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• 火曜日, 11月 04th, 2008

阿波市は四国を代表する、吉野川の中流域の北岸にひろがる市である。旧吉野町、旧土成町、旧市場町、旧阿波町が平成17年に合併した、新しい市である。人口約4万3000人。私は全国を歩いて、利根川・信濃川・北上川・石狩川など、日本を代表する見事な川をたくさん見てきたが、河口の水量は、四国三郎・吉野川が日本一だと思う。いや、水量ばかりではなく、その姿も堂々としている。

出身地はどちらですか、と訊かれる度に、私は「徳島県です」と答えて、すぐに「徳島と言っても、私の郷里は高知県と徳島県の県境にある宍喰(ししくい)という町です」と応えることにしている。半農半漁の、美しい静かな過疎の町だ。

同じ徳島でも、私たちは徳島市の人からは、南の人ですか、人がおおらかで、人情味があって、やさしい人が多いですね、と言われる。つまり、田舎の人である。のんびりしている。

だから吉野川を中心にひろがる市町村のことはよく知らない。旧池田町まで、車で町々を尋ね歩いたことが一度あるくらいだ。

しかし、徳島から高松へ出て、岡山廻りで東京に上京する際、いつも洋々と水をたたえた吉野川の姿には眼をみはったものだ。

四国は、徳島(阿波)、香川(讃岐)、高知(土佐)、愛媛(伊予)からなる島であり、瀬戸大橋が完成するまでは、舟で本州に渡った。

今では淡路へ、今治へと大橋が3本も架かって、電車やバスや車で本州へ道路を通って、通うことができる。

瀬戸内海はもちろんだが、太平洋側の徳島、高知も、陸の道以上に、海の道が発達していた。いわば海の民、海洋民族である。

フェリーで大阪へ、和歌山へ、神戸へ、岡山へと、四国の人々は海の足(海の道)を利用してきた。

同じ四国でも1県1県、風土や気候はもちろん、言葉づかいや単語までちがう。いや、同じ県でも、南と北、都市と地方では、その差が大きい。県外の人がきけば、同じように聴こえても、地方に住んでいると、隣の町の人とも、微妙に、言葉がちがう。方言は本当に風情のある言葉だ。

言葉は正に生きものである。その土地の文化や伝統や習慣が作りあげてきたものが、方言だ。血の通った言葉である。表情も微妙なニュアンスまで伝わる。私たちの少年時代は、その方言を学校で修正されたものだ。標準語が正しく、一番いい言葉だ、と教えられた。あれは、いったい何だったのか?

日本には今でも、何千もの方言が生き生きと使われているだろう。統一化は便利かもしれぬが、味わいというものが消えてしまう。

宍喰を7時17分に出発して、特急・剣山に乗り、阿波・池田方面へと向かった。美しい海を右手に眺めながら、快晴の空の下、電車はいくつものトンネルをくぐり、川を、橋を渡り、平野を横切って北上する。

快晴と言っても、都市の快晴とは訳がちがう。山の稜線、樹木の1本1本がくっきりと見える。光の強度がちがう。風が吹き、草花も、石までが浮かびあがっている。透明な水が流れて、泳いでいる川魚の影が、川底に写っている。

特急といっても、東京の快速くらいのスピードで、ゆっくりと、眼で風景を楽しめるのだ。徳島駅に着くと、特急で約30分、普通で約1時間のところに阿波市がある。

電車は、徳島平野を流れる吉野川の南岸を走り続ける。左手に低い山脈、右手には広大な徳島平野。電車からは、残念ながら吉野川は見えない。鴨島、川島を過ぎて、JR阿波山川駅にて下車する。無人駅である。山が接近してきた。阿波市役所までは、タクシーで約10分である。

12月3日。

今日はヘルスアップ事業の予防教室がある。徳島大学の田中俊夫先生による「1分間運動からはじめる糖尿病予防」が開かれる日だ。(つづく)

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

西洋医学と東洋医学を語れる講師は少ない。長島寿恵先生は、東京薬科大学にて薬学(西洋医学)を学び、幼い頃から岳父にツボや鍼灸などの東洋医学を教わっている。したがって、講話や実技の指導も和洋の入り混じったものになる。

糖尿病のメカニズムからはじまって、メタボリックシンドロームの解説は西洋の知であり、五色の食材が何に効くのか、頭から、耳、手、足のツボはいつでも誰にでもできる東洋の知である。

身土不二、一物全体食など、6千年間続いている中国の食の文化の奥は深く、カロリーを中心とする(成分)西洋の文化に勝るとも劣らない。

ウオーキングの指導では、日本の短距離界のエース末續選手が学んだ“ナンバ歩き”を取り入れて、参加者全員が実行した。

笑いの渦が起こった。

昔の日本人は、右足と右手、左足と左手を一緒に前に出す歩き方をしていた。明治に入ってからの日本人は、左足と右手、左足と右手と交互に出して、リズムをとりながら歩く方法を学んだ。

もちろん現代人は、自然に左右交互の手足の動きを取り入れた、西洋式の歩き方をしている。

“ナンバ歩き”は古い日本人の歩き方の長所を再び甦えらせたものである。山を登るときなどは“ナンバ歩き”の方が疲れにくいそうだ。

“教室”はあくまで楽しく、楽しみながら効果を出さねば長続きしない。

30分歩こう、1万歩あるこうと言っても、単なる義務感ではなかなか続かないし、日常生活に溶け込めない。五感を生かして、眼で紅葉を、耳で鳥の声を、鼻で菊の香を、舌で食材を、肌で風を味わいながら歩いてみると、ウオーキングの幅がひろがる。

揉み、叩き、さすり、押して癒す、ツボ、東洋医学も再度見直されて、きっちりとした効果測定がなされるべき時期かもしれぬ。

休憩のあと、ホテルの安永さんから温泉の歴史とその効果についての講話があった。約30分。“上手な温泉の入り方”である。

①まずかけ湯から

②体を慣らす半身浴

③体を洗う

④入浴時間はほどほどに

⑤浴後はシャワーを浴びないで

⑥水分補給を充分に

そして酒を飲んだ後の入浴の禁止や注意。【禁忌症】についての大切なお話。

さて、お昼は京須かおる先生(管理栄養士)のレシピをもとにして550キロカロリーの食事をホテルで作ってもらい、全員でいただいた。人参で色をつけたご飯、鳥肉、野菜など。見た目には本当に量が少ない(日頃、いかにカロリーを摂りすぎているのかがわかった)。

満腹感を得るためには、食べ方の順番というものがある。野菜から食べるのだ。30回噛む。早食いの癖(習慣)のある私には、30回が長い。量が少ない。しかし実際に教わってみると、食生活の見直しが如何に必要かがわかった。

希望者、体調のいい人は温泉に入って、今日の講習会はおしまい。

地の利を生かして、環境を利用して、温泉・食事・ウオーキングの合体したプログラム。伊豆の国市のヘルスアップ事業の成功を祈りたい。

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

温泉旅館で朝風呂に入った。極楽である。ひなびた昔ながらの温泉につかりながら、温泉街がたどっている光と影を思った。温泉地は昔から観光と湯治を売り物にしてきたが、社会の環境が変わって、社員旅行が減り、旅のスタイルが変わってしまった。若い人たちの生活・気質が大きく変化した今、新しく生まれ変わる運命にある。

一方で健康づくりに温泉が役立つと、温泉郷もそのPRに余念がない。また、都市にない自然を求めて、樹木や森に思いを馳せる現代人の心情もある。地方の商店街が、シャッター街に変貌している事実を各地で目にしている。

長岡温泉郷もまた、伊豆の国市という新しい名を得て、生まれ変わろうとしているように見受けられた。

資源は豊富で、恵まれた土地だから、知恵と工夫次第で再生は可能かもしれない。

今日の「温泉パワーでウエストすっきり!教室」の会場は、川のほとりの「おおとり荘」で行われる。

講師は長島寿恵先生。薬剤師、運動指導士、温泉療法アドバイザー、西東京糖尿病療養指導士など多面的な貌を持つ先生である。

9時30分スタートまで約1時間ある。見事な堤防があるので、思わず朝の散歩となった。「おおとり荘」という名前ではあるが、実は、鉄筋コンクリートの6〜7階建ての立派な観光ホテル(?)なみである。

ホテルの庭を出ると道路があって、その向こう側に、まだ緑を残した草原があり、狩野川が流れている。支配人の話では、快晴の日には左手に富士が見えて、見事なロケーションだという話だった。曇天で残念。

土手に上がると、左から右からウオーキングを楽しむ市民の方が早足で、次から次へと歩いてくる。

眼の前は、180度、伊豆の山々だ。河原には柳、ススキが揺れていた。眼を空に向けると、太い高圧線が走っていて、大きな鳥が30〜40羽ほどとまっている。二羽、三羽と宙に舞い、孤を描きはじめたので、その鳥がカラスではなく、トンビだとわかった。

群生する植物、街にひろがる緑の木立からは、小鳥の囀(さえず)りが風に乗って聴こえてきた。

伊豆の地は温暖で、11月だというのに、20度を超える暑さだった。

ゆっくりと、ゆっくりと孤を描くトンビが急降下して、川面に突入する。戻り鮎か、川魚を狙ったのだろうか?

街をめぐると、弘法の湯とか、温泉旅館、ホテルが軒を並べていた。

のんびりとした風景は癒しの湯にぴったりの情緒をかもしだしていた。

ホテルの一室に、教室の参加者が続々と集まっていた。これから4時間「ヘルスアップ事業」の基礎講座が催される。(つづく)

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

はるかな昔の話であるが、学生時代、青春の真っ盛りに、過剰な熱にうかされて、車で伊豆の長岡をめざして、車を走らせたことがある。文学仲間が集って、同人雑誌を出していた。その夜も4・5人が集って、文学談義に花を咲かせていた。

誰かが「夜の富士」を見に行こうかと提案した。富士という名前が夜の街に飽いた心にしのびこんできて、私たちの首根っこを押さえた。あとは勢いにまかせて、深夜の東名高速を走り続けた。闇の中に富士が見えたのか、もう記憶にはないが、その夜は、長岡のひなびた旅館に泊まった。翌日、伊豆スカイラインを走った。富士が眩しく輝いていた。

今から思えば、衝動的で冷や汗がでる。長い間、西伊豆には足を運んでいないから、30数年ぶりの“長岡の夜”になる。

沼津インターで東名高速を降りると、一路、長岡へと車を走らせた。

“長岡温泉郷”の看板を見たのが7時だから、2時間ばかりかかったことになる。

社員旅行、修学旅行、温泉旅行が盛んだった頃の賑わいはなくて、街は妙に静かだった。昔は浴衣姿で下駄を鳴らして、観光客が夜の街を闊歩していたものだったが…。

時代が変わってしまったのか。

“ゆもとや旅館”は、昔の旅館そのもので、部屋は柱も天井も古びてはいたが、妙に落ち着いた。トイレは共同で、部屋の外にある共同トイレだった。

食事は大広間で、客は私たち二人だけだった。昔の記憶をたどって、昔、とめてもらったのが、この宿かどうか訊いてみたが、どうやら別の旅館らしいと言うことだった。

魚中心の夕食に舌鼓を打って、真新しい畳の匂いを嗅ぎながら、昔の賑わいのあった頃の幻を思い描いてみた。あの頃、温泉は人であふれていた。

夜風に吹かれてみようか? 尾沼君に声をかけて、夜の温泉郷の探訪となった。人影も疎らで、やはり少し淋しい。30年代、40年代のあの熱気がないのだ。若い人たちは、もう温泉には足を運ばないのだろうか。旅館の下駄を鳴らして、昔日をしのびながら、ふらりふらりと歩いてみた。

歌声が流れてきた。カラオケの店だ。ストレス解消にと、店に入ってみた。中高年の男女がカウンターに座ってマイクを握っていた。大きな声で歌を歌うと、心の中に溜まっていたものが声とともに、外へ流れ出て、少しは気分がすっきりする。日頃は大声で笑ったり、叫んだり、とにかく声帯を使うことが少ない。

歌を聴くと、私たちと同年代で、昭和10年20年代生まれの、商店街で働く人たちのグループだった。いわゆる流行歌・歌謡曲で育った世代だ。美空ひばり、フランク永井、石原裕二郎、水原宏、耳に馴染んだ人たちの歌ばかりだった。

長岡の夜は、そうして更けていった。(つづく)

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

【伊豆の国市】は、いわゆる平成の大合併で誕生した新しい市である。長岡町、韮山町、大仁町が合併した。人口は約5万人、1.9万世帯。もちろん、名前の通り伊豆半島にある。

富士山の優美な裾野が海に向けて伸びきったあたり、裾野市、三島市があり、駿河湾に面した沼津市、そのあたりに小さなこんもりとした山々が幾つか点在して、伊豆の国市がひろがる。

伊豆半島には伊豆と名のつく市や町が5つある。東伊豆町、南伊豆町、西伊豆町、伊豆市(旧修善寺町など)、そして伊豆の国市である。

何度か大きな合併劇があった。その度に村や町の名前が消えていく。消えた名前を惜しむ人、残念がる人、名前は単なる地名の象徴ではない。生活や文化や歴史がその名前に張りついている。【江戸】は【東京】となった。もう大昔のことになるが。100年も前のことだ!

しかし、新しい名前にも、なるほど、素敵だと感心する名前もある。

【伊豆の国市】も実に見栄えのする、いい名前だと思う。

静岡、伊豆といえば、もちろん富士山、お茶、みかん、そして温泉だろう。

川端康成の「伊豆の踊子」はもちろん、松本清張、梶井基次郎や井上靖など、多くの文人、作家、画家、音楽家などが伊豆を訪れ、たくさんの作品を残している。

東京のサラリーマンが社員旅行、温泉旅行で最も利用し、愛したのも伊豆だろう。

伊豆の国市では、国保ヘルスアップ事業に地元の温泉を利用した計画を策定した。名づけて「温泉パワーでウエストすっきり!教室」である。

静岡県は、健康長寿日本一を目指して、ファルマバレープロジェクトをモデル事業として立ちあげ“かかりつけ湯”を創設した。伊豆には約57の温泉がその指定を受けている。

①健康プログラムの開発・温泉療法医・温泉入浴指導員が入浴のアドバイスをしてくれる。

②糖尿病などの予防メニュー、食品アレルギーを持った方に対応したメニュー食が提供される。

③健康増進のために運動メニューがあり、文学散歩コースを紹介したり、多様なサービスが受けられる。

④連泊や平日利用の方には割安な料金もある。

とにかく多様な方法で、おもてなしをしてくれるプロジェクトが“伊豆かかりつけ湯”である。

当初、私は東海道新幹線“ひかり”で東京駅から三島駅(約60分)まで乗車して、伊豆箱根鉄道駿豆線に乗り換えて、伊豆長岡駅(約21分)のルートを考えていた。そこから温泉宿までバスで10分の距離だった。

営業課長の尾沼君が、当地まで車で行くというので、思いがけぬ車の旅となった。

東京・両国の当社を出発したのが、すでに5時を廻っていて、大都市のネオンは煌々と輝き、東名高速に乗るまでは、おびただしい光の渦ばかりが眼についた。めざすは伊豆長岡温泉郷の“ゆもとや旅館”である。(つづく)

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

会場の広場で車の数をかぞえてみたら、27台あった。最初に来たときには3〜4台しか止まっていなかったから、24台増えたことになる。参加者は27人だ。いったい、どのくらいの距離を車で走ってきたのだろうか?とても気になった。

食生活の個別指導がはじまった。その間参加者は、和室で談笑しながら待っている。何人かの人にインタビューしてみた。

「今日は会場へは何で来ましたか?」

笑いながら、ほとんどの人が「もちろん、車です」と応える。

「何分くらいかかりましたか?」

「5分」「2分です」「3分です」

歩いても5分から10分で会場に着く人たちまで、ほとんどが車で来ていた。

「今日はわくわくダイエット教室ですよね」

「習慣なんです。なにしろ、ほとんどの家が、車、2台3台持っていますから」

「いやいや、時には家族の数よりも車の台数が多い家もありますよ」

まったくの車社会だった。以前は果樹園、田んぼ、畑へは歩いて言った。会社や工場へはバスがあった。今ではバスの本数も少なくなって、お年寄りが病院へ行くときに使う程度らしい。

生活の中に(歩く)ということがないのだ。意識して行かなければ、いつも車に頼ってしまう生活が、地方の現実だった。都市生活者の方が歩く機会が多いことは、明らかだった。

生活の足として車が登場する。車が必需品になる。経済、生活の向上で便利な生活が実現される。その結果、車にのることが習慣となった。

で?その結果は? 運動不足、肥満、糖尿病ということになった。

昔、食生活改善は、貧しい食生活を改めて栄養を摂って、カロリーを増やし、豊かな身体をつくりあげることだった。

今は、食生活も栄養過多、カロリーの摂りすぎ、食べすぎ、呑みすぎが問題になっている。皮肉なものだ。豊かさがアダになる。

集団指導では、加藤先生から栄養のバランスのとれた食生活、生活習慣病を防ぐメタボリックシンドロームを予防する食生活改善の知恵と工夫を、具体例をあげて、お話があった。

「肥満を解消したい人は手をあげて下さい」

ほとんど全員が笑いながら手をあげる。気質が明るくて、実直な町民だとの印象を受けた。

一人一人に、今後自分が改善する食生活について発表してもらう。人前での宣言は、記録をするのと同じくらい効果がある手法だ。

①間食をひかえます②ビールの量を減らして焼酎にする③夜食を食べない④甘いもの、くだものを控える⑤野菜をたくさん食べる⑥糖分を減らす⑦揚げ物を控える⑧よく噛んで食べる⑨早食いをあらためる。

約束する。公言する。それは、実行へとつながる第一歩だ。実現可能な改善目標をたてて、一人でも多くの人が、ダイエットに成功してもらいたい。

北国の夜は4時を廻ると、もう窓に闇が押し寄せている。講義のあとも個人面談が続いた。夏なら7時頃まで明るいが、晩秋である。6時、今日の「わくわくダイエット教室」が終わった。加藤先生、参加者の皆さん、ご苦労さま。感謝。

河北町には、ホテル、宿が見あたらず、東根市まで車で走って、駅前のホテルで一泊した。

それにしても、この車社会、町をあげての意識改革、構造改革、社会の仕組みまでをも考えなければ、“習慣”は変革できないかもしれぬと深い溜息をついた。もうすぐ一帯が雪に覆われてしまう冬という季節が到来する。

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

11月の菊の香りが広場に漂っていた。今回の会場は、河北町の農村環境改善センターである。講師は米沢の大学で教べんをとられている管理栄養士の加藤哲子先生である。参加者の一人一人が、カメラで撮影した自分たちの食事を、先生に分析してもらい、アドバイスを受ける。個別指導を受ける日である。

ちなみに開講式は、9月27日に行われた。講師は医学博士で長年糖尿病を予防する運動プログラムを開発され、現場での指導で効果をあげてきた藤沼宏彰先生だった。先生は無理をしないで、楽しみながら(?)日常生活の中で、実行して習慣化できることをモットーにして、指導されている。

会場の入り口には、菊の大輪の花が数本あって、その形、真っ白な色(なぜ植物から白が出てくるのか、いつも不思議に思っている)が見事だった。その傍らには、一本の茎か、数本の茎か見分けがつかぬが、その枝に、数百個の小さな花が咲いていて、楕円形にひろがった姿は、飛行機の翼のようだった。

開始まで1時間あり、スタッフが準備をする間、ふらりと散歩に出た。その町を知るには観光名所ではない、普通の生活の場を見るのが一番だ。

極々普通の町の路地を、あちこちと自由に歩いてみた。どこの庭先にも花があって、その香りが路上に漂っていた。足にまかせて西里地区を歩くと、晩秋の景色の中に花々の色彩が色鮮やかに、空気までも染めていた。

見慣れない光景に思わず足を止めた。広い庭の植木に、円錐形の形にした竹をたてかけて、細ひもで結んでいた。大きな植木には、太い木を寄せ木にしてある。黙々と作業をする手を、黙礼して、見せてもらった。

北国の冬支度だった。

冬には雪が1メートルも降る地方だ。植木も放っておくと、雪の重みで倒れたり、折れたりしてしまうのだろうか?

寺社があった。【曹洞宗永昌寺】とある。左手には朱に燃えるもみじがあった。門をくぐると、空気が凜と張りつめていて、音という音が吸い尽くされたような静寂があった。砂に箒(ほうき)の後が生々しい。

町のあちこちに用水路があって、透明な水が流れていた。しばらく歩くと、小学校があった。教室から遠く、子供たちの声がきこえてくる。校庭に入ると、校舎の入り口に鉢がたくさん並んでいた。

どの鉢にも咲き終わったあとの花の跡があり、鉢には子供たちの学年と名前を書いた札がついていた。(花を育てる)心のかたちを教えている。さすがに紅花で栄えた土地柄だ。長い時間をかけて育んできた文化が、こうして脈々と子供たちに受け継がれている。

河北町には紅花の交易で豪商となった堀米家があり、【紅花資料館】には紅花染の豪華な着物やひな人形が展示してある。

里の子たちにも文化と伝統は受け継がれていた。花を通じて、情操を育てるという形の中に、昔の姿が残っていた。柿の北限と言われる山形県だが、確かに熟した柿の実があちこちに点在していた。(つづく)

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

駅前で「国保ヘルスアップ事業」を受託している永薬品商事の菅原課長と新人の平田君に合流して、車に乗った。

“さくらんぼ東根駅”から河北町までは車で20分ほどだと言うので、今日は是非、名物の【肉そば】を昼食にしたい、と頼んでみた。もちろん二つ返事だった。

果樹園が続いていた。さくらんぼ、ぶどう、りんご、柿、ラ・フランス(洋梨)などを総称して、地方ではフルーツという。果物とは言わない。なるほど、レストランでは食後にデザートとして、フルーツがでる場合が多い。これもひとつの戦略か。ネーミングも大切な顔にはなる。

【肉そば】には冷たいものと温かいものがある。板そばは、板の上にそばを乗せてあって、ツユにつけて食べる。東京でのザルそばと同じようなものだ。

ところが【肉そば】は丼の中にたっぷりのツユが入っていて、その中にそばと鳥肉が入っている。伝統食や郷土料理には、その土地の食文化、食習慣、知恵がもっともよくあらわれている。身土不二の思想である。

見た眼には濃い味に見えたが、食べてみると、あまり油っぽくはないし、冷たいそばにも歯ごたえがあって、大盛りを注文したが、ペロリと食べてしまった。

このそばには日本酒が合うだろうなどと、酒の旨い山形のことだから、昔の人がそばと肉を食べながら、熱燗を呑む姿を想像してしまった。胃にももたれない。食堂はお客でいっぱいだった。

昔は馬肉や牛肉を使っていたと、そばの歴史を紹介した新聞記事の紹介がコピーして、透明なファイルに入れてあった。

“道の駅”はいろいろな国の政策でも成功した事業ではないかと思う。私も全国に出かける度に、山の中や辺境に“道の駅”を見つけては入ってみる。食堂やレストランばかりではなくて、その土地の産物の売店もあって、けっこう役に立つ。

河北町の“道の駅”は【ぶらっとぴあ河北】と命名され、最上川の河岸にある。国道287号が走っていて、その橋のたもとに建っている。塔のような4階建ての建物だ。展望台があるというので、昇ってみた。

曇り空で、遠方が霞んでいる。町の全容が見渡せる。最上川が眼下にあって、河原に雑木が立ち、水量は晩秋で少なめだが、草原が土手にひろがり、ウオーキングに絶好の堰の道がのびている。その姿は【川】の美しさを残している。やはり最上川だ。

「五月雨を集めて早し最上川」

町並みは北の低い山のふもとまでのびていて、川向こうに東根市、北に村山市、南に天童市、山形市、西に寒河江市と、市に四方を囲まれながら、独立してる町が河北町である。

快晴ならば、月山も遠望できる位置にある。四方をぐるりと眺めながら、町の姿を頭の中に入れて、塔を下りた。

会場へは今しばらく車を走らせねばならない。町を五つの地区に区切って、毎年、その地域の人々から参加者を募るのだ。今年は、西里地区がその舞台である。
(つづく)

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

河北町は名前の通り、河の北にある町である。川の名前は最上川。山形県最大の河川であり、多くの町がその水の恩恵を受けている。江戸時代に栄えた紅花や米の交易で、豪商の出現もあり、水の豊かな最上川を利用しての舟運業は、河北町にも財と文化をもたらしている。

現在、河北町の人口は約21,000名、5,800世帯、高齢化率は27%である。

山形県は酒田や鶴岡といった海の町と、山形市、天童市、米沢市など山の町に大きくわかれている。河北町は山の町である。

河北町は山形県内で、唯一「国保ヘルスアップ事業」に取り組んでいる市町村である。

11月10日・11日と、一泊二日の旅に出た。東京発9時24分発の“つばさ”に乗った。快晴である。

いつも思うことだが、新幹線の出現は、旅と出張の形を変えてしまったひとつの【事件】だった。風景が眼の中を飛び去って消えてしまう。トンネルが多くて景色が見えない。確かに、目的地には早く着くので“便利”にはなったが、失われたものも多い。

特急や急行、普通や夜行列車が次々に姿を消してしまって、各駅停車しか止まらぬ駅の人々は、さぞかし不便だろうと思う。

東北や北陸へ行く場合には、大宮・高崎・宇都宮あたりまでは新聞を読むか、眼をつむって目的地のことをあれやこれやと考えては、想像をめぐらしている。

関東平野はほとんどがビルと家屋の塊になってしまって、眼をとめるべきものがないからだ。

山形へは2〜3度、足を運んだことがある。1度目は「奥の細道」の芭蕉の声を求めて、通称“山寺”と呼ばれている立石寺を訪ねた。

「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」

真夏日で、蝉の声よりも人の声の方が多かったが、急な石段を登って、下から吹きあげてくる風を受けると、遠望する眼に時の壁がゆらいで、ふと、芭蕉の声が幻聴のように耳の奥に響いた。風景は、何重にも透視しなければ、その底に隠れたものは見せてくれない。

もう1度は、1月の寒い日に河北町で行われた介護予防教室に訪れたことがあった。雪の降る中を、要介護度1〜2の方が、町の出迎えのバスに乗って、参加してくれた記憶がある。町の温泉は元気になる源だった(べに花温泉・ひなの湯)。

河北町には新しいものに取り組む熱い姿勢がある。進取の精神、そんな伝統があるのだろうか。

「介護予防」事業だけではない。河北町には「健康かほく21行動計画」「健康づくり推進都市の宣言」「健康づくりいきいきサロン事業」と3本の柱がある。

「国保ヘルスアップ事業」に取り組んだ最大の理由は、成人の肥満者の増加と糖尿病予備軍の増加にあった。

「牛肉弁当、いも煮弁当、峠の力餅」と米沢・山形名物がアナウンスされると、風景が大きく変わって、山形県入りを確認した。空は曇天だ。

右手に堂々たる連山が続き、刈り入れの終わった田園が茶褐色にひろがり、川らしきものも眼にとびこんできた。

燃えるような赤は終わっていたが、紅葉が山一面にひろがり、ところどころに深紅のもみじが顔をのぞかせ、秋の風にススキが揺れていた。フルーツ王国らしく、鉄パイプの屋根が果樹園を覆っていた。

月山、羽黒山、湯殿山の出羽三山にはじまって、鳥海山、最上川、庄内平野、さくらんぼ、花笠踊りと、誰でも知っている【山形県】を頭の中で追ってみた。

山形県を舞台にした森敦の描いた名作「月山」、藤沢周平の「蝉しぐれ」、芭蕉の「奥の細道」は、私の心の中では山形ばかりではなく、日本の文学の神髄を語る作品となっている。

12時11分、つばさは“さくらんぼ東根駅”に到着した。      (つづく)

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

海に雪が降っていた。

祭りの興奮が醒めたあとの、淋しさに似た気分を引きずったまま、猿払村を後にして、車で南へ、南へと下った。

北の日暮れは早くて、もう、外には薄闇がおりていて、車のライトに白い雪が浮かびあがる。透明な時間が、海に降る雪の中に流れていた。

長い間、都市で生活していると、時間は時計の中にあり、あるいは、壁に刻まれた線か傷のように思えて、息が苦しくなる。時々は、その感覚から解き放たれたい。嘔吐がするほど激しくなると、心の状態が、とても、悪化していると感じてしまうのだ。

今、北の海に降る雪を眺めていると、車の外にある風景に、透明な、形もない、原始の時間がぴったりと吸いついて、流れていくのがわかる。

都市では、日頃味わえない感覚が、内臓の内側からこみあげてきて、私を浄化するのだ。

何か得体の知れぬ大きなものが、途轍もないスピードで、私の身体を吹きぬけている。

風という時間。これが(北)の放出する時間なのだ。不思議な感覚だ。私はなぜか厳しい寒さを忘れて、少し幸福な気分になって、海に降り続ける雪に流れる(原始の時間)を、感じ続けた。

「ぼくたちの仕事は地の塩だね!!」

「地の塩ってどういうこと?」

「ほら、動物が地面を舌でなめてるだろう。あれさ、身体に必要な塩が地面の土に入っているんだよ。」

「ひとり、ふたり、元気な人が増えて、その輪がゆっくりとひろがっていく。」

「時間のかかる、根気のいる、仕事だね」

講師の小柳先生、大和産業の上原部長、若い営業マン、4人の乗った車は、激しい雪の降る道を、旭川市へ、南へと走り続けた。

北の冬の生活の話を、ぽつりぽつりと語ってくれる。眼で11月の雪を見ながら、耳で聞いた生活を想像する。旅と生活が合体する。

“音威子府”村で、私はひとり、車から下ろされた。特急が止まる駅だ。旭川へは、まだ、車で相当な時間がかかる。札幌へは特急に乗った方が便利だという理由だった。稚内へ向かう時、雪の中に見た駅名だから、妙に心の中に残っていた。まさかその駅に降りて、そこから特急に乗るとは、おかしな話だ。縁があるとしか思えない。

しかし困ったことに、無人駅で売店もなく、特急が来るまで1時間もある。空腹である。寒い。私は靴がすっぽりと入るほどに積もった雪の中を歩いて、店を探しはじめた。街を歩く人もいない。車もほとんど走らない。外灯と雪の明かりを頼りに、とにかく、店の灯りを求めて歩き続ける。

幸い、灯の点いた店が一軒、雪の中にあった。

女主人が、まるで幽霊でも来たのか、というふうな眼で私を見た。頭も、眼鏡も、コートも、靴も、雪だらけの姿だった。焼き肉屋さんだった。

日本酒、熱燗を一本、冷えた身体に流し込むと、五臓六腑に沁みわたった。北の人は親切で、情が深いのか、とにかく手づくりの酒のツマミになるものを、何品か出してくれた。どこから来たのか、何をしに来たのかと、旅人に訊くべきことを一通りきかれたので、私も冬は大変ですねと、どんな生活を送っているのかとたずねたりした。

「住めば都でね。何もなくてもね。2月にはね、全国のクロスカントリーの大会があってね、たくさん来てくれるよ。雪がいいんだね」

特急の時間が来たので、お金を支払って、その安さに驚き、札幌は遠いよと、ミカンと漬け物を手渡してくれたのには、二度驚いた。まるで、四国のお遍路さんに対する“お接待”と同じだった。

北の心に触れた一瞬だった。

旅のはるばると来たという感慨に、心がいっぱいになった。長い長い冬の夜、列車の旅は、あれやこれやの日々の苦労から解き放たれて、ひたすら、浮遊する思いをたぐり寄せては、旅愁の深い思いにひたりつづけた。

札幌のホテル着、11時。泥のように眠った。私が到り着いた一番の北の村、猿払村への旅は、もうすぐ終わる。

明日、眼が覚めれば、また大都市・東京での生活が待っているはずだ。いつか、また今度は、春か夏の猿払村を訪ねてみたいと、花々の咲く北の村を夢見ながら、眠り続けた。