Archive for the Category ◊ 作品 ◊

Author:
• 水曜日, 2月 23rd, 2011

もう、何年前になるだろうか。

「建築する身体」という一冊の本を購った。長い間、少年期から、ずっと考え続けていた、私のテーマが、その本の中に、すっぽりとあった。

荒川修作との出会いである。

続いて、「死ぬのは法律違反です」という、アフォリズム風な、奇妙なタイトルの本を購った。世の中には、似たようなことを考える人がいるものだと思った。読了した時、アラワカへの旅をはじめてみようと考えた。

誰もが、正面から、考えない、しかし、人類最大のテーマ「死」があった。なんとなく、わかったつもりになっている「死」、「死」を考えるよりも、日々を生きるのに忙しい現代の人々。

神話が、宗教が、哲学が数千年、問い続けてきた、「生命とニンゲンの死」が、科学の出現で、終止符を打たれたかに見える、現在、誰もが、「死」は、百パーセント来るものと信じて、疑わず、疑わぬどころか、隠して、病院の介護施設の中へと閉じ込めて、葬式の時に、チラリと、頭の中で発火する、他人事の、自分には関係のない、恐怖として、扱いはじめた。

本来、一切を問い、描かねばならぬ、小説、哲学、芸術も、身辺の雑記や感想や、情況や、事象のみしか扱わなくなっている。

そんな、精神の弛んだ現在に、アラカワは、唯一、本気で、正面から、人類の最大のテーマに挑戦する人であった。先を急ぐまい。アラカワ。荒川修作とは、いったい、何者であろうか?

「私は死なない」と断言し「死ぬのは法律違反です」と書き、「天命反転」というヴィジョンを揚げ続けた人である。それらの言説を聞き、眼にしただけで、常識の人、科学の人たちは、奇人だ、変人だ、気が狂っている、狂信者だと横を向いて、遠去かってしまうだろう。

アラカワは、画家として出発している。青年期には、ダダイズム、シュールレアリズム、フォービズムの風を受けている。ダイアグラム的な作品を発表し、詩人瀧口修造に注目された。ネオ、ダダイズムの旗を揚げ、「箱にセメントをつめた作品」(棺のような)を発表している。その頃、ノイローゼにかかって、精神のリールが切れそうに、泣き、叫んでいる。

そして、渡米。生涯の、共同制作者、詩人のマドリン・ギンズと邂逅した。ギンズ婦人は、ランボー・マラルメと、天才詩人たちを愛し、アラカワ+ギンズの著作のほとんどを、彼女自身の手で書くことになる。

アメリカを、ヨーロッパを、世界を唸らせた「意味のメカニズム」が発表された。絵、文書、図面、グラフなどが、画面を占領する、未知の、大作である。いったい、これは、何か?

いや、いや、先を急ぐまい。

私は、はじめらかの、アラカワのファンではない。終りからはじめているのだ。ゆっくりと、手探りで、深く、広い、未だ開発されていない、未読のエリアへ、アラカワの耕やした、見たこともない時空へ、歩を進めよう。

画家、芸術家、建築家、哲学者、教祖、エコロジスト、天才、多面的な顔を持つアラカワへと、ゆっくりと、旅をしよう。

Author:
• 水曜日, 2月 23rd, 2011

1. 「ドストエフスキー」(講談社刊) 山城むつみ著
2. 「ねむり」(新潮社刊) 村上春樹著
3. 「親鸞と道元」(詳伝社刊) 五木寛之・立松和平共著
4. 「盲いた黄金の庭」(岩波書店刊) 吉増剛造著
5. 「『純粋理性批判』を噛み砕く」(講談社刊) 中島義道著
6. 「句集 去来」(角川学芸出版刊) 遠藤若狭男著
7. 「リマーク」(トランスビュー社刊) 池田晶子著(再読)
8. 「白川静の世界」(文学篇)(平凡社刊) 白川静著
9. 「生命と偶有性」(新潮社刊) 茂木健一郎著
10. 「ユング名言集」(PHP研究所刊) カール・ダスタフ・ユング著
11. 「苦役列車」(新潮社刊) 西村賢太著
12. 「場所と産霊」(講談社刊) 安藤礼二著
13. 「大浦通信」(矢立出版) 吉増剛造・樋口良澄共著
14. 「神的批評」(新潮社刊) 大澤信亮著

生きることが思想になり、表現された思想が生活を変える—その往復運動のダイナミズムに身を任せている批評家が誕生した。小林秀雄と正宗白鳥の「実生活と思想」論争を思いだした。大澤信亮である。「神的批評」は処女作。生きること、食べることに、ニンゲンの暴力を見いだしている、あらゆることを「問い」続ける人の出現。新しいニンゲンの発見となるか?

もう、これ以上、ドストエフスキーの読み方はあるまいと思われるほど、世界の知者たちが、ドストエフスキーを論じてきた。ところが、山城むつみは、量子論的ドストエフスキーの読解を発見した。ドストエフスキーは、死んでも進化していく言葉である。感服。

吉増剛造の「大浦通信」を読み、写真集「盲いた黄金の庭」を観る。不思議なことに、吉増を読むと、いつも、言葉が、感性が吉増の色に染まってしまう。吉増の、ひび割れ、淵、溝、余白、亀裂、切断、端、辺、あらゆる時空に、浸透してしまう、言葉の宇宙に、身も心も、染まってしまう。科学、哲学、数学の、まだ、入りきれない空間に、(言葉)がある快感。

偶然、京都の予備校で知り合った男が、大学に入ってみると、同じクラスにいた。どこを受験するとも、何とも、話もしなかったのに。遠藤喬、俳人、遠藤若狭男である。その遠藤が、第四句集を出版した。辛い俳句であった。軽みと、感性の細やかなきらめきと淡々たる生活の中の発見が信条であったはずの、遠藤の句が、今度の句集では、重く、暗く、沈んでいた。父の死、母の死、本人のガン発見と、俳句にしては、テーマが重すぎて、句から思いがはみだしている。最後の5句は、読みながら、絶句して、句の、はるかな彼方を覗いてしまった。

「私小説」作家、西村賢太が、終に芥川賞を受賞。おめでとう。鬼となって、書いてきた「私小説」である。無視され、馬鹿にされてきた「私小説」が光る。

「リマーク」は、考える人・池田晶子の思索ノオトである。(考える)が、どのように起ちあがってくるか、手にとるようにわかる本。愛読者には、こたえられない。

茂木健一郎は、科学者にしては、診らしく、(文学)のわかる人である。小林秀雄、夏目漱石を、きっちりと読み込んでいる。そして、宇宙に1回限りの生をいきるニンゲンの、存在の、驚愕を知る感性をもっている。脳の研究者。果たして、(存在)そのものに、一撃を加えることが出来るかどうか。

12月、1月、2月と、重量感のある「本」の読書が続いた。お陰で、長篇小説「百年の歩行」の筆が止まった。しかし、読みながら、書いていると、文章の振幅が大きく、深くなる。つまり、(私)を、発見し続けることが出来るのだ。特に「ドフトエフスキー」山城むつみは、身に沁みた。そんな時には、「ユング名言集」をめくって、思考を遊がせ、心を、深いところにもっていく。

Author:
• 水曜日, 2月 23rd, 2011

「神的批評」 大澤信亮著を読む (新潮社刊)

●ニンゲンに何ができる?
●ニンゲンは何処まで行ける?

若い評論家の処女作「神的批評」単著を心読しながら、私の中に、鳴り響いていたのは、そんな、「本」から立ちのぼってくる声による「問い」であった。

読者としての、私の感想を書いてみる。本書は、四部構成である。
①「宮澤賢治の暴力」
②「柄谷行人論」
③「私小説的労働と協働—柳田國男と神の言説」
④「批評と殺生—北大路魯山人」

倫理と理論と言葉と美を「問う」評論集である。

①「書くニンゲンと生きるニンゲン」

なぜ、大澤信亮は、たった百枚の「宮澤賢治の暴力」を書くのに、十年もの歳月を費したのだろうか?

そこに、大澤が、ものを書く、生きる姿勢が現れている。単なる研究としての文章を拒否し、生きている自分が、宮澤賢治を論じるために、必要な資格(?)を得るべき、セイカツの現場に、身を横たえていなければ(文章)を書く意味がないと考えている。生きるという現場から起ちあがって来ない文章、発言、思想には、ほとんど意味がない、その覚悟と実践が、たった百枚の作品に、十年という歳月をかけた理由である。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の発言から出発した論考は、作品と実生活を追うことで、「宮澤賢治の暴力」を裸にする試みである。

生きること、食べること、書くことに、「暴力」を発見していく生存のスタイルは、暗く、厳しい。

②大澤が、心の師と仰ぎ、書くものに、生きる姿勢に、深い共感を覚えてきた”柄谷行人”を論じている。論理の人、柄谷行人。(本当は感性の人か?)なぜ、ある時を境にして、柄谷行人の書くものは失速したのか、リアリティを失ったのかが、丁寧に、作品を読み込むことで、師への刃となっている。

「(意識)と(自然)」に身を横たえて、ひき裂かれたまま生きているニンゲン漱石を語ることで出発した、柄谷行人も、また、同じように、(私の意識と私という存在)のひび割れをもったまま(文学)を語り続けた。そこに、リアリティが生れていたと私は思う。

大澤は、(学問)へと傾斜して、(文学)を棄てた柄谷を、見ているのではないか。ひび割れた存在として、身を横たえていた柄谷が、片眼を閉じてしまったと考えているのか?大澤の「問い」が、どこまで、柄谷の言説にとどいているのか、私には、判断がつきかねるが。

③論理を追いすぎる人は、「詩」「小説」を読みまちがいがちだ。「私小説」は、柳田國男の論考とは、別の力を持っている。大澤の、賢治の詩の読み方、花袋の小説の読み方には、疑問がある。小説は、進化もしないし、なんの役にも立たない。ただし、生きているニンゲンの形姿がある。感動がある。

今回の芥川賞作家、「私小説」作家の西村賢太のリアリティと、知的な文体で固めた、貴族的な、朝吹真理子の小説を比べてみればすぐわかることだ。小説は、繊細な生きものである。大思想を展開した、堂々たる生活人で、民俗学を樹立した柳田國男を論じるには、大澤のもっているフィールドが狭すぎるために、この作品は、大澤の想いだけが、骨のように、白々と、露わになっている。今後の、大きな課題であろう。核と直観を肉付けしてほしい。

④「生きることは食べることであり、食べることが殺すことであるならば、私たちにどんな希いが許されているだろうか、何も許されていない。この結論は絶対に思えた。」

「批評と殺生—北大路魯山人」は、こう始まっている。

衣・食・住は、ニンゲンが生存する条件である。「徒然草」を書いた、兼好法師は、その3つに医(医者)を加えている。3つを支えているのが仕事(労働)である。

大澤は、ニンゲンの生命の源(食)を、根源から、「問い」直している。

日本の、(食)をめぐる論争も、加熱している。何年か前には、芥川賞作家、辺見庸の「もの食う人びと」が、話題になり、ベストセラーになった。いわく、世界には、十億人単位で、食べものが手に入らない、飢えた人々がいる。その貧困は、目をおおうばかりで、豊かな、富める者は、手を差しのべなければならぬ、という論調であった。仕事がない、お金がない、食べるものがない、教育が受けられない、犯罪と病いがはびこっている、負の連鎖である。

その一方で、平和ボケした、わが日本人は、飽食、B級グルメで、TVも新聞も狂想曲を演じている。美味しい食べものを求めて。

また、国、厚労省では、日本人の栄養のバランスを考えて、全国で、栄養士による食事の摂り方を教育・指導している。学校で、会社で、病院で、介護施設で。

●一日30食品を食べましょう。(バランス)
●身土不二(季節に採れる地元の食べもの)
●一物全体食(頭から尻尾まで食べる)
●地産地消(地元の食材を地元で消費)

「料理」というニンゲンがあみだした「食文化」の教育が、大澤の言う「食べる暴力」や「殺して食べる」という事実をきれいに覆い隠している。

冒頭の大澤の決意文、覚悟を、これらの文章や意識の中に放ってみると、正に、異様というか、99対1の構図が出現する。

大澤の「生きることは・・・食べることは殺すことである」という、大澤にとっては、絶対の「法」が、99人対1であり、99人の人々の、耳に、とどくためには、どんな闘いが必要なのかが見えてくる。

辺見庸の、「食べることができない貧」の十数億人のニンゲンがいるという告発は、共感を呼ぶが、大澤の「問い」は、あまりにも過激で、根源的であるが由に、ニンゲンの生存の条件にも、支障を綻してしまう。

「言葉」の闘いである。

硬質な、論文調の、論理の大澤の言葉は、99人に届くまい。開かれた、明晰な、文章、人の耳にとどく言葉の開発が必要である。

「声」で語ってみる。イエス・キリストのように、釈迦のように、孔子のように、ソクラテスのように。百年、千年生き延びる「言葉」の獲得が必要だ。

「食事という暴力」を、ニンゲンの食習慣、食文化の中に、発見して、告発する大澤の声は、まだ「世界を変える具体的な実践」には至っていない。どだい、「世界を変える」という、言葉があまりにも、大きすぎる。せいぜい、(私)を変える、身の周りを変える、だ。ニンゲンに、何ができる、ニンゲンは何処まで行ける、逆に、私は、大澤の「協働」を、言葉と行動の一致を、非常に、危ないものと、感じてしまうのだ。

文壇、論壇のA氏やB氏が敵ではなくて、闘う相手は、99人の、大衆であり、国家の教育システムであり、ニンゲンの作った「料理」という食文化である。言葉の視線が、どこまで届くか、今後の、大澤の、思考の、文体の、開発に、期待したい。

大澤は、将来、イエス・キリストを描きたいという野望を持っているらしいが、目の前には大きな山がある。田川建三という山だ。「イエスという男」は、キリスト教を実践し、古語を学び、翻訳し、研究し尽くした男が書いた、イエスに関する最高の書物である。「イエスという男」を越えなければ、イエスを描いたということにならないから、高い、とてつもなく高い山であり、ハードルである。

三島由紀夫は、書くことの無力から、「行動」へと走ったが、埴谷雄高は、作家は、ただただ、ビジョンを啓示すればよいのだと反対をした。

大澤信亮の姿勢は、書くこと=生きることである。思考する人と、実践する人が、大澤の中に同居している。そして、ニンゲンが歩いて行ける、ギリギリの地点、ニンゲンが生きられる”閾”の限界で、「問い」続けるその姿勢には、頭が下がる。

同じく、若い評論家である安藤礼二は、「文学」には、何もできない、なんの効果もないと、自己限定し、深い諦念の中で、書く職人としての(私)を発揮している。

安藤礼二と大澤信亮。

最近、読んだ、若い評論家二人の「書く、生きる姿勢」は、好対照である。どちらが遠くまで行けるか、楽しみである。

来たるべき作家、評論家は、おそらく、「人間原理」(ニンゲンのすることのすべて)と「宇宙原理」(存在することのすべて)を、同時に追求する者たちであるだろう。生きる、死ぬ、在るという、簡単だが、根源的な「問い」から、意識、魂、宇宙へと、言葉のとどく限りの視線をのばしてほしい。

「問い」を生きる大澤信亮の単著「神的批評」を、十日ばかり読んでいたら、60歳を過ぎた身に、若き日のエネルギーが甦ってきた。感謝である。よく生きて下さい。神的な眼の視線がどこまでも延びるように。

Category: 書評  | Leave a Comment
Author:
• 水曜日, 2月 23rd, 2011

ドストエフスキー 山城むつみ著 (講談社)

世界の知者たちが、百数十年にわたって、ドストエフスキーという小説宇宙を語り、論じてきた。
二葉亭四迷、小林秀雄、森有正、加賀乙彦、埴谷雄高、秋山駿、樋谷秀昭、江川卓、亀山郁夫、E・H・カー、グロスマン、バフチン、ヴィトゲンシュタイン。

感性的に、直感的に、内的に、思想的に、宗教的に、哲学的に、存在論的に、言語論的に、もう、これ以上、読み込むのは、無理だろうと思えるほど、さまざまな、切り込み方で、語られてきた、ドストエフスキーである。もう、これ以上、語られまい。分析されまい。

果たして、更なる一歩を踏み込んだ、読み込みが、実践された。

山城むつみ氏による、量子論的なドストエフスキー論であった。同じ声、同じ文章が、放った人によって、まったく、別の内容になってしまうという方法、分析論である。

山城むつみ氏は、ドストエフスキーの小説をテーマーとして語るのではなくて、あくまで、語られた文章を、そのまま読み込み、分析するという手法を執った。

何が語られるのか、テーマーを抉出して語るのではなくて、その文章が、語っているもの、(文)そのもの、言葉そのものを、凝視することで、ドストエフスキーの新しい断面を、表出しているのだ。

7年半も、ドストエフスキーを書き継ぐという行為は、その時々を、刹那的に生きている現代人にとっては、信じられないような、気の遠くなる行為である。

つまり、一冊読めば、一ヶ月ほど、ドストエフスキー熱が消えない小説、日記を、山城氏は、7年半も、自らの内に響かせ続けたのだから、日常の、日々の生活の継続は、凄まじいものがあっただろうと、推察される。

「罪と罰」「悪霊」「白痴」「カラマーゾフの兄弟」という、ドストエフスキーのいわゆる四大長篇に加えて、「地下室の手記」「未青年」「作家の日記」を、中篇の「やさしい女」を中核に据えて、新しい視点を獲得している。

山城氏の手柄は3つある。
①量子論的な分析の発見。
②今まで、失敗作と見棄てられてきた「未青年」を、新しく、現代的に読みかえたこと。
③子供たちの、多声的、存在論的な読み込み。

30日ほどかけて、山城氏の「ドストエフスキー」を読み込んだ。

ドストエフスキー論を書くと、不思議なことに、その人の(書き手)人生観、思想のレベルが、照らし出されてしまう。だから、ドストエフスキーが、いかに、言葉の力を、遠くまで、運んでしまった人かが、判明する。まるでリトマス試験紙である。論者が書いているのか、ドストエフスキーが、書かせているのか、見分けがつかなくなってしまう。読むたびに、新しい発見がある。

実際、てんかん(病気)、賭博(賭けごと)、不倫(姦通)、政治犯(シベリア流し)と、ドストエフスキーの実人生そのものも、普通の生活者の、日常のレベルをはるかに越えている。稀有のものである。実生活の、波瀾万丈の人生を、源水とした、作品群は、「実生活と思想」として、語っても、語っても、語り尽くせない、謎に満ちている。ドストエフスキーは、人間の、コントロール、抑制がきかない地点まで踏み込んでしまっている。だから、ドストエフスキーを読むことは、現場で生きる以上の、リアリティがある。怖い、恐ろしい、畏怖すべき、人、小説である。

私は、(無限)を感じさせてくれる、唯一の作家が、ドストエフスキーだと思って、長年、読み継いでいる。(無限)に触れる、興奮と驚愕は、他の作家にはない。

山城むつみ氏の「ドストエフスキー」は、(普遍)へと達してしまった。ドストエフスキーの声、文章と、均り合うほどに、そのヴィジョンを、語ってしまった、現代の秀作であると信ずる。敬服する。

願わくば、ドストエフスキーの愛読者が、一人でも多く、氏の「ドストエフスキー」を読まれんことを、切に、希望する。

久し振りに、進化するドストエフスキー論が読めて、また、新しい眼が開かれた。長い、日々の、労苦が、読者諸兄が、読み込むことによって、むくわれることと思う。お陰で、一ヶ月以上、私の頭も、ドストエフスキー熱が出て、日々の生活も、その声に、染められてしまった。感謝である。

Category: 書評  | Leave a Comment
Author:
• 火曜日, 2月 22nd, 2011
1501. 思考のステップと実践のステップは、似て非なるものだ。
1502. 決して、愉しんではいけない、不幸な人がいる限り、と、感じてしまう心性をもった人は、一生、自分を噛み続ける。
1503. ニンゲンの世界だけを、考えて、閉じないで、宇宙のことも、考える、開けかたが必要な時代だ。
1504. 30代までは、闘う言葉を使っていた。60代になると、言葉は、死者へと接近してくる。そして、(無限)へと開かれる。
1505. (書く人)である限り、論争だけがあって、限界がくる。ただ、働く人の場に、身を置いて、(書く)ことを棄ててみる。
1506. 他人とともに、働く時には、(文学)など棄ててしまうことだ。ただ、ニンゲンが起っている。ひびが割れたまま。
1507. 負い目も、傷も、棄て去って、魂を遊ばせる。歩いて。ニンゲンの最上の行為だ。
1508. ある、ある、ある、あらゆるものがありすぎると、思っていたら、もう、水泡のように、次から次へと姿を消しはじめた。妙なものだ。眩暈がする。
1509. もっと、離れて、もっと、もっと、離されて、ようやく、見えてくるものがある、心を放って遊ばせておくと。
1510. もう、仕事で、イヤなニンゲンに会わなくても済む、他人に会う日々から、解放されたから。いくらでも、独りには耐えられる。心を舐いで。
1511. 若い時には、とにかく、新しい人々に会いたくて、歩き廻った。今は、どうだ、もう、人に会うよりも、木を眺めている方が、心に合致している。木の声を聞いて。
1512. 困った者だ。いつも、極端から極端へと歩きたがる。中庸ということを知らぬ。壊れても仕方のない歩き方だ。
1513. 歩行の果てへと思っていたが、歩行の中心に、それは、在った。
1514. 生老病死があるから、(私)は四苦八苦して生きる。で、不条理だから、祈る。無限に。
1515. 酒は、たゆたいが一番である。日常から虚空へと少しだけ浮遊して。
1516. 思考の振幅は、思考の強度に転じなければ。
1517. 石割=(石工)は、時間の職人である。
1518. おそらく、(私)の出自を語るだけでは足りない。言葉の出自も、思考の出自も、語らなければ(宇宙)は顕現しない。
1519. 軽みもセイカツのうるおいであっていい。悲嘆、悲痛、悲惨ばかりでは、日が湿って暗くなる。
1520. アレに手を出し、コレに手を出し、いつまでたっても、焦点の定まらぬ男だ。終に(私)まで見失って。
1521. 手綱は決して手離さないこと。(私)が馬か、(馬)が私か、ホラ、わからなくなる。
1522. (声)の中に、(文字)の中に、(神)が現れるまで、ニンゲンにとって(神)は存在しなかった?
1523. ニンゲンは、生きるためにモノ(生きもの)を食べる。悲しい、美味しいと思いながら。(原点)
1524. (食べる)ことの罪を追求しはじめると、水も空気も、飲んだり、吸ったりできなくなる。
1525. ニンゲンに何ができる、
     ニンゲンは何処まで行ける、
     二つの声は、(私)の中で、鳴り続けている。
1526. 原子よ、あなたは、なぜ、生命になったのか?
1527. 食卓は、いつも、殺生の場である。だから、ニンゲンは祈る。救いはないが。”いただきます” ”ごちそうさま”と。
1528. 「食べる—食べられる」は、もちろん「殺す—殺される」からくる。殺気立ったり、笑ったり、不条理極りない。
1529. ドストエフスキーを読むと、いつも、時空を超えた(無限)に触れられる。
1530. もともと(生きる)ことから脱臼している男がいる。何をしていても、ついでに、やっているふうに見える。生きているのに、終ってしまっているニンゲンだ。
1531. もちろん、底辺から頂点まで、あらゆる音と声と言葉が響かねばなるまい。
1532. 一日は、いつも、新しい日だから、(私)も、日々、新しく在る。
1533. 静かに、静かに、(私)を沈めていくのだ。流れた暦の底へ、先祖たちの魂の底へ、垂直に、ゆっくりと、どこまでも。(元型)に至るまで。
1534. 来る声と沸きあがる声。(私)へ、(私)から。発火点はどこだ。
1535. (私)の方法は、
     右手に「人間原理」を
     左手に「宇宙原理」をである。
1536. 「もう、ものいわん人になってしもうた」6歳の少年時、棺に身を投げ放った母の声が、まだ、耳の底に残っている。
1537. 考えても、どうなるものでもないことが、多すぎる。だから、素手で、素足で、生きている。
1538. すべての物語は、ヒト、モノ、コトに会って別れる話である。
1539. 木に木目があるように、石にも石目がある。もちろん、ニンゲンにも、似たものがある。”生れつき”である。
1540. おかしなことに、信仰などもっていないのに、(神)については、考える。どうも、信じるという(宗教)の神ではなくて、(存在)の神についてだ。
1541. ペラペラの、凡康な日々に、その軽い存在に、飽きて、倦んでも、ニンゲンのいる場所だから、逃げられない。歯がみして。
1542. 決して(文学)の中で(文学)を語らないこと。ニンゲンを語って(文学)になるべきである。
1543. 小さな必然と、大きな偶然が、(私)の歩行を決定している。
1544. 原因から結果への条理ではなくて、大きな縁による命運が見える。
1545. 自力といい、他力といい、意識のあり方をめぐる考察であるか。その先へと歩け。
1546. 悲嘆する人、哄笑する人、正に、存在の収縮と拡散である。
1547. 外部を内部へと転移させて、暗黒宇宙に浸る頭脳。
1548. ふつふつと煮えたぎる情念の切断は、声を殺して。
1549. 無限の物質量の海に、(私)を放って、ささやかな抵抗をする。一瞬を無限へと念じて。
1550. 視点を高次元へと運び続ける。どこまで、ニンゲンでいられるか!!
1551. ぐるぐると、毎日廻っている地球の習慣が棄てられなくて、重力に喘いでおる。
1552. 脳がなくても考える。単細胞生物の粘菌。だから、脳よりも(私)なのだ。
1553. 同時代に生きていると、どこにいても、似たようなことを、考えてしまう。思考は伝染する。
1554. もう、生きるのはイヤダという声、
     まだ、死ぬのはイヤダという声、
     宙吊りである。
1555. 生きてもダメ、
     死んでもダメ、
     いったい、どうしろというのだ。誰の声だ。
1556. (無縁社会)という言葉の背後には、人は、縁によってつながっているという仏教の思想がある。
1557. 血縁、地縁、職縁(?)他に、どんな縁があるだろうか、生きるも、死ぬも、縁次第という日本人らしい、古層からの発想が脈々と生きている。
1558. 作られたもの(被造物・被造者)が作ったもの(創造者)を思えない訳がない。
1559. ニンゲンの世界には、確かな(善・悪)がある。物質の世界には(在る・無い)があるだけだ。
1560. 生命が、光の化石から誕生したのか、暗黒物質から誕生したのか、宇宙にとって、正に、大問題である。
1561. グレート・マザーは、いったい、誰なのか?
1562. 国と国の、損益が、ものごとを判断する最大の基準になっている。坂本竜馬が生きていれば、”宇宙の時代ぜよ、現在は”と叫ぶだろうに。
1563. 今日のメシか、明日の夢(ヴィジョン)か。「問い」を生きる。
1564. 関係の、関係の、関係ばかりが声高かに叫ばれている浮世だが、一度、時代を、生命を、垂直に、時間で、考えてみるべきだ。
1565. 生きるためにすべてを、実行しなければならないのに、AもBも、拒否したくなる心性。
1566. 日々の生活は、変わらないのに(私)は、まったく別のニンゲンになってしまう。そんなことが起こるのだ。
1567. モノの見方が変われば、考え方も変わり、(私)は、一気に、深くなる。
1568. 考える視線がどこまでとどくか、ニンゲンの。
1569. 切断。思考の。視線の。触感の。音感の。混沌が来る。静かな。
1570. いったい(私)に、ニンゲンに、客観的な視点に立つということが、可能であろうか。確かに、第三者の、神的な、視点を設定することは可能だ。しかし、それは、あくまで(私)が、そうするのだ。すべては、見る人、語る人、描く人の色に染まってしまうのだ。
1571. ニンゲンは、仕掛けられて(何に?誰に?)偶然に、顕現した(私)を、追求する旅しか、出来ない存在なのかもしれない。
1572. ニンゲンである限り、誰もが、全員が(病者を除いて)働かねばならない。仕事は、衣・食・住を得るための(社会的な私)の場であるから。
1573. 流されて、結実しないものの、なんと多いことか。
1574. 区切り、段落、境界が溶けている。
1575. 太陽を真似て、原子の爆発を作ってみたニンゲンであるが、同じように、時間を空間を作り出せるだろうか?
1576. 生れた苦しみは、誰でも知っているが、生まれなかった苦しみを、考えられるか?
1577. (私)という形態に進化して、数億年、さて、これから、どのようになろうとしているのか。昼寝のときの考えである。
1578. (私)自身が耐えられる限り、その言葉を、他人に投げかけよ。
1579. その日常は、そのまま、続けられるのに、突然の切断。血も流れる。心も切れる。何よりも、平々凡々と続いてきた一日、その一日が絶える。
1580. 人は、なぜ、死を悼み、悲しむのか?殺してしまった、もう一人の(私)を、死者の中に見ているからだ。
1581. 分裂がある。葬儀の日は。生きると死んだ、に。ひび割れに身を横たえるのが辛い。
1582. その一言を言いたいために、千枚の長篇小説を書かねばならぬ、曲り道。曲がらねば見えぬものがあるために。
1583. いったい、誰が、赦しを与えるのだろう?なぜ人は、赦されねばならぬものを抱え込むのだろう。応えのない沈黙の中で、恐怖を感じてしまう人の心の在り方は、決して、癒されることはない。
1584. 頭も心も空にして歩いてみる。アッという間に(私)はコトとモノに染めあげられた。
1585. (信用する、信用しない)(信じる)(信じない)という、ニンゲンの、判断の根底にあるものとは、何か?心の水準器。
1586. 闇の子か、光の子か。
1587. ニンゲンのなぜ?は、宇宙のなぜ?にならない。
1588. 形をもつモノ、この、気の遠くなるような時間の果てに顕現したモノ、の奇妙さ、不可思議は、毎日、毎秒(私)を刺激する。
1589. 熱がでると、必ず、もう一人の(私)が現れる。
1590. 下痢が続くときには、つくづく(私)は、筒だと感じるし、外と内の境目が消えてしまう。(私)は、私を、すべて、下痢してしまいたい。
1591. 今日も(考える)が生きている。
1592. 生きてこそ、は、死んでこそ、でもあった。死者たちの音信がとどく日々である。
1593. 生きる現場から立ちあがってくる「問い」と、「問い」そのものを生きることとは、やはり、ちがう。
1594. 「死」の問いかたひとつで、そのニンゲンが、何を、どのように生きているのかが、わかってしまう。
1595. 突然、「物」が露出すると、ニンゲンは、あわてふためき、眩暈がして、吐くか、放心する。そして「物」をなんとか料理して、(私)と融和させてしまう。
1596. 生きて、身をもって考えて、歩をすすめる人がいる。あらゆる(知)を吸収して、学問する人がいる。本気で、考えているのは、どちらか?
1597. 簡単が最も深い(生きる)
     易しいが最も難しい(死ぬ)
1598. 与えられたモノだけを食べているニンゲン。時間を食べ、空間を食べ、モノを食べ。
1599. 夢も、また、(私)を、(無限)へと開く、ひとつの装置にちがいない。
1600. どんな場所にいても、どんな時代に生きていても、(私)は、(無限)へと開かれて在る存在である。
Author:
• 月曜日, 12月 20th, 2010

1. 「さらば、立松和平」(ウエイツ刊) 福島泰樹編著
2. 「兵どもが夢の先」(ウエイツ刊) 高橋公著
3. 「新約聖書」(パウロ書簡その1)訳と註(作品社刊) 田川建三訳著
4. 「新約聖書」(パウロ書簡その2)(擬似パウロ書簡)訳と註(作品社刊) 田川建三訳著
5. 「これから『正義』の話をしよう」(早川書房刊) マイケル・サンデル著
6. 「量子の社会哲学」(講談社刊) 大澤真幸著
7. 「徒然草」(岩波文庫)再読 吉田兼好著
8. 「ブッタのことば」(岩波文庫) 中村元訳
9. 「ブッタ最後の旅」(岩波文庫) 中村元訳
10. 「ブッタの真理のことば・感興のことば」(岩波文庫) 中村元訳
11. 「この人を見よ」(新潮文庫)再読 ニーチェ著
12. 「残酷人生論」(毎日新聞社刊) 池田晶子著
13. 「理性の限界」(講談社現代新書刊) 高橋昌一郎著
14. 「流跡」(新潮社刊) 朝吹真理子著

古代人の生きた言葉、考えた、信じた思想を、現代の日本人の言葉に翻訳する—いや、移植すると言った方がいいか?—「新約聖書」田川建三著を読み続ける。正確に、しかも、こなれた日本語で、美しい文章で。翻訳は、難事業であると思う。一度読み、素読の後で、考えながら読み、注釈を読む。簡単な言葉に、数百ページの注釈が要る。途轍もなく、深い、世界である。完訳が期待される。

全共闘運動の先頭に立って戦った、高橋公著「兵どもが夢の先」は、私は、かく生きたという証の書である。団塊の世代必読の書だろう。

テレビで、話題のマイケル・サンデル教授の授業を観た。対話術が、実に巧みな先生である。講師と聴集が、同じ場に立ち、同じ問題を考えて、深化させていく手法は、まるで、ブレヒト効果である。著作を買って、読んでみた。考える中心には、やはり、カントがあった。哲学の核があっての、現実問題への応用である。

「ブッタの言葉」を読んでいると、軽佻浮薄な現代人が、忘れて、見向きもしなくなった言葉が光っていて、胸が疼く。閑かに、ものを考えて、生きるということを失ってしまった人間は、もう一度、棄ててしまった(言葉)に生命を吹き込まねばなるまい。

久し振りに、若い人の小説を読む。「流跡」朝吹真理子著。なつかしい70年代の文学の香りを嗅いだ。ロブ・グリエ、ビュトールなどのヌーボーロマンの時代。フランス文学の伝統。中村真一郎、三枝和子、鈴木貞美、三砂朋子・・・。私も、早稲田文学に「投射器」を書いた。しかし、アンチ・ロマンは、日本の風土では育たなかった。文体、感性とも、申し分のない人であるが、(生きた人間)の声が含まれてくると、面白いのだが。昔の自分を見ているようで、拍手を送りたくなる。足りないのは(労働)か?

「社会学」や「社会哲学」が、何であるのか、詳しくは知らないが、「量子の」という言葉に魅かれて、大澤真幸の本を読んだ。
実は、毎月購入している「群像」で、「<世界史>の哲学」という連載があって、興奮しながら、読んでいる。その作者が、大澤真幸であった。随分とフィールドの広い人で、宗教、哲学、絵画、小説、思想、科学、音楽と、さまざまな分野を、駆け抜けながらある一点にむけて、言葉、思考が展開する、その、スリルが、実に、面白い。
(知)の破綻と(知)の共時性、その二つが、大澤の言わんとすることであろう。ニンゲンの思考は、(数)で(論理)で(存在論)で、特異点に衝突してしまっている。しかし、一人の(考える)と思われたものが、実は、異分野でも、同じようなことが起こってしまう。不思議だ。ユングの(共時性)。
「理性の限界」高橋昌一郎著。この本でも、大澤と同様に、不可能、不確実、不完全性が書かれている。

(知)が破綻しているのに、ニンゲンは、平気でセイカツをしている。(知)とは何か?(知)を語る人の(私)は、(私)自身は、どうなっているのだろう?私は、二人に、訊いてみたい。放り出された読者は、いったい、何処へ行くのか?

最後に、池田晶子の「残酷人生論」が増補、新装版で、出版された。晩年に、探求されることになる、さまざまな種子が含まれている本で、第二の処女作と呼んでも、不思議ではない「考える人」の本である。(書評欄を見て下さい)
今年も暮れた。

読書は、日々の友となった。アフォリズムは、1500本に達した。長篇小説「百年の歩行」は、現在進行中である。世界のアラカワ、荒川修作をめぐるエッセイも、来年スタートしたい。

私は、メールもパソコンも出来ない。メールで感想を送っていただいても、読むことは出来るが、返事が出来ず申し訳ありません。正に時代遅れの男である。
手紙人間であるから、手紙で、感想批判をいただけると、実にありがたい。

Author:
• 月曜日, 12月 13th, 2010

人は、生きるという現場で、かかえこんだものを、一生、反芻しながら、成長させるものらしい。

本書を12年振りに再読しながら、その晩年まで池田晶子が考え続けたものが、ほとんど、種子として蒔かれているのが、「残酷人生論」であり、第二の処女作と呼んでもよいと思った。

絶版になっていたものが、増補新版として出版された。コンパクトで、持ち運びに便利で、電車の中でも読める、ハンディな本だ。

「考える」ことが、唯一の生きる意味であった池田晶子の「人生論」は、あまたある、発見、発明、事業の成功などを語る、いかに生きるかという人生論とは、一線を画している。

どうも、ニンゲンには、二人の(私)があるようだ。
食べるために(生活、仕事)生きる人。(A)
生きるために、食べる人。(B)
そして(私)を生きる、その(私)も、存在そのものの(私)と(社会的な私)に分かれている。

人は、誰でも、ある年齢になると、突然、(私)を発見する。(私)を(私)として見るもうひとつの眼ができる。そして、(私)って何だろうと考えはじめる。(私)に気がついたが、その(私)が何者が、わからないのだ。で、生れた場所、家、名前を呼ばれて、(私)が(社会的な私)として、存在しはじめる。

仲間と遊び、友達と学校に通い学習(勉強)し、食べるために仕事(労働)をし、社会=世間を知って、(仕事=生活=私)が完成し、停年になると、肩書き、地位、会社、組織を離れて、また、もとの(私)に戻る。

たいていの人は、普通、(社会的な私)を(私)と認めて、働き、生活をしている。ところが、生きるために食べると考えた人は、どうしても、食べるために生きるセイカツに慣れることが出来ない。

そこで、(社会=世間)に衝突してしまう。しかし、その(私)を変える訳にはいかない。で、どうにかして、(世間=社会)と折り合いをつけて、生きねばならぬか、と悩む。

本書では、珍らしく、池田晶子が、(私)が生きる時、普通の人と、ちがってしまう、と、悩みを打ちあけている。

人は(死)を悲しいと言う。池田晶子は(死)がおかしいと感じてしまう。そこだ。どうも、(私)の心性は、普通の人たちとはちがう。どうしよう?と考え、悩む。

当然、普通の評論家や作家や詩人から、批判される。「悪妻に訊け」に対して、
サザエさん的世界」から出ていく力が弱い(福田和也)
「他者がいない」(松原隆一郎)
「本質的にモノローグ」(佐藤亜紀)

普通に生きる人は、(他者=世間=社会=仕事=生活)というものが、厳前と、眼の前にあって、それと、闘い、競走することが(社会的な私)を生きることだと考えているから、当然である。

実は、(私)を考える、(私)を生きるタイプのニンゲンは、必ず、同じような批判を受ける。「内部の人間」を書いた、秋山駿も、一生、「私」をめぐる考察を、ノオトとして、書いている。で、同じ類の批判を受け続けた。

池田晶子は、(私)=(存在)=(宇宙)というふうに、考える人だから、どうしても、世間の(社会的な私)を生きる人たちと、問題の立て方がちがう。

無限遠点から来る光線を見るようにしなければ、池田晶子の姿・形は、望めない。

実に辛い、心性をもったものだ。しかし、本人は、平然と、(私)を生きる、(私)を考える、を生きてしまった。家も、故郷も、名前まで消してしまった。(魂という私)=(魂の私)になって、疾走した。

池田晶子の言葉に躓く人は、2つの(私)を考えてもらいたい。
「以前に生きていたことがある」(池田晶子)
ホラ、躓くでしょう。だから「残酷人生論」なのだ。

Category: 書評  | Leave a Comment
Author:
• 水曜日, 12月 08th, 2010

いよいよ日本は、超高齢者社会が、現実のものになった。いわゆる団塊の世代、700万人が、停年を過ぎた。大量の企業戦士が、会社を辞めて、それぞれの地域社会に放たれた。

人生80年時代であるから、会社、仕事を辞めても、まだ20年、約10万時間が残されている。とても、旅や趣味では、時間をもてあましてしまう。実際、(私)=(仕事)で生きていた人間がその場と役割りをなくしてしまうと、大半の人は、途方にくれるだろう。

そこで、昔の、700年の前に生きた、吉田兼好さんの言葉(本)が役に立つ。仕事を自ら棄てて、市井の自由人となった兼好さんが、人生を、どのように考えて、生きてきたか、語ってみた。

温故知新である。

人間、生きれば生きるほどに(本)が面白くなる。つまり、生きてみなければわからない内容や意味がいっぱいあるのだ。
身にしみて、わかる年齢になると、本は、毎日の友ともなるのだ。

ある日、気がつくと、(私)がいた。誰も、望んで生れてきた人はいない。そして、学習して、勉強して、(私)を生きるために(仕事)をしてきた。40年も。

それは、(社会的な私)であった。
会社、組織を離れてしまうと、また、もとの(私)に戻る。さて、この(私)をどう生きよう。

何か面白いことはないか?
何か気持ちいいことが出来ないか?

そう思って、人は、さまざまな(仕事)に就くのだ。
そのうちに、いつのまにか、(私)=(仕事)=(社会的な私)になる。
なかなか、原点にもどって(私)だけを生きるのは大変である。

私の提案は二つである。誰でも、一冊は、本を書ける。
意を決して(私)=自分について、(本)文章を書いてみることだ。(私)とは何者か?と。

もうひとつは、せっかく、この世に生れてきたのだから、人類の(知)に触れてみることである。社会に生きていると、会う人は限られている。
そこで、(歴史)の中の人に会う。
つまり、四大聖人(勝手に私が、そう呼んでいる)、孔子「論語」、釈迦(ブッダの言葉)、イエス・キリスト(新約聖書)、ソクラテス(ソクラテスの弁明)の「本」に言葉に触れてみることだ。

私たちは、誰でも、宇宙に、1回限りしか生きない生きものである。

さて、90分のお話は、「死」について、「お金」について、「女」について、「酒」について、「宗教」について、「仕事」について、「自然」について、いろいろ語らせてもらった。
兼好さんと現代人、果たして、どちらがよりよく人生(私)を生きているだろうか?

みなさん、一生懸命ノオトを執って下さった。更に、懇談会では、質問責めであった。
(私)の声は、とどいたであろうか?

長時間、誠に、ご静聴ありがとうございました。
感謝、また、どこかで、お会いしましょう。

演題 : 「生涯現役で生きるために」 ~背広を脱ぐ前 脱いだ後~ 「徒然草」(吉田兼好)を読みながら
場所 : オークラ千葉ホテル
日時 : 平成22年12月3日(金) 15時00分~16時45分

【背広を脱ぐ前 (決断と実行と胆力)】
①人は、社会的な(私)を生きている。
寝る場所(家)があって、着るもの(衣)があって、食べるもの(食)があって、仕事があれば充分である。
生活の中心にはいつも(仕事)がある。会社で、組織で、(規則と法)のもとに、働いている。生きるために。仕事・仕事・仕事。
ビジョン(あるべき姿)があり、それを実現するために、働いている。人間と人間の間で。毎日、汗を流して。
(仕事とは何か?)

【背広を脱いだ後 (自由と覚悟と生きがい)】
仕事の(場)がなくなる。社会的な(私)が消える。いわば、椅子・肩書き・役割りが、突然無くなってしまう。
●誰も、生れてきたいと思って、生れてきた人はいない。ある歳、気がつくと(私)がいた。ニンゲンである。で、働いて、生きた。
●生老病死は、ニンゲン、誰も避けられない。

②素顔の、裸の(私)、ただの(私)を生きなければならない。
(何が変わった?大事なものとは何か?) 大問題である。
さて、あり余る時間と、自由を手に入れた。人は、どう、生きればいいのだろうか?
(人間とは何者か?)

【「徒然草」 吉田兼好 著】
①吉田兼好ってどういう人?
時代は、南北朝。(1283年~1353年?没)
本名 卜部兼好(うらべかねよし)。室町時代に、子孫が卜部から吉田に改名。(吉田神道)
吉田神社(京都)は、神道界の名門の家系。貴族出身。兄弟に、高僧・天台宗の大僧正(慈遍)がいる。
役人(六位の蔵人)をやめて、出家・世捨て人となる。(30歳頃?)
(市井の自由人)に。
歌に秀でていて、歌集「兼好法師家集」がある。旅を好み、西行を親い、東国(関東・鎌倉)の名士と交流。

②「徒然草」って、どんな本?
37歳~48歳頃、兼好が書いた随筆集。
「枕草子」(清少納言)、「方丈記」(鴨長明)と比較されるが、実は、日本初の「批評」の第一級の書物である。批評家誕生。
隠者となった兼好が、人知れず、書いたもので、(人間)をめぐる、さまざまなエピソードと批評に満ちている。
奇人、変人、珍人、通人、知者、あまたの人間が登場して、お金・友達・お酒・恋・死・四季・孤独・宗教・病気・読書とあらゆるテーマが、鋭い批評で語られている。
滑稽談あり、奇談あり、逸話あり、幅広く人間の世界を、眺望している。
もちろん、生老病死が中心で、(無常)が、最大のテーマである。
深い洞察力と、鋭い観察眼、エスプリの利いた批評とユーモアあふれる作品で、名文である。(声を出して読みたい)
●兼好の生前には、ほとんど、知られていないし、読まれてもいなかったのが、江戸時代に、再発掘されて、一大ブームとなり、「日本の論語」ともてはやされ、嫁入りの時には、親が、必ず、嫁にもたせたほどの人気だった。全243段のエピソードから成る。
●人間の文化、文明は、数百年で大きく進歩した。
しかし、人間そのものは、果たして、進歩しているのか?昔と少しもちがわないのか?
700年前の人、兼好の本を、現代人は、どのように、読むのだろうか?(長寿社会にはピッタリの本) 温故知新。

Author:
• 水曜日, 12月 08th, 2010
1401. ニンゲンとして在るのではない。ニンゲンに成る可能性として在るのだ。だから、ニンゲンとは、Xである。(私)は、可能性の魔になる。
1402. 簡単明瞭(シンプル)が文章の極意だ。
1403. モノ自体が在るように、言葉も在れ。
1404. 肩の力を抜いて生きる年齢なのに思わず力瘤が入ってしまう時がある。やれやれ。
1405. いつまでたっても、他人を傷つけ、他人に傷つけられ、人間関係を超越できぬ。自然であるか!!
1406. 機に応じる。最高の時も、最低の時も。
1407. 他人が考えたことを、(私)も考えてしまう。結局、つきつめると、同じところに落ち着くのか。
1408. 心が泡立って、心のコントロールがきかない。
1409. 知らない(無知)と、どうしても、知ることができない(無知)はちがう。千里の差がある。
1410. 抗いのあとの、締念であろうか、ものがみな美しく見える。
1411. 量子よ、(私)を迷宮へと放り込まないでくれ。
1412. 握手をする手が、戸惑っている。本当に、これが、あなたの手か、と。
1413. 一行の文章が人生に拮抗できる訳がない。無数の言葉を放っても。それでも、(私)は。
1414. しかし、一言半句が欲しい。作家の性か。
1415. 誰かが、燐寸をすっている。(私)の中に、火が点いて、勝手に、燃えあがっている。
1416. なぜ、生れる(私)と生れない(私)に別れてしまうのだろう?
1417. 現れなかった、もう一人の(私)のために、(私)は、非在者の宇宙を想像する。
1418. 見るということの限界に、死刑宣言を出したのは、量子力学である。
1419. 見るが壊れる、考えるが崩れる、いったい、どうする、ニンゲンよ。
1420. 思考にかわるものを、思考で、思考しても、所詮、無理な話だ。もっと、別の、スタイルを。
1421. ニンゲンは、自分の蒔いた種子しか育てられない。
1422. (私)は、(私)だけを生きているのだろうか?何?誰が(私)を生きている?
1423. 生きている、ということの質と幅を、もう一度再考しなければならない。
1424. 「集合と分解」の真只中に立っている。
1425. どうしても、ニンゲンが死んで(無)に至ると思えない人がいる。どうしても、死ねば、すべてが完全にお終いで(無)に帰してしまうと考える人がいる。そして、(無)という訳のわからないものに、(死)という、訳のわからないものに、いつまでたっても、
答えが出せずに、揺れ続けている人がいる。
1426. まあ、とりあえず、突然(私)に気がついて、不意に(私)を発見して、驚いたのだから、生きるということだけしていよう。あとは、野となれ山となれだ、と(生)の後を考えない人もいる。
1427. 白川静なら、おそらく、神は、漢字の中から起ちあがってきたと語るだろう。
1428. わかる瞬間には、透明な火花が散る。快感が風となって(私)の中を吹きぬける。
1429. 長い間、考えあぐねていたことが、ひょっとした瞬間に、飛びだしてくる。”解”となって。
1430. 信が置けなくなると、何を言っても、何をしても、必ず、疑惑の眼で見られてしまう。
1431. 堂々としている必要はないが、せめて、自然態ではいてほしいものだ。伏目がちに、背中を丸めていると、その姿、形が不信を生む。
1432. 自分自身に甘い人は、他人の眼が、どこまでとどくか、知らないのだ。腹から背中まで突き抜けてしまう力が、他人の眼だ。
1433. ニンゲンは(考える)という思考のパターンの外へは出られない。やれやれ、石との対話、蟻との対話もできないとは。
1434. 考える(私)は、考えられる(私)でもあるのに。
1435. (私)から発する言葉と、(社会的な私)から発する言葉では、言葉の筋目がちがう。
1436. 彼は、そういう人間だよ。まったく、あいつらしいね。他人がそういう時、おそらく、正確に、その人を捉えている。しかし、言葉で、その内容を語ってみようとすると、これが、なかなかむつかしい。
1437. 人は人の何を捉えて、その人を語ってしまうのだろう。おそらく、性格や資質や傾向だけでは納まりがつかぬ。その人がその人である不思議がある。
1438. 知識や知恵を身につけて、生きているが、ニンゲン自身は、いつも、それらを超えている。
1439. 思考の癖、心のありよう、身の処し方、一人一人に固有なものが、生れつきと呼ばれてしまう。変えようがない。おかしなものだ。
1440. 学習しても、知識を得ても、情報を知っても、決して、身につかぬものがある。魂の私の姿。
1441. (私)が、もう一人の(私)に再会するために、(生と死)という旅をしているのであれば、最後の楽しみは(死)ではあるまいか?(宇宙の双子の私)
1442. 見ることは見られること
     触ることは触られること
     考えることは考えられること
     (私)が(私)を
1443. 書くことは消すことでもある。
1444. 来たものは、形を変えて、文字というものになってしまう。
1445. で、来たものは、書かれて、完成して、消えてしまうのだ。
1446. わかるということは、文字・文章を読むことではなくて、文字・文章になったものを知ることである。
1447. (私)を考え続けることが、一生である人がいる。生きるために考える人、考えるために生きる人。(考える宇宙)
1448. 無いものを見てしまった人は、いったい、どうなるのか?眼が狂っている?(私)が狂っている?いいや、(無いが在る)世界に超翔したのだ。
1449. 一日中、どこにいても、居心地がわるくて仕方がない日がある。(私)の着地している場所と(私)の存在が、磁石のプラスとプラスのように、反きあっているのだ。時空と、上手く、握手できない日は、辛い。
1450. (私)の過去が見えるならば、(私)の誕生以前の過去も見えるだろう。
1451. (私)は、いつも、現在に触れ続けているのに、その現在が、(私)の過去を妙に、変えてしまう、そんな力をもっているような気がする。(時間という魔)
1452. 時間の、不可逆性も崩れるかもしれない。(過去⇒現在⇒未来の破壊が起きる)
1453. 何度も、何度も、心が折れる。生きている証拠だ。死者たちは、もう一切、動じない。生者は、身をふりしぼって、ふたたび出発する。(私)として。
1454. 顕現しようとしているのに、触れようとしているのに、見えない、見せない、ある力があって、あと一歩、紙一重のところで、ソレは逃げて隠れる。あーあ、溜息。気配までは感じているのに。
1455. 見れば、ソレが解体し、見なければ、結晶する。考えれば、逸脱し、放っておくと、本然として在る。困ったヤツだ。ニンゲンの手に負えない。
1456. すべては、不意に、突然、やってくる。で、慣れてしまうと、普通になる。(私)に気がついて。驚いた日は、どこへ行った。
1457. (私)とモノやコトが、溶けあって、感応している時、(私)は、思考以前の世界に、漂っている。外もなく、内もなく、たゆたう(私)の快楽の時。
1458. 原子が、一生懸命に、原子自身を覗き込んでおる。(私)と同じだ。
1459. 不可能を語るために出発した、長い、長い、旅ではなかったか?
1460. いつも、考えるということの外へと超出してしまうもの。なぜ?どこへ?さあ、どうする?
1461. ニンゲンは、いったい何を語ってもらいたいのだろう。どんな声で、どんな詩を。コレも良し、アレも良し、と。全肯定の歌か。コレも不能、アレも不完全と、全否定の終末の歌か。
1462. 時空に織り込む。あらゆるものを。
1463. 形があるから、不条理が生れる。しかし、形のない(私)などない。
1464. 池田晶子という光線はどこから来るのだろう。無限遠点に立たねば、その姿が見えない。
1465. (私)を生き続ける本能の力。もっと強く、もっと長く、もっと豊かに。意思を湧きたたせる肉体の増殖。(私)は胃袋、(私)は腸管。
1466. もう少し生きよう、と(私)が思うよりも、もっと、深いところで、身体が生きている。
1467. 「器官なき身体」(アルトー)になって、(考える)だけが、時空に存在する、それは、夢のまた夢であろう。
1468. 無が思考している。無を思考しているのではない。
1469. アンチ・キリストのニーチェの声に耳を傾けていると、無神論よりも進化論の響きに似ている。
1470. あまりにも過剰な生は滅びやすい。叫び声よりも、呟きがいいに決っている。閑かに、深く、(私)を呼吸するリズムが、よく生きるニンゲンには、相応しい。
1471. 闘いだ、闘いだ、決闘の時が来た、とある友が歓喜の声をあげた。やれやれ、戦時が好きなニンゲンは、手に負えない。勝手に、敵を作ってしまう。
1472. 欷歔する人を前にして、黙って、閑かに、佇んでいた。去りかねて。
1473. ものを書かない、「本」を読まない日々には、ただ、「現場」で、行動して、考えていた。他人の言葉は、もう、要らなかった。
1474. しかし、(私)が痩せないためには、滋養になる「本」、心が静かになる「本」を読む必要がある。
1475. (私)が書くというよりも、来るものに掴まえられてしまった(文)の方が生気がある。
1476. もう、文章に論理を追う頭脳よりも、声を追う耳を楽しみたい。姿を追う眼を愉しみたい。
1477. 存在というから重くなる。余分な意味が付着する。「あるモノ、ないモノ、あるコト、ないコト」とすれば、実にシンプルである。
1478. 足の時代があった。歩いて、歩いて、夕暮れが来て。
1479. 奔走する民。(私)も、また、その他大勢の民として、東へ、西へ、南へ、北へと走る。跫音を追って。あの人の声を頼りに。
1480. (私)を維持するためには、最低限のモノは、持たなければ、生きられぬ。モノがあふれて。(私)を縛ってしまうと、モノの中に埋没する。結局、すべてのモノを棄てて旅立つのに。
1481. 岩、石、砂利、砂、土、泥。時が流れると、見事に、形が崩れてしまう。川を視よ。
1482. イルミナシオン・天啓がやってきた。(私)の全細胞の眼が開いた。
1483. やはり、有限者は、有限から発して、無限を考えるしか術がない。
1484. 実体(実存)の影ではなくて、(私)が(私A)と(私B)になる。分裂というのではない。二重人格でもない。正に、正常に、そう在るのだと告げられて。
1485. とにかく、行けるところまで行ってやれ、(私)は(私)を限界まで使用してみる。誰も文句は言うまい。難破しても。
1486. アンドロメダ銀河よ、あなたたちの星々では、生命は誕生したか、高度に成長しているか?ニンゲンが滅びないうちに、うちの銀河へ探索の旅にでも来てくれないか。まだ、当分は、こちらからは行く力がない。
1487. (私)の中には、まだ、現れようとして、現れかたのわからないものが、いっぱい存在している。心も身体も、新しい回路を開けてやれ。
1488. 宇宙には、モノが在るように在る、その在り方とちがう在り方が、いっぱい、眠っているかもしれない。一切の、モノの見方が通用しないだろうが。
1489. 子供の頃に、使っていた、感情や思考の回路が、大人になると、閉じてしまう。で、使用できない。かすかに、その断片が、夢や記憶に顕れるのだが。取り出せない。そこには、使わなかった(私)がいる。
1490. 深夜、床の中で、眼を閉じる。不意に、人の顔が、次から次へと浮かんできた。見たこともない、人の顔、あまりにも、出現するので、どれか、ひとつくらいは、知っている顔がないものかと、凝視した。大きさも、来る方向もまちまちだった。とにかく、妙な経験であった。どのくらい続いただろうか?眠りが来る前の、まだ、意識が、明晰であったので、なぜ、不意に、見知らぬ、無数の顔たちが、(私)に訪れたのか、その意味をしばらく、考えていた。わからない。そして、本当の、眠りが来た。決して、夢ではない。
1491. 死ぬことは、死んだニンゲンに見慣らうしか術がない。
1492. 練習(レッスン)は、あらゆるものに必要である。死を実践する前にも、練習(レッスン)がいる。
1493. お礼は、必ず、形にしなければならない。思っているだけでは、お礼にならない。
1494. 若い時に、身につけた、習慣が、年をとって、やっと、理解できた。「他人に会ったら、笑顔で、」と。
1495. (ある)と(ない)があるが、
     (ある)は、指し示せても
     (ない)は、指し示せない。
     (死)は、(ない)であるが、
     頭では考えることはできない。
     表現は、(ない)ものを、
     説明できるが、(ない)
     そのものを表せない。
1496. ニンゲンは、「科学の法則」には、なれない。いつも、矛盾をかかえ、矛盾をも生きてしまう。
1497. たかがニンゲンに何が出来る。いつも、耳の底に鳴り響いている声。ニンゲンは、考えられる限りのことは、なんでもやってしまう。心の中の声。
1498. ものを考える、ものを書く—表現という行為は、実戦の為の地図であるから、無用という訳ではない。その行為がなければ、人間は、どんな指針のもとに、どんな目標をたてて、実戦できるというのだろうか?すべては(考える)からはじまる。
1499. (生の現場)に傍観者はいない。
1500. (知)を持たない人は、そのまま、闇の中にいろと、誰か、偉い人が語っていた。びっくりである。愚者も、また、生の盛りを生きているのだ。
Author:
• 火曜日, 11月 02nd, 2010
1301. 耳を育てる。「耳順」に至るまで。
1302. 思考のキメイラが、次から次へと、(私)の中から起ちあがってくる。
1303. 見るけれども見えず、聞くけれども聞こえず、もう一度、眼と耳を洗濯せねば。風が吹くまで。
1304. 衰弱した、劣化した、言葉ばかりが入り乱れている。もっと、空気を。もっと、熱情を。
1305. 断念の中にこそ、火が燃え盛っている。静かな火が。
1306. 言葉を上手に使用する人は、正しく、ものを考えられる人だ。
1307. 問いに対しては、決して答えない。いつも、沈黙で応える。
1308. (知)もいらぬ、(意味)もいらぬ、ただ(在る)だけで生きている人がいる。
1309. 「このことは、秘密だ、絶対に、他人には言わないように」約束は、いつも破られてしまうのに。
1310. ここは何処?いまは何時と言った(少年)が(私)の中に棲み続けている。
1311. ニンゲンは、正しく考えることも、誤って考えることも可能である。(自然法則は、たったひとつだ)ニンゲンの自由度には、幅がある。
1312. 「経験」の総体としての(私)が考える、「存在」としての(私)が考える、どちらが(普遍)に至るか、わかるだろう。
1313. 科学は、(私)は考える、を説明できない。考えるという自由。
1314. ニンゲンを見る。男を見る。女を見る。まったく、別のものを見てしまう眼がある。
1315. (私)は、私だけのものではない。誰が(私)を所有できる?(私)をはみだしてしまう(私)を。
1316. 「嘘も方便」という東洋人(ひと)。「あらゆる嘘は罪だ」という西洋人(ひと)。原理はどちらにある?生きやすいのはどちら?
1317. 幸福は、一人一人、ちがうものだ。ゆえに、国、総理が、「最小不幸社会」をめざすというのは、誤りである。他人も、社会も、国も(私)の幸福は決められない。
1318. あらゆる問いに、長い、長い、沈黙の後で、(無)という答えがあった。寒い、凍りついた。
1319. すべての、音信が無化される。淋しいね、畏ろしいね。宇宙よ。
1320. もう、他人には問うてはならぬ。随分と、生きてきただろうが。答えは、必ず、生きてきた経験の中にある。
1321. 問いを宙吊りにして放り出してしまった者(ヤツ)。それも、答えのひとつか。
1322. (私)から発する声には限りがある。やはり、来るものを待たねばならない。
1323. 群れで生きている限りは、ニンゲンは、いつでも、他人に足を踏まれたり、他人の足を踏んだりと、良心の痛む生存競走を強いられる。(罪)のない人はいない。誰も、(罪)なくしては、存在できない。
1324. 秋、歩いていると、花や風に心を煽られる。人に、感動することは、実に少ないが。死者たちの声だけか。
1325. 書いても、書かなくても、知っても、知らなくても、生きてみれば、結局、同じことか。いや、ちがう。
1326. 浅くても、深くても、生きられる。横へ、横へ、垂直にも。
1327. 錐の穴、鍵の穴、水の穴、ブラックホール・星の穴、孤独の穴。
1328. 正体丸だしの、哀れなこと、もう、逃げ場がない。
1329. 肉体の殻、精神の殻、破れやすいのはどちらだ?
1330. 生き急いでいる、片をつけようとして。のっぺらぼうを相手に。
1331. 触る他人の手がない場合には、右手で左手を触る。
1332. いつも、(私)の中に(貧)を飼っておくこと。
1333. 衝突ばかりしている。たまには、握手してみろよ、私の(私)と。
1334. 慣れることがない、いつまでたっても。足の裏のヒリヒリ。
1335. 移動に次ぐ移動である。仕方がないか、時からは逃れられない。全身を摑まれているから。
1336. 最後の問いが発せられるとすれば、さて、(私)は、何と、言うだろうか。やはり、(私)は何処にいた、(私)は何処へ行く?か。
1337. まだ、(私)が一人であるのか、(私)(私)の二人であるのか、勝手に、決めないでくれ。あなたには、見えるのか?さあ、握手してみろ(私)と。
1338. まだ、(私)の中から、何がでてくるか、わからないのに、あなたと、(私)を同じニンゲンだと、決めないでくれ。さあ、(私)を叩いてみろ、どんな音がするか、とあの人は言った。
1339. 何かを作ることが、大事なのではない。(私)が何になるのか、それが問題だ。
1340. (私)であると断言できる人は、幸せだ。宙吊りに気がついて、迷わなければ。
1341. 情報のイン・プットと情報のアウト・プット。やれやれ、ブラック・ボックスを見てもいないのに。
1342. いつも、存在へと着地しているはずだが、今日に限って、影の上にいるようで。
1343. 秋の風が吹いた。青空に光子が踊っている。眼が歩きはじめた。高い、高い空へと。
1344. 本当に、時間に(量)などあるのだろうか?勝手に、ニンゲンの物差しで計って。
1345. 普通に生きていると、意識に(死)は訪れない。生きる、生きる、生きるばかりだ。
1346. (感覚)は、実にあいまいだ。同じように視覚も、実にあいまいだ。ならば、混乱し、麻痺する感覚の中に、(真)を求められるわけがない。見ることは、何か、わからないものになることだから。それでは、生きて、生活できないから、視たものを(現実)と、仮に呼ぶのだ。理性で。
1347. 曼茶羅の製作に熱中した空海も、ダイアグラムの制作に熱中したアラカワも、人々に、眩暈を起こさせて、ここにいながら彼方へと連れていくのだ。空海の、アラカワの、イデアの中へ。
1348. (私)に揺さぶりをかけてみる。全感覚が狂ってしまうほどの。何が、出現する?新しい(私)だ。
1349. 文章のリアリティとは、不思議なものだ。その人が、生きたように、考えたように、立ちあがってくる。呼吸だ。
1350. (私)は、文章になろうとしている、いや、いつも、文章の外に立っているので、いくら(私)を描いても、(私)は、どこにも、見あたらない。では。文章になってしまったのは、誰だ?
1351. (私)を書くことは、不可能だよ、と、文章の外に立っている(私)は、言い続けているのに、いつものまにか、文章の(私)は、私に似てきた。
1352. どこにもない場所から声が響いてくる。耳は何をしている?耳は、本当に聞いているのか?
1353. 響きあって、揺れながら、揺れながら、いつのまにか、音のない音になってしまったから。
1354. 眼、見ているだけで、考えない。しかし、考える人を、凝っと見ている。宇宙に、眼。
1355. どうも、(私)のいる、時空が落着かない。彼方にもいて、ここにもいて。しかも、同時に。
1356. 義理をそのまま、実人生で実践する、すると、必ず、躓いてしまう。転びかたも、発見への入口である。
1357. もう、仕方がない、ずっと時間が流れていたから。さあ、行こうよ。
1358. 心配で、心配で、心配の種子をかかえ続けるのが母であるらしい。老いた母を見て。
1359. 終日、兼好の声と(私)の声が響きあっている。700年の時を超えて。もう親友だ。
1360. 原子爆弾に次ぐ、大きな、大きな、爆弾でなければよいが、万能細胞よ。科学は、いつも、危険と背中合わせだから。
1361. 1.(私) 2.あなた 3. 彼等、彼女等。数の原理はこのように、出発したのか。そして、10本の指から。
1362. 論理で考える人、直観で考える人、形式で考える人、いづれにせよ、(考える)手法を選ばねば、考えられまい。
1363. 心は、一生、泡立ったままであるから、死んだ時くらいは、魂は、鎮まってほしいものだ。
1364. 四苦八苦の生涯だから、息が切れたら、苦痛も痛みも、きれいに、消えてほしい。浄化されるためにこそ、ニンゲンは祈るのだ。
1365. いい詩人たちは、若くして死ぬ。高齢者になると、高齢者の詩も読みたい。どこにも、まだ、読む詩がみつからない。
1366. ニンゲン、急に、あり余る自由を与えられると、必ず頼むから、命令してくれ、束縛してくれ、と叫ぶに決まっている。自由は、不自由でもあるから。
1367. 場を奪われると、植え変えられた庭木のように、枯れてしまう、種族(タイプ)がいるものだ。もとの、水と、土と、空気が欲しいのだ。
1369. なぜ、自ら、書かなかったのか!!孔子よ、釈迦よ、ソクラテスよ、イエス・キリストよ、声の時代は、声を放つことが、真剣勝負であったのか。弟子たちばかりが、書いている秘密がある。
1369. 声に感応するニンゲンの時代よ、来い。
1370. 単純に、視界が広がって、空が大きく見える場所で、心も、大きく、呼吸してしまう。
1371. 放心から凝視へ。時の淵に佇んで。
1372. 風景が壊れる。(私)の宇宙が。見ていたのは、いったい、何だったのか?
1373. 風景を眺める、末期の眼には、みな、美し。
1374. まだ、まだ、来る、来る、問題の束が、(私)に襲いかかってくる。生きているから。
1375. 「空(カラ)」にしておけばいいものを、なかなか人は、(私)を「空(カラ)」にしておけない。我楽多で埋めてしまう。
1376. 放っておけば、自然に、モノを考えるようになる。熱がでるように。深く、強い必要に強制されて。
1377. 人は、おそらく、いつもの、その人が考える世界に棲んでいる。
1378. 空虚から吹きあげてくる言葉こそ、本物だろう。
1379. 何もしないでいることも、随分と、エネルギーがいるものだ。
1380. ただ、在れ、そして、考えよ。
1381. いつも、永劫の一瞬に起っている、その驚愕。
1382. 蝸牛の角は、小宇宙を探るアンテナである。(私)も、いつも、透明な角を出しているが。
1383. 見たくもない、隠しておきたい(私)を白昼の光の中へ、闇の底から引きずり出してくる。
1384. 叩いても、叩いても、同じ音しかださなくなると、人は自分に飽きてくる。もういいよ、充分だよ、と。
1385. ニンゲンの大問題は、もちろん、(私)の死である。誰彼の区別もなく、容赦もなく、100パーセントやってくる(私)の死である。何も役に立たない。賢者も、天才も、聖人も、為す術がない。翔ぶしかない。彼岸へ、無へ、宇宙へ。
1386. (私)という身体は、いつか滅び去る。それでも、永く残したいという奇妙な欲望は、いったい(私)の何を残したいのだろうか?(書くことの根底にあるもの)
1387. 目的も無く、清算もなく、企てもなく、ただ、ただ、来る声に耳を澄まして、ノオトに記す行為が、アフォリズムになった。(私)は私を、救済しているのかもしれない。破綻と破滅から。
1388. 心の軽さと重さについて。会社を離れ、人との縁が薄くなると、(私)の、本当の楽しみが味わえる。関係の中に生きるリアリティと関係の外に立つリアリティ。
1389. 人間関係の中に閉じ込められていた。一歩、引いていた言葉が、引退すると同時に、裸のまま(私)の中からとびだしてきた。まるで、言葉のシャワーである。
1390. 色気づくのは、心か身体か?本能だと言えば、見も蓋もないが。
1391. 「徒然草」は、まだ、現代でも、新らしいぞ。超高齢者社会にピッタリの声だ。
1392. 絵画を眺める。ルドン、エッシャー、荒川修作。眼が考えてしまう。異空間へ。
1393. 音楽に身を委ねる。耳が時間を呼びこむ。
1394. なかなか、文章が齢をとれない。これは、決して、いいことではない。
1395. どうしても、空を、眺めると、空が、何もない空間に見えない。エネルギーが充満していて、光の独楽たちと、踊っているのだ。空間で。
1396. ニンゲン、一日を、どう生きても、パターンができる。食べる。歩く。働く。眠る。欠かせない要素が、「人間原理」を決めてしまうから。で、時間がない。
1397. 遠くの星、何億光年も離れた星を見ることは、どうしても(過去)の星を見ることになってしまう。不思議だ。(現在)は、近くでしか、発見できない。光は、唯一、その音信を含む存在である。見るは、知ることそのものではないが、考える、補助線にはなれる。わかるね。
1398. 両手の指を折って数える。10本と。原理は、そこから起ちあがってくる。(発想の根)
1399. 日々の、世事の、生活のアレやコレやを片付けていると、何も、特別にしている訳ではないのに、人は、一生を終えてしまう。世の中には、片づくことなど何もないと、若いうちに、思い知るべきなのだ。
1400. 存在の種子の出現は一番の驚愕である。