Archive for 11月 4th, 2008

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

朝の港は、また、格別である。潮の香が漂っていて、全身が洗い清められるような気分になる。これが釜石港かと、ゆっくりと、呼吸をした。海を全身で味わってみる。耳は風の音を追い、鼻孔には潮、眼は波・波・波の変化、肌も全開、海が私をつつみこんでくれる。

左岸には、巨大なクレーン、鉄、製品の積み降ろしに使うのか? タグボートがある。観光船“はまゆり”が、優美な姿を海面に浮かべている。自然の良港だ。右岸の彼方には山の上に白い像、観音さまか?

海は、1日見ていても飽きがこない。もちろん港だって、座り込んでぼんやりと、日の移ろい、光の、波の、雲の、船の、あらゆる動きが刻々と変化していくさまを眺めていれば、時のたつのを忘れてしまう。大漁旗をかかげた船の雄姿、“釜石まつり”の時にでも、もう一度訪れたいものだ。

また、春の海、春の岬も眺めてみたい。

いつまでも、海や港を眺めている訳にはいかない。9時から12時30分まで、県の合同庁舎にて、「ヘルスアップ事業・はつらつ健康教室」がはじまる。

講師は、運動指導士の佐藤恵先生である。運動を生活習慣に取り入れようと、30人の参加者が計12回の講習会、実習、実技を体験してきた。

さて、結果は? 効果は? どのようになったのだろうか?

毎回思うことだが、【事業】をスムーズに運営するための、スタッフの準備、気苦労は大変なものだ。上手くいって当たり前、ミスがひとつでもあれば反省、反省となるからだ。

釜石市の保健師さんたち、市の職員、永薬品商事の菅原さん、佐々木さん、高橋さん、そして当社の丸野君、大塚君、30名の参加者の方々も、3時間半のハードなスケジュールである。

4カ月間の記録表の提出。体力テスト。捷敏性、前屈、脚筋力のテストがある。そして、佐藤先生の音楽を使った体操、筋トレなどなど。

ワークショップ。ひとりひとりの結果発表。表彰式。最後に、血液検査。実に盛りだくさんのスケジュールだ。体力測定は賑やかだ。ステッピング・カウンターは、左右の脚で、一定時間内に何回踏めるかというテストだ。部屋中に、バタバターという勢いのある音が響きわたる。前屈は、柔軟性のテスト。ほとんどの人が、4カ月前の自分の記録を超えている。うれしいのか、笑い声があがる。

さて、音楽を使った佐藤先生の講座は、水前寺清子の「365歩のマーチ」に合わせて始まった。参加者の皆さんの姿勢がいい。年齢が10歳ほど若く見える。歩き方も、指導がよく行きとどいている。

前に6歩、後ろに6歩、右に3歩、左に3歩、途中で手を打つ、ポーズをとる、2人一組になる。いろいろ創作してある。

運動会で良く使うマーチとか、ビートルズの「オブラデイ・オブラダ」とか。実に楽しそうだ。顔が上気して赤みを帯びている。

ラジオ体操ではないが、【集団】で【音楽】を使う手法は、全員の気分が高揚して、連帯感が生まれるのか、とても好評だ。仲間意識ができるのだろう。決して、一人一人では生まれない良さがある。リズミカルに、切れ目なく、拍手が入り、全員に一体感が生まれているのがわかる。

自宅で一人でも出来る、椅子と床を使ったストレッチや柔軟体操を実行して終わりとなる。(つづく)

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

夕闇の中に立ち昇る白い煙を右手に見ながら、タクシーはやめて、ゆっくりとホテルまでの道を歩いてみた。釜石は低い山々に囲まれた町だった。南に、北に、西に、葉をおとした灌木があって、東の空間がのびたあたりに港があるにちがいなかった。

陸橋の下をくぐると、甲子川が流れていて、川下に見事な赤い鉄の橋が見えた。歩いて渡る橋の名前は、大渡橋である。もう町は眼の前だ。

商店街にはアーケードがあって、延々とのびている。鉄の全盛期には人口9万人を誇ったというだけあって、商店街は見事なものだ。

現在は、人口が4万5000名ほどにまで減っている。“鉄の町”も減産を余儀なくされて、工場の社員は千葉の君津へ、北海道の室蘭へと散っていったのだ。

世帯数は約1万8000。家族が減って、高齢者率は30パーセントを超えているのだ。

夜の商店街は人足も少なく、シャッターがおりたり、看板の消えている店が目立った。

ここでも、少子高齢化の波が押し寄せている。まして、基幹産業の“鉄”の工場を誇った企業城下町は、減産のあおりを受けて、町そのものを再構築しなければ、未来はない。

釜石は、漁業の町でもある。三陸の海がある。漁業はどうなのか? リアス式海岸で良港が多い。磯があり、白砂の海水浴場がある。

【港】は、いつも文明と文化を運んでくる。人と物の出入りがあって、活気にあふれ、交流の場が出来るのが【港】である。海の道、交通の要所、窓口である。海にむけて開かれている町。水平線の向こう側からは、いつも未知のものがやってくる。

【港】のある風景は、自然に、未来とか異国の香りを漂わせている。

ホテルに着いた。冬の5時は暗く、6階の部屋から見下ろす街には、街灯が点って、山々は、闇の奥へと身を沈めている。何かがちがう。いったい何だろう? 海の町なのに。私の感覚が、もうひとつ、ぴったりとこない。明日は、早起きをして、港を見に行こう。講習会の始まるまでに街を歩いて、港でも眺めれば、私の奇妙なわだかまりも解けるかもしれない。

東北担当の営業部長丸野君と、大塚君が東京から、測定器などを積んで車でやってくる。何時間かかるのか? 6時、7時、8時まで待った。高速道路を使っても、結局約8時間かかったということだった。

夕食には、三陸の地魚と鍋を食べようということになって、夜の町へ出た。路地へ入ると、びっくりするくらい店があった。日曜日のせいか、あるいは、人口減の影響か、灯の点いていない店、看板やネオンの淋しく闇に沈んでいる店が多かった。

それでも、夫婦で、頑張っている店があった。刺身の盛り合わせには、小さな旗が刺してあって、地魚の名前が書いてある。幻の魚、マツカワか! 沿岸の魚だから白身の魚が多い。鍋はおまかせで、アンコウが中心。鍋の後の、オジヤが実に美味い。釜石の栄枯盛衰を聴いた。それでも工夫して、生きるのだと主人は語ってくれた。郷土に生きるとは、そういうことだろう。(つづく)

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

「鉄は国家なり」という言葉があった。重厚長大が時代を象徴していた時代だ。現在は、軽薄短小の時代に変わってしまった。

今回訪問する岩手県釜石市は、全国に”鉄の町”として、その名は響きわたっていた。そして、ラグビー日本一も、たくさんの人々の記憶として、その脳裏に刻まれていることだろう。

宮沢賢治を生んだ花巻市、柳田国男が名作「遠野物語」で語った民話の宝庫、遠野市までは足を運んだことがあるが、釜石市を訪ねるのは、今回がはじめてである。

三陸海岸の港町、鉄の歴史を誇る町、釜石の姿はテレビや雑誌で、私の脳に刷り込まれており、果たして、現実とイメージの間にどれだけのギャップがあるのか、それを確かめる旅ともなった。

9月からはじまった「ヘルスアップ事業」の閉講式が1月29日に催されるので、前日から東北新幹線に乗って、出かけることになった。

それにしても今年の冬は、冬とは思えぬほどの温かさだ。宮城、岩手では、12月から雪と霜で、ゴルフ場はクローズが当たり前である。今年は気象庁、観測史上最高の温度で、仙台でも、ゴルフを楽しんでいるという。反対にスキー場では、雪が足りなくて営業にならないとか。喜ぶ人あり、悲しむ人ありだ。

東京駅10時36分の「やまびこ」に乗って、新花巻へと向かった。福島、仙台を過ぎても、街も、平野も、黒い地面と褐色の姿を覗かせるばかりで、雪の白は遠く、高い山々に輝いているだけだった。

新花巻で下車すると、2〜3分歩いて“釜石線”に乗り換える。40分ほど時間があるので、花巻の風景を眺めながら、駅の周辺を歩いてみた。田園風景がひろがっている。低い丘のような山があちこちに点在していて、雑木林が陽を浴びていた。風でもあれば、宮沢賢治の低い訛った声が、見事な詩句となって、流れて来そうな風景である。

農家の西と北に、杉か何かの木立があって、防風林だろうか? それを見る度に、東北独特の歴史や風俗の匂いを嗅いでしまう。

釜石線の電車は、二両編成のワンマンカーだった。のんびりしたものだ。時計は2時を廻っていて、乗客は、学生、観光客、地元の人々だった。山と山の間の低い、狭い空間を、身をよじるようにして、西陽を浴びたワンマンカーが走り続ける。各駅に停まるのだが、人家は少なく、点在している。

遠野市が近くなると、平野がひろがって、南に、北に、高い山が斑の雪を走らせている。

約1時間が過ぎた。遠野は電車やバスのない時代には、本当に陸の孤島だったのかもしれぬと、四方の山々を眺めながら考えた。

トンネルを幾つもぬけて、釜石駅に着いた時には4時半くらいで、もう冬の薄闇が巣喰いはじめていた。左右に山が迫っていて、右手に煙突の白い煙をゆったりと空に吹き上げる工場があった。”鉄の町”だという実感が湧きあがった。(つづく)

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

さざんかの紅と白が眼の底に残っている。今回の教室は、阿波市(旧阿波町)の庁舎の右隣にある会館で行われた。その庁舎の庭先に、さざんかの花が寒空の下で揺れていた。風に吹かれて、紅と白の花が咲き誇っていた。さざんかは旧阿波町の町の花だった。

花の香りを後に残して、阿波市担当の当社の井本君の車で泊まるべき宿を探して、車を走らせた。

阿波市には、土成町と市場町、そして阿波町に、温泉があるという。いつも徳島へ出張の際には、徳島市駅前のビジネスホテルに泊まるが通例だった。あまりに味気ないので、今回は地元の宿に泊まりたかった。

市役所から北の山にむけて、10分ほど走らせると、山の裾野に【土柱ランド新温泉】という看板があった。

予約もなしの、とびこみ客だったが、幸い日曜日で泊まり客も少なく、金・土は満員でしたが、今日はゆっくり泊まれます、という女将の返事だった。

寒い。今年一番の寒波だった。山の町は、徳島市内よりも2〜3度温度が低いという。それにしても暖房のボタンを点けても、いつまでたっても部屋は冷えたままだ。

思わず温泉に入った。ラドン温泉だった。今日の運動教室を思い出しながら、身体を温めた。

火照る身体のまま、食事となった。吉野川の鮎、たらいうどん、山菜。女将が土地の話をしながら、ビールの栓をぬいてくれた。“夜の土柱”も是非見てください、ライトアップしてあるから。歩いて2〜3分の裏山にあります、と言う。

“土柱”県人ながら、私ははじめて土柱という言葉を耳にした。「世界の3大土柱のひとつです」。

結局、寒さのあまり、浴衣で外へ出るのを渋った私は、夜の土柱を見ることはなかった。

南の山脈から朝日が顔を出した頃、7時、私は朝食の前に、宿の裏山にむかって歩きはじめた。“土柱とは何か?”

坂道を歩いてしばらくたつと、山の斜面が鋭く、大きな力で、削りとられたように、土がむきだしになっていた。

土の柱が何本も、まるで塔か、筍かのように、中空に屹立していた。なるほど、見事な景観だ!

絶崖には、深い淵が幾筋も走っていて、雨の力か、風の力か、途轍もない大きな力が、長い長い時間をかけて、浸食し、風化させ、土の柱を露わに晒していた。

百万年の時間の皺が、土の柱という形にあらわれていた。なるほど、砂岩、貢岩、粘枚岩、石灰岩が混ざっていて、弱い部分が消えて、強い部分が残ったのだ。

中世期の白亜紀の地層だと、立看板に書いてある。そうすると、約130万年前のものだ。

高さが約50メートル、幅は約100メートルはあるだろう。谷の底には草が繁っていて、中腹には大小の裸の“土柱”があり、松の木が土柱の頂きに生えていたりもする。

私は人間の生命をこえた、巨大な時間を感じながら、寒空の下で、土柱を注視した。

人間は人を超えたものに遭遇すると、一瞬、判断停止の状態に陥ってしまい、我にかえるのを危うく忘れそうになる。

鳥が啼いた。私は我に返って、宿へと戻った。吉野川の南の山脈が朝日に輝いていた。

宿からJR山川駅へと向かった。

冬の吉野川が眼下に流れていた。川は人を育て、植物を育み、長い長い時間をかけて、生きものたちに、豊

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

糖尿病になって、その人がかかる医療費は、平均2000万円だと、田中先生は語る。阿波市の国保の加入者の3割が、医療機関で糖尿病の治療を受けている。医療費は毎年2億円づつ、増えているのだ。

何がなんでも、意識的な運動習慣を市民の間に根付かせないと、市の財政が、医療費で破綻してしまうだろう。本当に深刻な問題である。

さて、田中先生の「1分運動から始める糖尿病予防」の提案は、2つだった。

徳島県は阿波踊りの本場である。夏、八月には、全国から数十万人の観光客が来る。観るだけではなくて、参加して、踊る。

田中先生は「阿波踊り体操」を考案したのだ。誰にでもできる身近な踊りに、ストレッチと筋力づくりと全身運動をつけ加えて、音楽に合わせて踊るのだ。なるほど、これなら音楽に合わせて、1分間は踊れる。先生は「阿波踊り体操」を全県にひろめている。評判は上々だとか。

講義を聴いていた参加者が立ちあがると、全員が音楽に合わせて、踊りはじめたのだ。6割の人がはじめてだったが、さすがに徳島の人たちだ。眼が輝き、手足がしなやかに動き、ストップという声で、そのままのポーズで動作が止まる。ストレッチの効果だ。CDがあれば、自宅でも実行できる。

もうひとつは、10〜15cmの台を用意して、左右の足を交互に台座にのせる、ステップだった。1日100回で充分に効果がでる。

とにかく、どうにかして、今までよりも動いてもらわなければならない。今よりも動く工夫が大切だ。
 ①車を自転車にする
 ②自転車を徒歩に変える
 ③なるべく階段を使う
 ④トイレは遠い場所でする
 ⑤昼食はちょっと離れた店に行く

実行するのは本人だ。病気で泣くのも本人自身だ。元気な人が増えれば、地域社会も豊かになる。

幸い、阿波市には吉野川という財産がある。見事な川を眺めながら堤を歩いてみる。旧市街の町々にウオーキング・ステーションを作って、仲間づくりをして、四季折々に語らいながら歩く習慣ができれば、町と町の交流ができて、人々の会話が弾み、4つの町が、ひとつの阿波市へと結集できるのではないか、と私は考えるのだが。

一人ではできないことも、グループができて、習慣が身につけば、恵まれた環境を本当に生かすことが可能になると思う。

吉野町、土成町、市場町、阿波町をぐるりと廻ってみたが、広い田畑があり、家々にも広い庭があり、綺麗に人の手がゆきとどき、市全体は、外目には豊かな生活に見えた。

人間は動く動物だから、とにかく車社会の弊害から脱出しなければ、心身の健全な未来はない。今日からスタート、現在(いま)からスタートだ。(つづく)

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

私の頭の中には、一昨年読んだ徳島新聞のトップ記事との強烈なキャッチフレーズが貼りついたままだった。なぜ、こんなことになったのだろうか?一昨年、JR徳島駅で、上京の際に買った新聞には<徳島県の糖尿病の死亡率。13年連続ワーストワン>とあった。覚えているだろうか? 昔、秋田県が脳卒中の死亡率が全国ワースト1(ワン)だった。もちろん、秋田は雪国である。運動不足になるほど冬は長く、雪は深い。新鮮な野菜が少ない。漬けものを食べる。寒いから塩っぱいものを好む。酒が美味い。呑みすぎる。家庭でも、食堂でも、味が濃い。いわば、雪国の食生活と習慣が生みだした病気だった。秋田県では、小学生からの食生活を変え、教育の場から、街での味まで気を配って、脳卒中での死亡を防ぎ、ワースト1の汚名を返上した。予防教室を徹底した。では、気候は温暖で、冬でも新鮮な野菜があり、味も薄味で、都市のような通勤地獄もない。いわば恵まれた風土で、なぜ糖尿病死亡率・全国ワースト1の県になるのか?

 私たちの少年の頃は、糖尿病は少なくて、「あれはお金持ちで、贅沢な生活をしている人がなる病気や」と大人が語っていた。

徳島大学の田中先生の講義と実技は、私の疑問に見事に答えてくれる、有意義で楽しい教室だった。

田中先生は、糖尿病のメカニズムを説明した後で、徳島県の現状分析を試み、病気の原因を指し示した。

スクリーンに2枚の写真。
 ①車だらけで、渋滞している風景
 ②歩いている人の群れる風景
どちらが東京で、どちらが徳島でしょうか?

①が徳島、②が東京だった。
 
 1日の平均歩数(他都府県との比較)
 徳島県人…6200歩
 長野県人…8600歩
 大阪府人…8500歩
 
東京都人…8300歩
 全国平均…7200歩

 肥満率
 徳島県…ワースト3
 青森県…ワースト2
 沖縄県…ワースト1
ちなみに、高知県はワースト15
      香川県はワースト14
      愛媛県はワースト13である。

つまり、歩数は肥満率に正比例している。糖尿病で、現在最も話題になっているのは、急上昇している沖縄県である。

「今日は車ですか? 自転車ですか? 歩きですか?」ほぼ全員が、今日、会場には車で来ていたのだ。

四国には、四国八十八ヶ所を廻る、お遍路さんという立派な風習があり、全国から歩き遍路が集っている。お遍路さんは1日平均4〜5万歩は歩いている。昔は隣の町へは、歩いて行ったものだと、田中先生は語る。

徳島県・阿波市もまた、山形県の河北町同様、まったくの車社会に変貌していたのだ。

徳島県の標語

 「徳島県、動かんケン
   このままじゃいかんケン」
1に運動、2に食事、しっかり禁煙 最後に薬

阿波市は、糖尿病死亡率がおそろしく高い。
全国平均を100とすると
県内男性143
県内女性135
阿波市男性167
阿波市女性194となっている。
  (徳島新聞発表)(つづく)

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

阿波市は四国を代表する、吉野川の中流域の北岸にひろがる市である。旧吉野町、旧土成町、旧市場町、旧阿波町が平成17年に合併した、新しい市である。人口約4万3000人。私は全国を歩いて、利根川・信濃川・北上川・石狩川など、日本を代表する見事な川をたくさん見てきたが、河口の水量は、四国三郎・吉野川が日本一だと思う。いや、水量ばかりではなく、その姿も堂々としている。

出身地はどちらですか、と訊かれる度に、私は「徳島県です」と答えて、すぐに「徳島と言っても、私の郷里は高知県と徳島県の県境にある宍喰(ししくい)という町です」と応えることにしている。半農半漁の、美しい静かな過疎の町だ。

同じ徳島でも、私たちは徳島市の人からは、南の人ですか、人がおおらかで、人情味があって、やさしい人が多いですね、と言われる。つまり、田舎の人である。のんびりしている。

だから吉野川を中心にひろがる市町村のことはよく知らない。旧池田町まで、車で町々を尋ね歩いたことが一度あるくらいだ。

しかし、徳島から高松へ出て、岡山廻りで東京に上京する際、いつも洋々と水をたたえた吉野川の姿には眼をみはったものだ。

四国は、徳島(阿波)、香川(讃岐)、高知(土佐)、愛媛(伊予)からなる島であり、瀬戸大橋が完成するまでは、舟で本州に渡った。

今では淡路へ、今治へと大橋が3本も架かって、電車やバスや車で本州へ道路を通って、通うことができる。

瀬戸内海はもちろんだが、太平洋側の徳島、高知も、陸の道以上に、海の道が発達していた。いわば海の民、海洋民族である。

フェリーで大阪へ、和歌山へ、神戸へ、岡山へと、四国の人々は海の足(海の道)を利用してきた。

同じ四国でも1県1県、風土や気候はもちろん、言葉づかいや単語までちがう。いや、同じ県でも、南と北、都市と地方では、その差が大きい。県外の人がきけば、同じように聴こえても、地方に住んでいると、隣の町の人とも、微妙に、言葉がちがう。方言は本当に風情のある言葉だ。

言葉は正に生きものである。その土地の文化や伝統や習慣が作りあげてきたものが、方言だ。血の通った言葉である。表情も微妙なニュアンスまで伝わる。私たちの少年時代は、その方言を学校で修正されたものだ。標準語が正しく、一番いい言葉だ、と教えられた。あれは、いったい何だったのか?

日本には今でも、何千もの方言が生き生きと使われているだろう。統一化は便利かもしれぬが、味わいというものが消えてしまう。

宍喰を7時17分に出発して、特急・剣山に乗り、阿波・池田方面へと向かった。美しい海を右手に眺めながら、快晴の空の下、電車はいくつものトンネルをくぐり、川を、橋を渡り、平野を横切って北上する。

快晴と言っても、都市の快晴とは訳がちがう。山の稜線、樹木の1本1本がくっきりと見える。光の強度がちがう。風が吹き、草花も、石までが浮かびあがっている。透明な水が流れて、泳いでいる川魚の影が、川底に写っている。

特急といっても、東京の快速くらいのスピードで、ゆっくりと、眼で風景を楽しめるのだ。徳島駅に着くと、特急で約30分、普通で約1時間のところに阿波市がある。

電車は、徳島平野を流れる吉野川の南岸を走り続ける。左手に低い山脈、右手には広大な徳島平野。電車からは、残念ながら吉野川は見えない。鴨島、川島を過ぎて、JR阿波山川駅にて下車する。無人駅である。山が接近してきた。阿波市役所までは、タクシーで約10分である。

12月3日。

今日はヘルスアップ事業の予防教室がある。徳島大学の田中俊夫先生による「1分間運動からはじめる糖尿病予防」が開かれる日だ。(つづく)

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

西洋医学と東洋医学を語れる講師は少ない。長島寿恵先生は、東京薬科大学にて薬学(西洋医学)を学び、幼い頃から岳父にツボや鍼灸などの東洋医学を教わっている。したがって、講話や実技の指導も和洋の入り混じったものになる。

糖尿病のメカニズムからはじまって、メタボリックシンドロームの解説は西洋の知であり、五色の食材が何に効くのか、頭から、耳、手、足のツボはいつでも誰にでもできる東洋の知である。

身土不二、一物全体食など、6千年間続いている中国の食の文化の奥は深く、カロリーを中心とする(成分)西洋の文化に勝るとも劣らない。

ウオーキングの指導では、日本の短距離界のエース末續選手が学んだ“ナンバ歩き”を取り入れて、参加者全員が実行した。

笑いの渦が起こった。

昔の日本人は、右足と右手、左足と左手を一緒に前に出す歩き方をしていた。明治に入ってからの日本人は、左足と右手、左足と右手と交互に出して、リズムをとりながら歩く方法を学んだ。

もちろん現代人は、自然に左右交互の手足の動きを取り入れた、西洋式の歩き方をしている。

“ナンバ歩き”は古い日本人の歩き方の長所を再び甦えらせたものである。山を登るときなどは“ナンバ歩き”の方が疲れにくいそうだ。

“教室”はあくまで楽しく、楽しみながら効果を出さねば長続きしない。

30分歩こう、1万歩あるこうと言っても、単なる義務感ではなかなか続かないし、日常生活に溶け込めない。五感を生かして、眼で紅葉を、耳で鳥の声を、鼻で菊の香を、舌で食材を、肌で風を味わいながら歩いてみると、ウオーキングの幅がひろがる。

揉み、叩き、さすり、押して癒す、ツボ、東洋医学も再度見直されて、きっちりとした効果測定がなされるべき時期かもしれぬ。

休憩のあと、ホテルの安永さんから温泉の歴史とその効果についての講話があった。約30分。“上手な温泉の入り方”である。

①まずかけ湯から

②体を慣らす半身浴

③体を洗う

④入浴時間はほどほどに

⑤浴後はシャワーを浴びないで

⑥水分補給を充分に

そして酒を飲んだ後の入浴の禁止や注意。【禁忌症】についての大切なお話。

さて、お昼は京須かおる先生(管理栄養士)のレシピをもとにして550キロカロリーの食事をホテルで作ってもらい、全員でいただいた。人参で色をつけたご飯、鳥肉、野菜など。見た目には本当に量が少ない(日頃、いかにカロリーを摂りすぎているのかがわかった)。

満腹感を得るためには、食べ方の順番というものがある。野菜から食べるのだ。30回噛む。早食いの癖(習慣)のある私には、30回が長い。量が少ない。しかし実際に教わってみると、食生活の見直しが如何に必要かがわかった。

希望者、体調のいい人は温泉に入って、今日の講習会はおしまい。

地の利を生かして、環境を利用して、温泉・食事・ウオーキングの合体したプログラム。伊豆の国市のヘルスアップ事業の成功を祈りたい。

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

温泉旅館で朝風呂に入った。極楽である。ひなびた昔ながらの温泉につかりながら、温泉街がたどっている光と影を思った。温泉地は昔から観光と湯治を売り物にしてきたが、社会の環境が変わって、社員旅行が減り、旅のスタイルが変わってしまった。若い人たちの生活・気質が大きく変化した今、新しく生まれ変わる運命にある。

一方で健康づくりに温泉が役立つと、温泉郷もそのPRに余念がない。また、都市にない自然を求めて、樹木や森に思いを馳せる現代人の心情もある。地方の商店街が、シャッター街に変貌している事実を各地で目にしている。

長岡温泉郷もまた、伊豆の国市という新しい名を得て、生まれ変わろうとしているように見受けられた。

資源は豊富で、恵まれた土地だから、知恵と工夫次第で再生は可能かもしれない。

今日の「温泉パワーでウエストすっきり!教室」の会場は、川のほとりの「おおとり荘」で行われる。

講師は長島寿恵先生。薬剤師、運動指導士、温泉療法アドバイザー、西東京糖尿病療養指導士など多面的な貌を持つ先生である。

9時30分スタートまで約1時間ある。見事な堤防があるので、思わず朝の散歩となった。「おおとり荘」という名前ではあるが、実は、鉄筋コンクリートの6〜7階建ての立派な観光ホテル(?)なみである。

ホテルの庭を出ると道路があって、その向こう側に、まだ緑を残した草原があり、狩野川が流れている。支配人の話では、快晴の日には左手に富士が見えて、見事なロケーションだという話だった。曇天で残念。

土手に上がると、左から右からウオーキングを楽しむ市民の方が早足で、次から次へと歩いてくる。

眼の前は、180度、伊豆の山々だ。河原には柳、ススキが揺れていた。眼を空に向けると、太い高圧線が走っていて、大きな鳥が30〜40羽ほどとまっている。二羽、三羽と宙に舞い、孤を描きはじめたので、その鳥がカラスではなく、トンビだとわかった。

群生する植物、街にひろがる緑の木立からは、小鳥の囀(さえず)りが風に乗って聴こえてきた。

伊豆の地は温暖で、11月だというのに、20度を超える暑さだった。

ゆっくりと、ゆっくりと孤を描くトンビが急降下して、川面に突入する。戻り鮎か、川魚を狙ったのだろうか?

街をめぐると、弘法の湯とか、温泉旅館、ホテルが軒を並べていた。

のんびりとした風景は癒しの湯にぴったりの情緒をかもしだしていた。

ホテルの一室に、教室の参加者が続々と集まっていた。これから4時間「ヘルスアップ事業」の基礎講座が催される。(つづく)

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

はるかな昔の話であるが、学生時代、青春の真っ盛りに、過剰な熱にうかされて、車で伊豆の長岡をめざして、車を走らせたことがある。文学仲間が集って、同人雑誌を出していた。その夜も4・5人が集って、文学談義に花を咲かせていた。

誰かが「夜の富士」を見に行こうかと提案した。富士という名前が夜の街に飽いた心にしのびこんできて、私たちの首根っこを押さえた。あとは勢いにまかせて、深夜の東名高速を走り続けた。闇の中に富士が見えたのか、もう記憶にはないが、その夜は、長岡のひなびた旅館に泊まった。翌日、伊豆スカイラインを走った。富士が眩しく輝いていた。

今から思えば、衝動的で冷や汗がでる。長い間、西伊豆には足を運んでいないから、30数年ぶりの“長岡の夜”になる。

沼津インターで東名高速を降りると、一路、長岡へと車を走らせた。

“長岡温泉郷”の看板を見たのが7時だから、2時間ばかりかかったことになる。

社員旅行、修学旅行、温泉旅行が盛んだった頃の賑わいはなくて、街は妙に静かだった。昔は浴衣姿で下駄を鳴らして、観光客が夜の街を闊歩していたものだったが…。

時代が変わってしまったのか。

“ゆもとや旅館”は、昔の旅館そのもので、部屋は柱も天井も古びてはいたが、妙に落ち着いた。トイレは共同で、部屋の外にある共同トイレだった。

食事は大広間で、客は私たち二人だけだった。昔の記憶をたどって、昔、とめてもらったのが、この宿かどうか訊いてみたが、どうやら別の旅館らしいと言うことだった。

魚中心の夕食に舌鼓を打って、真新しい畳の匂いを嗅ぎながら、昔の賑わいのあった頃の幻を思い描いてみた。あの頃、温泉は人であふれていた。

夜風に吹かれてみようか? 尾沼君に声をかけて、夜の温泉郷の探訪となった。人影も疎らで、やはり少し淋しい。30年代、40年代のあの熱気がないのだ。若い人たちは、もう温泉には足を運ばないのだろうか。旅館の下駄を鳴らして、昔日をしのびながら、ふらりふらりと歩いてみた。

歌声が流れてきた。カラオケの店だ。ストレス解消にと、店に入ってみた。中高年の男女がカウンターに座ってマイクを握っていた。大きな声で歌を歌うと、心の中に溜まっていたものが声とともに、外へ流れ出て、少しは気分がすっきりする。日頃は大声で笑ったり、叫んだり、とにかく声帯を使うことが少ない。

歌を聴くと、私たちと同年代で、昭和10年20年代生まれの、商店街で働く人たちのグループだった。いわゆる流行歌・歌謡曲で育った世代だ。美空ひばり、フランク永井、石原裕二郎、水原宏、耳に馴染んだ人たちの歌ばかりだった。

長岡の夜は、そうして更けていった。(つづく)