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• 木曜日, 2月 23rd, 2012

空海には二つの顔がある
右の顔は空海
左の顔はオダイシサン

四国では、空海は、人間ではない。
神・仏のオダイシサンである。人間扱いをする風土ではない。しかし、聖なる神として高みにある存在ではなくて、日常生活の中に自然にいる、悲、苦、痛を救ってくれる、親しみのある、仏さま、オダイシサンである。

私の祖母キヨは、明治の生れで、百歳まで生きた。文字も読めず、耳で生きる女(ひと)であったが、正直で、他人には優しく、朝夕、必ず仏さんを拝み、オダイシサンを信じて、成仏をした。オダイシサンを、空海だとは、一生、知らなかっただろう。何しろ、仏であって、人間ではないのだから。

昭和の三十年代までは、村では、念仏諸というものがあった。農作業が終って、疲れた身体にムチを打って、女たちは、お寺に、念仏をあげに行くのだった。寺は、学校であった。道徳、倫理、そして、仏教による人の道を説くのが、お寺の、僧の役目であった。文字も読めず、学問もない、村の衆たちが、仄暗い寺の、広間で、車座になって、大きな、珠数を廻しながら、真言を唱えるのである。

夜道を、提灯を下げて、祖母に手を引かれて、寺へ行った記憶が五十年以上経った今も、鮮明に刻みつけられている。

もうひとつの、少年時の記憶がある。
「昇、ホラ、お接待せんかい、お遍路さんが来とるやろ」
「お祖母ちゃん、何やったらええん」
「お米があるやろ、一合で、ええじょ」
台所の、奥の、暗がりに、米櫃がある。枡で掬って、小走りに、庭先へ出て、お経を唱えている、お遍路さんの、首から吊した頭陀袋に、お米を入れるのだった。そのお米の落ちる、サラサラという音が、耳の底に残っている。

お米、十円玉、ミカン、柿、季節によって供物が変わった。庭先に、腰を掛けて、お茶を呑みながら、祖母と、話をしていく遍路もいた。

お遍路さんとはどんな人か、何処から来て何処へ行くのか、いったい、どんな目的で、一軒一軒、家を尋ね歩いて、なんのために、お経を唱えるのか、何時も、立ち去る後姿を眺めながら、不思議に思った少年時代であった。

さて、村から、念仏諸が消え、学校では、宗教教育が消え、お盆の墓参りと、お葬式の時にしか、お寺や宗教と、縁の薄くなった、現代という時代に、信仰や遍路を、改めて考えるのも、皮肉なことである。日常生活に、普通に、自然にあったものが、どんどん消えてなくなっている。

遍路は、年間三十万人と盛んであるが、歩き遍路は、約一割の三千名くらいだと言われている。ただし、昔のように、村々の、町々の、家々を、お経を唱えて、托鉢をして廻る遍路は見掛けなくなったと言う。

バスで、汽車で、自家用車で、ヘリコプターで、八十八ヶ所のお寺に参拝する。その目的も、信仰や願を叶けるものではなくて、自分探しの旅、都市からの脱出・自然にふれる旅であったり、ストレス解消であったり、健康づくりであったりと、大きく様変わりしている。

空海・オダイシサンを求めて、修行の巡礼であったものが、追善供養も、病気が癒えるようにと願をかける巡礼も、随分と少なくなっている。

どだい、現代の、高野聖はいるのだろうか。

私自身も、四国を出て、東京で、都市生活者として、四十五年、生きてきた。普通のサラリーマンとして、十五年、会社を設立して、経営者として二十二年、ほとんど、宗教とは、縁のない日常生活であった。

3・11の、大地震、大津波、原発事故に遭わなければ、空海との縁も、切れたままだったかもしれない。3・11は、人間の、生きるパラダイムシフトを一変させる大惨事であった。もう、3・11以前のスタイルでは生きられない。意識がゼロ・ポイントに陥った。科学者の(知)という神が死んだ。政治家、知識人、作家、大学教授たちのコトバも死んだ。

誰も、二万人の死者たちに、十二万人の被災者たちに、あてがうコトバを放つことができない。

もう、空海さんしかいない。哲学者、宗教家、芸術家、教育者、土木技師、書家、編集者、万能の人、マルチ人間、生命の全背定者。実践と理論の人、天才・空海の声を聴くしかない。共時的に、空海の声を、現代に、甦らせることだ。

大師信仰の、歴史、資料を、チェックしてみよう。

高野山で入定した空海は、現在も、奥の院で生き続けている、という信仰である。現代風に言いかえると、空海は、いつまでも、私たちの心の中に生きているということであろう。(死)ではなく(入定)と言うのは、禅定し続けている、というイメージか。

空海は、その死後、二百年たって、天皇から、大師の称号を賜っている。(九百二十一年)空海と同時に、シナ・唐に渡った、比叡山の最澄は、すでに、伝教大師に、その弟子の円仁は、慈覚大師との称号を得ていた。第五代の座主、円珍も、智証大師となった。

その他、道元、法然、親鸞、日蓮、一遍と次々に、大師の称号を得ているのに、なぜ、大師といえば空海、コウボウダイシであるのか。そこが、歴史の面白いところだ。

生前、空海は、信仰を通じ、書画を通じ、嵯峨天皇と親交を密にした。筆をプレゼントしたり、唐の話や密教について、語りあったことだろう。高野山は、空海の死後、三度の雷による大火などで、焼失し、貴族の藤原道長の、参詣と寄進によって、復興を遂げている。奥の院への樹木に覆れた森の参道を歩くと、徳川、豊臣をはじめ、仙台の伊達、秋田の佐竹、中国の毛利、織田、明智、戦国大名たちの供養塔、五輪塔、墓が林立している。

真言宗の初期には、なかったものだが、江戸期に入ると、全国の大名、貴族たちが、競って、先祖の霊を祀って、墓石を建てている。

真言宗は、浄土宗の思想を受け入れたのだ。補陀落渡海は、海の彼方、西方に、浄土がある、僧が舟に乗って、死を覚悟して、海へと漕ぎ出すというものだ。

天皇・貴族たちの空海であったが、江戸期になると、伊勢詣、熊野詣に加えて、庶民たちが、高野詣をはじめている。いわゆる、大師詣である。経済、産業の発展で、余裕が生れ、寺子屋が出来て、識字率と教養があがった。ちなみに、兼好法師の「徒然草」は、町民たちが、嫁入りの際に、娘に持たせた、生活・倫理の書としてベストセラーとなった。

四国遍路の案内記や高野詣の紹介本がでるほど、印刷の技術も格段に進歩している。

何よりも、空海の「入定信仰」が、民衆に、オダイシサンによる、救済の信仰の源となった。

そして、高野山復興の為に、お布施をもらい、寄進をすすめるために、全国を歩いた、下級の僧たち、聖、高野聖の存在が、大きな影響を与えている。

高野聖たちは、寄進を請うばかりではなく、情報の伝達者でもあった。密教、真言はもちろん、空海入定の話など、さまざまな話が、地方に拡がって、さまざまな大師説話を作りあげていく。四国では、神変と思われる、奇跡や神的な話が数限りなく伝わっている。

それは、空海が、山岳に独り入って、悟りを得る、孤高の人ではなくて、行動・実践も伴う、教学思想と利他の思想の、双方とも、身をもって、生きたからに他ならない。

満濃ヶ池の修繕、綜芸種智院の設立、川の堤防の修繕など、貧しい人、病気の人、不幸な庶民の為に、身も心も捧げ尽くした、空海であるからこそ、人々は、オダイシサンを求め続けた。

四国八十八ヶ所を、同行二人で巡礼する、遍路という者の一般化も、オダイシサン信仰を、普及させる原動力となっている。

伊勢詣、熊野詣、善光寺参りなど、神・仏をお参りする風習は、古くは、天皇、貴族から庶民に至るまで、信仰のかたちとして、見受けられた。

しかし、四国八十八ヶ所巡礼の旅は、ひとつの聖なる地、一人の神や仏を祀る神社や寺への参拝とは、訳がちがう。規模がちがう。いったい、誰が、千四百キロに及ぶ、八十八の寺巡りを、発想、発案したものだろうか。

不思議な伝統である。

四国は、昔も今も、辺境の地、辺地である。船で渡るしかなかった。山が海にせりだしている為に、道路が造れない。平成の現在でも高知の、甲ノ浦から、室戸までは、電車がない。

遍路には四つの説がある。空海自身が、42歳の時、自ら歩いて廻った説。(なにしろ、阿波、大瀧ヶ岳で、伊予、石槌で、土佐、室戸で修行をし、讃岐は大師誕生の地である)松山の豪商、衛門三郎の巡礼話。弟子の親済説。嵯峨天皇の子、真如親王−(空海の弟子)説がある。

平安末期に、三人の僧が、四国の辺地を廻ったという「今昔物語」もある。

空海が生れ、修行をした聖地四国だけでは、遍路の理由がつかみきれない。宗派を超えて、八十八の寺を結び、歩く、巡礼する遍路たちがめざすものは、マンダラであるかもしれない。8は∞、無限である。辺地は、未知の地、聖なる仏たちのいる、土地である。

(高野山大学大学院レポート)

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• 土曜日, 2月 04th, 2012
2201. アフォリズムは、(私)の言葉考でもある。小説、評論、論文の散文、短歌、俳句、散文詩の言葉、メタ言語、純粋言語、禅の不立文字、あるいは、ダブル・バインドからくる禅問答の言葉、数学者の人工言語、マラルメの言う絶対言語、そして、天才、井筒俊彦の言う、最強のコトバ、自心の源底に至る真言である。アフォリズムで、それらの言葉を、疾走してみたいのだ。あらゆる存在と非在の死者たちと交感するコトバへ。
2202. コトバとは、その人の位置と場、位相が決定をする。
2203. 3.11からの日が経つにつれて、不幸と苦痛の種類が増えて、だんだんと複雑になって、分化されていく。それが一番辛いのだ。体育館に避難していた時には、みんなが、同じ不幸であったのに。
2204. 被災者と被災者が衝突をする。傷の深さ、被災の大小、住む場所、条件が、衝突の因となる。
2205. 無我で、無私で、(私)を(他人)を支えていた心が、日常を取り戻すために、崩れていくのは、なんとも、耐えがたい。
2206. 自立とは、そんなにも、セルフを中心に、起ち上がらねばならないものか。
2207. 今日も、一日、(私)をしている。
2208. あちこちで、ぷつぷつ切断されている、しかし、流れは、深いところで(私)を貫いている。
2209. 今日も、(私)をしている。そう、気がつくことは、いいことである。
2210. 今日も(いのち)をしている(私)である。行け、とにかく、歩け。
2211. 何かの拍子に、どこからともなく、音が流れてくる。ふと、耳を澄ますと、消えてしまう。誰だ?何のサインだ?
2212. 寂静とでも呼ぶのだろうか、心的エネルギーが、零に近くなって、身体の感覚が消えて無辺の時空に、(私)が放り出されている。
2213. 嬰児でもない、老人でもない、まるで、齢というものが、ぽっかりと、抜けてしまった(私)がいる。
2214. コトバが崩れているのでもない。あまりにも、規則通りのコトバが多いのだ。だから(私)が話している、という、固有のコトバに出合わなくなっている。
2215. 誰かのコトバ、他人のコトバ、共有している文法のコトバ、約束されたコトバ、法のコトバ、もう(私)のコトバは発見できない。
2216. 一人一人、顔がちがうのだから、コトバも、思考の回路も、固有でなければおかしい。
2217. コトバが閉じている。モノとコトを開いていくはずのコトバが、放つ人々の不手際で、だんだんと閉じていく不幸。
2218. 言霊が、いつのまにか、記号になって、呪的な、原エクリチュールの力を喪っている。
2219. 息を吐く、息を吸う、その力を、ふたたび、声に、コトバに。
2220. 3.11以降は、鎮魂のコトバしかやって来ない。来ない時には、沈黙を守る。死者たちと共に、時空を結んで。
2221. 時空に、遍在する、死者たちの叫び声が、鳴り響いて止むことがない。
2222. あの時を、観想すると、意識は、いつも、ゼロ・ポイントに陥ってしまう。心のステップは、躓いてばかりだが、とにもかくにも、歩いてみる。一歩。共に。
2223. もう、生きられる時間だけが、(私)の時間だと、諦念して、生きよう。
2224. 自然から見れば、ニンゲンは、余分なものばかり作りだして、生命の共生の環を破壊している、邪魔者であろう。
2225. (私)のいない文章がある。(私)が入ってしまうと、(知)が変色してしまう。
2226. 色は形、形は色、音は色、結局、すべては、Iへ。
2227. 当然なことに、無限は、(私)の外部にも内部にもある。なんで(私)そのものが、無限になれない訳があろうか。
2228. 染まることは、感性であり、ひとつの能力である。問題は、そこからの、(私)の一歩である。
2229. 条約、憲法、条例、道徳、倫理、規則、戒律、約束、ニンゲンは、やたら(法)を作る。作っても、作っても、破ってしまうが。いったい、どの(法)が一番大事なのか。誰と、何と契った(法)が大切なのか。
2230. 批判の声は、いつも、正しい?いや、批判する人は、いつも、正しいことを語っていると思っている。なぜ?(私)の発言する場を、正しいものと思っているからだ。
2231. しかし、他人を批判する前に、(私)の場を語ってみる。すると、(私)の場は、いつも正しいものではないと、気がつく。
2232. だから、批判よりも、ずっと、創造がむつかしいのだ。
2233. 攻撃は、誰にでも出来る。問題は、(私)のビジョンを揚げる力にある。(私)を語れ!!
2234. 3.11以後には、三つのパターンの作家が生れる。
①習慣、習性で、今まで通りの作品を書き続ける人。(開き直っている)(鈍い人)
②なんとかして、3.11に対応できる、あたらしい意識で、あたらしい方法で、あたらしい文体で、書こうと模索する人(良心派)
③完全に、沈黙する、従来の方法では、書けなくなってしまった人。(書くことへの懐疑)
2235. 白い紙に書いたコトバが他人の眼からココロに入っていく、恐ろしさと不思議。
2236. ニンゲンは、どうしても、二重に生きるように創られている。(私)の「自心の源底」へと探求する道、他人の間で、他人のために、何か役立つ道である。(聖)と(俗)は、二つにして、ひとつの貌である。
2237. 3.11以降に、生き方、考え方、文体が変わらない作家、学者、哲学者は、よほど、鈍いか、衰弱しているか、自分に不正直なニンゲンである。あるいは、もう、終ってしまった人で、昨日を、今日に重ねて、死んだように生きている、無用の人である。
2238. もらったものは、必ず、お返ししなければならない。お中元、お歳暮ばかりではない。もっと、大切なものがある。(私)は、どうやって、それを、お返ししようか。
2239. 食べもの、お金、知恵、情愛・・・数えると切りがない。さて、どうしよう。
2240. ものをもらう。ものを差しあげる。そこにあるのは、礼節である。
2241. もらったものの中で、一番大きな、大切なものは、もちろん(私)である。だから(私)も、お返ししなければならない。誰に?何処へ?
2242. それは、契約か、縁か、法則か、偶然か?
2243. 出家者と在家者は、いったい、何を交換しているのだろう?そう考える中心に、宗教の核がある。
2244. すべてがリズムだ。生命の波調を強弱と整える。今日も一日。
2245. ある時には、(私)を解き放って、ゆるめる、遊ぶ。ある時には、(私)に刺戟を与えて、緊張させる、学ぶ。
2246. (知)で生きてきた人は(身体)へ。(身体)で生きてきた人は(知)へ、チェンジする。
2247. 裏も表も使って生きる。
2248. ニンゲンをしている限り、すべてから、降りてしまう訳にもいかない。
2249. 覚めて、眠って、覚めて、眠って、誰に教わった訳でもないのに、長い間、ずっーとそうして生きてきた。覚醒、正覚は、起きている中で、更に起きることだ。次元を、もうひとつ、ジャンプすること。
2250. 気力、体力、知力、どれも、放っておけば衰えて、錆びついてしまう。磨き続ける努力だけが(私)を支える力だ。
2251. 科学の(知)が語る宇宙は、宗教の(智)が語る宇宙ではない。(信)の有無である。
2252. 歩くことと考えること、俺に残ったのはそれだけだ。そして、それで充分だ。他に何がいる?
2253. 宇宙の沈黙は、実に、徹底している。まだ、何も言わない。秘めていて。
2254. ひととき、瞬間、この惑星で生れたね、いろいろあったけど。宇宙が、一切を、水に流してくれるよ。時という水に。
2255. 気がついたら、もう、おさらばの時だ。長いような、短いような、スキン・シップだけが、唯一のリアリティだったね。コトとモノとニンゲンとの邂逅がバネになったね。
2256. 人の器量だけは、勉強しても変わらない。
2257. アフォリズムの一本一本が、それぞれの、背景に物語と思想を秘めていて、その一本一本から短篇小説が作りだせる。つまり、いくらでも、考え、想像し、眺めていられるのが、アフォリズムである。
2258. 現在、書かれている小説には(核)がない。文体が、ゆるく、思考の回路が、見えなくて、弱い。胸に迫る一行がないのだ。
2259. 宇宙に、身一点、放りだしてみれば、ニンゲンは、無数のことを考えはじめる。誰だって、すぐにできる。
2260. その覚悟がないから、身辺雑記と、おぼつかない思考で、書かれた小説ばかりが濫乱するのだ。
2261. 貌のない、無意味な、作品ばかりが、一見、小説らしく、書かれているから、読者も、驚かない、感動しない。
2262. 一度、物書きは、自らのアフォリズムを書いてみるといい。いかに、発想が貧しく、モノを、本気で考えていないかがわかる。
2263. いつでも、何度でも、あの、意識が、ゼロ・ポイントに陥った、3.11に戻ることだ。出発は、そこにしかない。共有するというニンゲンの力を信じて、(無)から、歩きはじめたのだから。
2264. 瓦礫の中にも起つコトバがいる。その為にも、我に仕事を与えよ、である。日常の、回復と再生のために。
2265. 一円でもいい、黙って、秘かに、送り続けよう、それは、死者たちへのもうひとつのコトバである。
2266. 病んでる人がいる限り、苦しんでいる人がいる限り、(私)だけが、幸せになれるわけがない。傷は、疼き続けるのだ。
2267. 人がみんな、同じように見える時には、苦痛はない。小さな、差が見えはじめた時、人の心は、不幸に染まりはじめる。どうして、(私)だけが、と。
2268. 極く普通にあった日常が、根こそぎもっていかれた。破壊された。大地震と、大津波と原発事故で。そして。今。
2269. 負と傷をかかえて、日常を、そのままとり戻すことさえ、容易ではない。
2270. 支援、援助は、いくらでも要る。延々と、東北に、エネルギーをつぎこまねば、救われない。
2271. 私の一生は、もう、余分だから、せめてその半分のエネルギーは、支援として、投資しよう。
2272. 頭の中にあった、普通に生きる、プログラムが、すべて、壊されてしまった3.11の被災者である。残ったのは、傷と、喪われたものたちの、空虚な思い出。何を、軸にして、心の芯を起たせるか、想えば、気が遠くなる道程である。凝っと、(私)の中から、もう少し、生きてみようと、力が湧いてくるのを待つしかない。
2273. (知る)というよりも(わかる)という力が不思議である。なぜ?モノがわかるという力。その力が、ニンゲンに備わっているから、宇宙に、驚愕することができる。だから、すべてを、知りたくなる。
2274. (私)の中にあるものしか、わからない。そういう仕組みをニンゲンはもっている。悲も、苦も、痛も、病もわかる。だから(私)は、他人も、宇宙もわかる。当然、(私)の中には、宇宙がある。当然(私)は他者である。
2275. (私)だけでは、すべてを、わかることができない。で(知)のリレーが生れる。肉体で。
2276. (私)の中に、よい方へと歩む力が多くあれば、ニンゲンは、戦争も紛争も、止めることができる。その力に、賭けてみるしかない。
2277. つまり、共生の、共同の、いのちの、ビジョンを、ニンゲンが、何時、完全に、創出できるかが、勝負だ。もちろん、鍵は、宇宙である。
2278. 量で、数で考える人。質で、深さで考える人。同じ、考えるにしても、まったく、結果が違ってしまう。
2279. 3.11の現場で考える人。3.11から遠く離れて考える人。距離は、思考を一変する。
2280. (場)と(位置)が、こんなにも、コトバ自体を変えてしまうとは。
2281. コトバが変わらなければ、思考は変わらない。その単純な法則がわからない人がいる。
2282. (傷)から考える人。(損得)で考える人。その必要まで変わってしまう。
2283. 断念の、底からでも、声は放たねばならない。単独者として。
2284. いのちをするのは、いつでも今だ。
2285. (私)の呼吸する場は、いつでも、(私)のいるところだが、ニンゲンは、どこにでも遍在できる。想像する生きものだから。
2286. 力(エネルギー)だけが、(私)の推進力だ。衰弱するな、枯れるな、涸渇するな。
2287. 科学の進歩が遅いから、もう、何度も、アンドロメダ銀河には行ってきたよ。何?真夜中に。
2288. 3.11から、10ヶ月が過ぎると、爪を隠していた人々が発言をはじめた。(現実)を考えると、原発は、必要だ、と。つまり、いい思いをしてきた人々、得をしてきた人々が、(現実)の必要性を、訴えるのだ。あ~あ、である。(現実)を創るのも、変えるのも(私)である。(私)ぬきの発言は、3.11以前のコトバである。傷ついた人々、身も心も。死者たちに。コトバも、祈りも、足りない日々に。もう・・・。ニンゲンは、まだ・・・。
2289. あなたは何処から来たと訊くから、(私)は、わが地球を含む無限宇宙から来たと応えた。で、これからどうすると訊くので、あるがままに、しばらくは、生きて、ニンゲンをして、終ったら、また、来た無限宇宙へと還っていくだけさ。何も、特別なことはないと応えた。
2290. 科学には、どうしても、出来ないことがある。情報が、いのちに変わること。つまり、情報がいのちになることだ。
2291. (私)が成ってしまう、(私)に。メカニズムを分析しても、(私)をつくる力にはならない。
2292. ニンゲンがやってきたことは、モノを変形させることだけだ。
2293. 単細胞は、なぜ、他の単細胞と結合したのだろう?単細胞の、内なる夢の顕現か?
2294. 書くことは、アフォリズムは、宇宙の暗号を読み、顕現させることだ。(あ、また、来た、ソレが)
2295. 物質の素も、生命の素も、コトバの素も、結局、宇宙自体の顕れである。
2296. 顕れたニンゲンが、自らの素を考える−なんとも妙な具合である。
2297. 読むとは、(私)を知ることとなる。で、(私)は、宇宙であると知るばかりだ。
2298. 来るソレを、顕しておれば、いつか、暗号の謎が、解けるかもしれないではないか。なあ、アフォリズムよ。
2299. しかし、最後には、ソレ、音信も、ニンゲンには読めぬ、未知のシンタックスであるかもしれぬ。
2300. まあ、規則もない、文法もない、異次元からの音信に、触れるだけでも、いいか。
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• 金曜日, 12月 09th, 2011

①「エネアデスⅠ・Ⅱ」(中公クラシックス刊) プロティノス著
②「ヨーガ①」(せいか書房刊) エリアーデ著作集⑨
③「社会は絶えず夢見ている」(朝日出版社刊) 大澤真幸著
④「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書刊) 橋爪三郎×大澤真幸著
⑤「神秘の夜の旅」(トランスビュー社刊) 若松英輔著
⑥「娘巡礼記」(岩波文庫刊) 高群逸技著
⑦「世界宗教史」(ちくま学芸文庫刊) ミルチア・エリアーデ著
⑧「阿字観瞑想入門」(春秋社刊) 山崎泰廣著
⑨「仏教入門」(東京大学出版会刊) 高崎直道著
⑩「マンダラ事典」(春秋社刊) 森稚秀著
⑪「密教」(岩波新書刊) 松長有慶著
⑫「空海コレクション①」(ちくま学芸文庫刊) 宮坂宥勝監修
⑬「空海コレクション②」(ちくま学芸文庫刊) 宮坂宥勝監修
⑭「これはペンです」(新潮社刊) 円城塔著
⑮「超訳 ニーチェの言葉」(ディスカヴァー21刊) 白鳥春彦編・訳
⑯「蜩の声」(講談社刊) 古井由吉著
⑰「不可能」(講談社刊) 松浦寿輝著
⑱「存在の一義性を求めて」(岩波書店刊) 山内志朗著
⑲「密教辞典」(法蔵館刊) 佐和隆研編
⑳「宇宙は本当にひとつなのか」(講談社ブルーブックス刊) 村山斉著

9月から、本気になって、「空海」を読みはじめた。
機が熟したのかもしれない。「本」は、読む年齢によって、味わえる質がちがう。

20代の頃、「空海」の著作集を購入したが、歯がたたなくて、本棚に入れたまま、放ってあった。生きてみなければ、わからない、理解できない「本」がある。いや、頭でわかっても、身にしみて、なるほどと納得することはない。

「空海」の文章は、もう、現代人には、読みとれなくなっている。だから、「密教辞典」を索きながら、ゆっくりと、ゆっくりと読む。
宗教論、言語論、心理学、身体論、存在論、当時の総合的な、哲学の書である。
詩文もある。戯曲もある。随筆もある。碑文もある。手紙もある。引用が多い。すると、その引用の原典も読まなければならない。「空海」の文体を、感じられるようになるまで、何年かかるだろう。

とにかく、4年間、「空海」の主著を中心にして、読んでみよう、と考えて、高野山大学の門をくぐった。3.11以前の私には、考えられぬことである。
「空海」へと歩く、旅のはじまりである。どうなることやら、私にも、わからない。

結局、「空海」を読みはじめると、密教について、古代インドについて、中国について、中世について、キリスト教について、イスラム教について、というふうに、次から次へと、読むべきものが、根を張っていくのだ。

そして、「読む」と「瞑想」と「実践」が、ひとつにならないと、(三密)、(空海)さんは、わからない、ということが、わかってくる。精神と言葉と身体(意・口・身)で世界・宇宙を知る手法が密教であるから。

小説「不可能」は、松浦寿輝の三島由紀夫観から作られたものである。老いを嫌悪した三島由紀夫が、老人になるまで生きたら、という仮定のもとに、書かれた小説である。

社会学者、大澤真幸の「本」は、(知)であふれていて、刺戟を受ける。実に、面白い発想であり、切り口の斬新さ、読み込みの深さに驚かされる。が、いつも、最後に、さて、本人は、どうなんだと考えてしまう。小説で言えば、「私小説」の芯の、肉声がないのだ。

「娘巡礼記」は、若い娘が、四国八十八ヶ所を歩いて、巡礼する話、紀行文である。「遍路」本の元祖とも言える、古典である。歩くところに、物語が、発生する、だから、遍路は面白い。

村山斉の「宇宙・・・」は、終に、人類は、まったく新しい、宇宙論の時代に突入した、と教えてくれる、誰にでも、わかる本である。ニュートン、アインシュタインと進化してきた宇宙論が、原子・ニュートリノ・素粒子論が、否定される。10の500乗個の宇宙。原子で出来ていた宇宙が、実は、そうではなかった、まるで、もう、SFのような宇宙論。

※お受戒を受けた。
 阿息観を教わった。
 月輪観を教わった。
 「阿」字観を教わった。

深遠な、密教の世界への入口である。
確かに、「空海」を読むだけでは、なるほど、半分も、わからないはずだ、と、認識ができた。
「読む」と「実践」である。

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• 金曜日, 12月 09th, 2011
「無」からの出発 ~東日本大震災クライシス~
2101. 「無」からコトとモノが吹きこぼれて、「無限」に至る。闇の中を、光よ、光よと(私)は歩く。暗から冥まで。
2102. 3.11は、ニンゲンの背丈を告げた。何が不可能かもわかった。さて、もう、迷うまい。
2103. 文字は、表すものではなくて、顕れるものであったか。
2104. 手にて為す、何事もなければ、定印を結ぶ。
2105. 知の人、兼好よりも、情の人、西行に、かえって、断念の深さがあるか。
2106. エスプリは、ユーモアを生むが、パッションは、ユーモアを生まぬ。
2107. 「お客さん、終点ですよ」何度、その声に眼が覚めたことか。(私)は、終りを告げられていた。
2108. 「無記」悟りは、コトバでは、記すことができないと、釈迦は言った。空海は、すべては、コトバで記せると、革命的な発言をした。
2109. 何にしろ、あらゆる存在は、森羅万象は、コトバであると断言した空海である。
2110. 何を語っても、比喩になる。いや、表象になる。文字、コトバそのものが、象徴であるから。だから、モノ自体は、語れない。
2111. その場に、その位置に立たなければ、同じコトバは、語れない。3.11が証明した。
2112. 3.11の(現場)に行くのと、(現場)で生きるのとは、決定的にちがう。物理的な距離は、心理的距離に正比例する。
2113. どんなに、愚かだ、狂暴だ、悪人だと言われている人でも、人は、(私)は正しいと考えて、生きているから、ニンゲンは、奇妙で、面白い。
2114. 沈黙してしまう釈迦と語り続ける空海。因分可説と果分不可説、そこが、二人の別れ道である。
2115. 他人に会う時には、いつも、機嫌のいい者だったが、一人になった時の孤独の深さは計り知れない。
2116. 一者と言い、大日如来と言い、とりあえず、そのように、名前をつけて、呼んでみるしかないものである。そんな、畏怖すべきものが、宇宙にあるということだ。
2117. 不可視のもの、不可知のもの、まだまだ、ニンゲンの(知)が捉えられぬもので、宇宙はあふれている。
2118. 日常に隠れて、よく見えなくなっていた、もうひとつのニンゲンの貌が、3.11の大地震と大津波であぶりだされた。そして、原発の爆発で、貌そのものが消えてしまった。
2119. おろおろし、あたふたとし、結局、宇宙原理が現れた3.11の前では、ニンゲンは、叫び、泣き、そして、沈黙するしかなかったのだ。
2120. 日常が、だらだらと続いたので、長い間、ニンゲンは、危機の感覚をなくしたまま生きていた。足の裏が、ひりひりする、あの感覚をなくしてはならぬ。
2121. 陽気な男がいた。3.11以前には。あれも、ひとつの、天性の財産であったか。
2122. 3.11以降は、ココロの振幅が広がるばかりだ。
2123. 乱れているのは、ココロか?コトバか?思考か?存在そのものか?
2124. たゆたう文体は、何を書いても、どこまで書いても、すべてを宙吊りにする。
2125. 断定する文体は、断言による深さに至るまでに、さまざまなものを殺している。いわば、あやうい一点に立脚しているのが、断定の姿である。
2126. (事実)も(虚構)も、同じ文字で書かざるを得ない、苦痛と不快。
2127. 文章という(現実)が、実も虚も、同じ位置と場に存在する、白紙の力。
2128. 「呼吸」ではじまって、「呼吸」で終るニンゲン。
2129. 思考の形を脱ぎ棄てたいと思う。
2130. 論理もまた、ニンゲンが創りだしたひとつのパターンである。
2131. 悪しき(知)の外へと、脱出すること。
2132. (私)を、「空」であり「無」であると言うが、輪廻する(私)とは、何者か?
2133. 覚、不覚、覚、不覚、の日々である。
2134. (考える)は、どこから、起ちあがってくるのだろう。(私)の意識であろう。意識は?(私)のアラヤ識の蔵から、起ちあがってくる。すると、(私)は、アラヤ識の蔵である。
2135. (私)の(考える)は、(私)が考えるから、来るのか?あるいは、コトバと共に、(考える)が起ちあがるのか?
2136. ココロは、顕れ、消え、流動している生きものであるが、コトバを得て、ココロになる。
2137. 名辞以前、コトバ以前、沈黙以前に、コトバで、挑まねばならない。「名辞以前」というコトバで、すましてしまってはならない。
2138. 狂の中にもコトバがある。つまり、狂は、狂ではなくなる。コトバが、(考え)て、表現できれば。
2139. 人も、風景も、常ならず、つまり、無常。3.11は、誰にでも、無常が観えた。
2140. 生命の源をだどっていくと、「生命樹」あり。宇宙の源をたどっていくと、「宇宙樹」あり。
2141. 宇宙は呼び続けている。無限遠点から音信が来る。宇宙から来た者が、宇宙を知悉しなければなんの為の存在ぞ、なあ、ニンゲンよ。見る者がいなければ、存在に、意味はない。最高のビジョンが、それだと知れよ、なあ、ニンゲン。
2142. そのように、働き、作用するものを、大日如来と名付けて、象徴し、コトバとして、顕現させたのは、誰か?
2143. (不可能)ニンゲンにはできないこと。見ることも、聞くことも、触ることも、書くことも、考えることも、実験することも、あらゆる可能性がゼロであること。それでも(不可能)へと挑戦をしたがるニンゲンがいる。石に、コトバを話させるように。
2144. (不可能)からの出口、(不可能)への入口、事象に特異点があるように、思考にも特異点がある。(不可能)は、特異点の彼方、つまり、異次元でもある。
2145. 埴谷雄高、荒川修作は、特異点を突破して(不可能)へ挑戦した、数少ないニンゲンであった。埴谷さん、アラカワさん、音信を、シグナルを送って下さい。(自同律の不快)と(天命反転)を唱えて。
2146. どのように生きているものを、ニンゲンと呼べるのか、あるいは、ニンゲンの持ち得る、最高のビジョンとは何なのか、危機と混沌の時代だからこそ、問い続けなければならない。
2147. 余分なものは何もない、自然の世界を考えてみると、ニンゲンが、あれが足りない、これが足りない、と、四苦八苦しているのが、実に、おかしい。
2148. 3.11以降では、生命を起点として、あらゆるものの価値が変わった。いや、変わったというよりも、順位、必要の度合が変わったのだ。
2149. だから、3.11以前の、スタイルで、そのまま生きていると、心が分離して、浮遊してしまう。(現実)から。
2150. (私)には、どうしても、宇宙が、百四十億光年の、時空をもつ、わが宇宙ひとつだとは、考えられない。(無限)とは、ニンゲンが計れるような単位ではないだろう。宇宙も、また、無限個あるのではないのか?
2151. テキストは、いつも、読み変えられる。1000年たっても。芭蕉の俳句は、それに耐えられる。完璧な、天才、空海のテキストも、現在の時代に、読み変えられるはずである。
2152. 完成に至るまで、構築された、空海のテキストを、弟子たちは、信者たちは、どのように、読み変えることができるのだろうか?
2153. 「暇潰し」をするには、あまりにも、膨大な時間である、10万時間。60歳で、会社を停年となったX氏は、80歳までの、使える時間を、頭の隅で、計算してみる。で、何か面白いこと、何か楽しいことを探さねば、とても、耐えられぬと呟く。
2154. 不条理そのものが、笑いであって、存在そのものが、哄笑である。
2155. 泣きながら、笑う。笑いのなかに、生まれてくるものがある。自然に。力である。
2156. 農本主義と士方、私は、その間で生きてきた。「保守と破壊」。
2157. 電線が鳴っている、鳴っている。電信柱は、どこまでも続いていて、ニンゲンは、その音を聴きながら、歩いてゆける。
2158. 名前をとりもどそう。喪われてしまったニンゲンの名前を。記号から言霊へ。方言で、呼びあいながら。
2159. 水が来た、水が来た、大水が来た、大津波が来た、ニンゲンを呑み込む水が来た。
2160. 風の流れ、水の流れ、(私)の流れ。アッ、(花)が花をしている。
2161. 足が止まる。壁がある。ただちに、廻れ右だ。今までの(私)の法則であった。
2162. 習慣だ。そして、時間のベクトルを(私)の中心の核から引いてみる。さて、何処へ。
2163. 持たないこと、棄て去ること。どうやら、この二つの生きる態度に、宗教の核がある。
2164. シンプルな生きるスタイルが、もっともニンゲンを、深く生きられる。3.11以降は。
2165. 持てば持つほど豊かになると思う人がいて、名刺には、肩書きが、七つも書いてある。
2166. 立腹する。他人のあれこれに。社会のあれこれに。怒っているのは、(私)の心だ。ココロをセーブしよう。
2167. 3.11から来たのは、まったき沈黙であった。そして、時を経て、コトバの洪水が来た。(私)に。
2168. コトバが爆発をした。原発と均リ合うほどに。
2169. 気が狂うのを鎮めるために、(私)は、コトバの洪水に乗った。そして、流された。たどり着く、正気の岸辺も見えぬあたりまで。
2170. 蒼ざめたまま、大量の波が押し寄せるまで、身体は、無数の痙攣に耐えていた。
2171. 千本の手と千本の足で、クロールをしても、脱出できない大津波にニンゲンが、木屑のように呑み込まれていく、痛い。悲鳴が耳を刺した。
2172. その間、ココロは、どこへ行っていたのだろう、3.11の現場では。
2173. 俳階師西鶴は、愛妻の死んだ日に、鎮魂の俳句を一万句詠んだ。数秒に一句、まるで、洪水だ。そして、小説家・井原西鶴が誕生した。
2174. 3.11以降に、笑いとばす、明るい、楽しい、対話的な作品を書くことが可能だろうか?
2175. ニンゲンの底がぬけてしまうような、圧倒的なコトバの洪水。沈黙の対極に存在する、シャワーのようなコトバの群れ。そんなものが、果たして、可能だろうか?
2176. 意識は、もう、3.11に触れてしまったから、灰色の領域から離陸できない、しかし、行け、歩け。
2177. 存在すること自体を、哄笑する、いや、共に、謳歌する。
2178. あたらしい、ニンゲンに対する切り口がいる。常識を棄て去って。
2179. 笑いが、あたらしい(知)を呼ぶ。意識のゼロ・ポイントでも、笑いは可能か?
2180. コトバにならないものを、あえて、コトバにしてみる。仮の名前をつけて。すると、コトバにならないソレが存在してしまう。ソレらしく。
2181. 同じ道ばかり歩くのは面白くない、とA君
     同じ道を歩いても、毎日毎日道の貌がちがう、とB君
     同じ道を歩くと、安心感がある、慣れかな、とC君
     やはり、はじめての道には、発見がある、とD君。
     やれやれ、道の歩き方でも、人それぞれだ。
2182. なんのために、と問うのは、歩くのも、生きるのも、同じこと。
2183. 仕事をすればするほど、あれが足りない、これが足りない、と、わかってくる。限りというものがない。
2184. 原発のストレス・テストをするのもいいが、ニンゲンの、ストレス度を計ってあげる方が先じゃないか!!限度を越して、壊れ、自死する人の叫び声を聴け。
2185. 人が溺れているのに、浮袋がいいのか、木がいいのか、何を投げてやればいいのかと、岸辺で、議論ばかりしている。頭から、飛び込め!!
2186. ニンゲンの大ビジョンは、宇宙へと、大航海の旅にでることか、あるいは、地球での、限りある生命を、今を、快楽することか!!
2187. 存在としての宇宙に、一撃を加えるニンゲン、はたして、何かできるか?
2188. 時空を歪め、自らも変身して、宇宙に遍在せよ、ニンゲン。
2189. 存在が自由自在に非在になり、死が生に、生が死に、反転できる時、宇宙に、ニンゲンは呼応できる。
2190. (考える)というステージを、どこまでアップできるかが、ニンゲンの課題である。
2191. 「猿から人間へ」とステップしてきた我々も、もう、そろそろ、「人間からXへ」とジャンプする時だ。新しい名前を命名しよう。
2192. ソラ・カラ・クウ。ソラ・カラ・クウ。子供たちが、歩きながら、声をそろえて、日本語の練習をしている。言葉遊びふうに。空(そら)空(から)空(くう)と。何度も何度も。
2193. 発光する、発光する、(私)が発光している。それでよし。
2194. 早く、そのことを忘れたい人がいる。いつまでも、そのことを、心に刻みつけておきたい人がいる。人は、その位置と場で、3.11への態度が、百八十度ちがってくる。
2195. 分析はいくらでもできる。そのことを、身をもって生きることが、ポイントである。
2196. (私)を棄てて、奔走している人がいる。その姿は、実に、眩しい。美しい。
2197. 乾坤一擲・賭ける時が来た。誰にでも、一度はやってくるが、その時を見逃してしまう人があまりにも多すぎる。
2198. (私)は、他人を羨んだことがない。なぜ人は、他人を羨むのかわからない。断っておくが、それは、決して(私)が秀れているとか、恵まれているとかではない。(私)は、私の生命を充分に使用すれば、それでよい、と考えているからだ。身の丈に合わせて。
2199. さあ、起て、自分の足で、とにかく、歩くのだ。
2200. 親切なコトバも、歩く杖にはなる。
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• 月曜日, 10月 03rd, 2011

「詩の礫」(徳間書店) 和合亮一著
「詩ノ黙礼」(新潮社) 和合亮一著
「詩の邂逅」(朝日新聞出版) 和合亮一著

3・11の、東日本大震災は、ニンゲンの、人類の、大きな、大きな、危機であった。大震災、大津波、大原発事故は、ニンゲンの生存の原理を、ことごとくたたきつぶしてしまう、頭では、上手く、考えられぬ、大兇事である。

60余年、ニンゲンとして、生きてきて、意識がゼロ・ポイントまで落ちて、判断中止状態に陥り、存在までが、ゼロ・ポイントに落ちて、破壊され、見たこともない、のっぺらぼうの出現に、脅かされた。

日常の、生活の、生命の、生の、中断であった。巨大なエネルギーは、ほとんど、ひとりのニンゲンの存在を、無へと、近づけた。不安や悲しみを、通り越して、存在の消滅が、裸になって、眼の前で、進行した。

地面の揺れ、家を、電柱を、車を、船を、工場を、役場を、樹木を、堤を、そして、ニンゲンを、一気に、破壊して、流し去る大津波−何日も何日もその映像を眺める。

さらに、かつて、希望の灯といわれた原子の火が、大爆発を起こして、東北を、関東を、放射物質で蔽った。

いったい、何が崩れ落ちたのだろう、3・11で。

誰もがそれを見た。直観した。知った。わかった。

しかし、その正体が、明らかにならない。日々の、生活の中で、はっきりとしていたもの、文明の、科学の(知)、文化の(知恵)、法、習慣、ほとんどの常識と化していた、歴史とか、資本主義とか、民主主義とか、家族とか、会社とか、共同体の社会とか、−そう呼ばれてきた一切が、一瞬のうちに、ニンゲンの世界から、外へと、放り出されてしまった。もちろん、意識の外へと、超出してしまった。

昨日のようには、生きられない。まったく、ちがう、意識で、生きなければならない。現れたのは、のっぺらぼうである。意識が触れたものは、必ず、語ることが出来た。今までは。しかし、3・11以後は、その神話が崩れて、誰も、語れない。

思考する(知)さえもあてにならぬ。大常識が、役に立たない。国とか、会社とか、社会とか、が、まるで、幽霊のように、姿を変えてしまった。大津波で、原発で。

残されたのは、(私)である。そして、その最後の(私)という存在さえ、ニンゲンとして、崩壊しようとしている。どうにかして、ニンゲンは、その、のっぺらぼうに、形を与えて、名前を付けなければならない。

大量の、無数のコトバが放たれた。政治家、学者、科学者、作家、知識人、経営者、しかし、誰も、3・11を、そのものを、語りつくすことはできない。細々と、被災者たちの、裸のコトバが、生きている。

読んでも、観ても、書いても、話しても、映しても、虚しさが付きまとうのだ。(知)が(声)が役に立たない。

しかし、ニンゲンは、無・意味、非・意味には耐えられぬ。安心できない。名前を付けて、価値をつけて、意味をもたせて、もう一度(世界)を再構築しなければならない。正に、生きる、原点に戻って。必要なものを残して、不必要なものを棄て去ること。

一切が、無へと、空へと、投げだされた今、ニンゲンは「人間原理」を、見直さなければならない。ニンゲンのいない世界でも、廻っている「宇宙原理」に対抗して。

さて、フクシマに、和合亮一という詩人がいる。被災者である。3・11以前には、日経新聞に、エッセイを書いていた。ゆるい文章で、思考も平凡で、現在の詩人レベルは、こんなものか、と、その凡庸さに、溜息のでる、詩人であった。高校の先生をしている。なるほど、語りの中に、その匂いが漂っている。妙に正義感があるのだ。

その和合亮一が、豹変をした。いや、いい方に化けたのだ。和合亮一は、3・11の原発の放射能の降る中で、「ツイッター」詩をはじめたのだ。

3・11の震災の真っ只中で、自らの心情を、いや、全存在を、コトバに託して、語りはじめたのだ。「詩の礫」である。

ツイッターとは、140文字以内で、自分の思ったコトバを、発信するものらしい。本来は、詩ではなくて、散文、つまり(私)の呟きである。

その、和合の呟きが「詩」に昇華されていた。力のあるコトバだ。従来の「詩」という殻を破って、あらゆるコトバを、(詩にならぬ言葉も)たたきつけるように、書いている。スピードがある。臨場感がある。チラチラ、鋭い一言が見える。

つまり、もう、和合は「詩」を意識していない。意識は、完全に、3・11で、深層意識のゼロ・ポイントに落ちている。存在は、絶えず、余震と放射能に脅かされて、ゼロ・ポイントにいる。

かつて、アメリカの、トルマン・カポーティは、殺人者を、事件と、同時進行で追って、「冷血」という、ノン・フィクションノベルの最高傑作をものにした。

和合の試みは、散文と詩のちがいがあるが、カポーティのコトバの力を思わせた。モノに憑かれているのだ。無意識の闇の中から、深層意識の蔵の中から、コトバが起ちあがってくる、和合は、そのコトバを捉える、ひとつのマシーンになっている。

普通の平凡なコトバが輝いている。同じコトバでも、3・11以降の和合のコトバは、その意味がまったく、ちがっているのだ。詩語も俗語も、まったく、気にしないで、来るコトバを、そのまま、文に、詩にしている。

理由は、簡単だ。日常が、非日常へと変化したのだ。和合は、日常の、生活の、生きる根を喪って、ゼロ・ポイントで浮遊しているのだ。突然、和合は、異次元へと投げ込まれている。だから、見るもの、平凡なトマトやくるみさえも、輝いてみえる。

和合の変身は、驚きであった。(場)が(状況)が、語ってる。決して和合ではない。和合は、ただ、コトバを、書かされているのだ。

ニンゲンは、異常な時空を、非日常を、そんなにも長くは、生き続けられない。(①日常→②非日常→③日常)となる。しかし、③は、決して①ではない。

「詩ノ黙礼」は、「詩の礫」の続篇である。

疾走する文体、叫ぶ声、震える身体、コトバの力は、だんだんと落ちている。日常が、少し、回復して、意識がモノやコトを観察しはじめている。

「詩の邂逅」は、いわゆる「詩」と被災者たちとの対話(散文)で構成されている。和合は、日常へと復帰しはじめている。で、依頼されて、「詩」を書いている。残念ながら、「詩の礫」や「詩ノ黙礼」のように、詩語を使わぬ、約束を破った、狂的な力が消えている。

整然と並ぶ、行分け詩は、3・11以前の和合の、詩や散文のように、(詩)に納まってしまっているのだ。思考の、思想の彫りの浅さばかりが目立ってしまう。なぜか?

和合は、いわゆる「詩」を書く意識に戻りはじめている。意識や存在が、ゼロ・ポイントに陥って、コトバが、自然に、吹きあげてくる、あの力が消失したのだ。かえって、対話者との散文が(事実)の重さを伝えている。皮肉なことだ。

日常に戻った時、和合は、3・11以前の日常と、眼の前の3・11以降の日常を、明確に、意識化して、コトバが、なぜ、力をもったのか、考えるべきである。

同じ、(花)や(木)や(空)であっても、コトバの意味が変わるということ、そのことを、完全に、意識化できた時、和合の「詩」の力は、もう一度、復活するかもしれない。

つまり、いつも、3・11の、意識と存在が、ゼロ・ポイントに落ちた、その時を、心の中に、甦らせることだ。その時、コトバは魂となって、疾走する力をもつ。ポール・ヴァレリーのいう「純粋詩」が誕生するだろう!!

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• 月曜日, 10月 03rd, 2011

①新聞記者としての言葉・文章
②芥川賞・小説家としての文章
③ノンフィクション・ルポタージュの文章
④詩・詩人としてのコトバ

辺見庸は、4種類の文章を書いている。年代順に並べてみた。①~④である。

私は、新聞記者時代の辺見の文章を知らない。北京特派員、ハノイ支局長を歴任して、中国報道により、日本新聞協会賞を受賞している。(事実)を追い続ける新聞記者として、足と眼と腕を鍛えあげて、協会賞を受賞している。

司馬遼太郎、井上靖、菊村到など、新聞記者から作家へと、転身をして、成功をした者も多い。

辺見は「自動起床装置」で、芥川賞を受賞している。平成3年である。昭和19年、宮城県石巻市生まれであるから、もう、40歳は過ぎていた。作家としては、むしろ、遅すぎるデビューである。会社では、外信部次長という役付であった。

(事実)を追って書く文章から、(虚構)を書く小説への変身に、何があったのか、私は知らない。しかし、(事実)を書く、新聞の文章に、疑をもたなければ、(虚)としての、小説の文章に、移ることはあるまい。

「自動起床装置」奇妙な小説である。眠りから、現代人の、衰弱した姿を捉えている。文章は、素っ気なく、短く、必要最小限度のもので、構成されている。装飾というものがない。感性のひらめきとか、特有の表現も見あたらない。乾いている。その空気が伝わる。

よく言えば、短篇の名手、ヘミングウェーの文章だ。(事実)と(モノ)だけを、捉える文章。つまり、新聞記者の文章である。一点だけ、ちがうのは、(事実)ではなくて、(虚)にむけて、書かれた文章であることだ。あやういところで、小説の文章になっている。

決して、一世を風靡するような作品、作風ではなかった。ただし、新聞記者から、作家、評論家になった、明治の、自然主義作家の正宗白鳥に通じるような、モノを見る、透徹さがあった。

世間が、ここに辺見庸ありと、思ったのが、意外にも、小説ではなくて、ノン・フィクションの「もの食う人びと」であった。私も、小説の文章よりも、辺見の思想性が鋭く表れたのは、「もの食う人びと」の告発的な、文章であると思った。論理的であり、何よりも、(現実)を切りとる文章の力が、小説よりも勝っていると感じた。「もの食う人びと」を読むと、辺見が、小説を書く理由なんか、消えてしまうと、勝手に推察した。

さて、辺見の、コペルニクス的な文章の転回が生じたのは、2009年からである。辺見は、突然、一気に「詩」を発表する。それも、ひとつやふたつではない。『文學界』に18、『美と破局』に19の詩を、掲載する。

いったい、辺見庸に、何があったのか?2010年には、処女詩集「生首」を上榫して、中原中也賞を受賞している。さらに、3・11が起きた後で、「眼の海」−わたしの死者たち−として、「文學界」に、22の鎮魂詩を発表している。

(事実)としてのコトバ①(虚)をつくるコトバ②(現実)を告発するコトバ③そして、詩としての、象徴の、存在としての、宇宙へとむけたコトバ④辺見の、コトバが発生する場所が変わっているのだ。

もう、(事実)を書くことも(虚)=想像を書くことも、(現実)を告発する−を書くことも、大きな徒労となって、終に、辺見は、はるかな、存在の彼方へ、時空を超えて、死者たちと声を交わせるあたりへと、コトバを投げかけている。

辺見庸は、世界を歩き、飢えた者、貧しい者、底辺に生きる人間を見て、(現実)を告発し、貧や愚や苦や悲とともに生きるニンゲン存在を、表現してきた。

そして、3・11東日本大震災で、故郷、宮城、石巻の悲嘆を見た。意識と存在が、同時に、ゼロ・ポイントに陥っただろう。そんな時に、小説は書けない。論理的なエッセイは書けない。辺見が「詩」を書くのは、自らの、深層意識の中から、吹きでてくるコトバの群れがあるからだ。私は、そう考えている。

3・11を書いている、和合亮一の詩や長谷川櫂の短歌よりも、はるかに、深く、辺見のコトバは、事象の核を摑んでいる。

散文、詩、俳句、短歌−現在も今後も、さまざまな作品が、3・11を、主題とするだろう。その中で、辺見庸のコトバは、生命を得て、光るものと思われる。

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• 月曜日, 10月 03rd, 2011

①「詩の礫」(徳間書店刊) 和合亮一著
②「詩ノ黙礼」(新潮社刊) 和合亮一著
③「詩の邂逅」(朝日新聞出版刊) 和合亮一著
④「『井筒俊彦』叡智の哲学」(慶応義塾大学出版会刊) 若松英輔著
⑤詩集「ガラスの中の言葉達」(土曜美術社出版販売刊) 由羽著
⑥「『生』の日ばかり」(講談社刊) 秋山駿著
⑦「地上の人々」(パロル舎刊) 井出彰著
⑧「マホメット」(講談社学術文庫刊) 井筒俊彦著
⑨「アラビア哲学」(慶応義塾大学出版会刊) 井筒俊彦著
⑩「神秘哲学」(慶応義塾大学出版会刊) 井筒俊彦著
⑪「露西亜文学」(慶応義塾大学出版会刊) 井筒俊彦著
⑫「読むと書く」(慶応義塾大学出版会刊) 井筒俊彦著
⑬「震災歌集」(中央公論新社刊) 長谷川櫂著
⑭「生首」(毎日新聞社刊) 辺見庸著

言語哲学者・井筒俊彦の主著「意識と本質」を再読・熟読をした。3・11以降でも、安心して、読める数少ない本のひとつである。

今回は、20歳の大学生に戻って、丁寧に、ノオトを執りながら、読んでみた。サルトルの名作「嘔吐」から、西洋の知と東洋の知が、構造的に、解き明かされていくのだ。宣長、芭蕉、リルケ、マラルメ、ソシュール、ユング、孔子、老子、古代インド、イスラーム、大乗仏教から禅、胡子、道元、プラトン、そして、真言の空海まで。井筒のコトバは、時空を超えて疾走する。その快感に身をゆだねる。

いったい、井筒俊彦のコトバは、どこから来たのだろう?そう思って、手に入る、井筒の本を買い集めて、読みはじめた。アラビヤ文学からロシア文学まで、30の国のコトバを自由自在に、読み書きできたという、正に、語学の天才である。

そんな時、若い評論家が、井筒俊彦を論じた「本」を処女出版した。若松英輔である。はじめての「本」が、井筒俊彦についてというのもすごいことだ。

「読むと書く」に、高野山での井筒の講演会録が入っていて、「存在はコトバである」と、空海、密教、真言の核に、言語学者として、挑戦して、謎を読み解く手法には、驚愕した。

「マホメット」「アラビア哲学」「神秘哲学」と若き日の、井筒俊彦がその思考を深めていく、行程は、実に、スリリングであった。

3・11に関して、和合亮一の詩、長谷川櫂の短歌、辺見庸の詩、(「眼の海」−わたしの死者たちに)=「文學界」は、私のココロを打った。

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• 火曜日, 9月 27th, 2011
「無」からの出発 ~東日本大震災クライシス~
2001. 黄金の蔵がある。ニンゲンの中に、眠っているコトバの蔵が。どうして、人は、耕さないのか、原野を。
2002. 思考の回路さえ見えない、コトバたちの群れ、切れ切れに、文章にさえならぬものたち。言語アーヤラ識のもとに。
2003. 誰もが見ているのに、わからないコトバがある。非・意味のコトバだから。
2004. 狂へと至る道であるかもしれないが、マラルメは、果敢に挑戦をした。そして、日常へと戻ってきた。(美)を携えて。
2005. (私)は斜面にいる男だ。だから、いつも、手足を動かしていないと、深淵へと、滑り落ちてしまう。
2006. 3・11以後は、ニンゲンは、静かに生きられない。危機の意識が、全身に貼りついている。
2007. 科学の(知)は、原爆でも原発でもなく、宇宙へと、むかわねばならない。
2008. ニンゲンの(生きる−死ぬ)というコンセプトを爆破できないものか。
2009. 物質と生命の交流が可能であるならば、その壁も、いつか、突破せねばなるまい。
2010. 宇宙が、一切を記憶しない装置なら、ニンゲンの、生き死にも、何も、残らないだろう。無・意味の時空であるか?
2011. 国を責めても、政治家を責めても、科学者を責めても、東電を責めても、のっぺらぼうになった故郷は、元に戻らない。死者たちは還らない。毎日毎日穴ぼこになった心に、杭を打って生きていくしか術がないのだ。
2012. ビジョンを喪ったから、途方に暮れるのではない。自立するための、足場が崩れているのだ。今、(私)は、野ざらしになっている。
2013. 細い、透明な、糸が、蜘蛛の巣のように、切れ切れのネットワークを作っているから、故郷訛の声で支え合っている。
2014. 誰もが、生きるための、常識として知っていたものさえも、崩れ去ってしまって、仕事、家、故郷、文明、資本主義、昨日まで、普通に考えていたものまで、幻となって、漂いはじめた。
2015. 滅んでしまったものは何だろう。終ってしまったものとは何だろう。大きな、大きな、心の柱としてきたものが、3・11で蒸発してしまった。深層意識から湧き出していたコトバさえ、死んでいる。役に立たない。種子も、渇れたか?
2016. それほどにも、生きているということは、確かなものであったのか?生存の、実在の、根を洗わねば、新しい(私)は、見えてこない。
2017. 幽霊とまではいわない、幻とまではいわない。空で、光って、消える、ひとつの光子の存在に酷似しているニンゲンである。
2018. もう、ニンゲンを終ってしまったから、これからは、新しい生きものとして生きるよ!!何?誰?X氏?
2019. 3・11は、ものの見方も変えてしまう大事件であった。眼の使い方まで変えねばなるまい。
2020. 生きても、生きても、答えはない。つまり、最終的な答えというものがないのだ。あるのは、絶えず、問い続けること、そして、突然、倒れてしまうこと。
2021. 原発を終わらせることができないと、理論を論理を展開する人たちは、結局、昨日までの、自分達の生存の原理を、棄てる覚悟がないのだ。
2022. アフォリズムに問いはあるが、答えを出そうとは思っていない。いつまでも、問い続けるだけだ。
2023. 「資本主義は終った」と、3・11以後の学者たちが語る。いったい、どんな場所にたって、どんな位置にいて、モノを言っているのだろう。中小企業の社長たちには、口が裂けても言えないコトバである。
2024. ああ、気が塞ぐ、気が塞ぐ、3・11からの(私)の病気。
2025. もう、気が晴れることはあるまいって。3・11以後は、笑うことができない、心から。
2026. 身に降りかかる日の粉の払い方には、その人の人格がでる。放射能であれば、思想がでる。
2027. トルストイは、人の道を求めて、(聖)に至ろうとした為、心身症になった(俗)な妻に追い出されて、頓死した。ドストエフスキーは、(狂)に生きて、存在そのものが分裂したが、(魂)を求めて、妻に救われた。
2028. それでも、草は、生えてくるか!!瓦礫の間から、何もなくなった地面から。ニンゲンも、夏草とともに生きるべし。
2029. 3・11のあったあの日から、一人の死者・X氏が(私)の内部に棲みついた。で、(私)の話し相手は、いつも、死者のX氏である。生者は、あれこれと迷ってしまうが、死者は、迷わない。
2030. 時間に、冥界の色が見えはじめたら、そろそろ、お別れの時がくる。どうだい?
2031. めっきり他人には会わなくなったが、木や草や、植物たちの賑わいには、毎日会って、驚いている。
2032. 木に風が吹くと心が感応してしまう。どうやら、垂直に立つ木に流れる時間を見てしまうようだ。
2033. 起きそこなったから、永遠に、その時を失ってしまった。仕方がない、眠り続けるしかないか、目覚めが来ても。
2034. 言語爆発を起こすか、完全に、沈黙しているか、3・11以後には、どちらかの姿勢をとるしかない。
2035. 「読む」と「書く」が一緒になる地点というものが、確かにある。
2036. 原発事故は、「収束」から「終息」へとむかわねばならなぬ。
2037. 在るということの発見こそ、最初の驚きだ。そして、在る、は、多様に分化しはじめた。もちろん、最後のひとつの形態は、無いだ。
2038. 一番簡単な(在る−無い)という存在の形態だが、いつまでたっても、納得のいく説明ができない。
2039. 存在を、実在に限定してしまうと、存在を支える、もうひとつのものが、隠れて、見えなくなる。
2040. 意識は歩く。どこまでも行ってしまうものの名前が、意識である。
2041. 歩けなくなってしまう、領域が、無・意識である。それは、意識に対する無意識ではない。
2042. ニンゲンの発見した、論理、数式、理論が、ことごとく通用しなくなった時代が、アインシュタイン以後であるか。
2043. (私)に、死者を、重ねて生きよ。(私)は、死者X氏を、(私)の内部に顕現させた。いつも、X氏と対話だ。
2044. 奇妙な日常だ。奇妙な時空だ。3・11以後は、希望の火が、幻に変わった。まだ、変わるものはない。
2045. ふわふわとしている。歩いていても。心の、意識の岩盤に穴があいている。
2046. 嘔吐ばかりする。あらゆるものと握手ができない。
2047. (私)という存在の形を、受け入れることが、だんだん、困難になってくるとは。
2048. 決して、早まってはいけない。短気はよくない。潔さは、わかっているだろう。本当の、解決にはならないのだ。
2049. 日常は、だらだらと続くものだから、だらだら坂を登る方法を身につけること。
2050. ニンゲンには、他人と語る時間がいる。ニンゲンには、一人になって、考える時間がいる。どちらが欠けても、ココロは、跛をひいてしまう。
2051. やはり、科学は、宗教と対立しない。日本人の生活形態を視よ。毎日、会社でコンピューターを使いながら、お盆になると、先祖の墓参りをする。
2052. 結局、ニンゲンは、平気で、矛盾を生き、不合理も不条理も受け入れてしまう。
2053. 終日、蝉の声を聴いていると、声が、呪文となって、すべてが、その中にあると思えるから、不思議だ。
2054. 時の流れが加速している。千年が百年に、百年が一年に、一年が一日に、一日が一秒になってしまうほどに、ニンゲンは、時を廻している。
2055. ニンゲンは、何を、待っていられないのだろう。昼と夜の、自然の(時)に合わせて、今を、ゆったりと、呼吸しながら、生きていたのに。現在では、夜もなく、昼もなく、(時間)を計って、生きている。
2056. 夢か現か、どんな方法で、何を計れば、3・11がわかるというのか。
2057. 確かに、確かに、(私)のココロの水準器は壊れてしまった。3・11以後は、調子はずれのコトバばかり吐いている。
2058. 被災者たちは、現に戻ろうと、必死にもがいている。しかし、完全に醒めてしまうと、現は、まるで夢のようで、3・11を、そのまま自分に言いきかせることは出来ないだろう。
2059. 3・11で、何が、無効になったのか?それまでは、役に立つと思っていたのに、まったく、役に立たなくなったものたち。棄ててしまえ。
2060. ニンゲンは、なぜ、いいと思われる方向へと舵を切れるのか。
2061. 損、得を超えたところにある、いいは社会の、常識の、いい、わるいではない。
2062. 毎日、読む、毎日、書く、宇宙の縁に坐って。
2063. 科学は、宗教を排除しているのではない。内側から侵蝕しているのだ。
2064. (私)を読む、(私)を書く、はじまりからおわりまで。
2065. その位置を支える。その場を支える。支える時、人は、生きている。
2066. ニンゲンは、どこまで(私)を、コントロールできるのだろう?(私)が(私)に重なっているうちはいいが、(私)が(私)から遊離した時、ニンゲンは、はたして、正気でいられるかどうか?
2067. 何が(私)をしているのか?
2068. 声が(私)を呼んでいるのか?(私)に声が来るのか?その境目は、誰そ彼れの時間に似ていて、杳としている。
2069. 眼の前に在って、眼の前にはない、つまり、異次元を、そのまま、視ているのだ。父の死後、(私)に迫ってきた動画。
2070. 何度か、(私)も、ヴォワイヤン(見者)になった。その時、その瞬間は、詩人であった。
2071. 生きているうちにも(私)は変わり続ける。まるで、一生のうちに、輪廻転生が起こっているみたいに。(私)は、別の(私)になる。
2072. 3・11以後は、見えないものも見える。死者たちが、顕現した、そこでは。
2073. 文章の、シンタックスが変わらねばならない。思考そのものが、考えるということが、変わらねばならない。(考え方を、変えるのではない)
2074. て・に・を・は・の、使用法を終らせること。つまり、切れ切れの、モノが、放り出されているように、文章も、時空に、存在として、散在している、おそらく、そのくらいの、大きな変革が、3・11には必要である。
2075. で、新しい、「読み方」と「書き方」の出現が必要となる。
2076. (考える)が何であったか、根本から考えることだ。
2077. 3・11で、1億2千700万人が、瞬時に見たもの、その視力の先にあったもの、共時的に、全員が体感したソレだ。
2078. あと一歩がとどかない。危機一髪で目が覚めた。夢だったのか、と思っても、夢のリアリティは消え去らない。冷汁がでる。
2079. (現実)よりも、夢の力が強い日々が続くと、眠るのが怖くなる。寝ても覚めても、夢に、喰い千切られる、心。
2080. 夢は、夢だけでは終らない。(現実)の、生身の(私)の中にも、深く、鋭い、夢跡を残してしまうから。
2081. 夢という灯がつく。(私)という窓から、眺めている、もうひとつの宇宙だ。
2082. 自分のみた夢を、一生涯、書き綴った、禅僧、明恵の「夢日記」。夢の放つエネルギーに、正気と狂気の紙一重の、淵に起たされて、耐えた力に感服をした。いったい、明恵は、どちらの世界に生きていたのだろう。
2083. 人生を、文学的に考えないこと。考えるからこそ、人生はあるのだと。
2084. 言葉が成熟しない人は、淋しい人だが、決して、その人の、人生が成熟していないのではない。おそらく、人生は、時熟とともに、在るのだ。
2085. 棄てたものが、多いから、失敗したのではない。棄てて、棄てて、やっと摑んだ、最後の一本の糸で、充分だ。
2086. カフカも、やはりアフォリズムを、日々の友としていたか、夢と一緒に。
2087. 思考に、心臓を摑まれた者は、無限へと身を投じるしか術がない。
2088. もう少し生きてみようと呟く時、分身は、死の淵を覗いている。
2089. 千分の一でも、宇宙がわかったらと、友達が言うから、君だって、無限そのものだろうと、針を刺した。
2090. 思考の糸がとどかぬもの、決して、名付けられぬもの、それよ、問題は。
2091. 形態が変わることは、必ずしも、(死)を意味しない。(私という死体)
2092. (私)=(私)というアイデンティティには、意味がない。(私)は変わるXだから。
2093. 形は、単なる物象化である。魂は、形を解き放っている。
2094. ニンゲンは、なぜ、(物体)という物象化された(私)に固執するのか?コズミック・ダンスを踊り続ければいいのに。形態は、一時的なもの、変化は宇宙の法。
2095. (死)は、パンクかもしれない。自転車のパンクは空気が抜けるが、ニンゲンのパンクは、いったい、何が抜けるのだろう?死体を残して。
2096. 「言語による暴力」とはよく使われる言葉である。しかし、言語に暴力をふるうと、いったい、どうなるのか?新しい言語の発生?
2097. コトバで、表現できると思うのは、第一歩だ。コトバでは、表現できぬと思うのが第二歩だ。しかし、すべてのコトバが、次元をステップしてしまって、異次元においても、存在として、成立する時、コトバは、すべてを顕現させると思う、第三歩である。
2098. コトバは、コトバでなくなって、しかも、コトバのままである。メビウスの輪のように、コトバも在る。
2099. 呪文とか、念力とか、現代人が棄ててしまった、力が、実は、心の底の、深層意識の中で、ふつふつと煮えたぎっている。出口を探して。
2100. 意識そのものを、呑み込んでしまうのは、やはり、のっぺらぼうであろう。
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• 月曜日, 9月 26th, 2011

(私)を訪れるコトバで、一人のニンゲンを表現してみよう、と考えはじめたのは、アフォリズムが、100本を越えた頃からだ。

ひらめき、直観、思いつき、イメージ、感覚、ビジョン、幻、夢、意識、あらゆるものが、深層意識の蔵から、種子となって、立ち現れ、(私)のなかで、コトバになる。

毎日、毎日、ソレが来た瞬間に、ノオトに書き記してみた。純粋語に近いものかもしれない。

思考というものでもない。論理でもない。やはり、アフォリズム(イデア)であろう。

小説や評論とちがって、アフォリズムは、ソレが来なければ、書けない。計画して、思考して、書いているのではないから。

それにしても、2000本、コトバにしてみると、(私)というニンゲンに、こんな膨大なコトとモノが、訪れているのか、と我ながら、呆然とした。いったい、誰が、語っているのだろう!!

日々、見過したり、忘れたり、流したり、見棄てたり、(私)の外側で、消えて、死んでしまったはずのコトバが、集結して、結晶となった。

あとは、読んでくれる人が、そのコトバから、次のステップへと、歩を進めてほしい。あなたの、アフォリズムが誕生するかもしれません。

(私)は、行けるところまで行く覚悟です。

(平成23年9月19日)

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• 月曜日, 8月 29th, 2011
「無」からの出発 ~東日本大震災クライシス~
1901. 3・11の、その日のことを語れば(私)が壊れてしまう人がいて、語らなければ(私)が壊れてしまう人もいる。
1902. スベテが無役に終ったから、コトバの本来の力を信じて、最後のコトバ、呪文を唱えてみる。
1903. 善とか悪とか、信とか疑とか、「人間原理」で生きることに倦み疲れた時には、無限とか無とか、超球とか虚とか、「宇宙原理」に触れて、ココロを、宙に、浮遊してみる。
1904. ニンゲンは、魂魄である。古代人は言った。天から来たものは、天へ、魂。地から来たものは地へ、魄。(私)は死んだか。
1905. 艱難辛苦のセイカツである。四苦八苦の人生である。すっかり終ってしまうと、透明になって、軽々とした。文句もない。
1906. 3・11があって、ココロが日々のあれこれから、異次元のあれこれへと、遊泳しはじめたので、逢うものたちが、まったく、姿を変えてしまった。
1907. 真夏の、朝の海、太陽と水と空と実にシンプルな光景である。無限も永遠も発見できる。
1908. 海が、黒々と、垂直に、天から来た3・11である。
1909. ニンゲンの顔が、のっぺらぼうになってしまう3・11であった。畏怖である。
1910. 僧も、また打つ手なしの3・11だ。
1911. 3・11以後は、心の破れ目に、傷に、どこまでも、伴走してあげる覚悟がある。
1912. 意識の形象化が爆発して、光の乱舞する混沌に、3・11があった。
1913. 生者たちの夏が終って、死者たちが、光となって、はねているお盆の海である。
1914. こんなところで、こんなことをしている場合じゃないのに。3・11以後は、誰もが、そう思って、生きてる。しかし、ついつい、昨日の習慣に縛られて生きてしまう、ニンゲンであるか。
1915. 切りのない、果てのない、無限地獄に落ちてしまった3・11。誰も、歩き方がわからない。
1916. 3・11の空虚(そら)は、開いたままの空虚(あな)である。
1917. 歩いて、歩いて、新しい実存(みち)が出来あがるまで、(私)の中心に心柱をたてて。
1918. マラルメは「虚無」へ。空海は「自心源底」へ。(私)は、「宇宙」のヘソへ。
1919. 確かに、誰かが言っていた。「魂は、ニンゲンが死んでから顕現する」と。なるほど。三陸は、魂たちの海か!!
1920. 光の、「分光器」があるならば、コトバの「分言器」もあるだろう。悲しみの「分心器」もあるのだろうか?
1921. 国は、何時、本当のことを言うのだろう。千人、千五百人、三千人・・・子供たちがフクシマから逃げ去っているのに。
1922. 歩行は、一番の気付きの場である。3・11の現場を歩いてみる。
1923. 気付きの後には、思考が来る。思考の後には、行動が来る。
1924. 「日常→非日常→日常」の経験の中で、東日本大震災からの、本物の思想が起ちあがるものと信ずる。
1925. (私)にとって、生きている(現場)が「本」であった。
1926. 「本」を読む以上に、生きた現場を読んできた。
1927. アフォリズムは「本質直感」(プラトン)かもしれぬ。
1928. 生きる現場を離れて、なんの思想ぞ、その思いが(私)にはある。
1929. 「気付き」の起点がなければ、何もはじまらない。「気付き」から思考へ、実践へ、探求と深化の旅がはじまる。
1930. 3・11では、「宇宙原理」が顕現した。いつも、普通に生きている「人間原理」が役に立たなかった。ニンゲンに、生きものたちに関係なく、廻っている「宇宙原理」である。
1931. 日常では、あらゆるコトとモノに意味と名前を付けてきた。3・11では、名前のない、のっぺらぼうが出現して、無・意味、非意味という現象に驚愕した。
1932. 時空も、また、存在自体の兄弟なら、消えたり、現れたりするシステムの秘密をニンゲンに告げてくれ。
1933. ニンゲンの、何が、どのように、宇宙に残るというのだろうか?眩暈がして、上手く、考えられぬ。生命の出現は、宇宙にとっていったい、何なのか?
1934. 存在という蔵を、開けてしまう鍵があれば、文句はないが、まだ、どこにも、見つからない。
1935. 終日(考える)ということを考えていたが、異次元へと飛翔する思考も、日が蔭って、夜が来ると、(私)のもとへと還ってくる。そして、夕食を食べている(私)。
1936. 神という、どの国にもあるコトバで、神を呼んでも、(神)は、神というコトバの中には、決して納まらぬ。
1937. 感動も虚無も分析を拒否する。語りはじめるのは、時が流れて、大きな渦の中から、外へと、出た時に限る。直後には、必ず、体験とコトバが分離してしまうから。
1938. 3・11で、意識の、存在のゼロ・ポイントまで落ちたニンゲンは、切れ切れの一日を継いで、立ち直って、今度こそ、固有の(私)の歩き方を、身につけねばならない。
1939. (私)をあらゆるものが通過していく。ニュートリノからコトバまで。
1940. 眼が出現してから、もう、何十億年になるのか?そう遠くない時に、眼は、今は、まだ見えない放射能まで見てしまうだろう。
1941. 心的な、神的な、コトバが来る。ほとんど啓示である。彼方から深層意識の、アラヤ識から。
1942. フクシマの子供たちが怒っている。「放射能よ、千年地下で眠っていろ!!」
1943. 真夏日に、帽子に、長シャツに、マスクをして、フクシマの子供たちが学校へ行く。蝉、鳴くか、馬、嘶くか、子供たちは、泣いている、夏の盛りに。
1944. 文句も言わず、愚痴もこぼさず、もう、すっかり、本当のことがわかっているので、フクシマの子供たちは、叫び声を噛み殺している。
1945. 無関係の関係の時代は確実に終った。フクシマは遍在する。地球上のどこにでも遍在する。
1946. ヒロシマに学び、ナガサキに学び、いったい、日本人は、何を学んできたのだ。もう、最後だ、フクシマに学べ。
1947. 素手で生きるしかない。素足で歩いている。着のみ着のままで逃げた。家をなくし、家族をなくし、仕事をなくし、故郷をなくし、これ以上、喪うものがないくらい、深手を負って、ニンゲンの限度で、起っているフクシマの人々。
1948. 誰だ、一年で、帰れるようにする、と寝言のようなことを放言するのは。本当のことが言えなくて、耳触りのいいコトバばかり並べたがる。あなたには、その椅子に坐る資格がない。
1949. フクシマの県知事の顔は、ニンゲンの顔をしているのに、国会では、猿のような顔した政治家が、無為無策の、戯事で、時間を浪資している。死ぬほどに働け。
1950. 原子力発電を推進してきた専門家が、テレビで、言い訳ばかりしている。フクシマに行って放射能を除染しろ、汗にまみれて。あなたの(知)は、見事に死んだのだ。
1951. アインシュタインよ、あなたのE=mc²は、終に、原爆投下から原発事故まで生んでしまった。そちらから還ってきて、一瞬で、放射能を消す方法を発見してくれ。
1952. ニンゲンは、生命史、38億年を、破壊しようとしている。
1953. 大の大人が、拳で、涙を拭って、凝つと海の方を眺めている。沈黙よりと深い、静けさの中で。
1954. ニンゲンに見放された牛が、青空に脚をむけて死んでいる。
1955. 夏である。66度目の夏である。8月6日、ヒロシマの夏。8月9日ナガサキの夏。疼き続けている原爆の傷口。3・11、フクシマの春。原発の、大地震の、大津波の、三重苦、四重苦の終息すら見えない。
1956. 何も、コトバは、文学者だけの特権ではない。自分のコトバを持たぬ人は、政治家ではない。コトバを正すことこそ、為政者の勤めだと語ったのは、孔子である。(正名論)
1957. 答えられなくなると、詭弁を使って逃げる。その時、あなたの中の政治家は死んだのだ、総理。
1958. どうして、3・11の被災者の誰もが、なるほど、と頷けるコトバを、現代の政治家は、語れないのだろう。一人の死者を、あなたの心の中に、意識の中に、棲まわせておけ。
1959. まだ、3・11から5ヶ月だというのに、もう、原発が、(現実)のセイカツに必要だと言いはじめた。商売の国。延々と、国民的な議論を続ければよい。今、日本人が試されているのだ。旗を高く揚げよ。(現実)は、いったい、誰が作るのだ。効率と便利さと快適を求めた(知)の文明が、犯した、大失敗が、もう、遠のいてしまうのか。冗談であろう。(考える)その力が衰えれば、ニンゲンは、本当に、滅ぶ。内省と洞察。
1960. 誤ってしまった大人が持てる、最後の使命のようなものを、未来の子供たちのために、掲げよ。
1961. 光から来たから光へと帰ろう。私たちは光の子。光の化石の子。
1962. 闇から来たから闇へと帰ろう。私たちは闇の子。ダーク・マターの子。
1963. 科学の(知)は、過去へとは戻れない。宗教の(智)は、いつでも過去へと戻っていけるが。
1964. 3・11で、ニンゲンも、存在の泡であると、思い知らされた。
1965. 腰が抜けて、歩けない人に気を落とすなだって、もう、とっくに、気は落ちているのに。
1966. 着のみ着のままで、すべてが流されて、やっと、体育館にいる人に、禁句を聞く、TVのレポーターがいる。
1967. 大震災の後のアルバム探し。七五三もあったよね。運動会もあったよね。お祭りも、卒業式も、結婚式もあったんだね。ホラ、笑っているよ。
1968. 毎日、夜が来ると泣いている。仮設住宅で。体育館の避難所では、一滴の涙も出せなかったのに。
1969. 若い頃は、(私)だけで生きている、なんて、とんでもない思い違いをしていたが、3・11で、よーくわかった。みんなに、生かされているって。愚かだったね。
1970. 苦も、楽も、生きてこそ。
1971. なにか、不安はないかと訊かれても、不安は、いつも、べったりと貼りついているよ、3・11以後は。
1972. (無)ゼロ・ポイントから、ニンゲンに戻るには、容易ではない。まだ、ニンゲンの顔、してないと思うよ。
1973. 大地が揺れてから(私)が何処にいるのか、わからなくなった。
1974. 信じているものが、ない、とわかったことが、実に、辛い。何を、どこで、間違ったのだろう。
1975. (私)の中にあるものしか見えない。(私)の中にないものは見えない。
1976. 生きる、は、共に在ることだと、この齢になって、3・11で、はっきりとわかった。
1977. (私)は私だ。(私)は私ではない。やはり、(私)は私だ。「(私)は他者だ」と言い放った、ランボーの声が、身に沁みてくる。
1978. 瓦礫の隙間に夏の花が咲いている。美しい。(私)は、花と生きている。
1979. ただの、道端の、瓦礫の下の石ころも、存在し、顕現するまでに、どれだけの時間がかかったか、考えてみる。物自体の不思議がある。
1980. お願いします。(私)を棄ててから、声を掛けて下さい。(私)に重なるように。
1981. 人を嬲るような発言は止めて下さい。形式的な、ありそうもない、虚言を、もっともらしく、正しいこととして、話すのは。
1982. 身体そのものが、封じ込めてしまっているコトバがある。
1983. 宇宙の顔のようなものに触れてそのまま、失神をした。
1984. 身体が痙攣の中にいる時には、コトバも、アヤラ識から湧きあがってこない。
1985. 在る、無いが、こんなにも、はっきりと、形になる経験は、一生に一回で、けっこうである。
1986. 叫びたいのに声がでない。何かが声を呑み込んでしまう。歩きたいのに足が前へと出ない。何かが足を縛っている。
1987. 酷いことだ。子供は風の子。昔から、外で遊ぶと決まってる。フクシマでは、カーテンの内に閉ざされて。
1988. 千年に一度の大地震と言うが、東北、三陸地方の人たちは、明治二十九年の津波、昭和八年の津波、昭和三十五年のチリ地震津波と、平成二十三年の、今回の大津波と百数十年のうちに、四回も、大被害を受けているのだ。
1989. 発狂しないのが、不思議なくらいの、すべてを喪った人たちがいる。どうか(私)が(私)から離れてしまわないように。
1990. 海の底の声、空の上の声。枕許で響き続けておる。
1991. 偶然という魔の恐怖。一切、排除の術がない。
1992. 浦安市、旭市、大洗、ひたちなか市、北茨城市、いわき市、広野市、大熊町、双葉町、浪江町、富岡町、南相馬市、新地町、名取市、仙台市、南三陸町、大槌町、石巻市、南松島市、大船戸市、陸前高田市、宮古市、釜石市、八戸市、(私)が訪問した街である。歩いた街である。泊まった街である。仕事をした街である。共働で、事業をした街々である。あの家、この家、海、山、川、幻が揺れている。
1993. 何億、何兆、何京の生命たちが、この星に生れて死んでいったか。生命の連鎖の果てに、ニンゲンが現れて、(私)が誕生した。ニンゲンの死だけは、不条理である。不可思議である。信じようにも、信じかたがないのだ。もちろん、3・11の死者たちも。
1994. 石や壁や水に記憶はあるのか?つまり、宇宙そのものが、宇宙に起こったことを、記憶できるのか?ニンゲンは、何もないところへと、出てしまうかもしれない。
1995. 一切が(無)、一切が(空)、中国人、インド人の思考は、ひとつの発見ではある。
1996. 深層意識の、一番深いところへ降りて、果たして、宇宙そのものに、遭遇できるのだろうか。
1997. 昔、村に、鉦つきのおっさんがいた。村に、死者がでると、鉦を叩いて歩いて、村中を廻るのだ。妙に、その鉦の音を思いだすのだ。虚空に鳴り響いている、その音は。
1998. 3・11の巨大な空虚をうめるコトバを、ニンゲンが発見できるわけがない。
1999. 空に光子のダンスがあるうちにニンゲンそのものを味わい尽くすのだ。
2000. 夏の光の賑わいの後には、秋の光の寂寥があって、魂たちが、コズミック・ダンスを踊っている。(私)という魂も参加をしよう。
(H23年8月23日完)