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• 火曜日, 11月 04th, 2008

【伊豆の国市】は、いわゆる平成の大合併で誕生した新しい市である。長岡町、韮山町、大仁町が合併した。人口は約5万人、1.9万世帯。もちろん、名前の通り伊豆半島にある。

富士山の優美な裾野が海に向けて伸びきったあたり、裾野市、三島市があり、駿河湾に面した沼津市、そのあたりに小さなこんもりとした山々が幾つか点在して、伊豆の国市がひろがる。

伊豆半島には伊豆と名のつく市や町が5つある。東伊豆町、南伊豆町、西伊豆町、伊豆市(旧修善寺町など)、そして伊豆の国市である。

何度か大きな合併劇があった。その度に村や町の名前が消えていく。消えた名前を惜しむ人、残念がる人、名前は単なる地名の象徴ではない。生活や文化や歴史がその名前に張りついている。【江戸】は【東京】となった。もう大昔のことになるが。100年も前のことだ!

しかし、新しい名前にも、なるほど、素敵だと感心する名前もある。

【伊豆の国市】も実に見栄えのする、いい名前だと思う。

静岡、伊豆といえば、もちろん富士山、お茶、みかん、そして温泉だろう。

川端康成の「伊豆の踊子」はもちろん、松本清張、梶井基次郎や井上靖など、多くの文人、作家、画家、音楽家などが伊豆を訪れ、たくさんの作品を残している。

東京のサラリーマンが社員旅行、温泉旅行で最も利用し、愛したのも伊豆だろう。

伊豆の国市では、国保ヘルスアップ事業に地元の温泉を利用した計画を策定した。名づけて「温泉パワーでウエストすっきり!教室」である。

静岡県は、健康長寿日本一を目指して、ファルマバレープロジェクトをモデル事業として立ちあげ“かかりつけ湯”を創設した。伊豆には約57の温泉がその指定を受けている。

①健康プログラムの開発・温泉療法医・温泉入浴指導員が入浴のアドバイスをしてくれる。

②糖尿病などの予防メニュー、食品アレルギーを持った方に対応したメニュー食が提供される。

③健康増進のために運動メニューがあり、文学散歩コースを紹介したり、多様なサービスが受けられる。

④連泊や平日利用の方には割安な料金もある。

とにかく多様な方法で、おもてなしをしてくれるプロジェクトが“伊豆かかりつけ湯”である。

当初、私は東海道新幹線“ひかり”で東京駅から三島駅(約60分)まで乗車して、伊豆箱根鉄道駿豆線に乗り換えて、伊豆長岡駅(約21分)のルートを考えていた。そこから温泉宿までバスで10分の距離だった。

営業課長の尾沼君が、当地まで車で行くというので、思いがけぬ車の旅となった。

東京・両国の当社を出発したのが、すでに5時を廻っていて、大都市のネオンは煌々と輝き、東名高速に乗るまでは、おびただしい光の渦ばかりが眼についた。めざすは伊豆長岡温泉郷の“ゆもとや旅館”である。(つづく)

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

会場の広場で車の数をかぞえてみたら、27台あった。最初に来たときには3〜4台しか止まっていなかったから、24台増えたことになる。参加者は27人だ。いったい、どのくらいの距離を車で走ってきたのだろうか?とても気になった。

食生活の個別指導がはじまった。その間参加者は、和室で談笑しながら待っている。何人かの人にインタビューしてみた。

「今日は会場へは何で来ましたか?」

笑いながら、ほとんどの人が「もちろん、車です」と応える。

「何分くらいかかりましたか?」

「5分」「2分です」「3分です」

歩いても5分から10分で会場に着く人たちまで、ほとんどが車で来ていた。

「今日はわくわくダイエット教室ですよね」

「習慣なんです。なにしろ、ほとんどの家が、車、2台3台持っていますから」

「いやいや、時には家族の数よりも車の台数が多い家もありますよ」

まったくの車社会だった。以前は果樹園、田んぼ、畑へは歩いて言った。会社や工場へはバスがあった。今ではバスの本数も少なくなって、お年寄りが病院へ行くときに使う程度らしい。

生活の中に(歩く)ということがないのだ。意識して行かなければ、いつも車に頼ってしまう生活が、地方の現実だった。都市生活者の方が歩く機会が多いことは、明らかだった。

生活の足として車が登場する。車が必需品になる。経済、生活の向上で便利な生活が実現される。その結果、車にのることが習慣となった。

で?その結果は? 運動不足、肥満、糖尿病ということになった。

昔、食生活改善は、貧しい食生活を改めて栄養を摂って、カロリーを増やし、豊かな身体をつくりあげることだった。

今は、食生活も栄養過多、カロリーの摂りすぎ、食べすぎ、呑みすぎが問題になっている。皮肉なものだ。豊かさがアダになる。

集団指導では、加藤先生から栄養のバランスのとれた食生活、生活習慣病を防ぐメタボリックシンドロームを予防する食生活改善の知恵と工夫を、具体例をあげて、お話があった。

「肥満を解消したい人は手をあげて下さい」

ほとんど全員が笑いながら手をあげる。気質が明るくて、実直な町民だとの印象を受けた。

一人一人に、今後自分が改善する食生活について発表してもらう。人前での宣言は、記録をするのと同じくらい効果がある手法だ。

①間食をひかえます②ビールの量を減らして焼酎にする③夜食を食べない④甘いもの、くだものを控える⑤野菜をたくさん食べる⑥糖分を減らす⑦揚げ物を控える⑧よく噛んで食べる⑨早食いをあらためる。

約束する。公言する。それは、実行へとつながる第一歩だ。実現可能な改善目標をたてて、一人でも多くの人が、ダイエットに成功してもらいたい。

北国の夜は4時を廻ると、もう窓に闇が押し寄せている。講義のあとも個人面談が続いた。夏なら7時頃まで明るいが、晩秋である。6時、今日の「わくわくダイエット教室」が終わった。加藤先生、参加者の皆さん、ご苦労さま。感謝。

河北町には、ホテル、宿が見あたらず、東根市まで車で走って、駅前のホテルで一泊した。

それにしても、この車社会、町をあげての意識改革、構造改革、社会の仕組みまでをも考えなければ、“習慣”は変革できないかもしれぬと深い溜息をついた。もうすぐ一帯が雪に覆われてしまう冬という季節が到来する。

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

11月の菊の香りが広場に漂っていた。今回の会場は、河北町の農村環境改善センターである。講師は米沢の大学で教べんをとられている管理栄養士の加藤哲子先生である。参加者の一人一人が、カメラで撮影した自分たちの食事を、先生に分析してもらい、アドバイスを受ける。個別指導を受ける日である。

ちなみに開講式は、9月27日に行われた。講師は医学博士で長年糖尿病を予防する運動プログラムを開発され、現場での指導で効果をあげてきた藤沼宏彰先生だった。先生は無理をしないで、楽しみながら(?)日常生活の中で、実行して習慣化できることをモットーにして、指導されている。

会場の入り口には、菊の大輪の花が数本あって、その形、真っ白な色(なぜ植物から白が出てくるのか、いつも不思議に思っている)が見事だった。その傍らには、一本の茎か、数本の茎か見分けがつかぬが、その枝に、数百個の小さな花が咲いていて、楕円形にひろがった姿は、飛行機の翼のようだった。

開始まで1時間あり、スタッフが準備をする間、ふらりと散歩に出た。その町を知るには観光名所ではない、普通の生活の場を見るのが一番だ。

極々普通の町の路地を、あちこちと自由に歩いてみた。どこの庭先にも花があって、その香りが路上に漂っていた。足にまかせて西里地区を歩くと、晩秋の景色の中に花々の色彩が色鮮やかに、空気までも染めていた。

見慣れない光景に思わず足を止めた。広い庭の植木に、円錐形の形にした竹をたてかけて、細ひもで結んでいた。大きな植木には、太い木を寄せ木にしてある。黙々と作業をする手を、黙礼して、見せてもらった。

北国の冬支度だった。

冬には雪が1メートルも降る地方だ。植木も放っておくと、雪の重みで倒れたり、折れたりしてしまうのだろうか?

寺社があった。【曹洞宗永昌寺】とある。左手には朱に燃えるもみじがあった。門をくぐると、空気が凜と張りつめていて、音という音が吸い尽くされたような静寂があった。砂に箒(ほうき)の後が生々しい。

町のあちこちに用水路があって、透明な水が流れていた。しばらく歩くと、小学校があった。教室から遠く、子供たちの声がきこえてくる。校庭に入ると、校舎の入り口に鉢がたくさん並んでいた。

どの鉢にも咲き終わったあとの花の跡があり、鉢には子供たちの学年と名前を書いた札がついていた。(花を育てる)心のかたちを教えている。さすがに紅花で栄えた土地柄だ。長い時間をかけて育んできた文化が、こうして脈々と子供たちに受け継がれている。

河北町には紅花の交易で豪商となった堀米家があり、【紅花資料館】には紅花染の豪華な着物やひな人形が展示してある。

里の子たちにも文化と伝統は受け継がれていた。花を通じて、情操を育てるという形の中に、昔の姿が残っていた。柿の北限と言われる山形県だが、確かに熟した柿の実があちこちに点在していた。(つづく)

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

駅前で「国保ヘルスアップ事業」を受託している永薬品商事の菅原課長と新人の平田君に合流して、車に乗った。

“さくらんぼ東根駅”から河北町までは車で20分ほどだと言うので、今日は是非、名物の【肉そば】を昼食にしたい、と頼んでみた。もちろん二つ返事だった。

果樹園が続いていた。さくらんぼ、ぶどう、りんご、柿、ラ・フランス(洋梨)などを総称して、地方ではフルーツという。果物とは言わない。なるほど、レストランでは食後にデザートとして、フルーツがでる場合が多い。これもひとつの戦略か。ネーミングも大切な顔にはなる。

【肉そば】には冷たいものと温かいものがある。板そばは、板の上にそばを乗せてあって、ツユにつけて食べる。東京でのザルそばと同じようなものだ。

ところが【肉そば】は丼の中にたっぷりのツユが入っていて、その中にそばと鳥肉が入っている。伝統食や郷土料理には、その土地の食文化、食習慣、知恵がもっともよくあらわれている。身土不二の思想である。

見た眼には濃い味に見えたが、食べてみると、あまり油っぽくはないし、冷たいそばにも歯ごたえがあって、大盛りを注文したが、ペロリと食べてしまった。

このそばには日本酒が合うだろうなどと、酒の旨い山形のことだから、昔の人がそばと肉を食べながら、熱燗を呑む姿を想像してしまった。胃にももたれない。食堂はお客でいっぱいだった。

昔は馬肉や牛肉を使っていたと、そばの歴史を紹介した新聞記事の紹介がコピーして、透明なファイルに入れてあった。

“道の駅”はいろいろな国の政策でも成功した事業ではないかと思う。私も全国に出かける度に、山の中や辺境に“道の駅”を見つけては入ってみる。食堂やレストランばかりではなくて、その土地の産物の売店もあって、けっこう役に立つ。

河北町の“道の駅”は【ぶらっとぴあ河北】と命名され、最上川の河岸にある。国道287号が走っていて、その橋のたもとに建っている。塔のような4階建ての建物だ。展望台があるというので、昇ってみた。

曇り空で、遠方が霞んでいる。町の全容が見渡せる。最上川が眼下にあって、河原に雑木が立ち、水量は晩秋で少なめだが、草原が土手にひろがり、ウオーキングに絶好の堰の道がのびている。その姿は【川】の美しさを残している。やはり最上川だ。

「五月雨を集めて早し最上川」

町並みは北の低い山のふもとまでのびていて、川向こうに東根市、北に村山市、南に天童市、山形市、西に寒河江市と、市に四方を囲まれながら、独立してる町が河北町である。

快晴ならば、月山も遠望できる位置にある。四方をぐるりと眺めながら、町の姿を頭の中に入れて、塔を下りた。

会場へは今しばらく車を走らせねばならない。町を五つの地区に区切って、毎年、その地域の人々から参加者を募るのだ。今年は、西里地区がその舞台である。
(つづく)

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

河北町は名前の通り、河の北にある町である。川の名前は最上川。山形県最大の河川であり、多くの町がその水の恩恵を受けている。江戸時代に栄えた紅花や米の交易で、豪商の出現もあり、水の豊かな最上川を利用しての舟運業は、河北町にも財と文化をもたらしている。

現在、河北町の人口は約21,000名、5,800世帯、高齢化率は27%である。

山形県は酒田や鶴岡といった海の町と、山形市、天童市、米沢市など山の町に大きくわかれている。河北町は山の町である。

河北町は山形県内で、唯一「国保ヘルスアップ事業」に取り組んでいる市町村である。

11月10日・11日と、一泊二日の旅に出た。東京発9時24分発の“つばさ”に乗った。快晴である。

いつも思うことだが、新幹線の出現は、旅と出張の形を変えてしまったひとつの【事件】だった。風景が眼の中を飛び去って消えてしまう。トンネルが多くて景色が見えない。確かに、目的地には早く着くので“便利”にはなったが、失われたものも多い。

特急や急行、普通や夜行列車が次々に姿を消してしまって、各駅停車しか止まらぬ駅の人々は、さぞかし不便だろうと思う。

東北や北陸へ行く場合には、大宮・高崎・宇都宮あたりまでは新聞を読むか、眼をつむって目的地のことをあれやこれやと考えては、想像をめぐらしている。

関東平野はほとんどがビルと家屋の塊になってしまって、眼をとめるべきものがないからだ。

山形へは2〜3度、足を運んだことがある。1度目は「奥の細道」の芭蕉の声を求めて、通称“山寺”と呼ばれている立石寺を訪ねた。

「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」

真夏日で、蝉の声よりも人の声の方が多かったが、急な石段を登って、下から吹きあげてくる風を受けると、遠望する眼に時の壁がゆらいで、ふと、芭蕉の声が幻聴のように耳の奥に響いた。風景は、何重にも透視しなければ、その底に隠れたものは見せてくれない。

もう1度は、1月の寒い日に河北町で行われた介護予防教室に訪れたことがあった。雪の降る中を、要介護度1〜2の方が、町の出迎えのバスに乗って、参加してくれた記憶がある。町の温泉は元気になる源だった(べに花温泉・ひなの湯)。

河北町には新しいものに取り組む熱い姿勢がある。進取の精神、そんな伝統があるのだろうか。

「介護予防」事業だけではない。河北町には「健康かほく21行動計画」「健康づくり推進都市の宣言」「健康づくりいきいきサロン事業」と3本の柱がある。

「国保ヘルスアップ事業」に取り組んだ最大の理由は、成人の肥満者の増加と糖尿病予備軍の増加にあった。

「牛肉弁当、いも煮弁当、峠の力餅」と米沢・山形名物がアナウンスされると、風景が大きく変わって、山形県入りを確認した。空は曇天だ。

右手に堂々たる連山が続き、刈り入れの終わった田園が茶褐色にひろがり、川らしきものも眼にとびこんできた。

燃えるような赤は終わっていたが、紅葉が山一面にひろがり、ところどころに深紅のもみじが顔をのぞかせ、秋の風にススキが揺れていた。フルーツ王国らしく、鉄パイプの屋根が果樹園を覆っていた。

月山、羽黒山、湯殿山の出羽三山にはじまって、鳥海山、最上川、庄内平野、さくらんぼ、花笠踊りと、誰でも知っている【山形県】を頭の中で追ってみた。

山形県を舞台にした森敦の描いた名作「月山」、藤沢周平の「蝉しぐれ」、芭蕉の「奥の細道」は、私の心の中では山形ばかりではなく、日本の文学の神髄を語る作品となっている。

12時11分、つばさは“さくらんぼ東根駅”に到着した。      (つづく)

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

海に雪が降っていた。

祭りの興奮が醒めたあとの、淋しさに似た気分を引きずったまま、猿払村を後にして、車で南へ、南へと下った。

北の日暮れは早くて、もう、外には薄闇がおりていて、車のライトに白い雪が浮かびあがる。透明な時間が、海に降る雪の中に流れていた。

長い間、都市で生活していると、時間は時計の中にあり、あるいは、壁に刻まれた線か傷のように思えて、息が苦しくなる。時々は、その感覚から解き放たれたい。嘔吐がするほど激しくなると、心の状態が、とても、悪化していると感じてしまうのだ。

今、北の海に降る雪を眺めていると、車の外にある風景に、透明な、形もない、原始の時間がぴったりと吸いついて、流れていくのがわかる。

都市では、日頃味わえない感覚が、内臓の内側からこみあげてきて、私を浄化するのだ。

何か得体の知れぬ大きなものが、途轍もないスピードで、私の身体を吹きぬけている。

風という時間。これが(北)の放出する時間なのだ。不思議な感覚だ。私はなぜか厳しい寒さを忘れて、少し幸福な気分になって、海に降り続ける雪に流れる(原始の時間)を、感じ続けた。

「ぼくたちの仕事は地の塩だね!!」

「地の塩ってどういうこと?」

「ほら、動物が地面を舌でなめてるだろう。あれさ、身体に必要な塩が地面の土に入っているんだよ。」

「ひとり、ふたり、元気な人が増えて、その輪がゆっくりとひろがっていく。」

「時間のかかる、根気のいる、仕事だね」

講師の小柳先生、大和産業の上原部長、若い営業マン、4人の乗った車は、激しい雪の降る道を、旭川市へ、南へと走り続けた。

北の冬の生活の話を、ぽつりぽつりと語ってくれる。眼で11月の雪を見ながら、耳で聞いた生活を想像する。旅と生活が合体する。

“音威子府”村で、私はひとり、車から下ろされた。特急が止まる駅だ。旭川へは、まだ、車で相当な時間がかかる。札幌へは特急に乗った方が便利だという理由だった。稚内へ向かう時、雪の中に見た駅名だから、妙に心の中に残っていた。まさかその駅に降りて、そこから特急に乗るとは、おかしな話だ。縁があるとしか思えない。

しかし困ったことに、無人駅で売店もなく、特急が来るまで1時間もある。空腹である。寒い。私は靴がすっぽりと入るほどに積もった雪の中を歩いて、店を探しはじめた。街を歩く人もいない。車もほとんど走らない。外灯と雪の明かりを頼りに、とにかく、店の灯りを求めて歩き続ける。

幸い、灯の点いた店が一軒、雪の中にあった。

女主人が、まるで幽霊でも来たのか、というふうな眼で私を見た。頭も、眼鏡も、コートも、靴も、雪だらけの姿だった。焼き肉屋さんだった。

日本酒、熱燗を一本、冷えた身体に流し込むと、五臓六腑に沁みわたった。北の人は親切で、情が深いのか、とにかく手づくりの酒のツマミになるものを、何品か出してくれた。どこから来たのか、何をしに来たのかと、旅人に訊くべきことを一通りきかれたので、私も冬は大変ですねと、どんな生活を送っているのかとたずねたりした。

「住めば都でね。何もなくてもね。2月にはね、全国のクロスカントリーの大会があってね、たくさん来てくれるよ。雪がいいんだね」

特急の時間が来たので、お金を支払って、その安さに驚き、札幌は遠いよと、ミカンと漬け物を手渡してくれたのには、二度驚いた。まるで、四国のお遍路さんに対する“お接待”と同じだった。

北の心に触れた一瞬だった。

旅のはるばると来たという感慨に、心がいっぱいになった。長い長い冬の夜、列車の旅は、あれやこれやの日々の苦労から解き放たれて、ひたすら、浮遊する思いをたぐり寄せては、旅愁の深い思いにひたりつづけた。

札幌のホテル着、11時。泥のように眠った。私が到り着いた一番の北の村、猿払村への旅は、もうすぐ終わる。

明日、眼が覚めれば、また大都市・東京での生活が待っているはずだ。いつか、また今度は、春か夏の猿払村を訪ねてみたいと、花々の咲く北の村を夢見ながら、眠り続けた。

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

会場は、お城のように見えた役場の庁舎の中にあった。バレーボールもできるほどの、広い体育館が庁舎の中にある。

雪の降る中を、三三五五と、参加者の村人が集ってきた。意外なほどに、人々の顔は明るく、声を掛け合い、何かを期待している人の顔だ。北の国の人々にとって、一時、厳しい生活の場から離れて、都市から来た講師・先生の話に耳を傾け、自分自身の身体の声を聞き、汗を流し、(生活)の場の外の時間をもつことは、子供と同じように、楽しいことなのだと思う。

長い冬に立ち向かう為、先生の指導に身を委ねて、日常生活で役に立つ知恵を得る絶好の機会なのだろう。

今週の講師は、スポーツ選手の、故障や身体の不調を改善している、小柳先生である。

北海道は、医療費が高い。猿払村も、例外ではない。役場の課長さんは「わが村でも、医療費の問題は、ずっと、頭の痛い問題で、今まで、いろいろ試みてはみましたが、なかなか効果のでる決め手がない。ヘルスアップは、国をあげての新しい事業だから、わが村でも、是非、意欲的に取り組んで結果を出したいですね」

猿払村では、国民健康保険課はなくて<協働まちづくり課>が推進している。その名前が(村人)全員で作りあげていく(村のかたち)と目的を、とても、良く表していると思う。

課長、補佐、保健師、若い職員と、スタッフ全員が協力して<事業>を実施する。専門的な部分はアウトソーシングで札幌市の大和産業がその責任を背負っている。

受付が終わると、身体測定、アセスメント、血圧測定、お腹周りの測定(メタボリックシンドローム)と、人手のかかる作業が、1時間ほど続く。

筋トレ、リハビリを長く手がけてきたスポーツマンであり、体力づくりのベテラン講師である。小柳先生の元気で大きな声が、体育館の中に響きわたった。

ストレッチ体操で全身をほぐしたあと、ウオーキングの実践授業に入った。正しい姿勢、フォームから足の運び方、着地方法、腕の振り方など具体的に、改善してくれる。大きな輪になって、ぐるぐる、ぐるぐると歩いて廻る。もっと早くスピードをあげて! 先生の声が飛ぶ。さあ、脈拍を測ってみよう。どうなっているかな? 120を超えている人、そうそう、どのくらい歩けば自分の身体がどう変化するか、覚えるんだよ。

顔が紅潮して、息があがっている人、熱気で室内の空気がむんむんしてきた。

「先生、質問。4カ月も雪で、スピードをあげて外を歩けません。室内で出来る方法も教えて下さい。」

階段や椅子を使った運動、筋トレ、冬の間でも役に立つ、実行可能なメニューが次から次に紹介される。笑い声、喚起があがり、4時まで全員が汗を流した。

「さて、次に来る時には、どうなっているのか楽しみですね。毎日の生活の中で、頑張りすぎないで、少しずつ実行して下さいね」

個人個人が、自分自身の為の目標をたて、記録し、書くことで、日々の行動に変化を与えていくのだ。

猿払村で気になるのは、周辺の市町村では、どこも、糖尿病が一番多い疾病であるのに、(高血圧症)が一番である点だ。塩分の多い食生活の改善も急務だ。運動と食事、二つの車輪が上手く廻ってこそ、生活習慣病の予防が可能となる。しかし<習慣>を変えるのは、本当にむつかしい。生活する為に身につけたのが<習慣>である。その<習慣>を変える。塩っぽいものが好きだ、甘いものが好きだ、運動は苦手だ。自分の身につけた<習慣>が悪いとわかっても、その<習慣>を変えることに、大きなエネルギーが必要なのだ。だから新しい、行動変容理論が生まれた。

肥満の人に、肥っていると病気になると、食べものに気をつけなきゃという昔風な教え方では誰も耳を傾けない。

指導者も、また、勉強し、進歩しなければならない。

もうひとつ、意外に思ったのは、猿払村の高齢化率は23%で、30%・40%が普通である地方の市町村とはちがっている点だ。いったい何があるのだろう?

村では、広大な土地での酪農、畜産が盛んで、大学で、専門学校で勉強して<農業>を夢見る若者たちに、土地を解放しているのだ。だから、若者たちが、放牧、酪農の夢を見て、猿払村へと移住してくるのだ。学んだことを、実践できる場が<猿払村>という舞台なのだ。北の漁場で、広大な北の大地で、若者たちが活躍する場を<猿払村>は用意していたのだ。 (つづく)

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

小雪まじりの寒い・曇天のひろがる北国の朝、ホテルを出ると、先ずJRの稚内駅まで歩き、バスの停留所を訊いて、眼と鼻の先にある古びた昔風のバスストップにたどり着いた。

古風なバス停には休憩所があって、赤々とストーブの火が燃えあがり、厚着をした老女たちが五人六人と火に身体をかざしながら、放映されるテレビの画像に見入っていた。

時間と路線を確かめて、猿払村までの切符を買った。

バスは数えるのも淋しいくらいの乗客を乗せて出発した。雪景色の稚内市内を眼で追いながら、はじめてきた私の日本最北端の街を脳裡に刻みつけた。鈍色の海が北へ北へと拡がり、クレーンの屹立する港を眺め、低い雪の中の家並みが、ゆっくりと後方へと消えていく。海に近い家々は、地面に貼りつくように低く低く風を避けるように建つていた。日本最北端のゴルフ場という看板も見えた。市内で降りる人、乗る人を差し引けば、乗客はすでに4・5人である。市街地を抜けて、このまま1時間近くも走り続けるのだろうか。

北の岬が灰色の空の下に沖へと伸びていた。

旅人、いや観光客の見る雪は、ただその姿に美しさを見るだけで、生活者の見る雪は、もっと重い存在、障害物に見えるのだろうか。四国で育った私には、4カ月も5カ月も続く雪の中での生活を考える想像力も湧いてこない。北国での生活の知恵、苦労や喜びは私からは遠い。

北の海での漁、放牧、酪農、大地で生きる人々、荒海で生きる人々、そのリアルな姿を思い描くことができない旅人である。

しかし人間はいかに、したたかに、工夫をこらして、耐えて、生きのびていける生きものかと、風景を眺めながら感じ入るのだ。

走っても走っても、行き交う車がほとんどない。途中で空港の看板が見えたりしたが、その姿はまったく見えない。

海が見えなくなって、峠に差しかかると、雪の中に樹木のない丸い丘があちこちに見えた。牧草地だろうか?

誰も口をきかない。エンジンの音だけが耳に響き続いている。峠を登りきると、今度は右手が山の斜面になっていて、バスがスリップでもすれば谷底に真っ逆さまだと心細い気分になる。運転手はプロだ。毎日熟練の腕で平気でのりきっているのだろうと、勝手に自分を安心させた。

急勾配の坂道がゆるやかになると、雪の中に一軒二軒と人家が見えはじめ、10軒、20軒の集落が眼に入ると、もうここが猿払村だと、ひと心地ついた。若い女性が下車した。歩いて行く方角には、幼稚園の看板が見えた。

不思議な空間のひろがりが、おそらく北の海の方角にひろがっているのだろう。村の中に入ると、左手に白い城とも見える建物が見えてきた。私はこれが私の目的地、猿払の村役場だろうと見当をつけた。

バスは白い城を通り過ぎ、古い駅舎のような建物の前で停まった。運転手にバス停だと告げられ、ゆらゆらと揺られた奇妙なバスの旅は終わった。

やはり建物は昔の駅舎だった。時間があるので、今は展示場となっている古い室内に並べられた切符や、帽子や看板や駅がいきていた時に使われていた道具や機械を丁寧に眺めた。ここにも鉄道が走っていたのだ。人口減、赤字で廃止されてしまったのだろう。室内の時計は、駅が生きて、生き生きと活動した時のまま止まっていた。そしてバスだけが残ったのだ。

“猿払村へ行ったら、とにかく日本一美味いホタテを食べなきゃね” もの知りの友人の言葉だった。正午前、雪の中を歩いて食堂を探した。村の中心の交差点を渡ると、北野大という名前が、看板に書いてある。あのビートたけしの兄さんだ。こんなところまで来て、店の名前を書かされたうえに、記銘までしてある。

店でホタテの刺身を注文したら、今は旬ではないので、保存したホタテのテンプラ定食になった。5年物しか捕らないように申し合わせ、品質をおとさない工夫をしていると言う。なるほど、歯ごたえがちがう。美味だ。

「猿払村って日本語ですか? アイヌ語ですか?」

「私たち子供の頃は(払)ではなくて(仏)だったから、たぶん日本語でしょう」女主人の返答。

店の階段で大きな音がして、二階から白髪の老人が降りてきた。

「お客さんにそんないい加減なことを言うもんじゃない。猿払はアイヌ語なんですよ」

店の主人は猿払村の案内書を持ってきて、葦のはえる河口のことをアイヌ語では“サラブツ”と呼んでいた、それが訛って“サルフツ”となった、と、村の名前の由来を教えてくれた。

実は数年前までは猿払村役場の課長をしており、村の案内書の作製にもかかわったのだと説明された。私の方も、今年からはじまるヘルスアップ事業が5年間続くこと、今日は運動教室が村役場で開催される由を伝えた。(つづく)

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

“猿払”と書いて、さるふつと読む。北海道、日本の最北にある村である。北緯は45度19分42秒。北海道では(村として)一番広い面積を誇る。人口は約2,941人。地図をひろげて眺めてみると、東にオホーツク海があり、宗谷岬が北にあって、宗谷管内の中央に位置する。半農半漁の村である。

平成17年11月25日・ヘルスアップ事業の体力づくり教室が開催されるために、その前日から2泊3日の予定をたてて旅にでた。

地球温暖化のせいか、猛暑が続き、秋の訪れが遅れて、11月も下旬だというのに、千葉のわが家では、センダンツツジが色鮮やかに紅葉していた。

現地は雪だというので、背広姿でも暑いぐらいだったが、冬物の厚いコートを着て電車に乗ってみたが、肌が汗ばむ始末だった。

猿払村へは、①羽田から旭川へ飛行機で飛んで、バスで、北上するコース②羽田から北海道の空の表玄関・千歳へと飛び、札幌へ…札幌から特急宗谷で、北の都市稚内へ、一泊してバスで峠を越して猿払村へと至るコースがある。

私は札幌で所用があるために②のコースを選んだ。

羽田に着くと、いつもの軽いウツが心を暗く染めてしまった。飛行機が大の苦手である。仕事以外には使いたくないほどに、性に合わない。いつまでたっても慣れるということがない。もちろん海外へなど絶対に行かない。九州、北海道、沖縄へは眼をつむって、清水の舞台から飛びおりるつもりで、腹を決めて、空を飛ぶ怪物に乗りこむのだ。

なぜ、あの巨体は宙に浮き、飛び続けるのだろう。いや、いくら科学的に、理論的に説明されても、私の身体が納得しないのだ。それは、嫌いなものを好きになれというのと同じくらいに、不可能なことだ。

とにかく、今日も宙に浮く1時間40分。

青息吐息で北海道の大地を踏む。札幌へと約40分の電車に乗って、窓から風景を眺めると、北の樹木は、すでに葉をおとしており、空には神経繊維のような枝が突き出ている。

ああ、北の国だ、北の大地だと、旅の気分が全身を染めはじめる。

札幌での用事を済ませると、稚内行きの特急列車、宗谷に乗車。北の日暮れは早く、5時を廻ると、都市には眩しいほどのネオンが輝きはじめていた。寒い。持参した冬のコートを着ると、ちょうどよい具合だった。

温かいカキ弁当とお茶と日本酒を買って旅人の顔になって、指定席に座った。

平日のせいか、乗客の7〜8割がサラリーマンである。乗車率は8割程度である。

北へ、北へ、列車はひたすら闇の中を走り続け、約5時間かけて終着駅の稚内に到着するはずだ。

<北> なぜ人は<北>に対して特別な感情をもつのだろうか?

地球の在り方がそう思わせるのか? あるいは、人間が作りあげてきた文化が<北>に対して、特別な感覚をいだかせるのだろうか? <北>は人間の心の深いところにある琴線に触れる、悲嘆のような思いを誘いだす何かをもっている。何よりも精神のリールが鳴る。北。

旅人として<北>へ向かうことは、心の底を鏡で写し見ることでもある。特に夜はさすらう者に対して、深い郷愁の感覚を呼びさます時間でもある。

駅の名前を追いながら、窓の外を眺めていると、急に白いものが舞った。雪だ。本州の秋を体感して生活していた者にとって、不意の雪は、まったくの平手打ちに似た驚きである。闇の中の街の灯がだんだんと少なくなり、車輌には数えるほどの人しか残っていない。もう3時間は走り続けただろうか。

闇の中の原野が白く光っている。

不意に、小林旭の「北帰行」が頭の中に流れた。

「窓は夜露に濡れて…」ではじまる、あの有名な歌だ。

もう、40年ばかり昔に覚えた流行歌である。その歌詞の「北へ帰る旅人一人」の「北へ」が私を刺戟し続けていた。

音威子府(おといねっぷ)という駅も雪の中だった。淋しい、仄暗い灯がぽつんとついているだけの、小さな小さな無人駅。そこでも一人、二人と下車する人がいた。いかにもアイヌ語らしい言葉の響きを舌の上で何度かころがしてみた。

この音威子府村で、誰が、どんな生活をしているのだろうか? 妙に私の脳裡に、その村の名前が刻み込まれた。

終着駅の稚内に着いた時には、長い、長い旅を終えたような気分だった。少年時代、青年時代のさまざまな記憶が甦ってきて、情景が点滅して、まるで私の人生のおさらいをするような、列車の旅だった。

雪の降る夜道を、見知らぬ街を駅員の案内の言葉を頼りに、ホテルまで歩いていった。

明日はいよいよ目的の“猿払村”である。(つづく)

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

「他の追槌を赦さない文体の高みがある」

八月は、水の美しい季節だが、おびただしくまわる光の独楽のもとでは、砂の輝やきが、もっとも夏を象徴する。無数の光の独楽が洪水のように振るなかで、砂の素肌は、限りなく美しい結晶体に見える。光の強弱や角度や時間の移ろいのなかで、砂粒は、一瞬、キラリと輝やいては、不意に、沈黙する。時間のゆらぎのなかで、固有の小さな輝やきを放って、物質の表情をとりもどして、静止する。

完全に、静止しているものは、何もない。砂粒も、熱を含み、光に呼応して、じりじりと音をたてて、移動し、膨らみ、縮み、静かに眼をあけている。

X氏は、海に鋭く突きでた岬を眺めていた。真夏日の八月も中旬だ。いたるところに風が立ち、無数の馬が疾走する、白い波の形が、濡れて黒く光る磯に展がっている。風が鳴っている。岬が鳴っている。X氏の耳も鳴っていた。
Vの字を描いた海岸線の中央に、川が流れ込み、河口の左岸、右岸には、小高い砂のうねりがあって、ゆるやかなカーブが海に至る。X氏は、河口の左岸に展がる砂浜に腰をおろしていた。

青空に、海鳥が舞っていた。陽は、中空にあった。松林の緑が煮えたぎって、黒ずんで見えた。沖では、巨大な積乱雲が、質量を誇示して輝やいていた。まったくの夏だった。

光の洪水がふるなかでは、あらゆるものが、その正体をうしなって、影さえも、そのものを正確には写していなかった。時も、空間も、ゆらきの波のなかにあった。

X氏は、光にうたれながら、耳になって、海の声を聞き、眼になって、空の光を視た。光の波は、時空を垂直に流れてくる、途轍もない遠方からの、唯一の音信だった。光が音となって、耳にとどくような気がした。

水が鳴っている。X氏の細胞のなかで、プチプチ、プチプチと、沸騰した水が、内爆発して、水の皮膜が破れる音が響きはじめた。X氏は、単なるひとつの現象となって、宇宙の大合唱に参加しているような気がした。風景そのものになって、ゆらゆらと揺れていった。

相棒に、誘われてきた、見知らぬ海だった。熱帯夜が続く、都市の夏にうんざりして、重い腰をあげ、電車にゆられて、来た、辺境の町だった。煙草と酒と夜更かしで弱った身体には、海辺の光は刺戟が強すぎた。燃え盛る夏の海では、物質までが生きもののように見えた。

X氏は、砂浜に腰をおろした瞬間に、咽喉の奥で噛み殺した。自分の眼が空の中空にあって、自分の姿を見おろしているのだ。いつか、どこかで見た光景だった。いや、確かに、この風景のなかに、同じ姿勢で座っている自分を見たことがある。これは、単なる偶然であるが、錯覚のはずなのに、当然だ。すべて知っていたと感じてしまうのはどうしてだろうか。まったく同じ位置にいた自分を宇宙からの視線で眺めるかのように、承知していたと思うこと自体がX氏をおどろかせた。心のなかの風景が、眼の前の風景に似ているという単純なことでもなかった。既視体験でもない。もちろん、幻想でもない。おそろしいほどの力を得て、眼が見えすぎてしまうのだった。透視者だとも呼べば呼べた。高みにある眼は、次々に起こる現象のすげてを知っていた。

赤犬が長い舌をだして、あえぎながら歩いている。水がゆれる。海星や蛸や海胆や蟹が音もなく、触手や手足をのばして水のなかを這っている。闇の巣喰った岩間から、魚たちがひらりと姿をあらわしては、餌を漁りながら遊泳する。

X氏の眼は、すべてを見た。しかし、どうしても見えないものがあった。自分は、いったい、どこから来て、どこへ行くのだろうか、その姿だけは、見えなかった。どても簡単なことが、いつものふつうのことが、わからなかった。

簡単な合図があれば、すべてがわかるような気がした。それは、手をのばせば、触れられる位置にあるのに、そして、自然に納得していることなのに、どうしても、一歩の距離があって、指先に触れることができなかった。それは、永遠に触れるようなことかもしれないし、水を呑むようなことかもしれない。一切がわかってしまうか、すべてが闇のなかのことで終わってしまうかもしれない。

耳鳴りが激しくなった。光がコメカミを刺し貫いていた。眩暈がした。透明な磁力の糸で縛られて、指1本動かすのも、気が重かった。空も海も光で漲っていて、これ以上、熱の力が強くなると、ひび割れが生じて、時空がゆらいでも不思議ではないと思えた。

不意に耳鳴りがやんだ。一瞬、音が消えて、波の音が耳に流れ込んで来た。風景が、1枚の静止した絵画になった。身体の火照りが、頭の芯をぼーっとさせて、熱の力が全身を支配しているのがわかった。

どこかへ移動しなければ、何か、あぶないことが起こってしまう、そうだ、どこかへ一歩を踏みだせば、その先は知るものか。X氏は、中空にある眼で、自分を眺めながら、そう思った。

影が揺れた。その瞬間、中空の眼は消えていた。水のなかに、男が立っている。手を振っている。白い歯が光った。男は、身体を前方に倒して、水を押し、波を切り、水の壁を踏みながら、ゆっくりと歩いてくる。濡れた肌が輝き、太腿の筋肉がゆれ、膝頭が水面にでると、スピードをあげて走り、白い砂を踏んで、ぐいぐいと接近してきた。男は、一直線にX氏めがけて走ってくる。ある距離まで走ってきたとき、影だった男の顔が、不意に、相棒の見慣れた顔になった。

声が鋭い物質のように飛んできた。

— 海を見に来た訳じゃあるまいし、少しは泳いだらどうだい

垂直に降る光のなかで、相棒は、仁王立ちになって、X氏を見おろした。相棒の姿は、自信がありすぎて、妙にあぶないような気がした。おそらく、強すぎる光のせいだ。

相棒の声に触れると、今しがたまで、頭の芯に巣喰っていた奇妙な不安の種子が消えてしまって、空の青みが、ただ、眩しいものに思えた。

相棒は、X氏の傍らに寝ころぶと、煙草に火を点けて、美味そうに、一服喫った。

X氏は、馬鹿馬鹿しい、少し、気持が衰弱していただけさと自分に云いきかせて、波打ち際まで歩いてみたが、妙に、落着かなくて、相棒のいる砂浜を振り返った。

相棒は、右手を高くあげて、沖の方を指差した。X氏の眼のなかで、相棒の右手がつるつる滑って、まるで機械仕掛けの人形のように、存在感が稀薄だった。

相棒に背をむけて、水に足を入れると、液体の揺れに全身が共振れして、くらくらと、眩暈が走り、耳に、海の声が滑り込んできた。海が大きく身体を開いた。光滴に濡れた海は、千の貌を覗かせた。白い泡が足もとを隠した。足が溶け、腰が、胸が、波のうねりに押しあげられて、浮き沈みしながら、水の力を証明した。X氏は、幾重にもおそいかかるうねりに腕を差して、しなやかに水を掻きわけ、白い波頭をくぐりぬけ、水の腹を突き破り、波の波長に呼吸をあわせていった。大きな波の背中を滑ると、波のうねりが、林立する無数の小山に思えて、腕の力が、ひどく頼りない、小さなものに思えてくる。クロールから平泳ぎに切りかえて、ゆっくりと、水の言葉をききとりながら、沖へとむかった。

砂浜は、遠く、人影も点になって、ようやく、水のリズムが身体に合ってきて、海の貌だけが眼に映った。水平に泳いでいるのに海の時間は、水のなかを、垂直に流れているように感じられた。頭が空っぽになってきた。水面から、顔だけをだして、空の青を見た。空の中空に風が舞っていた。いや、海が揺れているためか、空の青が、結晶して、抽象画のように思える。空の手触りがない。妙な気分になった。心がかすかに傾いた。そのまま、空を眺め続けられなくて、ふたたび、泳ぎはじめた。

水は、岸辺から、淡いみどり、群青色、もっと深く、濃い青へと色の階段をくりひろげて、透明な身体を染めわけている。静かだ。泳いでいると、水の律動に誘われて、記憶の暗い部屋の奥に封印されていたものが、不意に点火して、爆発し、細胞たちをゆさぶってせりだしてくるような気がする。耳をすましてみるが、海の声がひびくばかりだ。頭の芯がしびれている。水は、ただ、ゆっくりと移動している。

海に犯されていると思った。時間や距離の感覚が麻痺しているのだ。手触りがなければ、人間の眼も頭も判断力が弱くなって、阿呆同然になるらしい。頼りないものだ。おびただしい光の粒子を受けて、眼も心も、水のなかに流れだしてしまい、濁っている感覚だけが、唯一、確かなものだと思われた。

その感覚には、見覚えがあった。無数の兄弟たちと、激しい流れのなかを漂っていた。闇のなかを、どこからどこへというあてもなく、ただ、どこかに出口はないものかと、先を競って、どんどん流れていった。気がつくと、無数の兄弟たちとは、別れ別れになって、たったひとり、静かな海に漂っていた。おそらく、孤独を知ったのもそのときが、はじめてだ。兄弟たちは、何処へ行ったのだろう。

水には、水の法則があって、水に書き込まれた約束が、自分を赤い糸のように貫いているとX氏は思う。そして水のなかにいると、その約束が、なにかはわからないのに、妙に落着き、その疑問を考えなくても、自然に、わかるときが来るような気がするのだった。

X氏は、ひとつの海の種子となって漂った。海の私語、光の声、水の呟き、魚たちの告白、貝殻の独白、砂の沈黙が、夏の海を構成していた。

もちろん、青空の力が中心にあった。青は、高く、高く、どこまでも空の底を突きあげてその質量を、色彩を誇った。空気を染めて、眼を眩惑した。長く、水に浸っていると、足が、地面の感触を欲しがるせいか、いつのまにか、身体が、宙づりにされている感覚に反発しはじめる。空の青に触れると、青がX氏を吸いげて、上へ、上へ、どこまでも上昇する感覚に染まり、眼は、中心を求めようと激しい昂ぶりをみせる。眩暈が来た。音が消えた。光の樹木が空の青にのびている。光の波にのって、軽くなった身体は、高く、もっと青の中心へと舞いあがり、光の宇宙樹の頂点までも翔んで行くのだった。

光の暈があった。

無数の光が、爆発する宇宙樹の根から誕生した。X氏は、夥しい光のなかに、透明な、骰子が、偶然という空にむかって投げられるのを視た。

水平線が消えた。空が消えた。何か、小さな、小さな点のようなものが、おそろしく遠方から急激に接近してきて、巨大なものに膨らみ、おそらく光よりも速いかもしれないそれは、形も姿も定かでなく、ただ、眼の前が真っ暗になって、何も見えなくなった。

空の高みへと上昇する感覚が一瞬のうちに消えると、水が鉛の塊りにでも変わってしまったのか、全身が、熱で火照って、重い物質になって、真っ逆様に落ちはじめたのだった。

X氏は、獣のように唸り声をあげた。手を、足を、必死になって、動かそうとしたが、もがけばもがくほど、水の糸にまかれて、自由をうしなっていった。

意識が泡立った。X氏は、ひとつの痙攣になった。心臓が停止した。水は、異物となって、X氏を襲った。まったくの、闇が来た。X氏は、発作の瞬間、白紙よりも白い顔をした。そして、大きなものに視界を奪われて、意識が泡立ち、二秒か三秒の間に、こうして完全に、完了するのだと自分に言いきかせた。右手で水の壁を押し、左手で心臓のあたりを圧迫した。水面に、手や頭や足が浮かんでは、波に消し去られ、いくどか、思いだしたように浮上していたX氏の身体は、終に、その姿を現さなくなった。

X氏は、どこまでも、垂直に落ちていった。もう、水の感触はなかった。胸を圧迫する、窒息感もない。空気の抵抗もない。引力も重力さえもなかった。巨大な闇だけがあった。上も下もないのに、ただ、垂直に、落ちていくことだけがわかった。いったい、どこへ行くのだろう。X氏は、無数の兄弟たちが消えて、どこかへ行ってしまったことを思いだした。その兄弟たちも、こうして、垂直に、落ちて行ったのだろうか。寒い、自分の眼で見ているわけでもないのに、闇が深くて、眼は役に立たないはずなのに、落ちていく自分の姿がくっきりと見えるのだった。そして、奇妙なことに、見えるといっても、身体の形が見えるというわけではないのだ。闇で一切が見えず、区別をすることもできないのに、自分が見えてしまうのだった。もうひとつの眼でもあるというのだろうか。いや、見る力は、眼以外にも存在するとでもいうのだろうか。わからない。しかし、わからないことが、どういう訳だか知らないが、わかったしまうのだ。

X氏は、どこまでも、限りなく、ただ、垂直に落ちていく自分を見つづけていることが苦痛になった。まるで、永遠に触れているようなものだ。底もなく、果てもない。永久のただの移動だ。これ以上退屈なものを知らない。人は、永生を夢見るというが、永遠の生命など、空おそろしい。それは、最高の苦痛だ。おそらく、どんな意識もたえられまい。X氏は、自分が、完全に完了してしまった存在かどうかを知りたかった。すでに完了しているのなら、生きていたときの自分と区別をつけることはできないはずだ。とすると、まだ、自分は、死んでいないのだろうか。境界線を跨いでしまったのではいのか。いや、二つの領域の線上に立ち、ふたつの自分を眺めているとでもいうのだろうか。しかし、人類がはじまってから、まだ、二つの世界を体験して、なお、生の領域で呼吸している人は誰もいない。

X氏は、断定した。これは、決して、死ではない。いや、死であっては困る。これが死であるなら、死ぬ瞬間の苦痛などなにものでもない。死は、誰にも見えない。死は、経験することができないのだ。自分の死ですら、これが死だと言えない。死は、無ですらない。死は、ある暗い力だ。滅びる方向へと働くひとつの作用だ。そして、いつまでも、未知のものだ。

そう考えて、X氏は、今まで、自分が、生と死という二分法に頼って、ものごとを判断してきた事実に気がついた。

死もまた、成長するひとつの力ではなかったか。死を構築していく力というものがあるのだ。おそらく、人は、知らず知らずに、自分の生命を成長させる反面で、死も育てあげているのだ。その透明な力は、今、自分が見ている力と似ているような気がする。眼がないのに、自分が見えてしまう力だ。それを、なんと呼べばいいのだろうか。

垂直の落下がどこまでも続いた。X氏は、終りが来ることを願った。十字架にのぼって死刑になるほうが、随分楽だと思った。音も、色も、匂いも、形もなかった。のっぺらぼうの闇が無限に続いている世界だった。名伏しがたい苦痛だけが増大していった。苦痛とでもいいから永遠に一緒にいたいという信条はX氏にはない。これが生の領域のことであるなら、完全に殺してもらいたいと思う。これが死の領域のことであるなら、もう一度、死を死にたいと思う。はじまりがあったなら、おわりもあるはずだ。

落下する自分を見ている眼が曲者だった。その眼が死ねば、一切が完了してしまう。しかし、ただ見ているだけの眼を、どうすることもできない。眼を死刑にする方法はないのか。眼には、発狂の自由さえない。

橋をわたれば、小鳥たちが歌い、花々は咲き乱れ、音楽が流れ、天には金色の光が輝やくのではなかったか。あるいは、地獄の責苦が待っているのではなかったか。ここには、なにもない。ないということだけがある。

X氏は、不意に、気がついた。自分は、物質の最小単位となって、垂直に落下していたのだ。あらゆるものが、完全均質なために、数えることも、区別することも、形をもつこともない世界だった。闇だと思ったものは、実は、完全均質の世界だったのだ。そこでは、ゆらぎも、時間さえも発生してはいなかった。

X氏は、はじめて、祈った。そして、叫んだ。助けてくれ!!もちろん、それも、声にはならなかった。

相棒は、短い、夢のような眠りから覚めて、水面に浮いているあまたの黒い頭を、眼を細めながら眺めていた。真夏日の海の光は、やわらかい肌を焼き、肌の表面には、塩が結晶して、白い粉を吹いていた。焼けた白い砂の熱に耐えかねて、もうひと泳ぎしようかと腰をあげて、手足をぐいとのばして、眩しく輝やく海の一点に視線を投げかけたとき、妙な形で手足が海面に突きでているの発見した。

白い波飛沫を見た瞬間に、相棒の頭は、誰かが溺れていると正確に判断をくだした。そして、次の瞬間には、おーい、人が溺れているぞと、砂浜中にひびきわたる大声をあげて、海へむかって疾走した。熱い砂を蹴り、水を踏み、波を切り、海中に沈んでいく黒い頭をめざして、クロール、クロール、強く、強く、腕を、足を、水の壁に突き刺して、回転させ、力泳した。男たちが、次々に、水飛沫をあげて、海に、白い直線をひいた。砂浜が、海が燃えあがった。

相棒や男たちは、息を深く吸い込むと、八月の海に潜っていった。海中で、一人の男が腕をのばして、指で合図をした。手足をだらりとのばした人影が、海底で揺れていた。X氏だった。男たちは、遠浅の海が幸いしたと、漂うX氏の腕や手や足や髪の毛を手分けして摑み、波にのせるようにして、浮上させると、一気に、波打ち際まで曳航して、砂浜に担ぎあげた。その間、15分が経過していた。

水から引きあげられたX氏は、人間というよりも、魚類に似ていた。もう、身体のあちこちに硬直があらわれて、やわらかい物質が結晶していく様に酷似していた。唇にも色がなかった。しかし、まだ、胸の筋肉や額あたりには、生きる意志のようなものが、弾みとなって残っていた。

— いつ眼をあけてもおかしくない

誰かが呟いた

相棒は、冗談ではない、まだ死者ではない、死なせてたまるかと声の方を睨みつけた。

心臓は、完全にとまっていた。

相棒は、砂浜に横たわったX氏に馬乗りになった。今しがたまで語りあっていたX氏は、もう、十歳も、二十歳も歳をとった年配者に見えた。1、2、3と規則正しく人工呼吸を繰りかえした。男たちに頼んで、冷えて硬直した手足や胸を摩擦してもらった。手が、X氏を擦り続けた。

いつのまにか、沈黙したX氏の周辺に人垣ができていた。

不意に叫び声があがった。X氏を覗き込んでいた十歳ほどの少女が、口から蟹のように白い泡を吹き、全身を痙攣させながら、卒倒したのだった。

— 子供に見せるもんじゃない
— 病院だ、病院だ

裸の死は、もう、長い間、人の眼から隠されていた。死は病院のものになっている。家族も、器具の向こう側に、死者を見るだけだった。子供だけではない、大人のなかにも、死者を、死ぬ瞬間を見たことがない人が増えている。死は、人間に与えられるもののなかで、もっとも平等なものだ。誰もが死ぬ。そして、死の一回性は、決して、自分の死を見ることができず、他人の死しか見えない点にある。その死に、どうして、現代人は、椅子を与えてやろうとしないのだろう。死を死ぬことが不可能になってくるのは、おそらく、その為だ。

相棒の眼が険しくなった。時間がこぼれおちていく。幾多の手が動き続けた。八月の光は音もなく砂粒を、材木のようにごろんと転がったX氏を刺し貫いている。覗き込む眼にも暗い翳リが宿り、焦躁の色が濃くなった。眼に、断念の色を浮かべる者もあった。潮風にX氏の髪の毛が揺れた。相棒は、息を呑んだ。

紫色に変色していたX氏の唇に、一点、朱がさした。頬に、痙攣のようなものが走った。相棒は、X氏の胸を揉む手に力をこめて、心臓の音がひびくのを待った。白い砂は、じりじり音をたてて燃えている。痙攣の波が頬に走り、手や足に、唇にひろがっていった。

相棒の眼が笑った。

X氏の心臓が動いた。あたらしいX氏の誕生の瞬間だ。すでに、死線をこえて、まったくの物質と化してしまっていたと思われたX氏が甦った。息がもれた。呼吸の開始だ。ふたたび、ゆっくりと、こちら側の岸へ、X氏がうちあげられた。ざわめきが起こった。

人々は、一人残らず、動きはじめたX氏の心音に、自分の心音を重ね合わせるような眼の色を浮かばせていた。私語が飛び交って、重苦しい沈黙が破れた。

— ほら、ああやって、ゆっくりと意識がもどってくるんだよ
— 辛そうな顔だね
— 本当だ。おびえているみたいだ
— 苦しいのさ
— 表情がでてきたぞ。しめたものだ
— あまり、水を飲んでいなかったのがよかった。おそらく、脳はやられていないだろう
— 赤ん坊みたい
— 今に、眼をあけるぞ
— 死ぬのにも力がいるんだね
— 生きるのと同じくらいね
— 帰って来たぞ
— 誕生だ。二度目の誕生だ
発作が痙攣の波となってX氏の全身を走った。

X氏は、長いトンネルをくぐっていた。

壁も、穴も、水も、空気もなかったが、透明な磁場のようなものが身体をしばっていて、トンネルをくぐっている感覚に犯された。トンネルを、くぐっても、くぐっても、くぐっても、どこにも、出口らしきものは見あたらない。思いきり浮上して、トンネルの外へ出て、呼吸がしたかった。もう少し、もう少しと思い続けるが、いつ、息が切れてもおかしくない。勝手に、手が、足が、動きつづけている。まるで、水でも切るように。苦しい。もう、あきらめてもいいなと思っているのに、手足は、本能的に動いているのだ。身体は、執拗で、精密な生きものだ。

不意に、頭上で、爆発音がした。ひとつ、ふたつ、音は、鋭く、炸裂した。その瞬間、白っぽい光が舞った。黄色い光滴が、四方八方から降りそそいできた。光の独楽は、渦状に廻り、腕の形になり、円盤形にかわり、めまぐるしく変化した。嘔吐がした。音が耳に触れるたびに、鉛の玉をうちこまれる思いがした。頭の骨を削りとられているような音が耳を占領した。身体の、自然な統一感がなくて、手が、足が、頭が、どこにあるのか、まるでわからなかった。

— 意識がもどったぞ

頭上で、大きな爆発音がした。それが、人の声だとわかるまで、ずいぶんと時間がかかった。

X氏は、指先に力を入れた。はじめて触れたものが砂粒だとわかったときは、妙な気分になって、笑いたかった。石でもなく、土でもなく、それは、まさしく、砂粒だった。指が、正確に、判断した。X氏は、砂粒を握りしめた。

— ほら、見ろよ、指が動いているぞ
— 気がついたか
— もう、心配ない
— 間もなくだ

無数の透明な糸が、四方八方から飛んできた。鋭い直線になって飛んできた糸は、それぞれが、音をたてて結び合わされ、耳が、眼が、手が、足が、X氏の身体となって構成されていった。ぴちぴち、ぴちぴち、赤い血が音をたてて流れはじめた。おびただしいうねりとなった赤い血は、中心から、少しでも遠くへと疾走した。

瞼に触れている、熱いものが、光だった。眼をあけるのが、おそろしく怖かった。ここが何処なのか、眼に、何が映るのか、知るのが不安だった。ただ、形のある砂粒がある場所だということだけは信じられた。

頭の芯が疼くために、3秒とは、考えることができなかった。いったい、自分が何者なのか、どこから来て、どこへ行くのか、一切がわからなかった。あることがないことであり、ないことがあることである、妙な気がした。生きたり、死んだりして、死を生きたり、生を死んだりしているような思いがした。

頭上で爆発する音が、人の声だとはわかったが、単なる音の流れで、まったく、意味がわからない。

X氏は、思いきって、眼をあけてみた。黒い頭が宙に浮いていて、いくつもの眼が、強い力で覗き込んでいた。

岬が鳴り続けていた。八月の青空があった。X氏は、風の流れを眼で追った。岬の左岸を打つ風は、岬の右の貌を知らず、岬の右岸を打つ風は、岬の左の貌を知らない。永遠にそうであるしかない。岬は、ふたつの貌をもったまま、鳴り続けている。風のなかで鳴りつづける岬は、長いトンネルをくぐりぬけてきたX氏の貌と相似形だった。

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