力を知っていますか?」(毎日新聞出版) 池田晶子著
20. 「生きて帰ってきた男」(岩波新書刊) 小熊英二著
21. 「天来の独楽」 (深夜叢書刊) 井口時男句集
22. 「詩の読み方」(笠間書院刊) 小川和佑近現代詩史
23. 「空海」(新潮社刊) 高村薫著
24. 「イエス伝」(中央公論新社刊) 若松英輔著
25. 「1★9★3★7(イクミナ)」(金曜日刊) 辺見庸著
26. 「生きた 臥た 書いた」(弦書房刊) 前山光則著
27. 「証言と抒情」~詩人石原吉郎と私たち~(白水社刊) 野村喜和夫著

還暦を過ぎると、急に、眼が弱くなって、文字を追う読書が辛くなる。なにもかも読む訳にはいかない。よく生きた人の、その人自身のコトバとなっている「本」だけに絞り込んで、読書をする。
若い時の読書は、知への衝動であるが、老いた時の読書は”愉楽”である。

1. 「ブッダ」
仏教の開祖、ブッダの生涯を語る物語である。
研究者、学者、作家、おびただしい「本」が、ブッダについて、書かれている。どの本も、一長一短があって、なかなか、完璧なブッダ伝はない。
①資料文献を読み込んでいる
②仏教の実践者である(信心)
③詩心(文体)をもっている
結局、①②③を兼ね備えた人がいなかった。で、どこかに、不満が残る。テイク・ナット・ハン師は、①②③を身につけた人である。物語の瑞々しさ、仏教思想、修行法まで、一切が、表現の中にある。宗教がテーマの最高の小説であった。

2. 句集「流砂」
古武士のような、評論家・井口時男のエッセイで、光部美千代という俳人を知った。俳句が、ここまで、ニンゲンそのものを表現できるのか?と感嘆した。
特に、病死する直前の、俳句は、無限遠点から、降りてきたコトバが、生きものとなって、光部美千代の内部で、ふるえていた!!

5. 「幽霊の真理」
天才であった荒川修作が逝って、もう、何年になるのだろうか?対談者の小林康夫は、アラカワの謎へ、呼び水となるコトバを投げる。実にスリリングな対談集(天命反転)

6. 「絶歌」
元少年Aの「本」
人は、コトバで生きる。少年Aは、誰にも見せず、自らのコトバを、ノオトに書き記すべきであった。存在そのものを支えるノオトのコトバで。(ラスコールニコフの老いたコトバで、ムイシュキンのコトバで)(失望した)

12. 「電車道」
一行よ、起ちあがれ!!迷宮へと歩行する磯崎の小説は、一行一行が、発見であり、スリルあふれる小説世界であった。
しかし、今回の小説は、(説明)の文章が、リアリティを剥ぎ落としていた。残念。設計図なしに、建築をする磯崎の手法が、今回は、空廻りしている。
なぜだろう?百年の時間の流れが、感じられない。

13. 「東京発遠野物語行」
(遠野物語)の研究者。評論ではない。(遠野)とは何か?何処か?作者・井出彰の内部にあるニンゲンにとっての(遠野)が描かれた「本」。

18. 「科学者は戦争で何をしたか」
ノーベル賞を受賞した、科学者益川敏英の、3・11「原発事故」に対する、怒りと警告の書である。
ニンゲンは、科学で、宇宙をどうにかできるのか?政治化へ、軍事化へと、利用され続ける「科学」である。「ニンゲンと科学」を、再考するメッセージが熱い。
科学者の良心が書かせた「本」。

19. 「犬の力を知っていますか?」
池田晶子の「本」は、ほとんど読んできた。いつも、池田の、思索するコトバの波に乗って、時熟する読書の時を楽しんできた。
今回の新刊も、かつて、読んだエッセイばかりであったが、読む度に、作者の声=コトバが、私の中に、響きわたる。
もう、池田晶子が死んで、10年にもなろうとしている。

21. 「天来の独楽」
不思議な縁で、井口時男の評論(秋山駿)を読んだ。そして、俳句を読みに至った。「評論」の文章よりも、俳句の方に、井口時男の肉声を感じた。論理を超えたところにあるコトバが、私の直感を刺したのだろう。
大病の後、光部美千代と共に生きた、俳句の時が、井口時男の中に、甦ってきたのか?
モノそのものになる俳句 コトバそのものになる俳句 ヒトが俳句になる!!
ごろた石のぬくみなつかし河原菊
追悼秋山駿の句がうれしい!!

22. 「詩の読み方」
小川和佑は、私の「小説」の発見者である。はじめて、公的な、書評誌で、私の「風の貌」を読み解いてくれた人である。詩と小説が、両方ともわかる評論家であった。
本書は、ご子息の靖彦君が亡父の生誕八十五年の日に、編んだもの。萩原朔太郎にはじまって、堀辰雄、立原道造、伊東静雄・・・吉本隆明まで14人の近・現代詩人の詩が読み解かれている。

23. 「空海」
宗教に縁がなかった高村薫がはじめて、宗教と宗教者・空海に立ちむかった。
なぜか?(しかも、秘められた宗教-密教に、空海に)
高村は、神戸、淡路大震災を体験している。そして、3・11の、大地震、大津波、原発事故の後、ニンゲンの”知”や”科学”や”論理”の破壊と限界を経験し、それらを超えたものを、考えはじめる。
そこに”密教”があり”空海”がいた。
名著「空海の風景」の著者、司馬遼太郎は、空海の著作はもちろん、研究書、評論とおびただしい文献を読み込んでニンゲン空海の姿を、浮かびあがらせた。
(理)の人である。
高村は、空海の神秘体験(室戸岬の洞窟にて、瞑想する空海の口に、明星と飛び込んできた-宗教体験(入我我入)から、空海へと歩きはじめる(事)の人である。
宗教は、教学(経典)と事相(修行体験)から成る。論理、理性・悟性・思考を超えた世界へ。
高村は「空海」の世界と「弘法大師」の世界へ。ふたりの空海の発見へ。法身・大日如来の語る、コトバの世界へと、歩いていく。
「本書」は、科学的(真)から宗教的(真)へと、跳ぶ、作家高村薫の、大きな挑戦の書であった。いわば、良心の書である。書き終えたところから、高村は、実践の場、秘められた、密教そのものへむかわねばなるまい。

24. 「イエス伝」
幼き日より、イエスのコトバと共に生きてきた若松は、教会の外へ信仰心のない人へ、イエスのコトバを開いていく。
『井筒俊彦・叡知の哲学』を書きあげた若松にとって、イエスのコトバ、マホメットのコトバ、ブッダのコトバは「存在はコトバである」という井筒の哲学へと、昇華されていくのだろう。ここには、21世紀の人間が、宗教に立ちむかう、ひとつの姿勢が、提示されている。

26. 「生きた 臥た 書いた」
淵上毛錢の詩と生涯を、前山光則が書き切った。詩、小説等は、読者がいて、評者がいて、研究者がいて、何よりも「伝記作家」がいなければ、生き延びることができない。
ほとんど無名の「淵上毛錢」という詩人は、生誕百年にして、前山光則という作家の手によって、新らしい生命を吹き込まれ、甦った。
私自身、前山のエッセイ等で、詩人の存在を知った。詩のコトバは、簡単で、平易で、誰にでも読めるものだが、広くて、深くて、実に、あじわいがある。病人で夭折した詩人であるが、結婚して、子供が出来て、病いの中にも、生命力、ユーモア(機知)があり、深き笑いの中に、なんとも言えない、ニンゲンの形姿が浮かびあがってくる「本」である。

27. 「証言と抒情」
詩人、野村喜和夫による「石原吉郎論」である。最後最大の詩人(コトバの力)である、と、私は、信じている。
レヴィナスの思想「イリヤ」とパウル・ツェランの詩を石原吉郎の「詩」に対峙させることで、シベリアのラーゲリーから、海を渡って帰国した、単独者の思想を論じている。
ニンゲンというモノが壊れてしまう体験をした石原が、対話の為に、他人と通じる為に、詩というコトバを、書きはじめる。(ニンゲンの形を求めて)
「位置」が「事実」が「条件」が「納得」が、こんなにも、固有の、石原吉郎だけのコトバになった例を知らない。コトバは誰にもどこへもとどかなかったのではない!!読む人の、心臓に、刺さっている。

Author:
• 月曜日, 8月 17th, 2015

1~8
「井筒俊彦全集」(慶應義塾大学出版会刊)
・第二巻「神秘哲学」
・第三巻「ロシア的人間」
・第五巻「存在顕現の形而上学」
・第六巻「意識と本質」
・第七巻「イスラーム文化」
・第八巻「意味の深みへ」
・第九巻「コスモスとアンチコスモス」
・第十巻「意識の形而上学」
9~15
「大乗仏典」(中公文庫)
・第一巻「般若部経典」
・第二巻「八千頌般若経」 1巻
・第三巻「八千頌般若経」 2巻
・第八巻「十地経」
・第十二巻「如来蔵系経典」
・第十四巻「龍樹論集」
・第十五巻「世親論集」
16. 「『ボヴァリー夫人』論」(筑摩書房) 蓮實重彦著 804ページ、定価6400円 2000枚書き下ろし
17. 「折口信夫」(講談社刊) 安藤礼二著 533ページ、定価3700円
18. 「若山牧水への旅」(弦書房刊) 前山光則著
19. 「古事記」(河出書房新社刊) 「日本文学全集01」 池澤夏樹訳
20. 「危機と闘争」(作品社刊) 井口時男著
21. 「暴力的な現在」(作品社刊) 井口時男著
22. 「親鸞」既往は咎めず(松柏社刊) 佐藤洋二郎著
23. 「『サル化』する人間社会」(集英社刊) 山極寿一著
24. 「まともな日本語を教えない勘違いだらけの国語教育」(合同出版刊) 有元秀文著
25. 「あずらちゃん大ピンチ!」(創英社刊) 中津川丹著
26. 「宇治拾遺物語」(新潮日本古典集成) 大島建彦校注
27. 「発心集」(上・下)(角川ソフィア文庫刊) 鴨長明著
28. 「無名抄」(角川ソフィア文庫刊) 鴨長明著
29. 「日本霊異記」東洋文庫97(平凡社刊)
30. 「密教と説話文学」(高野山大学刊) 下西忠著
31. 「テイク・ナット・ハンとマインドフルネス」特集(サンガ刊)
32. 「沈黙を聴く」(幻戯書房刊) 秋山駿著
33. 「法然と親鸞の信仰」(上・下)(講談社学芸文庫刊) 倉田百三著(再読)

還暦を過ぎて、一人の思想家の全集を、隅から隅まで読む経験は、私にとって、ニンゲンの生涯を、一切を考えつくすという、体験でもある。
井筒俊彦が、単なる、言語学の専門の学者であるならば、そんな勇気は、湧きあがらなかっただろう。
「存在はコトバである」との断言の下には、(存在=言語=信仰)が、一人のニンゲンの中に、同時に、あって、古今東西の人類の(知)を自由自在に疾走する文章は、日本の思想家が達した、最高の(知慧)でもある。
二~三ヶ月に一度、配本される『井筒俊彦』全集は、現在十一巻。あと二回で、終わってしまう。
大きな、大きな、楽しみを与えてくれる「読書」である。

『空海』を読みたいと、はじめた、仏教の修学であるが、空海の著作には、その多くが、経典からの引用や原典に基いた思想が占めている。古代の漢文、中国の詩歌、現代人には、歯がたたぬ白文と、容易に、読み解ける著作ではない。
第一に、「大乗仏典」の知識がなければ、解釈すらできぬ。という訳で、「大乗仏典」を読みはじめた。
三島由紀夫や吉本隆明が『大乗仏典』を、読まねば、と、膨大な、仏典を購入しようとした、意欲と意味が、今更ながら、なるほどと、頷ける。
「インド仏教」「チベット仏教」「中国仏教」そして、日本の古代から中世、近世の仏教、学びはじめると、切りがない。

「『ボヴァリー夫人』論」と『折口信夫』は、大著である。
昔、蓮見重彦の『凡庸なる芸術家の肖像』(マクシム・デュ・カン論)を読んだ。辞典のように厚い本だった。二十枚ほどの、感想、手紙を書いたが、結局、出さずに終った!!
大きな感動の波が来た。しかし、なにしろ、読むのには、一年ほどかかりそうだ。
安藤礼二の『折口信夫』も、大著。気にいった章から、自由に読みはじめた。折口が書いたこと、考えたこと、生きたこと、あらゆるものに触手をのばして、おそらく、「折口」論の決定版をめざしたものであろう。

前山光則。文学の仲間?友達。熊本で高校の教師をしながら、島尾敏雄から山頭火、そして、今回は若山牧水を論じている。牧水の旅の跡を追って、歩き、追体験し、丁寧に、牧水を書きあげている。
若い頃から、地味だが、質実に、生活し、書き、考え、(文学)を手離さずに、生きてきた姿勢には、思わず、拍手を送りたくなる。世の中を下支えしているニンゲンである。

秋山駿の論考では、井口時男が第一人者であろう。
その井口の、中上健次、大江健三郎、村上春樹等の現代を代表する作家への評論である。
古武士のような、「生きること」と「書くこと」への姿勢を追求する考察には、「文学をする」井口の理由と存在が、同時に、開示されていて、好感を持った。

『親鸞』
三人の「親鸞」を読んだ。五木寛之の大河小説の親鸞。津本陽の宗教小説の親鸞。そして、佐藤洋二郎の私的親鸞。
五木寛之は、約40年にわたって「仏教」を修学している。その礎の上に立った、小説である。とにかく、面白い。技が光っている。スリルがある。人間・親鸞が実に魅力がある。風俗・風景・人物たちが、実に、生き生きとして、中世を活動している。
一番、信仰が深い(?)と思われる小説が、津本陽の小説であった。宗教の探求がある。
<宗教と文学>は、決定的に異なる。信仰の深さが、文学の深さではない。仏教は、文学を否定する。その仏教者を、主人公にする小説。『源氏物語』にも、浄土宗・仏教の匂いはあるが、宗教の探求の書ではない。

佐藤洋二郎も、宗教者を主人公とする小説を書く齢になったか、と感慨が深かった。腕力で文章を綴る、若き日の佐藤洋二郎を知っているから、今回の小説は注目した。
しかし、「親鸞」は、現れなかった。作者の思いと親鸞の思いが、入り混じっていて、親鸞その人ではなく、佐藤版・親鸞のように、読めてしまった。
(文学)と(宗教)考えることと信ずることの、明確な、意識化が未分化であった。

「サル化」する人間社会を読むと、人間も、特別な、生きものではない。「進化」の大きな、大きな力を、読みとれて、一呼吸。

「あずらちゃん大ピンチ!」
自分史である。三歳から十二歳まで。世界には、「トム・ソーヤの冒険」や「ハックルベリー・フィン」など、少年文学がある。日本にも、そういう小説が、現れないものか?
中津川丹は、はじめての、自分史で、日本の「トム・ソーヤの冒険」を書いた。小説にする必要がないほど、実生活自体が、数奇な運命に充ちている。
文体も的確で、リアリティがある。(蝶)を追う少年が、そのまま大人になった。戦争で父を失い、戦後を、祖父母と共に、生きる少年の、心情が、見事に結晶している。
小学校の国語の、副読本にしたい作品。NHKは、ドラマ化しないか?

日本の、中世の、書物を読む。小説、説話、日記、物語、随筆。日本文が、だんだんと、根付いて来て、日本文で思考する。作家、僧たちが現れてくる。中世の混沌と闇と光。

現代に、この人だと思える、僧、牧師、神父、宗教者はいないものかと、思っていた。
ベトナム出身の、テイク・ナット・ハン師(禅僧)が私のココロを捉えた。
やはり、寺院や教会の中ではなく、戦場から、実生活の、体験の中から、真の、宗教者は立ちあがるものだ。コトバと行動が、一人の人間の中で、直立している!!

時は、無常迅速に流れる。秋山駿がなくなって、もう、二年になろうとしている。
「沈黙を聴く」は、秋山駿が残した、最後の「本」である。死者と対話できる「本」だ。夢と現の間で、秋山駿と対話をした。
「秋山さん、音信を下さいよ」と念じていたら、深夜に「お別れの会」で流れた(ヴァイオリンの生演奏で)「中国地方の子守唄」が、ラジオから聴こえてきた。
死者との交信は、このように、実現される!!

Author:
• 金曜日, 7月 18th, 2014

1. 「空海素描」(高野山大学刊) 竹内孝善著
2. 「異邦人」(新潮文庫刊) カミュー著
3. 「カミュ論」(筑摩叢書刊) モーリス・ブランショ著
4. 「反抗的人間」(新潮社刊) カミュー全集
5. 「革命か反抗か」(講談社刊) カミュー=サルトル論争
6. 「ペスト」(新潮文庫刊) カミュー著
7. 「最澄と空海」(吉川弘文館刊) 佐伯有清著
8. 「空海と密教美術」(洋泉社刊) 竹内孝善・川辺秀美共著
9. 「空海」(吉川弘文館刊) 高木訷元著
10. 「あなただけの空海」(小学館刊) 立松和平・
竹内孝善共著
11. 「空海の本」(学研刊)
竹内孝善・竹内信夫共著
12. 「井筒俊彦全集」第一巻(アラビア哲学) (慶應義塾大学出版会刊)
13. 「昭和の貌」(弦書房刊) 写真:麦島勝 文:前山光則
14. 「新約聖書」訳と注「使徒列伝」
(作品社刊) 田川建三著
15. 「
新約聖書」訳と注「ヨハネ福音書」(作品社刊) 田川建三著
16. 「未明の闘争」(講談社刊) 保坂和志著
17. 「
明治の風、子規と鴎外」(イースト株式会社刊) 壬生洋二著
18. 「名作に見る比喩表現」
(イースト株式会社刊) 壬生洋二著
19. 「流星ひとつ」(新潮社刊) 沢木耕太郎著
20. 「晩年様式集」(講談社刊) 大江健三郎著
21. 「廃炉詩篇」(思潮社刊) 和合亮一著
22. 「宇宙が始まる前には何があったのか?」(文藝春秋社刊) ローレンス・クラウス著
23. 「サバイバル宗教論」(文春部書刊) 佐藤優著
24. 「禅仏教の哲学にむけて」(ぷねうま舎刊) 井筒俊彦著(野平宗弘訳)
25. 「『生』の日ばかり」(講談社刊) 秋山駿著
26. 「<世界史>の哲学」(講談社刊) 大澤真幸著
27. 「井筒俊彦全集」第四巻(慶應義塾大学出版会刊) 井筒俊彦著
28. 「地下室の手記」(旧:地下生活者の手記)(新潮社文庫刊) ドストエフスキー著 江川卓訳
29. 「江戸版 親父の小言」(大空社刊) 解説:小泉吉永

8月の眩暈に続いて、11月に、歩行が困難となった。
眼と耳と、肩と腰の筋肉の硬直。読めない、書けない、話せない、聞けない、歩けないの五重苦が来た。
読むと、眼の中で、活字が泳ぐ。見ると、映像が動いてしまう。大きな音、声は、耳が拒否する。考えがまとまらないので、上手く話せない、従って、書けない。散歩でもと思って歩くと、電信柱が右に左に揺れる。店に入ると、足がすくんで、光が乱反射して、歩けない。
ほとんど、死んでいる。コレは、重田昇ではない。何か、別の生きものだ。

身体からココロへと、症状が転移する。ウツになる。心身症状態である。
約半年間、「読書」ができなかった。六つの病院、九人の医師に診てもらったが、原因がわからない。疲労から過労へ。老化?ストレス?身体の不具合?
結局、終日、「呼吸法」と「瞑想」を行った。ココロと身体を、呼吸で、調整した。瞑想で、苦を解き放った。マッサージから、カイロプラティックへ。

5月に入って、ようやく、(普通)の状態が戻ってきた。杖をついて、歩く毎日から解放された。
やれやれ。
知識では、ココロの病いを知っていたが、自分の心身を通じては知らなかった。あらゆる能力が低下して、機能しなくなることは、ニンゲンにとって、恐怖である。
加齢による病いには、切りがない。ガン、心臓病、糖尿病、高血圧、脳卒中。そういう年齢になったということだ。

「空海」の資料を読みはじめて、もう、三年になる。結局、実践の伴わない、修学では、「空海」は現れない、わからないと解った。

「井筒俊彦全集」の刊行が始った。母校の慶應義塾出版会から。
単行本では読めない作品が、収録されるのがうれしい。全十三巻、ゆっくりと、味わいたい。

田川建三氏による「新約聖書」訳と注も、全六巻まで刊行された、あと二巻、生涯をかけた大仕事である。作品社の健闘をたたえたい。

「昭和の貌」 九州、熊本に生き、地域の文化、人物の変貌を撮り続けた、麦島勝氏による写真集。
どの写真からも、平凡な日常の風景からも、人々の表情からも(昭和)が立ち昇ってくる。貴重な記録である。
風の匂い、人々の表情、気配、どれをとっても、「昭和」である。
なお、文=解説は、前山光則氏。若き日の、文学青年の面影を知っている、私にとっては、忘れられぬ(文学)の友である。東京から、郷里の熊本に帰って、教師をしながら、地域の文化を書いている。

「名作に見る比喩表現」
壬生洋二・詩人。昔の文学仲間である。ブログで活躍。好エッセイを書いている。

「流星ひとつ」
自死した藤圭子と沢木耕太郎の対談。昔の、眠っていた原稿が、「本」となって、出版された。私の、学生時代に、藤圭子は、その時代の色を、歌ってくれた、ココロが共鳴する唯一の歌手であった。
「圭子の夢は夜ひらく」 「新宿の女」などなど・・・。
運命、宿命というコトバを身をもって、引き受け、歌にした、歌手であった。(合掌)

「宇宙が始まる前に何があったのか?」
宇宙論は、いつまでたっても、面白い。謎のまま終るのか、終に、ニンゲンがその正体を、見究めるのか、生きても、生きても、生きても、わからない、宇宙である。

「禅仏教の哲学にむけて」
井筒俊彦は、随分と、英語で論文を発表している。本書は、その英文を、他者が日本文に翻訳した書である。
井筒俊彦の(核)が、発見できる書である。

「『生』の日ばかり」
「死ぬ前に書くということ」 この本のタイトルは、編集者がつけたものである。秋山駿か、「『生』の日ばかり」で出版してもらいたかっただろう。時節を考えた、出版社がつけたタイトルである。
約40年、秋山駿を読んできた。お手紙をいただき、電話で話をし、酒を呑み、釣をして、対談、座談会までしてもらった恩人でもある。
「秋山駿」に対して、私のホームページで連載中の『コズミックダンスを踊りながら』で「鎮魂アフォリズム50作品<内部の人間>秋山駿に捧げる」を書いた。(2951~3000) 約600ページくらいの「本」になる予定である。

「江戸版親父の小言」は、江戸時代の寺子屋の教科書「往来物」の研究者、小泉吉永が発掘し、解説している。
小泉吉永は、学生時代に、神田の古本屋で、「往来物」を手にして、その魅力にとりつかれて、膨大な「往来物」を収集し、研究を続ける学者である。
縁があって、私が経営していた出版社で、優秀な、編集者として、働いてもらった男である。現在は、会社を辞めて、研究者として、活躍している。がんばれ、小泉吉永!!

(7月16日)

Author:
• 日曜日, 9月 22nd, 2013

1. 「abさんご」(文藝春秋刊) 黒田夏子著
2. 「道元」(創元社刊) 大谷哲夫著
3. 「書評紙と共に歩んだ五〇年」(論創社刊) 井出彰著
4. 「ざまくるう」(文芸社刊) 羽島あゆ子著
5. 「草窓のかたち」詩集(思潮社刊) 鈴木東海子著
6. 「原始仏教」(ちくま学芸文庫刊) 中村元著
7. 「新古今和歌集」上・下巻(角川ソフィア文庫刊) 久保田淳訳注
8. 「世界宗教史」全8巻(ちくま学芸文庫刊) ミルチア・エリアーデ著
9. 「哲学の起源」(岩波書店刊) 柄谷行人著
10. 「盤上の夜」(東京創元社刊) 宮内悠介著
11. 「読むことのアレゴリー」(岩波書店刊) ポール・ド・マン著 土田知則訳
12. 「ポール・ド・マン」(岩波書店刊) 土田知則著
13. 「空海の「ことば」の世界」(東方出版刊) 村上保壽著
14. 「哲学とは何か」(河出文庫刊) ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ著
15. 「宗教と宗教の<あいだ>」(風媒社刊) 南山宗教文化研究所編
16. 「スピノザ」(平凡社刊) ジル・ドゥルーズ著
17. 「聖書考古学」(中公新書刊) 長谷川修一著
18. 「空海の智の構造」(東方出版刊) 村上保壽著
19. 「清沢満之集」(岩波文庫刊) 安冨信哉編
20. 「はじめたばかりの浄土真宗」(角川ソフィア文庫刊) 内田樹・釈徹宗共著
21. 「対象喪失」(中公新書刊) 小比木啓吾著
22. 「シシリー・リンダース」ホスピス運動の創始者(日本看護協会出版会刊) シャーリー・ドゥブレイ著
23. 「旅鞄」(角川書店刊) 遠藤若狭男句集
24. 「永遠の空腹」(コールサック社刊) 松木高直詩集
25. 「方丈記」(岩波文庫刊) 鴨長明
26. 「昭和三十年代演習」(岩波書店刊) 関川夏央著
27. 「徒然草」(岩波文庫刊) 吉田兼好著

今年の夏は、60余年生きてきた人生においても、記憶にないほどの、暑さであった。
夏の光と熱が、容赦なく、植物と動物に降り注いだ。
地球温暖化とは言え、真夏日が二ヶ月も続くと、食欲はもちろん、あらゆる生に対する意欲が落ちてしまう。
不眠の夜が続く。熱中症で死者まで出る。
いつもの、朝・夕の散歩まで中止してしまった。筋肉は衰え、ただ、室内で、読書の日々である。
『徒然草』『方丈記』『新古今和歌集』など、昔の人の、声や姿に想いを馳せる。
現代の、現実の、片がつかぬ、様々な問題から解き放たれて、中世に生きてみる。

7月下旬から6泊7日で、高野山大学大学院のスクーリングと熊野三山の旅に出た。熊野古道は、大木と石のある、坂道である。三山、特に、那智大社は、約600段もある石段を登って、降りるだけで、汗が吹き出し、途中で、何度も、立ち止まって、深呼吸をした。なぜ、古代から熊野か?と—考えながら。
真夏日の長旅は、身体にこたえた。帰って、3日目に、眩暈を起こした。
深夜、起ちあがろうとしたら、天井と床がぐるぐると廻った。手をついて、バランスをとるが、立ちあがれない。
そのまま、深夜、病院へ。幸いMRIを撮ったが、脳には異常がなかった。日を改めた、耳鼻科へ。眼が静止しない。勝手にぐるぐる動くのだ。風景が揺れる。歩けない。耳に耳石がある。耳石が三半規管に入ると、脳が異物に反応する。で、眩暈が生じる。
三半規管の故障ではないらしい。医者は、病名も言わず、眼や頭や身体を、よく動かすようにと言うだけだ。
1ヶ月、眩暈を止める薬を呑む。眩暈は、その後、起こらないが、歩く度に右に、左に、身体が揺れ、ふらふらする。
NHKで、”眩暈防止”の番組があった。
①枕を高くすること
②朝起きる時、右の耳を下にして10秒、上にして10秒、左の耳を下にして10秒数える。
家で出来る簡単なことだ。(医者いらず)
毎朝、実行する。薬がきいたのか、NHKの番組—の実戦が利いたのか、幸い、大きな眩暈は起きてない。
しかし、まだ、歩行はふらふらする。つくづく、人間は、心身で生きている動物であると感じ入った。

『abさんご』76歳、最高齢者の芥川賞、その文体、ひらがな文、登場人物、地名が一切ない、会話がない、横書き、夢と現が入り混じっている話題の小説であった。
「読書会」で、みなさんに読んでもらい、感想を聴いた。7~8割の人が、否定的だった。なぜ、このような、読みづらい文章で、書かなければならないのかというのが、その理由であった。
10年に1作品しか書かない。(なるほど、だから、この文章)同人雑誌で、頑張ってきた。”人生”を書くことに捧げた人の文章である。(書くこと=生きること=仕事)
私も、学生時代同人誌「あくた」を主催した。13号まで出した。約7年かけて。詩集を出した同人が3人、小説を出した同人が2人、評論を出した同人が1人、俳句集を出した同人が1人、総勢60人が参加した、昭和の、70年代の、「同人雑誌」盛んなりし頃の話である。
『ざまくるう』羽島あゆ子著も、長い間同人雑誌で、小説を書いている人らしい。プロと素人作家のちがいが、読みとれる作品である。
(主人公=私)の作品であるが、作品世界が現実の(私)=作者の介入で、惜しいかな、小説が濁ってしまっている。分裂している。文章は、ある域に達しているのだが・・・。
黒田夏子と羽島あゆ子の作品を、比較してみると、同じ同人誌を舞台にしてきた作家だが、<作品>に、全人生をかけている人と、そうでない人の、美学の差が見えてしまう。(人生を棒に振る覚悟)

キリスト教なら、田川建三、イスラム教なら井筒俊彦、仏教は?空海は?村上保壽の空海の考察に出合って、はじめて、「空海の研究者」のコトバに出合ったと感嘆した。
結局、研究+実践がなければ、空海の思想は、読み解けない。評論→存在論→宗教実践論へと「空海のことば」を探求した者に、はじめて、邂逅した。感謝。

ジル・ドゥルーズの諸作は、いつも、新しい概念の時空へと導いてくれる、21世紀の、最高の書である。

ポール・ド・マンの諸作を読む。
翻訳者が、そのまま、解説者になり、哲学者になる、土田知則は、ボール・ド・マンとともに歩いている人だ。
それにしても、日本人は、必ず、翻訳から身を起こして、(考える人)になる。日本人の、ひとつの、パターンであろう。

友人の書を読む。
井出彰は、書評新聞とともに、人生を歩んだ人である。同時に、小説家でもある。時代の証人としての、コトバが光っている。
遠藤若狭男(俳人)。
大学の同級生である。「あくた」同人である。教師をしながら、一生、俳句を詠んできた。胃ガン、肺ガンと、転移したガンとともに、生き、俳句を人生の友とした男である。母へ、父へ、故郷・若狭への思いが、絶唱となっている。

それにしても、異常な夏は、9月も半ばだというのに、まだ、30度超えが続いている。
晩夏と初秋が入り混じって、区別がつかぬ、妙な年である。
秋の虫は、恋人を求めて、鳴き続けている。人間は、植物同様、枯れて、青息吐息である。3・11以降原発は、片が付くということがない。コントロールできぬ!!

Author:
• 金曜日, 2月 08th, 2013

1. 「はじめての宗教論」(NHK出版)右巻 佐藤優著
2. 「一神教の誕生」(講談社現代新書) 加藤純隆著・加藤精一訳
3. 「困ってるひと」(ポプラ社) 大野更紗著
4. 「あなただけの般若心経」(小学館) 阿部慈園著
5. 「梵字でみる密教」(大法輪閣刊) 児玉義隆著
6. 「梵字の書法」(大法輪閣刊) 児玉義隆著
7. 「密教概論」(大法輪閣刊) 高神覚昇著
8. 「インド密教」(春秋社刊) 立川武蔵・頼富本宏編
9. 「チベット密教」(春秋社刊) 立川武蔵・頼富本宏編
10. 「中国密教」(春秋社刊) 立川武蔵・頼富本宏編
11. 「日本密教」(春秋社刊) 立川武蔵・頼富本宏編
12. 「巡礼高野山」(新潮社) 永坂嘉光・山陰加春夫・中上紀共著
13. 「和歌山・高野山と紀ノ川」(吉川弘文館) 藤本清二郎・山陰加春夫共著
14. 「カフカ式練習帳」(文藝春秋社刊) 保坂和志著
15. 「病牀六尺」(岩波文庫刊) 正岡子規著
16. 「日本社会と天皇制」(岩波ブックレットNo108) 細野善彦著
17. 「般若心経秘鍵」(角川ソフィア文庫) 空海著
18. 「秘蔵宝鑰」(角川ソフィア文庫) 空海著
19. 「いのちつながる」(高野山真言宗総本山 金剛峯寺開創法会) 松長有慶講演集
20. 「論文・プレゼンの科学」(アドスリー刊) 河田聡著
21. 「傷ついた日本人へ」(新潮新書) ダライ・ラマ14世著
22. 「街場の文体論」(ミシマ社) 内田樹著
23. 「この人を見よ」(幻戯書房刊) 後藤明生著
24. 「生き抜くための数学入門」(イースト・プレス社刊) 新井紀子著
25. 「コンピューターが仕事を奪う」(日本経済新聞出版社) 新井紀子著
26. 「金閣寺」(新潮社文庫) 三島由紀夫著
27. 「屍者の帝国」(河出書房新社) 伊藤計劃・円城塔共著
28. 「謎のトマ」(中央公論新社) モーリス・ブランショ著 篠沢秀夫訳
29. 「慈雲尊者全集」(思文閣刊) 慈雲著
30. 「街場の現代思想」(文芸春秋文庫) 内田樹著
31. 「こんな日本でよかったね」(文芸春秋文庫) 内田樹著
32. 「知に働けば蔵が立つ」(文芸春秋文庫) 内田樹著
33. 「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(文芸春秋文庫) 内田樹著
34. 「私家的・ユダヤ文化論」(文春新書) 内田樹著
35. 「レヴイナスと愛の現象学」(文春文庫) 内田樹著
36. 「他者と死者」(文春文庫) 内田樹著
37. 「日本辺境論」(新潮新書) 内田樹著
38. 「東と西」~横光利一の旅愁~(講談社刊) 関川夏史著
39. 詩集「トットリッチ」(土曜美術社出版販売刊) 岡田ユアン著
40. 小説「6DAYS」(日本文学館刊) 吉澤久著
41. 「昭和のエートス」(文春文庫) 内田樹著

なかなか、確たる世界・思想・文体を持った作家には出会えないものだ。小説、評論、詩、その他、どんな分野でも、「思考する文体」でなければ、生きている人間を描き出せない。

昨年は、”内田樹”に入ってしまった。どんな人物かも知らず、なんの予備知識もないまま、偶然「街場の文体論」を読んだ。面白い人がいるものだと、手に入るものを、次から次へと読んでみた。

内田樹の”核”は何だろう?自然に、そんな疑問が沸いてきた。

「レヴイナス」と「ユダヤ教」が(核)であった。なるほど、人は、何かを、徹底すると、自信をもって、すべてを語れるものである。
井筒俊彦の「意識と本質」に出会って以来の、興奮であった。日々の感想を書いた作品とは別に、一度は、ゆっくりと論じてみたい”評論家”である。

①娘育て②食べるための大学教師③武術(合気道)生活の現場重視の人である。単なる学問の人でないのが、好感が持てる。思想は、そこからしか、立ちあがってこないから、”信”の置ける言説と生活の人である。

「読むこと」「書くこと」「生きること」の徹底・その三本の柱が、内田樹の強みである。

外務省の官僚で、ロシアで活躍した佐藤優の(核)が、キリスト教、神学にあるのも面白い事実であった。

「困っている人」の大野更紗は、貧しい人々を救うために、ボランティアとなって、東南アジアへ。ところが、本人自身が、”難病”を患ってしまう。つまり、人を助ける人が、他人の助けがなければ、生きられない身になる。

現代の、平成の若者らしく、文章は、乗りが良くて、”難病”も、笑いの渦となって、綴られる。この、陽の気質は、いったい何だろう。”文体”のせいか、本人の、生まれつきの心性が、陽である為か?

思わず、”難病”に苦しんだ、明治の子規の病床ものと読みくらべてみた。泣いて、唸って、怒って、”俳句”を詠む子規。病院の制度の壁に衝突して、たくましく生きる”陽”の大野更紗。
どちらも、”宗教”に走らないところが、急処であろうか?

「文体」、「文章の相」が、明治と平成では、こんなにも、ちがう。同じ”難病”であるのに、光景が別のものに思えてしまう不思議。

”慈雲尊者”の全集を読む。
江戸時代の真言の僧である。世相の乱れに、「十善戒」を説いて、宗派に別れた仏教を、批判し、”釈尊”に帰れと説いた。

貧しい武士の子が、”知”に目覚めて、出家し、四書五経から仏典、神道、そして、サンスクリット語まで修学し、”葛城神道”を、起こした。

先日、慈雲の墓参りに、南河内の山の中を訪れた。人間を離れた地に、現在も、修行道場があった。

「カフカ式練習帳」保坂和志は、小島信夫、後藤明生、田中小実昌、色川武大の系譜をひきつぐ、作家である。特別に何もなくても、語れてしまう。その語りの中に、”妙”があって、読者の、愉しみがある。

奇妙な、思考癖が、四人の共通点である。はじまりもなく、終りもなく、ただ、読む瞬間の文章の中に発生する、なんともいえないリアリティが、保坂の信条であろう。

川端と共に、新感学派のチャンピオンとして、活躍した横光利一(今、どれだけの人が読んでいるだろうか?)をその長篇小説「旅愁」を、関川は、ていねいに、読み解いている。労作である。

孤高の人、ブランショの「謎のトマ」全訳も、篠沢の執念で実った。感謝。

”読書会”をはじめた。大学OBの集りである。近いうちに、市民にも開放しようと考えている。井伏鱒二「黒い雨」正宗白鳥「入江のほとり」三島由紀夫「金閣寺」を読んできた。

”読書の愉しみ”を、一人でも多くの方に知ってもらえればと、始めた会である。東西古今の、現代の名作を、共に読み、語り合う”読書会”である。

大学院(還暦を過ぎて入学)のレポート・テスト・論文を書く為に、ついつい、宗教関係の読書が増えている。