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• 水曜日, 7月 08th, 2009

−英語の世界の中で−

警告の書である。本、特に、小説が読まれなくなって久しい。いい小説がない。レベルが低い。しかし、小説や詩を書く人は意外と多い。インターネットの時代である。ブログの時代である。ケイタイ電話とメールは、洪水のようにあふれている。

そんな時代に「日本語が亡びるとき」と問題提起をするのだから、読まない手はない。

作者は、バイリンガルである。小説家である。(しかし、残念ながら、私は、まだ、水村さんの小説を一冊も読んでいない)

本書は、実に刺激的であった。読むたびに衝撃があり、脳が考えたりしたところが、24ヶ所あった。ていねいに論じる為には、その24ヶ所を開いて、もう一度、ゆっくりと、思考する必要がある。

本書は、英語が(普遍語)になった理由を論じて、実に説得力がある。

確かに、科学やその他の分野での論文は、ほとんどが(英語)である。日本語が(地方語)だというのもわかる。実用の世界では、確かに、他の言語は、英語という、一級上の(普遍語)によって淘汰されてしまうだろう。

小説・文学はどうか。<叡智を求める人>たち、つまり昔でいえば、鴎外・漱石・荷風・潤一郎のような人たちが、出現しないし、もの(小説)を書かなくなった。頭の悪い人が、身辺雑記を小説として書いているだけだ?!!(本当?)

人は、なぜ、小説を書くのか?なぜ小説を読むのか?なんの役にもたたない、ビジネスにも使えないものを!!

(そこに人間がいるからだ)だから、作家は誰よりも人間通でなければならないし、あらゆる分野のことに精通していなければならない。何よりも、よく生きた人でなければ。

ところが、読む力、書く力、あらゆる力が低下している。作家の、社会における位も落ちている。作家ばかりではない。医者、政治家、教授、位の高い職業とはいったい何だろう。

私は、(本)は、その作家の資質や心性や知識によって、その人に固有の、ひとつの(宇宙)を語ってくれるものだと考えている。だから、一人のポーが出現すればいい。一人のドストエフスキーが出現すればいいと考えている。その人に固有の考えていることがあれば充分だ。今度、水村さんの小説も読んでみよう。芸術・文芸は、進歩・進化・時代に関係なく、(私)の中から現れるものである。

Category: 書評
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