Archive for the Category ◊ 作品 ◊

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• 土曜日, 8月 08th, 2009

1. 「柄谷行人 政治を語る」(図書新聞刊) 柄谷行人著
2. 「昭和史」(平凡社刊) 半藤一利著
3. 「終の住処」(新潮社刊) 磯崎憲一郎著
4. 「千と千尋の神話学」(新典社新書) 西條勉著
5. 「総会屋錦城」「鼠」「落日燃ゆ」「毎日が日曜日」「気骨について」(新潮文庫) 城山三郎著
6. 「荒川修作の軌跡と奇跡」(NTT出版) 塚原史著
7. 「建築する身体」(春秋社刊) 荒川修作+マドリン・ギンズ著
8. 「死ぬのは法律違反です」(春秋社刊) 荒川修作+マドリン・ギンズ著
9. 「三鷹天命反転住宅」「水平社」~ヘレン・ケラーのために 荒川修作+マドリン・ギンズ著
10. 「意味のメカリズム」(西武美術館刊 緑箱社作) 荒川修作+マドリン・ギンズ著
11. 「荒川修作を解読する」(名古屋美術館 読売新聞社刊)
12. 「足摺岬」(講談社刊) 田宮虎彦作品集
13. 「多世界宇宙の探索」(日経BP社刊) アレックス・ビレンケン著

本格的に「荒川修作」を読みはじめる。
奇人・変人・異端者・天才・画家・建築家・思想家と七変化する「荒川修作」に邂逅できたのは、大きな喜びであった。

イエス・キリストの「復活」、空海の「即身成仏」、仏教の「輪廻転生」、ニーチェの「永劫回帰」と並んで荒川修作の創出した、「天命反転」−「私は死なないことに決めた」も、21世紀の人類が生みだした、途轍もない宣言である。これから、じっくりと、考えてみたい。

8月1日(土)−「写真ワークショップ in 三鷹 天命反転住宅」があるというので、「死なない家」を訪問してみた。
(後で体験談を紀行文・エッセイで書いてみたい)

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• 水曜日, 7月 08th, 2009

国会の答弁で、総理大臣麻生太郎が、幾度か、漢字の読みまちがいを犯した。政治家は自らのヴィジョンを言葉で表現し、実行する、それが生命の仕事である。TVや大新聞でも話題になり、麻生総理は、政治家としての格を下げた。元総理大臣の小泉純一郎は「漢字が読めなくても、総理になれる、変人でも総理になれる」と講演で、笑いながら話をした。

日本人は、日本語でものを考える。

日本語は、漢字・カタカナ・ひらがなの混ったユニークな文章からなる。英語は、音に意味のある言葉で、文字には意味がない。

漢字は、文字そのものが意味をもっている。

だから、単なる読みまちがいでは済まされぬ問題が発生する。一つの漢字にも、いろいろな読み方がある。音(声)と形(意味)の双方が、正確に表現されないと、正しい意味が通らない。

総理大臣の答弁が、実際は、官僚が書いたものであっても、声に出して、読み、発表(発言)するのは、総理大臣本人であるから、単なる読みまちがいでは済まない、深刻な問題となる。

最近、若い人が、本を読まない、文章が書けないという話をよく耳にする。何時の時代でも、自分のことは棚にあげておいて、最近の若い者は、漢字が書けない、文章が誤字ばかりだと嘆く老寄りがいる。

実は、齢をとると、物事を忘れるばかりではなくて、漢字が思い出せなくなる傾向がある。

ひとつには、パソコン・ワープロの普及で、キーボードを叩けば、文字が出てきて、選択して並べば、文章になる−その便利さに大多数の日本人が慣れすぎた為だろう。

手紙を書く人も少ない。簡単なメールや電話で用が済む。

十年、いや二十年ほど前から、電子文字の出現で、漢字が書けなくなったと嘆いている会社員がいたのだ。

で、「漢字検定」がクローズアップされた。漢字を知る、文字は、単なる記号ではなくて、意味を含んだ言霊である。漢字を知れば知るほどに、表現の幅はひろがり、正しい意味を伝える文章が書ける。レポートを書く、人と対話する、論文を読む人−漢字の知識は、日本人には不可欠な、空気や水である。

ちなみに、今年度のベストセラーは、漢字に関する本で、百万部を突破したという。

さて、本書は、漢字の研究に一生を捧げ、白川学と呼ばれる思想にまで築きあげた、白川静の全体像を、現代の(知)の名編集者・松岡正剛が書き下ろした入門書である。

松岡正剛の名は、若い頃、特異な雑誌「遊」の編集者として知り、後に「空海の夢」を読み、その(才能)に注目している。世の中には、南方熊楠・空海と博識強記の人間がいるものだと感嘆する。白川静−松岡正剛も、その系譜に属する人たちである。

「字統」「字訓」「字通」は、決して、天才ではない人が、生命がけで学問に精をを出せば、ここまで到達できるものかと、生きれば生きるほどに深まる思想の世界に、息を呑み、赤貧の、生活苦の中から、揺るぎない白川学を樹立した強靭な精神に感動すら覚えるものだ。

「漢字は世界を記憶している」

漢字の発生から、古代文化から、東洋の思想から、そして、漢字という国語をうみだした気の遠くなるような(歴史)という時間を追う白川静を、(知)の人松岡正剛は、一般の人にも解るように、パラフレーズしている。

好きで好きで、楽しんで、三度の飯よりも漢字の研究を貫き通した白川静−一冊でも読んで見る価値はありますよ。あなたの人生にどうぞ。

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• 水曜日, 7月 08th, 2009

猫の話ばかり書いている作家がいるというので、「プレーンソング」「草の上の朝食」「この人間の閾」を読んでみた。面白かったので「カンバセイション・ピース」から、評論集「小説の自由」「小説の誕生」を通読した。

そして、本書「小説・世界の奏でる音楽」まで来た。

実は、小説以上に、評論集の方が刺激的であった。私が、考える波調が、半分くらい、そうだろ、本当、そのとおりなんだよと合点し、半分は、いや、行きすぎだろうが、書き手に引きつけすぎだろう、もっと自由だろうが、小説はと反対する。

「(私)という現象の、宇宙地図を作る。それが(本)の最終目標だ)と考えているところの私にとっては、保坂和志の、瞬間のインパクト=リアリティの感受には、大賛成である。

だから、保坂は、三島由紀夫の文体や、村上春樹の文体に、考える、思考の力を見い出さないのだ。

普通、傷は、そのまま、疼き続ける。ところが、小説では、傷も、至高のものになる。その変り目が見える人は、本当の、小説読みであり、小説を楽しめる人なのだ。実人生ではなく、虚の世界でも、人は、人に、パワーを与え、与えられることがある。

つまり、平凡な、どこにでもある世界にも、傷があり、輝やき、深淵が口をあけているのだ。保坂の描く世界には、つるつる滑ってしまう日常生活の中にも、確かな杭や釘があると思わせる腕がある。

本書は、小説の読み方というよりも、保坂自身の心性が固有に結晶する、その流れを、ていねいに追っているものだと考えたい。

つまり、保坂は、考えるという哲学をしている。保坂の宇宙地図が、どのような(本)として書かれていくか楽しみでもある。

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• 水曜日, 7月 08th, 2009

−英語の世界の中で−

警告の書である。本、特に、小説が読まれなくなって久しい。いい小説がない。レベルが低い。しかし、小説や詩を書く人は意外と多い。インターネットの時代である。ブログの時代である。ケイタイ電話とメールは、洪水のようにあふれている。

そんな時代に「日本語が亡びるとき」と問題提起をするのだから、読まない手はない。

作者は、バイリンガルである。小説家である。(しかし、残念ながら、私は、まだ、水村さんの小説を一冊も読んでいない)

本書は、実に刺激的であった。読むたびに衝撃があり、脳が考えたりしたところが、24ヶ所あった。ていねいに論じる為には、その24ヶ所を開いて、もう一度、ゆっくりと、思考する必要がある。

本書は、英語が(普遍語)になった理由を論じて、実に説得力がある。

確かに、科学やその他の分野での論文は、ほとんどが(英語)である。日本語が(地方語)だというのもわかる。実用の世界では、確かに、他の言語は、英語という、一級上の(普遍語)によって淘汰されてしまうだろう。

小説・文学はどうか。<叡智を求める人>たち、つまり昔でいえば、鴎外・漱石・荷風・潤一郎のような人たちが、出現しないし、もの(小説)を書かなくなった。頭の悪い人が、身辺雑記を小説として書いているだけだ?!!(本当?)

人は、なぜ、小説を書くのか?なぜ小説を読むのか?なんの役にもたたない、ビジネスにも使えないものを!!

(そこに人間がいるからだ)だから、作家は誰よりも人間通でなければならないし、あらゆる分野のことに精通していなければならない。何よりも、よく生きた人でなければ。

ところが、読む力、書く力、あらゆる力が低下している。作家の、社会における位も落ちている。作家ばかりではない。医者、政治家、教授、位の高い職業とはいったい何だろう。

私は、(本)は、その作家の資質や心性や知識によって、その人に固有の、ひとつの(宇宙)を語ってくれるものだと考えている。だから、一人のポーが出現すればいい。一人のドストエフスキーが出現すればいいと考えている。その人に固有の考えていることがあれば充分だ。今度、水村さんの小説も読んでみよう。芸術・文芸は、進歩・進化・時代に関係なく、(私)の中から現れるものである。

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• 水曜日, 7月 08th, 2009

一寸先は闇の人生である。誰もが、昨日の延長で今日を生きており、今日が明日につながる、それが普通の生だと考えて生きている。明日、死ぬ、それほどの覚悟で、今日を生きている人は少ないだろうし、突然の不幸が自分に襲いかかると予想して生きている人もいないだろう。人は、いつも、(今・ここ)を生きている。

「免疫の意味論」は、知のパワー全開の多田富雄の本であり、十年に一度、出会えるかどうかという、見事なものだった。胸腺の研究を中心に、生命は超スーパーシステムだと論じた、医学者として、ノーベル賞ものの内容であった。

ところが、地方都市での講演の最中に、突然倒れて、言葉と手足の自由をうしない、描いていた人生からは、まったく別の世界の人となる。順風満帆の、華麗な人生が、一転して、地獄になる。

本書は、<知>で書いた「免疫の意味論」とは対極にある<全身>から呻き声を絞り出すようにとにして書かれた<人間>の本である。

呟きが、そのまま声となって、読者の心をうつのだ。決して、知識で武装した文体ではないが、ぷつぷつ切れて、折れて、停って、どもって、心に泌みわたる文章で、感動を呼ぶ。

詩を書き、新能楽を書き、論文を書き、エッセイを書き、数々の賞を受賞して、輝やきの頂点にあった著者が頭から真っ逆さまに地面に衝突して、もだえ、あがき、希望をなくし、死を思う床から、あたらしい(巨人)として、歩き出そうとする姿は、人に勇気とエネルギーを送ってくれる。「歩くというのは人間の条件なのだ」と多田富雄は、電動車椅子を拒む。新しい生命を生きるために、苦業のリハビリに挑み続ける。正に魂の書である。

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• 水曜日, 7月 08th, 2009

色という現象は、形以上に不思議なものた。特に、白、植物から白い花が咲くのが、とても不思議に思っていた時期がある。ある親しい人が、死期が近づいたある日、なぜなんだどうしても、ものに色が現れるのが不思議でしょうがないよと、しみじみと訊かれた時があった。ある病院のベットの上でのことだ。

一応、光について、初歩的な、科学の知識で説明したが、それを聴いても、ふーんと言って、自分の懐疑を溶解させたふうでもなかった。

光は7色である。虹が自然界の秘密を解く。光がものにあたると、そのものを構成している原子が反応して、ある光の波調は吸収し、ある色の波調は反射する。その原子の性質によって、ものは、それぞれの色をもつ。

だから、闇の中では、色はない。

確かに、そのように話をした。

その人は、一応の知識人であったが、ものが固有に色をもっていて、闇の中でも、そのものが持っている色は消えない、だから、闇の中でも、ものは色を持つと考えてしまう。

そうゆうふうに考えていた。

私は、その問いの不思議よりも、自分の専門とする分野ではなくて、死期が近づくと、 人間として、もっと、根本的なことを知りたくなるものだな、その心の作用の方が不思議だと思った。見舞いとはむつかしいものだ。

その人は、胃ガンで、もう、自分に、死期が近いことを知っていた。その二ヶ月後に死んでしまった。

長い間、色の不思議をかかえていたのだ。

私自身も、光の性質や、原子の周期や性質について、知識としては知っていても、その人と同じように、ものにある色という現象が今でも、不思議である。

どうしても、もの自体に、色の要素ではなくて、色そのものが、含まれていると思いがちなのだ。

しかも、私の場合には、白という色が、不思議である。ものが原子で出来ていると知っても、光がなければ、色がないという、そのこと自体が、なかなか、頭の中で、すっきりと納得されていないものかも知れない。

現在では、科学の進歩で、あらゆる色が作り出される時代になった。色も、また、人間が人工的に、作りだした文明のひとつである。

ある書物で、生れた時から、全盲の人が、色について、確かに理解をしたと書いてあった。どうして、一度も見たこともない、色というものを、理解できたのだろう。光に触れて、全身で、感じることはできるとしても、色は、眼で見なければ見えないものではないのか?

わかるという力は、どこから来るのか?

脳は、見えない色を、どのようにして、理解したのだろう。

眼が不自由で、ものが見えない人が、色について、わかったということ自体が、また人間の不思議である。
見る、知る、想像する、心眼で見る、透視する、幻視する−能力というものは、どこまで進化するのだろう。

生命は、宇宙のすべてを知るために出現したとでも言うのだろうか。闇の底に沈んで、眼に見えないダーク・マターも、人間は、いづれ、知ることになる−存在は、発見された時、存在になる。最近、波という力、あらゆるもののリズムということを頻りに考える。

科学という力を信じることと、全盲の人が色がわかるという力の、どちらが、人間にとって大切なのか、現代人の試金石が、ここにもある。

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• 土曜日, 7月 04th, 2009

現在、ドストエフスキーが何十万部も売れている。読まれている。いったい、なぜ、誰に?現代の日本人は、百年前のロシアの作家の作品に、何を求めているのだろうか。実に、難解で、やたらに長くて、気力・体力・時間がないと、おいそれとは読めない作品ばかりだ。四大長篇「罪と罰」「悪霊」「白痴」「カラマーゾフの兄弟」は、人類史上でも、ベスト3に入る(本)だと思う。そこには、何があるのか、人間の深い、深い声が鳴り響いている。

「罪と罰」は、殺人者ラスコールニコフの物語である。なぜ人を殺したのか?いったい殺すという行為とは何なのか?殺された人はどうなるのか?殺した人は果たして生きられるのか?復活と再生はあるのか、そんな声が、作品の全篇を貫いて流れている。

さて、一方、現代は、メール・ブログと無数の電子の言葉が機械の中で飛び交っている時代ではあるが、本当に、人が必要とするたったひとつの質問にも答えてくれる人がいない。人間の声ではなく、記号ばかりが浮遊しているのだ。

なぜ、人は、人を殺してはいけないのか?

母が我が子を殺す、息子が父を殺す、夫が妻を殺す、無差別に、誰でもいいからと、銃で、ナイフで、他人を殺す、毒殺する、切り刻んで殺して棄てる、もう、なんでもありの地獄図が、日替りメニューのように発生している。人間が人間を放棄している。

そして、テレビや新聞が、無期懲役だ死刑だと大騒きをする。素人のコメンテーターが無知の知も知らずに、浅薄な発言をする。うんざりだ。

さて、そんな時、不意に、国は、権力は、裁判員制度を新しく導入すると言う。

なぜだ?理由は?誰が?どう変えるの?

疑問と質問と不信で口のなかが砂粒を呑み込んだみたいにざらざらする。

あぶない、変な予兆だ。いつも、国のやり方は、決まっている。官僚と専門家で、雛形を作って、誘導する。形だけはオープンにして。

国民が参加する。裁判員になる。無作為に抽出した人に、まるで、赤紙のように、あなたは裁判員候補だと送りつけ、理由なく拒否すれば、罰せられるのだ。

法や制度が、(現実)に合わなくなれば、改良するのは当然だ、現代の要求だ。しかし、今回の裁判印制度の導入、国のPR誌も見たことがない。全国各地での講習会も、聴いたことがない。プロの裁判員が足りない?先進国で遅れている?国民の生活の経験を生かしたい!!スピードアップしたい!!3~4回の審議で、素人が、どうやって、有罪・無罪を決められる。私個人は、人間を、人間の外側へと棄てる死刑に反対で、加担したくない。否。

「詩と思想」(7月号)

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• 火曜日, 5月 26th, 2009

死ぬまでに、もう一度、ドストエフスキーの、四大長篇小説と「地下室の手記」を読んでみたい、それが、長年の私の夢だった。「罪と罰」「悪霊」「自痴」「カラマーゾフの兄弟」。魂を震撼させる書物があることをはじめて知ったのが、ドストエフスキーの作品だった。

本の力というよりも、人間が考えられる、もっとも上質な思想、あらゆる問題が、(お金が、酒が、病気が、権力が、性が、家が、愛が、宗教が、永遠が・・・)ぎっしりとつまっていて、心臓がパクパク、頭がヒリヒリと熱をもち、心は揺れに揺れて、読む前と読んだ後では、自分が、別の人間になってしまったと思えるほどの、おそろしいリアリティに満ちていた。全身が、ドストエフスキーの言葉に痙攣を起こして、火傷をして、歩き方まで変わってしまうほどの体験であった。脳を手術されるほどの衝激であった。

長い間、その声と思想の火は、私の中に、燠火のようにくすぶっていて、生き続けていた。

60歳まで生きてきた。40年前の、20代の、青春の真っ盛りで読んだドストエフスキーを、今の私が、どう読むだろうかという、再読の期待があった。

平凡に生きてきた人間であっても、波風が立ち、砂利を噛んだり、病気や怪我とつきあったり、事故に会ったり、人生のあれやこれやは、人並みに、充分に体験してきた。もう、20才の、日常生活を知らぬ青二才ではない。生きてきた眼で、ドストエフスキーを読めば、どう読めるだろうか、そういう期待もあった。

最近、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」が10万部も売れているというニュースを聴いた。本が売れない。本を読まない。そういう時代に、誰が、どんな理由で、ドストエフスキーを読んでいるのだろう。いったい、何が起こっているのか?

確かに、21世紀の人間は浮遊している。殺人の残忍さ、不況、自殺、倒産、汚染、新インフルエンザ・パンディミックの不安と、毎年毎年、いや毎日毎日、人の心を暗くさせるニュースには事欠かない。

ゆったりと、おおらかに、長い人生を噛みしめながら、日々を生きている、そういう姿には、長い間、出会ったことがない。

心が泡立ち、ささくれ立ち、苛々して、いつも、棘が咽喉に刺さったように、人々は、生活をして、生きている。日々の、小さな、心の叫びまで、大きな時代の波に呑まれて、不安の海を漂っているふうに見えてしまう。

ヴィジョンもなく、目的も定まらず、存在が稀薄になり、その場その場を、どうにか生きている。不安の時代だ。

しかし、それでも、人は、私とは何者か、何処から来たのか、何処へ行くのかと考え、考え、生きていく動物である。

言葉がいる。

大理石のような、堂々とした、あらゆるものがある、ドストエフスキーの言葉が求められている。

読書、その本の言葉を生きてみる−それは、「現実」の体験に次ぐ、もうひとつの力である。

今年から、気のむくままに読んだ本の感想と、本の紹介をしてみようと思う。現在、人間の社会で、何が問題になっているか、どんな人が何をテーマーに書いているのか、人間の考えがどのくらい進化しているのか、ひとつの地図を、私なりに作ってみようと考えている。

平成8年10月から平成9年4月までの読書。
1. 「寡黙なる巨人」 多田富雄著
2. 「日本語が亡びるとき」 水村美苗著
3. 「小説・世界の奏でる音楽」 保坂和志著
4. 「白川静−漢字の世界観」 松岡正剛著
5. 「魂とは何か」 池田晶子著
6. 「忠臣蔵」 秋山駿著
7. 「伝説の編集者・山厳浩を訪ねて」 井出彰著
8. 「空海の企て」 山折哲雄著
9. 「光の曼陀羅」 安藤礼二著
10. 「筆に限りなし・城山三郎伝」 加藤仁著
11. 「国家の罠」 佐藤優著
12. 「自壊する帝国」 佐藤優著
13. 「インテリジェンス人間論」 佐藤優著
14. 「邪馬台国とは何だろうか」 眞木林太郎著
15. 「あれかこれか」 壬生洋二著
16. 「その夏・乳房を切る」 篠原敦子著
17. 「やわらかなこころ」詩集 坂本京子著
18. 「鴎外はなぜ袴をはいて死んだのか」 志田信男著
19. 「ポジティブ・スイッチ!!」 KIMIKO著
20. 「脳のなかの文学」 茂木健一郎著
21. 「裁判員制度」 丸田隆著
22. 「アジアのなかの和歌の誕生」 西條勉著
23. 「徒然草」 吉田兼好著 (再読)
24. 「土佐日記」 紀貫之著 (再読)
25. 「肝心の子供」 磯崎憲一郎著
26. 「メキシコの夢」 ル・クレジオ著
27. 「生命・形態学序説」 三木成夫著 (再読)
28. 「生命形態の自然誌」 三木成夫著 (再読)
29. 「時間と自我」 大森荘蔵著
30. 「トルストイの幼年時代」 トルストイ著
31. 「トルストイの少年時代」 トルストイ著
32. 「トルストイの青年時代」 トルストイ著
33. 「罪と罰」 ドストエフスキー著 (再読)
34. 「悪霊」 ドストエフスキー著 (再読)
35. 「風土記」 久松潜一校注 (再読)
36. 「古事記」 三浦佑之 (口語訳)
37. 「哲学とは何か」 ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ共著
38. 「人生劇場」 尾崎士郎著
39. 「ユリシーズ」 ジェイムス・ジョイス著 (再読)
40. 「四国八十八ヶ所感情巡礼」 車谷長吉著

私は、本を読む時、私がスパークした文章に会うと、本のページの右、左の上を折るようにしている。再読する時、あらためて、考える時に、便利だから。つまり、ページを折る箇所が多ければ多いほど、私の感動する量も多かったということになる。私の評価が高い、私にとって、必要だ、価値がある本ということになる。

読み終えた40冊を論じたり、考えはじめると、何冊もの本を書かなければならないほどだ。感想は、紹介は、ひとつの提起にすぎない。次回から、地図を作りはじめたい。
5月21日

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• 月曜日, 5月 25th, 2009

昔、映画の時代劇で「もっと心の眼で見よ、お主が見ているのは、単なる現象で、幻よ」というようなセリフを、お坊さんが、若い剣士に語る場面を、何度も見た。

いわく 心眼である。

子供心に、そんな眼があるのだろうか?ものを見るのは、この顔の中心にある肉眼しかないのではないかと反射的に考え、いやいや一流の剣士ともなると、そういう心境、境地に達しなければ、人間として、未熟なのだと思い、「心眼」に反応したものだった。

いつの間にか、科学全能の教育をされて、機械と、コンピューターの時代に育ってしまうと、「心眼」などという言葉さえ忘れていた。

多くの人が、一日中、コンピューターの前に坐って、仕事(作業)をする時代になって、動物としての本能も機能も無視して働くあまりに、ほとんどの人が、ストレスをかかえこみ、画面の中にある数字や文章やグラフに振り廻されて、悲鳴をあげている「現実」を生んだ。

「現実」は、もちろん、画面の中にあるのではない。しかし、画面に浮きあがるものを「事実」として捉え、仕事をすすめていくうちに、「事実」がもっとも強い「現実」としてのリアリティを持ちはじめた。

便利さと効率をひたすら求めてきた結果、動物としての人間の機能は、ある部分だけを鋭く成長させ、別の部分は、日々、退化していくという現実に直面している。

人が、声と声で挨拶を交わし、議論をするのではなく、隣に坐っている人に対しても、メールを送って、「対話」をする。

「声」は、実は、もっと豊かで、表現を持ち、強弱を持ち、さまざまな色彩を放出してくれるものだ。

その「声」も、使用しなければ衰えるだけだ。大声で叫び、大声で泣き、耳許で囁き、甘く呟き、鋭く叱咤する。その「声」を、現代人は、忘れはじめている。

見ること。見ることは見られていることでもある。どこまでも見続ける。眺めて、凝視して、とことん「もの」「ヒト」を見る。

そして、考える。人間の持っている一番大きな力−考えること。
「私」と「社会」を「世界」を「宇宙」を考えるのは、考えるという力をもっている「私」だ。
その「私」が「私」についてどこまでも考える。「私」という不思議を生きている「私」を考える。考えるということを考える。
以下・・・限度がない。

しかし、見ること、考えることの他に、言葉・言語以前の現象、事象についてはどうするのか?

<観照>という言葉がある。
辞書に、こう書いてある。
「①対象を、主観的要素を加えずに冷静なこころでみつめること ②美を直接的に認識すること。直観。」

どうであろうか?
あの、子供の頃の、時代劇の映画で使われていたセリフに似ていないか。
「こころでみつめる」と書いてある。広辞苑に載せているのだから、単なる迷信・妄想ではあるまい。

「心の眼でみる」=「心眼」と、どこがちがうのだろうか。表現が古いから、「心眼」は、知識人には、ニャーと笑われるだけか。あるいは、そのことを、深く考えて、現代風に変え、生かせれば、言っている内容は同じことなのか?

「直観」とは何か?
見る・考えるという方法では捉えられないものが、直観では、わかるということなのか。

「考える」ということでは、捉えられないものがある−言語以前のもの、思考の網にさえ捉えられないもの、確かに「美」は、絵画、音楽、彫刻には、それと認められる。なかなか、言葉では、表現しきれないものも、音や色や形では、容易に現すことができてしまう場合がある。

「心の眼でみる」を「心の耳で聴く」とすれば、どうであろうか。

先日、故郷の海岸で「漣痕」を久しぶりに見た。大地の隆起活動によって、2000万年前の海底が陸地になり、道を作る為に、山の斜面を伐り崩した際に、波のかたちが岩の表面いっぱいに現れたものである。

私は、長い間、「漣痕」の前に佇んで、凝っと、2000万年前の波のかたちを眺めていた。

心は、妙に、動揺していた。何か畏怖すべきものに邂逅していると感じ続けていた。気の遠くなるような、時間の流れの中に、褐色の、無数の波のかたちが顔を出して、まるで、人間を覗き込むように、春の光を浴びて鈍く、重く、輝やいていた。

私は、果たして、人間が、画家が、カメラマンが、作家が、この2000万年の時空を存在し続けてきた「漣痕」を画けるか、写せるか、書けるか?と考えていた。表現できまい。「心の眼」を思い浮かべたのは、そんな時であり、確かに「観照」という現象が「私」に起こっていた。

2000万年の色と形−その存在は、人間の手に負えない、表現をはみでてしまった強度をもって追ってくるので、私は、肉体の眼ではない、30億年生きてきている生きものが内包している、もうひとつの細胞の眼のようなもので対応している自分に気がついた。

私は観照していたのだ。
「心でみつめる」という現象の中に「私」がいた。おかしな表現だが、どうしても、直観よりは、心眼の方が、観照している自分にぴったりと合致していると思えた。

「考える」ということは「信じる」ことではない。だから、私の観照が、どのように思われるか、私にはわからない。

懐疑する人には、一度、漣痕の前に立って、凝っと眺めてみて下さいと言っておくしかない。

なお、「漣痕」は、徳島県の海陽町宍喰の海辺の道にある。町から歩いて、10分ほど、旧道(土佐街道)添いにある。そこから、しばらく歩くと、小高い山の上に、水床壮跡があって、360度の眺望が楽しめる。海と川と山が、絶景である。

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• 月曜日, 5月 25th, 2009
1. 時間が爆発する。空間が爆発する。意識が爆発する。(私)が爆発する。
アフォリズムとは、もうひとつの宇宙である。
2. 足許はいつもじりじりと焼けている。焦らず、迷わず、ゆっくりと、愚直こそが王道だと、歩め。
3. 承認された瞬間に、浮遊していた「それ」は、「事」と「物」になる。
4. 眼で、思考で、意識で、五感で了解したものは、言葉以前からの「事実」となって誕生する。
5. 「事実」は「現実」と呼ばれてもよい。ただし、表現された言語の中での「現実」だ。物自体は、その外に在る。
6. 前を視るだけでは駄目だ。背後も、右も左も、上も下も視る。ものが本当に視えるのは、複眼だから。心眼で見る。透視の力はもっと強い。一番強いのは、もちろん死者の眼だ。
7. あらゆる現象、時空、存在を浮かべているわが超球宇宙に、法もなく、目的もなく、ただ、偶然に顕現したものだとするならば、私たち人間の生きる意味とは、宇宙にとって何だろうか?
8. 沈黙する宇宙、暗黒の宇宙に、まだ見えぬが、かすかに、語りかけてくるものがある。それは、波に似たリズムに乗ってくる。
9. 夢は知恵の塊だ。眠りの中で点滅するサインは、ひとつのエネルギーであり、ヴィジョンの形だ。
10. 大人という人を見なくなって久しい。世の中は、頭のいい小人ばかりだ。無私の精神はどこにあるのだろう。
11. 眩暈は、存在に対する驚きだ。いつも平凡な生活の中にある。
12. 空を見るだけの人は、天を見る人に勝てない。
13. 発熱こそがはじまりである。
14. 100パーセント来るという「死」が見えない。「死」はどこにもない。あるのは、他人の、他の生物の死体ばかりだ。「私」の死は、永遠に宙吊りにされている。闇から闇へ。
15. 一瞬にして狂う。そんな、危険な、亀裂があるものだ。心というブラック・ボックス。
16. 「私」の言葉と「社会」の言葉は絶対にちがう。家を出る時、人は、「私」の言葉を殺して、会社へと歩いていく。言葉の化粧だ。
17. 私・(今=ここ)・無限の宇宙を歩いている不思議!!
18. カメレオンが自由に身体の色を変えるように人間の思考も、形や姿を変える新しい力を持てないものか?存在の革命ということ。
19. 自然の進化では遅すぎる。科学の進歩も待ってられない。意識が変客体そのものになることだ。
20. 終日、自由に自分を泳がせてみる。必ず、そこから湧きあがってくるものがある。その声に耳を傾ける。存在の呟き。
21. 「私」という現象の宇宙地図を作る。それが「本」の最終目標だ。
22. 顕れるもの・隠れるもの、表現はその一切を含まねばならない。
23. 思考の透明な棒を振っても振っても深淵宇宙は遁れていく。
24. 言葉自体が「魂」をもっている。
25. 「隠遁」は、現代では、死語だろう。実際、もう、どこにも、隠遁できる場所がない。素顔と仮面がぴったりと縫い合わされた顔をした現代人は、辛い。
26. あらゆるものを食い潰して、均一にしていく力がある。差異を認めぬ光という力。
27. 血が30億年も生きている。それはいったい何者だ。
28. 波。波打つということ。呼吸から銀河星雲まで。
29. 人は、何重にも生きねばならぬ存在である。
30. 現代という時代は、西行を、芭蕉を、兼好を拒否する。山頭火も放哉もいない時代は乾いている。
31. 思考が、まばたきをして、三分と同じことを考えられぬ。
32. 何かいいことをしたい。それが、人間にできる最高の行為だと信じる。その何かいいことがなかなか見つからない。あれでもない、これでもない。
33. 停年というのは、不思議な制度だ。人間にはいつまでたっても停年はないのに社員だから、停年が来る。
34. 蛍が光る、女郎蜘蛛の尻が朱く光る。人間は、どのようにして、何時光るのだろう。
35. 私というレンズを磨き続けること。あらゆる事象が写るレンズにはあらゆる言葉が発光体となる。
36. 「私」が考える、そう考えるしかない、と、そのように考えることが、人間という「私」の存在の在り方にあるとすれば、おそらく、思考の特異点というものがある。いわく、”無”と。
37. 観照は、思考とは別の認識のあり方だ。
38. 全盲の人にも色がわかる。−見たこともない色が、見える、わかる、心の眼か?
39. とすれば、言葉を知らない人にも(わかる)ということが可能になる。それは、考えるという力とは別の力だ。
40. 人間が知りたがっているのか、それとも、何かが知らせたがっているのか。
41. 謎は深ければ深いほどよい。未知なるものがあればあるほどよい。人は混沌からそこまで歩いてゆく。
42. 思考のコンビニ化ほどつまらないものはない。
43. 明日がみえないという。それが不安だという。では、現在は見えているのか。今、ここを生きている限り、混沌は人間の足許にある。カオスを生きるのが人間だから。いつも覚悟がいるだけだ。
44. 一かゼロではない。じりじり、じりじりと消耗していく。辛いのは、日々の衰弱だ。錆びた鉄が腐っていくように、ボロボロ、ボロボロと身も心も崩れていく。その時には、声をあげるのだ。助けてくれ!!と。恥も外聞もあるものか。他人にとどくように大きな声で叫ぶのだ。人間がいる限り声はとどくものだ。
45. 人は、いつ、生きるのだろう。「仕事」をしている時が、唯一の生きる時であるならば、生活のすべてが仕事で占められている訳だ。実に淋しい限りだ。
46. 結局、「私」が私自身に重なる時が、もっとも、生きている時だと思う。
47. 書くことは、死ぬための、レッスンかもしれぬ。
48. それは、突然、向こう側からやってくる。歩いている時、公園の林で、書斎で。私は必死にそれを追う。額の前40センチばかりのところに、文章が現れる。手はそれを追う。いったい誰がものを書いているのだろう。至福の時だ。
49. 何時の頃から、日本には「お金の神さま」が出現したのだろう。心の時代と唱えられながら、ものの時代に突入して、いつの間にか、誰もが、お金が一番という信仰を持ってしまった。
50. お金に泣かされた者ほど、お金を信仰する。お金を馬鹿にした者は、お金に泣かされる。お金を持てば持つほど幸せになると思った人が不幸になる。「お金という神さま」は、何時まで幅を利かせるのだろう。
51. 「無」の王は、時間も、空間も、物質も、光も、闇も、一切のものを、存在から解き放つ。
52. 人間の頭脳は、完全な「無」を意識できない。ないものは、考えられない、想像もできない。しかし、「無」という名辞がある。不思議だ。
53. 死さえも「無」ではない。
54. 「無」は「空」でもない。
55. 「死」もまた、ひとつの変容である。
56. 在ることから無いことへと移行するには、時空を飛躍して、完全なる蒸発をするしか、術がない。
57. 「無」からのはじまりこそ、人間が創出すべき最大の課題だ。
58. 一が多である、多が一であるとしても、なお「はじまり」は見えぬ。
59. 「零」の発見は古代インド人の最高の功績である。「無」の発見とその証明は、人類の最大の課題であろう。
60. 数式・理論が「宇宙」を解明・表現したとしても、宇宙は、その外にある。
61. 不死・永劫回帰・輪廻転生、復活・ビッグ・バンと、人間は、神話、哲学、宗教、科学で「世界⇒宇宙」の誕生と死を追ってきた。まだ、その答えはない。はじまりも終りも見えない。
62. 「誕生」も「死」も、仮のはじめり、仮のの終りにすぎない。
63. 時間の反対に「虚時間」がある。「無」のかすかな揺らぎに、「虚時間」が動き、ひび割れ、時空が噴出して、「宇宙」がはじまったとしても、やはり、「虚時間」もまた、「無」の中に、ひそんでいなければならぬ。それでは、「無」が「無」でなくなってしまう。
64. ビッグ・バン(火の玉)からはじまった、わが「宇宙」も、やはり、ビッグ・バンの前を問わなければ、「はじまり」は始まらない。
65. 「神」が宇宙を創造したとしても、その創造以前に、「神」は、いったいどこにいたのだろうと誰もが、考えてしまう。「無」は「神」の場ではあるまい。
66. 「神」が発見できるもの、想像できるもの、考えられるもの、証明できるもの、それを「宇宙」と呼ぼう。それ以外のものは、何ものでもない。なぜか?人間が、その存在を証明・発見できぬもの、それは「もの」ですらない。人間原理。
67. 「宇宙」の存在と「人間」という存在の不思議は等価である。
68. 「瞬間が永遠である」そう感じた時、人は、おそらく「光」の正体に触れている。
69. 無限遠点から見れば、人間の生活も、一瞬の光にすぎないが、そのはかなさの中に人生があると思えば、実におかしい。哄笑したいほどだ。
70. 物理学者ボームが「宇宙は、たったひとつの原子で出来ている」とアイデアを語った時、アインシュタインは、足をとめて、沈黙したという。なぜか?
71. 神話・宗教・哲学・科学と、人類は、6000年の時間をかけて「世界⇒宇宙」を探求してきた。その謎は、解けるのか?現在、何合目くらいにいるのだろう。(文学)も、また、ひとつの人間という宇宙地図を求めてスタートし、現在は、息が切れて、衰弱している。しかし、たった一人の才能の爆発で、事態は急変するだろう。
72. 結局、(道)は、大きく二つに分かれる。ひとつは、孔子の「論語」のように、人間の生き方を問う道と、存在そのものを問う老子の「道」だ。
73. 人生訓、経済書、法、医学書、生きるために、生活のために、役に立つ本が99パーセント読まれ、(存在)の探求の書は1パーセントも読まれればいいくらいだろう。役に立つとは何か?
74. 小説・文学は、実用の書ではない。なんの役にも立たない。それでも(人間の形)がわかり(魂)の声が響いてくるから、(存在)する意味はある。
75. 星空・銀河・天の川を美しいと思った時期があった。銀河・星雲を畏怖する時期があった。どちらが幸せだったものか・・・。
76. 人間の原点が露出するのが「歩行」である。歩いていると、「私」が、身一点に感じられる時がくる。社会の、会社の、家庭のあらゆる着物を脱ぎ棄てて、(私)が宇宙に触れている。波の衝突。
77. 始められないものは終れない。
78. どうしても、人間は、「宇宙」の誕生と死を考えてしまう。思考の形か?
79. 物語は、決して、終れない。完全なプロットの小説でも。
80. 宇宙の全物質からの放射を受けた(人間)は、いったい、何というだろうか?そこには、表現さえも無いのかもしれぬ。(無限)の顕現。
81. 万事休す・・・生きていれば、必ず、一度や二度は、そういう場面に遭遇する。そんな時には、(私)を放り投げて、自由に泳がせておくことだ。
82. 断念からものを書く(核)が立ちあがる。もう、失うものは何もない。無私になって思考のバネに委ねてみることだ。
83. 昆虫は、自分の存在に必要なものしか食べない。それに比べて、人間は、手当り次第、何でも食べてしまう。怪物だ。
84. 私も、(仕事)のない時代を経験した。生きる(場)が、(仕事)である。無職は辛い。あれゆるものが、(私)を否定している。そういう暗い、悲しい状態は、人をして歪めるが、人の声を聞き分ける、いい耳も育ててくれる。
85. 脳の力ばかりが強調される時代になった。「本能」という力は、もう一度、見直されるべきだ。脳のない生きものたちの底力。
86. 「見ることは見られることだ」−それ以上に、「触ることは、触られることである」−その方が、最近では、(知る)という点では深いと思うようになった。
87. 「今日の人は、もう、誰も、氏神さんにお拝りにいかん」−老いた母が語った。帰郷して祭りを見学した。衰えて、消えていくのは祭りばかりでない。祭りを支えた日々の人々の心の灯が消えているのだ。
88. 「私は死なないことに決めた」荒川修作の言葉だ。奇人・変人・天才と言われる荒川修作は、100パーセント自明だと言われている「ニンゲンの死」に挑戦する。思えば(私は復活した)と言った人や、「私は生まれ変わる−仏になる」と言った人とどうちがうのだろうか?「建築する身体」「天命反転」は、実に過激であるが、狂った声ではない。ニンゲンから、次のステップへと移行する者の種子だ。
89. 人間は、物心がつけば、自分(私)が、(今・ここ)にニンゲンとしているとわかる。で、そのまま、ニンゲンを続けて生きることになる。(始まり)も(終り)も見えぬまま。
90. 仏になる、復活する、輪廻転生する、即身成仏する。天国・地獄といい、この世・あの世と言い、比岸・彼岸と言い、現世・来世と言い、過去・現在・未来と言い、多次元・宇宙と言い、人は、いつまでも、(私)はどこから来て、どこへ行くのかを問い続ける。すべて、(私)という現象の不思議がなせる術である。
91. 永劫回帰も、また、流転する宇宙の見事な表現である。
92. ニンゲンがヴィジョンを見失っている。方法は二つある。①小さな惑星の生きものとして、(私)の至高のものを追求し続けること。そして死滅。②銀河から宇宙へと、永遠に飛び続ける生命体に進化して、全宇宙を知悉する探索者になること。自らが創造する者になる。永久革命。
93. おびただしい数の星と無数の太陽で夜空が煌めき、時空がゆがむほどの力で漂っている、そのエネルギーを浴びていると(私)が何者でもないと納得する。
94. 世の中を相手にいくら闘っても限りがない。本当に闘う相手は自分自身だから。
95. どんな悪い人でも、自分自身はかわいいものらしい。その証拠に、食べて、呑んで、快楽して、自分に対しては、いいことをしたがる。
96. (私)は宇宙の中で痙攣する一本の線だ。
97. 人間は、何かいいことをしたい動物だ。もちろん①自分自身にとっていいこと(気持ちいいこと、快感、必要)②他人にとってもいいこと③社会・環境にとってもいいこと④宇宙にとってもいいこと
①~④が成立すれば最高のヴィジョンになる。しかし、いざ行動を起こすと、衝突があり、闘があり、文句・不平・不満・批判が続出する。さて、ニンゲンのヴィジョンは①~④の条件を含むものだとして、考えてみよう。
98. 曜日が消え、暦が消え、時計が消え、裸の(私)が露出していく。
99. どうやら、「精神と身体」という二分法・二元論が、毒だった。
100. 一日、コトとモノにあふれる形相のなかを歩いた。無数のパルスが(私)を刺し貫いて、光となって飛んでいく。そこには生きられる時間が流れていた。