Author:
• 月曜日, 12月 13th, 2010

人は、生きるという現場で、かかえこんだものを、一生、反芻しながら、成長させるものらしい。

本書を12年振りに再読しながら、その晩年まで池田晶子が考え続けたものが、ほとんど、種子として蒔かれているのが、「残酷人生論」であり、第二の処女作と呼んでもよいと思った。

絶版になっていたものが、増補新版として出版された。コンパクトで、持ち運びに便利で、電車の中でも読める、ハンディな本だ。

「考える」ことが、唯一の生きる意味であった池田晶子の「人生論」は、あまたある、発見、発明、事業の成功などを語る、いかに生きるかという人生論とは、一線を画している。

どうも、ニンゲンには、二人の(私)があるようだ。
食べるために(生活、仕事)生きる人。(A)
生きるために、食べる人。(B)
そして(私)を生きる、その(私)も、存在そのものの(私)と(社会的な私)に分かれている。

人は、誰でも、ある年齢になると、突然、(私)を発見する。(私)を(私)として見るもうひとつの眼ができる。そして、(私)って何だろうと考えはじめる。(私)に気がついたが、その(私)が何者が、わからないのだ。で、生れた場所、家、名前を呼ばれて、(私)が(社会的な私)として、存在しはじめる。

仲間と遊び、友達と学校に通い学習(勉強)し、食べるために仕事(労働)をし、社会=世間を知って、(仕事=生活=私)が完成し、停年になると、肩書き、地位、会社、組織を離れて、また、もとの(私)に戻る。

たいていの人は、普通、(社会的な私)を(私)と認めて、働き、生活をしている。ところが、生きるために食べると考えた人は、どうしても、食べるために生きるセイカツに慣れることが出来ない。

そこで、(社会=世間)に衝突してしまう。しかし、その(私)を変える訳にはいかない。で、どうにかして、(世間=社会)と折り合いをつけて、生きねばならぬか、と悩む。

本書では、珍らしく、池田晶子が、(私)が生きる時、普通の人と、ちがってしまう、と、悩みを打ちあけている。

人は(死)を悲しいと言う。池田晶子は(死)がおかしいと感じてしまう。そこだ。どうも、(私)の心性は、普通の人たちとはちがう。どうしよう?と考え、悩む。

当然、普通の評論家や作家や詩人から、批判される。「悪妻に訊け」に対して、
サザエさん的世界」から出ていく力が弱い(福田和也)
「他者がいない」(松原隆一郎)
「本質的にモノローグ」(佐藤亜紀)

普通に生きる人は、(他者=世間=社会=仕事=生活)というものが、厳前と、眼の前にあって、それと、闘い、競走することが(社会的な私)を生きることだと考えているから、当然である。

実は、(私)を考える、(私)を生きるタイプのニンゲンは、必ず、同じような批判を受ける。「内部の人間」を書いた、秋山駿も、一生、「私」をめぐる考察を、ノオトとして、書いている。で、同じ類の批判を受け続けた。

池田晶子は、(私)=(存在)=(宇宙)というふうに、考える人だから、どうしても、世間の(社会的な私)を生きる人たちと、問題の立て方がちがう。

無限遠点から来る光線を見るようにしなければ、池田晶子の姿・形は、望めない。

実に辛い、心性をもったものだ。しかし、本人は、平然と、(私)を生きる、(私)を考える、を生きてしまった。家も、故郷も、名前まで消してしまった。(魂という私)=(魂の私)になって、疾走した。

池田晶子の言葉に躓く人は、2つの(私)を考えてもらいたい。
「以前に生きていたことがある」(池田晶子)
ホラ、躓くでしょう。だから「残酷人生論」なのだ。

Category: 書評
You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can leave a response, or trackback from your own site.
Leave a Reply