Archive for the Category ◊ 作品 ◊
215. 在るがままに在れ。
219. 空間と言い、真空と言い、虚と言い、空と言い、何もないことは、考えられぬことであるから、触れることも、知ることもない”無”という王である。事象の地平線の彼方では、言葉も存在も、沈黙して、その海を消してしまう。
233. (私)が、まだ誕生していなかった長い長い宇宙の時間、どこにも(私)の断片もなかった時、その宇宙へ(未出現)の可能性を思う時、(私)の出現は、ほとんど、奇蹟に近い。理由もなく、目的もなく、顕現してしまった(私)という存在の不思議に、震撼させられるのだ。同時に、(私)の死後長く長く続く永延の時間に、もう、二度と、(私)が現れることがない、そのことが、気絶しそうなくらいに、畏怖すべき事件に思えるのだ。どちらも、完全な(無)に近い。
245. あらゆる(知)を学習したい人⇒学者へ
262. 時間も空間も歪んでいるとアインシュタインは言う。時間の歪みは、直線的に流れるのではなく、遅くなったり早くなったりするとイメージができる。しかし、どうしても空間そのものが歪んでいるイメージが、私の平凡な頭には像を結ばない。同じように、宇宙が超球であるという、その超級もイメージができない。
266. (私)は生命というスーパーシステムである。(多田富雄) なるほど、そうすると、(脳)は器官のひとつである。(私)は、決して(脳)ではない。(池田晶子) それは、そうだろう。
267. 「脳」の中に(私)は在るか?」
101. 生命には、何度か、大跳躍がある。水の中で生きていた生命・魚類が、はじめて大気の中へと侵進した時。どんな力が働いて、魚は、土を踏み、大気に触れたのか。もうひとつは、なぜ、どんな思いで、猿たちは樹上の生活を離れて、大地を歩きはじめたのか。そして、人間という生きものの条件に我慢がならず、超人間Xへと、どのようにして、進化していくかだ。
(誕生)⇒(死)という生命の条件からの大跳躍が望まれている。(不死へ)地球という惑星の生きものから、宇宙という超球世界での生きものXへ。それが、もっとも大きな生きものとしての人間の大ヴィジョンである。⇒生命樹⇒「生命は内的な力−あらゆる形になる−(素)をもっている!!」
102. 「復活」「即身成仏」「輪廻転生−(生れかわり)」「永劫回帰」そして、荒川修作の「天命反転」絶対的な証明がないままに、人は、人が作り出した、思想を信じている。疑いながらも。なぜか?
103. 木と木が響き合っている。木の対話は自然に在る。
104. 曇天の空の下、蝉が鳴いている。力のない、弱々しい声だ。真夏・青空の下で、蝉は、周辺の空気を振動させて、激しく鳴く。長く、だらだら続く梅雨空と夏の境目のない日々。光が少ないと、蝉の声まで、淋しく、翳る。蝉よ、短い生命を、夏の大気を破るほどに鳴け。もっと光を!!
105. 一番小さいものから一番大きなものにまで、触れるために人間は全開しなければならぬ。
106. 56億7千万後に、弥勒菩薩が地上に降りて、人々を救ってくれるというが、その時、太陽は爆発し、地球も燃え尽き、蒸発している。その時、人間は、何になって、何処にいるのだろう?
107. (死)は、何もなくなることではない。(私)を構成している原子は、数十億年も時空を浮遊している。ニンゲンという形が変形するだけだ。
108. 人間の耳には、達しない低周波が襲ってくる。全身がもう1つの耳になって、その音の気配を受けとめている。まるで、無限遠点から来る音信だ。
109. 原子の波が薄くなったり、濃くなったり、結合したり、分離したり、中心もなく、辺境もなく、(形)の変化だけが生起している。そして(声)まで出してしまう。
110. 人間が、人間の外へと超出する。
111. 達磨さんは、9年間、壁に向かって座禅を組んだ。デカルトは、密室で9年間、考えに考えぬいた。(悟り)と言い、(思考)といい、思想の誕生には、気の遠くなるような時間が要る。身体という精神が果ての果てで摑んだ呻き声が思想だ。
112. 統合の天才・空海の頭脳が現在にあれば、分子生物学、量子力学、超数学、あらゆる宇宙論を統一して(宇宙の最高の法)を創出するのはまちがいない。(物)を(生命)と(時空)から、人間のヴィジョンを描いてみせるにちがいない。入定している空海よ眼を醒ませ!!
113. 蝋燭は身を溶かすことで灯を燃やし続ける。ニンゲンも身を焼きこがさねば思想の火を灯し続けれまい。
114. 肩を張って生きてきた。いや、止まれば倒れる独楽だから、いつも、廻り続けていた。もう、飄飄と生きてもいいだろう。他人に会えば、「お元気ですか」と挨拶などして、「どうです近頃は?」と言葉を交わして、「まあ、お蔭さまで、どうにか」と応えて「そのうち、一杯やりましょう」と別れては、歩いていくのだ。風に吹かれて。
115. 歩くことがそのまま思想になる時が来る。
116. 時空を移動する蝸牛は、動いた場処がそのまま宇宙になる。それ以外はない。
117. 思想の大伽藍もひとつの呼吸からはじまった。
118. 風を切って歩く。風の中に(私)の形が現れては、消えていく。いったい何が通過しているのか?
119. 手で水を切る。手の形が水の中に出現して、また、もとに戻って、形を消してしまう。泡立ち、波紋が起きる。現象は、実に面白い。何度やっても飽きない。存在の戯れ。
120. 音が聞こえてくる。耳。同じ種類の音であっても、前方から、後方から、上から、下から、左から、右から、その音の来る方向によって(音)は違うふうに聞こえてしまう。同じ質と量の音であるのに。耳は錯乱しているのか?否。
121. 会社・商社で、銀行で、(お金)を扱って、世界中を走り廻って、(金)で(現実)を動かしていると思っている経済人がいる。(お金)貨幣・経済を考察し、分析し、(お金)の(原理)を追求して、その(原理)が(現実)を動かしていると思っている学者がいる。さて、どちらの(現実)が、より深い、現実を生きていることになるのだろうか?
122. 人の顔を見る − 人相
人の手を見る − 手相
風景を見る − 形相
考え方を見る − 思想
123. 私に場所を下さい。一人分の身体が入る場所で充分です。場所とは仕事のことです。私は、気が違わない為に、何かをしていなければなりません。−そんな声が響いている。
124. 空気が薄くなっている。人の傷みかたがあまりにもひどい時代だ。心に杖をついて歩かなければ倒れてしまう。叫び声が火の手となって、方々であがっている。
125. 3万人の自殺者と、数量で呼ばれる時、それは、もう、人ではないから、3万人の父や母、3万人の兄弟・姉妹と言いかえてみる。そうすると、一人一人の顔が、人に変わる。更に、3万人の固有名詞を、その人の名前で読んでみる。現代は気絶しそうなくらい、暗い時代だ。
126. 遺伝子だけが生きている。(私)は、遺伝子が生き延びていくための器であり、乗り物だ。それでは、ニンゲンは淋しい。虚ろである。
127. 生と死の間にしか自由がない。限られた時空である。しかし無限でもある。
128. 宇宙全体に、原子の海が拡がっている。もちろんニンゲンもそのひとつだ。そして、その全光景を見るための眼も、見えるようにしか、見えない。見ているのは(私)か、あるいは、(私)に仕掛けられた装置か?
129. 考えるという力を与えられた人間を、宇宙に放り出したのは、いったい誰か?
130. 脳は、私を考える。脳は、私を見る。私がなければ、もちろん脳もない。しかし、決して、私=脳ではない。と考えているのも(私)だ。
131. 朝、風景を見る。原子の海がある。(眼)を創造したのも、原子である。原子が、自分自身を見る。いったい、何の為に、(私)は、原子の私を見るのだろう。鏡もない宇宙で。
132. 意識という魔が、生と死を誕生させた。ニンゲンを、ニンゲンたらしめた素が意識だ。
133. あらゆる存在を宇宙という時空に浮遊させて、結びつけ、斥して、無限回転をする、その中心に、途轍もない、巨きな、巨きたものがある。闇の底の底の、光の中の中心に、それは在る。まだ、それの名前はない。
134. ノオトとペンを持って、散歩にでる。公園の樹木の下で、木のベンチに坐って、凝っと風に吹かれて、風景を眺めている。身体の中から、滲み出してくるものがある。手が、勝手に動きはじめる。ひらめぎが、次から次へとやってくる。ものを書いている。手が。いや、手が書いているのでもない。私が、書いているのでもない。脳が命令しているのでもない。
勝手に言葉が来て、文章になる。不思議な現象だ。私の沈黙が破られて、誰かの声が響き、文章が生起する。私は、巨きなものの掌のなかで、点いたり消えたりしている、ひとつの生命の灯だ。
135. 都市の夜空から満天の星が消えてもう何十年になるのか。闇がない。外灯が都市ばかりか、地方の町にまでひろがって、闇が消えた。
星空と星空が、星雲と星々が、衝突するくらい、びっしりと星が輝いた夜空を眺めながら、川岸の、土手の上を懐中電灯を持って歩いた少年時代がある。星は、畏怖すべき存在であった。現在、子供たちが、毎晩、満天の夜空を眺められたら、学校の(教育)では教えられない、本能の底の底にある力をひきだせるだろうに。もう、子供たちは、夜空から教わるという環境にはない。可哀そうに。原始の力がどっさりと、その全身に眠っているのに。それを使う機会がない。ニンゲンは、巨きな、巨きなものの存在と力を、見失ってしまった。(無限)というものを満天の星空は教えてくれたのに。
136. 宇宙の闇を同じ深淵を(私)の中にも作ってみる。闇から、滲み出してくるものがある。
137. 手は、(形態)を生む天才だ。
138. 祖母の足の裏は樹皮のように硬かった。その足は、100年という時間を知っていた。足の裏に宇宙があった。
139. 耳は、音と声を聴くだけのものではない。死者たちの魂にも反応する。
140. 波の音は月からの贈物だ。これ以上の音楽はない。呼吸を鎮め、魂を鎮め、いつの間にか、コズミック・ダンスを踊っている。
141. (私)というものが持っているすべての力をどのようにすれば、使い切ってしまうことができるのか、まだニンゲンはそれを知らない。
142. 世間を生きのびる力は、ひとつの知恵ではあっても、ニンゲンそのものを生きる知恵ではない。
143. G・ベイトソンは、「生きものたち」の「学習」を4つの段階に分けた。条件反射的な①の段階から、出来事の矛盾を止揚して行動する②の段階へ。さらに、バートランド・ラッセルの「論理階型」の考え方を導入して、メタレベルとしての学習③へ、そして、次のメタレベルとしての④へというふうに。
学習③は、危険で実行すると精神を病み、もとの自分に戻れなくなって、宙吊りになる場合もある。学習④は、論理的には可能だが、現在の人間の進化レベルでは、不可能だとした。だから、新しいニンゲンが出現するためには、進化の速度が一気に速くなって、新ニンゲンXが出現する時まで、待たなくてはならない。
144. 人格・(私)が分裂して、偏在してしまう。二重人格が、長い間、人類の話題になった。現在では、多重人格まで出現した。「24人のビリーミリガン」は、1人の人間の中に、24人のニンゲンが生きている、棲み分けているという話だ。ここまで来ると、ニンゲンが何ものかを乗せている器だという遺伝子の話が、絵空事ではなくなってくる。
145. (私)という心のステージには、(私)が立つのは、当然だ。私の心のステージに何人もの他人が立って、(私)は、ステージから追放される。その時、別の人格が現れた時(私)は、いったいどこに行っているのだろう?
146. (私)が私自身に重なっている。それが、普通の人間の形だ。歩いている時、身一点に感じられる、(私)は(私)であると。その統一が、破れてしまうと、(私)は、(私)のもとへと戻れなくなる。病気である。時々、これ以上、歩を進めると、(私)は、私自身を超えてしまうと思う時がある。危険だ!!
147. 変化、変容のスピードはすさまじい。40年間、自分の身に起こったこと、仕事の変化、社会、世界に生起した事象を追ってみると、背筋が冷々とするほどにめぐるましく、狂的ですらある。単なる競走原理だけでは、片づかない、説明がつかない。しかも、世界をめぐるネットワークは、時間と距離を消しはじめた。脳が裸になって、コンピューターというものに偏在して、同時に、勝手に、動き、そのスピードを、自動的に速めている。生身のニンゲンがついて行けなくなる日は、そう遠くなくて、何のための、スピードか、何のための、効率か、便利さかと、悲鳴をあげた時は、ニンゲンが壊れてしまう時だろう。(人間原理)を再構築する時だ。
148. 怪物は、機械やコンピューターではなく(私)自身の中に棲んでいる。
149. 陽が昇れば働き、陽が沈んで夜が来れば眠る、時間は、太陽とともに在った。そんな時代があった。現在は夜のない時代だ。
150. ものを書かず、一生、黙って働く人の立場に、いつも、良心の針を立てておくこと。
151. 変化しつづけるものが生きもの・人間であるなら、その変化には、始まりと終りがある。従って、ニンゲンに永遠はない。持続は、変化を伴い、いつかは終る。動かないもの、一切の変化をしないものは、永遠でもある。それは、もうニンゲンと呼べない。
152. 増えることも、減ることもない。質的にも量的にも。それは何か?
153. 風を受ければ竹がしなるように、心というものが在ってくれれば、もう、それで充分だ。
154. (私)が類の中で死んだ時、(私)は類の中に生きている。死も、また、生である。
155. 人間が、自分のもっているであろう能力・エネルギーを、まだ、わずかしか使って生きていないのは、その眠っている能力の使い方を知らないのではなくて、(私)を、あらゆる方向に(時間・空間・物質・習慣・・・)解き放っていないからだ。(私)という窓を開け放つ勇気がないのだ。未知への不安。
156. 学習のステップを次から次へとランクをあげて挑み続けることが可能であれば、ニンゲンは、新しい生きものXにまで到達できる。しかし・・・壊れるかもしれない。旧い人間は。
157. 「ONの時、スイッチは存在しない OFFの時スイッチは存在しない スイッチが存在するのは、切り換える瞬間のみだ」
G・ベイトソンの思考は、具体的で、面白く、深い。なるほど、心のスイッチを押す手はどこにあるのだろう?
158. 木の歩行。(植物の歩行。)木は成長期に、光を求めて、光の方へとその身体をねじっていく。それが木の歩行だ。夏、向日葵の花の歩行は、太陽という光へのステップである。
159. 言霊という魔に憑かれていた時には、蜘蛛のように透明な言葉の糸を投げまくったが、絶対に、捉えられないものに遇って、沈黙をした。
160. 心の重力が衰弱している。危険だ。
161. 生きれば生きるほどに、その本が面白くなり、応えてくれる(本)がある。
162. 青春時代に、刺戟を受けた本が、年をとってみると、つまらない、色褪せた本になってしまう場合もある。
163. 本を読んでも読んでも、考えても、考えても、考えても到達できぬ場所がある。
164. 結局、言語は、一匹の蛙そのものをさえ、表現できぬという思いがある。断念。
165. 言葉のネットワークの上に浮かびあがる”地図”がある。それは、(現実)そのものでもなく、(現象)そのものでもなく、もうひとつの(地図)にすぎない。
166. 一番美しいものは、数十億年かかって、ニンゲンという、この(私)を出現させた、時空を貫いてきた(設計図)だ。
167. 無数の言葉の組み合わせによって、あらゆる文章が発生する。文章が現れるということは、現れるものがあるからだろうか?それとも、無数の事象があるから、文章が現れるのだろうか?(モノやコト)と(言葉)。関係という迷宮がある。
168. 素朴な写実からはじまった文書が、リアリズムを経て、メタファーに至る。新しい段階のクラスへと進化する。クラスのクラスのクラスへとアップしていくと、いつかは、超球までも、表現できる文章が出現するのだろうか?
169. (私)という人間の中にある(設計図)。単細胞生物から始まって、魚や恐竜や鳥や蛙やサルたちが棲んでいる、ニンゲンと呼ばれている種。その種の核となる(設計図)とは何か?誰か?それを書いた手はどこにあるのか?
170. 原っぱ、森、滝、場所が力をもっている、そんな光景に会うことが少なくなった。
171. 心が、どこまでも、深く、深く、降りてゆけるのがわかってくる、長く生きてみれば。
172. 透明な錘りが、時間を超えて、空間を超えて、原子の、種の、巨大な海まで至ってしまう、それに心が触れる。
173. 右手で殺せ!!左手で救え!!
174. (私)という現象が無限に拡がっていく。(私)は、遊んでいる。固有の(私)が溶けて流れだしてしまった。
175. 意識がニンゲンの病であったとしても、人は、木にも蟻にもなる訳にはいかず、病いを言葉で語り続けねばならぬ。
176. 断念ばかりの人生である。それでも、心に心を接木して生きてゆかねばならぬ。
177. 語っている者の姿が消えてしまっても、微かに響いてくる声に耳を傾けて。
178. ツクツクボウシの声が消えて、秋が来た。ニンゲンの泣き声は止むことがない。
179. (私)であって、(私)でないように、振舞い続ける。それは可能か?
180. 思想が人を染める。ニンゲンの色が分かれるのはそこだ。
181. (私)は無限であり、(私)は何者でもない。
182. あの声はいったいどこから来たのだろう。語り手の姿も見えぬのに来る声がある。
183. ニンゲンはるばるとここまで来たと、苦も喜も味わって、生きてくれば、もう充分ではないか。底の底であれ天の天であれ。何の文句がある。
184. 身体は、自然に、齢をとっていくのに、心は、齢のとりかたを知らない。心の年輪を刻む、眼が見なければならないのは、その節だ。
185. 思考は、さまざまな無限を生む。それは、発見か、説明か、証明か。創造か。
186. あらゆる現象を、人間は、自分にわかるようにしか説明できない。で、現象の証明も、同じことだ。そのものは、結局、人間原理のようなものだ。
187. どこまでも(私)を開く覚悟があれば、人間は、何段階もレベルアップした存在になれるのに。
188. 木洩れ日を踏んで、太陽を知る。
189. 太陽を神と拝めた古代人を笑う現代人も、太陽の力なにしは生きられぬ。
190. 闇の中から、秋の虫の音が流れてくる。波・呼吸に似たリズムを刻んでいる。宇宙の合唱に合わせて、参加しているオーケストラのメンバーである虫たちの音楽。月に、星雲に呼応しているリズムに、いつまでも耳を立てている、長い夜。
191. 世界の一切を、言葉で、論理で説明してやろうと思っていた男と女が、いつのまにか言葉の中にしか世界がないと思いはじめる。ニンゲンの中には、男も女もいないと。
192. 写真は、ニンゲンを写すことはできても、(私)を写すことはできない。誰かがそう呟いた。
193. 底がないということや、果てがないということや、終りがないということは、永遠に宙吊りされているみたいで、やはり、人間には耐えられないのだろう。意識は必ず、殺してくれと叫ぶに決まっている。
194. 人間は、のっぺらぼうの存在には必ず、形を与えたがるものだ。
195. 毎日毎日歩いている。不思議なことに、路上を歩いていて、その場所を通りかかると、必ず、脳にひらめきがあって、声のように、文章が降りてくる。誰が語っているのだ。
196. いつもの公園のベンチに坐る。(私)が私の中にそのまま坐る。ぴったりと重なる時もあれば、(私)という形の中に上手く納まらない時もある。何かが貌を出している。
197. 口から肛門にかけて、空洞が筒のように走っているから、胃も、腸も、外部のはずだが、人は、それを内臓と呼んでいる。内部は外部。
198. 今は、「百年の歩行」という作品を妊娠しているので、長いトンネルの中を歩き続けているような気分。期待と不安で心はいつも波打っている。
199. 知ることと生きることが縄をあむようにして、一日という時間に縫い結ばれる。
200. 結ぼれがこれほどに稀薄になった時代はない。コミュニケーションの時代だというのに。
簡素で単色、実直な文体で普通の人の生きる姿を描いていた作家・城山三郎
−生ける人間の真形を追う現場主義の作家によって描き出された城山の姿−
(小説=本)は、もうひとつの(宇宙)である。謎は深ければ深いほど面白い。ポーという(宇宙)。ドストエフスキーという(宇宙)。
一人の作家の頭脳に発火したものが、核となって、種子に育ち、様々な花を咲かせる、想像力+思考+推進力による小説は、ポーの独壇場である。見事な(宇宙)だ。
小説は自由な器である。何を盛り込んでも、どのように書いてもかまわない。しかし、作家の資質や才能とは違った次元で、時代がその作家を呼び、時代が新しい作家をつくってしまうことがある。
カポーティの小説「冷血」は、まったく新しい時代の、新しい小説の登場を告げるノンフィクションノベルの最高峰であった。ある殺人事件の取材から、犯人の逮捕、そして死刑まで、同時進行で執筆するというスタイルは、(現場)における(事実)の重みが、旧来の小説の想像力を叩き潰してしまうほどのスリルとリアリティに充ちていた。読者の心臓と、作家たちの頭脳を叩き割るほどの衝撃作の出現だった。
作家の思想・思考力・文体が、もの書きの心臓だと思われていた小説世界に、(事実)というものが露出して、文学作品の強度とリアリティを獲得した。つまり、(現場)には、核となる(事実)の断片があって、歩くことで、作家は、小説世界のリアリティを、より補強できるようにした。取材、見る、聞く、調べる、考えるという、足による発見の時代が到来した。(もの)が語るのだ。作家にとって、取材・創作ノオトの作成は不可欠になった。
加藤仁は、全国を歩き、3000名以上に会い、インタビューをして、ノオトを執り、作品の種子と、一声を断片の中から掬いあげて、「本」を書いているノンフィクションの作家である。『待ってました、定年』は、日本の来たるべき、超高齢社会を見据えて、長いサラリーマン時代、その後に続く、長い長い人生を生き抜く、普通の人々の姿を追い、人生の喜怒哀楽を表出して、話題になり、世に、加藤仁の存在を知らしめた作品である。
加藤仁が、城山三郎伝を書いた理由は、二つだと思う。城山も、また、トルーマン・カポーティの小説「冷血」によって、ものを書く人である。取材、現場主義の(事実)の重み、普通の人間の生きる姿を追うという、誠実な作家としての共鳴がひとつ。もうひとつは、文学不毛の地、実業の都市名古屋出身という点で、両者は、同じような空気を吸って育っているということ。
加藤は、作品論・作家論ではなくて、作家として、人間としての城山三郎を追っている。なぜ城山三郎は、作家になったのか。果たして、作家としての日常、生活者としての城山は、どういう人間であったのか。(作家も、また、生活者であって、特別な存在ではない)
司馬遼太郎は、天下国家を、政治を、神の視点から、(知)として、描き、三島由紀夫は、華麗なる文体で、思想−美を、狂おしい世界で描き切った。
城山は、簡素で、単色で、実直な文体で、普通の人の生きる姿を描いた。加藤の共感はそこにある。
一万二千冊の蔵書、取材ノオト・メモ・書簡、日記・知人・友人へのインタビューと、加藤仁は、(事実)の森の中から、城山三郎の生きた姿を据えて、その像を形にしようとして随分と汗を流した。
城山は三島由紀夫の小説「絹と明察」を、モデル小説でありながら(現場)のリアリティ不足と書評で全面否定し、三島が激怒したエピソードは、取材・創作ノオトを重視した三島が、結局は人物を借りて、自らの思想・美学を描いているにすぎぬと、気骨を示した。(事実)は必ずしも(現実)ではない。少なくても小説にとっては。
お金の神さまが誕生し、ものが氾濫し、サラリーマンがあふれて、(日常)がせり出して来た時、城山の「経済小説」は、大量の読者を得ることになった。いわば、共感の書だ。
しかし、政・官・財の大物たちを主人公に小説を書きはじめた時、時代の子となった城山は、微妙に変質する。
城山も、加藤も、結局は、生きる人間の真形を追う現場主義の作家である。問題は、どちらの(宇宙)が深いか、謎であるかだと思うのだが。
1. 「柄谷行人 政治を語る」(図書新聞刊) 柄谷行人著
2. 「昭和史」(平凡社刊) 半藤一利著
3. 「終の住処」(新潮社刊) 磯崎憲一郎著
4. 「千と千尋の神話学」(新典社新書) 西條勉著
5. 「総会屋錦城」「鼠」「落日燃ゆ」「毎日が日曜日」「気骨について」(新潮文庫) 城山三郎著
6. 「荒川修作の軌跡と奇跡」(NTT出版) 塚原史著
7. 「建築する身体」(春秋社刊) 荒川修作+マドリン・ギンズ著
8. 「死ぬのは法律違反です」(春秋社刊) 荒川修作+マドリン・ギンズ著
9. 「三鷹天命反転住宅」「水平社」~ヘレン・ケラーのために 荒川修作+マドリン・ギンズ著
10. 「意味のメカリズム」(西武美術館刊 緑箱社作) 荒川修作+マドリン・ギンズ著
11. 「荒川修作を解読する」(名古屋美術館 読売新聞社刊)
12. 「足摺岬」(講談社刊) 田宮虎彦作品集
13. 「多世界宇宙の探索」(日経BP社刊) アレックス・ビレンケン著
本格的に「荒川修作」を読みはじめる。
奇人・変人・異端者・天才・画家・建築家・思想家と七変化する「荒川修作」に邂逅できたのは、大きな喜びであった。
イエス・キリストの「復活」、空海の「即身成仏」、仏教の「輪廻転生」、ニーチェの「永劫回帰」と並んで荒川修作の創出した、「天命反転」−「私は死なないことに決めた」も、21世紀の人類が生みだした、途轍もない宣言である。これから、じっくりと、考えてみたい。
8月1日(土)−「写真ワークショップ in 三鷹 天命反転住宅」があるというので、「死なない家」を訪問してみた。
(後で体験談を紀行文・エッセイで書いてみたい)
国会の答弁で、総理大臣麻生太郎が、幾度か、漢字の読みまちがいを犯した。政治家は自らのヴィジョンを言葉で表現し、実行する、それが生命の仕事である。TVや大新聞でも話題になり、麻生総理は、政治家としての格を下げた。元総理大臣の小泉純一郎は「漢字が読めなくても、総理になれる、変人でも総理になれる」と講演で、笑いながら話をした。
日本人は、日本語でものを考える。
日本語は、漢字・カタカナ・ひらがなの混ったユニークな文章からなる。英語は、音に意味のある言葉で、文字には意味がない。
漢字は、文字そのものが意味をもっている。
だから、単なる読みまちがいでは済まされぬ問題が発生する。一つの漢字にも、いろいろな読み方がある。音(声)と形(意味)の双方が、正確に表現されないと、正しい意味が通らない。
総理大臣の答弁が、実際は、官僚が書いたものであっても、声に出して、読み、発表(発言)するのは、総理大臣本人であるから、単なる読みまちがいでは済まない、深刻な問題となる。
最近、若い人が、本を読まない、文章が書けないという話をよく耳にする。何時の時代でも、自分のことは棚にあげておいて、最近の若い者は、漢字が書けない、文章が誤字ばかりだと嘆く老寄りがいる。
実は、齢をとると、物事を忘れるばかりではなくて、漢字が思い出せなくなる傾向がある。
ひとつには、パソコン・ワープロの普及で、キーボードを叩けば、文字が出てきて、選択して並べば、文章になる−その便利さに大多数の日本人が慣れすぎた為だろう。
手紙を書く人も少ない。簡単なメールや電話で用が済む。
十年、いや二十年ほど前から、電子文字の出現で、漢字が書けなくなったと嘆いている会社員がいたのだ。
で、「漢字検定」がクローズアップされた。漢字を知る、文字は、単なる記号ではなくて、意味を含んだ言霊である。漢字を知れば知るほどに、表現の幅はひろがり、正しい意味を伝える文章が書ける。レポートを書く、人と対話する、論文を読む人−漢字の知識は、日本人には不可欠な、空気や水である。
ちなみに、今年度のベストセラーは、漢字に関する本で、百万部を突破したという。
さて、本書は、漢字の研究に一生を捧げ、白川学と呼ばれる思想にまで築きあげた、白川静の全体像を、現代の(知)の名編集者・松岡正剛が書き下ろした入門書である。
松岡正剛の名は、若い頃、特異な雑誌「遊」の編集者として知り、後に「空海の夢」を読み、その(才能)に注目している。世の中には、南方熊楠・空海と博識強記の人間がいるものだと感嘆する。白川静−松岡正剛も、その系譜に属する人たちである。
「字統」「字訓」「字通」は、決して、天才ではない人が、生命がけで学問に精をを出せば、ここまで到達できるものかと、生きれば生きるほどに深まる思想の世界に、息を呑み、赤貧の、生活苦の中から、揺るぎない白川学を樹立した強靭な精神に感動すら覚えるものだ。
「漢字は世界を記憶している」
漢字の発生から、古代文化から、東洋の思想から、そして、漢字という国語をうみだした気の遠くなるような(歴史)という時間を追う白川静を、(知)の人松岡正剛は、一般の人にも解るように、パラフレーズしている。
好きで好きで、楽しんで、三度の飯よりも漢字の研究を貫き通した白川静−一冊でも読んで見る価値はありますよ。あなたの人生にどうぞ。
猫の話ばかり書いている作家がいるというので、「プレーンソング」「草の上の朝食」「この人間の閾」を読んでみた。面白かったので「カンバセイション・ピース」から、評論集「小説の自由」「小説の誕生」を通読した。
そして、本書「小説・世界の奏でる音楽」まで来た。
実は、小説以上に、評論集の方が刺激的であった。私が、考える波調が、半分くらい、そうだろ、本当、そのとおりなんだよと合点し、半分は、いや、行きすぎだろうが、書き手に引きつけすぎだろう、もっと自由だろうが、小説はと反対する。
「(私)という現象の、宇宙地図を作る。それが(本)の最終目標だ)と考えているところの私にとっては、保坂和志の、瞬間のインパクト=リアリティの感受には、大賛成である。
だから、保坂は、三島由紀夫の文体や、村上春樹の文体に、考える、思考の力を見い出さないのだ。
普通、傷は、そのまま、疼き続ける。ところが、小説では、傷も、至高のものになる。その変り目が見える人は、本当の、小説読みであり、小説を楽しめる人なのだ。実人生ではなく、虚の世界でも、人は、人に、パワーを与え、与えられることがある。
つまり、平凡な、どこにでもある世界にも、傷があり、輝やき、深淵が口をあけているのだ。保坂の描く世界には、つるつる滑ってしまう日常生活の中にも、確かな杭や釘があると思わせる腕がある。
本書は、小説の読み方というよりも、保坂自身の心性が固有に結晶する、その流れを、ていねいに追っているものだと考えたい。
つまり、保坂は、考えるという哲学をしている。保坂の宇宙地図が、どのような(本)として書かれていくか楽しみでもある。
−英語の世界の中で−
警告の書である。本、特に、小説が読まれなくなって久しい。いい小説がない。レベルが低い。しかし、小説や詩を書く人は意外と多い。インターネットの時代である。ブログの時代である。ケイタイ電話とメールは、洪水のようにあふれている。
そんな時代に「日本語が亡びるとき」と問題提起をするのだから、読まない手はない。
作者は、バイリンガルである。小説家である。(しかし、残念ながら、私は、まだ、水村さんの小説を一冊も読んでいない)
本書は、実に刺激的であった。読むたびに衝撃があり、脳が考えたりしたところが、24ヶ所あった。ていねいに論じる為には、その24ヶ所を開いて、もう一度、ゆっくりと、思考する必要がある。
本書は、英語が(普遍語)になった理由を論じて、実に説得力がある。
確かに、科学やその他の分野での論文は、ほとんどが(英語)である。日本語が(地方語)だというのもわかる。実用の世界では、確かに、他の言語は、英語という、一級上の(普遍語)によって淘汰されてしまうだろう。
小説・文学はどうか。<叡智を求める人>たち、つまり昔でいえば、鴎外・漱石・荷風・潤一郎のような人たちが、出現しないし、もの(小説)を書かなくなった。頭の悪い人が、身辺雑記を小説として書いているだけだ?!!(本当?)
人は、なぜ、小説を書くのか?なぜ小説を読むのか?なんの役にもたたない、ビジネスにも使えないものを!!
(そこに人間がいるからだ)だから、作家は誰よりも人間通でなければならないし、あらゆる分野のことに精通していなければならない。何よりも、よく生きた人でなければ。
ところが、読む力、書く力、あらゆる力が低下している。作家の、社会における位も落ちている。作家ばかりではない。医者、政治家、教授、位の高い職業とはいったい何だろう。
私は、(本)は、その作家の資質や心性や知識によって、その人に固有の、ひとつの(宇宙)を語ってくれるものだと考えている。だから、一人のポーが出現すればいい。一人のドストエフスキーが出現すればいいと考えている。その人に固有の考えていることがあれば充分だ。今度、水村さんの小説も読んでみよう。芸術・文芸は、進歩・進化・時代に関係なく、(私)の中から現れるものである。
一寸先は闇の人生である。誰もが、昨日の延長で今日を生きており、今日が明日につながる、それが普通の生だと考えて生きている。明日、死ぬ、それほどの覚悟で、今日を生きている人は少ないだろうし、突然の不幸が自分に襲いかかると予想して生きている人もいないだろう。人は、いつも、(今・ここ)を生きている。
「免疫の意味論」は、知のパワー全開の多田富雄の本であり、十年に一度、出会えるかどうかという、見事なものだった。胸腺の研究を中心に、生命は超スーパーシステムだと論じた、医学者として、ノーベル賞ものの内容であった。
ところが、地方都市での講演の最中に、突然倒れて、言葉と手足の自由をうしない、描いていた人生からは、まったく別の世界の人となる。順風満帆の、華麗な人生が、一転して、地獄になる。
本書は、<知>で書いた「免疫の意味論」とは対極にある<全身>から呻き声を絞り出すようにとにして書かれた<人間>の本である。
呟きが、そのまま声となって、読者の心をうつのだ。決して、知識で武装した文体ではないが、ぷつぷつ切れて、折れて、停って、どもって、心に泌みわたる文章で、感動を呼ぶ。
詩を書き、新能楽を書き、論文を書き、エッセイを書き、数々の賞を受賞して、輝やきの頂点にあった著者が頭から真っ逆さまに地面に衝突して、もだえ、あがき、希望をなくし、死を思う床から、あたらしい(巨人)として、歩き出そうとする姿は、人に勇気とエネルギーを送ってくれる。「歩くというのは人間の条件なのだ」と多田富雄は、電動車椅子を拒む。新しい生命を生きるために、苦業のリハビリに挑み続ける。正に魂の書である。
色という現象は、形以上に不思議なものた。特に、白、植物から白い花が咲くのが、とても不思議に思っていた時期がある。ある親しい人が、死期が近づいたある日、なぜなんだどうしても、ものに色が現れるのが不思議でしょうがないよと、しみじみと訊かれた時があった。ある病院のベットの上でのことだ。
一応、光について、初歩的な、科学の知識で説明したが、それを聴いても、ふーんと言って、自分の懐疑を溶解させたふうでもなかった。
光は7色である。虹が自然界の秘密を解く。光がものにあたると、そのものを構成している原子が反応して、ある光の波調は吸収し、ある色の波調は反射する。その原子の性質によって、ものは、それぞれの色をもつ。
だから、闇の中では、色はない。
確かに、そのように話をした。
その人は、一応の知識人であったが、ものが固有に色をもっていて、闇の中でも、そのものが持っている色は消えない、だから、闇の中でも、ものは色を持つと考えてしまう。
そうゆうふうに考えていた。
私は、その問いの不思議よりも、自分の専門とする分野ではなくて、死期が近づくと、 人間として、もっと、根本的なことを知りたくなるものだな、その心の作用の方が不思議だと思った。見舞いとはむつかしいものだ。
その人は、胃ガンで、もう、自分に、死期が近いことを知っていた。その二ヶ月後に死んでしまった。
長い間、色の不思議をかかえていたのだ。
私自身も、光の性質や、原子の周期や性質について、知識としては知っていても、その人と同じように、ものにある色という現象が今でも、不思議である。
どうしても、もの自体に、色の要素ではなくて、色そのものが、含まれていると思いがちなのだ。
しかも、私の場合には、白という色が、不思議である。ものが原子で出来ていると知っても、光がなければ、色がないという、そのこと自体が、なかなか、頭の中で、すっきりと納得されていないものかも知れない。
現在では、科学の進歩で、あらゆる色が作り出される時代になった。色も、また、人間が人工的に、作りだした文明のひとつである。
ある書物で、生れた時から、全盲の人が、色について、確かに理解をしたと書いてあった。どうして、一度も見たこともない、色というものを、理解できたのだろう。光に触れて、全身で、感じることはできるとしても、色は、眼で見なければ見えないものではないのか?
わかるという力は、どこから来るのか?
脳は、見えない色を、どのようにして、理解したのだろう。
眼が不自由で、ものが見えない人が、色について、わかったということ自体が、また人間の不思議である。
見る、知る、想像する、心眼で見る、透視する、幻視する−能力というものは、どこまで進化するのだろう。
生命は、宇宙のすべてを知るために出現したとでも言うのだろうか。闇の底に沈んで、眼に見えないダーク・マターも、人間は、いづれ、知ることになる−存在は、発見された時、存在になる。最近、波という力、あらゆるもののリズムということを頻りに考える。
科学という力を信じることと、全盲の人が色がわかるという力の、どちらが、人間にとって大切なのか、現代人の試金石が、ここにもある。
現在、ドストエフスキーが何十万部も売れている。読まれている。いったい、なぜ、誰に?現代の日本人は、百年前のロシアの作家の作品に、何を求めているのだろうか。実に、難解で、やたらに長くて、気力・体力・時間がないと、おいそれとは読めない作品ばかりだ。四大長篇「罪と罰」「悪霊」「白痴」「カラマーゾフの兄弟」は、人類史上でも、ベスト3に入る(本)だと思う。そこには、何があるのか、人間の深い、深い声が鳴り響いている。
「罪と罰」は、殺人者ラスコールニコフの物語である。なぜ人を殺したのか?いったい殺すという行為とは何なのか?殺された人はどうなるのか?殺した人は果たして生きられるのか?復活と再生はあるのか、そんな声が、作品の全篇を貫いて流れている。
さて、一方、現代は、メール・ブログと無数の電子の言葉が機械の中で飛び交っている時代ではあるが、本当に、人が必要とするたったひとつの質問にも答えてくれる人がいない。人間の声ではなく、記号ばかりが浮遊しているのだ。
なぜ、人は、人を殺してはいけないのか?
母が我が子を殺す、息子が父を殺す、夫が妻を殺す、無差別に、誰でもいいからと、銃で、ナイフで、他人を殺す、毒殺する、切り刻んで殺して棄てる、もう、なんでもありの地獄図が、日替りメニューのように発生している。人間が人間を放棄している。
そして、テレビや新聞が、無期懲役だ死刑だと大騒きをする。素人のコメンテーターが無知の知も知らずに、浅薄な発言をする。うんざりだ。
さて、そんな時、不意に、国は、権力は、裁判員制度を新しく導入すると言う。
なぜだ?理由は?誰が?どう変えるの?
疑問と質問と不信で口のなかが砂粒を呑み込んだみたいにざらざらする。
あぶない、変な予兆だ。いつも、国のやり方は、決まっている。官僚と専門家で、雛形を作って、誘導する。形だけはオープンにして。
国民が参加する。裁判員になる。無作為に抽出した人に、まるで、赤紙のように、あなたは裁判員候補だと送りつけ、理由なく拒否すれば、罰せられるのだ。
法や制度が、(現実)に合わなくなれば、改良するのは当然だ、現代の要求だ。しかし、今回の裁判印制度の導入、国のPR誌も見たことがない。全国各地での講習会も、聴いたことがない。プロの裁判員が足りない?先進国で遅れている?国民の生活の経験を生かしたい!!スピードアップしたい!!3~4回の審議で、素人が、どうやって、有罪・無罪を決められる。私個人は、人間を、人間の外側へと棄てる死刑に反対で、加担したくない。否。
「詩と思想」(7月号)
