Archive for the Category ◊ 作品 ◊

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• 水曜日, 3月 06th, 2024

増田みず子の、最後の『小説』を読み終えた時、しばらくして、最後の「本」と本人が言っている、エッセイ集『理系的』が出版された。早速、購入して、読んでみた。
全六章から成る、エッセイ集である。新聞や雑誌にも載せたものを
第一章 理系と文系のあいだで
第二章 生命の響き合いー立派に生きること
第三章 読むことと書くこと
第四章 ライフについて
第五章 本棚と散歩道
第六章 隅田川のほとりから
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「小説・詩などの作品」と「エッセイ」の言葉
増田は、多くのエッセイが、自分が「小説」を書かなかったら、生まれなかったと言っている。(おそらく、新聞社や雑誌の出版社から依頼されて、書いたものだろう)
「小説は、虚構であって、想像力を使って、自由に書くもの」(物語)①
「エッセイは?見た、聞いた、読んだ、体験した(事実)をそのまま書くもの。」(現実)②
「文学で書かれたこと、文章で書かれた「本」は、すべて「言葉」の世界の(ジジツ)であって、(現実=事実)は、言葉の外の世界にある。(現象)③
(事実)は、体験した人の、立場、位置、視点によって、異なるものであって、それぞれの(事実)がある。たったひとつの、真実の(事実)などない。(相対論)④
増田は、少女時代から、二つの夢を持っていた。(生命)の不思議を探求するために(研究者)になること。(理系)もうひとつは、面白くて仕方がない小説の作者になること。(文系)
東京農工大学に入学。研究者の道へ。実験生活。挫折する。そして、偶然にも(作家)の道がひらける。
理系の作家と文系の作家?
安部公房(東大・医学部)円城塔(東大・理系のドクター)A
増田も、その系列に入ることになる。
川端康成(東大・国文)太宰治(東大・文系)B
日本的な風土、情的世界での人間関係を描く文系の作家たちB
世界的視点(共通)で、物そのものや存在の不思議を描く理系の作家たちA
AとBを比較してみれば、理系と文系の作風のちがいがすぐにわかるだろう。

日本の風土に育った文系の作家たちは、(場)(抒情)(情念)の物語を書く。松本清張、山田洋次、小津安二郎、浅田次郎、重松清の作品は、(情)と(泣き)が中心である。いかにも日本的。
言葉の根は何処にある。増田のエッセイで、面白いのは、「隅田川」のほとりで、生れ、育ち、生活して、その感性と心性が培われて「言葉」と「科学」の二方向へと成長していった様が、如実にわかる点である。
下町の、家族の生活、風俗、風土、習慣が「隅田川」の流れとともにあることだ。芭蕉や芥川龍之介が生きた土地と川である。一葉の写真がある。増田が撮影した「隅田川」の風景写真である。川の西側に柳橋があって、その背後にビル群がある。「隅田川」の川の水が、二つの色に分かれている。濃い色が「隅田川」淡い色は、「隅田川」に流れ込んだ「神田川」である。柳橋の下を「神田川」が流れている。
水の流れる風景は、ニンゲンのココロにとって、さまざまな思いを去来させる栄養素である。朝日、夕陽に輝く水面の光の暈、昇り下りする舟、終日見ていても飽きることがない。四季の川の貌も、花見の尾形船から隅田川の花火まで、見事な変化を覗かせてくれる。
増田みず子の言葉の原点も、「隅田川」の流れととものあるのかもしれない。「方丈記」の昔から「ゆく川の流れは絶えずして・・・」人のココロに、言葉の火を点もし続けている人、(川)である。

「本」の読み方
私は、中也の「春日狂想」に感動すると、中也のすべての作品を読みたくなる。そして、エッセイも、日記も、手紙も、翻訳も、中也について、書かれたすべての「本」も読みたくなる。最後には、「中原中也全集」全六巻を読む。
ドストエフスキーも『罪と罰』に驚愕すると、結局、同じように、全集二十巻を読んでしまう。
秋山駿の「本」は、『内部の人間』から『「生」の日ばかり』まで、ほぼすべて読み尽くした。残念ながら「全集」がない。『神経と夢想』(ドストエフスキー論)を「図書新聞」で、書評させていただいてから、出版する度に新刊を贈ってくれるようになったが。
「理系的」エッセイ集は、増田みず子を知る上で、貴重な「本」であった。充実した読書だった。

ちなみに、私の愛読する「エッセー」は、
①秋山駿の延々と続く「ノート」の言葉シリーズ。「私」とは何者か、「内部の人間」とは何者か、「石ころ」とは何かと、まるで巨大なひとつの作品である。
②(私)と(他者)のココロの水準器の揺れと見事に捉えたエッセイ。上質なユーモアと、精妙な文体によって紡がれるエッセイ。『須賀敦子全集』
③一切を考え尽くす(考える人)、哲学的エッセイの名手、池田晶子のすべての「本」(考えるコトバの宇宙)
④古典、モンテーニュの『エセー』全六巻。(ニンゲンのすべて)がある作品群。
「エッセイ」は、もちろん、ひとつの見事な「文学宇宙」のコトバである。

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• 水曜日, 3月 06th, 2024

敬愛する、評論家(思想家)の秋山駿が死んで、随分と季節が流れた。早いもので、もう11年にもなる。
命日の10月2日を、私は、勝手に「石の日」と呼んでいる。
秋山駿は、「私は一個の石ころ」である。と自覚して、「石ころ」の「生」を生きて、死んだ。こんなにユニークな生身のニンゲンに会えて、そのノートの言葉に耳を傾け、おつきあい頂いたのは、幸せであった。(25歳の出会いから約40年)「内部の人間」の声に触れた。毎年、命日には、処女作『内部の人間』や最高傑作『舗石の思想』や最後の作品『「生」の日ばかり』を読んで、在りし日の面影を偲んでいる。人は死んでも、その作品を読むと生身の声が、耳のそばに起きあがってくる。あの、低い、単調だが深い独特の声が「どうだい?最近は?書けなくてなあ」一年に一度は、電話で、近況を報告して、執筆の様子をお伺いした。
秋山さんが、死んでからは、奥方、法子さんと話をした。「法事、どうですか?」「誰も来る訳ないじゃないの。うちのおじさんが、あんな生き方をしたからね」義妹とたった二人の法事であった。
その法子さんも、難病に、もうひとつの病気が加わって、会話もできなくなってしまった。(法子さんには、私の「本」=「歩いて、笑って、考える」のデザインをしていただいたお礼を)
秋山駿について、書いたものなら、なんでも読みたい。私の知らない秋山駿の姿があるなら。
そんな時「図書新聞」に、作家・中沢けい氏の書いた書評が載っていた。『小説』というタイトルの小説。作家は増田みず子。(20年ぶりの小説出版)どうやら、作品の中に、秋山駿が、本名で登場する作品集らしい。(後で、作家・佐藤洋二郎も「東京新聞」で、『小説』の書評を書いていることを知って読んだ。)
早速、書店で「本」を取り寄せて購入し、一気に、一日で、読んだ。名前は知っていたが、増田みず子の小説を読むのは、初めてだった。いわゆる(私小説)である。(私)を探求する小説。「人生の検証」の小説であった。こんなに、シンプルな文体で、いわゆる(小説)になるのだろうか?エッセイとも小説ともつかぬ、ただひとつのものにむかって、進んでいく小説の文体。どこかで、見た覚えがある。秋山駿の、「私」を探求するだけの「ノート」の文体である。
一切の装飾を排して、必要な言葉だけで成立している呟きの文体の世界。リズムが心地良くて、直接、ココロに触れてくる。文章の自由度が高くて、小説小説していない。
『小説』は13篇の短篇小説から成る。増田は、約30年間で、百篇近い小説を書いている。芥川賞にも6回候補になっている。「本」は約30冊出版。増田を、「文学」の舞台にあげたのは、秋山駿だった。
雑誌の新人賞の候補を、秋山駿が絶賛した。増田にとって、秋山駿は恩人である。「群れずに暮らす夜行性の小動物のようだ」その後も、発表する度に、作品を分析、評価し、そこに、現代人のリアルを発見してくれた。
増田は、約35年間、小説を書いた後、一度筆を置いている。そして、一年に一作品のペースで(約10作)の小説を書いている。出版社の担当の編集者の元で書く小説ではなく、自分の思いの丈を、自由自在に書くスタイルで。「こころ」「雨傘」「線香花火」「言葉」これらの作品を書くために、作家になったような気がすると告白。なるほど、秀作である。
秋山駿が、実名で登場する作品が「言葉」「鏡のある部屋」「履歴」である。

小説は、何を、どう書いてもいい自由な器である。しかし、一番大事な人を、本名で登場させるとなると、最低守らなければならない「礼節」があると思う。
(実名小説の、実例は?ナタリア・ギンズブルグ著『ある家族の会話』ピエール・パシェ著『母の前で』)
「礼節」(恩人に対して)がある。書いてはいけないことがある。
①本人自身が書かなかったこと(言わないこと)
②あいまいな、他人からの伝聞
③「本人」の思想に反すること
④人間として、残酷なこと
エッセイであれ、小説であれ、実名で他人のことを書く場合、最低限の「礼節」というものがある。作家と評論家の関係も、二人三脚で(作品)を作り、時代を創り、(文学)の場を形成する場合がある。初期の大江健三郎と江藤淳、中上健次と柄谷行人。増田みず子にとって、秋山駿の役割りと言葉が、それである。書いた作家本人よりも、もっと深く読み込み、広く(作品)を時代に位置付けてくれる。
増田の作品には、秋山駿の批評の言葉に対する感謝と敬愛と喜びであふれている。発見してもらった作家の恍惚感が読者にも伝わってくる。

惜しむらくは『小説』の「鏡のある部屋」には、致命的な(疵)がある。(二ヶ所)
②「あいまいな、他人からの伝聞」をそのまま信用して、小説に書き込んでしまったことだ。しかも、それは「秋山駿の思想」を歪めてしまうことになる(③)
「子供」めぐる問題である。
「子供をもたない理由だ。イトコどうしの結婚だったから遺伝のことを心配したみたいだ、と知り合いから教わった」(引用)(秋山駿の愛読者の友より)
「繰り返すけど、秋山夫妻はイトコどうしと教えてくれた人がいる。それで子供を持たないと決意したということだ」(引用)
頭から火が出た!!なんということを書くのだ。恩人に対して。自分で調べもしないで。秋山駿の「本」をすべて読まないで。秋山駿の「内部の人間」の思想が死んで、歪んでしまう。「石ころ」は、子供を産まないんだ。「内部の人間」には、もう一人の別の血を分けた子供などいらないのだ。秋山の血を(私)で終りにしようとするその思いが歪んでしまう!!
増田みず子さん、『小説』、こんなに見事な作品なのに、たったひとつの(疵)が、作品を台なしにしてしまう。どうか、その部分を削って、消して下さい。(再販の時に)

秋山駿には「生」の綱領がある。
私は一個の石ころである①「内部の人間」の発見
私は自分の(家)は持たない②
私は自分の(土地)を持たない③
私は自分の(子供)を持たない④
私は一切の血族の関係を断つ⑤
以下、生活のすべてにおいて(必要)なものだけを最低限持つが、余分なものはいらない。(お金も)まるで、デカルトのような、合理的な方法で、秋山駿は生きた。日本風な、じめじめした、風土、習慣、人間関係を嫌悪した。
もちろん、結婚式などしない。妻を実父や義母にも会わせない。妻の父母への挨拶もなし。兄とも死ぬまで会わない(兄が何をして、生きているのか、兄が死んで、はじめて、教師だと知った)父の葬式にも出ない。とにかく、徹底している。
原因?自分の心性である。自分の存在が他人を苛立たせる。自分の言葉が他人を傷つける。
父との確執。父は貧しくて、小学校卒。国鉄へ就職。人一倍働いて、課長に。出世頭。同期の希望の星。明治の人。武士の家系。
「文学」に目覚めた息子と話が合わない。(デカルト、ランボー、ヴァレリー、ドストエフスキー、中也)
母の死。(中学校)父の再婚(義理の妹生まれる)
耳の手術(片耳が聞こえなくなる)
敗戦時の少年の体験と見聞。
「内部の人間」の発見!!
「私とは何者か?」という永遠のテーマーに憑かれて、私だけの言葉を発見(ノートの言葉)。
そして、ひばりヶ丘団地へ。秋山駿の夫婦二人三脚、同行二人の旅のはじまりである。(秋山駿は「スポーツ報知」へサラリーマン。夜は評論を書く日々。妻は、ブック・デザイナー)
妻の父は、宇都宮の大学教授。妻はその一人娘。
秋山駿の母は、長野県、須坂のお寺の娘。何もいらないから、大学へ行きたいと目白の「日本女子大」へ(卒論は?「法然」であった)
どうして、秋山駿と法子さんが、イトコどうしか、さっぱりわからない。(山梨と長野と東京池袋)
秋山駿は、自著『舗石の思想』で書いている。「私たち夫婦には子供がない。私の咎のために」と。そして、妻にはしたが、女としての母の役割りも、嫁としての役割りも与えることはできなかったと。
原因は、(私の咎)であると明言している。決して(イトコどうし)のためなどとは、書いていない。秋山駿、「内部の人間」「石ころ」その心性。歩行者。無私の人。

秋山駿!!
人と人の結ぼれの、その関係を断った人。(「分裂少女の手記」など精神の病の「本」をよく読んだ。心性が自分に似ていると)
最後には、サラリーマンでもなく、非常勤講師でもなく、文芸評論家でもなく、私だけの(ノート)の言葉の住人であった人。石ころの「生」を生き、石ころの「死」を死んで「内部の人間」を貫いた人。

増田みず子の主な作品を(「シングル・セル」など)初期作品を是非読みたいと思って、書店に行ってみたが、「文庫本」すら、一冊もなかった。
(25歳で、早稲田の「喫茶店」でお会いして、約40年、座談会、対談、お酒、魚釣り、書評といろいろお世話になった秋山駿である。)

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• 火曜日, 3月 05th, 2024

那佐という風景を発見すると 音と形と色の交響曲が時空を超えて流れてくる ナ サ ナサという美しい音を舌の上で何度か転がしてみると ひとつの風景が立ちあがってくる ナサ NASA 那佐という言葉の向う側に那佐というコトバの原初が見えてくる 言葉は呪術でもある 古代から この土地の人々は「波」のことを「ナ」と呼んでいた 波の騒ぐ場処 文字が伝わると 和那佐があてがわれ 後に 省略されて 那佐となった(阿波風土記)美しい入江にきれいな透明な水が流れていて そこで食べた貝(志深里)が 実に美味しかったと履仲天皇も語っている(播磨風土記)和那佐意富曽神社の誕生の地 四国は海に囲繞されているが 実は 同時に山の国でもある 剣山から石鎚山まで東西に四国山脈が走り そこから 四方八方に 無数の山や峯や連峰が点在して 海へと雪崩れ込むから 平野は少なく狭い 土佐と阿波の国境に 宍喰という町があって その町の北側に鈴ヶ峰という連峰があり その裾野は数キロにわたって なだらかに東へ延びて 太平洋へ突入する その麓に 20~30軒の集落がある 那佐だ 陸地に添って 平行に「陸繋島」が走っている 入江が那佐湾である 西側に美しい砂嘴があって 半島は 緑で蔽われた巨大な戦艦のように海に浮かんでいる 岬だ 天然の良港である
四季の 那佐湾の入江に流れる水を 1800回以上視ただろうか 通学バスに揺られて 宍喰から海南高校まで 約30分 バスは那佐湾の岸辺を走りぬけていく 行きは バスの右側に 帰りはバスの左側の窓際に立って 緑の水が千変万化する光景を眺めた 長い長い梅雨が終った初夏 入江の水は 緑の中の緑となって燃えあがった 青空の光 松の緑 ウバメガシの深い緑を映して 水面に緑の王国が出現した 緑色の革命? 緑の爆発 光と水の祭典 入我我入 一瞬が永遠であるような「一即無限」の小宇宙が那佐湾の入江に流れる緑の水に発生 水の道であろうか 緑の水がイデアになった 那佐は 正に アジールであった

※大河小説「百年の歩行」(現在、執筆中)の第二章を「散文詩」にしてみました。

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• 水曜日, 2月 07th, 2024

六十有余年、「文学」の最前線で書き続けた大江健三郎が逝った。同時代を生きる文学者でもっとも、私の文学の眼を開かせてくれた作家だった。初期作品から最後の小説まで主力作品を読み返している。「三つの文体」を生きた作家である。つまり、三回、人間が、思想が変わった。生涯、現役で書き続けた。円熟した老作家ではなく、(現実)に生きるニンゲンとして。

大江健三郎は、60年代、70年代の同時代を生きる者たちにとって「新しい文学の旗手」であった。文学青年はもちろん、政治青年も「大江健三郎」を読んだ。作家であり、オピニリオンリーダーでもあった。新作が出るたび、その作品を読んで、大江が何を書いたのか、語り合っていた。立花隆も、中上健次も、立松和平も、もちろん、私も「第二の大江健三郎」をめざしていた!!

「三つの文体の移ろい」
①文体の中にしか(小説)はない。
大江の「飼育」など、初期作品は新しい時代の感性の言葉で描かれていた。まるで、ピエール・ガスカール(フランス)が日本に誕生したような、新しい文体であった。(「種子」「街の草」「けものたち 死者の時」)のガスカールの具象がそのまま抽象になるようなシンボリックな文体)
大江の初期小説の「文体」は、まるで、ピエール・ガスカール風であった。

②「実在的な文体」の出現と想像力による文体の結出
「万延元年のフットボール」は、日本にも、こんな文体が出現したのかと驚愕した作品であった。私が「新しい文学」に目覚めたのは、正に、この本の「文体」に出会ったお陰である。ハンマーで、頭をなぐられたような衝撃であった。(評論家・盟友の江藤淳は、その翻訳のような文体は、小説ではないと断言して、以後、大江健三郎の小説を読まなくなった。大江の小説の良き理解者であったのに)
フランスでは、まったく、新しい「文学」が誕生していた。ル・クレジオの「調書」「大洪水」「物質的恍惚」である。大江は。同時代のライバルとして、ル・クレジオを意識していたにちがいない。
言葉の大洪水が、ル・クレジオだった。大江の「万延元年のフットボール」に匹敵する、想像力の「文体」の出現。従来の「小説」の形を破壊した、ル・クレジオの作品。おそらく、ヌーボー・ロマンの最高傑作である。
それから、大江健三郎は「文化人類学」の(知)などを取り入れて、実験的な小説を量産した。なぜか、私は、その(知)に対して、反撥があって、しばらく、大江の小説から離れた。そして、「父」をテーマにした「水死」で大江健三郎作品に戻っていた。

そして、最後の小説の「文体」多視点的な文体である。自分の作品が、過去が、多視点的に批判的に語られる。同時に、3・11のフクシマの危機、人間の危機も語られる小説。大江自身を、作品を、他人の眼によって晒してしまう小説である。なぜ、大江は、最後の小説を「長篇詩」で締めくくったのか?ビジョンを語るには、(詩)の形が良いから?

大江健三郎の母は、生涯、息子・大江健三郎の「小説」を受け入れることがなかっただろう、と思う。大江の小説に登場する(妹、親族たち)も、ソレは(私)ではないと反発しただろう。
大江の(想像力)とは、いったい、何だったのか?大江の描く(父)は、その母にとって、まったく(現実の父)とは認められないものだった。なぜ?母の知っている(父の事実)と大江の描く(父のジジツ)が、余りにも、歪められていて、二人の共通の(夫・父)に重ならないからだ。
母は、大江の小説が、地元では、受け入れられない(異物)であると感じていた。<事実>(母の)と<ジジツ>(大江の)差異。
大江の書く人物は、自然なニンゲンというよりも、大江風に歪められていてグロテスクである。
妹は「あなたに一面的な書き方で小説に描かれて来たことに不満を抱いている」(「晩年様式集」)と、最後の小説で、大江も告白している。
自然主義作家の、正宗白鳥が書く、弟、妹、父や母たち「リー兄さん」(入江のほとり)と大江の書く親族たちは、まったく別の「小説」である。世界が違う。
ニンゲンを描くことにおいて、白鳥と大江の言葉の、どちらが、深いところに達しているか?(単に「私小説」と「全体小説」の差だとは思えない。)
(現実)の(事実)と、(小説)の(ジジツ)がある。大江は、想像力を駆使して、(小説)の(ジジツ)を描くのだ。しかし、描かれたモデルたちは、(小説)の(ジジツ)として自分に対して、ソレはちがう!!と反発するだろう。(私)は、そんなニンゲンではないと。

大江自身、膨大な小説を生涯書いてきたが、最後の小説「晩年様式集」では、長篇詩を書いて、「本」を閉じた。その中に「自分の想像力の仕事など、なにほどのものだったか、と」述懐する二行がある。
ノーベル文学賞までもらった大江健三郎に、そんな言葉を吐かれても、他の作家や読者は弱ってしまう!!

大江は小説家であるが、詩人としての資質もある。(大江の小説のタイトルを見よ!!)「万延元年のフットボール」「洪水はわが魂に及び」「ピンチランナー調書」「新しい人よ目覚めよ」「鯨の死滅する日」
126行の長篇詩で終る、小説「晩年様式集」である。
①「自分の木」がある。(四国の森の伝承)
人が死ぬと、魂は、その「自分の木」に着地する。
②「私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる」
詩には、2つのメッセージが、声高らかに唱われている。(若い人たちへ)六十余年の、大江健三郎の文学的な仕事が、たどり着いたコトバである。

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• 日曜日, 10月 01st, 2023
3751. 宇宙の原質に触れること。そのリアリティを楽しむこと。これ以上のニンゲンの楽しみはない。その為には?何をする?(歩くこと)と(瞑想すること)だ。

3752. (宇宙)を歩くこと(宇宙の大歩行者)(宇宙)を瞑想すること(無限者)簡単だが一番難しい行為である。

3753. 一流の詩人・作家は。来た「コトバ」を超人のように「言葉」に変換する!!だから、読者は、言葉を読んで、「言葉の向こう側のコトバ」を見なければならない。深く読むとは、そういう行為のことだ。

3754. ボクら、ニンゲンが日々見ている(現実)は宇宙が見ている夢のひとつかもしれぬ。無数の宇宙のコトバが放射されている。

3755. (私)は失神する。宇宙の2000億個の銀河を数えようとして。

3756. 時間が足りない。間に合わない。何に?なぜ?どうして?途方にくれて。放心する。

3757. 目覚めたり、正気になったり、悟ったりすることが可能であろうか?(正しいこと)も選べないニンゲンが。

3758. 生きれば生きるほど、モノが見えるのではない。(私)という存在の一切が、無化されていく。

3759. 老人になると、あの少年もあの青年も(私)ではなかった、別の生きものだと、わかってくる。(今、ここ)は単純な時空ではない。

3760. (無)から(有)は生れない。かつて、ニンゲンは、そう考えた。いや、いや、いや、今では、(無)からこそ一切が発出する!!無数の宇宙も。

3761. 在ったり、無かったり、在ったり、無かったり、同時に、在るところで、量子たちが踊る。視よ、宇宙で踊る量子たちを。過去も未来もない。もちろん、現在も。

3762. 量子を正視すると、ニンゲンは気が狂ってしまう。だから、見てはいけない。考えてもいけない。沈黙している。わからないものは、わからないまま放っておくこと。

3763. 色は脳が見る。眼は分光器だ。決して(現実の色)をニンゲンが見ることはない。

3764. 存在者は、存在を楽しむ以外に術はない。ホトケまで、自分自身を楽しんでいる。(法身という存在)

3765. 意味は、ニンゲンだけにある。非・意味の宇宙に意味を求めても仕方がない。

3766. 「無」から「零」まで、無限の旅。

3767. おそろしいことに、正確に問わなければ「問い」そのものが無効になる。

3768. 解き、解き放たれて、宇宙の迷い児。

3769. 自由を求めすぎて、十一次元に棲みついてみたが。

3770. 四次元は、結局、ニンゲンにはちょうどいい器。

3771. 音が光る。文字が光る。色が光る。(私)が光る。すべては(光)へ、(光)から。

3772. 何もしないという人は、存在自体を楽しんでいるのだ。「良寛」のように。

3773. (無)から(1)が発出するためには、(1)の存在する(場)がいる。(1)を認知するための眼(意識)がいる。

3774. 超高温の火の玉が(無)から発出するためのエネルギーと、爆発して時空を創造するインフィレション。ビッグ・バン以前の(無)から(無限)の顕現への偶発。

3775. あとは、ビッグ・バンの風に吹かれて銀河やブラック・ホールの出現の中に、恒星のチリが創る惑星の誕生、そして、終に、単細胞から(意識)が現れる。

3776. (意識)があるから、宇宙という存在が、見えてくる。

3777. (私)の誕生まで、悠久の時が流れて、日常のセイカツがやってくる。永遠の中の一日が。

3778. ニンゲン(私)は、ひとつの単細胞が咲かせた、38億年の華である。

3779. スーパーシステムとしてのニンゲンはひとつの単細胞がみた夢であるか。

3780. 量子としての(私)はあらゆる時空に偏在している。

3781. 量子はコトバである。無数の量子が(私)にやってくる、コトバとして。だから、(私)は、そのコトバを誰もがわかる言葉に置き換える。

3782. 天から降ってきたものを(コトバ)アラビア語という言葉にかえたマホメット(モハメット)の話は、どうやら、本当だ。(「コーラン」)

3783. 宇宙まで突きぬけるコトバを放つ!!全細胞の力を一点に集中して、全エネルギーで放つコトバ。(放つと同時に死ぬ)宇宙の沈黙と均り合うほどの。

3784. テーマやプロットや物語を話しても、仕方がない。問題は、文体である。同じテーマ(事実)を扱った「本」でも、一人一人文体がちがうから、(事実)はひとつではなく、さまざまなコトバの素となる。

3785. どだい、「作品」を、自分の言葉で語ったり、解釈しようとすること自体が、誤ちである。文体をもった作品は、ひとつのオリジナルの宇宙だから。

3786. とうとう、わが地球は”温暖化”を通り過ぎて、”沸騰”の時代に入ったと(国連)

3787. もう、臨界点は過ぎて、人間の手(知恵)ではどうにもならぬ、後戻りできぬ。

3788. つまり、ニンゲンは、滅びの時代に突入した・・・と。まだ、宇宙への入口にしか立っていないのに。

3789. 便利さを求めて、効率さを求めて、速く、遠くへ、最大に。多量に。

3790. 文化も文明も、よく考えてみれば諸行無常の鐘の音だった。自分で自分の葬式の鐘を鳴らしていたのだ!!

3791. いつも、無限遠点からやってくる宇宙線に刺し貫かれるような視点で、モノを考えることだ。(目覚めよ、ニンゲン)

3792. どんな天才も、スーパースターでもニンゲンである限り、「人間原理」のもとに、生きて、死んでいく。「宇宙原理」には至れない。(生・老・病・死)である。法(ダルマ)の下に。

3793. 大事なものは、すべて、向かう側からやってくる。だから、ニンゲンは歩かねばならぬ。(出合いのために)

3794. 他界からやってくるものをも、見なければならない。(聴かなければならない)冥途の色に染まったコトバも。

3795. 宇宙が放っている無限のコトバを、ニンゲンは、必死で、言葉に変える動物である。(まだ、百分の一にも達していないが)

3796. 詩は、突然、降ってくる。コトバを、言葉に変換するものであるが、どうであろう、100作品に1作くらい、成功するであろうか?

3797. (木)は、木自体というコトバを放っているから(木)という言葉で呼ばれる。(草)は草自体というコトバを放っているから(草)という言葉で呼ばれる。以下、ココロも身体も同じこと。ニンゲンが見るべきは、もちろん言葉よりもコトバである。

3798. ニンゲンは、聞こうとする音しか聞かない。見ようとするものしか、見えない。考えようとすることしか、考えない。(存在)を発見するのは(私)である。

3799. 私の内部に音を響かせ、私の内部にモノを見て、私の内部に(イデア)をひらめかせる。

3800. いつも、外部は内部だ。その中心には意識がある。原子の存在を知らない者には原子の姿は見えない。(あってもなくても)(私の死)は見えない。(私の死)はないから。

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• 月曜日, 8月 21st, 2023

私の呼吸(リズム)を宇宙の呼吸(リズム)に 合わせてみる
そのチューニングが
一日の(私)の仕事(?)だ

何をしていても どこにいても いつでも
コレハ(私)ノ仕事デハナイ
コレハ(私)ノ場所デハナイ
長い間 そんな奇妙な感覚で生きてきた

歩きに歩いて物を売ったセールスマンの時
「本」作りに熱中したエディターの時
会社を経営した 休日もない社長の時
どの椅子も 私のココロとカラダには
ぴったりと合わなかった
いつも 足の裏がヒリヒリしていた

そして ある日 あらゆる椅子を棄て去った
白昼 私が歩いていると 他人に まるで
幽霊じゃないかと言われてしまった(正体が見破られた!!)
とうとう こんなところまで 来てしまった

もう遊行の時だった(モウ 何モ スルコトガナイ 人間ハ
本当ニ 何ヲシテイルノカ 何モ知ラナイ 永遠ノ宇宙ノ相ノ下デハ
ソシテ 今ハ 特別ニ 何モ 言ウコトガナイ)

私は 確かに 何かを問いたいのではない (私)は宇宙の「問い」の
真っ只中にいた モノゴトは 正しく問わねば「問い」そのものが無効になる

(私)に残された最後の仕事は? 道端に ただ ゴロンと転がっている
一本の木材のように 沈黙して 正しい姿勢(?)で 宇宙に 立ち向かってみることだ

(私)は 宇宙の難破船になって 解体されて (私)を解き放ち
四方八方へと砕け散り 揺れて 漂って 浮遊しながら 超(私)に至る
つまり
(一即無限)へ 38億年の華咲く 道(タオ)へ

(2023年4月17日)

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• 月曜日, 8月 21st, 2023

水だけが流れるのではない
木が流れる 石が流れる 鉄が流れる
ココロが流れる 昆虫が流れる
ニンゲンが流れる 季節が流れる
コロナが流れる 戦争が流れる
 何処へ?
あらゆるものが 分解の王国という川へと流れる
顕現した一切のモノもコトも生成の王国へとむかい
その頂点に達すると
一気に分解の王国へと崩れ落ちて流れ込む

 朝は昼へ 昼は夜へ そして
夜と昼の彼方へ
24時間の外部へと流れる
光も闇も崩れ去って減尽へと流れる

眼の前で 父と母が流れ 弟が流れ
友が流れ 次から次へと生命が流れ
叫び声があがり 啜り泣きが流れ
慟哭の声もあって 沈黙が来る

もちろん(私)も流れっぱなしだ
もう(私)も 生の頂点を とっくに過ぎた
百年・千年・万年・億年と宇宙スケールの 分解の王国が大河となり瀑布となって宇宙に流れている

 まだ(実数)である(私)も とうとう
存在のゼロ・ポイントを超えて
(虚数・i)という(私)へと流れていく
意識は白昼・現象という幻を見ている
 超自我の眼で見れば いたるところに 幻花が咲き乱れている
幻花も 流れる

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• 木曜日, 2月 09th, 2023
3701. 400年の時空を超えて「スピノザという風」が吹き渡ってくる!!「エチカ」という言葉の火を燃やしながら。

3702. その速度、強度、スケールは21世紀という時代に置いても決して古びることのないコトバである。

3703. 中世における、カミの時代の汎神論、無神論は、とぴっきりのものであるが、スピノザの凄みは宇宙における(私)の不思議を探求したところにある。自然はカミ。

3704. 1から無限まで、すべてを、自分の思惟のみで築きあげた、スピノザという建築。

3705. 20世紀の、最高の哲学者、ジル・ドゥルーズが思考の風となって、「スピノザ」を書きあげた。風と風が正面衝突するスリル。「読む」の究極の「本」。「来たるべき書物」だ!!

3706. 「無為の時間」は、老人の一番の楽しみであり、特権でもある。終日、風に揺れる木々を眺めている。

3707. 流れている、流れている、流れている。何が?木が、風が、時間が、空間が、私が、宇宙が!!(飽きることなどある訳がない)

3708. 役に立つ?有用?無用?会社の?社会の?世間の?家の?国の?そんなことはすべて、棄てる!!(無用の用)

3709. 何もしたくない(気力という気力が消え失せて)。そうやって、ヒトは、滅びていくのだ。何もしないヒト。

3710. 何もない日を生きている。(反復)つまり、一日の流れが、色も形も匂いも、すべてが同じものに見えてしまう。特別なことはない。

3711. 誰のコトバでもないコトバをそのコトバを(私)のものとして輝かせる固有の光。幾多の、詩人、作家たちが立ちむかっては、滅びていった。

3712. コトバの死の光り。(死)のコトバではない。

3713. 内なる(死)を宿さないコトバは、輝くことがない。

3714. 存在の消失点、不可触の地点から来るコトバ。思考を超えて。

3715. 無限噴出がある。無限消失がある。たったひとつのコトバに支えられて。

3716. わかった!!と思った瞬間に、もう、変化して、すりぬけてしまうもの。コトバも破壊されて。

3717. ココロを、ゼロ・ポイントに落としても読めるコトバ。ココロを、ゼロ・ポイントに落としても書けるコトバ、来たるべき唯一の「本」とは、そんな、言葉の向う側のコトバで書かれたものである。そんな「本」が、世の中に、何冊ある?

3718. ココロが、必要とする、コトバだけ、パンのように食べたい。

3719. 虚数のようなコトバ。自然に見ると、見えないコトバ。ひとひねりして、ある角度から眺めると、浮きあがってくるコトバ。

3720. まるで、毎秒、身体を通りぬけていく、宇宙線のように存在しているコトバ。

3721. 蝉の鳴く声には正確なリズムがある。光にも、光のリズムがあるのであろうか?

3722. (実)から(虚)へと(虚)から(実)へと吹きぬける風がある。宇宙の原初から。

3723. 白昼光の中で幽霊を見る。いったい、何の幽霊か?狂うなよ、意識!!

3724. 眼の限界を超えてまで見てしまいたいニンゲン。そこにあるのは、何?虚数のようなものか?

3725. カンカン照りの真夏日の歩行は怖い。何を見てしまうか、わからない。何時の間にか、境界を超えていて。

3726. 宇宙が見ている無数の夢のひとつが(私)であろうか?(私)も宇宙の夢を見るが。

3727. ジレンマ。矛盾。ダブル・バインド。全力で生きる-書く-すると身体が悲鳴をあげる。崩れる。ゆったりと、生きる、書かないで。-すると、毎日が日曜日。生きている実感がない。スリルがない。

3728. エネルギー。生きている限り、何かをするためには、エネルギーがいる。一番つらいのは、衰弱だ。エネルギーが出てこない。(だから、病気は辛い)

3729. バランス。何かをするために、ニンゲンは死にもの狂いなる。バランスなんか考えない。しかし、身体やココロが壊れて、悲鳴をあげると、ようやく、(バランス)が必要だと思い知る。

3730. 歩こうとしても、足が動かない。考えようとしても頭が働かない。どうする?身体もココロも、とうとう錆ついてしまった!!憮然とする。

3731. 日々のレッスン。一歩一歩、歩いてみる。一日一行でも、ものを書いてみる。

3732. 老化、衰弱を嘆くよりも(老人力)を発揮してみる。

3733. 苦の中に楽を、悲の中に喜を、瞑想でもして「空(くう)」へ。

3734. 私は狂人だという狂人はいない。私は「正義」だという狂人はいる。(ヒットラー、プーチン)

3735. コロナ・パンデミックの世界であるが、(光)でもある。もちろん(光)は、私の内部に。

3736. (知る)と(体験する)では、一と百くらいの差がある。それでも(無知)は罪である。想像力を使ってでも、映画「夜と霧」を観る。フランクルの「夜と霧」を読む。(ヒットラーの「わが闘争」を読む)コトバの正体が見えてくる。

3737. 最後に残る人間らしさとは?恐怖から無関心、無感動に。それでも、(ユーモア)と(慈愛)は残る。

3738. アフォリズムは思考(頭)で読まない。数十兆の細胞の感性で読むこと。コトバの絵を見る。コトバの音を聴く。そして、身体の中へ入れてゆっくると味わってみる。

3739. 21世紀の、自由な空気を吸って育った、ロシアの若者たちが、戦場へと放り込まれて、果たして、人を殺せるだろうか?しかも、敵ではなく、兄弟を。

3740. (無)から一切が誕生(顕現)したから、当然、一切は分解されて、死んで(無)になる。

3741. そのサイクルが、無限に繰り返されるとしたら、(生)も(死)も、(宇宙)も(反宇宙)も、ニンゲンの意識と思考の外部のにある。

3742. 10の500乗個の宇宙の誕生と死を、ニンゲンは、検証できる術をもたない。

3743. 思うことは実現できる。想像できるものは、在る。しかし、量子は思考できぬ。(思う)(考える)というスタイルにも限界がある。

3744. 永遠の相の下に、つまり、宇宙に私はいるという、感覚が、人間には装っている!!どんな恐怖の中でもどんな困難な状況下でも、ニンゲンに最後に残るのは、この意識である。絞首刑寸前の死刑囚にも。

3745. ココロの中に、幻想でもいいから、(私の意識の世界=未来か明日)をつくり出すと、(私)は、まだ、生き延びられる。つまり、私の内部に(光)を発見すること。

3746. (私)が、本当に、完了してしまうのはココロの、意識の招き出す世界が、絶えた時である。ニンゲンは「内部」から死ぬのだ。

3747. (無)あらゆるものを噛み砕いて蒸発させてしまう力。

3748. 時空の外部へと放り投げる力(無)

3749. (死)(空)(無)と呟いてそのコトバをも消してしまう。

3750. 空気の流れに発生する(声)の波、時空の流れに発生する(コトバ)の波。

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• 木曜日, 9月 08th, 2022
3651. 誰でも、一度は、”無限”に触れた感覚を体験する。

3652. (私)も、当然、1から無限になる。

3653. ”無限”は、超球宇宙と呼んでもよい。

3654. その時、ニンゲンは、蟻や鳥の視点から、超球宇宙からの視座を獲得する。

3655. つまり、(善とか悪とか)(罪とか罰とか)(天国と地獄)とかニンゲンの、地上の価値や意味の一切が消える。

3656. 一切が、無意味である。非・意味となる。

3657. 私が(一即無限)に至ったのは、無意味の果ての(”無限”=超球宇宙)の視座をもった時だ。

3658. 何も恐れることはない。一切は、消える。ニンゲン世界から解き放たれる。

3659. 意味は、ニンゲンとニンゲンの関係の中にしかない。
3660. 一切は(無)へ。超球宇宙へ。

3661. (死)とは?無限となって、超球宇宙へと翔び立つことではないのか?ニンゲンという形をなくして。眼には見えないが、透明な何かとなって。

3662. (死)は決して、生命の終着点ではない。一即無限の宇宙への旅のはじまりにすぎない。

3663. 今日も、小さな、小さな、惑星・地球の日常では、ニンゲンの視点から、考え、悩み、傷つき、悲しみ、苦しみ、のたうちまわる生きものの姿が、波となって、押し寄せている。ひたすら、意味を求めて。

3664. 色に会って、音にあって、色の放つコトバを、音の放つコトバを、人は、絵画として、音楽として、楽しんているではないか!!

3665. ゆえに、宇宙は、「コトバ」から出来ている。ニンゲンの使う、(文字)(声)という「言葉」ではない。

3666. コトバを、カミと呼ぶのも自由だ。仏陀と呼んでもよい。超越者と呼んでもよい。しかし、それは、ニンゲンの究極の姿である。

3667. 昔の人も言った。「松のことは松に習え(松の放つコトバを聞け)竹のことは竹に習え(竹の放つコトバを聞け)石のことは石に習え(そうだ、私も石の放つコトバを聞いている)

3668. 光は言葉である。いや、「光」という言葉のことではない。光そのものが「コトバ」だという意味だ。

3669. 「木」という言葉がある。ニンゲンが「木そのもの」に与えた言葉である。もちろん「木そのもの」とは「コトバ」である。

3670. 友の言葉はありがたいものだ。言葉の向うに思いが見える。言葉の向う側にある「コトバ」が見える。

3671. ニンゲンは、長い間、見えない「原子」の「コトバ」にむけて、言葉を放ってきた。無限の言葉は、歌となり、詩となり、小説となり、俳句となり、アフォリズムとなり、「コトバの原子」を、表現してきた。

2672. 終に、究極には、存在は思考を裏切るか?

3673. (科学)は、宇宙が、なぜ、誕生しなければならなかったのか、証明できない。

3674. (哲学)は、その論理では、宇宙を、分析できぬ。

3675. で、何が、いったい、何を、どのように、証明できるのか?

3676. 結局、不可思議なものを、生きている不思議だけが、存在している。(存在していない)

3677. 「いったい、何を、どこまで知っている?」と問えば、(知)に限界はない。

3678. (無限)に至る(知)。(無限)がある限り。

3679. 70億人が、同時に、ひとつのことを考える、思う、祈る!!その発出する”力”よ!!

3680. 銀杏の木に、1億年の時間を視る!!

3681. ニンゲンが一線を超える時。まだこちら側にいると思って、生きている人。もう、向う側にいると思って生きている人。(時間)の相がちがう。(死者の眼)と(生者の眼)

3682. (私)という出来事が、ただ流れている、宇宙を!!一瞬と無限を。(石)という出来事が、ただ宇宙を流れているように。

3683. (物自体)など、どこにもなかったのだ!!(カント)

3684. 石も鉄も太陽も、量子の流れにすぎない、出来事であるか。

3685. ”私”などない。”時間”など存在しない。一切は、関係性の中にニンゲンが見る”幻”である。

3686. 量子は、ニンゲンにとって幽霊である。ニンゲンの思考、能力では、考えられないものである。探究すると、気が狂うと、天才、ファインマンは語った。

3687. ”石”も、また、物質としての、モノではなく、石という出来事である。

3688. 世界に、宇宙には、確たるモノは存在しない。宇宙は生成される流れである。”石”であれ”惑星”であれ恒星であれ、銀河であれひとつの「出来事」でしかない。

3689. 従って”物”自体など、どこにもない。

3690. ビッグ・バンからの、流れがあるだけ。「時間」は存在しないのだ。ゆえに”今”は、どこにもない。天の川の”今”と他の銀河の”今”は、まったく、異なる!!”確定したい私”もない。”私”という出来事が流れている。

3691. 宇宙には青空がない。360度、闇の世界である。深い深い漆黒の闇の中に星々や銀河が光っている。

3692. ニンゲンは、地球の昼間の光に慣れすぎている。空気(大気)がある。太陽の光が降り注ぐ白昼は、空は(青空)である。大気は、青い光を吸収する。

3693. 昼間の光の世界は、宇宙ではあり得ない。夜の闇の世界が通常である。

3694. 地球は生きものたちの世界。宇宙は、星、銀河とガスとが漂う(死)の世界。

3695. ニンゲンは、(闇)の中、(死の世界)では生きていけない!!光と空気と青空の下で生きる。

3696. ニンゲンは、本当のこと(真実)を言う言葉をもたない、とニンゲンが言った。

3697. さて、その言葉は、本当のこと(真実)か、あるいは、嘘(虚)か?

3698. 言葉の、コトバを表現するためにある。コトバとは、あらゆる存在、非存在の放つサインである。

3699. 言葉も、究極は、量子の存在に似ている。あったり、なかったりする-同時に。あるいは、同じものであったり、異なるものであったりする。同時に。

3700. 老子の思想は、21世紀の思想にも共振する。色なき色を、形なき形を、声なき声を、言葉なき言葉を”無為自然(じねん)”の真理の”道(タオ)”として語ってみせた。まるで、量子のコトバである。”(老子)”は、今も、新しいぞ。

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• 木曜日, 9月 01st, 2022

 てんでんこに生きているニンゲンがいる

 ヒトは それぞれの
感覚で 意識で
言葉で 思想で
多様な宇宙観で てんでんこに生きている

 たいがいの人は
(今)(ここ)を現実と思って
生きていると言う
 しかし よくよく考えてみると
(今)とは いったい 何時の(今)か
(ここ)とは いったい どこの(ここ)か
(現実)だって? どんな(ゲンジツ)?

 揺らぎが ふたたび 襲ってくる
あらゆるものを

撹拌
シャッフル
する 無限の量子の手
1000億個の銀河群をひとめぐりして
帰ってきた無限遠点からの旅人は
いつのまにか(他者)になっている

どこでもない場所と誰でもない(私)に
怯えながらも 揺れて 漂って(今・ここ)を
探してみるが みつからない
そんなものは もう どこにもない

ヒトが てんでんこに生きる証拠がある
 夏目漱石は?「則天去私」の位相に
 荒川修作は?「天命反転」の宇宙に
 石牟礼道子は?「苦海浄土」の心世界に
 重田昇は?「一即無限」の超球宇宙に

モノもコトもヒトもココロも宇宙も
わかればわかるほどに
わからなくなる!!
本当のことなど
とうの昔になくなった ニンゲンがそうしたのだ

一切が 時空が 振り出しの(無)に戻る
そして ふたたび みたび よたび 波が来る
 ただ エネルギーの渦の中に
言葉から「コトバ」の宇宙へと
翔び続ける 宙吊りになった 存在者が
顕現して 浮遊している

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