Archive for the Category ◊ 作品 ◊

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• 日曜日, 12月 06th, 2009

1. 「動的平衡」(木楽舎刊) 福岡伸一著
2. 「思考の補助線」(ちくま新書刊) 茂木健一郎著
3. 「エレファントム」(木楽舎刊) ライアル・ワトソン著
4. 「夜明けの家」(講談社文芸文庫刊) 古井由吉著
5. 「人とこの世界」(ちくま文庫刊) 開高健著
6. 「世紀の発見」(河出書房新社刊) 磯崎憲一郎著
7. 「生きる勇気・死ぬ元気」(平凡社刊) 五木寛之VS帯津良一著
8. 「隠者はめぐる」(岩波新書刊) 富岡多恵子著
9. 「食・息・心・身」の法則(成甲書房刊) 阪口由美子著
10. 「名づけえぬもの」(白水社刊) サミュエル・ベケット著
11. 「ヘヴン」(講談社) 川上未映子著
12. 「乳と卵」(講談社) 川上未映子著
13. 「わたくし率 イン歯−または世界」 」(講談社) 川上未映子著
14. 「死とは何か」(毎日新聞社刊) 池田晶子著
15. 「私とは何か」(毎日新聞社刊) 池田晶子著
16. 「思考する豚」(木楽舎刊) ライアル・ワトソン著
17. 「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」(青土社刊) 川上未映子著
18. 「残光」(新潮社文庫刊) 小島信夫著
19. 「ドン・キホーテ」(岩波文庫刊) セルバンテス 前3巻 後3巻
20. 「父・藤沢周平との暮し」(新潮社刊) 遠藤康子著

読書は、瞬間爆発の快感と、読み終えたあとの、長く尾をひく、燠火のような燻りと、二つの愉しみがある。

発想一発の驚きは、長い時間がすぎてみると、色褪せるものが多いが、静かな文章は、その味わいがじわじわと利いてくる。先日庄野潤三氏が死んだ。「記録もひとつの文学である」という信条で、日常のなに気ない事柄を淡々と描き続けた。事件も、事故も、作為もない、無作為の文章は、静謐であった。合掌。

文章の姿が、そのまま人柄に、生き方に、そして、思想にもなる、いい例である。

逆に、見事なまでに、読者の眼を、思考を揺さぶり続け、新しい事象の地平をきりひらいてきたライアル・ワトソンも逝った。「豚」と「象」をテーマにした、最終の作品は、まるで、自らの生いたちを語る小説そのものだった。夢をありがとう。
 

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• 月曜日, 11月 09th, 2009

小説がその時代を象徴して、風俗となる時代があった。

石原慎太郎「太陽の季節」
大江健三郎「芽むしり仔撃ち」
三島由紀夫、石原慎太郎、大江健三郎、柴田翔、開高健と、作家が時代を伐りひらいて、その時代のオピニオンリーダーともなった。

しかし、いつまでも、一人の作家が、時代を代表して、疾走できるわけがない。時代が変われば、旧いスタイルになる作家は、棄てられて、また、次の作家が現れ、その繰り返しの周期は、10年、5年、3年と短くなって、終には、毎年、量産される新人の芥川作家たちは、受賞作以上のものを書けずに、世の中から消え去って、数年も生き長らえて、本物の作家となるのは、10年に、数人しか、残らなくなってしまった。

その上に、作家の力が衰弱したのか、小説自体の力が落ちたのか、芥川賞でさえも、世間から注目をひかぬという時代になってきた。

独特のテーマ、文体、知力を持った作家たちが、次から次へと誕生する訳がない。

10代、20代の、若い作家たちの受賞もあったが、感性だけで、何年間も、小説を書ける訳がないし、人生をよく生きていない人の言葉に感嘆する時代は終って、成熟した、分化した、専門化した、複雑性の時代は、作家たちの資質や才能や体力や知力で乗り切れるほどに甘くはない。

しかし、小説は好きの読者は、いるもので、いつも、新しい、力感あふれる、魅力的な作品を求めている。小説は、もっともよく生きている人の姿を写す鏡だから、読者は、現代の空気を、思想を、風俗を、小説の中に発見したがる。

私も、ふらりと本屋さんに立ち寄っては、名前も知らぬ作家の本をペラペラとめくって、立ち読みをする。都市から離れた市だから、本の種類も限られている。

ある日、「肝心の子供」を手にとって、3ページほど読んで、紙面から言葉が起ちあがってくる、新鮮な驚きを覚えたので、購入した。言葉の磁場が強力で、とても、新人の処女作とは思えない、確かな文体があった。一行一行、細部は、肌理が細かくて、具体的であるのに、目を離して、遠くから眺めると、光景が奇妙にゆがんでしまって、焦点を結ばず、時空がゆらいでいるのだった。言葉自体に核があるのだが、まるで、ゼロ記号のように、つるつると滑って、意味をそぎおとしてしまうのだ。

つまり、読者の感情移入を許さない、安心という着地を許さない、文体である。しかも奇妙な魅力に満ちているのだ。

私は、モーリス・ブランショの作品を想った。言葉が言葉を呼び、いわゆる、ふつうの時間、空間を無視して、文章が、自動的に流れ、ぶつぶつ呟くように、ただただ、漂い、流れ、一切の(着地)を拒否している作品。

磯崎憲一郎は、いわゆる、リアリズムを棄てた作家だ。絵でいえば、ピカソ、彫刻ならば、ジャコメッティ、音楽でいえば、シェンベルグ、つまり、小説のキュービズムを実現した作家である。

主人公との一体感のもてる従来の小説ではないから、いわゆる、感動がない。人よりも、言語が、主人公である。意味を求めても仕方がない。(現実)は、分析されて、(日常)は、その時空を奪われて、ひとつのメタ物語へと達している。

だから、これは、いったい、何を書いているのだ、どういう意味があるのだろうという、素朴な読者の問いには一切答えがないのだ。

「本」の帯に「人間ブッダから始まる三代を描いた新しい才能」と書いてあるが、仏教の創造者、釈迦を多少なりとも知っている読者の期待は、すべて、裏切られてしまう。仏教も、修業も、悟りも、ない。

それでも、磯崎の文章には、読者の頭脳を刺激する強い力があって、ぐいぐいと、ひきこみ、ひらめき、衝突、発光、消滅と言ったものが、随所にちりばめられている。

本の奥付けを見ると、2007年11月である。初版本である。おそらく、この種の小説を読みこなす読者は、最高3000名くらいだろう。つまり、磯崎が、小説を書いて、メシを食うのは、大変だ。おそらく、一般の読者は、むつかしい、面白くない、解らないと、相手にしないだろう。しかし、大事に育ててもらいたい”才能”である。そんなことを、勝手に考えながら、歳月が流れた。

「終の住処」が芥川賞を受賞し、作者が、大手商社に勤務する部長だと知って、なおさら驚いた。

商社マンである、しかも、大手の、それが話題にもなって、11万部が売れたと聞き、信じられぬ思いがした。いったい、誰が、あの作者の文章を読みこなすのだろうか?

もちろん、売れると、読まれると、感動するでは、まったく、質のちがった話である。

で「終の住処」を読んでみた。

時空もゆがむ、正に、アインシュタインの時代の小説である。30歳を過ぎた男と女が結婚して、子供が出来、家を建ててというふうな筋書きを書いても、虚しいだけで、11年も妻と口を利かなかったり、数ヶ月も月は満月のままだったりと、いかにも、キュービスム風な小説のスタイルで、リアリズム風に小説を読む習慣の読者は、躓きぱなしになるか、その文章を、ただ、すいすい読んで、考えることもなく、先へ先へと、素通りしてしまうだろう。(月)は(月)ではなく、(妻)は(妻)ではない。物としての月、月と呼ばれている月、いわゆる(現実)も、この小説の中では、磯山の文法に従って、その統治下のもとにある(現実)となっている。

考えてみれば、すぐにわかることだが、(現実=現象)は、言葉の中にはない。これは、小説(フィクション)ではなくて、事実を書いたドキュメントですと語ったところで、実は、言語化する時には、もう、(現実・現象)は、別のものになっている。

人は、エッセイやノンフィクションを(事実)と読みたがるが、そんなことはない。(モノ)は、言葉の外にある。絵の外にある。写真の外にある。事実そのままを写した写真も、また、事実ではなくて、(写真)なのだ。

磯崎は、そのことを、知悉して、充分に、使用している作家である。

小説は、決して、筋ではまとめられないし、プロットの中にもないし、一行一行の文章の中にしかないのだ。

だから、磯崎の小説のストーリーを語っても、何も語らないに等しいほど虚しいのだ。

文体こそが生きものである。
読む瞬間にこそ、リアリティが発生する。

磯崎の小説は、メタノベルである。

しかも、文章の一行一行は、とても(現実)によく似ているくらいに、精緻にできているので、一見(現実)がそこにあると思われがちだが、眼を遠くへ離せば、すぐに、その細部も、得体の知れぬ別のものに変わってしまう。

メンバーにメンバーを加えて、それがクラスになる。メンバーには、クラスのことはわからない。そういう原理で貫かれている。

それにしても、行変えの少ない文章は読み辛い、作家三島由紀夫は、4~5行で、行を変える習慣を守った。

新しい時代の、新しい小説に、新しい才能が挑戦する。ニュートン的な、絶対的な時間の中で、長く育まれた小説が、いよいよ、自由に伸びたり縮んだり、曲がったりするアインシュタイン的時空の中で、どのように成長するか、実に、楽しみな作家の出現である。

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• 月曜日, 11月 09th, 2009

文学が、小説、評論が確かな力をもっていて、時代に、インパクトを与えた時代があった。柄谷は、そんな時代に、文芸評論家としてスタートし、小説家・中上健次と二人三脚で、新しい文学空間を切り開いた。(風景の発見)

その柄谷行人も、1992年、中上健次がガンで死ぬと、文学の現場から去って、文芸批評をも辞めてしまった。

本書では、はじめて、柄谷が、政治・思想について、詳しく語っている。柄谷の愛読者には、なぜ、彼が、文芸評論を辞めるに至ったのか、どんな思想を構築しようとしているのか、興味が尽きない。東大に入学して、学生運動をはじめ、文芸評論家になり、英語の大学講師(教授)をして、生活の糧を得ながら、マルクスの研究から、言語・数・貨幣についての考察、国家・ネーションへと至る道程が、詳しく語られていて、素人にも、よくわかる。

柄谷行人の「探求」は、人間世界の原理を求める道である。世界の(知)に対抗できる論文・評論から思想へと転換した地点が、政治を語りながら解き明かされていて、実に、興味深い本である。

小林秀雄、吉本隆明、秋山駿と、それぞれが、文芸評論から、固有の文章へ、思想へと展開していったように、柄谷行人も、自らの(核)を、マルクス・カントを読み込むことで、構築している。

小林秀雄のドストエフスキー論が、世界に通用するレベルであったように、柄谷のマルクスや「探求」も世界の論文と、肩を並べても見劣りのしないものにと、その志が覗える。

ポストモダンの象徴のように思えた柄谷行人が、実は、その限界を読み取っていて、自らが、ポストモダンを否定しているのも面白い事実であった。

世界を、存在を、宇宙を、一人の人間が知尽するには、余にも、分野が専門化しすぎていて、誰の手にも負えなくなっている。

(政治)は、一に原理、二に行動であると思うが、もの書きは、いつも、(現実)に対して、無力感を痛感する。時代の中でのアクションが、政治家のようには起こせない。それでも、原理によって、ヴィジョンを提示することは出来る。

(現場)で行動すると、文学者や思想家は、必ず、躓いてしまう。それでも人は運動する。(現実)は、いつも、原理のようには動かず、人の予測を裏切ってしまう。

それでも、運動は起こり、思想は樹立される。

柄谷行人が、(文学)から去ってしまったのは淋しい限りだが、(本)は、何も、文学に限らない。今後、魅力的な(本)を出し続けてくれれば、”柄谷行人の宇宙”が、結晶するだろう。思想家・柄谷行人からは、まだ、眼が離せない。

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• 月曜日, 11月 09th, 2009

最前線の(現場)を生きている人の語る言葉ほど面白いものはない。人間と人間の交流の場がある。衝突し、融合し、反発し、分離し、集合し、波風が立ち、絶えず、揺れ、浮遊し、漂い、機動し、一時も、静止することのない人間の群れによる、流動する場が(現場)である。一日一日、その形状は、変化して、止むことがない。

佐藤優の仕事は、外務省の、情報を集める、謀報部員、国家公務員である。ロシア(旧ソ連)の担当職員だ。キャリア組ではない。現場の一兵卒である。しかし、日本を代表するほど、有能で、傑出した外交官として、名を馳せた男だ。

佐藤優の仕事の流儀は、郷に入れば郷に従えで、徹底的に、ロシア人と付き合って、信用を得て、情報をものにする手法だ。

酒ひとつをとってみても、半端ではない。盃を、返し、返され、一晩中、飲み続け、酔って、ふらふらになっても、トイレで吐いて、また、盃を重ね、倒れる寸前まで飲み続ける。もちろん、それが、親交を結ぶしるしだから避ける訳にはいかない。酒を呑めない者にはとても勤まる仕事ではない。

温泉に入れば、仲良くなった男たちは、男の一物を握り合って、お互いの心を通じ合おうとする。

24時間、すべてが、仕事の体制である。もちろん、家庭の犠牲は、当然のことで、佐藤も、妻と離婚をしている。(私)生活というものがない仕事である。

佐藤優は、ロシア人の生活、習慣の中に、完全に溶け込んでしまう。

一番彼に役立ったのが、宗教だった。佐藤は、大学時代に、神学(キリスト教)を学んでいる。将来は、神学を研究して、じっくりと、学問をしたいと考えていた。

ところが、偶然、外務省の、一般試験を受けたら、合格してしまった。

実は、その神学の知が、外交の仕事において、ロシア人との交流において、一番の信用を得た(素)になったと告白している。

人間は、いつ、何が役に立つかわからないものだ。

その有能な、国家の為に、身も心も、私生活まで捧げて働いてきた、佐藤が、「外務省絡みの背任・偽計業務妨害事件で、2005年2月17日に、東京地方裁判所で、懲役2年6ヵ月の有罪判決」を言い渡された。なぜ、全身全霊をかけて、外交官という仕事に打ち込んできた人間に、国は、罪を背負わせるのか?

国を相手に闘う一人の外交官VS検察官とのやりとりは、戦慄さえ覚えるほどの迫力である。と同時に、謀報という仕事に携わる者のあやうい、頼りない、その立場に、身がふるえてしまう。

外務省から犯罪者へ、犯罪者から作家へと変身した佐藤優の姿は、(現場)を精いっぱい生ききったものの、真摯な、しかし、憤怒に満ちた力に象徴されている。

外務省のラスプーチンと呼ばれて、国会議員、鈴木宗男とともに、ジャーナリズムを賑わしたが、(権力)とは、(国)とは、いったい何なのか、泥沼の底に沈められて(個人)には何が出来るのか?身に、突然、降りかかった炎を、いったい、人は、どのように消さばいいのか、長い、長い、苛酷な闘いが始まっている。

だからこそ、表現、(私)が語る言葉こそ、佐藤優に残された、唯一の武器とも言えるのだ。文は、人である。

ロシアは、ドストエフスキー、トルストイ、ソルジェンチンを生んだ国である。その闇は深いが、民衆の力はパワフルで、謎に充ち、歴史の宝庫である。

佐藤優の仕事は、無限にある。

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• 月曜日, 11月 09th, 2009

久々の本格的な、小説読みの、評論家の登場である。小説が好きで、好きで、たまらない人が、長年、読み込んできた、愛読書を、明晰な思考力と、雄大な構想力と、知的な方法論を駆使して論じた、魅力にあふれる処女作の出版である。

小林秀雄、吉本隆明、江藤淳、秋山駿と、個性ある評論家たちが出現して、柄谷行人以後、なかなか、小説家にとって、その作品の本質を論じきれる評論家の存在が、希薄だった。

作家は、評論家と共に育つものだ。江藤淳と大江健三郎、柄谷行人と中上健次などは、二人三脚で、ひとつの時代を創りあげた、いい例である。

安藤礼二には、新しい時代の作家たちと共に、歩み、時代をリードする膂力がある。

折口信夫「死者の書」、埴谷雄高「死霊」、稲垣足穂「弥勒」、中井英夫「虚無への供物」、江戸川乱歩「陰獣」、さらに、知の巨人・南方熊楠、戦後文学を代表する武田泰淳と、論じている作家、作品は、すべて、文学の第一級品のみである。しかも、何回も、何十回も読み込まなければ解けぬ、存在のありかたと、固有の文体と、思想を放っている作家、作品たちである。

安藤の美点は、その文体にある。

考えている、その形が、言葉の中に、そのまま美事に定着していて、リズムを刻み、放射状にのびていく文体に結晶している点だ。思考が起ちあがると、一気に、虚無へと疾走して、ゆるやかにたわみ、立ち止まり、発条のように弾み、どこまでも、作品の文章とともに歩み続ける。考えることを追う文体は、(書く=読む)の緊張感を一時も手離さなず、光のように、快楽へとのぼりつめる。

裸の、考える兇器だ。

文章を読みながら、いつも、今・ここが、呼吸しているという思考の手ごたえがあって、文学を論じた「本」では、久々に、興奮の渦が全身を駆けぬけるほどに、スリリングな一冊であった。

特に、折口を論じながら、空海が修業をした室戸岬の洞窟のシーンは、(いづれ、私も、小説で、そのシーンを書こうと考えていたので、)心も脳も揺さぶられるほどの力感に満ちていた。

(独在者たちの系譜)と銘打たれた、この600ページに至る大冊は、従来の、日本の文学にはない、新しい視点で刺し貫かれていた。

文学作品の最高の分析者であり、哲学者でもある、ジル・ドルーズのことを、頭の隅で考え合わせた。

評論作品も、小説と同じように、立派な、文学作品であると実証した、見事な実例であった。感動・感謝である。

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• 金曜日, 10月 30th, 2009
201. 一万回も歩いてきた道が、ある日、見覚えのない道となって、私の心の水準器を狂わせてしまった。不意に、今・ここがわからなくなるそんな瞬間を体験した。
202. 「始まり」のはじまりを読み解く手法が要る。
203. 人と人が切り結ぶところに、恋愛も、闘いも、仕事も、喜びと悲しみを伴って発生する。
204. 自殺は、二度死ぬことだ。放っておいても人は死ぬ。自然という不条理である。(私)を棄ててしまう、その極点が自殺である。本当は、人は、自分に、何かいいことをしてやりたいのだ。
205. 仕事では、現場が一番面白い。現場では、いつも、コト、モノ、ヒトが動いている。
206. 政治とは、混乱する現場に、行動でもって、具体的に、設計図を作って、整理をして、生活のための補助線を引く力業のことだ。
207. 仕事は、人と人が、人と物が、人と事が交わるところに発生する。その交流の中にこそ、労働の喜びと悲しみがある。
208. 交換の中の火花こそ感動と悲嘆の源である。闘いであれ、愛であれ。
209. 思考の劇は、生きている人々、死んでしまった人々との魂の交感があるから愉しいのだ。
210. 人と人の声が響き合うように、人と風景も響き合う。風景にも、もうひとつの声がある。
211. 人間としての総体は、その人の歩いた距離と時間に正比例する。どこまで、どのように歩いたかが問題である。思考の歩行だ。その形がニンゲンを決定する。
212. 現象の海に”私”は浮いている。ほとんど一本の木と同じだ。
213. 深夜の思考と、昼中の思考では紡ぎ出される言葉までちがう。
214. 「宇宙」の耳というものがある。人間の耳は、空気の振動で、音を知る。「宇宙の耳」は、あらゆる宇宙線の中に流れるものにも、音を聴いてしまう。
215. 在るがままに在れ。
     変わり続けろ。
     時空を超えろ。
     そして、存在が思考を生むなら思考も存在を生め!!
216. (生きる−死ぬ)という公式を破壊してみる。
217. 「生は死であり、死は生である」 この言葉はいったい、何を語っているのか。いったい、誰の声か。矛盾の矛盾をも超えてしまう存在の形。
218. いったい無限の原子たちは、無限の宇宙で何をしようとしているのか?祝祭か?
219. 空間と言い、真空と言い、虚と言い、空と言い、何もないことは、考えられぬことであるから、触れることも、知ることもない”無”という王である。事象の地平線の彼方では、言葉も存在も、沈黙して、その海を消してしまう。
”無知=知” 知っても知っても、知らぬことがある。
220. 在るということ自体が啓示である。
221. ”モノ”に驚き、人に驚き、心に驚く。
222. 人間の、(今・ここ)を生きるという現象が存在の形式を決定して、いわゆる人間原理を生んでしまう。
223. 原子の大群が浮遊する宇宙という大海原を見わたせる巨大な眼があれば、原子の波の存在の形がわかる。巨大な眼は、理論や原理ではなくて、蛸が触れるように物を理解してしまう。正しく、”無限”を見る眼の誕生だ。
224. 人間が、宇宙を統一する大理論を構築したとしても、それは、人間が発見した”原理”であって、宇宙そのものではない。
225. 重力・引力を発見した人間。しかし、重力も、引力も、実は、無い。それは、人間が、作り出したものの名前である。
226. 身体のもつ精密さと思考のもつ精密さは、まったく質の異なるものである。
227. 知識も、行動も、無限の前では何の役にもたたない。秋風の吹く空の下、点になって歩いている。「無限の前で腕を振った」中也さん。今では、あなたの腕がよく見えますよ。
228. 熱病に憑かれたようにして「事」を為さねば、決して「大事」は成就しない。狂うことと紙一重の熱情がなければ「志」は遂げられぬ。
229. まだある、何かがある、空白がある、余白がある、未知の領域が残されている。(私)が歩める場所と時間が、微かに、残されている、意識がそう思うことで、正気が保たれている。すべてがないと思えば、気がくるってしまうだけだ。だから無限に触れるのは、一瞬で良い。(今・ここ)に在る(私)を解き放つのも意識である。
230. 有限者は、いつも、永遠の前に、敗北する。しかし、永遠との、一瞬の合体は恍惚である。
231. 宇宙全体を知悉したい、それは、生命のもつ、意識の最後の夢である。断念に断念を重ねて、望みは絶たれ、それでも、生命は、延々と環になって、その形を追い続けている。
232. 生命の、星々の、銀河の、宇宙の死滅する日には、いったい、何処へ行って、誰を救うのだろう。もう、どこにも、ニンゲンはいないのに。
233. (私)が、まだ誕生していなかった長い長い宇宙の時間、どこにも(私)の断片もなかった時、その宇宙へ(未出現)の可能性を思う時、(私)の出現は、ほとんど、奇蹟に近い。理由もなく、目的もなく、顕現してしまった(私)という存在の不思議に、震撼させられるのだ。同時に、(私)の死後長く長く続く永延の時間に、もう、二度と、(私)が現れることがない、そのことが、気絶しそうなくらいに、畏怖すべき事件に思えるのだ。どちらも、完全な(無)に近い。
有限者である(私)は、本当は、そのことを上手く自分に言いきかせることができない。日常の、生活の、あれやこれやの苦痛や責苦は、その二つの思いに比べれば、まったく、カスリ傷のようなものだ。
空恐ろしいのは、ニンゲンに関係なく、時間も、宇宙も、存在し続けるということだ。宇宙には、原子には、素粒子には、生と死の区別さえもなく、ただ、運動するエネルギーがあるだけである。人間には、耐えられない、事象というものがある。絶句するばかりだ。沈黙の中へ。
234. 過去、現在、未来という時間はない。人間が、仮に、そう呼んでいるだけだ。
235. 時間が生起する。どこに?(今・ここ)に。曲った時空に貼りついている(私)が見える。
236. 同時に偏在して存在するものがひとつの物であることは可能か?
237. 原子が無限運動をするものならば思考も、また、無限運動をする。
238. 光の化石が物であるならば、物が光になるもの当然だ。
239. もちろん、人間も光になる。宇宙のコーラスに参加できる。
240. 生命も、物質も、光も、あらゆるものがコズミックダンズを踊っているだけである。それを宇宙と呼ぶ。
241. (私)の中には、一匹の魚、一頭の恐竜が棲んでいる。数億年の時間の記憶に、火が点いてくれると、(私)の正体が見えてくるのだが・・・。
242. いくら、丁寧に、詳しく説明してみても、直観の”わかる”という力には及ばない。
243. 人間は、本来が、ぐうたらである。その証拠に、充分な食べものと、雨風をしのぐ家と、ゆっくりと眠れる場所さえあれば、終日、ごろごろしてしまう。
244. しかし、実は、あらゆる条件が整っても、満足しないタイプがいる。(私)とは何かと考えはじめる者、宇宙とは何かと想像する者、そして(私)というニンゲンの存在の形式に我慢がならぬ者だ。
245. あらゆる(知)を学習したい人⇒学者へ
     あらゆる(こと)を考えたい人⇒哲学者へ
     あらゆる(存在)を発見したい人⇒物理学者
     あらゆる(存在)を変化させたい人⇒発明家
     あらゆる(法)(原理)を統一したい人⇒宇宙論者
     何もしたくない人⇒(?)
     作家とは、いったい何をしたい人のことだろう?
246. ニンゲンも、物質と同じように、原子の離合集散である。原子から見れば、石と同じく、ニンゲンも生も死もなく、ただ原子という波の運動が永久に続いているだけの現象である。
247. しかし、確かに、生きている(私)から見れば、生も死もあり、100パーセント死が来る。(死)は、未知のものであるから、人間はその不条理と否々ながらも、握手しなければならない。
248. 原子が、集合して物質を作り、生物を作り、脳を作り、意識を作ったのだから、逆に、ニンゲンも、物質を生命を創出できない訳がない。
249. 「在る」は、必ず「続く」という持続の意識に支えられている。「無い」は、中断であり、切断であり、消滅であり、蒸発である。意識は、それを容認しない。ゆえに「死」は、不条理であり、自然ではない。
250. 「死」と対峙することはできない。「死」は必ずやってくるが、どこにも「私」の「死」がないから、考えることさえできない。「死」が来た時には、ニンゲンは、痙攣して気絶して、悲鳴をあげて、意識を失っている。完全な沈黙である。
251. 天才も凡人もない。ただ、ニンゲンが生きているだけだ。宇宙の、小さな、惑星の上で一匹の生きものがいるだけだ。快楽も苦痛も、たったひと時のこと。
252. すべての(知)を得るということは、ニンゲンにとっては、不可能だ。百年ばかりの生命が百四十億年の寿命の宇宙を知悉できる訳がない。結局、(知)は学ぶという連続した運動であるからいつまでたっても、知らないことは、知らないと知るしかないのだ。
253. 世界を、宇宙を知る(知)などない。宇宙の法則を発見しても、宇宙自体は、また、別のものだ。
254. 科学と文学のちがいは、何だろう。科学は、理論と数式で、物質を、遺伝子を証明する。仮説(実験)、証明。しかし、そこには、ニンゲンがいない。文学は、ニンゲンという宇宙を表現する。人間原理から誕生する。
255. なぜ生れてきたのだろうと悩む人がいる。なぜ、宇宙に、生れてきたのだろうと悩む人がいる。(悩み)の質がちがうのだ。ニンゲンの世を悩む人と存在する宇宙を悩む人。(社会)と(存在)
256. ニンゲンは、完全なる無意味には耐えられない生きものだ。だから、宇宙の原理に合致する”本当のこと”には我慢がならないのだ。幻想でもいいから、ニンゲンは(人間原理)にそって生きたいのだ。
257. 人間は、宇宙に何を残せるのだろう。存在に対して、どんなサインが有効なのか、文学か、電波か、数式か遺伝子の設計図か・・・。
258. 那須の野で秋の花を見た。原っぱに、一群れ、コスモスが咲いていて、透明な風に揺れていた。田の畔には、彼岸花が血のように紅い色を誇示していた。山々には、黄色、朱色がちらほらと、秋の始まりを告げていた。心にも、一瞬、柔らかな風が吹いた。その質感が、風景と私を、結びつけた。旅は心の休日であった。バスに揺られて。
259. 「無常」と言い、「あわれ」といい、現代のニンゲンにも、同じ心の状態が訪れるのに、その言葉は、死語になっている。
260. すべてを知りたい人がいる。ひとつのことを為し遂げたい人がいる。
261. 「エチカ」を書いた哲学者スピノザはレンズ磨きを生業とした職人だった。その思想は、透明で、文体は、思考に発条が利いていて、百年、千年たっても、決して古びないレンズのように輝いている。スピノザの宇宙は、現代でも刺激的だ。
262. 時間も空間も歪んでいるとアインシュタインは言う。時間の歪みは、直線的に流れるのではなく、遅くなったり早くなったりするとイメージができる。しかし、どうしても空間そのものが歪んでいるイメージが、私の平凡な頭には像を結ばない。同じように、宇宙が超球であるという、その超級もイメージができない。
時空は、地球という球体の表面で生きている人間にとって、ほとんど、固定されている。上も下もなく、左も右もなく、削除もなく、過去も現在も未来もなく、一を一と確定できず、ひとつの命題にふたつの解があり、光より速い存在を許さず、超球宇宙は、人間を畏怖させる。不可思議な宇宙に、知的生命体として生きている人間は、もっと不思議な存在である。
263. 旅をする度に、森で海で、山で、空気が実においしいと思う。近い将来には、本当の空気のおいしさを知らない人間が増えるだろう。本物の空気を奪い合う人間の姿を想うと、正直、ゾッとする。空気までが商品になる。美味い空気を吸うことが旅の大きな目的になる。そんな日が来るかも知れない。
264. 考えれば考えるほどに、確実なものが崩れていく。考えるということ自体は疑えないとデカルトは言ったが、その、(考える)とは何かが、揺らぎの波に晒されている。で、思考を止めて、外へ出る。そして、風に吹かれて、歩く。
265. 脳が脳を殺せと命令するか(脳の自殺) 私は(私)を殺せと命令するが
266. (私)は生命というスーパーシステムである。(多田富雄) なるほど、そうすると、(脳)は器官のひとつである。(私)は、決して(脳)ではない。(池田晶子) それは、そうだろう。
「(脳)の中すべての現象がある・感情・認識・意識)(茂木健一郎) 養老猛先生も、茂木健一郎先生も、唯脳論者であって、唯心論者ではない。
「脳」もまた、生命の進化が生んだものである。(三木成夫) 心臓の、肺の発生原理も面白い。腸も胃も、(私)を作っている器官だ。悲しみや喜びは、腸から発生する。心も。決して(脳)からは発生しない。腸管は考える。
「精神の中には、花も、犬も、事物もない」(ベイトソン) 精神は、システムであり、その役割りを(脳)が果たしている。知者たちの(考え)を追ってみると、人間という存在が、さまざまな不思議そのものを生きている現象であることがよくわかる。さて、「器官なき身体」を唱えた詩人もいたが・・・。名前は、アルトー。
267. 「脳」の中に(私)は在るか?」
     「ない」
     「では、「脳」は(私)ではない。」
困ったことに、この質問、疑問は、私自身が考えたのか、池田晶子が考えたのか、区別がつかない。彼女の著作を読んでいて、なるほど、それはそうだよ、私も同じことを考えていると思うことがよくある。だから、彼女の本、言葉は、よくわかる。
268. 「脳」が「脳」を考える時、(私)は、どこに在るのだろう?この問いも同様である。
269. 言葉は、誰のものでもない。思考も誰のものでもない。学習から、すべてがはじまる。「文体」といい(思想)といい、その人に、固有のものが、言葉から、思考から紡ぎ出される。
270. で、新しいものは、すべて、先人の「文体」や「思想」を学ぶところから出現することになる。何しろ、すべての人間は、赤ん坊からスタートするから。
271. 「無」になると他人は言うが、実際、「無」など誰も見たことがない。果たして「無」そのものは可能なのか?
272. 人間、生きてみなければ、時間は流れない。
273. (私)がこの世にいなかった時、つまり、まだ、この宇宙に誕生していなかった時、(私)には、苦痛も、悩みもなかった。さて、(私)が死んで、この世を去ると、またしても、(私)がこの世からいなくなる。なぜ、そのことが、苦痛、恐怖であるのか?
274. イエス・キリストは、死後3日後に復活したと言う。ならば、死んだニンゲン全員も復活せねばならない。宗教とは、そういうものだろう。
275. 「ああ~とうとう、仏さんになってしもうた。」祖母の呟きを聴いて、仏さんになれば、何処へ行くのか?と訊いた。「墓の中や」と応えた。少年時代のことである。墓は、山の中腹にあった。
276. 宇宙の本当のことを知れば知るほど科学者の頭脳はニンゲンから遠く離れていくだろう。「人間原理」は、もっと輝かなければならない。分裂した心は、もう、もとに戻らないか?デーゲルのように。
277. 生命の歌を歌うこと。息を吸う。声を出す。歩く。その単純な行為こそ、ニンゲンのエネルギーであり、(私)の存在証明である。コスミック・ダンスを踊る、その躍動の中にこそ人間原理がある。
278. 「私とは何者か?」ではなくて、一度、問いかたを変えてみよう。「何が私を構成しているのか?」と。
279. 人間の身体は、穴だらけだ。その穴を囲うようにして肉がある。まるで、中空の管だ。
280. 腸管に心がある、そこから悲しみや喜びが発生すると語ったのは、確か解剖学者・生物形態学者の三木成夫だった。管から、動物も植物も進化したのだった。
281. 脳が考えていると、いったい、誰が証明したのだろう?やはり、考えているのは(私)である。
282. 「形」の中で、もっとも力強く、美しい生き生きとしたものが、渦巻きである。遺伝子から銀河宇宙までが、結晶。「渦」は不思議そのものだ。
283. 歩くことは交流することである。風景と人と物と、時空にあるすべてのものと切り結ぶ行為である。
284. (今・ここ)にしか時間は起たない。意識は、あちらへ、こちらへと浮遊するが、結局は、どこもが(私)へと結集する。
285. 果たして、私たち人間は、確かに、生き死にをしているのだろうか?(いったい、誰が、何をしているのだろう)
286. 最高の(知)を求めた、天才・空海さんが入定(死んだ)したのは62歳だった。宗教(仏教)と(知)が結婚していた時代の子だった。科学の時代になった現代でも(信仰)は、信じる力は、弱くなっても、なくなりはしない。62歳になった私も、空海さんの残した言葉と対話しながら、(信)にむかってみる。深化する言葉のモノローグこそ、空海さんへの旅だ。
287. 言葉の魔に魅入られて、文を書きまくろうが、言葉の限界を感じて、歯がみをして、言葉を棄てようが、問題は、いつまでたっても、一向に片付かない。世の中に片付くものなどあるのだろうか?
288. 人は、生きる為に食べるのか。人は食べる為に生きるのかを悩む人がいる。のん気な悩みだ。世界には、メシが食べられない人が30億人もいる。
289. 人類は、飢えと闘ってきた。現在でも、今日、明日の食料がない。世界の半数が、飢えと闘っている。ところが、日本は、豊かで、飽食の時代だという。そんな時代は長く続くまいと思っていたら、失業の時代、格差社会の時代になった。いつになったら、足るを知る、知足の時代が来るのだろう。
290. 絵にもならない、言葉にもならない、形にもならない、心の起ちあがりに風が吹いて。
291. 今日は、日がない一日、魂のお守りをしている。
292. モノばかりが氾濫しているから、眼を閉じている。
293. 柿の実の、見事に熟した姿に終日、見惚れている。夕陽が降り注いで、風が吹き、柿の実が揺れる。時も熟している。
294. 遠くから、大工の釘をうつ音が響いている。規則正しい音が空に流れて、静かだ。私は、ただ、感覚をしておる。
295. 魂は考えるものではなく、観照するものである。
296. 思考は現象の海から起ちあがる。
297. 実在と言い、実生活と言い、結局は(私)をめぐる考察である。
298. 宇宙時間の中に、二度と生れぬ(私)の戦慄がある。生の一回性の驚愕だ。
299. 一歩踏みだせば、あらゆる現象が起ちあがってきて、眩暈がする。
300. まあ一服しませんか?声には素直に応えたい。
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• 金曜日, 9月 25th, 2009
101. 生命には、何度か、大跳躍がある。水の中で生きていた生命・魚類が、はじめて大気の中へと侵進した時。どんな力が働いて、魚は、土を踏み、大気に触れたのか。もうひとつは、なぜ、どんな思いで、猿たちは樹上の生活を離れて、大地を歩きはじめたのか。そして、人間という生きものの条件に我慢がならず、超人間Xへと、どのようにして、進化していくかだ。
(誕生)⇒(死)という生命の条件からの大跳躍が望まれている。(不死へ)地球という惑星の生きものから、宇宙という超球世界での生きものXへ。それが、もっとも大きな生きものとしての人間の大ヴィジョンである。⇒生命樹⇒「生命は内的な力−あらゆる形になる−(素)をもっている!!」
102. 「復活」「即身成仏」「輪廻転生−(生れかわり)」「永劫回帰」そして、荒川修作の「天命反転」絶対的な証明がないままに、人は、人が作り出した、思想を信じている。疑いながらも。なぜか?
103. 木と木が響き合っている。木の対話は自然に在る。
104. 曇天の空の下、蝉が鳴いている。力のない、弱々しい声だ。真夏・青空の下で、蝉は、周辺の空気を振動させて、激しく鳴く。長く、だらだら続く梅雨空と夏の境目のない日々。光が少ないと、蝉の声まで、淋しく、翳る。蝉よ、短い生命を、夏の大気を破るほどに鳴け。もっと光を!!
105. 一番小さいものから一番大きなものにまで、触れるために人間は全開しなければならぬ。
106. 56億7千万後に、弥勒菩薩が地上に降りて、人々を救ってくれるというが、その時、太陽は爆発し、地球も燃え尽き、蒸発している。その時、人間は、何になって、何処にいるのだろう?
107. (死)は、何もなくなることではない。(私)を構成している原子は、数十億年も時空を浮遊している。ニンゲンという形が変形するだけだ。
108. 人間の耳には、達しない低周波が襲ってくる。全身がもう1つの耳になって、その音の気配を受けとめている。まるで、無限遠点から来る音信だ。
109. 原子の波が薄くなったり、濃くなったり、結合したり、分離したり、中心もなく、辺境もなく、(形)の変化だけが生起している。そして(声)まで出してしまう。
110. 人間が、人間の外へと超出する。
111. 達磨さんは、9年間、壁に向かって座禅を組んだ。デカルトは、密室で9年間、考えに考えぬいた。(悟り)と言い、(思考)といい、思想の誕生には、気の遠くなるような時間が要る。身体という精神が果ての果てで摑んだ呻き声が思想だ。
112. 統合の天才・空海の頭脳が現在にあれば、分子生物学、量子力学、超数学、あらゆる宇宙論を統一して(宇宙の最高の法)を創出するのはまちがいない。(物)を(生命)と(時空)から、人間のヴィジョンを描いてみせるにちがいない。入定している空海よ眼を醒ませ!!
113. 蝋燭は身を溶かすことで灯を燃やし続ける。ニンゲンも身を焼きこがさねば思想の火を灯し続けれまい。
114. 肩を張って生きてきた。いや、止まれば倒れる独楽だから、いつも、廻り続けていた。もう、飄飄と生きてもいいだろう。他人に会えば、「お元気ですか」と挨拶などして、「どうです近頃は?」と言葉を交わして、「まあ、お蔭さまで、どうにか」と応えて「そのうち、一杯やりましょう」と別れては、歩いていくのだ。風に吹かれて。
115. 歩くことがそのまま思想になる時が来る。
116. 時空を移動する蝸牛は、動いた場処がそのまま宇宙になる。それ以外はない。
117. 思想の大伽藍もひとつの呼吸からはじまった。
118. 風を切って歩く。風の中に(私)の形が現れては、消えていく。いったい何が通過しているのか?
119. 手で水を切る。手の形が水の中に出現して、また、もとに戻って、形を消してしまう。泡立ち、波紋が起きる。現象は、実に面白い。何度やっても飽きない。存在の戯れ。
120. 音が聞こえてくる。耳。同じ種類の音であっても、前方から、後方から、上から、下から、左から、右から、その音の来る方向によって(音)は違うふうに聞こえてしまう。同じ質と量の音であるのに。耳は錯乱しているのか?否。
121. 会社・商社で、銀行で、(お金)を扱って、世界中を走り廻って、(金)で(現実)を動かしていると思っている経済人がいる。(お金)貨幣・経済を考察し、分析し、(お金)の(原理)を追求して、その(原理)が(現実)を動かしていると思っている学者がいる。さて、どちらの(現実)が、より深い、現実を生きていることになるのだろうか?
122. 人の顔を見る − 人相
     人の手を見る − 手相
     風景を見る − 形相
     考え方を見る − 思想
123. 私に場所を下さい。一人分の身体が入る場所で充分です。場所とは仕事のことです。私は、気が違わない為に、何かをしていなければなりません。−そんな声が響いている。
124. 空気が薄くなっている。人の傷みかたがあまりにもひどい時代だ。心に杖をついて歩かなければ倒れてしまう。叫び声が火の手となって、方々であがっている。
125. 3万人の自殺者と、数量で呼ばれる時、それは、もう、人ではないから、3万人の父や母、3万人の兄弟・姉妹と言いかえてみる。そうすると、一人一人の顔が、人に変わる。更に、3万人の固有名詞を、その人の名前で読んでみる。現代は気絶しそうなくらい、暗い時代だ。
126. 遺伝子だけが生きている。(私)は、遺伝子が生き延びていくための器であり、乗り物だ。それでは、ニンゲンは淋しい。虚ろである。
127. 生と死の間にしか自由がない。限られた時空である。しかし無限でもある。
128. 宇宙全体に、原子の海が拡がっている。もちろんニンゲンもそのひとつだ。そして、その全光景を見るための眼も、見えるようにしか、見えない。見ているのは(私)か、あるいは、(私)に仕掛けられた装置か?
129. 考えるという力を与えられた人間を、宇宙に放り出したのは、いったい誰か?
130. 脳は、私を考える。脳は、私を見る。私がなければ、もちろん脳もない。しかし、決して、私=脳ではない。と考えているのも(私)だ。
131. 朝、風景を見る。原子の海がある。(眼)を創造したのも、原子である。原子が、自分自身を見る。いったい、何の為に、(私)は、原子の私を見るのだろう。鏡もない宇宙で。
132. 意識という魔が、生と死を誕生させた。ニンゲンを、ニンゲンたらしめた素が意識だ。
133. あらゆる存在を宇宙という時空に浮遊させて、結びつけ、斥して、無限回転をする、その中心に、途轍もない、巨きな、巨きたものがある。闇の底の底の、光の中の中心に、それは在る。まだ、それの名前はない。
134. ノオトとペンを持って、散歩にでる。公園の樹木の下で、木のベンチに坐って、凝っと風に吹かれて、風景を眺めている。身体の中から、滲み出してくるものがある。手が、勝手に動きはじめる。ひらめぎが、次から次へとやってくる。ものを書いている。手が。いや、手が書いているのでもない。私が、書いているのでもない。脳が命令しているのでもない。
勝手に言葉が来て、文章になる。不思議な現象だ。私の沈黙が破られて、誰かの声が響き、文章が生起する。私は、巨きなものの掌のなかで、点いたり消えたりしている、ひとつの生命の灯だ。
135. 都市の夜空から満天の星が消えてもう何十年になるのか。闇がない。外灯が都市ばかりか、地方の町にまでひろがって、闇が消えた。
星空と星空が、星雲と星々が、衝突するくらい、びっしりと星が輝いた夜空を眺めながら、川岸の、土手の上を懐中電灯を持って歩いた少年時代がある。星は、畏怖すべき存在であった。現在、子供たちが、毎晩、満天の夜空を眺められたら、学校の(教育)では教えられない、本能の底の底にある力をひきだせるだろうに。もう、子供たちは、夜空から教わるという環境にはない。可哀そうに。原始の力がどっさりと、その全身に眠っているのに。それを使う機会がない。ニンゲンは、巨きな、巨きなものの存在と力を、見失ってしまった。(無限)というものを満天の星空は教えてくれたのに。
136. 宇宙の闇を同じ深淵を(私)の中にも作ってみる。闇から、滲み出してくるものがある。
137. 手は、(形態)を生む天才だ。
138. 祖母の足の裏は樹皮のように硬かった。その足は、100年という時間を知っていた。足の裏に宇宙があった。
139. 耳は、音と声を聴くだけのものではない。死者たちの魂にも反応する。
140. 波の音は月からの贈物だ。これ以上の音楽はない。呼吸を鎮め、魂を鎮め、いつの間にか、コズミック・ダンスを踊っている。
141. (私)というものが持っているすべての力をどのようにすれば、使い切ってしまうことができるのか、まだニンゲンはそれを知らない。
142. 世間を生きのびる力は、ひとつの知恵ではあっても、ニンゲンそのものを生きる知恵ではない。
143. G・ベイトソンは、「生きものたち」の「学習」を4つの段階に分けた。条件反射的な①の段階から、出来事の矛盾を止揚して行動する②の段階へ。さらに、バートランド・ラッセルの「論理階型」の考え方を導入して、メタレベルとしての学習③へ、そして、次のメタレベルとしての④へというふうに。
学習③は、危険で実行すると精神を病み、もとの自分に戻れなくなって、宙吊りになる場合もある。学習④は、論理的には可能だが、現在の人間の進化レベルでは、不可能だとした。だから、新しいニンゲンが出現するためには、進化の速度が一気に速くなって、新ニンゲンXが出現する時まで、待たなくてはならない。
144. 人格・(私)が分裂して、偏在してしまう。二重人格が、長い間、人類の話題になった。現在では、多重人格まで出現した。「24人のビリーミリガン」は、1人の人間の中に、24人のニンゲンが生きている、棲み分けているという話だ。ここまで来ると、ニンゲンが何ものかを乗せている器だという遺伝子の話が、絵空事ではなくなってくる。
145. (私)という心のステージには、(私)が立つのは、当然だ。私の心のステージに何人もの他人が立って、(私)は、ステージから追放される。その時、別の人格が現れた時(私)は、いったいどこに行っているのだろう?
146. (私)が私自身に重なっている。それが、普通の人間の形だ。歩いている時、身一点に感じられる、(私)は(私)であると。その統一が、破れてしまうと、(私)は、(私)のもとへと戻れなくなる。病気である。時々、これ以上、歩を進めると、(私)は、私自身を超えてしまうと思う時がある。危険だ!!
147. 変化、変容のスピードはすさまじい。40年間、自分の身に起こったこと、仕事の変化、社会、世界に生起した事象を追ってみると、背筋が冷々とするほどにめぐるましく、狂的ですらある。単なる競走原理だけでは、片づかない、説明がつかない。しかも、世界をめぐるネットワークは、時間と距離を消しはじめた。脳が裸になって、コンピューターというものに偏在して、同時に、勝手に、動き、そのスピードを、自動的に速めている。生身のニンゲンがついて行けなくなる日は、そう遠くなくて、何のための、スピードか、何のための、効率か、便利さかと、悲鳴をあげた時は、ニンゲンが壊れてしまう時だろう。(人間原理)を再構築する時だ。
148. 怪物は、機械やコンピューターではなく(私)自身の中に棲んでいる。
149. 陽が昇れば働き、陽が沈んで夜が来れば眠る、時間は、太陽とともに在った。そんな時代があった。現在は夜のない時代だ。
150. ものを書かず、一生、黙って働く人の立場に、いつも、良心の針を立てておくこと。
151. 変化しつづけるものが生きもの・人間であるなら、その変化には、始まりと終りがある。従って、ニンゲンに永遠はない。持続は、変化を伴い、いつかは終る。動かないもの、一切の変化をしないものは、永遠でもある。それは、もうニンゲンと呼べない。
152. 増えることも、減ることもない。質的にも量的にも。それは何か?
153. 風を受ければ竹がしなるように、心というものが在ってくれれば、もう、それで充分だ。
154. (私)が類の中で死んだ時、(私)は類の中に生きている。死も、また、生である。
155. 人間が、自分のもっているであろう能力・エネルギーを、まだ、わずかしか使って生きていないのは、その眠っている能力の使い方を知らないのではなくて、(私)を、あらゆる方向に(時間・空間・物質・習慣・・・)解き放っていないからだ。(私)という窓を開け放つ勇気がないのだ。未知への不安。
156. 学習のステップを次から次へとランクをあげて挑み続けることが可能であれば、ニンゲンは、新しい生きものXにまで到達できる。しかし・・・壊れるかもしれない。旧い人間は。
157. 「ONの時、スイッチは存在しない OFFの時スイッチは存在しない スイッチが存在するのは、切り換える瞬間のみだ」
G・ベイトソンの思考は、具体的で、面白く、深い。なるほど、心のスイッチを押す手はどこにあるのだろう?
158. 木の歩行。(植物の歩行。)木は成長期に、光を求めて、光の方へとその身体をねじっていく。それが木の歩行だ。夏、向日葵の花の歩行は、太陽という光へのステップである。
159. 言霊という魔に憑かれていた時には、蜘蛛のように透明な言葉の糸を投げまくったが、絶対に、捉えられないものに遇って、沈黙をした。
160. 心の重力が衰弱している。危険だ。
161. 生きれば生きるほどに、その本が面白くなり、応えてくれる(本)がある。
162. 青春時代に、刺戟を受けた本が、年をとってみると、つまらない、色褪せた本になってしまう場合もある。
163. 本を読んでも読んでも、考えても、考えても、考えても到達できぬ場所がある。
164. 結局、言語は、一匹の蛙そのものをさえ、表現できぬという思いがある。断念。
165. 言葉のネットワークの上に浮かびあがる”地図”がある。それは、(現実)そのものでもなく、(現象)そのものでもなく、もうひとつの(地図)にすぎない。
166. 一番美しいものは、数十億年かかって、ニンゲンという、この(私)を出現させた、時空を貫いてきた(設計図)だ。
167. 無数の言葉の組み合わせによって、あらゆる文章が発生する。文章が現れるということは、現れるものがあるからだろうか?それとも、無数の事象があるから、文章が現れるのだろうか?(モノやコト)と(言葉)。関係という迷宮がある。
168. 素朴な写実からはじまった文書が、リアリズムを経て、メタファーに至る。新しい段階のクラスへと進化する。クラスのクラスのクラスへとアップしていくと、いつかは、超球までも、表現できる文章が出現するのだろうか?
169. (私)という人間の中にある(設計図)。単細胞生物から始まって、魚や恐竜や鳥や蛙やサルたちが棲んでいる、ニンゲンと呼ばれている種。その種の核となる(設計図)とは何か?誰か?それを書いた手はどこにあるのか?
170. 原っぱ、森、滝、場所が力をもっている、そんな光景に会うことが少なくなった。
171. 心が、どこまでも、深く、深く、降りてゆけるのがわかってくる、長く生きてみれば。
172. 透明な錘りが、時間を超えて、空間を超えて、原子の、種の、巨大な海まで至ってしまう、それに心が触れる。
173. 右手で殺せ!!左手で救え!!
174. (私)という現象が無限に拡がっていく。(私)は、遊んでいる。固有の(私)が溶けて流れだしてしまった。
175. 意識がニンゲンの病であったとしても、人は、木にも蟻にもなる訳にはいかず、病いを言葉で語り続けねばならぬ。
176. 断念ばかりの人生である。それでも、心に心を接木して生きてゆかねばならぬ。
177. 語っている者の姿が消えてしまっても、微かに響いてくる声に耳を傾けて。
178. ツクツクボウシの声が消えて、秋が来た。ニンゲンの泣き声は止むことがない。
179. (私)であって、(私)でないように、振舞い続ける。それは可能か?
180. 思想が人を染める。ニンゲンの色が分かれるのはそこだ。
181. (私)は無限であり、(私)は何者でもない。
182. あの声はいったいどこから来たのだろう。語り手の姿も見えぬのに来る声がある。
183. ニンゲンはるばるとここまで来たと、苦も喜も味わって、生きてくれば、もう充分ではないか。底の底であれ天の天であれ。何の文句がある。
184. 身体は、自然に、齢をとっていくのに、心は、齢のとりかたを知らない。心の年輪を刻む、眼が見なければならないのは、その節だ。
185. 思考は、さまざまな無限を生む。それは、発見か、説明か、証明か。創造か。
186. あらゆる現象を、人間は、自分にわかるようにしか説明できない。で、現象の証明も、同じことだ。そのものは、結局、人間原理のようなものだ。
187. どこまでも(私)を開く覚悟があれば、人間は、何段階もレベルアップした存在になれるのに。
188. 木洩れ日を踏んで、太陽を知る。
189. 太陽を神と拝めた古代人を笑う現代人も、太陽の力なにしは生きられぬ。
190. 闇の中から、秋の虫の音が流れてくる。波・呼吸に似たリズムを刻んでいる。宇宙の合唱に合わせて、参加しているオーケストラのメンバーである虫たちの音楽。月に、星雲に呼応しているリズムに、いつまでも耳を立てている、長い夜。
191. 世界の一切を、言葉で、論理で説明してやろうと思っていた男と女が、いつのまにか言葉の中にしか世界がないと思いはじめる。ニンゲンの中には、男も女もいないと。
192. 写真は、ニンゲンを写すことはできても、(私)を写すことはできない。誰かがそう呟いた。
193. 底がないということや、果てがないということや、終りがないということは、永遠に宙吊りされているみたいで、やはり、人間には耐えられないのだろう。意識は必ず、殺してくれと叫ぶに決まっている。
194. 人間は、のっぺらぼうの存在には必ず、形を与えたがるものだ。
195. 毎日毎日歩いている。不思議なことに、路上を歩いていて、その場所を通りかかると、必ず、脳にひらめきがあって、声のように、文章が降りてくる。誰が語っているのだ。
196. いつもの公園のベンチに坐る。(私)が私の中にそのまま坐る。ぴったりと重なる時もあれば、(私)という形の中に上手く納まらない時もある。何かが貌を出している。
197. 口から肛門にかけて、空洞が筒のように走っているから、胃も、腸も、外部のはずだが、人は、それを内臓と呼んでいる。内部は外部。
198. 今は、「百年の歩行」という作品を妊娠しているので、長いトンネルの中を歩き続けているような気分。期待と不安で心はいつも波打っている。
199. 知ることと生きることが縄をあむようにして、一日という時間に縫い結ばれる。
200. 結ぼれがこれほどに稀薄になった時代はない。コミュニケーションの時代だというのに。
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• 土曜日, 8月 08th, 2009

簡素で単色、実直な文体で普通の人の生きる姿を描いていた作家・城山三郎
−生ける人間の真形を追う現場主義の作家によって描き出された城山の姿−

(小説=本)は、もうひとつの(宇宙)である。謎は深ければ深いほど面白い。ポーという(宇宙)。ドストエフスキーという(宇宙)。

一人の作家の頭脳に発火したものが、核となって、種子に育ち、様々な花を咲かせる、想像力+思考+推進力による小説は、ポーの独壇場である。見事な(宇宙)だ。

小説は自由な器である。何を盛り込んでも、どのように書いてもかまわない。しかし、作家の資質や才能とは違った次元で、時代がその作家を呼び、時代が新しい作家をつくってしまうことがある。

カポーティの小説「冷血」は、まったく新しい時代の、新しい小説の登場を告げるノンフィクションノベルの最高峰であった。ある殺人事件の取材から、犯人の逮捕、そして死刑まで、同時進行で執筆するというスタイルは、(現場)における(事実)の重みが、旧来の小説の想像力を叩き潰してしまうほどのスリルとリアリティに充ちていた。読者の心臓と、作家たちの頭脳を叩き割るほどの衝撃作の出現だった。

作家の思想・思考力・文体が、もの書きの心臓だと思われていた小説世界に、(事実)というものが露出して、文学作品の強度とリアリティを獲得した。つまり、(現場)には、核となる(事実)の断片があって、歩くことで、作家は、小説世界のリアリティを、より補強できるようにした。取材、見る、聞く、調べる、考えるという、足による発見の時代が到来した。(もの)が語るのだ。作家にとって、取材・創作ノオトの作成は不可欠になった。

加藤仁は、全国を歩き、3000名以上に会い、インタビューをして、ノオトを執り、作品の種子と、一声を断片の中から掬いあげて、「本」を書いているノンフィクションの作家である。『待ってました、定年』は、日本の来たるべき、超高齢社会を見据えて、長いサラリーマン時代、その後に続く、長い長い人生を生き抜く、普通の人々の姿を追い、人生の喜怒哀楽を表出して、話題になり、世に、加藤仁の存在を知らしめた作品である。

加藤仁が、城山三郎伝を書いた理由は、二つだと思う。城山も、また、トルーマン・カポーティの小説「冷血」によって、ものを書く人である。取材、現場主義の(事実)の重み、普通の人間の生きる姿を追うという、誠実な作家としての共鳴がひとつ。もうひとつは、文学不毛の地、実業の都市名古屋出身という点で、両者は、同じような空気を吸って育っているということ。

加藤は、作品論・作家論ではなくて、作家として、人間としての城山三郎を追っている。なぜ城山三郎は、作家になったのか。果たして、作家としての日常、生活者としての城山は、どういう人間であったのか。(作家も、また、生活者であって、特別な存在ではない)

司馬遼太郎は、天下国家を、政治を、神の視点から、(知)として、描き、三島由紀夫は、華麗なる文体で、思想−美を、狂おしい世界で描き切った。

城山は、簡素で、単色で、実直な文体で、普通の人の生きる姿を描いた。加藤の共感はそこにある。

一万二千冊の蔵書、取材ノオト・メモ・書簡、日記・知人・友人へのインタビューと、加藤仁は、(事実)の森の中から、城山三郎の生きた姿を据えて、その像を形にしようとして随分と汗を流した。

城山は三島由紀夫の小説「絹と明察」を、モデル小説でありながら(現場)のリアリティ不足と書評で全面否定し、三島が激怒したエピソードは、取材・創作ノオトを重視した三島が、結局は人物を借りて、自らの思想・美学を描いているにすぎぬと、気骨を示した。(事実)は必ずしも(現実)ではない。少なくても小説にとっては。

お金の神さまが誕生し、ものが氾濫し、サラリーマンがあふれて、(日常)がせり出して来た時、城山の「経済小説」は、大量の読者を得ることになった。いわば、共感の書だ。

しかし、政・官・財の大物たちを主人公に小説を書きはじめた時、時代の子となった城山は、微妙に変質する。

城山も、加藤も、結局は、生きる人間の真形を追う現場主義の作家である。問題は、どちらの(宇宙)が深いか、謎であるかだと思うのだが。

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• 土曜日, 8月 08th, 2009

1. 「柄谷行人 政治を語る」(図書新聞刊) 柄谷行人著
2. 「昭和史」(平凡社刊) 半藤一利著
3. 「終の住処」(新潮社刊) 磯崎憲一郎著
4. 「千と千尋の神話学」(新典社新書) 西條勉著
5. 「総会屋錦城」「鼠」「落日燃ゆ」「毎日が日曜日」「気骨について」(新潮文庫) 城山三郎著
6. 「荒川修作の軌跡と奇跡」(NTT出版) 塚原史著
7. 「建築する身体」(春秋社刊) 荒川修作+マドリン・ギンズ著
8. 「死ぬのは法律違反です」(春秋社刊) 荒川修作+マドリン・ギンズ著
9. 「三鷹天命反転住宅」「水平社」~ヘレン・ケラーのために 荒川修作+マドリン・ギンズ著
10. 「意味のメカリズム」(西武美術館刊 緑箱社作) 荒川修作+マドリン・ギンズ著
11. 「荒川修作を解読する」(名古屋美術館 読売新聞社刊)
12. 「足摺岬」(講談社刊) 田宮虎彦作品集
13. 「多世界宇宙の探索」(日経BP社刊) アレックス・ビレンケン著

本格的に「荒川修作」を読みはじめる。
奇人・変人・異端者・天才・画家・建築家・思想家と七変化する「荒川修作」に邂逅できたのは、大きな喜びであった。

イエス・キリストの「復活」、空海の「即身成仏」、仏教の「輪廻転生」、ニーチェの「永劫回帰」と並んで荒川修作の創出した、「天命反転」−「私は死なないことに決めた」も、21世紀の人類が生みだした、途轍もない宣言である。これから、じっくりと、考えてみたい。

8月1日(土)−「写真ワークショップ in 三鷹 天命反転住宅」があるというので、「死なない家」を訪問してみた。
(後で体験談を紀行文・エッセイで書いてみたい)

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• 水曜日, 7月 08th, 2009

国会の答弁で、総理大臣麻生太郎が、幾度か、漢字の読みまちがいを犯した。政治家は自らのヴィジョンを言葉で表現し、実行する、それが生命の仕事である。TVや大新聞でも話題になり、麻生総理は、政治家としての格を下げた。元総理大臣の小泉純一郎は「漢字が読めなくても、総理になれる、変人でも総理になれる」と講演で、笑いながら話をした。

日本人は、日本語でものを考える。

日本語は、漢字・カタカナ・ひらがなの混ったユニークな文章からなる。英語は、音に意味のある言葉で、文字には意味がない。

漢字は、文字そのものが意味をもっている。

だから、単なる読みまちがいでは済まされぬ問題が発生する。一つの漢字にも、いろいろな読み方がある。音(声)と形(意味)の双方が、正確に表現されないと、正しい意味が通らない。

総理大臣の答弁が、実際は、官僚が書いたものであっても、声に出して、読み、発表(発言)するのは、総理大臣本人であるから、単なる読みまちがいでは済まない、深刻な問題となる。

最近、若い人が、本を読まない、文章が書けないという話をよく耳にする。何時の時代でも、自分のことは棚にあげておいて、最近の若い者は、漢字が書けない、文章が誤字ばかりだと嘆く老寄りがいる。

実は、齢をとると、物事を忘れるばかりではなくて、漢字が思い出せなくなる傾向がある。

ひとつには、パソコン・ワープロの普及で、キーボードを叩けば、文字が出てきて、選択して並べば、文章になる−その便利さに大多数の日本人が慣れすぎた為だろう。

手紙を書く人も少ない。簡単なメールや電話で用が済む。

十年、いや二十年ほど前から、電子文字の出現で、漢字が書けなくなったと嘆いている会社員がいたのだ。

で、「漢字検定」がクローズアップされた。漢字を知る、文字は、単なる記号ではなくて、意味を含んだ言霊である。漢字を知れば知るほどに、表現の幅はひろがり、正しい意味を伝える文章が書ける。レポートを書く、人と対話する、論文を読む人−漢字の知識は、日本人には不可欠な、空気や水である。

ちなみに、今年度のベストセラーは、漢字に関する本で、百万部を突破したという。

さて、本書は、漢字の研究に一生を捧げ、白川学と呼ばれる思想にまで築きあげた、白川静の全体像を、現代の(知)の名編集者・松岡正剛が書き下ろした入門書である。

松岡正剛の名は、若い頃、特異な雑誌「遊」の編集者として知り、後に「空海の夢」を読み、その(才能)に注目している。世の中には、南方熊楠・空海と博識強記の人間がいるものだと感嘆する。白川静−松岡正剛も、その系譜に属する人たちである。

「字統」「字訓」「字通」は、決して、天才ではない人が、生命がけで学問に精をを出せば、ここまで到達できるものかと、生きれば生きるほどに深まる思想の世界に、息を呑み、赤貧の、生活苦の中から、揺るぎない白川学を樹立した強靭な精神に感動すら覚えるものだ。

「漢字は世界を記憶している」

漢字の発生から、古代文化から、東洋の思想から、そして、漢字という国語をうみだした気の遠くなるような(歴史)という時間を追う白川静を、(知)の人松岡正剛は、一般の人にも解るように、パラフレーズしている。

好きで好きで、楽しんで、三度の飯よりも漢字の研究を貫き通した白川静−一冊でも読んで見る価値はありますよ。あなたの人生にどうぞ。

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