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• 水曜日, 3月 28th, 2012

1. 「ドストエフスキーと秋山駿と」(情況新書刊) 秋山駿VS井出彰共著
2. 「日本的霊性」(岩波文庫刊) 鈴木大拙著
3. 「般若心経・金剛般若経」(岩波文庫刊) 中村元・紀野一義訳注
4. 「空の論理」(春秋社刊) 中村元著
5. 「日本真言の哲学」(大法論閣刊) 金山穆韶・柳田 謙十郎共著
6. 「般若経の真理」(春秋社刊) 三枝充悳著
7. 「密教の歴史」(平楽寺書房刊) 松長有慶著
8. 「空海入門」(法蔵館刊) 高木訷元著
9. 「空の論理(中観)」(角川ソフィア文庫刊) 梶山雄一・上山春平共著
10. 「ガンダーラ美術にみるブッタの生涯」(二玄社刊) 栗田功著
11. 「華厳経」「楞伽経」(東京書館刊) 中村元著
12. 「新釈尊伝」(ちくま学芸文庫刊) 渡辺照宏著
13. 「西行物語」(講談社学芸文庫刊) 桑原博文訳注
14. 「認識と超越」(唯識)(角川ソフィア文庫刊) 服部正明・上山春平共著
15. 詩集「残り灯」(土曜美術社出版販売刊) 山野井悌二著
16. 「瓦礫の中から言葉を」(NHK出版新書刊) 辺見庸著
17. 「密教、自心の探求」(大法輪閣刊) 生井智紹著
18. 「遍路巡礼の社会学」(人文書院刊) 佐藤久光著
19. 「四国遍路と世界の巡礼」(法蔵館刊) 研究会編
20. 「四国遍路の宗教学的研究」(法蔵館刊) 星野英紀著
21. 「親鸞」(激動篇)上・下(講談社刊) 五木寛之著
22. 「『大日経』入門」(大法輪閣刊) 頼富本宏著
23. 「<世界史>の哲学」(古代篇)(中世篇)(講談社刊) 大澤真幸著
24. 「古寺巡礼」(岩波文庫刊) 和辻哲郎著
25. 「山家集」(岩波文庫刊) 佐々木信綱校訂西行著
26. 「一般意志2.0」(講談社刊) 東浩紀著
27. 「『金剛頂経』入門」(大法輪閣刊) 頼富本宏著
28. 「密教瞑想から読む般若心経」(大法輪閣刊) 越智淳仁著
29. 「理趣経講讃」(大法輪閣刊) 松長有慶著

”わかる”というのは不思議な力である。
”言葉”の意味を本当に”わかる”とはどういうことであろうか?
人は”母語”でしか、わからないものか?あるいは、翻訳語でも、”わかる”ということは、可能なのか?

最近、仏典を中心に、仏教関係の「本」を集中的に読みはじめて、さまざまな疑問が湧いてきた。”コトバ”に関してである。

新聞で、明治の文豪たち、夏目漱石、森鴎外、樋口一葉、泉鏡花の文章を、現代語に翻訳をしないと、若い読者たちには、読むことができない、という記事を見たのは、何時のことだろうか。
明治の文学も、終に、江戸時代の文学と同じように、古典になってしまったかと、感慨深いものがあった。
明治から百数十年、外国語の翻訳の時代が続いた。本は、翻訳で読み、音楽はレコードで聴く時代であった。21世紀。世界が、コンピューターで、つながる時代になって、英語が、共通語・世界語になりつつある。
パソコン、インターネットの用語は、ほとんどが英語であって、用語は翻訳すらされないまま、そのまま、日常語として飛び交っている。
会議も、会話も、報告書も、すべて、英語を使用する、日本企業が現れた。
日本が滅びる、日本文化が消える、日本民族が滅亡する、そんな危機感すら漂いはじめた、グローバル化の時代である。

そんな時代に、漢文で書かれた仏典や仏教書を読む。
もちろん、仏教事典、密教事典を牽かなければ、読めない。
「源氏物語」「平家物語」「方丈記」「徒然草」と同じ、古典であるが、古文と仏典は、まったくちがう。

仏典は、基本的に、呉音で読む。通常の古典は、漢音で読む。
●変化(へんか) → 変化(へんげ)
●微妙(びみょう) → 微妙(みよう)
●来影(らいえい) → 来影(らいよう)
また、同じ漢字でも、意味がちがう。
(識)(心)(方便)
仏教の原典は、古代インドのサンスクリット語、パーリー語である。中国語に、翻訳されて、中国風になる。そして、日本に伝わり、日本語に翻訳され、読み下し文となり、現代の、漢字・ひらがな混り文という「日本文」になった。
つまり、二回、三回、原典から、翻訳されて、日本風な、”仏教”が成長していく。
コトバの変化に、意味は、どうなった?
「意味」は、度重なる翻訳に耐え得るのか?

「空海」の著書を、原文で読めるのは、専門の研究者くらいのもので、一般の日本人には手に負えるものではない。

意味を正しく読みとるには、原文を読むしかない。しかし、専門家以外の人は、原文を読めない。
”翻訳”には、広く、現代人に、読まれる為には、欠かせないものである。

一番困るのは、仏典も、漢字、現代の日本人が知っている漢字で書かれているのに、読み方とその意味が異なる点である。
そして、仏教用語としての漢字を、日本風に翻訳すると、なんだか、気が抜けたビールみたいに、別のものに、変わってしまうことだ。
本当に、翻訳は可能かと考えてしまう。

信仰としての特別の宗教をもっていない日本人が大半を占める現代である。
”信仰””信心”という前に、コトバの問題(仏典、お経等)が、大きな壁になっているのではないか。
誰も読めない、仏典では、仏教が、宗教が、人々の間に、広がらないのは、当然であろう。
コトバは生きている。
時代とともに変化する。
その時代の、その人の”母語”がある。
”母語”で考え、”母語”で感じる。
漢字とひらがなとカタカナの、このゆるやかな、あらゆるものを吸収する”日本語”のダイナミズムに、”仏典”も、対応を迫られていると思う。

Category: 読書日記
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