Author:
• 木曜日, 2月 23rd, 2012

空海には二つの顔がある
右の顔は空海
左の顔はオダイシサン

四国では、空海は、人間ではない。
神・仏のオダイシサンである。人間扱いをする風土ではない。しかし、聖なる神として高みにある存在ではなくて、日常生活の中に自然にいる、悲、苦、痛を救ってくれる、親しみのある、仏さま、オダイシサンである。

私の祖母キヨは、明治の生れで、百歳まで生きた。文字も読めず、耳で生きる女(ひと)であったが、正直で、他人には優しく、朝夕、必ず仏さんを拝み、オダイシサンを信じて、成仏をした。オダイシサンを、空海だとは、一生、知らなかっただろう。何しろ、仏であって、人間ではないのだから。

昭和の三十年代までは、村では、念仏諸というものがあった。農作業が終って、疲れた身体にムチを打って、女たちは、お寺に、念仏をあげに行くのだった。寺は、学校であった。道徳、倫理、そして、仏教による人の道を説くのが、お寺の、僧の役目であった。文字も読めず、学問もない、村の衆たちが、仄暗い寺の、広間で、車座になって、大きな、珠数を廻しながら、真言を唱えるのである。

夜道を、提灯を下げて、祖母に手を引かれて、寺へ行った記憶が五十年以上経った今も、鮮明に刻みつけられている。

もうひとつの、少年時の記憶がある。
「昇、ホラ、お接待せんかい、お遍路さんが来とるやろ」
「お祖母ちゃん、何やったらええん」
「お米があるやろ、一合で、ええじょ」
台所の、奥の、暗がりに、米櫃がある。枡で掬って、小走りに、庭先へ出て、お経を唱えている、お遍路さんの、首から吊した頭陀袋に、お米を入れるのだった。そのお米の落ちる、サラサラという音が、耳の底に残っている。

お米、十円玉、ミカン、柿、季節によって供物が変わった。庭先に、腰を掛けて、お茶を呑みながら、祖母と、話をしていく遍路もいた。

お遍路さんとはどんな人か、何処から来て何処へ行くのか、いったい、どんな目的で、一軒一軒、家を尋ね歩いて、なんのために、お経を唱えるのか、何時も、立ち去る後姿を眺めながら、不思議に思った少年時代であった。

さて、村から、念仏諸が消え、学校では、宗教教育が消え、お盆の墓参りと、お葬式の時にしか、お寺や宗教と、縁の薄くなった、現代という時代に、信仰や遍路を、改めて考えるのも、皮肉なことである。日常生活に、普通に、自然にあったものが、どんどん消えてなくなっている。

遍路は、年間三十万人と盛んであるが、歩き遍路は、約一割の三千名くらいだと言われている。ただし、昔のように、村々の、町々の、家々を、お経を唱えて、托鉢をして廻る遍路は見掛けなくなったと言う。

バスで、汽車で、自家用車で、ヘリコプターで、八十八ヶ所のお寺に参拝する。その目的も、信仰や願を叶けるものではなくて、自分探しの旅、都市からの脱出・自然にふれる旅であったり、ストレス解消であったり、健康づくりであったりと、大きく様変わりしている。

空海・オダイシサンを求めて、修行の巡礼であったものが、追善供養も、病気が癒えるようにと願をかける巡礼も、随分と少なくなっている。

どだい、現代の、高野聖はいるのだろうか。

私自身も、四国を出て、東京で、都市生活者として、四十五年、生きてきた。普通のサラリーマンとして、十五年、会社を設立して、経営者として二十二年、ほとんど、宗教とは、縁のない日常生活であった。

3・11の、大地震、大津波、原発事故に遭わなければ、空海との縁も、切れたままだったかもしれない。3・11は、人間の、生きるパラダイムシフトを一変させる大惨事であった。もう、3・11以前のスタイルでは生きられない。意識がゼロ・ポイントに陥った。科学者の(知)という神が死んだ。政治家、知識人、作家、大学教授たちのコトバも死んだ。

誰も、二万人の死者たちに、十二万人の被災者たちに、あてがうコトバを放つことができない。

もう、空海さんしかいない。哲学者、宗教家、芸術家、教育者、土木技師、書家、編集者、万能の人、マルチ人間、生命の全背定者。実践と理論の人、天才・空海の声を聴くしかない。共時的に、空海の声を、現代に、甦らせることだ。

大師信仰の、歴史、資料を、チェックしてみよう。

高野山で入定した空海は、現在も、奥の院で生き続けている、という信仰である。現代風に言いかえると、空海は、いつまでも、私たちの心の中に生きているということであろう。(死)ではなく(入定)と言うのは、禅定し続けている、というイメージか。

空海は、その死後、二百年たって、天皇から、大師の称号を賜っている。(九百二十一年)空海と同時に、シナ・唐に渡った、比叡山の最澄は、すでに、伝教大師に、その弟子の円仁は、慈覚大師との称号を得ていた。第五代の座主、円珍も、智証大師となった。

その他、道元、法然、親鸞、日蓮、一遍と次々に、大師の称号を得ているのに、なぜ、大師といえば空海、コウボウダイシであるのか。そこが、歴史の面白いところだ。

生前、空海は、信仰を通じ、書画を通じ、嵯峨天皇と親交を密にした。筆をプレゼントしたり、唐の話や密教について、語りあったことだろう。高野山は、空海の死後、三度の雷による大火などで、焼失し、貴族の藤原道長の、参詣と寄進によって、復興を遂げている。奥の院への樹木に覆れた森の参道を歩くと、徳川、豊臣をはじめ、仙台の伊達、秋田の佐竹、中国の毛利、織田、明智、戦国大名たちの供養塔、五輪塔、墓が林立している。

真言宗の初期には、なかったものだが、江戸期に入ると、全国の大名、貴族たちが、競って、先祖の霊を祀って、墓石を建てている。

真言宗は、浄土宗の思想を受け入れたのだ。補陀落渡海は、海の彼方、西方に、浄土がある、僧が舟に乗って、死を覚悟して、海へと漕ぎ出すというものだ。

天皇・貴族たちの空海であったが、江戸期になると、伊勢詣、熊野詣に加えて、庶民たちが、高野詣をはじめている。いわゆる、大師詣である。経済、産業の発展で、余裕が生れ、寺子屋が出来て、識字率と教養があがった。ちなみに、兼好法師の「徒然草」は、町民たちが、嫁入りの際に、娘に持たせた、生活・倫理の書としてベストセラーとなった。

四国遍路の案内記や高野詣の紹介本がでるほど、印刷の技術も格段に進歩している。

何よりも、空海の「入定信仰」が、民衆に、オダイシサンによる、救済の信仰の源となった。

そして、高野山復興の為に、お布施をもらい、寄進をすすめるために、全国を歩いた、下級の僧たち、聖、高野聖の存在が、大きな影響を与えている。

高野聖たちは、寄進を請うばかりではなく、情報の伝達者でもあった。密教、真言はもちろん、空海入定の話など、さまざまな話が、地方に拡がって、さまざまな大師説話を作りあげていく。四国では、神変と思われる、奇跡や神的な話が数限りなく伝わっている。

それは、空海が、山岳に独り入って、悟りを得る、孤高の人ではなくて、行動・実践も伴う、教学思想と利他の思想の、双方とも、身をもって、生きたからに他ならない。

満濃ヶ池の修繕、綜芸種智院の設立、川の堤防の修繕など、貧しい人、病気の人、不幸な庶民の為に、身も心も捧げ尽くした、空海であるからこそ、人々は、オダイシサンを求め続けた。

四国八十八ヶ所を、同行二人で巡礼する、遍路という者の一般化も、オダイシサン信仰を、普及させる原動力となっている。

伊勢詣、熊野詣、善光寺参りなど、神・仏をお参りする風習は、古くは、天皇、貴族から庶民に至るまで、信仰のかたちとして、見受けられた。

しかし、四国八十八ヶ所巡礼の旅は、ひとつの聖なる地、一人の神や仏を祀る神社や寺への参拝とは、訳がちがう。規模がちがう。いったい、誰が、千四百キロに及ぶ、八十八の寺巡りを、発想、発案したものだろうか。

不思議な伝統である。

四国は、昔も今も、辺境の地、辺地である。船で渡るしかなかった。山が海にせりだしている為に、道路が造れない。平成の現在でも高知の、甲ノ浦から、室戸までは、電車がない。

遍路には四つの説がある。空海自身が、42歳の時、自ら歩いて廻った説。(なにしろ、阿波、大瀧ヶ岳で、伊予、石槌で、土佐、室戸で修行をし、讃岐は大師誕生の地である)松山の豪商、衛門三郎の巡礼話。弟子の親済説。嵯峨天皇の子、真如親王−(空海の弟子)説がある。

平安末期に、三人の僧が、四国の辺地を廻ったという「今昔物語」もある。

空海が生れ、修行をした聖地四国だけでは、遍路の理由がつかみきれない。宗派を超えて、八十八の寺を結び、歩く、巡礼する遍路たちがめざすものは、マンダラであるかもしれない。8は∞、無限である。辺地は、未知の地、聖なる仏たちのいる、土地である。

(高野山大学大学院レポート)

Category: 空海への旅
You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can leave a response, or trackback from your own site.
Leave a Reply