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• 月曜日, 3月 09th, 2015

海部郡宍喰町日比原出身の重田昇氏(43)の短編小説集「ビッグ・バンの風に吹かれて」(東京・沖積舎)が長編「風の貌(かお)」の処女出版から18年という長い沈黙を破って上梓(じょうし)された。団塊の世代、立松和平などを学友とする早稲田大学在学中から早稲田文学などに作品を発表し、純文学の旗手と呼ばれた氏も、今では東京で自ら経営する出版会社の社長となっている。五編の短編集からなる作品は沈黙の分だけ重厚なテーマに支えられている。

氏が挑んだテーマとは、人類のまだわからない未知の領域である。「ビッグ・バンの風・・・」は決してSFではなく、現代の知の先端と氏の詩的感性でもって未知の領域を表現しようとする野心作である。

例えば作品「岬の貌」には、泳いでいた男がおぼれ意識不明となり意識が戻るまでに体験する、生と死の境での行為が野太く巧みな筆遣いで描かれている。タイトルとなった作品「ビッグ・バンの風に吹かれて」では、ある男が異次元でのあふれるばかりの光に満たされる体験や、未来を思い出すという体験などをした後、自分の意識ではどうすることもできず、手が勝手に人をナイフで刺してしまうという、奇抜なストーリーが展開されている。

理屈では解明できない経験をした者が、そのことを人に語るとき、二つの答えがすでに用意されている。「うさんくさい」ととりあわないのが一つ、もう一つは信じることである。体験が理性や科学で理解できないとき、人はそう答えるしか仕方がないからである。けれども、重田氏の表現の視点は、そのいずれかに、読者を導くものではない。

作品のテーマである人類の未知の領域や解明できない体験を表現するとき、おそらく重田氏のバックボーンには人間の深層心理を持つ狂気性を探ったミシェル・フーコーとか、まばゆい光におおわれる神秘的体験から精神患者が完治するのをみたユングやトランスパーソナル派の心理学者らの体験が息づいているに違いない。あるいは、二十世紀の物理学の基礎である量子論と相対性理論によって仏教・道教など東洋思想と同じ世界観を持つにいたったフリッチョフ・カプラなどに代表されるニューサイエンスとよばれる物理学者など、結局のところ「人間とは何か」を問うその他の大きな知が渦巻いているのであろう。

こうした現代の先端の知の裏付けと、詩心に基づく、帰納的な人間の探求が重田氏の姿勢であり、その姿勢が孤高の作品を形成させるのであろう。作品は、知の蓄積がもたらした純文学の高みと評価したい。

見識のある文学好きの読者にはぜひお薦めしたい本であり、現代の知を捕らえ直すにはおもしろい一冊である。

最後に作品「夏薔薇(ばら)」などに代表されるように、登場する多くの風景描写は空も海も雨も、私には県南・宍喰町のものであるように思われたことを付記しておく。

(詩人、日本ペンクラブ会員、徳島市新浜町二丁目)

(徳島新聞1991年5月10日号)

【ビッグ・バンの風に吹かれて】※PDFファイルが開きます。

【ビッグ・バンの風に吹かれて 書評】

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

「他の追槌を赦さない文体の高みがある」

八月は、水の美しい季節だが、おびただしくまわる光の独楽のもとでは、砂の輝やきが、もっとも夏を象徴する。無数の光の独楽が洪水のように振るなかで、砂の素肌は、限りなく美しい結晶体に見える。光の強弱や角度や時間の移ろいのなかで、砂粒は、一瞬、キラリと輝やいては、不意に、沈黙する。時間のゆらぎのなかで、固有の小さな輝やきを放って、物質の表情をとりもどして、静止する。

完全に、静止しているものは、何もない。砂粒も、熱を含み、光に呼応して、じりじりと音をたてて、移動し、膨らみ、縮み、静かに眼をあけている。

X氏は、海に鋭く突きでた岬を眺めていた。真夏日の八月も中旬だ。いたるところに風が立ち、無数の馬が疾走する、白い波の形が、濡れて黒く光る磯に展がっている。風が鳴っている。岬が鳴っている。X氏の耳も鳴っていた。
Vの字を描いた海岸線の中央に、川が流れ込み、河口の左岸、右岸には、小高い砂のうねりがあって、ゆるやかなカーブが海に至る。X氏は、河口の左岸に展がる砂浜に腰をおろしていた。

青空に、海鳥が舞っていた。陽は、中空にあった。松林の緑が煮えたぎって、黒ずんで見えた。沖では、巨大な積乱雲が、質量を誇示して輝やいていた。まったくの夏だった。

光の洪水がふるなかでは、あらゆるものが、その正体をうしなって、影さえも、そのものを正確には写していなかった。時も、空間も、ゆらきの波のなかにあった。

X氏は、光にうたれながら、耳になって、海の声を聞き、眼になって、空の光を視た。光の波は、時空を垂直に流れてくる、途轍もない遠方からの、唯一の音信だった。光が音となって、耳にとどくような気がした。

水が鳴っている。X氏の細胞のなかで、プチプチ、プチプチと、沸騰した水が、内爆発して、水の皮膜が破れる音が響きはじめた。X氏は、単なるひとつの現象となって、宇宙の大合唱に参加しているような気がした。風景そのものになって、ゆらゆらと揺れていった。

相棒に、誘われてきた、見知らぬ海だった。熱帯夜が続く、都市の夏にうんざりして、重い腰をあげ、電車にゆられて、来た、辺境の町だった。煙草と酒と夜更かしで弱った身体には、海辺の光は刺戟が強すぎた。燃え盛る夏の海では、物質までが生きもののように見えた。

X氏は、砂浜に腰をおろした瞬間に、咽喉の奥で噛み殺した。自分の眼が空の中空にあって、自分の姿を見おろしているのだ。いつか、どこかで見た光景だった。いや、確かに、この風景のなかに、同じ姿勢で座っている自分を見たことがある。これは、単なる偶然であるが、錯覚のはずなのに、当然だ。すべて知っていたと感じてしまうのはどうしてだろうか。まったく同じ位置にいた自分を宇宙からの視線で眺めるかのように、承知していたと思うこと自体がX氏をおどろかせた。心のなかの風景が、眼の前の風景に似ているという単純なことでもなかった。既視体験でもない。もちろん、幻想でもない。おそろしいほどの力を得て、眼が見えすぎてしまうのだった。透視者だとも呼べば呼べた。高みにある眼は、次々に起こる現象のすげてを知っていた。

赤犬が長い舌をだして、あえぎながら歩いている。水がゆれる。海星や蛸や海胆や蟹が音もなく、触手や手足をのばして水のなかを這っている。闇の巣喰った岩間から、魚たちがひらりと姿をあらわしては、餌を漁りながら遊泳する。

X氏の眼は、すべてを見た。しかし、どうしても見えないものがあった。自分は、いったい、どこから来て、どこへ行くのだろうか、その姿だけは、見えなかった。どても簡単なことが、いつものふつうのことが、わからなかった。

簡単な合図があれば、すべてがわかるような気がした。それは、手をのばせば、触れられる位置にあるのに、そして、自然に納得していることなのに、どうしても、一歩の距離があって、指先に触れることができなかった。それは、永遠に触れるようなことかもしれないし、水を呑むようなことかもしれない。一切がわかってしまうか、すべてが闇のなかのことで終わってしまうかもしれない。

耳鳴りが激しくなった。光がコメカミを刺し貫いていた。眩暈がした。透明な磁力の糸で縛られて、指1本動かすのも、気が重かった。空も海も光で漲っていて、これ以上、熱の力が強くなると、ひび割れが生じて、時空がゆらいでも不思議ではないと思えた。

不意に耳鳴りがやんだ。一瞬、音が消えて、波の音が耳に流れ込んで来た。風景が、1枚の静止した絵画になった。身体の火照りが、頭の芯をぼーっとさせて、熱の力が全身を支配しているのがわかった。

どこかへ移動しなければ、何か、あぶないことが起こってしまう、そうだ、どこかへ一歩を踏みだせば、その先は知るものか。X氏は、中空にある眼で、自分を眺めながら、そう思った。

影が揺れた。その瞬間、中空の眼は消えていた。水のなかに、男が立っている。手を振っている。白い歯が光った。男は、身体を前方に倒して、水を押し、波を切り、水の壁を踏みながら、ゆっくりと歩いてくる。濡れた肌が輝き、太腿の筋肉がゆれ、膝頭が水面にでると、スピードをあげて走り、白い砂を踏んで、ぐいぐいと接近してきた。男は、一直線にX氏めがけて走ってくる。ある距離まで走ってきたとき、影だった男の顔が、不意に、相棒の見慣れた顔になった。

声が鋭い物質のように飛んできた。

— 海を見に来た訳じゃあるまいし、少しは泳いだらどうだい

垂直に降る光のなかで、相棒は、仁王立ちになって、X氏を見おろした。相棒の姿は、自信がありすぎて、妙にあぶないような気がした。おそらく、強すぎる光のせいだ。

相棒の声に触れると、今しがたまで、頭の芯に巣喰っていた奇妙な不安の種子が消えてしまって、空の青みが、ただ、眩しいものに思えた。

相棒は、X氏の傍らに寝ころぶと、煙草に火を点けて、美味そうに、一服喫った。

X氏は、馬鹿馬鹿しい、少し、気持が衰弱していただけさと自分に云いきかせて、波打ち際まで歩いてみたが、妙に、落着かなくて、相棒のいる砂浜を振り返った。

相棒は、右手を高くあげて、沖の方を指差した。X氏の眼のなかで、相棒の右手がつるつる滑って、まるで機械仕掛けの人形のように、存在感が稀薄だった。

相棒に背をむけて、水に足を入れると、液体の揺れに全身が共振れして、くらくらと、眩暈が走り、耳に、海の声が滑り込んできた。海が大きく身体を開いた。光滴に濡れた海は、千の貌を覗かせた。白い泡が足もとを隠した。足が溶け、腰が、胸が、波のうねりに押しあげられて、浮き沈みしながら、水の力を証明した。X氏は、幾重にもおそいかかるうねりに腕を差して、しなやかに水を掻きわけ、白い波頭をくぐりぬけ、水の腹を突き破り、波の波長に呼吸をあわせていった。大きな波の背中を滑ると、波のうねりが、林立する無数の小山に思えて、腕の力が、ひどく頼りない、小さなものに思えてくる。クロールから平泳ぎに切りかえて、ゆっくりと、水の言葉をききとりながら、沖へとむかった。

砂浜は、遠く、人影も点になって、ようやく、水のリズムが身体に合ってきて、海の貌だけが眼に映った。水平に泳いでいるのに海の時間は、水のなかを、垂直に流れているように感じられた。頭が空っぽになってきた。水面から、顔だけをだして、空の青を見た。空の中空に風が舞っていた。いや、海が揺れているためか、空の青が、結晶して、抽象画のように思える。空の手触りがない。妙な気分になった。心がかすかに傾いた。そのまま、空を眺め続けられなくて、ふたたび、泳ぎはじめた。

水は、岸辺から、淡いみどり、群青色、もっと深く、濃い青へと色の階段をくりひろげて、透明な身体を染めわけている。静かだ。泳いでいると、水の律動に誘われて、記憶の暗い部屋の奥に封印されていたものが、不意に点火して、爆発し、細胞たちをゆさぶってせりだしてくるような気がする。耳をすましてみるが、海の声がひびくばかりだ。頭の芯がしびれている。水は、ただ、ゆっくりと移動している。

海に犯されていると思った。時間や距離の感覚が麻痺しているのだ。手触りがなければ、人間の眼も頭も判断力が弱くなって、阿呆同然になるらしい。頼りないものだ。おびただしい光の粒子を受けて、眼も心も、水のなかに流れだしてしまい、濁っている感覚だけが、唯一、確かなものだと思われた。

その感覚には、見覚えがあった。無数の兄弟たちと、激しい流れのなかを漂っていた。闇のなかを、どこからどこへというあてもなく、ただ、どこかに出口はないものかと、先を競って、どんどん流れていった。気がつくと、無数の兄弟たちとは、別れ別れになって、たったひとり、静かな海に漂っていた。おそらく、孤独を知ったのもそのときが、はじめてだ。兄弟たちは、何処へ行ったのだろう。

水には、水の法則があって、水に書き込まれた約束が、自分を赤い糸のように貫いているとX氏は思う。そして水のなかにいると、その約束が、なにかはわからないのに、妙に落着き、その疑問を考えなくても、自然に、わかるときが来るような気がするのだった。

X氏は、ひとつの海の種子となって漂った。海の私語、光の声、水の呟き、魚たちの告白、貝殻の独白、砂の沈黙が、夏の海を構成していた。

もちろん、青空の力が中心にあった。青は、高く、高く、どこまでも空の底を突きあげてその質量を、色彩を誇った。空気を染めて、眼を眩惑した。長く、水に浸っていると、足が、地面の感触を欲しがるせいか、いつのまにか、身体が、宙づりにされている感覚に反発しはじめる。空の青に触れると、青がX氏を吸いげて、上へ、上へ、どこまでも上昇する感覚に染まり、眼は、中心を求めようと激しい昂ぶりをみせる。眩暈が来た。音が消えた。光の樹木が空の青にのびている。光の波にのって、軽くなった身体は、高く、もっと青の中心へと舞いあがり、光の宇宙樹の頂点までも翔んで行くのだった。

光の暈があった。

無数の光が、爆発する宇宙樹の根から誕生した。X氏は、夥しい光のなかに、透明な、骰子が、偶然という空にむかって投げられるのを視た。

水平線が消えた。空が消えた。何か、小さな、小さな点のようなものが、おそろしく遠方から急激に接近してきて、巨大なものに膨らみ、おそらく光よりも速いかもしれないそれは、形も姿も定かでなく、ただ、眼の前が真っ暗になって、何も見えなくなった。

空の高みへと上昇する感覚が一瞬のうちに消えると、水が鉛の塊りにでも変わってしまったのか、全身が、熱で火照って、重い物質になって、真っ逆様に落ちはじめたのだった。

X氏は、獣のように唸り声をあげた。手を、足を、必死になって、動かそうとしたが、もがけばもがくほど、水の糸にまかれて、自由をうしなっていった。

意識が泡立った。X氏は、ひとつの痙攣になった。心臓が停止した。水は、異物となって、X氏を襲った。まったくの、闇が来た。X氏は、発作の瞬間、白紙よりも白い顔をした。そして、大きなものに視界を奪われて、意識が泡立ち、二秒か三秒の間に、こうして完全に、完了するのだと自分に言いきかせた。右手で水の壁を押し、左手で心臓のあたりを圧迫した。水面に、手や頭や足が浮かんでは、波に消し去られ、いくどか、思いだしたように浮上していたX氏の身体は、終に、その姿を現さなくなった。

X氏は、どこまでも、垂直に落ちていった。もう、水の感触はなかった。胸を圧迫する、窒息感もない。空気の抵抗もない。引力も重力さえもなかった。巨大な闇だけがあった。上も下もないのに、ただ、垂直に、落ちていくことだけがわかった。いったい、どこへ行くのだろう。X氏は、無数の兄弟たちが消えて、どこかへ行ってしまったことを思いだした。その兄弟たちも、こうして、垂直に、落ちて行ったのだろうか。寒い、自分の眼で見ているわけでもないのに、闇が深くて、眼は役に立たないはずなのに、落ちていく自分の姿がくっきりと見えるのだった。そして、奇妙なことに、見えるといっても、身体の形が見えるというわけではないのだ。闇で一切が見えず、区別をすることもできないのに、自分が見えてしまうのだった。もうひとつの眼でもあるというのだろうか。いや、見る力は、眼以外にも存在するとでもいうのだろうか。わからない。しかし、わからないことが、どういう訳だか知らないが、わかったしまうのだ。

X氏は、どこまでも、限りなく、ただ、垂直に落ちていく自分を見つづけていることが苦痛になった。まるで、永遠に触れているようなものだ。底もなく、果てもない。永久のただの移動だ。これ以上退屈なものを知らない。人は、永生を夢見るというが、永遠の生命など、空おそろしい。それは、最高の苦痛だ。おそらく、どんな意識もたえられまい。X氏は、自分が、完全に完了してしまった存在かどうかを知りたかった。すでに完了しているのなら、生きていたときの自分と区別をつけることはできないはずだ。とすると、まだ、自分は、死んでいないのだろうか。境界線を跨いでしまったのではいのか。いや、二つの領域の線上に立ち、ふたつの自分を眺めているとでもいうのだろうか。しかし、人類がはじまってから、まだ、二つの世界を体験して、なお、生の領域で呼吸している人は誰もいない。

X氏は、断定した。これは、決して、死ではない。いや、死であっては困る。これが死であるなら、死ぬ瞬間の苦痛などなにものでもない。死は、誰にも見えない。死は、経験することができないのだ。自分の死ですら、これが死だと言えない。死は、無ですらない。死は、ある暗い力だ。滅びる方向へと働くひとつの作用だ。そして、いつまでも、未知のものだ。

そう考えて、X氏は、今まで、自分が、生と死という二分法に頼って、ものごとを判断してきた事実に気がついた。

死もまた、成長するひとつの力ではなかったか。死を構築していく力というものがあるのだ。おそらく、人は、知らず知らずに、自分の生命を成長させる反面で、死も育てあげているのだ。その透明な力は、今、自分が見ている力と似ているような気がする。眼がないのに、自分が見えてしまう力だ。それを、なんと呼べばいいのだろうか。

垂直の落下がどこまでも続いた。X氏は、終りが来ることを願った。十字架にのぼって死刑になるほうが、随分楽だと思った。音も、色も、匂いも、形もなかった。のっぺらぼうの闇が無限に続いている世界だった。名伏しがたい苦痛だけが増大していった。苦痛とでもいいから永遠に一緒にいたいという信条はX氏にはない。これが生の領域のことであるなら、完全に殺してもらいたいと思う。これが死の領域のことであるなら、もう一度、死を死にたいと思う。はじまりがあったなら、おわりもあるはずだ。

落下する自分を見ている眼が曲者だった。その眼が死ねば、一切が完了してしまう。しかし、ただ見ているだけの眼を、どうすることもできない。眼を死刑にする方法はないのか。眼には、発狂の自由さえない。

橋をわたれば、小鳥たちが歌い、花々は咲き乱れ、音楽が流れ、天には金色の光が輝やくのではなかったか。あるいは、地獄の責苦が待っているのではなかったか。ここには、なにもない。ないということだけがある。

X氏は、不意に、気がついた。自分は、物質の最小単位となって、垂直に落下していたのだ。あらゆるものが、完全均質なために、数えることも、区別することも、形をもつこともない世界だった。闇だと思ったものは、実は、完全均質の世界だったのだ。そこでは、ゆらぎも、時間さえも発生してはいなかった。

X氏は、はじめて、祈った。そして、叫んだ。助けてくれ!!もちろん、それも、声にはならなかった。

相棒は、短い、夢のような眠りから覚めて、水面に浮いているあまたの黒い頭を、眼を細めながら眺めていた。真夏日の海の光は、やわらかい肌を焼き、肌の表面には、塩が結晶して、白い粉を吹いていた。焼けた白い砂の熱に耐えかねて、もうひと泳ぎしようかと腰をあげて、手足をぐいとのばして、眩しく輝やく海の一点に視線を投げかけたとき、妙な形で手足が海面に突きでているの発見した。

白い波飛沫を見た瞬間に、相棒の頭は、誰かが溺れていると正確に判断をくだした。そして、次の瞬間には、おーい、人が溺れているぞと、砂浜中にひびきわたる大声をあげて、海へむかって疾走した。熱い砂を蹴り、水を踏み、波を切り、海中に沈んでいく黒い頭をめざして、クロール、クロール、強く、強く、腕を、足を、水の壁に突き刺して、回転させ、力泳した。男たちが、次々に、水飛沫をあげて、海に、白い直線をひいた。砂浜が、海が燃えあがった。

相棒や男たちは、息を深く吸い込むと、八月の海に潜っていった。海中で、一人の男が腕をのばして、指で合図をした。手足をだらりとのばした人影が、海底で揺れていた。X氏だった。男たちは、遠浅の海が幸いしたと、漂うX氏の腕や手や足や髪の毛を手分けして摑み、波にのせるようにして、浮上させると、一気に、波打ち際まで曳航して、砂浜に担ぎあげた。その間、15分が経過していた。

水から引きあげられたX氏は、人間というよりも、魚類に似ていた。もう、身体のあちこちに硬直があらわれて、やわらかい物質が結晶していく様に酷似していた。唇にも色がなかった。しかし、まだ、胸の筋肉や額あたりには、生きる意志のようなものが、弾みとなって残っていた。

— いつ眼をあけてもおかしくない

誰かが呟いた

相棒は、冗談ではない、まだ死者ではない、死なせてたまるかと声の方を睨みつけた。

心臓は、完全にとまっていた。

相棒は、砂浜に横たわったX氏に馬乗りになった。今しがたまで語りあっていたX氏は、もう、十歳も、二十歳も歳をとった年配者に見えた。1、2、3と規則正しく人工呼吸を繰りかえした。男たちに頼んで、冷えて硬直した手足や胸を摩擦してもらった。手が、X氏を擦り続けた。

いつのまにか、沈黙したX氏の周辺に人垣ができていた。

不意に叫び声があがった。X氏を覗き込んでいた十歳ほどの少女が、口から蟹のように白い泡を吹き、全身を痙攣させながら、卒倒したのだった。

— 子供に見せるもんじゃない
— 病院だ、病院だ

裸の死は、もう、長い間、人の眼から隠されていた。死は病院のものになっている。家族も、器具の向こう側に、死者を見るだけだった。子供だけではない、大人のなかにも、死者を、死ぬ瞬間を見たことがない人が増えている。死は、人間に与えられるもののなかで、もっとも平等なものだ。誰もが死ぬ。そして、死の一回性は、決して、自分の死を見ることができず、他人の死しか見えない点にある。その死に、どうして、現代人は、椅子を与えてやろうとしないのだろう。死を死ぬことが不可能になってくるのは、おそらく、その為だ。

相棒の眼が険しくなった。時間がこぼれおちていく。幾多の手が動き続けた。八月の光は音もなく砂粒を、材木のようにごろんと転がったX氏を刺し貫いている。覗き込む眼にも暗い翳リが宿り、焦躁の色が濃くなった。眼に、断念の色を浮かべる者もあった。潮風にX氏の髪の毛が揺れた。相棒は、息を呑んだ。

紫色に変色していたX氏の唇に、一点、朱がさした。頬に、痙攣のようなものが走った。相棒は、X氏の胸を揉む手に力をこめて、心臓の音がひびくのを待った。白い砂は、じりじり音をたてて燃えている。痙攣の波が頬に走り、手や足に、唇にひろがっていった。

相棒の眼が笑った。

X氏の心臓が動いた。あたらしいX氏の誕生の瞬間だ。すでに、死線をこえて、まったくの物質と化してしまっていたと思われたX氏が甦った。息がもれた。呼吸の開始だ。ふたたび、ゆっくりと、こちら側の岸へ、X氏がうちあげられた。ざわめきが起こった。

人々は、一人残らず、動きはじめたX氏の心音に、自分の心音を重ね合わせるような眼の色を浮かばせていた。私語が飛び交って、重苦しい沈黙が破れた。

— ほら、ああやって、ゆっくりと意識がもどってくるんだよ
— 辛そうな顔だね
— 本当だ。おびえているみたいだ
— 苦しいのさ
— 表情がでてきたぞ。しめたものだ
— あまり、水を飲んでいなかったのがよかった。おそらく、脳はやられていないだろう
— 赤ん坊みたい
— 今に、眼をあけるぞ
— 死ぬのにも力がいるんだね
— 生きるのと同じくらいね
— 帰って来たぞ
— 誕生だ。二度目の誕生だ
発作が痙攣の波となってX氏の全身を走った。

X氏は、長いトンネルをくぐっていた。

壁も、穴も、水も、空気もなかったが、透明な磁場のようなものが身体をしばっていて、トンネルをくぐっている感覚に犯された。トンネルを、くぐっても、くぐっても、くぐっても、どこにも、出口らしきものは見あたらない。思いきり浮上して、トンネルの外へ出て、呼吸がしたかった。もう少し、もう少しと思い続けるが、いつ、息が切れてもおかしくない。勝手に、手が、足が、動きつづけている。まるで、水でも切るように。苦しい。もう、あきらめてもいいなと思っているのに、手足は、本能的に動いているのだ。身体は、執拗で、精密な生きものだ。

不意に、頭上で、爆発音がした。ひとつ、ふたつ、音は、鋭く、炸裂した。その瞬間、白っぽい光が舞った。黄色い光滴が、四方八方から降りそそいできた。光の独楽は、渦状に廻り、腕の形になり、円盤形にかわり、めまぐるしく変化した。嘔吐がした。音が耳に触れるたびに、鉛の玉をうちこまれる思いがした。頭の骨を削りとられているような音が耳を占領した。身体の、自然な統一感がなくて、手が、足が、頭が、どこにあるのか、まるでわからなかった。

— 意識がもどったぞ

頭上で、大きな爆発音がした。それが、人の声だとわかるまで、ずいぶんと時間がかかった。

X氏は、指先に力を入れた。はじめて触れたものが砂粒だとわかったときは、妙な気分になって、笑いたかった。石でもなく、土でもなく、それは、まさしく、砂粒だった。指が、正確に、判断した。X氏は、砂粒を握りしめた。

— ほら、見ろよ、指が動いているぞ
— 気がついたか
— もう、心配ない
— 間もなくだ

無数の透明な糸が、四方八方から飛んできた。鋭い直線になって飛んできた糸は、それぞれが、音をたてて結び合わされ、耳が、眼が、手が、足が、X氏の身体となって構成されていった。ぴちぴち、ぴちぴち、赤い血が音をたてて流れはじめた。おびただしいうねりとなった赤い血は、中心から、少しでも遠くへと疾走した。

瞼に触れている、熱いものが、光だった。眼をあけるのが、おそろしく怖かった。ここが何処なのか、眼に、何が映るのか、知るのが不安だった。ただ、形のある砂粒がある場所だということだけは信じられた。

頭の芯が疼くために、3秒とは、考えることができなかった。いったい、自分が何者なのか、どこから来て、どこへ行くのか、一切がわからなかった。あることがないことであり、ないことがあることである、妙な気がした。生きたり、死んだりして、死を生きたり、生を死んだりしているような思いがした。

頭上で爆発する音が、人の声だとはわかったが、単なる音の流れで、まったく、意味がわからない。

X氏は、思いきって、眼をあけてみた。黒い頭が宙に浮いていて、いくつもの眼が、強い力で覗き込んでいた。

岬が鳴り続けていた。八月の青空があった。X氏は、風の流れを眼で追った。岬の左岸を打つ風は、岬の右の貌を知らず、岬の右岸を打つ風は、岬の左の貌を知らない。永遠にそうであるしかない。岬は、ふたつの貌をもったまま、鳴り続けている。風のなかで鳴りつづける岬は、長いトンネルをくぐりぬけてきたX氏の貌と相似形だった。

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