Archive for the Category ◊ 空海への旅 ◊

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• 土曜日, 9月 14th, 2013

超球宇宙にとって、小さな、小さな、地球という惑星に、人間が生きているという現象には、いったい、どんな意味があるのだろうか?

21世紀に生きる人間の、死生観、世界観、宇宙観は、どうなっているのだろうか?

宗教・科学という、文化・文明を、数千年かけて築きあげてきた人間は、今、大きなターニングポイントに立っている。

特に、日本では、3・11の、大津波、大地震、原発事故で、人間の科学の(知)がまったく役に立たず、政治家のコトバ、学者のコトバ、知識人のコトバも、信ずるに足らぬ、愚かなものばかりであった。意識が、ゼロ・ポイントに落ちて、判断中止、頭が空っぽになるおそろしい事態が続いた。人間が終ってしまう、メルトダウンの恐怖であった。

宗教者たちは、どんな役割りを果たしたであろうか?一番必要とされたのは、宗教者のコトバであり、宗教者の行動ではなかったか。

何人の「空海」が、災難に会った人々のところへ、死者たちの残された現場へと、飛んでいったのか。

空海には、ふたつの貌がある。「六大・四曼・三密」を思想の核とする、真言宗の宗祖の貌であり、、貧しい人、困っている人々を救ける、お大師さん(弘法)という貌である。

五大に皆響きあり 十界に言語を具す 六塵に悉く文字あり 法身は是れ実相なり『声字実相義』

六大 無礙にして常に瑜伽なり(体)
四種曼荼 各離れず(相)
三密 加持して速疾に顕わる(用)
『即身成仏義』

空海は、「自心の源底」を覚知して、コトバを、言語論から、存在論へ、存在論から、信仰論へと歩を進めている。『十住心論』。『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』は、真言宗の根本経典である。

世界の三十カ国語を、自由に読み書きした言語哲学者、井筒俊彦は、(イスラム教『コーラン』の訳者)空海の真言を、東西古今の経典、名著を引用した上で、日本人が達した最高の、世界的コトバ・思想であると、分析している。共時的、言語の分節化は、他に類を見ない、異文化、異宗教間の、コミュニケーションの華である。『意識と本質』

「存在はコトバである」という井筒の認識は、存在論、言語論、記号論、宗教論が、コズミックな領域まで達した時、はじめて、異文化、異宗教、異言語の壁を越えて、成立する証しであろう。

原典、原語を読むことが、学問の始まりである—原理・原則を語っている。異文化、差異があってこそ、それを承認してからこそ、対話がはじまる。空海の思想も、多言語の中から起ちあがっている。

大日如来。法身が語る—という困難を、思想化した時、コトバを、体、相、用と、自心の源底で覚知した時、空海の世界・宇宙が確立された。

『古事記』(万葉仮名)『日本書紀』(漢文)『源氏物語』(漢字ひらがな文)は、神道、歴史、仏教の思想の源である。天(神)に捧げた神聖文字・漢字が、中国から伝来し、漢字ひらがな混り文という、独自の、日本文を創り出した。(空海が、いろは歌を作ったという俗説もある)

良くも悪しくも、私たち日本人の思想も、その、日本文の中にある。

日本人は、曖昧である。カミも仏もいる。あはれ、無常、わび、さび、粋、日本文とともに、美の感覚は、実に、繊略である。寛容である。

一神教の、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教との対話が、可能かどうか、空海や井筒のテキストに学ぶしかない。

戦後、日本人は、経済と科学と常識に重点を移して、神道や仏教は、学校の授業から消えてしまった。宗教、修身、道徳がなくなって、倫理となった。(決して、スピノザのエチカ(倫理)ではない。)

村の共同体が壊れ、家が壊れ、個人が壊れ”便利”と”快適”と”効率”だけを重視して、経済的人間(エコノミックアニマル)として、生きてきた。

戦後六十余年、宗教に縁がなくて、文学のドストエフスキーのコトバに心酔してきた私も、3・11があって、やっと、日本の宝、空海のコトバ、原典に、立ち戻ってみようとしている、今日、この頃である。

(8月7日 高野山大学大学院レポート)

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• 火曜日, 2月 19th, 2013

人間が、生きている限り、苦しみ、悲しみ、痛みはなくならない。(生・老・病・死)の四苦からの超越を説いた、釈尊の言葉は、人間が(生きる−死ぬ)というコンセプトを、存在の条件とする限りにおいて、(真実)であろう。

科学、医学、経済、文明の発達も、四苦を減らすことはあっても、完全に、なくすことは出来ない。

宗教が、21世紀になっても、その存在理由がなくならないのは、苦の世界を救うというところにあるのだろう。

3.11東日本大震災(原発事故)は、生きる人間の根源を揺さぶって、問い直しを求める、天災、人災であった。

日本人はもちろん、世界中の人々が、(生きる−死ぬ)という人間の、悲しいコンセプトに、思いを馳せた、日々であった。

「安全・安心」というコトバが死んだ。科学者、政治家、知識人、文学者のコトバが、死んで、役に立たない。

死者にあてがうコトバがない。被災者のコトバを受け入れる、いい耳がない。

いったい、宗教者は、現在、どんなコトバを発しているのだろう?何を、実践しているのだろう?

ある日、突然、空海さんのコトバを読みたくなった、空海さんの声に耳を傾けたくなった。秘められた教えと実践の道があるはずだ。

初めて、高野山を参詣した。五月の、薫風が吹き、山桜の名残があって、新緑が芽を出しはじめた季節であった。

山上の宗教都市であった。千二百余年の、歴史を刻む、高野山を、時空を越えて、歩いてみた。

僧になる為の、僧の、修学、実践の、根本道場である。京の俗と高野の聖と、政治、宗教、学問、社会実践、教育、芸術と、日本の誇る天才の名にふさわしい、空海が行き来し、歩き、三密修行を実践した地である。

高野山の歴史を展望するためには、幾多の課題を追ってみなければならない。

宗教と政治権力(天皇・貴族・武士)宗教と経済(荘園、寺田)宗教と学問(中国、インドの歴史)入定信仰(奥の院)弘法大師信仰、檀家制度、宗教抗争(浄土真宗)分派抗争(御室派、根来派)神仏混淆(神道)高野山信仰(浄土観)(聖地化)(曼荼羅)四国遍路(高野聖)そして、明治時代の神仏分離と廃仏毀釈。

空海に、鎮護国家を求める天皇から、弘法大師の教えを、全国行脚して唱教する、高野聖まで、高野山を、支え続けた人々に限りがない。

①政治権力と宗教
聖徳太子と豪族の蘇我氏は、仏教の導入に力を尽くした。
空海は、唐から、帰国して、嵯峨天皇に、唐の詩書、梵字書、古人の筆蹟を、淳和帝には、唐製の狸毛の筆を献上している。三筆と呼ばれた、能書家の嵯峨天皇は、空海のよき理解者、支援者であった。空海は、高雄山寺から、東寺を、そして、高野山に、根本道場を開く、赦しを得ることになる。

「上求菩提・下化衆生」、天皇とも庶民とも共に歩む「済世利民」の空海の思想が、実によく出ている。聖地、高野山では、密教・真言宗の三密・実践修行をして、俗地、京の街では、天皇、貴族とも、仏教、密教を語らうという、柔軟な姿勢である。

『源氏物語』を書いた紫式部のスポンサーでもあり、光源氏のモデルとも言われている、関白・藤原道長と藤原頼道も(摂関)高野山への参詣、寄進等、支援を惜しまなかった。

道長の参詣と頼道の登山は、後に、摂関家や上皇たちの参詣を促し、地方豪族たちの、高野山への関心を高め、荘園、寺田の寄進はもとより、寺院の建立、修復と、全国への、真言宗の普及に、大きな役割を果たした。

政治権力と宗教権力の二人三脚の好例である。

その一方で、戦国時代、下克上の世になると、宗教は、武士の政治権力と正面衝突をする。信長の比叡山焼き打ち、秀吉の、根来の焼き打ち、真宗(浄土)の連如が武装化した、一向一揆、そして、武力を用いず、法をもって、宗教に対した、徳川幕府の、キリシタン禁の条例、寺院諸法度の、壇那寺、檀家制度の導入、明治政府の、天皇を中心とする体制から来た、神仏分離令、廃仏毀釈と、政治と宗教の問題は、現代に至っても、世界中で解決に至らず、戦争、紛争が続いている。

幸いにも、日本では、政教分離の、政策がとられているが。

②教学の伝承と宗門、宗派の対立
鴨長明の『方丈記』に依ると、源平の合戦で、武家政権が誕生した後も、王権と武士の二大権力の戦い、武士同志の戦いが尽きず、その上に、大火事、大風、大地震、大津波、疫病、飢饉で、人々は、この世を、地獄である、と、虚無、無常観、末法思想が人心を染めあげていた。

地の底から、庶民、武士の間から、新仏教が噴出をした。この世が地獄なら、せめて、来世では、極楽浄土に往生したい、念仏を唱えるだけで(法然)弥陀の本願を信心するだけで(親鸞)、浄土に往生できるという、一宗一尊の、浄土宗、浄土真宗の出現である。あるいは、浄土などない、この世がすべてである、南無妙法蓮華経と唱えて、叫び続け、この現世を仏国土にする(日蓮)日蓮宗。そして、戦いが仕事である武士は、生死を日常として生きており、(無)の境地を求める、禅宗へと、精神統一を企った。

台蜜・天台宗は、教相、事相においても、純蜜・真言宗に遅れをとった。最澄と空海の密教理解の差であろう。

しかし、最澄の弟子、円仁は、入唐して、新たに、蘇悉地経を加え、円珍、安然と、天台宗を、法華・華厳、念仏、止観を中心とする綜合的仏教へと発展させた。

その天台宗から、鎌倉新仏教の教祖たち、法然、親鸞、日蓮、道元が輩出された。

一方で、真言宗は、空海の十代弟子たちが健闘するも、新しいものを生み出すこともなく、暗黒の時代が続いた。

口舌の徒の新仏教に対して、密教は、口伝・面授、師資相承の、秘められた仏教である。

密教は、浄土をよく考えてこなかった。なにしろ、「即身成仏」である。

荒廃した、高野山を救ったのは、真言宗の中興の祖、覚鑁・興教大師であった。

高野山に、伝法院を建立。根来に、神宮寺(後の根来寺)を建立。密教院の完成。

教学の再興、事相の振興。何よりも、密教と念仏を融合させて、真言念仏とした。唱える仏教の流行に、敏であった。また、高野山の金剛峯寺の座主を、東寺の座主から切り離した。高野山は、東寺の末寺であった。

しかし、覚鑁は、後に、千三百人の弟子を連ねて、高野山を降り、根来派(新義派)を結成することになる。

③お寺という学校の力
空海は、誰もが、平等に学べる学校『綜芸種智院』を創設した。貴族、豪族の子弟しか学べない大学、国学しかない時代である。千年早い、理想の学校であった。

寺院は、僧になる為の教学、修行、学問と実践の場である。キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルは、高野山を、日本の六大大学として、考えている。三千五百人の学生がいる、大学の町である。

中世から近世にかけて、貴族、武士、庶民と、学問、教育の必要が高まっていく。

足利学校や金沢文庫、武士たちも、学問を身につけ、教養を高め、武士道を極めた。江戸時代には、武士たちの、藩校が出現し、庶民の為の、寺子屋が誕生した。読み、書き、そろばんは、商いの栄えた江戸には、必要不可欠なものであった。商家の娘の嫁入りの道具に、兼好の『徒然草』が流行った時代である。

京、大阪、江戸で、木版印刷が盛んになった。寺子屋の教科書、往来物は、その種類が四千冊を越えた。江戸の識字率は、当時、世界一であった。高野山でも、木版印刷の技術が導入された。写本をした、本を製作できなかった時代が、長く続いたが、近世は、印刷の技術を得ることで、大量の「本」の出版を可能にした。役者絵、瓦版、教科書、経典、養生訓、出版事業は、知識の伝達を、一気に全国へと拡大した。その中心に、僧がいて、お寺があった。

④高野聖の力
僧にも、階級、階位がある。検校、阿闍梨、山籠、入寺、三昧、久住者、衆分(鎌倉時代−金剛峯寺の例)

僧は、大別して、学侶、行人、聖となる。仏教、密教の研究をする、実践をする、学侶。供花、点灯、寺の管理に従事する、行人。そして、全国を行脚して、密教、真言を唱導する聖。勧進は、大きな目的のひとつである。しかし、高野山を、入定信仰を、(弘法大師は現在でも、奥の院に生きていて、我々衆生を救ってくれる。何しろ、弥勒菩薩が下生して、人間を救ってくれるまで、五十六億七千万年もあるのだ)大師信仰を拡めたのは、高野聖である。三密行は知らずとも、四国八十八ヶ所を巡礼すれば、お大師さんに会える、遍路も、高野聖と同じ、歩く信仰である。

南無大師遍照金剛の中に、空海はいる。

高野山が、浄土になり、八葉の曼荼羅になり、聖地と化した、その底辺には、名もない高野聖たちの精進があったことは、まちがいないだろう。文化は交通でもあるから。

(高野山大学大学院レポート)

政治と宗教の問題は、古くて新しい。政治権力のめざすものと、宗教のめざすものが、(法、教義)あるいは、世界観、宇宙観が異なる為である。抗争、紛争、戦争と、宗教と政治は、東西古今で、衝突してきた。

しかし、宗教が国家権力と二人三脚で歩む場合もあった。願護国家という役割を負って。

空海は、聖と俗を、見事に使いわけた。空海の入定後も、天皇、皇族、貴族(藤原家)武士(平家、源氏)に支えられた、高野山である。(ただし、秀吉には攻められている。)

橋を架け、井戸を掘り、道路を整備し、貧しい人、病者たちに、宿や小屋を作ってあげ、お金やお米をあげるなどの、慈善事業、福祉事業に精を出し、全国を遊行して、勧進をして、信仰をひろめた、無名の高野聖たちの存在も、大きな力となって、高野山を支えてきた。

現在では、政教分離政策がとられている日本である。

しかし、世界各地で、宗教と政治の対立、宗派の対立、紛争が、民族紛争の原因ともなっている、事実がある。

21世紀は、共生、共存の世界が実現される時代であってほしいものだ。

曼荼羅の思想、コスモロジーが、役に立つ時代であるかもしれない。

何時、地表に立っている人間は、宇宙的観点を確立できるのだろうか?

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• 火曜日, 2月 19th, 2013

「日本で、天才といえば”空海”でしょう。」
日本人初のノーベル賞を受賞した、物理学者、湯川秀樹の言葉である。

高野山は、空海が、真言密教の、根本道場として開いた寺院であり、宗教都市である。

完璧と思える、密教思想の構築はもちろん、満濃ヶ池の土木工事、自由平等を旨とした、綜芸種智院という学校の設立、梵字悉雲と辞典の編集、芸術としての書、自心の源底にまで至った、言語の天才、その詩心、天皇から衆生に至るまで、幅の広い交流、空海は、正に、天才の名にふさわしい、人物である。その死後も、弘法大師として、千年にわたる時空を超えて、人々の心の中を歩いている。

空海・弘法大師・そして、高野山は、分野を超えた(文化)として、日本全国に、今も深く、根付いている。

とても、一人の人間が為し得た、仕事・事業とは思えない、空海の業績である。今回は文学という文化に限定して、高野山、空海、弘法大師をめぐる思想を表出した、文学作品を、考察してみようと思う。

西行(1118~1190)『山家集』

ねがはくは花のしたにて春死なむ
そのきさらぎの望月の頃(春歌)

歌聖と呼ばれる西行ほど、花(桜)の歌を多く歌った人はいまい。桜が恋人である。歌は、桜へのラブ・レターである。

西行・本名は佐藤義清。僧名は円位。西行は号である。白河天皇の時代、院の警固をする北面の武士であった。藤原の血を引く家系。

二十三歳で、突然、出家する。理由は不明。

惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは
身を捨ててこそ身をも助けめ

出家。遁世時の覚悟の歌である。武士を捨て、妻子を捨て、家を捨て、仏門に入ることが、自らを救うことになる、心境の歌だ。

東北行脚の後、三十二歳頃から、西行は、高野山に、庵を構えて、約三十年余り棲んでいる。仏門での毎日の修行かと思うと、そうではない。吉野へ、京へ、熊野へ、四国へ、九州へと、旅をしては、歌を詠んでいる。神護寺の文覚に、仏門に専念しないで、数奇心で、歌ばかり詠んでいる、とんでもない僧だと非難される。しかし、実際に会ってみると、好人物で、人間としての品位、教養があって叱れない、というエピソードがある。

『山家集』には、恋の歌、花(桜)の歌が、圧倒的に多い。その中には、高野を詠んだ歌、高野から、友、知人に送った歌もある。

僧であるから、当然、「釋教歌」もある。地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天と六道を読んだ歌もある。

また「聞書宗」の中に、「地獄絵を見て」として

見るも憂しいかにすべき我心
かかる報いの罪やありける

『万葉集』は、万葉仮名で書かれた、風景や心情を、直接的に読んだ歌であるが、『古今集』から『新古今集』の時代になると、幽玄有心を、技巧を、喩を重んじた、(知)的な歌の姿へと変わっていく。その中で、西行は、只一人、自然に、感情のあふれるままに、あるいは、考えるままに、歌を詠んだ。藤原俊成、定家の歌と比べてみると、喩に頼らない分だけ、力強い。純粋で、行動的で、感情的で、僧と歌人の間で、揺れ、悩み、そして、歌に「寂」の気配が、漂っている。

三夕の歌、寂蓮法師、藤原定家、そして、西行の歌を比べてみると、実に、よく、理解できる。

心なき身にもあはれは知られけり
鴫立つ沢の秋の夕暮

恋の歌、花(桜)の歌から、離別歌、哀傷歌、釋教歌、聞書集と進んでくると、西行の歌にも、仏教の、密教の色彩が滲み出てくる。

明恵上人の伝記に、西行の歌論が記されている。かつては、数奇者で、「虚空如ナル心」で歌を詠んでいたが、今は、詠む歌は、真言で、和歌は如来の真の形体であって、歌によって、悟りを得た、と。気性の激しさと純粋とが入り混じった心をもっていた西行も、武士の剛気と歌人の寂と僧の悟りへと、足を踏み入れて、河内国、葛城山の麓、弘川寺にて、寂した。七十三年の人生であった。

風になびく富士の煙の空にきえて
行くゑも知らぬわが思ひかな

空海、高野山、遍路をめぐる、小説。
名作、四作を選ぶなら、迷わず①泉鏡花『高野聖』②田宮虎彦『足摺岬』③井伏鱒二『へんろ宿』④司馬遼太郎『空海の風景』を挙げる。

『空海の風景』(上・下巻)は、幕末の士々たちを描いて、国民的作家となった、司馬遼太郎が、構想十年、三年の月日をかけて、執筆した、司馬文学の金字塔である。空海の眠っている奥の院へ足を運ぶ度に、参道の右手に立っている、高野山を描いた、司馬の一文が、碑となっている姿に眼を止める。仏教(密教)に無縁の人、空海を知らぬ人、どれだけ多くの人々が、司馬遼太郎の「空海の風景」を読んで眼を開かれたことかと感嘆する。

司馬は、空海の誕生の地、屏風ヶ浦から、入定する高野山まで、空海の足跡を追って、すべてのゆかりの地を、歩いている。空海の著作はもちろん、研究書、関係資料を、数百冊読破している。そして、密教の研究者、僧たちに、疑問のすべてを問い糺している。新聞記者の手法である。いかにも、記者出身である、司馬のスタイルだ。そして、自らの考え、感想を呟く。それが司馬史観と呼ばれている。

司馬は、神的な視点に立って語る。人間・空海の実像に迫るために。もちろん、司馬は、宗教・仏教・密教は、語るものではなく、信仰し、実践するものであると知悉している。だから、真言宗の、経典の核には踏み込まない。密教の、専門家、僧たちの批判も、承知の上である。だから、空海の残したもの、歩いた場所に、「空海の姿」を発見するのだ。ゆえに「空海の風景」である。仏教用語を、極力排した、大衆が読める「空海」である。

泉鏡花(明治六年~昭和十四年)は、幻想的な、迷宮を描く、特異な作家であり、『高野聖』は、彼の出世作・代表作である。旅の途上で出会った、高野聖に、その体験談を聴くというスタイルの小説である。深山幽谷で妖しい美女、白痴の子、怪物や血を吸う蛭に会う話である。全国を行脚して、真言を唱導し、各地の面白い、奇妙な咄を、語り歩く、高野聖の姿が、リアルに浮かびあがってくる名作である。

鏡花は、文体を生命とした作家である。物語の概説では、鏡花の小説は、わからない。後に、三島由紀夫、川端康成が絶賛した、鏡花の文体である。一行一行読みながら、主人公と作家と共に歩く。その時、読むがそのまま生きるになる。文体だけが、時代を超えてその内包する思想を伝える器である。

『足摺岬』は、田宮虎彦の代表作・短篇である。田宮は、魂の彷徨を描く作家である。暗い情念、宿命、貧、病が主題である。苦悩する作家とも呼べる。

物語は、青春の悩悶をかかえた男が、四国八十八ヶ所の、三十八番札所金剛福寺を訪れるところから始まる。自殺を企てようとする青年である。足摺岬は、断崖絶壁がある自殺の名所と呼ばれている。遍路宿で、さまざまな宿命を背負った遍路の話を聞き、魂が浄化されていく。宿の娘に、遍路たちに、生命を救われる。そして、戦後、ふたたび、足摺岬を訪れる。貧乏で、生命の恩人の妻を死なせ、後悔と失意の人生である。四国八十八ヶ所が魂の復活と再生の場である。田宮本人は自殺。

『へんろ宿』は、掌篇小説ではあるが、井伏鱒二の名作のひとつである。土佐の、旅先での、「へんろ宿」の一日を、描いている。何処から来て、棲みついたのか、誰の子供かわらない小学生、冷えたセンベイ蒲団、辺境の、遍路たちの、奇妙な生態を、冷静な筆で書き切っている。

遍路・空海との同行二人の、四国八十八ヶ所巡礼も、現在では、ひとつの、文化として定着をした。宗派、人種、信仰の有無を問わぬ四国遍路は、江戸時代から、平成まで、脈々と受け継がれて、伝統文化の域に達している。

紀行文、手記、インターネットの感想など夥しい情報が発信されている。

『娘巡礼記』高群逸枝著は、近代、現代の、第一号であろう。大正七年、熊本の家を出て、仕事を中断し、新しい何かを求めて、二十四歳の娘が、四国遍路に挑戦する。その手記が、地元の新聞に、掲載されて、大きな評判を呼んだ。当時は、橋も、道路も、整備されていない時代である。四国の古道、街道を歩いて廻る一人旅である。遍路たちとの邂逅、地元の生活者との出会い、風雨との戦いと、涙と汗が光る、紀行文学である。

月岡祐記子『平成娘巡礼記』は、高群の現代版である。平成の若い娘の感性が瑞々しい。

『四国遍路』辰濃利男著は、長年、新聞記者として取材し、自らも、遍路として歩いた体験を、知的に、総合的に、分析、現代遍路のお手本となるテキスト。

『マンダラ紀行』は、「月山」で芥川賞を受賞した、作家、森敦が、四国八十八ヶ所と曼荼羅の秘密を、メビウスの輪の理論を用いて、分析、解読している。直木賞作家・私小説家の、車谷長吉の『四国八十八ヶ所感情巡礼』は、妻と二人の道中記である。

(高野山大学大学院レポート)

「平家物語」「方丈記」「徒然草」「山家集」「源氏物語」と、日本文学の核となるべき、歴史物語、評論集、小説も、すべて、「仏教」なしには成立しない作品である。

漢字が中国から日本にもたらされた時、日本には、文字がなかった。話し言葉の、和語があっただけである。漢字とともに伝来した仏教は、中国の史書五経とともに、学問に欠かせぬ存在であった。

漢字ひらがな混りの、日本文が成立した後にも、仏教用語は、しっかりと、漢字の意味に寄り添って、思想と化している。日本人の風土に、感性に溶け込んでいるのだ。

空海は、真言宗の開祖である。その一方で、書は、三筆の一人であり、サンスクリット語の修学、辞典の編集、小説風な劇曲も書き(三教指帰)詩心にあふれた、手紙や文章を残している。いわば、総合的な芸術家でもあった。(性霊集)

空海をめぐって、遍路、高野聖をめぐって、研究や論文はおびただしい。

語学の天才、詩人、書家、作家と、多面的な空海である。

で、空海のゆかりの地(神護寺、東寺、高野山、室戸岬、善通寺等々)をめぐって、巡礼して、書かれた、文学作品も限りがない。

泉鏡花、司馬遼太郎、井伏鱒二、田宮虎彦と、一流の作家たちが、それぞれの、空海や遍路や高野聖を、作品化している。

「仏教」と「文学」は、読めば読み解くほどに、深い縁で、結ばれている。

現在では、外国人や、宗教に無縁と思われた若者たちまでが、四国八十八ヶ所巡礼の旅に出て、その感想や日記が、インターネットで、ブログとして、流れている。おそらく、気が付くと、空海の思想に触れているのだ。

自然に、自らの姿を最確認して、マンダラの宇宙へと、入っているのだろう。

(宗教)と(文学)は、また、永遠のテーマでもある。

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• 水曜日, 1月 23rd, 2013

千年たっても、二千五百年たっても、人間という存在(生きる−死ぬ)というコンセプトには変わりがない。「諸行無常」の風は吹き続けている。

文明・文化の発展・進歩も、人間という存在の(生・老・病・死)は変えようがない。

いつの時代でも、(生きる)は四苦八苦の生活であり、(死ぬ)は、恐怖と不安に変わりはない。

生活の「安心(あんしん)」から、人間存在の「安心(あんじん)」。つまり、宗教が求められる。

「人となる道」を説いたのは、江戸時代の慈雲尊者である。儒教、神道、禅宗、密教を修学し、天、神、仏に「安心(あんじん)」を求めた博識強記の人で、梵字悉曇の、慈雲流を起こし、葛城神道を唱えた。

宗教の、宗派を疑い、風紀の乱れた江戸の太平に、釈尊に帰れと、「正法律」を唱えた僧である。

「人となる道」は、貴族、武士、町民に、「十善戒」の実践を説いた、法話集である。

人間は、放っておくと、本能で生きる動物になり、決して(人)となることは出来ない。

出家者であれ、在家信者であれ、凡夫の衆生であれ、「十善戒」の実践があってこそ、「人となる道」を歩むことができる。「十善戒」は、密教真言の、身口意を、そのまま含んでいる。「十善法話」は、そのまま、21世紀を生きる現代人にも、有効である。

明治生まれの、栂尾祥雲の『真言宗安心読本』は、古代から近代に至る、宗教の「安心(あんじん)」説を展望して、自らの「根本安心(あんじん)」の確立への道を説いた本である。

栂尾祥雲の「根本安心」を読み解く前に、中村本然著「密教の安心(あんじん)」にそって、仏教の「安心(あんじん)」の歴史を追ってみよう。

①釈尊の「安心(あんじん)」は涅槃(ニルヴァナ)である。
(生、老、病、死)の人間世界苦を自覚し、発心をして、出家、修行、その仏果として、煩悩を棄て、業(カルマ)を絶ち、解脱して、一切の迷いのない「安心(あんじん)」の境地・涅槃へと至った、覚者、ブッタである。「戒、定、慧」−仏教の誕生である。

②浄土宗(法然)念仏を唱える「安心(あんじん)」
ただ、ひたすら、南無阿弥陀仏と念仏を唱えて、浄土へ、というシンプルな、浄土宗の手法は、大衆の間に、人気を博して、「安心(あんじん)」を約束した。

③浄土真宗(親鸞)信心する「安心(あんじん)」(他力)
阿弥陀仏の本願を信じて、浄土への往生を願う「安心(あんじん)」、不動の信心をもつ、他力による救いの「安心(あんじん)」。
妻帯し、僧でもない、俗でもない、信心の人・親鸞の、真宗は、貴族のものであった仏教を、武士から庶民へと拡大し、隆盛を極めた。鎌倉新仏教の祖師。念仏を弾圧され、遠流となり、還俗した。悪人正機説をといた「歎異抄」は、現代でも、説得力がある。

④禅宗(道元)坐禅する「安心(あんじん)」
中国で華ひらいた、禅である。祖・達麿。禅は、坐禅によって、一切を超越し、「無」の境地に至って、大悟を得る「安心(あんじん)」である。
直指人心、見性成仏を核とする。不立文字の世界であるが、禅問答は、ダブルバインド(ベイトソン)の理論と同じ、非A、非Bと否定を重ねて、別の位相に至る手法である。
山は山である。
山は山ではない。
やはり、山は山である。

さて、密教・真言宗の「安心(あんじん)」とは何であろうか。秘められた教えの、真言は、口舌の浄土門とは異って、口伝であり、師資相承であり、広く、大衆に説き聞かせるものではない。儀礼と法会が中心であるから、念仏を唱えたり、弥陀の本願を信じたり、坐禅をするといった、シンプルなものではない。

面授でしか伝達不可能な秘教である。
阿息観、阿字観、五相成身観、身に印を結び、口に真言を唱え、意を三昧地に、という三密も、師資相承でなければ、理解、習得が出来ない。

仏教の目的は、仏(ブッタ)になることである。

真言の目的は、即身成仏することである。

発心し、三密の行を実践して、即身成仏をする。密教・真言では、仏になるのではなく、私の中にある仏に目覚めることである。この身、そのままに、仏になるということは、私が大日如来と合体する。入我我入で、大日如来という宇宙が私であると、悟ることにある。

真言の「安心(あんじん)」は、なかなかに、むつかしい。

栂尾祥雲は、古来の「安心(あんじん)」から近世、近代、現代の「安心」を、読み解いている。

「如実知自心安心、菩提心安心、本不生安心、凡聖不二安心、密厳仏国安心の五種は、何れも密宗安心の標的たる絶対不可思議境を異った言葉で表現したに過ぎない」(根本安心)

古来の安心説には、他にも、十方浄土、都率浄土、西方浄土(枝末安心)安心があり、安心及び起行として、即身成仏(理具、加持顕得)三句(菩提心、大悲、方便)安心、そして、起行として、三力(自力、他力、法界力)三密修行(三密双修)光明真言(一密口唱)がある。

起行とは、信心が身口意のはたらきの上に現れた行為、実践のことである。

「安心」と「起行」という分類が、栂尾祥雲の手法である。

栂尾祥雲による、
先人、他者の「安心」説への批判と否定には、いくつかのパターンがある。

①安心を確立した後の起行に属するもの。即身成仏安心、三句安心、三力安心など。
対象(長谷宝秀。三句安心説)否定

②二種、三種の安心を立てる。
「安心」はひとつである。
出家者の安心、在家者の安心と区別し分ける。あるいは、初心者、上級者と分ける。上根、中根、下根と、その人の修行のレベル、知識、階級で分けるなどは、あってはならない。即身成仏できる人、極楽往生できる人と区別するのは、本当の真言行者ではない、と厳しく批判する。(総安心・別安心など)

③経典に、その拠るところの、文がない。説かれていないものは、正統密教の「安心」とは言えない。(定、散二種安心)

では、栂尾祥雲の、真言の「安心」とは、何であろう?「根本安心」の意味は、どのようなものであろう?

「安心(あんじん)」という言葉は、浄土門が使いはじめたもので、真言宗には、江戸時代の、憲深が「宗骨抄」で使用したのが、初出である。

宗祖・空海は、その主著「十住心論」で、「住心」「無畏」「信心」を「安心(あんじん)」と同じ意味で用いている。

栂尾祥雲の着眼は、「住心」を「安心」とし読み変えることにある。言うまでもなく「十住心論」は、心の、信仰のステップを十段階に別け、動物のような、本能のみで生きる心・羝羊の第一住心から、最高の悟りの状態である、秘密荘厳の第十住心に分類されている。同時に、どの宗派が仏果をよりよく得ることが出来るか、理論的に論じた、仏教の構造論ともなっている。

正に、空海の、仏教思想のパースペクティブである。

「大師は安心と云ふことの代わりに住心なる語を用ひ、真言の安心を自ら掲揚して秘密荘厳心を説かれている」(読本より)

「秘密荘厳安心と云ふ中には、如実知自心と云ふことも菩提心と云ふことも本不生と云ふことも、凡聖不二と云ふことも密厳仏国と云ふことも悉く包含され」ていると考えている。

これが、栂尾祥雲の主張する「根本安心」である。

『大日経』で説かれた、六無畏を、六種安心として、それを発展させて、十住心とし、真言の安心とした。

自心の源底にまで至った、空海の、真言の究極のコトバを、井筒俊彦は、マラルメの絶対言語、禅、芭蕉、サルトル、荘子、東西古今のあらゆる言語を分節化して、最高の言語=コトバとしている。

また、人間の(知)を、本能から、学習、メタレベルへと5段階に分類した、20世紀の(知)の巨人、ベイトソンの「精神の生態学」は、空海の『十住心論』と均り合っていて、天才空海の、構造主義が、充分に、現代にも通用することを示していて、興味深い。

さて、現代の「安心(あんじん)」はどうであろうか?

弘法大師入定信仰、高野山浄土信仰、同行二人信仰が一般の大衆に広がりを見せている。これらは、もちろん、「即身成仏」思想からの派生でもないし、祖師空海の時代にはなかったものである。(中村本然)

秘められた教、口伝、師資相承、面授を中心に、布教された、密教、真言も、口舌でもって、大衆に説かねばならぬ時代である。

確かに、念仏や坐禅に比べると、密教・真言は、その宗旨を、一言で言うとなると、なかなか難しい。

梵字、三密、如実知自心、即身成仏、秘密荘厳、本不生、凡聖不二、どれも、言葉を聴いただけでは、わからない。シンプルで、主旨がそのまま伝わるコトバは見つからない。

栂尾祥雲は、大師の御宝号「遍照金剛」を現代の密教安心としてあげている。

どうであろうか?

(平成24年12月21日 高野山大学大学院レポート)

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• 水曜日, 1月 23rd, 2013

日本初の批評家とも言える、中世の人・吉田兼好は、その主著『徒然草』で、人間が生きるための大事、必要なものは、衣・食・住であって、それに、医を加えて、四つが「安心」に生きられる条件だとしている。(百二十三段)「饑えず、寒からず、風雨に侵されずして・・・ただし、人皆病あり。」

八百年を経ても、人間の生活は、倹約で簡素で、シンプルが一番良い。

人類を脅かしてきたものは、天変地異(地震、津波、台風、大雪、火山の噴火、洪水、早魃)からくる飢餓、そして、いつまでたっても、地上からなくならない、戦争である。

誰もが、心が穏やかにくらせる「安心」と「安全」を願っている。

不安と心配のない、生活は、いつの時代でも、人間が願う一番の希望である。

文化、文明が高度に発達した21世紀の人間は、「安心」な生活を実現できたであろうか。

家は、会社は、社会は、便利で快適な電化製品であふれ、車・船・電車・飛行機は、人を、早く、労なく、遠くまで運んでくれる。

科学技術、医療技術、薬、病いは、予防と治療で、克服されたかに見えた。「安心」と「安全」な社会が実現された?
否である。

21世紀は、繁栄の影で、人間が傷つき、疲労し、病み、自死し、失業し、孤立し、苦しみ、悲しみ、悲嘆の底で喘ぎ、人間の存在そのものが、おそろしく、稀薄になった時代である。

この存在の、耐えられない軽さは、いったいどこから来るのだろうか?

もちろん、「安心」して生きている人間は、極く、少数であろう。

家の崩壊、学級崩壊、会社崩壊、そして、人間の、(私)の崩壊である。

衣・食・住・医が無いのではない。物もあふれている。テレビは、CMは、毎日毎日もっと買ってくれ、と叫んでいる。

効率、便利、数値を追いかけて、大量消費を美徳とした人間の、価値観、その手法が、人を、機械人間、働くマシーンにした。

競走に明け暮れて、疲労し、過労に陥って、病気になる、ウツ病、生活習慣病、失業、自殺、そして、ワーキング・プアー群。

「安心」は、どこにもない。衣・食・住すらままならぬ。生活というものが成立しない。将来に、不安を覚える若者、病気と介護におびえる老人。

不安、心配、ストレス、悩み、「安心」を得るための、基盤が崩れているのだ。

現代ほど、釈尊の「生、老、病、死」が、身に沁みる時代もないのではないか。四苦八苦しながら生きる、超高齢者社会が来た。病人であふれる為、医療費で国の財政は破綻寸前である。葬式の看板ばかりが目につく。

正に「安心(あんじん)」が求められる時代となった。しかし、信仰し、信心をして、宗教によって、目覚め、悟り、救われる「安心(あんじん)」にむかう人は少ない。

なぜか?大問題である。

人間は、人間になる為に生きる。
そして(私)を二重に生きる存在である。「社会的な私」と「存在そのものとしての私」である。

(私)には、(私)の場がいる。
ひとつは、社会の中で、仕事の場をもつことだ。もうひとつは、宇宙に生の一回性を生きる存在としての私の場をもつことである。

このふたつが、調和してこそ「安心」が生れる。

ところが、大半の人間が、(仕事=私)と考えて、生きている。地位、職場、役割り。

失業した人は、場がないから、(私)を失う。定年になった人は、名刺、椅子を失うから、(私)を失う。実は、社会的な、職場の(私)を失っただけで、(私)という、存在そのものに眼を向ければいいのだ。

背広を脱ぐ前と脱いだ後では、生きるスタイルを変えればいい。

吉田兼好も言っている。衣・食・住と医があれば、社会のあれやこれやを離れて、私自身を楽しめ、と。

人生の、21世紀の、本当の恐怖・畏怖を味わったのは、3・11東日本大震災と原発事故であった。

マグニチュード8を超える大地震、千葉から青森まで、海浜を襲った大津波、そして、ヒロシマの原爆の何十倍もの放射能を撒き散らしたフクシマの原発事故。

意識が完全に、ゼロ・ポイントに陥った。驚愕で、身振いが止まらぬ、大惨事であった。

3・11は日本人を震撼させた。
おそらく、「安全・安心(あんしん)」という神話が、科学の知が、完全に崩れ去った瞬間であった。その後も、政治家も、科学者も、本当のことを言わなかった。論理も言葉も死んでしまった。「安全・安心」は何処にもない。誰もが直感した。人間の手に負えぬものがある。われらが地球は、決して、安全ではない。科学の知など、自然・宇宙の運動に比べれば、一粒の砂だ。

ニンゲンの、生き方を、変えなければならない。もう、3・11以前の生き方は出来ない。

本当の、「安心」とは、いったい何だろう?

生活の「安心」は、存在の「安心」にかわらなければならない。

何処に、そんな言葉がある?何処に、本当に、「安心」できるものがある?

科学の知は、人間を、論理として、支えてきた。
しかし、21世紀になって、科学の知は、破綻した。

量子力学の出現。光の素粒子は、1が2になり、2が1になる、測れない。決められない。ハイゼンベルグからボームの研究まで。

超数学。ゲーデルの仕事。不完全性定理。
コンピューター。誰も、その経過を確かめられない。

不可測である。不確実である。不可知である。つまり、科学の知には「安心」がなくなった。(神はサイコロを振らない)(アインシュタイン)

フクシマの原発も、実は、人間がコントロールするのは、不可能であった。地球の中に小さな太陽を作ったのだから。プルトニウムの放射能の半減期は十万年である。たった百年も、いや、十年先も、見通せない人間が、原発を、継続するのは間違いである。

宗教の「安心(あんじん)」は、科学の知に支えられた生活の「安心(あんしん)」ではない。

人間とは何者か、何処から来て何処へ行くのか、という大問題、「生老病死」という人間の条件から発生する不安を、凝視し、信仰によって、実践し、「安心(あんじん)」を得る、覚者への道である。覚醒し、悟り、涅槃へ至る「安心(あんじん)」の仏教である。

浄土教は、阿弥陀仏を信じて、念仏を唱え極楽へ往生する、「安心(あんじん)」である。

禅宗は、坐って、瞑想し、「無」へと達して、「安心(あんじん)」を得る。(止観)

真言宗は、三密を実践して、即身成仏を祈る「安心(あんじん)」である。(三昧)

宗教は、「社会的な私」を棄てて、「存在としての私」に向き合う。生活の「安心(あんしん)」ではなくて、存在者の「安心(あんじん)」を求める。山川草木悉皆仏性。あらゆる存在が、宇宙そのものである。

江戸時代の、慈霊尊者は、宗派の争いを超えて、釈尊に帰れと説いた。
信仰、菩提心、21世紀の人間が、発心して、宗教へむかい、「安心(あんじん)」を得るためには、3・11の、未曾有の、大災害と、死者たち、被災者たちを、思えばよい。

家を失い、家族を喪い、仕事を失い、故郷を喪い、3・11以前の(私)を喪い、生存の根を断ち切られ、諸行無常に身を引き裂かれ、「安心(あんしん)」から見放され、せめて「安心(あんじん)」を求めるしか術がない。

水、毛布、灯油、おにぎり、薬、部屋、お金、仕事、対話、そして「安心(あんじん)」が必要であろう。

話せば心が壊れる人がいて、話さなければ心が壊れる人がいて、故郷に帰りたい人がいて、故郷の風景を見たくもない人がいて、東北の被災地は、まだ、まだ、風景まで、痛み、深く、傷ついている。

四泊五日の旅。釜石、大船渡、三陸と、壊れた風景の中を、黙って、歩き、話を聴き、わずかばかりの支援金を渡して、復興と復活と再生を祈り、人々が、傷ついたままでも、「安心(あんしん)」から「安心(あんじん)」へと、心の舵を切れるようにと、念じ、私の心も、共振れして、真っ暗に染って、青い海と青い空が、見えなくなった。

空海さんが、現れたら、同行二人してくれるだろうに。
「安心(あんじん)」を、人々に、説いてくれるだろうに。

「生れ生れ生れ生れて 生の始めに暗く
死に死に死に死んで 死の終りに冥し」 空海−(秘蔵宝鑰)

「安心(あんしん)」も「安心(あんじん)」の道も遠し
21世紀の人間である。
人間に、いったい、何が出来る?
奉仕の気持で生きるだけだ。

(平成24年12月13日 高野山大学大学院レポート)

Author:
• 水曜日, 10月 10th, 2012

ニンゲンには、
光に”無限”を直観して、感受する、心的な力がある。(永遠、聖なるもの、畏怖すべきもの)
また、神、仏に感応する、神的な力もある。仏像は、イコンは、(信)という力でもって、神や仏へと、異次元へと跳ぶための、ひとつの仮の形、表徴であろうか。(眼に見えぬものを見るために)

眼に見えない、放射能、素粒子・ヒッグス粒子と、眼に見えない、神や仏と、いったい、何が、どのようにちがうのだろうか?
素粒子は、理論で、数式で、実験で、科学の(知)が証明したものである。
眼に見えない、神や仏は、信じるという(信)の力で証明するものである。
(考える)と(信じる)は、同じコトバというものであるが、その、位相と意味が異なる。哲学、科学の(知)と、宗教の(信)

阿弥陀三尊像(京都・三千院)

光。今も昔も、光は、人間を魅了して止まない。太陽の、月の、2000億個の銀河の、2000億個の恒星の、無限遠点から来る、光という宇宙からの音信に魅惑されて、それを読み解きたいと思う。宇宙は、読み解くための巨大な本であり、光は、その中心にある存在である。
光の光子は、1かと思えば2になり、計測しようとすると、2が1になる、正に、量子論的な存在である。

阿弥陀如来は、無限の光を放つ仏である。宗教にとって、光は、聖なるもの、崇高なるものの象徴として欠かせない。聖書でも、天地創造のはじめに、神が、光あれと言えば、光があらわれた。
仏教でも、光は、さまざまな役割りを果たす、聖なる存在である。

「阿弥陀」
「大乗仏教における最も重要な仏の一つ。<阿弥陀仏><阿弥陀如来>と呼び、略して<弥陀>ともいう。」(仏教辞典)
「[原語と訳語] サンスクリット原名は二つあり、Amitaayusは、<無限の寿命をもつもの、無量寿>Amitaabhaは<無限の光明をもつもの、無量光の意味で、どちらも<阿弥陀>と音写された。」(仏教辞典)

光という語を、その名前に冠した仏、阿弥陀は、インドで誕生したが、太陽神、アラーの神の影響を受けたという説もある。
光り輝く阿弥陀は、西方の、極楽浄土・光の国に棲んでいる仏である。

平安末期から鎌倉時代にかけて、末法思想が浸透して、人々は、戦乱、飢餓、病い、大地震、大津波の現世を厭い、極楽浄土へ往生することを願い、阿弥陀に救いを求めた。
阿弥陀は、四十八の本願を立て、その中でも、十八願は、一切の象生は、阿弥陀の名を唱えるだけで、往生できる、それまでは、菩薩から悟りをひらいた如来にはならぬと約束を誓った。

和歌山の、補陀落渡海は、舟に乗って、西方の極楽浄土をめざす信仰であった。僧たちは、浄土をめざした。飲みもの食べものもなく、舟に乗って、泣く泣く、海へ、西方へ、浄土を願って、漕ぎ出した。光の国を求めて。
現世は、苦であり、闇の世界である。浄土思想は、光を放する仏、阿弥陀のいる、極楽浄土で救われたいという、他力本願の思想である。

ただ、ひたすら、南無阿弥陀仏の六文字を唱えれば、往生できるという、実に、シンプルな思想は、法然、親鸞の出現で、頂点をむかえた。
空海の、真言の、三密の、深遠な、哲学的宗教思想は、天皇、貴族の知識人の心を捉えたが、浄土教、浄土真宗は、武士、庶民、大衆の心を魅了した。

京都の、山間の、大原の地に「三千院」がある。歩いて、約三十分ほどの「寂光院」とともに、日本人に人気のある、天台宗の古刹である。
青不動で有名な青蓮院・妙法寺とともに、延暦寺の三門跡のひとつである「三千院」には、阿弥陀三尊像が設置されている。
阿弥陀三尊像が安置されている極楽院本堂は、平安時代の遺構で、まるで、舟底型のように、灰暗くて、狭い。
二十歳の頃から、春、夏、秋、冬と、桜、青葉、紅葉、雪の風景を楽しみながら、四度ばかり訪寺をした。
渡来人の仏師たちが伝えた、シンプルな飛鳥の仏たち、飾りの増えた白鳳の仏たち、仏像の様式、技術が爛熟とした天平の仏たち、男性的で、神秘的な、空海の時代、平安前期の仏たち、そして、終に、日本風な、オリジナルの仏たちの出現した、藤原時代。日本の、定朝、運慶と、仏師たちも、大和風な、<美>の世界を表現した。

「阿弥陀三尊像」(1148年)

結跏趺坐、印は、定印ではなく、右手をあげ、左手を膝の上に置いた、来迎印。背景には、金色の十三仏と十三仏種子、顔は、いつもおだやかで、半眼、瞑想、三味地に入ったかのようで、親しみのあるリアリズム。光を放つ白毫が、額に確と刻まれている。
脇侍は、膝を折り曲げ、手に蓮台を持ち、宙を飛んでいるように、前傾姿勢である、観音菩薩。同じく、同じ姿勢で、合掌印をつくり、蓮の台座の上に坐っている勢至菩薩。
二つの仏の特徴は、光を放射する、光円と光条があることだ。

仏たちの、
光を放つ、光を発するものに、白毫がある。頭光がある。眼がある。毛穴がある。舌の根がある。(長舌相)
光は、三千大千世界を照らしだして、正しく完全な悟りに(無上等正覚)導くためのものである。光は、五色の糸(紙)でも表現される。象生は、何もしなくても、仏たちを拝って、光を浴び、南無阿弥陀仏を唱えればいいのである。
十三観に「日想観」がある。太陽、光をイメージする瞑想である。
光は、力、エネルギーである。仏たちは、光を放つ。あるいは、瞑想の中で、仏を胸にして、光を放ち、本当の仏を、光の手で、捉えるという手法もある。
光は、山と日常を、天と地を、結ぶ、降臨する光、昇天する光、あらゆる境界を、結びつけるのが(光)である。

文学にも、見事に、(光)を表現した作品がある。
「ひかりごけ」(武田泰淳作)である。
テーマは、「難破船長人喰事件」だ。戦時中、軍の船、清神丸(乗組員7名)が、嵐で漂流、難破、洞窟のある、無人島に上陸。何も食べるものがなくて、仲間たち、人間を食べあい、最後に、船長が生き残る話。
羅臼の村で、地元の校長先生に、ひかりごけを見るために、ある洞窟に案内される話。戯曲として、生き残った、船長他三人が、人肉を食べる場面。船長が裁判所で、裁きを受ける場面、の三部構成。人間の肉を食べた者には、頭の後に、光の輪ができる。人肉を食べた人には見えないが、罪を犯していない人には見える。その光が、植物の放つ、ひかりごけの光に似ているのだ。

人間の原罪を考える作品である。裁判長も、検事も、弁護士も、その光が見えないという。船長は、もっと見てくれ、あなたたちは、食べていないのだから、俺の頭の後にある、光の輪を見てくれと叫ぶ。
実は、傍聴人たちにも、見えない。武田泰淳は、実は、読者にも、見てくれ、と叫んでいる。
”我慢”あらゆる我慢をして生きている船長の思想に、普通に生きている、と思っている人々は、どう応えるか。サルトルの「嘔吐」よりも、更に、深い、東洋の思想を、「ひかりごけ」は、表現している。
実は、泰淳は、お寺の生まれで、得度している。僧でありながら、共産主義に加担した。兄は、浄土宗の高僧である。

「光は、まだまだ謎である。

アミダブツよ、
3.11の被災地に
光の慈雨を
降らせてよ!!

※最高の光は、大日如来、法身であった。 H24.8

(高野山大学大学院レポート)

Author:
• 金曜日, 6月 29th, 2012

「凡そ最初口を開く音に、みな阿の声あり・・・故に悉曇の阿字を衆声の母となす」(「大日経疏」)

1. 人間とコトバ

コトバは、文明・文化の母である。コトバと道具とエネルギー(火・水・風など)のコントロールが、人間を人間たらしめた三大要素である。
話す(思想の伝達、記憶)、書く(記録して残す)、考える(コトバで概念を組み立てる)手段がコトバである。
四大文明は、文字を発明している。(エジブト文明、メソポタミア文明、インダス文明、中国文明)

コトバは、声と文字に別れ、インド・ヨーロッパ語は、表音文字を、中国語は、表意文字となった。音を写すコトバと、音を意味する漢字という、表象文字に表わしたコトバに分れた。

わが大和民族は、話しコトバの倭語はあっても、文字がなかった。仏教伝来と共に、中国から漢字が伝わった。漢字を、大和コトバで読んだのだ。それは、英語の、I am a boyを日本語で読むという、革命に近い手法であった。万葉仮名が出来て、平仮名が誕生し、現在の、漢字、ひらがな混り文の、日本文が完成をした。漢字と和語が結婚をしたのだ。

「甲骨文字」や「金文」から、古代宗教国家での、文字の誕生を実証した。
コトバ考は、本居宣長の「詞の玉緒」から時枝誠記の「言語過程説」三浦つとむ、吉本隆明の「指示表出、自己表出」へと至っている。

音が中心の西洋では、ソシュールの「構造言語論」から、バフチンの多重言語、チョムスキーの「言語論」に至り、「記号論」がコトバの中心を占めた。パロールとエクリチュールが、西洋の哲学のコトバ考の核となった。

2. 空海のコトバ −法身説話−

「自心の源底」に至った空海の言語哲学を、見事に分析し、コトバを、構造的に、意味と存在を分節した井筒俊彦の名著「意識と本質」は、圧巻である。三十ヶ国語を、自由自在に読み書き出来た井筒は、空海以来の、コトバの天才であろう。
サルトルの実在主義、フッサール、メルロポンティの現象学、ユングの深層意識、荘子のコトバ、芭蕉の時空を超えるコトバ、マラルメの絶対言語、禅の不立文字、そして、真なる言葉、大日如来の真言、空海が到達した「法身」の語るコトバへと、歩を進める。
西洋の言語学者が踏み込めなかった、アーラヤ識からくる言語、空海の創造した、最高のコトバ、異次元のコトバを再発明する。

阿字。真言。大日如来の、真なるコトバ、存在の、意味の、究極の地点を、井筒俊彦は、開示してみせた。
一切の音の、声の、根源である阿字。森羅万象の、根源である大日如来のコトバ。
「五大にみな響きあり、十界に言語を具す、六塵ことごとく文字なり、法身はこれ実相なり」
「それ如来の説法は、必ず文字による、文字の所在は六塵その体なり。六塵は本の法仏の三密なり」(『声字実相義』より)
釈尊が、語れなかったところのものを、空海は、色身から法身へと転じることによって異次元で、語ってみせた。
西洋の、声と、記号を語る、言語哲学者たちが、到達できない、(自心の源底)へと千二百年も、昔の、空海は到達していたのである。空海は、すべての存在は、コトバであると言っている。

3. 梵字悉曇の歴史

表意文字である漢字を書く日本人に心理分析はいらない、と、精神分析の雄ジャック・ラカンは語った。表音文字を使うヨーロッパの哲学者のコトバだ。
しかし、表音文字である、サンスクリット語にも、字相と字義があると空海は語る。「吽字義」文字の表層の意味と、深秘な意味を分けて考えている。(huum)
文字に、(法身、報身、応身、色身)を読み込んでいる。
インドでは、四千年前の、インダス文明の象形文字は、まだ、読み解かれていない。紀元前三世紀のアショカ王の頃、アショカ文字が現れる。
そして、四世紀には、グプタ王朝のグプタ型文字、六世紀に、シッダマートリカ型とナーガリー型が現れて、その中のシッダマートリカ型が、<悉曇>と呼ばれることになる。
インドで誕生した仏教、密教は、中国漢文に翻訳された。
古訳時代(法護)旧訳時代(鳩摩羅什)は、共に、漢字による音写文字。
新訳時代(玄奘三蔵)は、直接、梵など。
密教の経典は善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等によって、次々と翻訳された。ただし、音の長短を重視する、悉曇文字は、書写された。真言陀羅尼は、訳すと、意味・原意が変わってしまう。
インドでは、貝葉に書かれた文字が、中国では、紙に、毛筆、木筆で書かれるようになる。そして、中国風な、梵字悉曇がそのまま日本に伝わってきた。

空海も、奈良の久米寺にて「大日経」を読み、はじめて、正体不明の、梵字に出会う(?)ことになる。唐に渡った空海は、梵字を修学して、日本で、体系化する。密教の教義とともに、梵字、悉曇をとりいれた。書写し、観想し、実修を説いた。

悉曇八家と呼ばれているのは、真言では、空海、常暁、円行、恵運、宗叡。天台では、最澄、円仁、円診である。真言では、中天を、天台では、南天の梵字を相承をした。
密教の教文は、秘められた宗教であるから、師資相承である。口伝であり、面授である。

戦国時代が終ると、江戸時代には、さまざまな文化が華を開いた。俳句の芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門、小説の井原西鶴、歌舞伎、相撲、演劇、娯楽、旅、巡礼、四国八十八ヶ所等々。寺子屋があって、識字率は、世界に誇れるのもであった。書道、算術も盛んになった。
さて、鎌倉時代に、大師流が、梵字悉曇として伝わっていたが、現在は、書道として、残るのみとなっている。
江戸時代には、梵字悉曇も、さまざまな流派が起ちあがった。

4. 慈雲流−その特徴

主な流派は
①慈雲流
②浄厳流
③澄禅流
④智満流である。

「書は文学である」、書そのものを芸術として、書にその人の思想を読み解いた、石川九楊のコトバである。(「中国書史」「日本書史」「近代書史」)
慈雲は、名を飲光と言い、号を葛城山人と言った。大阪に生れ、13歳で父を失い、住吉法楽寺にて、得度している。その翌年から、悉曇を学んでいる。儒学を学び、禅を学び、梵字、サンスクリット語を学び、「十善戒」を説き、河内高貴寺に根本道場を開いた。仏教は、もちろん、神道、儒教、そして西欧の事情にも詳しい学僧であった。
その成果は、今日でも、世界の驚異とされている。「梵学律梁一千巻」である。

浄厳流が「法隆寺貝葉梵本」に範をとり、静かで、整った、肉筆であるのに対して、慈雲流は「高貴寺貝葉梵本」の字体を範として、太い線で、素朴で、自然で、掠れがあり、雄大である。起点から終点まで、淀みがなく、(枝)らしきものが見えない。大河が堂々と海に至る、力感に似ている。四流派の阿字を凝っと眺めていると、澄禅派は、実に、繊細で優美である。(毛筆と朴筆体の両様を伝えるためか)浄厳流は、知的な、整然とした書風を感じさせ、智満流は、流動性、リズム、力感を覚える。
文房四宝は、書を芸術とする基である。特に、慈雲流では、筆は、短穂で、やや硬いものを用いる。
運筆は、澄禅流が、筆を紙に垂直に下ろすのに対して、慈雲流は、筆を側筆気味にする。
また、紙は、悉曇十八章の場合には、古来美濃紙を用いることになっている。(実は、私も、40年以上、原稿用紙は、神楽坂の山田家、ペンは、モンブランと決めている)
面授、師資相承の系図がある。高貴寺に伝わる「悉曇中天相承」である。

龍猛からはじまって、恵果に至り、恵果から弘法大師へ、そして、江戸の飲光へ、はるかな時空を超えて、平成の慈圓まで、インド中国、日本へと伝わっている。しかも、現在では、インド、中国での、梵字悉曇は止絶えて、わが日本国にのみ伝承されている。

書、写経、梵字悉曇は、真なるコトバに会い、真なるコトバを自らの中に発見するための、日本人の伝統である。手法である。
現代の日本人は、漢字、文章、日本文が書けなくなっている、筆も、鉛筆も、万年筆も使わなくなって、パソコンのキーを叩つ、音で入力をして、漢字に変換をする、メールを送る。

電子の文字の時代である。一画一画、一字一字、書いてこそ、文字である。字体、字風、字相、文体の復活が望まれる時代でもある。

(高野山大学大学院レポート)

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• 水曜日, 3月 28th, 2012

歩くというのは、単純であるが、奥の深い行為である。歩くは生きるである。歩くは、発見するである。歩くは邂逅するである。道は無限である。歩くは、マンダラである。
そして、遍路は、歩いて、マンダラである。
そして、遍路は、歩いて、マンダラ宇宙を知る、巡礼の、長旅である。

いったい、なぜ、こんな事態に陥ったのだろうか?人間がこんなにも、痛んで、傷ついて、壊れて、淵に追いつめられている時代はない。それとも、昔から、人間が生きるということは、四苦八苦の道であったのか。

戦後、六十余年、日本人は、戦争を放棄して、豊かさと幸せを求めて、額に汗をして、働き続けてきたではないか。便利さと快適さを求めて、科学の(知)で。

物質よりもココロの時代と呼ばれて久しいが、そのニ頃対立の解消は、そう単純ではない。農業も、漁業も、土木も、その重労働を解消するために、耕運機を、エンジンを、シャベルカーを発明、導入し、身体の疲れを取り除いたはずだった。雪の日、猛暑の日、快適になるためには、クーラーを。車の普及、汽車、電車、飛行機、電話、テレビ、パソコン、洗濯器、掃除器、冷蔵庫、電子レンジ、湯わかし器、風呂、水道、日常生活のほとんどが、電気・ガス・石炭のエネルギーで支えられている。
不安も、苦痛も、不快も、一切が解消されて、人間は、便利に、快適に、気持よく、ゆっくりと、生きる時間を、楽しめるはずであった。

現実は、物に、人に、疎外されて、息つく暇もなく、効率を求められて、疲労し、過労になって、身も、心も、病んでいる。

情報は、世界を駆けめぐる時代である。地球も、小さな惑星になった。親たちの時代、明治・大正の人たちには、考えられぬ、現実であろう。しかし、便利と効率は、必ず、競走を産み、その、光と影がある。毎日、新聞やテレビには、日本中の不幸が、世界中の不幸が報道されている。しかも、一人の力では、解決できない問題ばかりだ。正直に、視て、読んでいると、ココロがウツに陥ってしまう。他人の不幸を、わが身のこととしていると、自分のココロが壊れてしまうほどに、不幸の種は尽きない。(空海には、それに耐える、胆力と智の力があったが)

日本の現実を眺めてみよう。
超高齢化社会の現実がある。

十年間、三万人を超えた自殺者。四百万人を超えた失業者。年収二百万以下の労働者二千万人。結婚しない人、できない人。孤独死。無縁死。心の病気三百万人。介護疲れ死。親の子殺し、無差別殺人。限界集落。お金がない、仕事がない、病気になった、人間が生きる、衣、食、住が崩れているのだ。
もう、いいだろう。あげれば、切りがない。問題は、一人の人間の能力の限界を超えているものばかりである。

そこに、人類の、最悪の大惨事が起こった。3.11である。大地震、大津波、大原発事故だ。十ヶ月たった今も、本当に、人間が、体験したという、事実の重みに耐えかねている。

科学の(知)の神が死んだ。(安全神話)
知識人のコトバが死んだ。
本当のことを伝えられない、報道しない、テレビ、新聞の信用が地に落ちた。
作家も、詩人も、芸術家も、哲学者も、宗教者も、大学教授も、誰も、二万人の死者たちに、十二万余の被災者に、真のコトバを発することができなかった。
嘘の、虚のコトバばかりであった。
メルトダウンはありません。
安心です。
ただちに、健康に影響はありません。
文切り型のコトバに、固定した映像、数字、御用学者ばかりだった。本当のことを言った人は、二度と、テレビに出演させなかった。政府の要人、大企業、大病院、少数の人々だけが情報を握っていた。
いくらでも、事実を、真実を、放送するチャンスはあったのに。放射能の流れる、風向きの予測を放送してあげれば、将来の、病気の不安が取り除かれたのに。
パニックを恐れて、真実を伝えなかった。人間は、決して、愚かではない。自ら、選択ができる。愚かであったのは、誰か?
国の犯した、大罪であった。

原子は、原子力は、まだ、科学の(知)では、制御できない。宇宙は、人間の(知)を超えている。
沈黙した人の方が良心的だったのか?
いや、3.11で解ったことは、決して、専門家の(知)に頼ってはいけないということであった。
万能細胞にしろ、遺伝子の組み変えにしろ、脳死にしろ、将来、何が起こるか、わからないまま、進められている。人体も、植物も、いや、生命自体が、未だ、わかっていないのだ。六十兆の細胞、DNAは、解ったが、決して、それで、人間という生命が、解明された訳ではない。
まだ、人間は、宇宙のことも、千分の一もわかっていない。二十世紀まで、宇宙は、原子で出来ていると信じられてきた。二十一世紀になると、宇宙は、眼に見えない、ダークマターで出来ている、と解ってきた。
十の五〇〇乗も、ある宇宙は、もう、SFの世界を超えている。証明すらできない。

で、私は、死者にあてがえるコトバ、被災者にあてがえる、文学のコトバを探し、書こうとした。そのコトバが見当たらない。
そうだ、一番深いコトバは、宗教の中にある。空海のコトバだ。突然、高野山への旅に出た。大学があった、聖なる地に。ここは空海のコトバの蔵があると思った。そこから、空海への、長い、長い旅がはじまった。ゆっくりと、じっくりと、空海の声が聞けるまで修学してみよう。これが、私の発心である。
空海は、死んでしまった現代のコトバを、再生させる、種子を、もっているかもしれない。
コトバは、その人の位置と場と位相が決定する。
位相:社会の中で、どんな立場にいるか。
政治家と選挙民、社長と社員、医者と患者、教師と生徒、父母と子供、というふうに。
場:何処に、どんな環境、条件の下に住んでいるか。都市と地方。寒いところ暑い処。貧と富など。
位相:考える、信じる、生きる力のレベル。労働する力の有無。知識の有無。体力の有無。情力の有無。技術の有無。信仰の有無。
そして、
コトバにもいろいろある。散文、詩、メタ言語、純粋言語、人工言語、絶対言語、そして、最高の位置に、空海の真言がある。

私は、コトバとして、現在、アフォリズムを開発した。考えるコトバではない。どこかから、私へと来るコトバである。意識のゼロポイントの、深層意識の、アーラヤ識から、吹きあげてくるコトバである。
3.11の死者たちに、被災者たちに、六百本捧げた。まだまだ、死者たちに、とどくコトバを生み出せない。

私の、高校時代の級友に、建築家・歌一洋君がいる。
三十余年も会っていなかった。高校時代には、色白で、おとなしく、目立たない学生であった。ある日、突然、東京の事務所へ来て、ヘンロ小屋を建てはじめたと、八十九の、模型図を展げた。その土地の地形、風土、風俗、習慣に合わせた、八十九種のモデル絵画があった。
三十を過ぎるまで、何をして、生きていいのか、わからなくて、掃除や皿洗いやガソリンスタンドでアルバイトをしては、世界中を旅して歩いた。そして、ある日、建築家になろうと、決心した。見事な感性で、その場を読み取る力がある。発想がある。各賞に輝き、名声を得た。
そして、無償の、ヘンロ小屋の建築である。資金は、すべて、地元民の寄附。材料も、その地元にあるもの、大工仕事も、すべて、(共働)で実施する。
歩いて、疲れた、お遍路さんが、ふと、足をとめて、一服する。雨風を、日射しを避けて、休憩をする。彼の奥さんは、お金にならん仕事ばっかりしてるねぇ、と笑ってみせた。
歌一洋のヘンロ小屋の仕事には、感服した。本当に、いい仕事とは、人間らしい仕事とは、こんな仕事であろう。
実は、彼も、少年時には、お遍路さんを、お接待した。その記憶が、ヘンロ小屋の建築への原動力になっている。

私も、3.11以降は、生きるスタイルを変えた。
一度、一切の知を棄てて、四国八十八ヶ所を歩こう。3.11の、死者たちにもとどく、アフォリズムを、その紀行文を、芭蕉の「奥の細道」に習って、西行の歌に、習って、百本、それぞれのお寺に、道に、空海に捧げよう。
最高のコトバ、真言に至る道を、同行二人で、空海と、共時的に、歩いてみようと、念じている。血圧とアキレス腱を心配しながら。

(高野山大学大学院レポート)

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• 木曜日, 2月 23rd, 2012

空海には二つの顔がある
右の顔は空海
左の顔はオダイシサン

四国では、空海は、人間ではない。
神・仏のオダイシサンである。人間扱いをする風土ではない。しかし、聖なる神として高みにある存在ではなくて、日常生活の中に自然にいる、悲、苦、痛を救ってくれる、親しみのある、仏さま、オダイシサンである。

私の祖母キヨは、明治の生れで、百歳まで生きた。文字も読めず、耳で生きる女(ひと)であったが、正直で、他人には優しく、朝夕、必ず仏さんを拝み、オダイシサンを信じて、成仏をした。オダイシサンを、空海だとは、一生、知らなかっただろう。何しろ、仏であって、人間ではないのだから。

昭和の三十年代までは、村では、念仏諸というものがあった。農作業が終って、疲れた身体にムチを打って、女たちは、お寺に、念仏をあげに行くのだった。寺は、学校であった。道徳、倫理、そして、仏教による人の道を説くのが、お寺の、僧の役目であった。文字も読めず、学問もない、村の衆たちが、仄暗い寺の、広間で、車座になって、大きな、珠数を廻しながら、真言を唱えるのである。

夜道を、提灯を下げて、祖母に手を引かれて、寺へ行った記憶が五十年以上経った今も、鮮明に刻みつけられている。

もうひとつの、少年時の記憶がある。
「昇、ホラ、お接待せんかい、お遍路さんが来とるやろ」
「お祖母ちゃん、何やったらええん」
「お米があるやろ、一合で、ええじょ」
台所の、奥の、暗がりに、米櫃がある。枡で掬って、小走りに、庭先へ出て、お経を唱えている、お遍路さんの、首から吊した頭陀袋に、お米を入れるのだった。そのお米の落ちる、サラサラという音が、耳の底に残っている。

お米、十円玉、ミカン、柿、季節によって供物が変わった。庭先に、腰を掛けて、お茶を呑みながら、祖母と、話をしていく遍路もいた。

お遍路さんとはどんな人か、何処から来て何処へ行くのか、いったい、どんな目的で、一軒一軒、家を尋ね歩いて、なんのために、お経を唱えるのか、何時も、立ち去る後姿を眺めながら、不思議に思った少年時代であった。

さて、村から、念仏諸が消え、学校では、宗教教育が消え、お盆の墓参りと、お葬式の時にしか、お寺や宗教と、縁の薄くなった、現代という時代に、信仰や遍路を、改めて考えるのも、皮肉なことである。日常生活に、普通に、自然にあったものが、どんどん消えてなくなっている。

遍路は、年間三十万人と盛んであるが、歩き遍路は、約一割の三千名くらいだと言われている。ただし、昔のように、村々の、町々の、家々を、お経を唱えて、托鉢をして廻る遍路は見掛けなくなったと言う。

バスで、汽車で、自家用車で、ヘリコプターで、八十八ヶ所のお寺に参拝する。その目的も、信仰や願を叶けるものではなくて、自分探しの旅、都市からの脱出・自然にふれる旅であったり、ストレス解消であったり、健康づくりであったりと、大きく様変わりしている。

空海・オダイシサンを求めて、修行の巡礼であったものが、追善供養も、病気が癒えるようにと願をかける巡礼も、随分と少なくなっている。

どだい、現代の、高野聖はいるのだろうか。

私自身も、四国を出て、東京で、都市生活者として、四十五年、生きてきた。普通のサラリーマンとして、十五年、会社を設立して、経営者として二十二年、ほとんど、宗教とは、縁のない日常生活であった。

3・11の、大地震、大津波、原発事故に遭わなければ、空海との縁も、切れたままだったかもしれない。3・11は、人間の、生きるパラダイムシフトを一変させる大惨事であった。もう、3・11以前のスタイルでは生きられない。意識がゼロ・ポイントに陥った。科学者の(知)という神が死んだ。政治家、知識人、作家、大学教授たちのコトバも死んだ。

誰も、二万人の死者たちに、十二万人の被災者たちに、あてがうコトバを放つことができない。

もう、空海さんしかいない。哲学者、宗教家、芸術家、教育者、土木技師、書家、編集者、万能の人、マルチ人間、生命の全背定者。実践と理論の人、天才・空海の声を聴くしかない。共時的に、空海の声を、現代に、甦らせることだ。

大師信仰の、歴史、資料を、チェックしてみよう。

高野山で入定した空海は、現在も、奥の院で生き続けている、という信仰である。現代風に言いかえると、空海は、いつまでも、私たちの心の中に生きているということであろう。(死)ではなく(入定)と言うのは、禅定し続けている、というイメージか。

空海は、その死後、二百年たって、天皇から、大師の称号を賜っている。(九百二十一年)空海と同時に、シナ・唐に渡った、比叡山の最澄は、すでに、伝教大師に、その弟子の円仁は、慈覚大師との称号を得ていた。第五代の座主、円珍も、智証大師となった。

その他、道元、法然、親鸞、日蓮、一遍と次々に、大師の称号を得ているのに、なぜ、大師といえば空海、コウボウダイシであるのか。そこが、歴史の面白いところだ。

生前、空海は、信仰を通じ、書画を通じ、嵯峨天皇と親交を密にした。筆をプレゼントしたり、唐の話や密教について、語りあったことだろう。高野山は、空海の死後、三度の雷による大火などで、焼失し、貴族の藤原道長の、参詣と寄進によって、復興を遂げている。奥の院への樹木に覆れた森の参道を歩くと、徳川、豊臣をはじめ、仙台の伊達、秋田の佐竹、中国の毛利、織田、明智、戦国大名たちの供養塔、五輪塔、墓が林立している。

真言宗の初期には、なかったものだが、江戸期に入ると、全国の大名、貴族たちが、競って、先祖の霊を祀って、墓石を建てている。

真言宗は、浄土宗の思想を受け入れたのだ。補陀落渡海は、海の彼方、西方に、浄土がある、僧が舟に乗って、死を覚悟して、海へと漕ぎ出すというものだ。

天皇・貴族たちの空海であったが、江戸期になると、伊勢詣、熊野詣に加えて、庶民たちが、高野詣をはじめている。いわゆる、大師詣である。経済、産業の発展で、余裕が生れ、寺子屋が出来て、識字率と教養があがった。ちなみに、兼好法師の「徒然草」は、町民たちが、嫁入りの際に、娘に持たせた、生活・倫理の書としてベストセラーとなった。

四国遍路の案内記や高野詣の紹介本がでるほど、印刷の技術も格段に進歩している。

何よりも、空海の「入定信仰」が、民衆に、オダイシサンによる、救済の信仰の源となった。

そして、高野山復興の為に、お布施をもらい、寄進をすすめるために、全国を歩いた、下級の僧たち、聖、高野聖の存在が、大きな影響を与えている。

高野聖たちは、寄進を請うばかりではなく、情報の伝達者でもあった。密教、真言はもちろん、空海入定の話など、さまざまな話が、地方に拡がって、さまざまな大師説話を作りあげていく。四国では、神変と思われる、奇跡や神的な話が数限りなく伝わっている。

それは、空海が、山岳に独り入って、悟りを得る、孤高の人ではなくて、行動・実践も伴う、教学思想と利他の思想の、双方とも、身をもって、生きたからに他ならない。

満濃ヶ池の修繕、綜芸種智院の設立、川の堤防の修繕など、貧しい人、病気の人、不幸な庶民の為に、身も心も捧げ尽くした、空海であるからこそ、人々は、オダイシサンを求め続けた。

四国八十八ヶ所を、同行二人で巡礼する、遍路という者の一般化も、オダイシサン信仰を、普及させる原動力となっている。

伊勢詣、熊野詣、善光寺参りなど、神・仏をお参りする風習は、古くは、天皇、貴族から庶民に至るまで、信仰のかたちとして、見受けられた。

しかし、四国八十八ヶ所巡礼の旅は、ひとつの聖なる地、一人の神や仏を祀る神社や寺への参拝とは、訳がちがう。規模がちがう。いったい、誰が、千四百キロに及ぶ、八十八の寺巡りを、発想、発案したものだろうか。

不思議な伝統である。

四国は、昔も今も、辺境の地、辺地である。船で渡るしかなかった。山が海にせりだしている為に、道路が造れない。平成の現在でも高知の、甲ノ浦から、室戸までは、電車がない。

遍路には四つの説がある。空海自身が、42歳の時、自ら歩いて廻った説。(なにしろ、阿波、大瀧ヶ岳で、伊予、石槌で、土佐、室戸で修行をし、讃岐は大師誕生の地である)松山の豪商、衛門三郎の巡礼話。弟子の親済説。嵯峨天皇の子、真如親王−(空海の弟子)説がある。

平安末期に、三人の僧が、四国の辺地を廻ったという「今昔物語」もある。

空海が生れ、修行をした聖地四国だけでは、遍路の理由がつかみきれない。宗派を超えて、八十八の寺を結び、歩く、巡礼する遍路たちがめざすものは、マンダラであるかもしれない。8は∞、無限である。辺地は、未知の地、聖なる仏たちのいる、土地である。

(高野山大学大学院レポート)