Archive for the Category ◊ 作品 ◊

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• 金曜日, 2月 08th, 2013

1. 「はじめての宗教論」(NHK出版)右巻 佐藤優著
2. 「一神教の誕生」(講談社現代新書) 加藤純隆著・加藤精一訳
3. 「困ってるひと」(ポプラ社) 大野更紗著
4. 「あなただけの般若心経」(小学館) 阿部慈園著
5. 「梵字でみる密教」(大法輪閣刊) 児玉義隆著
6. 「梵字の書法」(大法輪閣刊) 児玉義隆著
7. 「密教概論」(大法輪閣刊) 高神覚昇著
8. 「インド密教」(春秋社刊) 立川武蔵・頼富本宏編
9. 「チベット密教」(春秋社刊) 立川武蔵・頼富本宏編
10. 「中国密教」(春秋社刊) 立川武蔵・頼富本宏編
11. 「日本密教」(春秋社刊) 立川武蔵・頼富本宏編
12. 「巡礼高野山」(新潮社) 永坂嘉光・山陰加春夫・中上紀共著
13. 「和歌山・高野山と紀ノ川」(吉川弘文館) 藤本清二郎・山陰加春夫共著
14. 「カフカ式練習帳」(文藝春秋社刊) 保坂和志著
15. 「病牀六尺」(岩波文庫刊) 正岡子規著
16. 「日本社会と天皇制」(岩波ブックレットNo108) 細野善彦著
17. 「般若心経秘鍵」(角川ソフィア文庫) 空海著
18. 「秘蔵宝鑰」(角川ソフィア文庫) 空海著
19. 「いのちつながる」(高野山真言宗総本山 金剛峯寺開創法会) 松長有慶講演集
20. 「論文・プレゼンの科学」(アドスリー刊) 河田聡著
21. 「傷ついた日本人へ」(新潮新書) ダライ・ラマ14世著
22. 「街場の文体論」(ミシマ社) 内田樹著
23. 「この人を見よ」(幻戯書房刊) 後藤明生著
24. 「生き抜くための数学入門」(イースト・プレス社刊) 新井紀子著
25. 「コンピューターが仕事を奪う」(日本経済新聞出版社) 新井紀子著
26. 「金閣寺」(新潮社文庫) 三島由紀夫著
27. 「屍者の帝国」(河出書房新社) 伊藤計劃・円城塔共著
28. 「謎のトマ」(中央公論新社) モーリス・ブランショ著 篠沢秀夫訳
29. 「慈雲尊者全集」(思文閣刊) 慈雲著
30. 「街場の現代思想」(文芸春秋文庫) 内田樹著
31. 「こんな日本でよかったね」(文芸春秋文庫) 内田樹著
32. 「知に働けば蔵が立つ」(文芸春秋文庫) 内田樹著
33. 「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(文芸春秋文庫) 内田樹著
34. 「私家的・ユダヤ文化論」(文春新書) 内田樹著
35. 「レヴイナスと愛の現象学」(文春文庫) 内田樹著
36. 「他者と死者」(文春文庫) 内田樹著
37. 「日本辺境論」(新潮新書) 内田樹著
38. 「東と西」~横光利一の旅愁~(講談社刊) 関川夏史著
39. 詩集「トットリッチ」(土曜美術社出版販売刊) 岡田ユアン著
40. 小説「6DAYS」(日本文学館刊) 吉澤久著
41. 「昭和のエートス」(文春文庫) 内田樹著

なかなか、確たる世界・思想・文体を持った作家には出会えないものだ。小説、評論、詩、その他、どんな分野でも、「思考する文体」でなければ、生きている人間を描き出せない。

昨年は、”内田樹”に入ってしまった。どんな人物かも知らず、なんの予備知識もないまま、偶然「街場の文体論」を読んだ。面白い人がいるものだと、手に入るものを、次から次へと読んでみた。

内田樹の”核”は何だろう?自然に、そんな疑問が沸いてきた。

「レヴイナス」と「ユダヤ教」が(核)であった。なるほど、人は、何かを、徹底すると、自信をもって、すべてを語れるものである。
井筒俊彦の「意識と本質」に出会って以来の、興奮であった。日々の感想を書いた作品とは別に、一度は、ゆっくりと論じてみたい”評論家”である。

①娘育て②食べるための大学教師③武術(合気道)生活の現場重視の人である。単なる学問の人でないのが、好感が持てる。思想は、そこからしか、立ちあがってこないから、”信”の置ける言説と生活の人である。

「読むこと」「書くこと」「生きること」の徹底・その三本の柱が、内田樹の強みである。

外務省の官僚で、ロシアで活躍した佐藤優の(核)が、キリスト教、神学にあるのも面白い事実であった。

「困っている人」の大野更紗は、貧しい人々を救うために、ボランティアとなって、東南アジアへ。ところが、本人自身が、”難病”を患ってしまう。つまり、人を助ける人が、他人の助けがなければ、生きられない身になる。

現代の、平成の若者らしく、文章は、乗りが良くて、”難病”も、笑いの渦となって、綴られる。この、陽の気質は、いったい何だろう。”文体”のせいか、本人の、生まれつきの心性が、陽である為か?

思わず、”難病”に苦しんだ、明治の子規の病床ものと読みくらべてみた。泣いて、唸って、怒って、”俳句”を詠む子規。病院の制度の壁に衝突して、たくましく生きる”陽”の大野更紗。
どちらも、”宗教”に走らないところが、急処であろうか?

「文体」、「文章の相」が、明治と平成では、こんなにも、ちがう。同じ”難病”であるのに、光景が別のものに思えてしまう不思議。

”慈雲尊者”の全集を読む。
江戸時代の真言の僧である。世相の乱れに、「十善戒」を説いて、宗派に別れた仏教を、批判し、”釈尊”に帰れと説いた。

貧しい武士の子が、”知”に目覚めて、出家し、四書五経から仏典、神道、そして、サンスクリット語まで修学し、”葛城神道”を、起こした。

先日、慈雲の墓参りに、南河内の山の中を訪れた。人間を離れた地に、現在も、修行道場があった。

「カフカ式練習帳」保坂和志は、小島信夫、後藤明生、田中小実昌、色川武大の系譜をひきつぐ、作家である。特別に何もなくても、語れてしまう。その語りの中に、”妙”があって、読者の、愉しみがある。

奇妙な、思考癖が、四人の共通点である。はじまりもなく、終りもなく、ただ、読む瞬間の文章の中に発生する、なんともいえないリアリティが、保坂の信条であろう。

川端と共に、新感学派のチャンピオンとして、活躍した横光利一(今、どれだけの人が読んでいるだろうか?)をその長篇小説「旅愁」を、関川は、ていねいに、読み解いている。労作である。

孤高の人、ブランショの「謎のトマ」全訳も、篠沢の執念で実った。感謝。

”読書会”をはじめた。大学OBの集りである。近いうちに、市民にも開放しようと考えている。井伏鱒二「黒い雨」正宗白鳥「入江のほとり」三島由紀夫「金閣寺」を読んできた。

”読書の愉しみ”を、一人でも多くの方に知ってもらえればと、始めた会である。東西古今の、現代の名作を、共に読み、語り合う”読書会”である。

大学院(還暦を過ぎて入学)のレポート・テスト・論文を書く為に、ついつい、宗教関係の読書が増えている。

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• 水曜日, 1月 23rd, 2013

千年たっても、二千五百年たっても、人間という存在(生きる−死ぬ)というコンセプトには変わりがない。「諸行無常」の風は吹き続けている。

文明・文化の発展・進歩も、人間という存在の(生・老・病・死)は変えようがない。

いつの時代でも、(生きる)は四苦八苦の生活であり、(死ぬ)は、恐怖と不安に変わりはない。

生活の「安心(あんしん)」から、人間存在の「安心(あんじん)」。つまり、宗教が求められる。

「人となる道」を説いたのは、江戸時代の慈雲尊者である。儒教、神道、禅宗、密教を修学し、天、神、仏に「安心(あんじん)」を求めた博識強記の人で、梵字悉曇の、慈雲流を起こし、葛城神道を唱えた。

宗教の、宗派を疑い、風紀の乱れた江戸の太平に、釈尊に帰れと、「正法律」を唱えた僧である。

「人となる道」は、貴族、武士、町民に、「十善戒」の実践を説いた、法話集である。

人間は、放っておくと、本能で生きる動物になり、決して(人)となることは出来ない。

出家者であれ、在家信者であれ、凡夫の衆生であれ、「十善戒」の実践があってこそ、「人となる道」を歩むことができる。「十善戒」は、密教真言の、身口意を、そのまま含んでいる。「十善法話」は、そのまま、21世紀を生きる現代人にも、有効である。

明治生まれの、栂尾祥雲の『真言宗安心読本』は、古代から近代に至る、宗教の「安心(あんじん)」説を展望して、自らの「根本安心(あんじん)」の確立への道を説いた本である。

栂尾祥雲の「根本安心」を読み解く前に、中村本然著「密教の安心(あんじん)」にそって、仏教の「安心(あんじん)」の歴史を追ってみよう。

①釈尊の「安心(あんじん)」は涅槃(ニルヴァナ)である。
(生、老、病、死)の人間世界苦を自覚し、発心をして、出家、修行、その仏果として、煩悩を棄て、業(カルマ)を絶ち、解脱して、一切の迷いのない「安心(あんじん)」の境地・涅槃へと至った、覚者、ブッタである。「戒、定、慧」−仏教の誕生である。

②浄土宗(法然)念仏を唱える「安心(あんじん)」
ただ、ひたすら、南無阿弥陀仏と念仏を唱えて、浄土へ、というシンプルな、浄土宗の手法は、大衆の間に、人気を博して、「安心(あんじん)」を約束した。

③浄土真宗(親鸞)信心する「安心(あんじん)」(他力)
阿弥陀仏の本願を信じて、浄土への往生を願う「安心(あんじん)」、不動の信心をもつ、他力による救いの「安心(あんじん)」。
妻帯し、僧でもない、俗でもない、信心の人・親鸞の、真宗は、貴族のものであった仏教を、武士から庶民へと拡大し、隆盛を極めた。鎌倉新仏教の祖師。念仏を弾圧され、遠流となり、還俗した。悪人正機説をといた「歎異抄」は、現代でも、説得力がある。

④禅宗(道元)坐禅する「安心(あんじん)」
中国で華ひらいた、禅である。祖・達麿。禅は、坐禅によって、一切を超越し、「無」の境地に至って、大悟を得る「安心(あんじん)」である。
直指人心、見性成仏を核とする。不立文字の世界であるが、禅問答は、ダブルバインド(ベイトソン)の理論と同じ、非A、非Bと否定を重ねて、別の位相に至る手法である。
山は山である。
山は山ではない。
やはり、山は山である。

さて、密教・真言宗の「安心(あんじん)」とは何であろうか。秘められた教えの、真言は、口舌の浄土門とは異って、口伝であり、師資相承であり、広く、大衆に説き聞かせるものではない。儀礼と法会が中心であるから、念仏を唱えたり、弥陀の本願を信じたり、坐禅をするといった、シンプルなものではない。

面授でしか伝達不可能な秘教である。
阿息観、阿字観、五相成身観、身に印を結び、口に真言を唱え、意を三昧地に、という三密も、師資相承でなければ、理解、習得が出来ない。

仏教の目的は、仏(ブッタ)になることである。

真言の目的は、即身成仏することである。

発心し、三密の行を実践して、即身成仏をする。密教・真言では、仏になるのではなく、私の中にある仏に目覚めることである。この身、そのままに、仏になるということは、私が大日如来と合体する。入我我入で、大日如来という宇宙が私であると、悟ることにある。

真言の「安心(あんじん)」は、なかなかに、むつかしい。

栂尾祥雲は、古来の「安心(あんじん)」から近世、近代、現代の「安心」を、読み解いている。

「如実知自心安心、菩提心安心、本不生安心、凡聖不二安心、密厳仏国安心の五種は、何れも密宗安心の標的たる絶対不可思議境を異った言葉で表現したに過ぎない」(根本安心)

古来の安心説には、他にも、十方浄土、都率浄土、西方浄土(枝末安心)安心があり、安心及び起行として、即身成仏(理具、加持顕得)三句(菩提心、大悲、方便)安心、そして、起行として、三力(自力、他力、法界力)三密修行(三密双修)光明真言(一密口唱)がある。

起行とは、信心が身口意のはたらきの上に現れた行為、実践のことである。

「安心」と「起行」という分類が、栂尾祥雲の手法である。

栂尾祥雲による、
先人、他者の「安心」説への批判と否定には、いくつかのパターンがある。

①安心を確立した後の起行に属するもの。即身成仏安心、三句安心、三力安心など。
対象(長谷宝秀。三句安心説)否定

②二種、三種の安心を立てる。
「安心」はひとつである。
出家者の安心、在家者の安心と区別し分ける。あるいは、初心者、上級者と分ける。上根、中根、下根と、その人の修行のレベル、知識、階級で分けるなどは、あってはならない。即身成仏できる人、極楽往生できる人と区別するのは、本当の真言行者ではない、と厳しく批判する。(総安心・別安心など)

③経典に、その拠るところの、文がない。説かれていないものは、正統密教の「安心」とは言えない。(定、散二種安心)

では、栂尾祥雲の、真言の「安心」とは、何であろう?「根本安心」の意味は、どのようなものであろう?

「安心(あんじん)」という言葉は、浄土門が使いはじめたもので、真言宗には、江戸時代の、憲深が「宗骨抄」で使用したのが、初出である。

宗祖・空海は、その主著「十住心論」で、「住心」「無畏」「信心」を「安心(あんじん)」と同じ意味で用いている。

栂尾祥雲の着眼は、「住心」を「安心」とし読み変えることにある。言うまでもなく「十住心論」は、心の、信仰のステップを十段階に別け、動物のような、本能のみで生きる心・羝羊の第一住心から、最高の悟りの状態である、秘密荘厳の第十住心に分類されている。同時に、どの宗派が仏果をよりよく得ることが出来るか、理論的に論じた、仏教の構造論ともなっている。

正に、空海の、仏教思想のパースペクティブである。

「大師は安心と云ふことの代わりに住心なる語を用ひ、真言の安心を自ら掲揚して秘密荘厳心を説かれている」(読本より)

「秘密荘厳安心と云ふ中には、如実知自心と云ふことも菩提心と云ふことも本不生と云ふことも、凡聖不二と云ふことも密厳仏国と云ふことも悉く包含され」ていると考えている。

これが、栂尾祥雲の主張する「根本安心」である。

『大日経』で説かれた、六無畏を、六種安心として、それを発展させて、十住心とし、真言の安心とした。

自心の源底にまで至った、空海の、真言の究極のコトバを、井筒俊彦は、マラルメの絶対言語、禅、芭蕉、サルトル、荘子、東西古今のあらゆる言語を分節化して、最高の言語=コトバとしている。

また、人間の(知)を、本能から、学習、メタレベルへと5段階に分類した、20世紀の(知)の巨人、ベイトソンの「精神の生態学」は、空海の『十住心論』と均り合っていて、天才空海の、構造主義が、充分に、現代にも通用することを示していて、興味深い。

さて、現代の「安心(あんじん)」はどうであろうか?

弘法大師入定信仰、高野山浄土信仰、同行二人信仰が一般の大衆に広がりを見せている。これらは、もちろん、「即身成仏」思想からの派生でもないし、祖師空海の時代にはなかったものである。(中村本然)

秘められた教、口伝、師資相承、面授を中心に、布教された、密教、真言も、口舌でもって、大衆に説かねばならぬ時代である。

確かに、念仏や坐禅に比べると、密教・真言は、その宗旨を、一言で言うとなると、なかなか難しい。

梵字、三密、如実知自心、即身成仏、秘密荘厳、本不生、凡聖不二、どれも、言葉を聴いただけでは、わからない。シンプルで、主旨がそのまま伝わるコトバは見つからない。

栂尾祥雲は、大師の御宝号「遍照金剛」を現代の密教安心としてあげている。

どうであろうか?

(平成24年12月21日 高野山大学大学院レポート)

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• 水曜日, 1月 23rd, 2013

日本初の批評家とも言える、中世の人・吉田兼好は、その主著『徒然草』で、人間が生きるための大事、必要なものは、衣・食・住であって、それに、医を加えて、四つが「安心」に生きられる条件だとしている。(百二十三段)「饑えず、寒からず、風雨に侵されずして・・・ただし、人皆病あり。」

八百年を経ても、人間の生活は、倹約で簡素で、シンプルが一番良い。

人類を脅かしてきたものは、天変地異(地震、津波、台風、大雪、火山の噴火、洪水、早魃)からくる飢餓、そして、いつまでたっても、地上からなくならない、戦争である。

誰もが、心が穏やかにくらせる「安心」と「安全」を願っている。

不安と心配のない、生活は、いつの時代でも、人間が願う一番の希望である。

文化、文明が高度に発達した21世紀の人間は、「安心」な生活を実現できたであろうか。

家は、会社は、社会は、便利で快適な電化製品であふれ、車・船・電車・飛行機は、人を、早く、労なく、遠くまで運んでくれる。

科学技術、医療技術、薬、病いは、予防と治療で、克服されたかに見えた。「安心」と「安全」な社会が実現された?
否である。

21世紀は、繁栄の影で、人間が傷つき、疲労し、病み、自死し、失業し、孤立し、苦しみ、悲しみ、悲嘆の底で喘ぎ、人間の存在そのものが、おそろしく、稀薄になった時代である。

この存在の、耐えられない軽さは、いったいどこから来るのだろうか?

もちろん、「安心」して生きている人間は、極く、少数であろう。

家の崩壊、学級崩壊、会社崩壊、そして、人間の、(私)の崩壊である。

衣・食・住・医が無いのではない。物もあふれている。テレビは、CMは、毎日毎日もっと買ってくれ、と叫んでいる。

効率、便利、数値を追いかけて、大量消費を美徳とした人間の、価値観、その手法が、人を、機械人間、働くマシーンにした。

競走に明け暮れて、疲労し、過労に陥って、病気になる、ウツ病、生活習慣病、失業、自殺、そして、ワーキング・プアー群。

「安心」は、どこにもない。衣・食・住すらままならぬ。生活というものが成立しない。将来に、不安を覚える若者、病気と介護におびえる老人。

不安、心配、ストレス、悩み、「安心」を得るための、基盤が崩れているのだ。

現代ほど、釈尊の「生、老、病、死」が、身に沁みる時代もないのではないか。四苦八苦しながら生きる、超高齢者社会が来た。病人であふれる為、医療費で国の財政は破綻寸前である。葬式の看板ばかりが目につく。

正に「安心(あんじん)」が求められる時代となった。しかし、信仰し、信心をして、宗教によって、目覚め、悟り、救われる「安心(あんじん)」にむかう人は少ない。

なぜか?大問題である。

人間は、人間になる為に生きる。
そして(私)を二重に生きる存在である。「社会的な私」と「存在そのものとしての私」である。

(私)には、(私)の場がいる。
ひとつは、社会の中で、仕事の場をもつことだ。もうひとつは、宇宙に生の一回性を生きる存在としての私の場をもつことである。

このふたつが、調和してこそ「安心」が生れる。

ところが、大半の人間が、(仕事=私)と考えて、生きている。地位、職場、役割り。

失業した人は、場がないから、(私)を失う。定年になった人は、名刺、椅子を失うから、(私)を失う。実は、社会的な、職場の(私)を失っただけで、(私)という、存在そのものに眼を向ければいいのだ。

背広を脱ぐ前と脱いだ後では、生きるスタイルを変えればいい。

吉田兼好も言っている。衣・食・住と医があれば、社会のあれやこれやを離れて、私自身を楽しめ、と。

人生の、21世紀の、本当の恐怖・畏怖を味わったのは、3・11東日本大震災と原発事故であった。

マグニチュード8を超える大地震、千葉から青森まで、海浜を襲った大津波、そして、ヒロシマの原爆の何十倍もの放射能を撒き散らしたフクシマの原発事故。

意識が完全に、ゼロ・ポイントに陥った。驚愕で、身振いが止まらぬ、大惨事であった。

3・11は日本人を震撼させた。
おそらく、「安全・安心(あんしん)」という神話が、科学の知が、完全に崩れ去った瞬間であった。その後も、政治家も、科学者も、本当のことを言わなかった。論理も言葉も死んでしまった。「安全・安心」は何処にもない。誰もが直感した。人間の手に負えぬものがある。われらが地球は、決して、安全ではない。科学の知など、自然・宇宙の運動に比べれば、一粒の砂だ。

ニンゲンの、生き方を、変えなければならない。もう、3・11以前の生き方は出来ない。

本当の、「安心」とは、いったい何だろう?

生活の「安心」は、存在の「安心」にかわらなければならない。

何処に、そんな言葉がある?何処に、本当に、「安心」できるものがある?

科学の知は、人間を、論理として、支えてきた。
しかし、21世紀になって、科学の知は、破綻した。

量子力学の出現。光の素粒子は、1が2になり、2が1になる、測れない。決められない。ハイゼンベルグからボームの研究まで。

超数学。ゲーデルの仕事。不完全性定理。
コンピューター。誰も、その経過を確かめられない。

不可測である。不確実である。不可知である。つまり、科学の知には「安心」がなくなった。(神はサイコロを振らない)(アインシュタイン)

フクシマの原発も、実は、人間がコントロールするのは、不可能であった。地球の中に小さな太陽を作ったのだから。プルトニウムの放射能の半減期は十万年である。たった百年も、いや、十年先も、見通せない人間が、原発を、継続するのは間違いである。

宗教の「安心(あんじん)」は、科学の知に支えられた生活の「安心(あんしん)」ではない。

人間とは何者か、何処から来て何処へ行くのか、という大問題、「生老病死」という人間の条件から発生する不安を、凝視し、信仰によって、実践し、「安心(あんじん)」を得る、覚者への道である。覚醒し、悟り、涅槃へ至る「安心(あんじん)」の仏教である。

浄土教は、阿弥陀仏を信じて、念仏を唱え極楽へ往生する、「安心(あんじん)」である。

禅宗は、坐って、瞑想し、「無」へと達して、「安心(あんじん)」を得る。(止観)

真言宗は、三密を実践して、即身成仏を祈る「安心(あんじん)」である。(三昧)

宗教は、「社会的な私」を棄てて、「存在としての私」に向き合う。生活の「安心(あんしん)」ではなくて、存在者の「安心(あんじん)」を求める。山川草木悉皆仏性。あらゆる存在が、宇宙そのものである。

江戸時代の、慈霊尊者は、宗派の争いを超えて、釈尊に帰れと説いた。
信仰、菩提心、21世紀の人間が、発心して、宗教へむかい、「安心(あんじん)」を得るためには、3・11の、未曾有の、大災害と、死者たち、被災者たちを、思えばよい。

家を失い、家族を喪い、仕事を失い、故郷を喪い、3・11以前の(私)を喪い、生存の根を断ち切られ、諸行無常に身を引き裂かれ、「安心(あんしん)」から見放され、せめて「安心(あんじん)」を求めるしか術がない。

水、毛布、灯油、おにぎり、薬、部屋、お金、仕事、対話、そして「安心(あんじん)」が必要であろう。

話せば心が壊れる人がいて、話さなければ心が壊れる人がいて、故郷に帰りたい人がいて、故郷の風景を見たくもない人がいて、東北の被災地は、まだ、まだ、風景まで、痛み、深く、傷ついている。

四泊五日の旅。釜石、大船渡、三陸と、壊れた風景の中を、黙って、歩き、話を聴き、わずかばかりの支援金を渡して、復興と復活と再生を祈り、人々が、傷ついたままでも、「安心(あんしん)」から「安心(あんじん)」へと、心の舵を切れるようにと、念じ、私の心も、共振れして、真っ暗に染って、青い海と青い空が、見えなくなった。

空海さんが、現れたら、同行二人してくれるだろうに。
「安心(あんじん)」を、人々に、説いてくれるだろうに。

「生れ生れ生れ生れて 生の始めに暗く
死に死に死に死んで 死の終りに冥し」 空海−(秘蔵宝鑰)

「安心(あんしん)」も「安心(あんじん)」の道も遠し
21世紀の人間である。
人間に、いったい、何が出来る?
奉仕の気持で生きるだけだ。

(平成24年12月13日 高野山大学大学院レポート)

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• 木曜日, 1月 10th, 2013
2501. 時をゆるやかに廻す為には、光の速さに近づけなければならない。(私)は光になろう。
2502. 宇宙には、光の階段がある。それは(私)にはわかっている。時間は、いつも、変化している。速く、遅く。一瞬が、永遠になる地点まで。
2503. 歩行のスピードで生きているから、ニンゲンには、モノが、等身大で見える。覚醒して、今日も、歩行。
2504. 幻身というものがある。聖者に邂逅することである。至高者に至ることである。凡人には、一生、見えないが。
2505. 無からの旅である。時空も旅をしている。はじまりと同じように、終りも、無へと行こうか。
2506. 原子よ、旅をする時空に、一時、ニンゲンという花を咲かせてくれて、ありがとう。さて、(私)は、いったい、お礼として、何をすればいいのか?
2507. 原子たちが、時空の流れの岸辺に考えるニンゲンとなった軌道と奇蹟は、気絶しそうな道程である。
2508. 十歳の、少年ともなれば、もう、無常というものを感じる、心性が芽生えている。
2509. ”私”の発見があった少年期から、高齢者と呼ばれる老人期まで来て、さて、(私)が存在する、という驚愕は、一向に、色褪せることがない。解決などというものが、まるで、ないのだ。
2510. 3.11は、ニンゲンという存在の、意識の変革の時であったのに、一年と十ヶ月で、もう、単なる事故として、通り過ぎようとするニンゲンの愚かさである。
2511. 苦即是快、快即是苦。苦は快である。快は苦である。苦と快はメビウスの輪である。
2512. 悪徳も、また、秘められた快楽となる。
2513. 無関係の関係でも、”わかる”存在がある。無限遠点にある、二つのものが、反応し合ってしまう、存在の最高の力だ。
2514. はたして、ニンゲンは、考えているのか?考えさせられているのか?
2515. 60兆の細胞には、いつも、風が吹いている。耳にとどかぬ音も声も流れている。あッ、声が。
2516. ニンゲンは、歩く動物だから、いつまでたっても、等身大の歩く視点で、コトとモノを見る。
2517. 宇宙空間を、浮遊して、生きる存在には、上も下もない。前も後ろもない。左も右もない。宇宙感覚である。
2518. 完全消失は、とても、人間には耐えられまい。存在も時空も、蒸発して、特異点の彼方は、無思考。
2519. (食べる−食べられる)という生きものの宿命を生きざるを得ないニンゲンは、(罪)の存在である。決して、潔垢ではない。しかし、(私)を無化して、(罪)を減滅させることはできる。つまり(人となる道)は、あるのだ。
2520. 「出口」なしのニンゲンである。「罪」を犯さない存在はない。
2521. 耐える、我慢する、ニンゲンである。
2522. (自然)そのものが(罪)という世界である。ニンゲンだけが、それを、逃れられる訳がない。いや、ニンゲンこそが、一番(罪)を作り出している生きものである。
2523. 死んで、殺して、食べて、食べられて、生命は(罪)の果てに、大きな、大きな、目的を達成するとでも、いうのだろうか?
2534. 共生、共存は、そのまま、共犯となる。
2535. 土に杭を刺すこともなく、つるつる、つるつる滑っていかねば、世が廻っていかぬ現代の、コトバも流され、結び目もなく、形姿は、見るに耐えぬ。
2536. 誰も、安心などしておれぬ、3.11は、生きものたちの、礎を破壊した。
2537. また、一見、勇ましい、強者らしき、大きなコトバが幅を利かせはじめた。いやな時代の予感である。
2538. どうして、身の丈にあった、顔と顔を合わせた、心臓を擦り合わせる、実質のコトバで、話をしないのか!?
2539. 3.11の被災民の、意識が、ゼロ・ポイントに陥った、身体の芯から放たれるコトバに、もう、政治家の耳は、塞がれている。
2540. <現実>的にと言う時、いつも、ビジネス最優先の思想があって、総合的な生きものへの視点が欠け落ちてしまう。(損か得か)(安心と安全)
2541. (現実)に引き裂かれて、生きざるを得ない、ニンゲンという条件のもとでは、単純な(正義)のコトバも、(正義)の知も、ないのだ。
2542. (知)の最終の審級においても(正義)のコトバが成立しない、だから「出口」は、どこにもないのだ。
2543. 「罪」の上に、身を横たえて、生きている、絶えざる自覚。
2544. (法)を盾にとって、戦っても、それは(正義)にはならない。国際法も、また、(法)のひとつにすぎない。
2545. 「問題」を宙吊りにして、お互いに、「罪」を生きる。
2546. 誰も、(私)は、3.11と関係がない、とは言えなくなった。これからも、ずーっと。
2547. 生きる限り、有責である。被災者に、死者たちに。
2548. 百人百様。十人十色。人さまざま。顔と顔を合わせて、対話をする。どだい(考え)がちがうのだから。断念すれば、争いばかりだ。
2549. ニンゲンの、長年の、文化や文明も、地域に残した無数の爪跡となって、無化されてしまう、「宇宙原理」の空恐ろしさである。
2550. 一切の生きもの、一切の存在、偶然の名のもとに、(法)もなしか?
2551. 大呵する位置に至った人は、もう、現象そのものを生きている。
2552. もう、一切が、とりかえしがつかない。生れて、(私)を発見すると、どうやら、ニンゲンは、そのことに気がついてしまう。で(私)自身を扱いかねて、ああでもない、こうでもない。四苦八苦がはじまる。
2553. 手を焼いて、呵々と高笑いをする禅者になる者もいる。
2554. もちろん、解決も答えもない。光って、消える、現象体である。
2555. 21世紀になっても、古代や中世の闇がニンゲンの中に息付いている。伝統やら幽霊やら。
2556. 人は、どうしても、至高者を考えてしまう。我が身が暗愚だから。
2557. すでに、わかっているものが、生きるという現象の中に顕れて。
2558. (私)の中に、わかりかたがないものは、いくら見ても、考えても、わかる訳がない。
2559. 内にあるものだけが、形となって外に現れる。
2560. 無限遠点と今・ここの結婚。誰が達成したか?
2561. どうにもこうにも、判断がつかぬ時には、矛盾に、わが身を横たえて、生きる。
2562. 思考、論理を蹴とばして飛ぶ。無私の人。
2563. 時空を抜くとは、これまた、途轍もない、ニンゲンの挑戦である。
2564. さて、これから、どうしよう?生の途上では、悩みが尽きない。たいていの人は、何をしようか、と仕事のことを考える。少数の人は、生きること自体を考える。
2565. 生きた後に、ニンゲンができる。だから、死者は、ニンゲンである。
2566. 往生する、仏になる、死者たちに対して、礼をもって、対する意味がわかっただろうか?仏は、ニンゲンになってしまった、存在である。
2567. 死者と対面する時の、あの、名状しがたい、コトバにならぬ瞬間、顔が、どこかへと、隠れてしまう。
2568. そこにいて、そこにいない、直視できぬ、顔の現前と顔の遁走。
2569. 木も草も鳥も魚も水も石も、あらゆるものに、共鳴しながら生きているニンゲンである。だから、日本人は、「山川草木悉皆仏性」を、感受する。
2570. モノに会う、コトに会う、他人に会う、(私)のすべては、そこからしかはじまらない。出会いは、(考える)となる。(考える)ことは、モノ、コト、他人を、向い入れることである。
2571. 哲学が、(他者)を論じる時、おや、何か変だと思わないだろうか?なぜ?と。(場面)が欠けているのだ。(状況)が欠けているのだ。見られたり、考えられたりする(他者)は、まるで、固定された、モノか、人形のようだ。つまり、生きていない。小説は、説明でも、論理でもない。生きている。(描写)がある。で、ニンゲンがいる。
2572. 木が風に揺れるように、生きて揺れる、哲学のコトバが欲しいものだ。
2573. 木の下で、静かに、思惟をする。釈尊ではないけれど。
2574. 風に誘われて、もう一歩、高次のステージにステップをする。遊心。
2575. 垂直に、(私)を刺し貫いているものが見える。
2576. 宗教は、信仰の実践であるから、「聖典」を読むだけでは、わからない。
2577. 人は、建物を、部屋を、「わが家」としたがる生きものである。
2578. 「わが家」は、雨風を防ぐもの、眠るためのもの、以上に、身体化した空間である。
2579. 他人が、異邦人が来て、寝起きしてみれば、「わが家」の意味がよくわかる。
2580. 引越し家魔は、いつも、自らの身体を、あたらしい箱、空間に、置きたい人だ。おそらく「わが家」というものに、我慢がならぬのだ。
2581. おそらく、(部屋を生きる)と(部屋で生きる)は、同じようでいて、まったく、異なるものである。呼吸方法がちがうのだ。
2582. 開かれた「家」、閉じられた「家」。人は、「家」を通過している。垂直に時間にそって。
2583. 時空を所有する、(私)の分だけ。それが「わが家」の基本である。
2584. 人は、いつも、何かを、摂って、生き続ける存在である。
2585. 呼吸と排出。だから、「私は私である」よりも、私は他者(物)で構成されている、と言った方が、正確である。
2586. すべて、他の摂取で出来ているのに、(私)は変容しないと感じ続けるニンゲンの在り方。幻想であるが。
2587. 現象であり続ける(私)に、死は、一瞬の目くらましを与える。
2588. 毎日毎日、他人化しているのに、(私)である不思議。
2589. エネルギーが集まってくる(私)に。そして、エネルギーが逃げ去る(私)から。
2590. 身体で閉ざさなければ(私)は確立しない。しかし、精神は、いつも、(私)を開きたがる。
2591. 漢字は、じっと眺めていると、自然に、意味が見えてくる、不思議な文字だ。「神聖文字」は、天の、カミの声に通じてしまう。
2592. カミは不在でも、漢字を眺めていると、その文字に、カミが、顕現してくるのがわかる。(神)と。
2593. (神)という文字を眺めていると、意識のゆらぎが、(私)を刺戟する。ソレよ!!
2594. 無いものさえも、感じさせてしまう、矛盾をも、漢字は、生きている。
2595. 読んだら、棄てる、書いたら棄てる。土中に埋められても、漢字は、その力を発揮する。道具よりも力強く。
2596. 世界の文字の中で、漢字だけが、文字そのものである。他の文字は、記号にしかすぎない。と感じさせる漢字であるか。
2597. すべてのモノとコトは、つきつめると「始原」に戻る。つまり、また、振り出しに戻ってしまうのだ。で、何?と。
2598. 角をいくつ曲っても、曲っても、里道は、びくともしないで、そのまま(存在している)歩いているのは誰だ?
2599. わからないままでも、歩いてゆけるという、ニンゲンの力は、素晴らしい。
2600. (私)と(あなた)の交響楽の成立が生きられる時間を生む。
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• 金曜日, 10月 19th, 2012
2401. 瑜伽・瞑想は、ポラーニーの暗黙知・ニンゲンのアーラヤ識から湧きあがる、無・意識に眠る、潜在能力を発見する手法である。
2402. 一切は(私)の中に在る。(私)が(私)を生み続ける。で?(私)は宇宙である、と。
2403. (私)とは、他者であり、他者とは宇宙である。
2404. 父と母から生まれてくる(私)は、「天然人間」である。髪の毛や指の細胞から生れてくる(私)は、(私)を生み、その(私)が私を生み、父や母という存在をなくしてしまった「人工人間」である。病いも、老いも、死をも、消し去って、(神の手)を退けてしまう。
2405. 耳がない。3.11の死者たちの声を聞く耳が足りない。
2406. 眼がない。3.11の死者たちを見る眼が足りない。
2407. いい耳を育てたい。いい眼を育てたい。
2408. 一人で来たから一人で行くよ。一緒は、楽しい夢だったけど。
2409. なにもかにも、普通であった。その普通が一番の不思議であったが。
2410. 異次元に投げたコトバは、異次元から来たコトバは、いわゆる言葉の文法と意味を失うか、反転をする。だから、声でも、文字でもない。しかし、コトバである。
2411. 限りない分裂と増殖で、億、兆となって、(私)が来る。つまり、(私)は大日如来であるという秘密の蔵を開く、鍵が、コトバである。
2412. 無為のうちに、一日が溶けてしまう。
2413. 人生に、大欠伸をして、あーあ、しんど。
2414. 非・精神。非・物質。非時空。
2415. 何度も、何度も、出発をしたのに、いつまでも、今、ここに起っている!!
2416. 平成の世を徒然する。水平に、垂直に。
2417. 精神が限界に達すると、胃のコトバに、腸のコトバ、原初の単細胞の声。
2418. 空地で、”猫じゃらし”が風に揺れている。
2419. 土に還る、土葬。空に還る、火葬。分解の王国への旅立ちである。
2420. 子供たちが、夏の光に感応して、自然に、発光しておる。
2421. 快楽から大欲へ。
2422. はるかな、悠久の旅人である、この(私)を、限定された(昨日、今日、明日)という時空に閉じ込めて、生きている、ニンゲンである。目標を、見失うのは、当然である。
2423. 存在がみる夢は、すべて、現実に、実現しなければならぬ。
2424. 「輪廻転生」を信じなくなった現代人も、なぜ、億兆の原子や素粒子が、集って(私)を創るのか、を、説明できない。
2425. ニンゲンになった人間。さて、ニンゲンは、次のステップで、どんな存在になろうとしているのか?(ニンゲン=生死)というコンセプトの破壊と創造が、次なるXを決定するだろう。
2426. 存在を透視する眼、無限遠点からの視点を、完全に獲得した時、(我・宇宙なり)と叫ぶだろう。
2427. まだ、まだ、ニンゲンのレベルは低いものだ。矛盾を解決する手法も知らない。知、理性の外の法則。
2428. 存在としてのニンゲンの、「安心」を語ったのが、釈尊である。つまり、目覚めた人、悟った人。二千五百年の歴史の中で「仏陀」になったのは、たった一人、釈尊のみであるという、驚愕。
2429. そうか、「復活」したのも、イエス・キリスト唯一人である。
2430. 単なる、日常を、生活を、生きるだけが生きることではない。ニンゲンは、もっと、多様に、多重に生きている存在である。眼に見えぬ、透明な、異次元にも、遍在して生きているのだ。さて、信じられるか?
2431. 科学の(知)には、必ず、光と影がある。「原発」、夢の、希望のクリーンなエネルギーには、人間の、コントロールできぬ、10万年の放射能の汚染があった。さて、夢の「万能細胞」=iPS細胞の作製も、光と影を、考え尽くして、光の「病」の治療とは、別の、影をも、熟考しておかねばなるまいって。
2432. 薬を作ろうとしても、毒を作ってしまうこともある。病いを治療しようとして、怪物を生み出さなければいいが。
2433. ニンゲンは、宇宙の中で、自分が何をしているのか、その「真」を知ることができるのだろうか?それとも、「人間同志」の中でのみ意味のある、価値だけを信じて、ただ、生きればそれでよいのだろうか?
2434. 科学の(知)の時代であるからこそ、もう一度、宗教の(知慧)を考え直してみる必要がある。
2435. 「原発事故」は、ニンゲンの「生と死」の意味を、根本から、考え直す、いい機会であった。今、「万能細胞」の作製は、更に、もっと深い、「生・老・病・死」を考えさせる、存在の問題を、提起した。
2436. 生死が終っても、なお(私)は存在する。問題は、その形である。
2437. (考える)は宇宙にとって、何だろうか?
2438. ニンゲンは、無限の一歩手前までの実数を数えられるか?もちろん、不可能である。だから(無限マイナスⅠ)とする。
2439. あとどのくらい(私)という状態を続けられるか、わからない。だからこそ、現象として、実現を、ただ生きるのだ。如実知自心。
2440. 有も生きる。無も生きる。どちらも(私)の中にあるから。
2441. (私)が、空の空なら、もう、これ以上、存在に、固執することもあるまい。
2442. 時空は(私)だから、(私)は、宇宙である。1である。すべてである。
2443. 3.11日に生起した痙攣は、それ以降(私)の中で止むことがない。
2444. 意識が、これ以上は、耐えられぬ、もう限界である、と(私)を放棄した時に、走った痙攣は、(私)の中の暗闇に、存在し続けている。
2445. 頭痛、吐き気、乱反射する光、わかっている、その震源は、闇の中の痙攣にある。
2446. 死者たちの、中にも、眠っている痙攣があるだろう。
2447. 生と死を同時に、駈け抜けたのも、痙攣である。
2448. 泡を吹き、卒倒して、痙攣しているものを、見て、気絶する少女がいた。
2449. ニンゲンには、ふたつのタイプがある。(私)は、私自身から起ちあがる、と考える、(思考)中心の人と、(私)は、私以外の、他のものから、成立し、構成されている、と考える(身体)中心の人である。
2450. 意識は、思考ばかりではなくて、存在そのものをも、分解してしまう。
2451. 身体と精神を止揚するために、瑜伽(ヨーガ)・瞑想が用いられるが、観想は、異次元での、<身体もなし、精神もなし>の実現である。つまりは(無我)であり、(無法)である境地。
2452. 瞬間という場に、花が咲いた。存在という謎を形にして。
2453. 銀河も素粒子も、その顕現は、時間の、空間の、ひとつの結婚状態である。
2454. 存在へと至ろうとして、アーラヤ識から種子が吹きあげてくる無数劫の種子たちが、たったひとつの花を形象化させるために。
2455. 気がつくと、(私)のアフォリズムは、いつのまにか、メタ・メッセージになっている。
2456. (考える)のでもなく、(書く)のでもなく、ただ、勝手に来たものを、手が、動いて、コトバを、文字として写している。妙な行為である。
2457. しかし、なぜ、来たのもが、コトバになるのか、(私)自身も、実は、知らないのだ。
2458. 歩くと(私)が揺れる。その揺れの中から、ポツー、ポツーと、湧きあがって来るものがある。(私)はソレを捉えて、ただ書き記している。
2459. どだい、神のコトバなど、ニンゲンにわかるはずがない。しかし。ソレが、ニンゲンのコトバに、翻訳(?)されている不思議。
2460. 生命は、来たものを、生命という流れの中に、見事に取り込んで、生命自体にしてしまうから、驚愕である。
2461. (私)は、毎日毎日、あらゆるものと共振れしてすべてに、名前を与えて、闇の中のものを、光の中に、存在させている。
2462. 「四六時中、頭が痛い、眼の底に光が飛ぶ。」3.11の被災者の声である。「いったい、どうして、こんなことになってしまったのか?」医学も医者も、応えられない。あの日から、まだ、身体も心も、揺れ続けている。
2463. 日常に、軟着陸できないまま、とりあえず、仮設住宅で、宙吊りにされている。宙には、揺れと黒い水と放射能がある。
2464. 漱石の「則天去私」神話も、釈尊の「諸法無我」に比べてみると、そのスケールのちがいに、呆然とする。(私)と(仏)のいる時空の差異である。
2465. 目覚めた者、覚醒した者は、どれだけのことに耐えているのか、その我慢の幅を考えると、気が遠くなる、やはり、ニンゲンには、到達できない。仏の境地である。
2466. 仏になる、往生する、現代人は、もう、そのことを信じられまい。
2467. 勝義、行願、三昧地が、仏になる道であると、師資相承された密教である。信仰とは、それを実行することである。(信)は、跳ばなければ、わからない。
2468. 文学は、科学や宗教という杖をついてはいけない。もちろん、政治は、杖にもならない。
2469. 考えるように在る人と、動きがそのままその人である人と。
2470. コトバで生きる人は、沈黙の重さを一番知っている。
2471. 論破できるのは、語る人に対してだ。沈黙する者は、畏怖である。
2472. 「汝自身を知れ」西洋の哲学者。「如実知自心」東洋の仏教者。空海は、見事に、「自心の源底」に至ってしまった。それから、千二百余年の時が流れたが、いったい、何人が、そこに至ったか。進歩も、進化も、虚ろなものだ。
2473. 青年は、正しく想像していても、夢想していると見られるものだ。いや、狂想と思われることもあろう。発見も、発明も、想像も、煮えたぎる青年のパッションから生れるのは、歴史が証明しているのに。
2474. 何を考えだすものやら、何をしでかすものやら、わからないから、青年である。幻想も、夢想も、狂想も、その果てまで、歩いてみるのが、正しく、青年の熱情である。
2475. 夢想する大人、老人とは、悪いジョークであろう。いつまでも、好奇心の衰えぬ、老人は、青年の魂の火を消し去らぬ人だ。
2476. 日々、面白くない、うっとうしい、億劫だと思いはじめたら、(生きる)から(死ぬ)へと、意識的に(私)を転回させてみることだ。モノもコトも、まるで、別の貌を見せてくれる。
2477. 草木も、生きる眼には平凡でも、死ぬ眼には、必ず美しく、固有に見えてくる。さて、末期の眼には、何が見えるか?何が写るか?一回限りの、愉しみである。
2478. 光には光のコトバを。石には石のコトバを、あてがう。もちろん、死者たちには、仏のコトバを。
2479. アーラヤ識から吹きあがってくるコトバは、仏のコトバ同様、異界の声である。決して、ニンゲンの声ではない。
2480. モノがわかる。コトがわかる。わかり合えるというシステムそのものが驚愕である。
2481. 無関心は、ニンゲンの特徴であるが、無関係はない。一切が、関係の絶対性のもとにある。それを、因と言っても、縁と呼んでもいいが。
2482. 毎日毎日、夏の光に、無限を見ておる。飽きるということがない。
2483. 光に感応すると、一瞬は永遠になり、(私)はあらゆる時空に遍在する。愉楽である。畏怖である。
2484. 砂粒が語りはじめるまで、どれだけの時間が流れたか。億、兆、京、石、無限の一歩手前で、石は語る。
2485. わが宇宙は137億歳だというが、他の無数の宇宙たちには、無限の時間が流れておる。”無数劫”の時間が。
2486. どうやら、夏は、頭の廻り方がちがうらしい。意識が、妙なところへと、飛んでしまう。眼も、いつもとちがうものを、見てしまう。光と熱のせいだ。
2487. 頭の回転が遅くなるとか、鈍くなるとかそんな話ではない。春や秋には、とても、考えない、そんなところで、頭が働いてしまう。もちろん(私)は、特別な工夫をしていない。
2488. ある日、ある場所で、一人の子供が叫んだ。「ボク。セシウムもプルトニウムもストロンチームも、みんな見えるよ」母らしき女が言った。「いいかい、絶対、他人の前で、そんなこと言ったらダメだよ、新らしい、もうひとつの眼が誕生したなんて」
2489. 光と影の間を、白昼、夢魔が疾走する。
2489. モノでもない、風の形でもない、見えているのは、遠い昔の、(私)の分身である。
2490. 眩暈がして、振り返ると、風景が、白紙だった。これも、夏の光のせいだ。
2491. 光が音になった。空耳ではない。
2492. 木々の緑が、煮えたぎって、黝んで見える。(私)は、緑を見ていない。
2493. 足場が定まらぬ。どうやら、宙吊りになって、歩いている。
2494. 長い間、四十年も、随分と他人の話を聞いてきたが、気が付けば、(聞く)ということも、(私)にとっては、ひとつの表現の方法であった。
2495. (話す)は(聞く)がなければ、成立しない。いい聞き手になることは、大変むつかしいことではあるが、(入我我入)の関係であろう。
2496. (歩く)は、なぜ、(考える)と結びつくのだろう。モノに会う、モノに衝突するが、(歩く)である。(考える)は、会う、衝突する時、飛び散る火花である。本気で、モノを考える時、人は、必ず、モノに出会い、衝突をしておる。(考える)の本質は、歩行にある因縁だ。
2497. 一人の身体は、一人の身体の場を占める。一人の精神も、一人の精神の場を占める。その存在が脅かされる時、反乱が生れる。
2498. 家、土地、会社、国家、領土、境界では、いつも、(場)の紛争が生じる。身体と精神の延長がそれらであるから。
2499. 宇宙視線には、境界・国境がない。あるのは、地球と宇宙の境界である。で、宇宙人と宇宙場との、紛争が待っている。
2500. 読むことは、時空を歩くことである。しかし、長い人類史で、耳に至福のコトバを、誰が語ったか?何人が語れたか?おそらく、両手の指で足りる人数であろう。
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• 水曜日, 10月 10th, 2012

ニンゲンには、
光に”無限”を直観して、感受する、心的な力がある。(永遠、聖なるもの、畏怖すべきもの)
また、神、仏に感応する、神的な力もある。仏像は、イコンは、(信)という力でもって、神や仏へと、異次元へと跳ぶための、ひとつの仮の形、表徴であろうか。(眼に見えぬものを見るために)

眼に見えない、放射能、素粒子・ヒッグス粒子と、眼に見えない、神や仏と、いったい、何が、どのようにちがうのだろうか?
素粒子は、理論で、数式で、実験で、科学の(知)が証明したものである。
眼に見えない、神や仏は、信じるという(信)の力で証明するものである。
(考える)と(信じる)は、同じコトバというものであるが、その、位相と意味が異なる。哲学、科学の(知)と、宗教の(信)

阿弥陀三尊像(京都・三千院)

光。今も昔も、光は、人間を魅了して止まない。太陽の、月の、2000億個の銀河の、2000億個の恒星の、無限遠点から来る、光という宇宙からの音信に魅惑されて、それを読み解きたいと思う。宇宙は、読み解くための巨大な本であり、光は、その中心にある存在である。
光の光子は、1かと思えば2になり、計測しようとすると、2が1になる、正に、量子論的な存在である。

阿弥陀如来は、無限の光を放つ仏である。宗教にとって、光は、聖なるもの、崇高なるものの象徴として欠かせない。聖書でも、天地創造のはじめに、神が、光あれと言えば、光があらわれた。
仏教でも、光は、さまざまな役割りを果たす、聖なる存在である。

「阿弥陀」
「大乗仏教における最も重要な仏の一つ。<阿弥陀仏><阿弥陀如来>と呼び、略して<弥陀>ともいう。」(仏教辞典)
「[原語と訳語] サンスクリット原名は二つあり、Amitaayusは、<無限の寿命をもつもの、無量寿>Amitaabhaは<無限の光明をもつもの、無量光の意味で、どちらも<阿弥陀>と音写された。」(仏教辞典)

光という語を、その名前に冠した仏、阿弥陀は、インドで誕生したが、太陽神、アラーの神の影響を受けたという説もある。
光り輝く阿弥陀は、西方の、極楽浄土・光の国に棲んでいる仏である。

平安末期から鎌倉時代にかけて、末法思想が浸透して、人々は、戦乱、飢餓、病い、大地震、大津波の現世を厭い、極楽浄土へ往生することを願い、阿弥陀に救いを求めた。
阿弥陀は、四十八の本願を立て、その中でも、十八願は、一切の象生は、阿弥陀の名を唱えるだけで、往生できる、それまでは、菩薩から悟りをひらいた如来にはならぬと約束を誓った。

和歌山の、補陀落渡海は、舟に乗って、西方の極楽浄土をめざす信仰であった。僧たちは、浄土をめざした。飲みもの食べものもなく、舟に乗って、泣く泣く、海へ、西方へ、浄土を願って、漕ぎ出した。光の国を求めて。
現世は、苦であり、闇の世界である。浄土思想は、光を放する仏、阿弥陀のいる、極楽浄土で救われたいという、他力本願の思想である。

ただ、ひたすら、南無阿弥陀仏の六文字を唱えれば、往生できるという、実に、シンプルな思想は、法然、親鸞の出現で、頂点をむかえた。
空海の、真言の、三密の、深遠な、哲学的宗教思想は、天皇、貴族の知識人の心を捉えたが、浄土教、浄土真宗は、武士、庶民、大衆の心を魅了した。

京都の、山間の、大原の地に「三千院」がある。歩いて、約三十分ほどの「寂光院」とともに、日本人に人気のある、天台宗の古刹である。
青不動で有名な青蓮院・妙法寺とともに、延暦寺の三門跡のひとつである「三千院」には、阿弥陀三尊像が設置されている。
阿弥陀三尊像が安置されている極楽院本堂は、平安時代の遺構で、まるで、舟底型のように、灰暗くて、狭い。
二十歳の頃から、春、夏、秋、冬と、桜、青葉、紅葉、雪の風景を楽しみながら、四度ばかり訪寺をした。
渡来人の仏師たちが伝えた、シンプルな飛鳥の仏たち、飾りの増えた白鳳の仏たち、仏像の様式、技術が爛熟とした天平の仏たち、男性的で、神秘的な、空海の時代、平安前期の仏たち、そして、終に、日本風な、オリジナルの仏たちの出現した、藤原時代。日本の、定朝、運慶と、仏師たちも、大和風な、<美>の世界を表現した。

「阿弥陀三尊像」(1148年)

結跏趺坐、印は、定印ではなく、右手をあげ、左手を膝の上に置いた、来迎印。背景には、金色の十三仏と十三仏種子、顔は、いつもおだやかで、半眼、瞑想、三味地に入ったかのようで、親しみのあるリアリズム。光を放つ白毫が、額に確と刻まれている。
脇侍は、膝を折り曲げ、手に蓮台を持ち、宙を飛んでいるように、前傾姿勢である、観音菩薩。同じく、同じ姿勢で、合掌印をつくり、蓮の台座の上に坐っている勢至菩薩。
二つの仏の特徴は、光を放射する、光円と光条があることだ。

仏たちの、
光を放つ、光を発するものに、白毫がある。頭光がある。眼がある。毛穴がある。舌の根がある。(長舌相)
光は、三千大千世界を照らしだして、正しく完全な悟りに(無上等正覚)導くためのものである。光は、五色の糸(紙)でも表現される。象生は、何もしなくても、仏たちを拝って、光を浴び、南無阿弥陀仏を唱えればいいのである。
十三観に「日想観」がある。太陽、光をイメージする瞑想である。
光は、力、エネルギーである。仏たちは、光を放つ。あるいは、瞑想の中で、仏を胸にして、光を放ち、本当の仏を、光の手で、捉えるという手法もある。
光は、山と日常を、天と地を、結ぶ、降臨する光、昇天する光、あらゆる境界を、結びつけるのが(光)である。

文学にも、見事に、(光)を表現した作品がある。
「ひかりごけ」(武田泰淳作)である。
テーマは、「難破船長人喰事件」だ。戦時中、軍の船、清神丸(乗組員7名)が、嵐で漂流、難破、洞窟のある、無人島に上陸。何も食べるものがなくて、仲間たち、人間を食べあい、最後に、船長が生き残る話。
羅臼の村で、地元の校長先生に、ひかりごけを見るために、ある洞窟に案内される話。戯曲として、生き残った、船長他三人が、人肉を食べる場面。船長が裁判所で、裁きを受ける場面、の三部構成。人間の肉を食べた者には、頭の後に、光の輪ができる。人肉を食べた人には見えないが、罪を犯していない人には見える。その光が、植物の放つ、ひかりごけの光に似ているのだ。

人間の原罪を考える作品である。裁判長も、検事も、弁護士も、その光が見えないという。船長は、もっと見てくれ、あなたたちは、食べていないのだから、俺の頭の後にある、光の輪を見てくれと叫ぶ。
実は、傍聴人たちにも、見えない。武田泰淳は、実は、読者にも、見てくれ、と叫んでいる。
”我慢”あらゆる我慢をして生きている船長の思想に、普通に生きている、と思っている人々は、どう応えるか。サルトルの「嘔吐」よりも、更に、深い、東洋の思想を、「ひかりごけ」は、表現している。
実は、泰淳は、お寺の生まれで、得度している。僧でありながら、共産主義に加担した。兄は、浄土宗の高僧である。

「光は、まだまだ謎である。

アミダブツよ、
3.11の被災地に
光の慈雨を
降らせてよ!!

※最高の光は、大日如来、法身であった。 H24.8

(高野山大学大学院レポート)

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• 月曜日, 7月 16th, 2012
※2301~2316は、「詩と思想」7月号掲載
2301. 存在の底がぬけてしまうと、コトバも反転をする。
2302. 地や背景のない空間では、モノを支える境界がない。
2303. 当然、敵は、ニンゲンではない。沈黙だ。
2304. 書き魔、語り魔になってしまう人がいる。
2305. 深い、深い井戸を掘り続けているが、コトバの水が出なくなった。
2306. いつも、不安という心性が語りだしてしまう、困ったものだ。
2307. せっかくの、在ることが日常のあれやこれやで終わってしまう、無念と無残。
2308. 日常に、不意に滑り込んでくる、その影に似たものを、語れよ!!
2309. 声にしろ、音にしろ、電子にしろ、伝導のための、媒体がいる。
2310. 右足、左足を使って歩く。実は、透明な三本目の足がある。右足が地に着く寸前に、左足が上がる寸前に、いつも第三の足が迷っているのが見えるだろうか?
2311. 自分の意思で生きているのは、2分か3分か。7分か8分は、何かに支えられている。
2312. ひらめきは、思想よりも正しく、理論よりも素速い。
2313. 何気ない歩行の中から、”解”が起ちあがってくる、あの瞬間の不思議。
2314. コトバで語ってしまうと、どうしても、ソレがコトバ風なモノになる。
2315. 確かに、知ることができるものだけを、知る。知ることができぬものは、知らぬ。実に、はっきりとしているのに、(知)と(非知)の間で、悩んでしまうニンゲンの愚である。
2316. 自心の源底に至る、3.11のコトバはまだない。誰も語れない、語っていない。
2317. 悲・苦・病・切・愁・怒・哀・辛・畏・無・空。いくら並べても、とどかない、3.11の自心の源底である。
2318. 眼は見たがる、眼える限りのものを。耳は聞きたがる、聞こえるすべての音を。口は話したがる、知っているコトバのすべてを。しかし、3.11は、それらの外に在る。
2319. 手がある、足がある、首がある、耳がある、肌がある。手のない、足のない、首のない、耳のない、眼のない、ニンゲンが瓦礫の山の、岸辺に、ごろんとある。
2320. 船が、砕けた腹を、空に突き出して、海になった空へ、時空をねじって、存在する。
2321. 妻と幼い子供二人、家、ココロ、故郷すべてを喪くした漁師は、泣いて、泣いて、3.11を、夢・幻に、反転しようと、祈った。
2322. 何を、どう、チェンジすればいい?生き方ではない、考え方でもない、生活のスタイルでもない、(私)の、宇宙に対する位置取りである。聞いてみよ、(私)は宇宙の何であるか、と。
2323. 今日も、流れに添って、いのちをしている。3.11の、神的切断は、一瞬にして、(私)をモノにした。
2324. 水が、光って、濁って、金属になり、途轍もない、力で、ニンゲンを、汚して、切断して、異界へと、一瞬で、運び去った、3.11であった。
2325. 必ず<原発は、必要>というニンゲンが、時を置いて、発言するだろうと、予言しておいた。つまり、現代を享受して、得をして、良かったと、自分の来歴を、自負している者たちだ。家族を、家を、仕事を、故郷を、喪った者には、絶対に言えないコトバ。”原発再開”。
2326. 国、国益。復興、復旧、大義が大手を振る時、必ず、ニンゲンは、数になり、量になり、モノとして、扱われ、(死)は、どこにも見あたらなくなる。(私)の顔は消し去られる。なぜ、ニンゲン益、宇宙益といえないのか?いつまでたっても”国益”が幅を利かせる地球である。
2327. 小さな、小さな、狭い、狭い、限定された条件のもと、ニンゲンの生きている惑星は、宇宙の、微細な一撃で破壊され、泡となる−あの一瞬の、全身を刺し貫いた、畏怖の感覚。日は、また昇る、安心の原理も、無残に消え去った、3.11であった。
2328. 原発メルト・ダウン。何ヶ月も、何年も、議論が交わされるべき、ニンゲンの大問題である。何時の間にか、日常生活から、片隅へと追いやられて、人は、モノを見ず、モノを考えず、巨きな、危うさの上へと、自らを運んでいる愚劣!!
2329. テレビ、新聞、雑誌は、毎日のように、3.11の特集・連載をしなければならないのに、いつのまにか、3.11以前に、戻ってしまう、空おそろしさがある。
2330. 「何時でも、ニンゲンは滅びる、文明は滅びる、人類は終わる。」毎日毎日、テレビ画面を見ながら数字と、限られた説明しかない、アナウンサーの背後から、そんな、声が、立ちあがって、流れてくる。
2331. 3.11で、ニンゲンは、底の底、果ての果ての畏怖まで見てしまった。もう、これは、畏怖だとしか思えないほどに、たたきのめされて、ニンゲンの息の根は絶てた。もう、これ以上、見るべきものがあるのか。コトバも絶てた。奇妙な幻影を生きているような空々しい、漠とした、現象世界の、泡粒と化したニンゲン。
2332. 一気に、一瞬で、時空が抜き取られた。ニンゲンがセイカツをしている、ゆるぎなく、持続している、と思われていた世界が。3.11は、ニンゲンの眼に見えて、眼に見えない、「宇宙原理」の顕現であった。「在る」と「無い」が何時でも、入れ変わってしまって、どこにもない場処になる。→のっぺらぼう。
2333. 「原発のメルト・ダウン」このコトバは、深く、ニンゲンに共有されなければならない。誰もが、念仏のように、唱えるもので、なければならない。そして、そのコトバの先にある世界を、怖くても、共有しなければならない。
2334. 3.11は、特に、原発事故は、ニンゲンを、一気に、無化するものであった。思考停止である。何も出来ない、何をしても、無意味だ。ニンゲンは、「宇宙原理」に嬲られている。
2335. 3.11、一人に、一人の死を、与えられないで、ニンゲンの死を、数にする思考者には、未来の夢は語れない。
2336. 声が来る、他人が来る、夥しい事象の氾濫の中から、ひとつだけとりだしてくる、その瞬間の不思議が、わが生である。
2337. 淵から淵へと、跳んでいるわが姿が見える。足の裏にも汗を掻いて。
2338. 右か左か、そんなアバウトな選択ではない。もっと、微妙な、気配に似た、感触のもとに、進路を定めている。
2339. (知)からの解放が、もっとも豊かな(知)である。だから、歩く。
2340. 捨てると、得るものがある。だから、人は、拾って続ける。家も会社も社会も。
2341. 何も持たないことが、もっとも、豊かだという信仰がある。ディオゲネスの時代から。
2342. モノを持つことが、豊かだとする現代人は、持たない自由を知らない。
2343. 宗教には、ユーモアがない。長い間、なぜだろうと、不思議に思っている。神・仏は、笑わないのだろうか?
2344. 教典、教義に(信)を置かないと、コトバにも(信)を置かないことになる。「聖書」(仏典)の外に出て、(神)への(信)は、成立するのか?
2345. 啓示も予言も、コトバである、一切の現象も、コトバである。
2346. 宇宙の迷い児である。ニンゲンである。その正体も知らぬまま、ソレがお前だと云われて、平気で、生きている。生、老、病、死の苦をもって。
2347. 他人が(私)の中で生きている。よくよく考えてみると、不思議な現象である。
2348. 他人がわかる、の根源には、(私)の中で、生きる、という奇妙な現象があるからだ。
2349. 現象が、事象が、(私)の中で生命に変わる、その瞬間よ、そのことよ、一番おかしいのは。
2350. 存在の鍵はヒッグス粒子が握っているとして、存在の外にあるダーク・マター(暗黒物質)の鍵は、何が、握っているのか?問いは無限に続いている。
2351. 存在が考える。存在自体が考える。考えるという系(システム)が起ちあがった、その目的はいったい、何だろう?
2352. 未知の存在と存在が宇宙の一隅で出会って”わかる”と知った時、宇宙は、ニッコリと微笑むだろう。
2353. 存在することの在りようを、ニンゲンは、ここまで来たと、宇宙自体に知らせてやれよ。
2354. 変化する観音、遍在する大日、さて、宇宙に声ひとつ、顕滅せよ、同時に。
2355. 白紙には、一字のみ記せ、沈黙に均り合う、宇宙文字で。
2356. ゆさゆさと風に揺れる、柿の葉の大きさに、妙に、感動する。空が隠れて。身震いをする。
2357. ニンゲンは、ただ存在するだけで、何かである。不思議な現象である。
2358. 意味は、人が勝手に見いだすもの、価値は、人が勝手につけるもの、すべてが「人間原理」のもとにある。
2359. 他人の評価や価値は、「在る−無い」に比べれば、その差は、あってないようなものだ。つまり、誰であっても、ニンゲンは、ボチボチである。
2360. 感応するココロは、考える意思よりも深いと思う。すべては、驚きから。
2361. 傷を負った。悲惨を舐めた、そのレベルに応じてしか、ニンゲンは、モノを認識できない。残念ながら、事実である。だから(傷)の共有はむつかしい。
2362. 余りにも、”原発”に対する、知識が不足していた。日々のセイカツに追われて、知らず知らずに、足元は、放射能の危険に、晒されている事実を知らなかった。無知は、完全に、罪である。
2363. 身につまされなければ、本当に、人は、ものを考えないものだ。
2364. 先送りをする。困難を。で、原発も、使用済燃料の、最終処分方法も決められないまま、未来へと、先送りをする、悪魔のささやきに、耳を傾けて、どうにかなるだろうと。
2365. 境目にいる時には、必ず、ニンゲンは、我に返らなければならない、声に導かれて。発狂しないように。祈れ!!
2366. ニンゲンの一生には、ほとんど、なんの関係もないと思えるほどの、巨大な時間を考える(銀河の時間だ)一億年、一兆年と。すると、必ず、放心がくる。哄笑が来る。そして、流れている現在の時間が爆ぜて静まりかえって、(私)を点滅させる。
2367. 現在の、時空にいる(私)が、遍在しなければ、絶対に、見えない、わからない、そんな視点を、ニンゲンは、持てるか?
2368. まるで、多重人格者のように、分裂しながら統一されてしまう(私)の形式。
2369. もちろん、現在の科学の方法では不可能だから、もうひとつの、新らしいスタイル(科学?)の誕生を持つしか術がない。
2370. セイカツを廻していく日々。ニンゲンを廻していく日々。
2371. 食べて、寝て、食べて、寝て、生きて、死んで、生きて、死んで、一日が、一年が、一生が、(私)を運び去る。
2372. 一日の(私)の重さ、軽さが、急変して、ココロが、悲鳴をあげている。
2373. 胃が鈍重、ココロがウツに傾く。
2374. 桜に恋をした西行法師が、眼の前を歩いている。見える、見える。吉野の山桜。
2375. 行方不明。ココロは永遠の宙吊りだ。3.11で、時間が割れた。止まった時間、流れる時間。
2376. 水平に見える風景がある。垂直に見える風景がある。ニンゲンは、二つの風景を見て、真形を得る。
2377. 現代人は、神変(超能力)の扱いに戸惑ってしまう。
2378. 問いを立てつづける。究極の答えを得る手法だ。
2379. 多数決という方法は、必ずしも、正しい答えを導くとは限らない。
2380. そろそろ、異次元のコトバを、実存として、感覚し、実感するレッスンを始めなければならない。
2381. 見る、見える、見えてくる。(現実)と(異次元)が同時に。
2382. 書く、書いている、書かされている、誰が?何が?来る、来ている、来た。(私)に。
2383. ある。現れる。顕現する。
2384. モノが語る。コトが語る。ただ、(私)は聴いている。
2385. (考える)から(感応する)へと歩いてみると、そこは、異次元の入口。
2386. 瞑想といい、観想といい、瑜伽は、モノとコトから遠く離れて、中心へ。
2387. (行く)と(来る)が重なってこそ次元の壁が超えられる。
2388. (私)を置き去りにして、歩いてみろ。
2389. 生命は、垂直に流れている。横超もする、イデアがある。超球に至る波である。
2390. ここにいるだけなら石である。遍在するのがニンゲンである。
2391. (私)から超出するニンゲンへ。
2392. 狂(信)か、正(知)か?
2393. まだまだ、改革と修正の時代が続くが、いつの日か、今日から明日への境目を消してしまう、跳躍の時が来る。
2394. ここにいる(私)。ここにいない(私)。不条理の根である。
2395. 感じられるから考えはじめる。ソレにびっくりをして。
2396. 存在が、はじめて、語りはじめたのは、何時の頃からだろうか?誰が、発明したものか、とりあえず、天の声とでもしておこうか・
2397. 思う、思い出すという力が衰弱をしておる。新しいことを、次から次へと覚えるのに忙しくて。やれやれ、大事なものが消えていくはずだ。
2398. 自ら語れると、現代人は考える。語り方は、教わった形であるのに。
2399. 意識がコトバを運んでくる。夏が来た、と、風景を読み込んでしまう。
2400. また見つかった!!何が?神の粒子と呼ばれるヒッグス粒子が。
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• 金曜日, 6月 29th, 2012

「凡そ最初口を開く音に、みな阿の声あり・・・故に悉曇の阿字を衆声の母となす」(「大日経疏」)

1. 人間とコトバ

コトバは、文明・文化の母である。コトバと道具とエネルギー(火・水・風など)のコントロールが、人間を人間たらしめた三大要素である。
話す(思想の伝達、記憶)、書く(記録して残す)、考える(コトバで概念を組み立てる)手段がコトバである。
四大文明は、文字を発明している。(エジブト文明、メソポタミア文明、インダス文明、中国文明)

コトバは、声と文字に別れ、インド・ヨーロッパ語は、表音文字を、中国語は、表意文字となった。音を写すコトバと、音を意味する漢字という、表象文字に表わしたコトバに分れた。

わが大和民族は、話しコトバの倭語はあっても、文字がなかった。仏教伝来と共に、中国から漢字が伝わった。漢字を、大和コトバで読んだのだ。それは、英語の、I am a boyを日本語で読むという、革命に近い手法であった。万葉仮名が出来て、平仮名が誕生し、現在の、漢字、ひらがな混り文の、日本文が完成をした。漢字と和語が結婚をしたのだ。

「甲骨文字」や「金文」から、古代宗教国家での、文字の誕生を実証した。
コトバ考は、本居宣長の「詞の玉緒」から時枝誠記の「言語過程説」三浦つとむ、吉本隆明の「指示表出、自己表出」へと至っている。

音が中心の西洋では、ソシュールの「構造言語論」から、バフチンの多重言語、チョムスキーの「言語論」に至り、「記号論」がコトバの中心を占めた。パロールとエクリチュールが、西洋の哲学のコトバ考の核となった。

2. 空海のコトバ −法身説話−

「自心の源底」に至った空海の言語哲学を、見事に分析し、コトバを、構造的に、意味と存在を分節した井筒俊彦の名著「意識と本質」は、圧巻である。三十ヶ国語を、自由自在に読み書き出来た井筒は、空海以来の、コトバの天才であろう。
サルトルの実在主義、フッサール、メルロポンティの現象学、ユングの深層意識、荘子のコトバ、芭蕉の時空を超えるコトバ、マラルメの絶対言語、禅の不立文字、そして、真なる言葉、大日如来の真言、空海が到達した「法身」の語るコトバへと、歩を進める。
西洋の言語学者が踏み込めなかった、アーラヤ識からくる言語、空海の創造した、最高のコトバ、異次元のコトバを再発明する。

阿字。真言。大日如来の、真なるコトバ、存在の、意味の、究極の地点を、井筒俊彦は、開示してみせた。
一切の音の、声の、根源である阿字。森羅万象の、根源である大日如来のコトバ。
「五大にみな響きあり、十界に言語を具す、六塵ことごとく文字なり、法身はこれ実相なり」
「それ如来の説法は、必ず文字による、文字の所在は六塵その体なり。六塵は本の法仏の三密なり」(『声字実相義』より)
釈尊が、語れなかったところのものを、空海は、色身から法身へと転じることによって異次元で、語ってみせた。
西洋の、声と、記号を語る、言語哲学者たちが、到達できない、(自心の源底)へと千二百年も、昔の、空海は到達していたのである。空海は、すべての存在は、コトバであると言っている。

3. 梵字悉曇の歴史

表意文字である漢字を書く日本人に心理分析はいらない、と、精神分析の雄ジャック・ラカンは語った。表音文字を使うヨーロッパの哲学者のコトバだ。
しかし、表音文字である、サンスクリット語にも、字相と字義があると空海は語る。「吽字義」文字の表層の意味と、深秘な意味を分けて考えている。(huum)
文字に、(法身、報身、応身、色身)を読み込んでいる。
インドでは、四千年前の、インダス文明の象形文字は、まだ、読み解かれていない。紀元前三世紀のアショカ王の頃、アショカ文字が現れる。
そして、四世紀には、グプタ王朝のグプタ型文字、六世紀に、シッダマートリカ型とナーガリー型が現れて、その中のシッダマートリカ型が、<悉曇>と呼ばれることになる。
インドで誕生した仏教、密教は、中国漢文に翻訳された。
古訳時代(法護)旧訳時代(鳩摩羅什)は、共に、漢字による音写文字。
新訳時代(玄奘三蔵)は、直接、梵など。
密教の経典は善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等によって、次々と翻訳された。ただし、音の長短を重視する、悉曇文字は、書写された。真言陀羅尼は、訳すと、意味・原意が変わってしまう。
インドでは、貝葉に書かれた文字が、中国では、紙に、毛筆、木筆で書かれるようになる。そして、中国風な、梵字悉曇がそのまま日本に伝わってきた。

空海も、奈良の久米寺にて「大日経」を読み、はじめて、正体不明の、梵字に出会う(?)ことになる。唐に渡った空海は、梵字を修学して、日本で、体系化する。密教の教義とともに、梵字、悉曇をとりいれた。書写し、観想し、実修を説いた。

悉曇八家と呼ばれているのは、真言では、空海、常暁、円行、恵運、宗叡。天台では、最澄、円仁、円診である。真言では、中天を、天台では、南天の梵字を相承をした。
密教の教文は、秘められた宗教であるから、師資相承である。口伝であり、面授である。

戦国時代が終ると、江戸時代には、さまざまな文化が華を開いた。俳句の芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門、小説の井原西鶴、歌舞伎、相撲、演劇、娯楽、旅、巡礼、四国八十八ヶ所等々。寺子屋があって、識字率は、世界に誇れるのもであった。書道、算術も盛んになった。
さて、鎌倉時代に、大師流が、梵字悉曇として伝わっていたが、現在は、書道として、残るのみとなっている。
江戸時代には、梵字悉曇も、さまざまな流派が起ちあがった。

4. 慈雲流−その特徴

主な流派は
①慈雲流
②浄厳流
③澄禅流
④智満流である。

「書は文学である」、書そのものを芸術として、書にその人の思想を読み解いた、石川九楊のコトバである。(「中国書史」「日本書史」「近代書史」)
慈雲は、名を飲光と言い、号を葛城山人と言った。大阪に生れ、13歳で父を失い、住吉法楽寺にて、得度している。その翌年から、悉曇を学んでいる。儒学を学び、禅を学び、梵字、サンスクリット語を学び、「十善戒」を説き、河内高貴寺に根本道場を開いた。仏教は、もちろん、神道、儒教、そして西欧の事情にも詳しい学僧であった。
その成果は、今日でも、世界の驚異とされている。「梵学律梁一千巻」である。

浄厳流が「法隆寺貝葉梵本」に範をとり、静かで、整った、肉筆であるのに対して、慈雲流は「高貴寺貝葉梵本」の字体を範として、太い線で、素朴で、自然で、掠れがあり、雄大である。起点から終点まで、淀みがなく、(枝)らしきものが見えない。大河が堂々と海に至る、力感に似ている。四流派の阿字を凝っと眺めていると、澄禅派は、実に、繊細で優美である。(毛筆と朴筆体の両様を伝えるためか)浄厳流は、知的な、整然とした書風を感じさせ、智満流は、流動性、リズム、力感を覚える。
文房四宝は、書を芸術とする基である。特に、慈雲流では、筆は、短穂で、やや硬いものを用いる。
運筆は、澄禅流が、筆を紙に垂直に下ろすのに対して、慈雲流は、筆を側筆気味にする。
また、紙は、悉曇十八章の場合には、古来美濃紙を用いることになっている。(実は、私も、40年以上、原稿用紙は、神楽坂の山田家、ペンは、モンブランと決めている)
面授、師資相承の系図がある。高貴寺に伝わる「悉曇中天相承」である。

龍猛からはじまって、恵果に至り、恵果から弘法大師へ、そして、江戸の飲光へ、はるかな時空を超えて、平成の慈圓まで、インド中国、日本へと伝わっている。しかも、現在では、インド、中国での、梵字悉曇は止絶えて、わが日本国にのみ伝承されている。

書、写経、梵字悉曇は、真なるコトバに会い、真なるコトバを自らの中に発見するための、日本人の伝統である。手法である。
現代の日本人は、漢字、文章、日本文が書けなくなっている、筆も、鉛筆も、万年筆も使わなくなって、パソコンのキーを叩つ、音で入力をして、漢字に変換をする、メールを送る。

電子の文字の時代である。一画一画、一字一字、書いてこそ、文字である。字体、字風、字相、文体の復活が望まれる時代でもある。

(高野山大学大学院レポート)

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• 水曜日, 3月 28th, 2012

1. 「ドストエフスキーと秋山駿と」(情況新書刊) 秋山駿VS井出彰共著
2. 「日本的霊性」(岩波文庫刊) 鈴木大拙著
3. 「般若心経・金剛般若経」(岩波文庫刊) 中村元・紀野一義訳注
4. 「空の論理」(春秋社刊) 中村元著
5. 「日本真言の哲学」(大法論閣刊) 金山穆韶・柳田 謙十郎共著
6. 「般若経の真理」(春秋社刊) 三枝充悳著
7. 「密教の歴史」(平楽寺書房刊) 松長有慶著
8. 「空海入門」(法蔵館刊) 高木訷元著
9. 「空の論理(中観)」(角川ソフィア文庫刊) 梶山雄一・上山春平共著
10. 「ガンダーラ美術にみるブッタの生涯」(二玄社刊) 栗田功著
11. 「華厳経」「楞伽経」(東京書館刊) 中村元著
12. 「新釈尊伝」(ちくま学芸文庫刊) 渡辺照宏著
13. 「西行物語」(講談社学芸文庫刊) 桑原博文訳注
14. 「認識と超越」(唯識)(角川ソフィア文庫刊) 服部正明・上山春平共著
15. 詩集「残り灯」(土曜美術社出版販売刊) 山野井悌二著
16. 「瓦礫の中から言葉を」(NHK出版新書刊) 辺見庸著
17. 「密教、自心の探求」(大法輪閣刊) 生井智紹著
18. 「遍路巡礼の社会学」(人文書院刊) 佐藤久光著
19. 「四国遍路と世界の巡礼」(法蔵館刊) 研究会編
20. 「四国遍路の宗教学的研究」(法蔵館刊) 星野英紀著
21. 「親鸞」(激動篇)上・下(講談社刊) 五木寛之著
22. 「『大日経』入門」(大法輪閣刊) 頼富本宏著
23. 「<世界史>の哲学」(古代篇)(中世篇)(講談社刊) 大澤真幸著
24. 「古寺巡礼」(岩波文庫刊) 和辻哲郎著
25. 「山家集」(岩波文庫刊) 佐々木信綱校訂西行著
26. 「一般意志2.0」(講談社刊) 東浩紀著
27. 「『金剛頂経』入門」(大法輪閣刊) 頼富本宏著
28. 「密教瞑想から読む般若心経」(大法輪閣刊) 越智淳仁著
29. 「理趣経講讃」(大法輪閣刊) 松長有慶著

”わかる”というのは不思議な力である。
”言葉”の意味を本当に”わかる”とはどういうことであろうか?
人は”母語”でしか、わからないものか?あるいは、翻訳語でも、”わかる”ということは、可能なのか?

最近、仏典を中心に、仏教関係の「本」を集中的に読みはじめて、さまざまな疑問が湧いてきた。”コトバ”に関してである。

新聞で、明治の文豪たち、夏目漱石、森鴎外、樋口一葉、泉鏡花の文章を、現代語に翻訳をしないと、若い読者たちには、読むことができない、という記事を見たのは、何時のことだろうか。
明治の文学も、終に、江戸時代の文学と同じように、古典になってしまったかと、感慨深いものがあった。
明治から百数十年、外国語の翻訳の時代が続いた。本は、翻訳で読み、音楽はレコードで聴く時代であった。21世紀。世界が、コンピューターで、つながる時代になって、英語が、共通語・世界語になりつつある。
パソコン、インターネットの用語は、ほとんどが英語であって、用語は翻訳すらされないまま、そのまま、日常語として飛び交っている。
会議も、会話も、報告書も、すべて、英語を使用する、日本企業が現れた。
日本が滅びる、日本文化が消える、日本民族が滅亡する、そんな危機感すら漂いはじめた、グローバル化の時代である。

そんな時代に、漢文で書かれた仏典や仏教書を読む。
もちろん、仏教事典、密教事典を牽かなければ、読めない。
「源氏物語」「平家物語」「方丈記」「徒然草」と同じ、古典であるが、古文と仏典は、まったくちがう。

仏典は、基本的に、呉音で読む。通常の古典は、漢音で読む。
●変化(へんか) → 変化(へんげ)
●微妙(びみょう) → 微妙(みよう)
●来影(らいえい) → 来影(らいよう)
また、同じ漢字でも、意味がちがう。
(識)(心)(方便)
仏教の原典は、古代インドのサンスクリット語、パーリー語である。中国語に、翻訳されて、中国風になる。そして、日本に伝わり、日本語に翻訳され、読み下し文となり、現代の、漢字・ひらがな混り文という「日本文」になった。
つまり、二回、三回、原典から、翻訳されて、日本風な、”仏教”が成長していく。
コトバの変化に、意味は、どうなった?
「意味」は、度重なる翻訳に耐え得るのか?

「空海」の著書を、原文で読めるのは、専門の研究者くらいのもので、一般の日本人には手に負えるものではない。

意味を正しく読みとるには、原文を読むしかない。しかし、専門家以外の人は、原文を読めない。
”翻訳”には、広く、現代人に、読まれる為には、欠かせないものである。

一番困るのは、仏典も、漢字、現代の日本人が知っている漢字で書かれているのに、読み方とその意味が異なる点である。
そして、仏教用語としての漢字を、日本風に翻訳すると、なんだか、気が抜けたビールみたいに、別のものに、変わってしまうことだ。
本当に、翻訳は可能かと考えてしまう。

信仰としての特別の宗教をもっていない日本人が大半を占める現代である。
”信仰””信心”という前に、コトバの問題(仏典、お経等)が、大きな壁になっているのではないか。
誰も読めない、仏典では、仏教が、宗教が、人々の間に、広がらないのは、当然であろう。
コトバは生きている。
時代とともに変化する。
その時代の、その人の”母語”がある。
”母語”で考え、”母語”で感じる。
漢字とひらがなとカタカナの、このゆるやかな、あらゆるものを吸収する”日本語”のダイナミズムに、”仏典”も、対応を迫られていると思う。

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• 水曜日, 3月 28th, 2012

歩くというのは、単純であるが、奥の深い行為である。歩くは生きるである。歩くは、発見するである。歩くは邂逅するである。道は無限である。歩くは、マンダラである。
そして、遍路は、歩いて、マンダラである。
そして、遍路は、歩いて、マンダラ宇宙を知る、巡礼の、長旅である。

いったい、なぜ、こんな事態に陥ったのだろうか?人間がこんなにも、痛んで、傷ついて、壊れて、淵に追いつめられている時代はない。それとも、昔から、人間が生きるということは、四苦八苦の道であったのか。

戦後、六十余年、日本人は、戦争を放棄して、豊かさと幸せを求めて、額に汗をして、働き続けてきたではないか。便利さと快適さを求めて、科学の(知)で。

物質よりもココロの時代と呼ばれて久しいが、そのニ頃対立の解消は、そう単純ではない。農業も、漁業も、土木も、その重労働を解消するために、耕運機を、エンジンを、シャベルカーを発明、導入し、身体の疲れを取り除いたはずだった。雪の日、猛暑の日、快適になるためには、クーラーを。車の普及、汽車、電車、飛行機、電話、テレビ、パソコン、洗濯器、掃除器、冷蔵庫、電子レンジ、湯わかし器、風呂、水道、日常生活のほとんどが、電気・ガス・石炭のエネルギーで支えられている。
不安も、苦痛も、不快も、一切が解消されて、人間は、便利に、快適に、気持よく、ゆっくりと、生きる時間を、楽しめるはずであった。

現実は、物に、人に、疎外されて、息つく暇もなく、効率を求められて、疲労し、過労になって、身も、心も、病んでいる。

情報は、世界を駆けめぐる時代である。地球も、小さな惑星になった。親たちの時代、明治・大正の人たちには、考えられぬ、現実であろう。しかし、便利と効率は、必ず、競走を産み、その、光と影がある。毎日、新聞やテレビには、日本中の不幸が、世界中の不幸が報道されている。しかも、一人の力では、解決できない問題ばかりだ。正直に、視て、読んでいると、ココロがウツに陥ってしまう。他人の不幸を、わが身のこととしていると、自分のココロが壊れてしまうほどに、不幸の種は尽きない。(空海には、それに耐える、胆力と智の力があったが)

日本の現実を眺めてみよう。
超高齢化社会の現実がある。

十年間、三万人を超えた自殺者。四百万人を超えた失業者。年収二百万以下の労働者二千万人。結婚しない人、できない人。孤独死。無縁死。心の病気三百万人。介護疲れ死。親の子殺し、無差別殺人。限界集落。お金がない、仕事がない、病気になった、人間が生きる、衣、食、住が崩れているのだ。
もう、いいだろう。あげれば、切りがない。問題は、一人の人間の能力の限界を超えているものばかりである。

そこに、人類の、最悪の大惨事が起こった。3.11である。大地震、大津波、大原発事故だ。十ヶ月たった今も、本当に、人間が、体験したという、事実の重みに耐えかねている。

科学の(知)の神が死んだ。(安全神話)
知識人のコトバが死んだ。
本当のことを伝えられない、報道しない、テレビ、新聞の信用が地に落ちた。
作家も、詩人も、芸術家も、哲学者も、宗教者も、大学教授も、誰も、二万人の死者たちに、十二万余の被災者に、真のコトバを発することができなかった。
嘘の、虚のコトバばかりであった。
メルトダウンはありません。
安心です。
ただちに、健康に影響はありません。
文切り型のコトバに、固定した映像、数字、御用学者ばかりだった。本当のことを言った人は、二度と、テレビに出演させなかった。政府の要人、大企業、大病院、少数の人々だけが情報を握っていた。
いくらでも、事実を、真実を、放送するチャンスはあったのに。放射能の流れる、風向きの予測を放送してあげれば、将来の、病気の不安が取り除かれたのに。
パニックを恐れて、真実を伝えなかった。人間は、決して、愚かではない。自ら、選択ができる。愚かであったのは、誰か?
国の犯した、大罪であった。

原子は、原子力は、まだ、科学の(知)では、制御できない。宇宙は、人間の(知)を超えている。
沈黙した人の方が良心的だったのか?
いや、3.11で解ったことは、決して、専門家の(知)に頼ってはいけないということであった。
万能細胞にしろ、遺伝子の組み変えにしろ、脳死にしろ、将来、何が起こるか、わからないまま、進められている。人体も、植物も、いや、生命自体が、未だ、わかっていないのだ。六十兆の細胞、DNAは、解ったが、決して、それで、人間という生命が、解明された訳ではない。
まだ、人間は、宇宙のことも、千分の一もわかっていない。二十世紀まで、宇宙は、原子で出来ていると信じられてきた。二十一世紀になると、宇宙は、眼に見えない、ダークマターで出来ている、と解ってきた。
十の五〇〇乗も、ある宇宙は、もう、SFの世界を超えている。証明すらできない。

で、私は、死者にあてがえるコトバ、被災者にあてがえる、文学のコトバを探し、書こうとした。そのコトバが見当たらない。
そうだ、一番深いコトバは、宗教の中にある。空海のコトバだ。突然、高野山への旅に出た。大学があった、聖なる地に。ここは空海のコトバの蔵があると思った。そこから、空海への、長い、長い旅がはじまった。ゆっくりと、じっくりと、空海の声が聞けるまで修学してみよう。これが、私の発心である。
空海は、死んでしまった現代のコトバを、再生させる、種子を、もっているかもしれない。
コトバは、その人の位置と場と位相が決定する。
位相:社会の中で、どんな立場にいるか。
政治家と選挙民、社長と社員、医者と患者、教師と生徒、父母と子供、というふうに。
場:何処に、どんな環境、条件の下に住んでいるか。都市と地方。寒いところ暑い処。貧と富など。
位相:考える、信じる、生きる力のレベル。労働する力の有無。知識の有無。体力の有無。情力の有無。技術の有無。信仰の有無。
そして、
コトバにもいろいろある。散文、詩、メタ言語、純粋言語、人工言語、絶対言語、そして、最高の位置に、空海の真言がある。

私は、コトバとして、現在、アフォリズムを開発した。考えるコトバではない。どこかから、私へと来るコトバである。意識のゼロポイントの、深層意識の、アーラヤ識から、吹きあげてくるコトバである。
3.11の死者たちに、被災者たちに、六百本捧げた。まだまだ、死者たちに、とどくコトバを生み出せない。

私の、高校時代の級友に、建築家・歌一洋君がいる。
三十余年も会っていなかった。高校時代には、色白で、おとなしく、目立たない学生であった。ある日、突然、東京の事務所へ来て、ヘンロ小屋を建てはじめたと、八十九の、模型図を展げた。その土地の地形、風土、風俗、習慣に合わせた、八十九種のモデル絵画があった。
三十を過ぎるまで、何をして、生きていいのか、わからなくて、掃除や皿洗いやガソリンスタンドでアルバイトをしては、世界中を旅して歩いた。そして、ある日、建築家になろうと、決心した。見事な感性で、その場を読み取る力がある。発想がある。各賞に輝き、名声を得た。
そして、無償の、ヘンロ小屋の建築である。資金は、すべて、地元民の寄附。材料も、その地元にあるもの、大工仕事も、すべて、(共働)で実施する。
歩いて、疲れた、お遍路さんが、ふと、足をとめて、一服する。雨風を、日射しを避けて、休憩をする。彼の奥さんは、お金にならん仕事ばっかりしてるねぇ、と笑ってみせた。
歌一洋のヘンロ小屋の仕事には、感服した。本当に、いい仕事とは、人間らしい仕事とは、こんな仕事であろう。
実は、彼も、少年時には、お遍路さんを、お接待した。その記憶が、ヘンロ小屋の建築への原動力になっている。

私も、3.11以降は、生きるスタイルを変えた。
一度、一切の知を棄てて、四国八十八ヶ所を歩こう。3.11の、死者たちにもとどく、アフォリズムを、その紀行文を、芭蕉の「奥の細道」に習って、西行の歌に、習って、百本、それぞれのお寺に、道に、空海に捧げよう。
最高のコトバ、真言に至る道を、同行二人で、空海と、共時的に、歩いてみようと、念じている。血圧とアキレス腱を心配しながら。

(高野山大学大学院レポート)