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• 水曜日, 3月 28th, 2012

歩くというのは、単純であるが、奥の深い行為である。歩くは生きるである。歩くは、発見するである。歩くは邂逅するである。道は無限である。歩くは、マンダラである。
そして、遍路は、歩いて、マンダラである。
そして、遍路は、歩いて、マンダラ宇宙を知る、巡礼の、長旅である。

いったい、なぜ、こんな事態に陥ったのだろうか?人間がこんなにも、痛んで、傷ついて、壊れて、淵に追いつめられている時代はない。それとも、昔から、人間が生きるということは、四苦八苦の道であったのか。

戦後、六十余年、日本人は、戦争を放棄して、豊かさと幸せを求めて、額に汗をして、働き続けてきたではないか。便利さと快適さを求めて、科学の(知)で。

物質よりもココロの時代と呼ばれて久しいが、そのニ頃対立の解消は、そう単純ではない。農業も、漁業も、土木も、その重労働を解消するために、耕運機を、エンジンを、シャベルカーを発明、導入し、身体の疲れを取り除いたはずだった。雪の日、猛暑の日、快適になるためには、クーラーを。車の普及、汽車、電車、飛行機、電話、テレビ、パソコン、洗濯器、掃除器、冷蔵庫、電子レンジ、湯わかし器、風呂、水道、日常生活のほとんどが、電気・ガス・石炭のエネルギーで支えられている。
不安も、苦痛も、不快も、一切が解消されて、人間は、便利に、快適に、気持よく、ゆっくりと、生きる時間を、楽しめるはずであった。

現実は、物に、人に、疎外されて、息つく暇もなく、効率を求められて、疲労し、過労になって、身も、心も、病んでいる。

情報は、世界を駆けめぐる時代である。地球も、小さな惑星になった。親たちの時代、明治・大正の人たちには、考えられぬ、現実であろう。しかし、便利と効率は、必ず、競走を産み、その、光と影がある。毎日、新聞やテレビには、日本中の不幸が、世界中の不幸が報道されている。しかも、一人の力では、解決できない問題ばかりだ。正直に、視て、読んでいると、ココロがウツに陥ってしまう。他人の不幸を、わが身のこととしていると、自分のココロが壊れてしまうほどに、不幸の種は尽きない。(空海には、それに耐える、胆力と智の力があったが)

日本の現実を眺めてみよう。
超高齢化社会の現実がある。

十年間、三万人を超えた自殺者。四百万人を超えた失業者。年収二百万以下の労働者二千万人。結婚しない人、できない人。孤独死。無縁死。心の病気三百万人。介護疲れ死。親の子殺し、無差別殺人。限界集落。お金がない、仕事がない、病気になった、人間が生きる、衣、食、住が崩れているのだ。
もう、いいだろう。あげれば、切りがない。問題は、一人の人間の能力の限界を超えているものばかりである。

そこに、人類の、最悪の大惨事が起こった。3.11である。大地震、大津波、大原発事故だ。十ヶ月たった今も、本当に、人間が、体験したという、事実の重みに耐えかねている。

科学の(知)の神が死んだ。(安全神話)
知識人のコトバが死んだ。
本当のことを伝えられない、報道しない、テレビ、新聞の信用が地に落ちた。
作家も、詩人も、芸術家も、哲学者も、宗教者も、大学教授も、誰も、二万人の死者たちに、十二万余の被災者に、真のコトバを発することができなかった。
嘘の、虚のコトバばかりであった。
メルトダウンはありません。
安心です。
ただちに、健康に影響はありません。
文切り型のコトバに、固定した映像、数字、御用学者ばかりだった。本当のことを言った人は、二度と、テレビに出演させなかった。政府の要人、大企業、大病院、少数の人々だけが情報を握っていた。
いくらでも、事実を、真実を、放送するチャンスはあったのに。放射能の流れる、風向きの予測を放送してあげれば、将来の、病気の不安が取り除かれたのに。
パニックを恐れて、真実を伝えなかった。人間は、決して、愚かではない。自ら、選択ができる。愚かであったのは、誰か?
国の犯した、大罪であった。

原子は、原子力は、まだ、科学の(知)では、制御できない。宇宙は、人間の(知)を超えている。
沈黙した人の方が良心的だったのか?
いや、3.11で解ったことは、決して、専門家の(知)に頼ってはいけないということであった。
万能細胞にしろ、遺伝子の組み変えにしろ、脳死にしろ、将来、何が起こるか、わからないまま、進められている。人体も、植物も、いや、生命自体が、未だ、わかっていないのだ。六十兆の細胞、DNAは、解ったが、決して、それで、人間という生命が、解明された訳ではない。
まだ、人間は、宇宙のことも、千分の一もわかっていない。二十世紀まで、宇宙は、原子で出来ていると信じられてきた。二十一世紀になると、宇宙は、眼に見えない、ダークマターで出来ている、と解ってきた。
十の五〇〇乗も、ある宇宙は、もう、SFの世界を超えている。証明すらできない。

で、私は、死者にあてがえるコトバ、被災者にあてがえる、文学のコトバを探し、書こうとした。そのコトバが見当たらない。
そうだ、一番深いコトバは、宗教の中にある。空海のコトバだ。突然、高野山への旅に出た。大学があった、聖なる地に。ここは空海のコトバの蔵があると思った。そこから、空海への、長い、長い旅がはじまった。ゆっくりと、じっくりと、空海の声が聞けるまで修学してみよう。これが、私の発心である。
空海は、死んでしまった現代のコトバを、再生させる、種子を、もっているかもしれない。
コトバは、その人の位置と場と位相が決定する。
位相:社会の中で、どんな立場にいるか。
政治家と選挙民、社長と社員、医者と患者、教師と生徒、父母と子供、というふうに。
場:何処に、どんな環境、条件の下に住んでいるか。都市と地方。寒いところ暑い処。貧と富など。
位相:考える、信じる、生きる力のレベル。労働する力の有無。知識の有無。体力の有無。情力の有無。技術の有無。信仰の有無。
そして、
コトバにもいろいろある。散文、詩、メタ言語、純粋言語、人工言語、絶対言語、そして、最高の位置に、空海の真言がある。

私は、コトバとして、現在、アフォリズムを開発した。考えるコトバではない。どこかから、私へと来るコトバである。意識のゼロポイントの、深層意識の、アーラヤ識から、吹きあげてくるコトバである。
3.11の死者たちに、被災者たちに、六百本捧げた。まだまだ、死者たちに、とどくコトバを生み出せない。

私の、高校時代の級友に、建築家・歌一洋君がいる。
三十余年も会っていなかった。高校時代には、色白で、おとなしく、目立たない学生であった。ある日、突然、東京の事務所へ来て、ヘンロ小屋を建てはじめたと、八十九の、模型図を展げた。その土地の地形、風土、風俗、習慣に合わせた、八十九種のモデル絵画があった。
三十を過ぎるまで、何をして、生きていいのか、わからなくて、掃除や皿洗いやガソリンスタンドでアルバイトをしては、世界中を旅して歩いた。そして、ある日、建築家になろうと、決心した。見事な感性で、その場を読み取る力がある。発想がある。各賞に輝き、名声を得た。
そして、無償の、ヘンロ小屋の建築である。資金は、すべて、地元民の寄附。材料も、その地元にあるもの、大工仕事も、すべて、(共働)で実施する。
歩いて、疲れた、お遍路さんが、ふと、足をとめて、一服する。雨風を、日射しを避けて、休憩をする。彼の奥さんは、お金にならん仕事ばっかりしてるねぇ、と笑ってみせた。
歌一洋のヘンロ小屋の仕事には、感服した。本当に、いい仕事とは、人間らしい仕事とは、こんな仕事であろう。
実は、彼も、少年時には、お遍路さんを、お接待した。その記憶が、ヘンロ小屋の建築への原動力になっている。

私も、3.11以降は、生きるスタイルを変えた。
一度、一切の知を棄てて、四国八十八ヶ所を歩こう。3.11の、死者たちにもとどく、アフォリズムを、その紀行文を、芭蕉の「奥の細道」に習って、西行の歌に、習って、百本、それぞれのお寺に、道に、空海に捧げよう。
最高のコトバ、真言に至る道を、同行二人で、空海と、共時的に、歩いてみようと、念じている。血圧とアキレス腱を心配しながら。

(高野山大学大学院レポート)

Category: 空海への旅
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