Archive for the Category ◊ 作品 ◊

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• 金曜日, 9月 26th, 2025
3901. 風が吹いてくる。存在のゼロポイントから。風はただの草をに変えてしまう。

3902. 風が吹いてくる。意識のゼロポイントから、風はただの言葉をに変えてしまう。

3903. 風が吹いてくる。(無)から吹く風は(時空)のゼロポイントからやってくる。そして、虚数を実数に変えてしまった。

3904. 宇宙には二つの風が吹いた。宇宙を創造したビッグ・バン(大爆発)の風と光や電子が存在するための(場)(時空)を創ったインフレーションの風だ!!宇宙で光よりも速い唯一の現象である。

3905. 存在のたったひとつの卵は電子だったのか?量子物理学者・ボーアの発想は実はユニークな幻想だ。(宇宙は、たったひとつの電子が走った軌跡だ!!と)

3906. 若い時、お金がなくて辛い思いをした。どうにか、切りぬけたと思ったら、老人になって、ふたたびお金に痛めつけられる!!(お金とは何だい?)

3907. 親友の結婚式、お祝い袋に入れるお金がなくて、妻が友人からもらった「香水」を持参した。受付けで、赤面しながら名前を書いて、「香水」のビンを手渡した。お祝いに、ギターを弾いて流行歌(花嫁)を歌って帰ってきた。(我ながら、ようやるよ)

3908. 余りにもお金が足りないとお金はニンゲンを歪めてしまう。質のいいニンゲンまで曲がってしまう。(嘘を言う口、盗む手)

3909. ご飯が食べられない子供たち。食事ができない老人たち。貧乏には底がない。暗い穴。いったいどうしろというのか?(救う手はどうしても必要だ)

3910. 昨日までの実在の空消えて虚空に華ひとつ!!

3911. 掌に砂粒がいっぱい。指の隙間から砂粒滑り落ちて(私)になる。何が不思議か?

3912. 夢か現か、もう境目も見えなくなって、正体がなくなる日。(位相が消えて)

3913. 悲しさも楽しみも入り混じって“思い出”として輝いている老人のココロ。(次元はひとつだ)

3914. 在る限り、光っているのが生命であるか。(私も星)

3915. 消えて、なくなり、ホッとするヒトもあるが。(無)はあるのか?

3916. ニンゲンが電子文字の大洪水に溺れている!!そして(私)をなくしている。

3917. (考える)暇もなく、ただ、電子の文字と絵に、反射的に反応しているだけ。(興奮)(もったいない、時間の浪費だ)

3918. 対応策はあるのか?パソコン(インターンネット)を離れて、スマートフォンを手離して、風景の中をただ歩く。宇宙に感応すること。(すると(私)は、考えはじめる)素足と素手と裸眼で掴む、宇宙の断片を。

3919. 一日に一回、たった30分。瞑想をする。自分の一番深いココロの底へ。思考を超えて。

3920. 一切が完了する。終ってしまう宇宙も。光って、消える存在たち。???何も片がつかないまま、解決がつかないまま、(無)へ。

3921. また、ふたたびの、宇宙の再誕などあるのだろうか?いたるところに、発生する無数の宇宙たち。

3922. 科学でさえ、検証できぬものたち。いったい、何が、誰が、どんな巨眼が存在証明するというのか?(宇宙眼?)

3923. 中原中也も宮沢賢治もゴッホも(絶望)のうちに、ドブネズミのように死んでいった!!詩集も童話も絵画もちっとも売れずに。無名のまま。評価もされずに。ところが、10年が経ち100年が経っても、その(作品)は、力強く生き延びて、輝やきを放っている。(作品)は無数の人々に、感動を与えて、呼吸して、進化している。コトバと色がヒトのココロの一番深い(普遍)に達しているから。コトバの宇宙・色の宇宙!!の顕現。

3923. どんなに困難なときにも、はじめに起ちあがるのは、やはり「言葉」であろう。絶望するのも「言葉」なら復活するのも「言葉」である。「言葉」はすべて「コトバ」から来る。

3924. 他人に呼びかける「どうだい?元気かい?」という言葉。もう一度、生き直してみるか?という気になる。もうひとつは、自分自身に呼びかける言葉「壁にぶつかれば、廻れ右、歩ける道は無数にある」と。「私は量子だと信じて」。

3925. (私)という原子たちが騒いでいる。鎮める術など何もない。

3926. ニンゲンの語る言葉のほとんどが、他人の、先人たちの語った言葉の反復である。しかし、不思議なことに、その人のオリジナルの言葉(思想)になる。不思議だ。(言葉自体は、誰のものでもないのに)

3927. 私たちは、普段、私の言葉を語っていると思っているが、実は大半が、他人が語った言葉である。(それでも、魂が入るとコトバはその人のオリジナルなものになる)

3928. 会話、対話、わかっていることを語りあっているのに、その“わかる”がわからないまま、「私」と「あなた」は、話を終える!!

3929. 言葉のリアリティなどどこからくるか?言葉の強度は、何が保証するか?驚きの深さ?体験の深さ?構造の力?言葉そのものの力?

3930. 直観力?感受性?意識?習練?(言葉)を鍛える力?

3931. 見る力、見抜く力、言葉の向う側を見る力、想像力の眼で見る力(無我)になって。透視する力。

3932. ココロの疼かぬ日はない。(世界のいたるところに叫び声)

3933. 平穏に生きる土台は、もうどこにもない。(紛争ばかりだ)

3934. 原子も、ひとつのコトバである!!「原子的言葉」は創出できるのか?見えたり、見えなかったりする変化自在な言葉を!!

3935. なぜ、原子たちは、(生命)を生むに至ったのか?まだ、ニンゲンにはわからない。

3936. 原子たちが意識を生んでしまった不思議。(私は唯物論者ではない)

3937. 光だ。宇宙線だ。X線という不思議。電子というエネルギー。(私は自痴だ、まだ何も知らない)

3938. ひとつの行為に至るまでたくさんの(思い)が殺されている。

3939. ひとつの(言葉)が選ばれるまでたくさんの(言葉)が捨てられている。

3940. 殺したり、捨てられたり、無視されたりしたもの、現れなかったものたちは、いったい、どうなってしまったのか?未出現の(宇宙)でも作っているのか?

3941. 最後の、最高の進化の形姿とはいったいどのようなものだろうか?(ニンゲン)が至るものとは?何か?)

3942. イデアのないところに進化はない。

3943. 一切の書かれたコトバは、一種のコードである。それ以前には、たったひとつの原初のコトバがある。

3944. 本当に、ニンゲンは、21世紀を生きているのだろうか?(意識して、認識して)まるで、18世紀の思考で生きている権力者がいる。誰だ?プーチン、ネタニヤフ、トランプだ。

3945. 他国に侵入、侵攻して、ヒト(敵)を殺し、土地(国土)を奪う愚劣さ。非人間。ナチがいると、勝手な物語を作って、戦争を、作戦と呼び、(事実)を歪めてしまうプーチン大統領!!私は、正義の味方という顔をして、本当は自分がヒットラーであるのに。プーチンの頭脳を手術してやりたい!!(モノが正しく見えるように、モノを正しく考えられるように)

3946. 人類の誰もが、ホロコーストで600万人が殺されたユダヤや民族の悲劇を知っている。深く深く同情している。あはれんでいる。ヒロシマやナガサキの悲劇と同じように。しかし、しかしだ、そのユダヤ人が、アラブの民を、女を、子供を、何万人もネズミのように殺してもいいと、誰も思わないのだ!!ネタニヤフよ!!狂っているのはあなたの頭だ、頭の中にある誤った物語だ!!もうヒト殺しの手を止めてくれ!!

3947. ニンゲンが本当におそろしいのは、どんな極悪人でも、ヒットラーもプーチンも、ネタニヤフも、正義の仮面をつけて、正義らしい論理を振りかざして、国民を説得して、人殺しの道へと導き、走ってしまうことだ。

3948. あると思えば在る。ないと思えば無い。在ったり、無かったりまるで幽霊じゃないか量子よ!!実は、(私)も量子だ(だから、気が狂わないように気をつけて)

3949. ニンゲンは、思考を超えるものに遭遇すると、放心する、畏怖する、阿呆になる、気が狂う、(無知)の知を思う。そして、カミを見る!!

3950. 宇宙誕生は(無)から?宇宙には、ニつの大風が吹いた。小さな小さな超高温の火の玉がビッグ・バン(大爆発)の風となった。そして、宇宙の初期には、量子ゆらぎがあって、インフレーションの風が吹いた。光よりも速い、宇宙の大膨張となったインフレーションの風。(場)が(空間)がなければ光も電子も存在できず、飛ぶこともできない。時間もない。ビッグ・バンの風の直前に吹いたインフレーションの風。私は、現代科学では証明不可能だが、思考実験による佐藤勝彦博士のこの理論を深く信じる!!

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• 月曜日, 8月 18th, 2025

遊びも 趣味も 道楽も 仕事も すべて
コズミック・ダンスの変種です

もちろん
生 老 病 死も
学生期も 家住期も 林住期も 遊行期も
コズミック・ダンスの変種です

歩くことも 働くことも 考えることも
何もしないで ただいることも
すべて コズミック・ダンスの変種です

恋も 革命も 日常も 戦争も
生きることも 死ぬことも
コズミック・ダンスの変種です

大洪水も 大津波も 大地震も
台風も 山火事も 磁気嵐も
コズミック・ダンスの変種です

石も 砂も 土も 木も 草も 花も 水も
青空も 海も 虹も 蛇も 魚も 鳥も
すべてが コズミック・ダンスを踊っています

DNAも 光も AIも 原子も 量子も
ニュートリノも クォークも チャームも
ストレンジネスも スピンも
コズミック・ダンスを踊っています

そうです もちろん ニンゲンの(私)も
目覚めた朝から 眠る夜まで
いや 眠っている間も 夢の中でも
コズミック・ダンスを踊っています

当然 すべての惑星も 遊星も 流れ星も
恒星(太陽)も 銀河も わが宇宙も 一切が
コズミック・ダンスを踊っています

コズミック・ダンス(宇宙の踊り)とは
無限のコトバの変化流動体です

今日も(私)は 私流の幻種の コズミック・ダンスを
踊って 踊って 踊り続けております 無限へ

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• 木曜日, 7月 10th, 2025

重松清の「小説」を読んで、考えたこと。
第38回 四街道稲門会「読書会」(東西古今の名作を読む会)=講師・・・重田
テキスト「ビタミンF」(直木賞受賞作品)
その他「ナイフ」(坪田譲治賞)(初期の短篇集、小・中学生のいじめ)「流星ワゴン」(ファンタジー小説-現世と来世)「停年ゴジラ」(第二の人生の生き方)「とんび」(初の新聞小説-ベストセラー、映画化)(五木寛之の「青春の門」にあたる作品。とんびが鷹を生んだ物語。

作家にとって「文体」は人間の顔である。一人一人の顔がちがうように、作家(詩人)の「文体」は、みんな異なる。言葉自体は誰のものでもないのに、文章になると、言葉は、その作家のものになる。一言半句が、フレーズが、作家の思想と、世界を表現する「文体」に変わってしまう。「文体」が世界を創出する。作家に固有の世界・思想は「文体」によって決定する。
秀れた作品は、冒頭の数十行を読めば、誰のものか、わかってしまうから不思議だ。

①川端康成の「文体」
まるで、水晶のように透明な文体。(美)を描くために(「雪国」)
②芥川龍之介の「文体」
東西古今の文学作品、書物を読み込んだ(知)的な「文体」。神経の世界。「或阿呆の一生」
③谷崎潤一郎の「文体」
日本の和語による語りは、肌に吸いつくようなリアリティを持つ(「細雪」)
④三島由紀夫の「文体」
華麗な、大神社や塔を建築するような(知性)を放つ「文体」(「金閣寺」)
⑤太宰治の「文体」
ヒトの(読者の)耳もとで囁くような、親しみあふれる、告白の「文体」(「人間失格」)
⑥安部公房の「文体」
スピード感あふれる、マシーンのようおに正確な「文体」(「砂の女」)
⑦大江健三郎の「文体」
まるで翻訳文のようにグロテスクでしかも重厚なリアリティを持つ「文体」(「万延元年のフットボール」)
⑧椎名麟三の「文体」
・・・だ。・・・だ。・・・だ。という断定する「文体」は、実在的で、労働者の姿を捉える(「重き流れの中に」)
⑨泉鏡花の「文体」
迷宮に分け入っても分け入っても、不思議な謎と美を提供してくれる「文体」(「高野聖」)
⑩古井由吉の「文体」
明治、大正、昭和と、百年余年の近・現代文学の中で、おそらく、最高の「文体」である。作家も主人公も関係なく、ただ(文体)だけが、生きて、呼吸している!!(「杳子・妻隠」)

さて、重松清の「文体」は?
実は、重松には、いわゆる、文学的な「文体」はない。なぜか?

堂々たる流行作家である。
大衆小説作家である。(たくさんの人に読まれる小説という意味)
風俗小説家である。(現代の生きた現実を、切り取って、活写するという意味で)
重松にとって、いわゆる(純文学)は、ほとんど意味をもたない、と思われる。

自分の語りに、語る物語に、耳を傾けてくれる、読者がいればいい。(文学)であればいいのだ。

普通の人間が生きる普通の生活!!それが、重松の描く(現実の世界)である。
特別な人物、特異な世界、そんなものとは無縁だ。誰もが、コレは私だと思う。誰もが生きている(現実)誰もが謳歌する人生の出来事、どこにでもいる、平凡な普通の人間の物語である。
しかも、登場人物全員に、寄りそって多視点で描く手法。
一見して、誰にでも書ける「文体」。あらゆる出来事、に対応できる、自由な、普通の「文体」。(実は、誰にでも書けるものではない)(無技巧の技巧で成立している)

重松は、いわゆる「文学的表現」を慎重に排除している。文学臭さがまったくない。(まるで、ルポタージューのように)(トールマン・カポーティの「冷血」の「文体」を視よ!!ノンフィクション小説の最高傑作)

どこにでもいる、普通の人、市井の人、市民、庶民。そんな人間を描くために、重松は(私=作家)を完全に消しているのだ。だから(文体)がない!!見えない。

ただし、唯一、重松の「文体」を表わしているのが、地の文ではなく「会話」文だ。特に「方言」だ。あるいは訛りだ。
「とんび」の世間・世界を支えているのが「岡山弁=方言」である。「そこには、紋切り型ではあるが、見事な「文体」がある。生きている人間の声がある。「停年ゴジラ」にも、博多弁、広島弁、大阪弁と、方言が、力強いリアリティを放っている。

もうひとつ、重松の「文体」のない文体を考える時、彼の職歴に、その根があるのかもしれないと思うが・・・
編集者、フリーのライター、ゴースト・ライターとして、生活していた時期がある。
どれも(私)の表出を殺して、文章を書く仕事である。その習慣が、小説の世界にも、多少、影響を与えているのかもしれない。
現代社会を生きる、無名の人々を活写するためには「文体」のない文体が必要だった。

重松の作品「ビタミンF」を読書会のテキストとして、選択した。(直木賞をもらっていた作品だから)(中年男の生きざま)
しかし、本当は「とんび」をテキストに選ぶべきであった!(後悔)(半自伝小説!!)
読みながら、三カ所で落涙した。
私は、情の文学は、嫌手である。
山田洋次、浅田次郎、重松清等の”泣かせの文学”を、読まない、観ないようにしてきた。江戸の近松からはじまる”情の文学”を日本人は好きだ。小説・映画・芝居と、日本人は、泣きものが大好きである。
重松作品が、たくさんの読者に読まれる理由もわかる。いかにも、日本人的である。しかし、本音を言えば、私の”文学観”とは、正反対である。「読書会」に参加した、みなさんの意見を聞いてみたい。

「丁寧に”今”を生きる重松の人間としての姿勢!!」 2025年 6月30日

重松清の「小説」の特徴は?
1. テーマは、普通の生活の中にある誰でもが経験する出来事。(いじめ、離婚、失職、停年、父と子、中年という存在・・・)
2. 文章はやさしくて、一気に読める。(自分の身にも起こることだと)
3. 必ず泣かせる場面、フレーズがある。(情の文学)
4. 決して悲劇を書かない。(結末は悲しくない)
5. 普通の人間が登場する。私であり、あなたであり、読者の中にもいる人物。(共感、共鳴、共生の物語)
6. 作者の自己主張はない。多視点で描く。バランスよく描かれている。

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• 月曜日, 3月 31st, 2025

1 ニンゲンが生きるということは(私)という魂(プシュケー)のお守(もり)をするということであろうか 古代ギリシア人のように

2 誰にでも身(ミ)に覚えがあるだろう 身(カラダ)が 突然 暴れだして 口(コトバ)が 不意に 止まってしまって 意(ココロ)という水準器が 急に 傾いて ニンゲンだから 魂(プシュケー)のお守(もり)は 簡単ではない

3 突然 ココロが叩き割られて 起(た)ち上がれないまま 通夜と葬式が終った夕(ゆうべ) 線香の匂いに息がつまって 誰からともなく 夕涼みにと 玉砂利の敷かれた広い庭に出た

4 「翼が蛍になって飛んどる ホラ 見てみ」翼の父(私の弟)が指差した 高い高い夜空に 一匹の蛍が飛んでいた「翼(ツー)ちゃんホタル?翼(ツー)ちゃんホタルや」と孫たちの声

5 ニンゲンが蛍になったのが不思議なのではない 全員が 同時に「翼という蛍」を見てそう信じたことが不思議だった

6 若者は都市へ ただあこがれて 自分の場所と椅子と夢と仕事を求めて 彷徨(さまよ)って 翼のはじめての仕事は?建築会社での地下鉄のトンネル堀り 次の仕事は?デザイン会社の撮影助手と運転手 最後の仕事は? 刺青(タトゥー)を彫る 腕のいい彫師であった

7 「こんなに美しいニンゲンの眼 ワシ 今まで見たことがない」面接の時「成績は悪いけど採(と)っとけ 見事な眼やから」社長は言った

8 とびっきり美しい眼は いったい 何を見たのだろうか?「カミもホトケも ほんまに おる ワシ見たもん」と見たままを一枚の絵に描いた 本格的な リアルな「仏像(ホトケ)」の絵

9 高い高い夜空に舞う蛍は、家の上空をゆっくりと3回旋回して北の山へと飛び去った「オトン オカン スマン」さよなら さようなら 青白い光は魂(たましい)の放つコトバであった

10 「とうとう翼も蛍になってしもうたわい」翼よ あらゆるものから解き放たれて 銀河へ 遠い遠い宇宙まで翔んで行け 庭に 家に 遺族に 深い深い闇と沈黙と祈りが来た

(合掌)

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• 月曜日, 2月 03rd, 2025
3851. 「人間原理」の視点で見れば、おそらく、ニンゲンは(無限)だ。「宇宙原理」の視点で見れば、おそらく、ニンゲンは(無)だ。どちらの視点で生きるか人それぞれ。勝手に生きてみる。さて、いったい、何が見えるか、何があるか?

3852. 気がつくと、言葉の大海を漂流していた。耳で聞く言葉を食べて食べて、口から吐いて吐いて、放った末に残ったものが(私の言葉)だった。(言葉は誰のものでもないのに不思議だ)(私の言葉)が存在しはじめる。

3583. いつのまにか、(私)は、言葉を生きている。あらゆる現象や事象を言葉に変えて、生き直している。(モノ自体は、いったいどこへ行ったのだろうか?)

3854. ニンゲンは驚愕した。言葉で表現できぬものが顕れた。一切の統辞法、論理が役に立たない。(存在ならぬ存在の出現)さて、困った。釈尊は「無記」と断言した。21世紀のニンゲンは、どうする?ニンゲンの手に負えぬ(量子)奴!!

3855. 思考が狂うか?ニンゲンが狂うか?眼を開けて、ソレの傍らを擦り抜けるか?

3856. 詩人がいる。詩人とは?見者(ボワィアン)である。透視者だ。見者でない詩人は、贋物である。現代詩を書いている、九十九パーセントは、見者ではない。

3857. もちろん、詩人は、詩語の向う側のコトバを透視する。(量子をも)

3858. 眼で見る時代から、手で見る時代へ(手かざし)

3859. 〇〇ちゃん、遊ぼ!!楽しいよ。いったい誰の声か?

3860. 遊びも、趣味も、道楽も、仕事も、結局、ニンゲンが踊る、コズミック・ダンスの、ひとつの変種にすぎない。

3861. 小さな惑星も、巨大宇宙も、コズミック・ダンスを踊る、ひとつの時空という舞台にすぎない。存在が存在を楽しんでいるだけ。

3862. 「今日は何日ですか?ここは何処ですか?あなたのお名前は?誕生日は?」病院の医師が問い続ける。この時空の一点に(私)という存在を、貼りつけようとする。(私)は、何も応えられない。先生、(私)まだ(I)とは何かさえ、わからないのですが・・・。

3863. あらゆる物質、あらゆる生命、あらゆる時空も、エネルギーが変化したものです。だから、「(私)は光だ」と思っております。何かおかしいでしょうか?お医者さん!!

3864. 千年、万年、いや一億年も考えても、おそらく考えきれないことがあるのに、たった百年、太陽の周りを廻って、終ってしまうニンゲンなんて。不快です。

3865. 考えきれない、たったひとつのことは、そのまま、宇宙に残されてしまう!!

3866. ふたたび、誰かが、何者かが、その、たったひとつの謎に挑戦してくれるのでしょうか?(もったいない)

3867. 物質の精神化、精神の物質化。(石が考える)(考えが石になる)本当の革命とは、そんなものでしょうに。

3868. ニンゲンが石ころになる。決して、比喩ではなく。

3869. 叫び声も空に消えて、ココロは空っぽ。怒りも、悲しみも、大きな沈黙に吞み込まれて。ただ浮遊しているニンゲンの形姿。

3870. がらんどうの生きものを、果たして、ニンゲンと呼べるのか?(悲しみの底がない)

3871. 生きれば生きるほど、この惑星の一日が寂しくなります。いつも夕暮れです。さて、どうしたものでしょうか?

3872. 「寂寥」とか「寂静」とか、昔の言葉が、老いて、今ごろになって、身に沁みてしまう。困ったものです。(ニルヴァーナー)と。

3873. 本当に、何もかも、どんどんわからなくなってしまう。長く長く生きてきたのに。(とうとう一日が何かもわからない)

3874. 見えないものが在る、在るのに見えない(ニンゲンにとって、大切なことなのに)

3875. どうやら(私)ニンゲンの言葉も、宇宙言語(コトバ)に至らなければならない時が!!

3876. 「阿」や「吽」の根源に至った空海さんのコトバ(真言)は?

3877. 自然な、普通のことが、どんどん崩れていくが・・・(私)が(超私)になる?

3878. 「絶対の王」が存在した時代は、ものごとの白黒が、はっきりとわかったのに。

3879. 「光」の今は、いつも昔だ。やれやれ。

3880. 冬の淡い光に、庭の切り株が応えて。(沈黙の中のコトバ)

3881. とりあえず、正気で生きて、正気で死ねば、文句はないか。(後は野となれ山となれ)いやいや、宇宙の流れは、そうもいくまい。

3882. 無限個の光が空に舞っている。もちろん(私)もそのひとつだ。もうすぐ消えるが。

3883. 宇宙というテキストは、無限個の量子が作りだした、大きな物語であろうか?誰にも読み解けないが。

3884. ニンゲンも量子の子供だ。

3885. (私)は、私という身体さえ、充分には知らない。それでも、自然に生きている。なんだか、おかしい。

3886. 考える(知)の王は、たった一時間の、瞑想の深さには負けてしまう!!なぜか?

3887. (私)のアフォリズム「コズミック・ダンスを踊りながら」も、言語の限界を突破して、誰も読めないコトバの世界へと、疾走してしまうのか?

3888. ン?うんにゃ、ソレはちがう(父の声)

3889. 君がニンゲンなら、ボクは、ニンゲンをやめたい!!(プーチンに)

3890. 宇、宇、宇、宇宙と言い放てなくなって、茫然とする。(声が死ぬ)

3891. 来た、来た、行く行く、誰が何を見たというのだ。(何も来ない、何も行かない)

3892. もう、いいよ、お終いにしよう。断念の宇宙。

3893. 眼の死刑、耳の死刑、手の死刑、足の死刑・・・あらかじめ決定していたのか?

3894. パスカルは言った「あまり自由なのは、よくない」と。「必要なものが、みなあるのはよくない」と。なるほど、知足か。

3895. ①(私)がこの宇宙に生まれないという奇蹟。②(私)がこの宇宙に生れたという奇蹟。③(私)が死んで、ふたたび生き返るという奇蹟。さて、どれが一番の不思議であろうか?

3896. あらゆるところに、泡のように「時間」が起きあがってくる。気絶するほどの光景である。

3897. そして、ココロが、意識が、思考が、コトバという出来事の中に、ゆらいでいる。

3898. われわれの銀河、天の川銀河が一回転する。仮に、それを、「一銀河年」と呼ぼうか。その時、太陽は?地球は?ニンゲンは?何処へ?

3899. 月から見た、暗闇の宇宙に浮かぶ地球の写真!!全人類が写してきた無数の写真も、この一枚の、証明写真にはかなわない。(本当に、地球は宙に浮いて、漂流している!!)

3900. 21世紀のニンゲン。「哀歌」や「鎮魂歌」は、いつでも、平気で歌える(書ける)のに、いざ「讃歌」を歌おうとする(書こうとする)と、調子が狂ってしまう。「讃歌」を書こうとする右手を、左手が止めてしまう。やはり、歌も、時代が呼ぶものか!!

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• 金曜日, 12月 06th, 2024

世の中には実にたくさんの、多種多様な仕事がある。遊びでもない。趣味でもない。道楽でもない。ニンゲンにとって、仕事とはいったい何であろうか。そして、人は、たくさんの仕事の中から、ひとつの仕事を選ぶ。なぜ?
久米勲は、編集者という仕事を選び、生涯一編集者として生き抜いた男である。
作家でもない、記者でもない、編集者とはいったい何者であろうか?どんなことをする人であろうか。
本書の底辺には、そんな思いが流れている。そして、読み終えると、そんな疑問が溶解する「本」である。

さて、久米勲は、大学への進学を決める際、社会に出て、役に立つ、実学(?)=法学部や商学部に入ってほしいという父の思いを裏切って、文学部へと進学を決め、早稲田大学で国文学を修学した。
時代は、政治と文学の熱気で燃えあがり、新しい雑誌や新聞や書評誌や思想書が、次から次へと発刊されて、時代を背負う作家たちが続々と登場する、「本」が売れに売れる、黄金時代であった。
学生の就職希望は、マスコミに集中しておそろしい競争率・倍率であった。
久米は、文芸の出版社、河出書房新社に見事に合格して、雑誌「文芸」や文学関係の「本」の編集者としてスタートする。(河出書房新社は、二度倒産している。)(昭和32年と昭和43年)
先輩には、鬼編集長として、作家たちに畏れられた、坂本一亀がいる。三島由紀夫の「仮面の告白」を手がけ、「悲の器」を書いた新鋭の高橋和巳を発見して、育てあげた。(音楽家、坂本龍一の父)
「文芸」「海燕」の名編集長、寺田博もいた。作家、吉本ばなな、小川洋子などの発掘者である。
久米は、先輩たちの仕事ぶりを、背中を見ながら、編集者としての腕を鍛えていった。
新人、無名の作家たちの、生原稿を、何百と読み込んで、活字になった文章と同じように評価できる眼力を身につける。
そして、企画、立案から、作家たちへの原稿の依頼、原稿の修正、入校、割りつけ、ゲラ刷りの校正、帯文のキャッチコピー、「本」のタイトル、装幀まで、一切の実務を修得した。
担当した作家たちは?大家の川端康成、流行作家の吉行淳之介、五木寛之、野坂昭如、瀬戸内晴美、山崎正和、新人の中上健次、河野多恵子と錚々たる人々である。

作家たちとの交流、付き合い方、原稿のもらい方、距離のとり方、素顔の作家たちの日常・仕事の現場。特に、作家の家での会食は、長く付きあってきた編集者の特権であろう。吉行家の「ヒジキ」山本家の「春雨サラダ」瀬戸内家の「キィウィと玄米」五木家の「ステーキ」。どんな仕事でも、お客さんと一緒に、食事ができるようになれば、一人前である。第一に、信用を得たという証拠である。久米は、後に、エッセイとして、その現場を活写している。

作家は、原稿を書く人、いわば、卵を産むニワトリ。編集者は、生原稿を読んで、「本」=商品になるかどうかを見決めて、立派な「本」にして、読者の手許に届ける、「本」づくりのプロ(いわば、作家が産んだ卵をヒナとして誕生させて、一人前の成鳥になるように育てあげる人。)
決して、自分では、モノを書かない。目利き、眼力の人、作家にとって、はじめての読者であり、批評家である。
東西古今の名作を読み尽くして、いい文章とダメな文章(作品)を見極める力を備えた人が、名編集者となる。作家にアドバイスをして、修正したり、書き直しを命じたり、余分なところを削ったりさせる力を持っている。(ドストエフスキーの原稿には、無数の修正があるー編集者の)

「本」の読み方には、二つの方法がある。
ひとつは、「本」を、ひとつの世界・宇宙と考えるもの。作家本人とは別の生きもので、作品の中に、書かれたものしか、読まない。作品は、作家にも見えない、「本」はわからないものが含まれている。書かれた文章がすべてである。(ロランバルトのテキスト・クリティック。蓮見重彦の「本」の読み方や論じ方)(表層批評)
もうひとつは、作品は、やはり、作家が産んだもの。作家の子供が作品。あらゆる言葉・文章・発想は、作家の中から生れたもの。従って、作家個人の性質、育った環境、家、家族、その職種、一切を調べて、作品を解釈する方法。実証主義。評論家、平野謙がその代表。国文学者たちも。平野は「島崎藤村」を書いた時、その調査と探求は、まるで、探偵だと畏れられた。
さて、本書を書いた、編集者・久米勲の「本」の読み方は?どちらであろうか?本書を読んで、読者に、判断していただきたい。

作家と二人三脚で「本づくり」の共同作業をしてきた編集者は、決して、モノを書く人ではない。作家たちは、光を、スポットライトを浴びるが、「本」を制作した編集者は、裏方であり、黒子であり、縁の下の力もちであり、光に対して、影の存在である。
しかし、時には、新聞社や出版社から、依頼されて、モノを書くこともある。
実は「本書」も、久米が依頼されて書いた書評や解説や文学論やエッセイに加えて書き下ろしたもので構成されている。
特に、作家たちが死んだ場合、作家との交流があって、現場と素顔を知っている編集者の記録や告白は、随分と貴重な資料となる。
「あとがき」で、久米は、こんなことを書いている。「編集者として、ぼくは良い時代を過ごして来たようだ。そのことを残しておくのも悪くはないかも・・・(略)二人の孫に、お爺ちゃんはこんなことを考え、こんなことをしてきたんだと、伝えておこうと」
記録もひとつの文学である。日記も。回顧録も。久米の編集者としての存在証明が本書である。孫たちにというところが、実に、あたたかいメッセージである。老いた時、誰でも、一度は、「人生の検証」をするものだ。

編集者として、一番の喜びは、何であったのか?
新人の発見、新しい文学者の発掘であろう。
「やちまた」足立巻一著
盲目の人・本居宣長の長男のことを書いた評伝。同人誌「天秤」に掲った、「やちまた」の冒頭を読んだ時、編集者としてのひらめきが来た。名作だと。久米は、「やちまた」の出版を決意。「やちまた」は、芸術選奨文学大臣賞を受けた。久米の編集者人生で一番のよろこびであった。

「正統なる頽廃」(大笹吉雄第一評論集を刊行。)
「花顔の人 花柳章太郎」 大佛次郎賞受賞
大学の同級生・演劇評論家の誕生。まるで我ことのように喜んだ!!
河出書房新社が倒産!!(2度目)
社員が、約600名(関連会社を含め)
久米勲も、何度目かの、希望退職者の募集に応じた。三人の仲間で、編集会社「木挽社」を設立。本づくりの職人として、生きる!!
そして、フリーの編集者に。
企画・立案から、出版社との交渉。苦労の絶えない、辛い時代を生きることになるが。「新潮日本文学アルバム」は、好評で全100巻に。
その頃の心情。
「机の周りに写真を散らかし、一日十時間、いや、二十時間にもわたって割付け(レイアウト)をしていると、俺は生涯こうして机の前にこの写真たちと坐りつづけなくてはいけないのか、と暗然とすることしばし」
それでも「本」の完成した顔を見ると、よろこびで、心が熱くなる編集者魂。

お礼と感謝を!!
本書には、私に、文学のインパクトを与えてくれた、三人の、作家、評論家、研究者が登場する。直接、言葉を交わした人たち。
中上健次、竹西寛子、保昌正夫。
本書に名前と記事を発見したとき、50年前の三人の声と言葉と立ち姿が一気に記憶の中から湧きあがって、心が揺れて、この記事を読んだだけで、充分に、読書の意味があったと、なつかしいやら、うれしいやら、思わず、「儀式」と「管絃祭」と「岬」と「枯木灘」と「早稲田文学」を本棚から取り出して、読み出した。
久米勲さん、ありがとう。
三人の声が、心の中に甦って、鳴り響いております。「本の力」です。

中上健次の思い出。
文学が熱を帯びて語られた時代。
東京、阿佐ヶ谷の居酒屋にて。
日本読書新聞の元編集長・井出彰、武田泰淳論を書いていた石川知正、出版社の編集長・横田明彦、そして私の四人。新鋭作家の中上健次に声を掛けて、一緒に、文学のリトル・マガジンを作らないか?と。中上は、「津島佑子(太宰の娘)を入れるなら、考えてもいいよ」と。
そして、「俺「文芸」に作品を載せてもらうのに、6回も7回も書き直しされてな、まるで、顔の皮をむしられる、屈辱だったな」「重田、お前、真似できないだろ」と。
もうひとつ、中上の重要な告白があった。「俺、本名、なかがみじゃないんだ、実はなかうえなんだ、わかるだろ、四国のお前なら。」被差別部落の出身だという意味だった。中上は、作家になるべき、資質や宿命を背負った、馬力のある男であった。そして、カラオケに行った。都はるみの「北の宿から」を歌った。低く、やさしい、よく響く声であった。
結局、中上は、芥川賞受賞で、急に忙しくなって、一緒に文芸誌をというプランは消えてしまった。中上は、全力疾走で、走って、突然、逝った。

保昌正夫先生の思い出。
声と眼に力が漲っていて、文学を全身で呼吸しているような、講師であった。
横光利一の研究者。横光・川端時代に、横光論を書く評論家であった。早大の国文科で、「現代文学」の講義を聴いた。
大学の先生というよりも文士そのもの。
私の提出したレポート「大江健三郎について」の視点、発想がユニークだから、評論してみないかと、誘われたが、結局、完成しなかった。
私たちの同人誌「あくた」(1~13号)を、ていねいに、読んでくれて、「早稲田文学」に小説を書いてみないかと、声を掛けてくれた。
当時の文学青年たちは、商業誌の前に「早稲田文学」に作品を載せることが夢だった。中上健次は「灰色のコカ・コーラ」を。立松和平は「途方にくれて」を書いていた同世代。
結局、私は、短篇小説、「投射器」(100枚)を、秋山駿の了解を得て、「早稲田文学」に掲載した。保昌正夫先生は、文学の恩人でもある。

竹西寛子先生の思い出。
大学の先生・講師というよりも、現役の作家であった。小説集「儀式」の著者。
中世文学、特に、和歌の読み方を講義してくれた。ていねいに、ていねいに、こんなに言葉を大事にする先生は他にいない。語りがそのまま、「本」になるような厳しさ、美しさ。
特に、和泉式部の和歌。
〇あひみての 後のこころにくらぶれば 昔はものを思わざりけり
〇もの思へば 沢の蛍も 我が身より あくがれいづる魂かとぞ見ゆ
見事な解釈であった。リアルな言葉に触れて、ただ、うっとりしていた。
広島出身である。(原爆を体験)文学者として、宿命づけられた人。河出書房で編集者ー倒産を体験。筑摩書房に入社。
そして、フリーランスに。作家として独立。10年後には、名作「管絃祭」を書く。
漱石や鷗外の(知)による「本」よりも、人生を探求する、正宗白鳥の呟くような、自然の言葉のリアリティを好んだ人。
文体は静かだが、その底流には、激しい、真摯な声=レクイエムが流れていた。
原爆で死んだ、同級生たち(竹西は、その日、体調がわるくて、学校を休んでいて、助かった!!)への鎮魂歌である。

記憶は、長く生きてきた老人には宝である。藤圭子の歌声を聴けば、70年代の空気が蘇ってくる。(久米には、流行歌をテーマにした著書がある)「流行歌の情景」
記録もひとつの(文学)である。時代の声を、編集者の仕事を、(人生の検証)として、残した久米も80歳を過ぎたおじいちゃんになった。本書は、孫たちに贈るメッセージでもある。苦労も悲しみも喜びも「編集者」という仕事の中にあった。正に、回想記である。必ず、誰かに伝わるものである。「本」の力、「言葉」の力である。
私のひとつの「感想」である。
令和6年12月3日日記

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• 火曜日, 8月 20th, 2024

突然 流れていた音楽が止んだ
ラヴェルの楽曲「ボレロ」だった(サドンデス)

偶然か必然か 誰が 何が 骰子を振った
それが大問題だ

時が熟して 光が来た
機が熟して (私)が顕現した
気がつくと 宇宙の惑星に放り出されていた

さあ人生だと言われて 意識に火が点き
ただ生きた 惑星の法則に従って
(悲)も(苦)も(痛)も(喜)も(楽)も(快)も
味わって
比率で言えば おそらく 7対3くらい
そして ある日 突然 ただ死んだ
宇宙の法に任せて おさらばの時が来たから

もう 一切の意味付けは無用だ
「輪廻転生」とか「復活」とか「永却回帰」とか「再生」とか「魂」とか「無」とか

ニンゲンは あらゆるものに 名前をつける
その意味を発見しては ああだ こうだと言いたがる
そして定義までする
無意味か 非・意味か 放っておいてくれ
一切がコトバの問題だ
(私)は いつも 言葉の外部にいる いや
コトバの内部にいる いわば(恁麼)である

終れないという恐怖に比べれば
(死)の恐怖など 何ほどのものでもない
永遠の宙吊りこそ畏怖だ
おそらく ニンゲンは 耐えられまい 失神する いや狂ってしまう
(無)から(無)への宇宙の永遠のリフレーン

宇宙そのものが サドンデスかループする存在か 見分けがつかない
(私)は宇宙の 白痴だ さっぱりわからない 何?何?何?

音楽が流れている 街の中に いつまでも終ることのない(エンドレス)のループする音楽
あれは? サンバか 阿波踊りか

※参考資料「音楽の危機」岡田 暁生著

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• 水曜日, 5月 29th, 2024
3801. (無)が存在の母であるとはニンゲンは、長い間、知らなかった!!(無から有は生れない)と!!

3802. すると、(無)から来た存在は、当然(無)に還ることになる。なんの不思議もなく。

3803. (私)が光であったということすら、大きな謎であったのに。

3804. 宇宙塵は、結局、(私)たちの兄弟である。

3805. 夏の光も、秋の光も、光は永遠の滴だ。

3806. 巨大な存在と非在の眩暈の中にいる(私)

3807. 片手に宇宙、片手に量子、左手も右手もない。不思議。

3808. ニンゲンは、宇宙の存在を発見するために、顕現した生きものであろうか?

3809. 見る者、知る者、わかる者が存在しなければ、(宇宙)は在るか無いかもわからないまま。

3810. 意識こそ、(知るー考える)の中心にある。あるいは、意識以上のもの?

3811. 誰が、何が、ニンゲンを、宇宙に放ったのか?まさか、神とは言えまい。無とも言えまい。自己生成。進化?偶然?

3812. 宇宙がある。言葉の中にも宇宙がある。言葉の外にもコトの宇宙がある。

3813. シンプルに、ただ生きる。(生)に必要な要素だけ残して。あとは、すべて、棄て去ること。

3814. 宇宙には、解決というものがない。無限に流れる。ニンゲンの世界では、どうか?

3815. AIは(情報)の集積する巨大な場だ。(情報)を与えなければ、ただの空箱だ。

3816. もちろん(知る)より(考える)が大切に決まっている。その前に直観すること。

3817. 光と水を与えなければ、(私)も、植物と同じように枯れてしまう。ニンゲンにとって(光)とは何か?(水)とは何か?熟考しよう。私の原理を見定めて、生きることだ。

3818. 人生に答えなどないのにコンピューター(AI)は、正しい答えを出してくれる!!(余計なお世話だが)

3819. 作曲家、坂本龍一の最後のピアノ演奏。まるで、自らに対するレクイエムであった。音楽・ピアノは、決して上手下手ではない。音がヒトのココロに、沁み込むかどうかで、音楽の値打ちが決まる。魂を洗う音!!

3820. (無)と(無)の間に宇宙時間がある。永遠と呼んでもいいが。あらゆる現象、あらゆる事象、存在と非在も、その宇宙時間内での出来事である。もちろん生きる、生きられるニンゲンも、その他大勢のひとりであるが。

3821. 生きているニンゲンが(死)とは何か?といくら考えてもわかるはずがない。(私)は、(超私)になってしまったから、他の宇宙を、その法を考えるようなものだ。だから、せいぜい(生きる、生きられる)私を、楽しむしかない。つまり、勝手に、自由にコズミック・ダンスを踊ってみせるだけ!!

3822. ニンゲン、食べるために、30年も40年も働くと、いつのまにか、(私=仕事)となってしまう。つまり、仕事が生きる最終目的になっている。

3823. 会社を退職して、仕事を離れてみると、残された(私自身)をどう扱っていいのか、わからなくなる。つまり、仕事とともに(私)が消える。で、おどおどして、途方に暮れる。

3824. (私)という魂のお守をすることが生きることだと思っている人は、(会社・職場)を離れても、残された(私という魂)の存在が確認できる。で、魂を育てる。

3825. ふたたび、最後の時まで(私という魂)のお守をし続けようと考える。仕事が目的ではなかったから。ひとつの手段だったから。

3826. (無)から(無)へ。そんな声が流れてきた。宇宙の出現(誕生)と消滅(死)。(私)ニンゲンの出現(誕生)と消滅(死)。あらゆる存在も現象も、現れては消えていく。(諸行無常)と云った釈尊のコトバは正しい。

3827. ビッグバンの風に吹かれて、ヒトは次から次へと生まれてくる。そして、ひととき、それぞれの、コズミック・ダンスを踊っては、次から次へと死んでいく。宇宙に、ただ、そんな現象がある。

3828. どんな手が?誰が?何が?そんな骰子を振っているのかまったく見えない。わからない。

3829. ひと粒の砂も一個の石ころも、原子も量子も何も応えてはくれないヒトの生涯であるが。

3830. たった一瞬の輝きか、それとも、はるかな旅であるのか、問題はすべて(私)の意識にある。

3831. 宇宙の時空の中で、変わらぬものは何もない。ただ流れて、移ろっている。(釈尊の直観力)

3832. 一粒の砂ほどの存在にも意識があるという不思議。

3833. ニンゲンは、ひとつの惑星を食い潰してしまう、奇体な生物であるか?

3834. エネルギーだけが、宇宙を存在させる唯一の力だ。無生物も生物も、もちろんニンゲンも、エネルギーなしでは存在できぬ。アインシュタインの発見は??E=mc²である

3835. 海の発見、空の発見、宇宙の発見!!発見だけではつまらぬ。何か作ってやれ、何かを変えてやれ!!

3836. ニンゲンは、持っている力を、どのくらい開発して、使用しているのだろうか?(数パーセントか?)

3837. 眼の誕生から、見る力は、どこまで進化したのだろうか?(3億年もかけて)(モノを見る、宇宙を見る、DNAを見る、それから・・・透視する力は?)

3838. 見るに、限界はあるのか?(ココロを見る、見えないものを見る・・・虚数iも)そして・・・

3839. 言葉で思考する、言葉を超えたもので直観する。(その時、わかるとは何か?)

3840. 長年、ニンゲンとして、生きてきて(77年)私が持つに至った思想?は、最後は、死ぬ時は「宇宙にむけて翔べ」だった。

3841. 一回限りの「生」だから、一度だけの試み(死)だから、上手くいくかどうかは、わからない。

3842. (私)の死後、私の死に顔を見て微笑んでいたと、他人が思ってくれれば、おそらく、成功だろう。

3843. ニンゲン、何をしたか(仕事)ということよりも、(私という魂)のお守としてきたことの方が大切であった。存在の輝き。

3844. 飢えもせず、他のものを盗ったりもせず、大きな嘘もつかず、他人を殺しもしないで凡庸な日々を生きてこれたのは、ラッキーであった。文句はない。

3845. 無限遠点にも、もう一人の(私)がいる。いや、(私)にそっくりだが、反物質である。私が右手を振ると、ソレが左手を振る。

3846. 宇宙は巨大な蜘蛛の網で、その見えない網の片方で一人が動くと、もう片方でもその動きに反応して、動くという訳だ。

3847. 「分裂少女の手記」は身に沁みる「本」。ニンゲンは、一個の石、一粒の砂の存在である。そのコトバは実に深い。

3848. (私)を見失って、五感が誰のものかわからなくなって、信じるに足るものは何もない、(わかる)ということが(わからない)。気の毒な少女。宙空に、棄てられて、漂っている。

3849. 老人も、また、新しい人である。誰もが、はじめて、(老人としての生)を生きるのだから。

3850. 少女が青年に、子供が大人になる時の、あのとまどい!!当然、老人になった時にも、とまどいがある。老人の次にはいったい、何になるのだろう?

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• 水曜日, 3月 06th, 2024

増田みず子の、最後の『小説』を読み終えた時、しばらくして、最後の「本」と本人が言っている、エッセイ集『理系的』が出版された。早速、購入して、読んでみた。
全六章から成る、エッセイ集である。新聞や雑誌にも載せたものを
第一章 理系と文系のあいだで
第二章 生命の響き合いー立派に生きること
第三章 読むことと書くこと
第四章 ライフについて
第五章 本棚と散歩道
第六章 隅田川のほとりから
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「小説・詩などの作品」と「エッセイ」の言葉
増田は、多くのエッセイが、自分が「小説」を書かなかったら、生まれなかったと言っている。(おそらく、新聞社や雑誌の出版社から依頼されて、書いたものだろう)
「小説は、虚構であって、想像力を使って、自由に書くもの」(物語)①
「エッセイは?見た、聞いた、読んだ、体験した(事実)をそのまま書くもの。」(現実)②
「文学で書かれたこと、文章で書かれた「本」は、すべて「言葉」の世界の(ジジツ)であって、(現実=事実)は、言葉の外の世界にある。(現象)③
(事実)は、体験した人の、立場、位置、視点によって、異なるものであって、それぞれの(事実)がある。たったひとつの、真実の(事実)などない。(相対論)④
増田は、少女時代から、二つの夢を持っていた。(生命)の不思議を探求するために(研究者)になること。(理系)もうひとつは、面白くて仕方がない小説の作者になること。(文系)
東京農工大学に入学。研究者の道へ。実験生活。挫折する。そして、偶然にも(作家)の道がひらける。
理系の作家と文系の作家?
安部公房(東大・医学部)円城塔(東大・理系のドクター)A
増田も、その系列に入ることになる。
川端康成(東大・国文)太宰治(東大・文系)B
日本的な風土、情的世界での人間関係を描く文系の作家たちB
世界的視点(共通)で、物そのものや存在の不思議を描く理系の作家たちA
AとBを比較してみれば、理系と文系の作風のちがいがすぐにわかるだろう。

日本の風土に育った文系の作家たちは、(場)(抒情)(情念)の物語を書く。松本清張、山田洋次、小津安二郎、浅田次郎、重松清の作品は、(情)と(泣き)が中心である。いかにも日本的。
言葉の根は何処にある。増田のエッセイで、面白いのは、「隅田川」のほとりで、生れ、育ち、生活して、その感性と心性が培われて「言葉」と「科学」の二方向へと成長していった様が、如実にわかる点である。
下町の、家族の生活、風俗、風土、習慣が「隅田川」の流れとともにあることだ。芭蕉や芥川龍之介が生きた土地と川である。一葉の写真がある。増田が撮影した「隅田川」の風景写真である。川の西側に柳橋があって、その背後にビル群がある。「隅田川」の川の水が、二つの色に分かれている。濃い色が「隅田川」淡い色は、「隅田川」に流れ込んだ「神田川」である。柳橋の下を「神田川」が流れている。
水の流れる風景は、ニンゲンのココロにとって、さまざまな思いを去来させる栄養素である。朝日、夕陽に輝く水面の光の暈、昇り下りする舟、終日見ていても飽きることがない。四季の川の貌も、花見の尾形船から隅田川の花火まで、見事な変化を覗かせてくれる。
増田みず子の言葉の原点も、「隅田川」の流れととものあるのかもしれない。「方丈記」の昔から「ゆく川の流れは絶えずして・・・」人のココロに、言葉の火を点もし続けている人、(川)である。

「本」の読み方
私は、中也の「春日狂想」に感動すると、中也のすべての作品を読みたくなる。そして、エッセイも、日記も、手紙も、翻訳も、中也について、書かれたすべての「本」も読みたくなる。最後には、「中原中也全集」全六巻を読む。
ドストエフスキーも『罪と罰』に驚愕すると、結局、同じように、全集二十巻を読んでしまう。
秋山駿の「本」は、『内部の人間』から『「生」の日ばかり』まで、ほぼすべて読み尽くした。残念ながら「全集」がない。『神経と夢想』(ドストエフスキー論)を「図書新聞」で、書評させていただいてから、出版する度に新刊を贈ってくれるようになったが。
「理系的」エッセイ集は、増田みず子を知る上で、貴重な「本」であった。充実した読書だった。

ちなみに、私の愛読する「エッセー」は、
①秋山駿の延々と続く「ノート」の言葉シリーズ。「私」とは何者か、「内部の人間」とは何者か、「石ころ」とは何かと、まるで巨大なひとつの作品である。
②(私)と(他者)のココロの水準器の揺れと見事に捉えたエッセイ。上質なユーモアと、精妙な文体によって紡がれるエッセイ。『須賀敦子全集』
③一切を考え尽くす(考える人)、哲学的エッセイの名手、池田晶子のすべての「本」(考えるコトバの宇宙)
④古典、モンテーニュの『エセー』全六巻。(ニンゲンのすべて)がある作品群。
「エッセイ」は、もちろん、ひとつの見事な「文学宇宙」のコトバである。

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• 水曜日, 3月 06th, 2024

敬愛する、評論家(思想家)の秋山駿が死んで、随分と季節が流れた。早いもので、もう11年にもなる。
命日の10月2日を、私は、勝手に「石の日」と呼んでいる。
秋山駿は、「私は一個の石ころ」である。と自覚して、「石ころ」の「生」を生きて、死んだ。こんなにユニークな生身のニンゲンに会えて、そのノートの言葉に耳を傾け、おつきあい頂いたのは、幸せであった。(25歳の出会いから約40年)「内部の人間」の声に触れた。毎年、命日には、処女作『内部の人間』や最高傑作『舗石の思想』や最後の作品『「生」の日ばかり』を読んで、在りし日の面影を偲んでいる。人は死んでも、その作品を読むと生身の声が、耳のそばに起きあがってくる。あの、低い、単調だが深い独特の声が「どうだい?最近は?書けなくてなあ」一年に一度は、電話で、近況を報告して、執筆の様子をお伺いした。
秋山さんが、死んでからは、奥方、法子さんと話をした。「法事、どうですか?」「誰も来る訳ないじゃないの。うちのおじさんが、あんな生き方をしたからね」義妹とたった二人の法事であった。
その法子さんも、難病に、もうひとつの病気が加わって、会話もできなくなってしまった。(法子さんには、私の「本」=「歩いて、笑って、考える」のデザインをしていただいたお礼を)
秋山駿について、書いたものなら、なんでも読みたい。私の知らない秋山駿の姿があるなら。
そんな時「図書新聞」に、作家・中沢けい氏の書いた書評が載っていた。『小説』というタイトルの小説。作家は増田みず子。(20年ぶりの小説出版)どうやら、作品の中に、秋山駿が、本名で登場する作品集らしい。(後で、作家・佐藤洋二郎も「東京新聞」で、『小説』の書評を書いていることを知って読んだ。)
早速、書店で「本」を取り寄せて購入し、一気に、一日で、読んだ。名前は知っていたが、増田みず子の小説を読むのは、初めてだった。いわゆる(私小説)である。(私)を探求する小説。「人生の検証」の小説であった。こんなに、シンプルな文体で、いわゆる(小説)になるのだろうか?エッセイとも小説ともつかぬ、ただひとつのものにむかって、進んでいく小説の文体。どこかで、見た覚えがある。秋山駿の、「私」を探求するだけの「ノート」の文体である。
一切の装飾を排して、必要な言葉だけで成立している呟きの文体の世界。リズムが心地良くて、直接、ココロに触れてくる。文章の自由度が高くて、小説小説していない。
『小説』は13篇の短篇小説から成る。増田は、約30年間で、百篇近い小説を書いている。芥川賞にも6回候補になっている。「本」は約30冊出版。増田を、「文学」の舞台にあげたのは、秋山駿だった。
雑誌の新人賞の候補を、秋山駿が絶賛した。増田にとって、秋山駿は恩人である。「群れずに暮らす夜行性の小動物のようだ」その後も、発表する度に、作品を分析、評価し、そこに、現代人のリアルを発見してくれた。
増田は、約35年間、小説を書いた後、一度筆を置いている。そして、一年に一作品のペースで(約10作)の小説を書いている。出版社の担当の編集者の元で書く小説ではなく、自分の思いの丈を、自由自在に書くスタイルで。「こころ」「雨傘」「線香花火」「言葉」これらの作品を書くために、作家になったような気がすると告白。なるほど、秀作である。
秋山駿が、実名で登場する作品が「言葉」「鏡のある部屋」「履歴」である。

小説は、何を、どう書いてもいい自由な器である。しかし、一番大事な人を、本名で登場させるとなると、最低守らなければならない「礼節」があると思う。
(実名小説の、実例は?ナタリア・ギンズブルグ著『ある家族の会話』ピエール・パシェ著『母の前で』)
「礼節」(恩人に対して)がある。書いてはいけないことがある。
①本人自身が書かなかったこと(言わないこと)
②あいまいな、他人からの伝聞
③「本人」の思想に反すること
④人間として、残酷なこと
エッセイであれ、小説であれ、実名で他人のことを書く場合、最低限の「礼節」というものがある。作家と評論家の関係も、二人三脚で(作品)を作り、時代を創り、(文学)の場を形成する場合がある。初期の大江健三郎と江藤淳、中上健次と柄谷行人。増田みず子にとって、秋山駿の役割りと言葉が、それである。書いた作家本人よりも、もっと深く読み込み、広く(作品)を時代に位置付けてくれる。
増田の作品には、秋山駿の批評の言葉に対する感謝と敬愛と喜びであふれている。発見してもらった作家の恍惚感が読者にも伝わってくる。

惜しむらくは『小説』の「鏡のある部屋」には、致命的な(疵)がある。(二ヶ所)
②「あいまいな、他人からの伝聞」をそのまま信用して、小説に書き込んでしまったことだ。しかも、それは「秋山駿の思想」を歪めてしまうことになる(③)
「子供」めぐる問題である。
「子供をもたない理由だ。イトコどうしの結婚だったから遺伝のことを心配したみたいだ、と知り合いから教わった」(引用)(秋山駿の愛読者の友より)
「繰り返すけど、秋山夫妻はイトコどうしと教えてくれた人がいる。それで子供を持たないと決意したということだ」(引用)
頭から火が出た!!なんということを書くのだ。恩人に対して。自分で調べもしないで。秋山駿の「本」をすべて読まないで。秋山駿の「内部の人間」の思想が死んで、歪んでしまう。「石ころ」は、子供を産まないんだ。「内部の人間」には、もう一人の別の血を分けた子供などいらないのだ。秋山の血を(私)で終りにしようとするその思いが歪んでしまう!!
増田みず子さん、『小説』、こんなに見事な作品なのに、たったひとつの(疵)が、作品を台なしにしてしまう。どうか、その部分を削って、消して下さい。(再販の時に)

秋山駿には「生」の綱領がある。
私は一個の石ころである①「内部の人間」の発見
私は自分の(家)は持たない②
私は自分の(土地)を持たない③
私は自分の(子供)を持たない④
私は一切の血族の関係を断つ⑤
以下、生活のすべてにおいて(必要)なものだけを最低限持つが、余分なものはいらない。(お金も)まるで、デカルトのような、合理的な方法で、秋山駿は生きた。日本風な、じめじめした、風土、習慣、人間関係を嫌悪した。
もちろん、結婚式などしない。妻を実父や義母にも会わせない。妻の父母への挨拶もなし。兄とも死ぬまで会わない(兄が何をして、生きているのか、兄が死んで、はじめて、教師だと知った)父の葬式にも出ない。とにかく、徹底している。
原因?自分の心性である。自分の存在が他人を苛立たせる。自分の言葉が他人を傷つける。
父との確執。父は貧しくて、小学校卒。国鉄へ就職。人一倍働いて、課長に。出世頭。同期の希望の星。明治の人。武士の家系。
「文学」に目覚めた息子と話が合わない。(デカルト、ランボー、ヴァレリー、ドストエフスキー、中也)
母の死。(中学校)父の再婚(義理の妹生まれる)
耳の手術(片耳が聞こえなくなる)
敗戦時の少年の体験と見聞。
「内部の人間」の発見!!
「私とは何者か?」という永遠のテーマーに憑かれて、私だけの言葉を発見(ノートの言葉)。
そして、ひばりヶ丘団地へ。秋山駿の夫婦二人三脚、同行二人の旅のはじまりである。(秋山駿は「スポーツ報知」へサラリーマン。夜は評論を書く日々。妻は、ブック・デザイナー)
妻の父は、宇都宮の大学教授。妻はその一人娘。
秋山駿の母は、長野県、須坂のお寺の娘。何もいらないから、大学へ行きたいと目白の「日本女子大」へ(卒論は?「法然」であった)
どうして、秋山駿と法子さんが、イトコどうしか、さっぱりわからない。(山梨と長野と東京池袋)
秋山駿は、自著『舗石の思想』で書いている。「私たち夫婦には子供がない。私の咎のために」と。そして、妻にはしたが、女としての母の役割りも、嫁としての役割りも与えることはできなかったと。
原因は、(私の咎)であると明言している。決して(イトコどうし)のためなどとは、書いていない。秋山駿、「内部の人間」「石ころ」その心性。歩行者。無私の人。

秋山駿!!
人と人の結ぼれの、その関係を断った人。(「分裂少女の手記」など精神の病の「本」をよく読んだ。心性が自分に似ていると)
最後には、サラリーマンでもなく、非常勤講師でもなく、文芸評論家でもなく、私だけの(ノート)の言葉の住人であった人。石ころの「生」を生き、石ころの「死」を死んで「内部の人間」を貫いた人。

増田みず子の主な作品を(「シングル・セル」など)初期作品を是非読みたいと思って、書店に行ってみたが、「文庫本」すら、一冊もなかった。
(25歳で、早稲田の「喫茶店」でお会いして、約40年、座談会、対談、お酒、魚釣り、書評といろいろお世話になった秋山駿である。)

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