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• 月曜日, 10月 03rd, 2011

「詩の礫」(徳間書店) 和合亮一著
「詩ノ黙礼」(新潮社) 和合亮一著
「詩の邂逅」(朝日新聞出版) 和合亮一著

3・11の、東日本大震災は、ニンゲンの、人類の、大きな、大きな、危機であった。大震災、大津波、大原発事故は、ニンゲンの生存の原理を、ことごとくたたきつぶしてしまう、頭では、上手く、考えられぬ、大兇事である。

60余年、ニンゲンとして、生きてきて、意識がゼロ・ポイントまで落ちて、判断中止状態に陥り、存在までが、ゼロ・ポイントに落ちて、破壊され、見たこともない、のっぺらぼうの出現に、脅かされた。

日常の、生活の、生命の、生の、中断であった。巨大なエネルギーは、ほとんど、ひとりのニンゲンの存在を、無へと、近づけた。不安や悲しみを、通り越して、存在の消滅が、裸になって、眼の前で、進行した。

地面の揺れ、家を、電柱を、車を、船を、工場を、役場を、樹木を、堤を、そして、ニンゲンを、一気に、破壊して、流し去る大津波−何日も何日もその映像を眺める。

さらに、かつて、希望の灯といわれた原子の火が、大爆発を起こして、東北を、関東を、放射物質で蔽った。

いったい、何が崩れ落ちたのだろう、3・11で。

誰もがそれを見た。直観した。知った。わかった。

しかし、その正体が、明らかにならない。日々の、生活の中で、はっきりとしていたもの、文明の、科学の(知)、文化の(知恵)、法、習慣、ほとんどの常識と化していた、歴史とか、資本主義とか、民主主義とか、家族とか、会社とか、共同体の社会とか、−そう呼ばれてきた一切が、一瞬のうちに、ニンゲンの世界から、外へと、放り出されてしまった。もちろん、意識の外へと、超出してしまった。

昨日のようには、生きられない。まったく、ちがう、意識で、生きなければならない。現れたのは、のっぺらぼうである。意識が触れたものは、必ず、語ることが出来た。今までは。しかし、3・11以後は、その神話が崩れて、誰も、語れない。

思考する(知)さえもあてにならぬ。大常識が、役に立たない。国とか、会社とか、社会とか、が、まるで、幽霊のように、姿を変えてしまった。大津波で、原発で。

残されたのは、(私)である。そして、その最後の(私)という存在さえ、ニンゲンとして、崩壊しようとしている。どうにかして、ニンゲンは、その、のっぺらぼうに、形を与えて、名前を付けなければならない。

大量の、無数のコトバが放たれた。政治家、学者、科学者、作家、知識人、経営者、しかし、誰も、3・11を、そのものを、語りつくすことはできない。細々と、被災者たちの、裸のコトバが、生きている。

読んでも、観ても、書いても、話しても、映しても、虚しさが付きまとうのだ。(知)が(声)が役に立たない。

しかし、ニンゲンは、無・意味、非・意味には耐えられぬ。安心できない。名前を付けて、価値をつけて、意味をもたせて、もう一度(世界)を再構築しなければならない。正に、生きる、原点に戻って。必要なものを残して、不必要なものを棄て去ること。

一切が、無へと、空へと、投げだされた今、ニンゲンは「人間原理」を、見直さなければならない。ニンゲンのいない世界でも、廻っている「宇宙原理」に対抗して。

さて、フクシマに、和合亮一という詩人がいる。被災者である。3・11以前には、日経新聞に、エッセイを書いていた。ゆるい文章で、思考も平凡で、現在の詩人レベルは、こんなものか、と、その凡庸さに、溜息のでる、詩人であった。高校の先生をしている。なるほど、語りの中に、その匂いが漂っている。妙に正義感があるのだ。

その和合亮一が、豹変をした。いや、いい方に化けたのだ。和合亮一は、3・11の原発の放射能の降る中で、「ツイッター」詩をはじめたのだ。

3・11の震災の真っ只中で、自らの心情を、いや、全存在を、コトバに託して、語りはじめたのだ。「詩の礫」である。

ツイッターとは、140文字以内で、自分の思ったコトバを、発信するものらしい。本来は、詩ではなくて、散文、つまり(私)の呟きである。

その、和合の呟きが「詩」に昇華されていた。力のあるコトバだ。従来の「詩」という殻を破って、あらゆるコトバを、(詩にならぬ言葉も)たたきつけるように、書いている。スピードがある。臨場感がある。チラチラ、鋭い一言が見える。

つまり、もう、和合は「詩」を意識していない。意識は、完全に、3・11で、深層意識のゼロ・ポイントに落ちている。存在は、絶えず、余震と放射能に脅かされて、ゼロ・ポイントにいる。

かつて、アメリカの、トルマン・カポーティは、殺人者を、事件と、同時進行で追って、「冷血」という、ノン・フィクションノベルの最高傑作をものにした。

和合の試みは、散文と詩のちがいがあるが、カポーティのコトバの力を思わせた。モノに憑かれているのだ。無意識の闇の中から、深層意識の蔵の中から、コトバが起ちあがってくる、和合は、そのコトバを捉える、ひとつのマシーンになっている。

普通の平凡なコトバが輝いている。同じコトバでも、3・11以降の和合のコトバは、その意味がまったく、ちがっているのだ。詩語も俗語も、まったく、気にしないで、来るコトバを、そのまま、文に、詩にしている。

理由は、簡単だ。日常が、非日常へと変化したのだ。和合は、日常の、生活の、生きる根を喪って、ゼロ・ポイントで浮遊しているのだ。突然、和合は、異次元へと投げ込まれている。だから、見るもの、平凡なトマトやくるみさえも、輝いてみえる。

和合の変身は、驚きであった。(場)が(状況)が、語ってる。決して和合ではない。和合は、ただ、コトバを、書かされているのだ。

ニンゲンは、異常な時空を、非日常を、そんなにも長くは、生き続けられない。(①日常→②非日常→③日常)となる。しかし、③は、決して①ではない。

「詩ノ黙礼」は、「詩の礫」の続篇である。

疾走する文体、叫ぶ声、震える身体、コトバの力は、だんだんと落ちている。日常が、少し、回復して、意識がモノやコトを観察しはじめている。

「詩の邂逅」は、いわゆる「詩」と被災者たちとの対話(散文)で構成されている。和合は、日常へと復帰しはじめている。で、依頼されて、「詩」を書いている。残念ながら、「詩の礫」や「詩ノ黙礼」のように、詩語を使わぬ、約束を破った、狂的な力が消えている。

整然と並ぶ、行分け詩は、3・11以前の和合の、詩や散文のように、(詩)に納まってしまっているのだ。思考の、思想の彫りの浅さばかりが目立ってしまう。なぜか?

和合は、いわゆる「詩」を書く意識に戻りはじめている。意識や存在が、ゼロ・ポイントに陥って、コトバが、自然に、吹きあげてくる、あの力が消失したのだ。かえって、対話者との散文が(事実)の重さを伝えている。皮肉なことだ。

日常に戻った時、和合は、3・11以前の日常と、眼の前の3・11以降の日常を、明確に、意識化して、コトバが、なぜ、力をもったのか、考えるべきである。

同じ、(花)や(木)や(空)であっても、コトバの意味が変わるということ、そのことを、完全に、意識化できた時、和合の「詩」の力は、もう一度、復活するかもしれない。

つまり、いつも、3・11の、意識と存在が、ゼロ・ポイントに落ちた、その時を、心の中に、甦らせることだ。その時、コトバは魂となって、疾走する力をもつ。ポール・ヴァレリーのいう「純粋詩」が誕生するだろう!!

Category: 書評
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