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• 月曜日, 5月 25th, 2009

昔、映画の時代劇で「もっと心の眼で見よ、お主が見ているのは、単なる現象で、幻よ」というようなセリフを、お坊さんが、若い剣士に語る場面を、何度も見た。

いわく 心眼である。

子供心に、そんな眼があるのだろうか?ものを見るのは、この顔の中心にある肉眼しかないのではないかと反射的に考え、いやいや一流の剣士ともなると、そういう心境、境地に達しなければ、人間として、未熟なのだと思い、「心眼」に反応したものだった。

いつの間にか、科学全能の教育をされて、機械と、コンピューターの時代に育ってしまうと、「心眼」などという言葉さえ忘れていた。

多くの人が、一日中、コンピューターの前に坐って、仕事(作業)をする時代になって、動物としての本能も機能も無視して働くあまりに、ほとんどの人が、ストレスをかかえこみ、画面の中にある数字や文章やグラフに振り廻されて、悲鳴をあげている「現実」を生んだ。

「現実」は、もちろん、画面の中にあるのではない。しかし、画面に浮きあがるものを「事実」として捉え、仕事をすすめていくうちに、「事実」がもっとも強い「現実」としてのリアリティを持ちはじめた。

便利さと効率をひたすら求めてきた結果、動物としての人間の機能は、ある部分だけを鋭く成長させ、別の部分は、日々、退化していくという現実に直面している。

人が、声と声で挨拶を交わし、議論をするのではなく、隣に坐っている人に対しても、メールを送って、「対話」をする。

「声」は、実は、もっと豊かで、表現を持ち、強弱を持ち、さまざまな色彩を放出してくれるものだ。

その「声」も、使用しなければ衰えるだけだ。大声で叫び、大声で泣き、耳許で囁き、甘く呟き、鋭く叱咤する。その「声」を、現代人は、忘れはじめている。

見ること。見ることは見られていることでもある。どこまでも見続ける。眺めて、凝視して、とことん「もの」「ヒト」を見る。

そして、考える。人間の持っている一番大きな力−考えること。
「私」と「社会」を「世界」を「宇宙」を考えるのは、考えるという力をもっている「私」だ。
その「私」が「私」についてどこまでも考える。「私」という不思議を生きている「私」を考える。考えるということを考える。
以下・・・限度がない。

しかし、見ること、考えることの他に、言葉・言語以前の現象、事象についてはどうするのか?

<観照>という言葉がある。
辞書に、こう書いてある。
「①対象を、主観的要素を加えずに冷静なこころでみつめること ②美を直接的に認識すること。直観。」

どうであろうか?
あの、子供の頃の、時代劇の映画で使われていたセリフに似ていないか。
「こころでみつめる」と書いてある。広辞苑に載せているのだから、単なる迷信・妄想ではあるまい。

「心の眼でみる」=「心眼」と、どこがちがうのだろうか。表現が古いから、「心眼」は、知識人には、ニャーと笑われるだけか。あるいは、そのことを、深く考えて、現代風に変え、生かせれば、言っている内容は同じことなのか?

「直観」とは何か?
見る・考えるという方法では捉えられないものが、直観では、わかるということなのか。

「考える」ということでは、捉えられないものがある−言語以前のもの、思考の網にさえ捉えられないもの、確かに「美」は、絵画、音楽、彫刻には、それと認められる。なかなか、言葉では、表現しきれないものも、音や色や形では、容易に現すことができてしまう場合がある。

「心の眼でみる」を「心の耳で聴く」とすれば、どうであろうか。

先日、故郷の海岸で「漣痕」を久しぶりに見た。大地の隆起活動によって、2000万年前の海底が陸地になり、道を作る為に、山の斜面を伐り崩した際に、波のかたちが岩の表面いっぱいに現れたものである。

私は、長い間、「漣痕」の前に佇んで、凝っと、2000万年前の波のかたちを眺めていた。

心は、妙に、動揺していた。何か畏怖すべきものに邂逅していると感じ続けていた。気の遠くなるような、時間の流れの中に、褐色の、無数の波のかたちが顔を出して、まるで、人間を覗き込むように、春の光を浴びて鈍く、重く、輝やいていた。

私は、果たして、人間が、画家が、カメラマンが、作家が、この2000万年の時空を存在し続けてきた「漣痕」を画けるか、写せるか、書けるか?と考えていた。表現できまい。「心の眼」を思い浮かべたのは、そんな時であり、確かに「観照」という現象が「私」に起こっていた。

2000万年の色と形−その存在は、人間の手に負えない、表現をはみでてしまった強度をもって追ってくるので、私は、肉体の眼ではない、30億年生きてきている生きものが内包している、もうひとつの細胞の眼のようなもので対応している自分に気がついた。

私は観照していたのだ。
「心でみつめる」という現象の中に「私」がいた。おかしな表現だが、どうしても、直観よりは、心眼の方が、観照している自分にぴったりと合致していると思えた。

「考える」ということは「信じる」ことではない。だから、私の観照が、どのように思われるか、私にはわからない。

懐疑する人には、一度、漣痕の前に立って、凝っと眺めてみて下さいと言っておくしかない。

なお、「漣痕」は、徳島県の海陽町宍喰の海辺の道にある。町から歩いて、10分ほど、旧道(土佐街道)添いにある。そこから、しばらく歩くと、小高い山の上に、水床壮跡があって、360度の眺望が楽しめる。海と川と山が、絶景である。

Category: エッセイ
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