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• 水曜日, 7月 08th, 2009

色という現象は、形以上に不思議なものた。特に、白、植物から白い花が咲くのが、とても不思議に思っていた時期がある。ある親しい人が、死期が近づいたある日、なぜなんだどうしても、ものに色が現れるのが不思議でしょうがないよと、しみじみと訊かれた時があった。ある病院のベットの上でのことだ。

一応、光について、初歩的な、科学の知識で説明したが、それを聴いても、ふーんと言って、自分の懐疑を溶解させたふうでもなかった。

光は7色である。虹が自然界の秘密を解く。光がものにあたると、そのものを構成している原子が反応して、ある光の波調は吸収し、ある色の波調は反射する。その原子の性質によって、ものは、それぞれの色をもつ。

だから、闇の中では、色はない。

確かに、そのように話をした。

その人は、一応の知識人であったが、ものが固有に色をもっていて、闇の中でも、そのものが持っている色は消えない、だから、闇の中でも、ものは色を持つと考えてしまう。

そうゆうふうに考えていた。

私は、その問いの不思議よりも、自分の専門とする分野ではなくて、死期が近づくと、 人間として、もっと、根本的なことを知りたくなるものだな、その心の作用の方が不思議だと思った。見舞いとはむつかしいものだ。

その人は、胃ガンで、もう、自分に、死期が近いことを知っていた。その二ヶ月後に死んでしまった。

長い間、色の不思議をかかえていたのだ。

私自身も、光の性質や、原子の周期や性質について、知識としては知っていても、その人と同じように、ものにある色という現象が今でも、不思議である。

どうしても、もの自体に、色の要素ではなくて、色そのものが、含まれていると思いがちなのだ。

しかも、私の場合には、白という色が、不思議である。ものが原子で出来ていると知っても、光がなければ、色がないという、そのこと自体が、なかなか、頭の中で、すっきりと納得されていないものかも知れない。

現在では、科学の進歩で、あらゆる色が作り出される時代になった。色も、また、人間が人工的に、作りだした文明のひとつである。

ある書物で、生れた時から、全盲の人が、色について、確かに理解をしたと書いてあった。どうして、一度も見たこともない、色というものを、理解できたのだろう。光に触れて、全身で、感じることはできるとしても、色は、眼で見なければ見えないものではないのか?

わかるという力は、どこから来るのか?

脳は、見えない色を、どのようにして、理解したのだろう。

眼が不自由で、ものが見えない人が、色について、わかったということ自体が、また人間の不思議である。
見る、知る、想像する、心眼で見る、透視する、幻視する−能力というものは、どこまで進化するのだろう。

生命は、宇宙のすべてを知るために出現したとでも言うのだろうか。闇の底に沈んで、眼に見えないダーク・マターも、人間は、いづれ、知ることになる−存在は、発見された時、存在になる。最近、波という力、あらゆるもののリズムということを頻りに考える。

科学という力を信じることと、全盲の人が色がわかるという力の、どちらが、人間にとって大切なのか、現代人の試金石が、ここにもある。

Category: エッセイ
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