還暦をむかえて、人生の、コペルニクス的な転回を計った。
22年間、わが子のように育てあげてきた(会社)をM&Aによって、他人に、譲渡した。自立、共生、あんしんというコンセプトで、全国で、ビジネスを展開してきた。家族の為、社員の為、顧客の為に、疾走する日々であった。
(私)自身の為に生きよう。残された時間を。そう覚悟を決めた。横へ、横へと生きてきた人生を、今後は、垂直に生きる。
つまり、ビジネスの世界から、文学の世界へと戻って生きる。いつか来た道へと。
25歳の時、長篇小説「風の貌」を上梓した。そして、私的な理由で、文学から離れ、筆を絶った。
長い、実に、長い、サラリーマンと経営者の生活が続いた。
その間、まだ「文学」は、埋火のように、私の中に存在し続けていたのだ。
「ビッグ・バンの風に吹かれて」
「死の種子」
「○△□」
と、小説を発表した。しかし、経営と執筆は、容易に、両立しない。使用する頭がちがうのだ。
還暦を過ぎて、今まで、頼まれて書いたものを、「歩いて、笑って、考える」という本にまとめあげた。
さて、本気で、ライフワークの完成に全力をあげる時だ。
(純文学)を志向してきた(私)にとっては、最高の表現に達したい、一歩でも半歩でも、ドストエフスキーに近づきたい、その思いは、昔も今も、変わらない。
様々な場面を生きていた分だけ、若い頃よりは、洞察も、少しは、深くなっているだろう。素材、材料も、山ほど溜った。
衰弱した、日記のような、文章しか書けぬ作家たちに、一撃を加えよう。
池田晶子が、孤立無援で「哲学的エッセイ」を創出したように、アフォリズムも、私のものになって、読者の中で、爆発してくれるといいのだが・・・。
同時に、プルーストの「失われた時を求めて」をめざしている、大河小説「百年の歩行」も、魂の声が響きわたるものにしたい。
池田晶子の魂の断片を噛った者として、それなりの、責任がある、勝手に、自分でそう思っている。さあ、ふたたびの、出発だ!!
偶然に、始まってしまった文章である。(私)に、どこからともなく、声が垂直に降りて来て、ノオトに、それを書き記していたら、こんな形になった。本当は、私は、それを、なんと呼んでいいのか、わからない。毎日歩いている、歩いている時、それが(私)へとやってきて、いつの間にか、1000本になった。突然生れたものが成長をしたのだ。
詩でもない。俳句や短歌でもない。エッセイでもない。もちろん哲学でもない。小説でもない。散文というのでもない。
とりあえず、芥川や朔太郎たちが呼んだように、アフォリズムとすることにした。しかし、西洋の知を真似た、彼等の作品とはちがう、もっと別のものである。シュールレアリズム(自動筆記)に近いかもしれない。
時間が爆発する。
空間が爆発する。
意識が爆発する。
(私)が爆発する。
その中心から声が来る。爆発する形が、アフォリズムである。砕け散って、痙攣し、独楽となり、光となり、疾走し、浮遊し、あらゆるコトとモノたちが、再び、(私)を求めて統一される。
存在の声が、アフォリズムである。だから、なんでもありだ。ニンゲンをめぐる一切のものが、顕現し、消滅し、浮遊し、舞い、踊り、物自体がごろりと横になったり、透明なモノが飛んでいたり、叫び声があがり、啜り泣く声が漂い、お金という神さまが現れたり、あらゆる事象が(私)から発光するのだ。
自由自在である。
思考あり、感覚あり、直観あり、(私)に来るもの達が踊り狂う舞台である。
詩、小説、エッセイ、紀行文、書評、講演と、頼まれるままに、いろいろなスタイルで言葉とつきあってきた。
しかし、今回の、アフォリズムという形は、正に、(私)の中での発見であった。
小説を書くことが、本業であると信じてきたが、このアフォリズムというもの、なかなか、面白い。鋭く、短く、深く、瞬間で、爆発できる。
声が来る限り続けたい。2000本、3000本、いや、声が来なくなれば、中断である。
読者の方からは、アフォリズムは、エクリチュールの最高のものかもしれぬと感想をいただいた。面白いという声が圧倒的である。
アフォリズムは、現代という時代に、似合うかもしれない。
長篇小説「百年の歩行」ライフワーク、1000枚を書きながら、思わぬ副産物が現れたものである。
いったい、コレは何か?何が何をしておるのか?まだ、(私)にもわからない。
951. 5月・植物の生命はぴちぴちとはねているのに、ニンゲンという動物の生命は、うなだれている。
952. 手持ちのカードをすべて切って、アフォリズムに生命を吹き込んでいる日々である。
953. 荒川修作は、”存在”に対して、発狂するほどの身悶をして、「死なない家」を創りあげた。ニンゲンを超えようとして、生と死の彼岸へと翔んだ。
954. 人は、記憶を消すことはできない。たとえ、脳が命令を下しても。
955. 山鳩の鳴く声は、低く、リズミカルで、「クゥク、カッカ、カー」と、いつ、どこで聴いても、不思議なことに、遠いところから流れてくる。なぜか?
956. 詩人を数えてみる。マラルメ、ランボー、ポー、ブレイク(外国) 中也、賢治、朔太郎・・・吉増剛造、石原吉郎!!私の中では、それくらいだ。
957. 病いは、気から。(病気をするから心が暗くなる。心が暗いから病気になる)は?病いとは何か?
958. 身体に現れるものは心にも現れる。
959. 沈み込んだり、輝やいたり、気分は、一刻一刻と変わっていく。
960. (言葉)は、身を立てるが、身を滅ぼすこともある。
961. 意識は、あらゆるコトとモノを見つづける。が。意識には(死)がない。
962. ニンゲンは、誰でも、「在る」の発見から歩きはじめる。
963. 「無い」の発見は、「零(ゼロ)」の発見よりも、大きな驚きである。誰もが発見するものだから。
964. ニンゲンの思考の形を決めるのは何か、原子に訊いてみたい。原子に?つまり(私)に。
965. 「無」を、数式、論理で証明されても、それも、ニンゲンの思考のひとつの形である、と考えてしまう。で、形が在る。
966. 「在る」モノだけが「在る」。ソレを見たのか?ソレを聴いたのか?ソレに触ったのか?ソレを嗅いだのか?ソレを考えたのか?ソレを想像したのか?
967. 眼が覚めると、もう、存在するすべてのモノに囲繞されている。朝という時空に放り出されて。
968. 眠りが来ると、薄っすらと輪郭が消えて、闇の中へと沈んでいく。(私)を手離した時、まだ、夢は、眼をあけている。
969. 気配は、実に、精妙な感覚である。(場)のもつ、(人)のもつ、空気の揺れに等しいものまで、ニンゲンは、感じとって、見分ける力をもっている。
970. 「人間原理」とは、どうしても、ニンゲンとしての(私)が、そう考えてしまう(考える)スタイルのことである。(ソウ在リタイ)
971. 「宇宙原理」とは、ソコにニンゲンがいなくても、純粋論理として、存在する原理のことである。存在自体がニンゲンの思考のスタイルと袂を別かつのだ。
972. ニンゲンには、どうしても、耐えられない論理(もの)がある。無目的、偶然、無神。
973. 「信仰」は、「信ずること」は、考えることが(論理)が破綻しても、眼をつむって、飛ぶことである。だから、祈るという行為、態度は、ニンゲンからは消え去らない。願う生きものがニンゲンだから。ニンゲンは、矛盾をも生きてしまう。
974. 神は、神自身のことを何と呼ぶのだろう?(存在【わたし】)か(有無【わたし】)か(宇宙【わたし】)か?宗教(ニンゲン)の神は宇宙(コスモス)の神とはちがう。
975. サラリーマンをやっている限り、いつも、背広の脱ぎ方だけは考えておかねばならない。
976. 男と女が合わさるのだから、男の中にも女が、女の中にも男が棲んでいても、何の不思議もない。
977. 交通事故で切りすてて、なくなったはずの足の踵が疼くという。足の踵はどこへ行ったのだろう。はたして、(私)の分身をも、棄ててしまったことになるのか?
978. 「いったい、お前は、何処にいて、何をしているのだ」という声に、いつも、責められている。「ここだ、ここだよ、見えるか?わかるか?」返信である。
979. 「どうだい?」と訊くと、「まあボチボチで」と答える人。「ご覧の通りで」と答える人。
980. (精神肉体)と書いて、ニンゲンと読めば、精神の超越とか、肉体の復活という、限定された表現もなくなるだろうに。
981. (生死)と書いて、ニンゲンと読む。すると、あるもの・ないものが見えてくる。
982. 宗教に次いで、科学の法まで破綻すれば、(私)は、のっぺらぼうを前にして、気絶してしまう。
983. 「問い」さえ成立しない時、ニンゲンは、どうして、「信」と「真」を手に入れられる?不可能である。
984. 精神は、「数」という魔に挑むのだが、「数」は、宇宙そのものだからと呟いている。
985. <虚実>と書いて、「あるない」と読みたい。
986. その人の、人柄は、人を裏切らない。
987. 生きることに、泣いたことがない人が、人の上に立ってはいけない。指針(ビジョン)を立てる土台がないから。
988. 汗をかかない人の言葉は、実に、虚しい。声が、自分の咽喉から出していないから。
989. 失敗しても、失敗しても、旗は揚げ続けるのだ。傷の分量だけ、旗の色は鮮明になるから。
990. 身に沁みる言葉と、正しい言葉と、人は、どちらに、耳を傾けるだろうか?
991. 人は、主義・思想で生きるのではない。親身な声に従って生きているのだ。
992. 存在すること自体が悲しみへと傾斜してしまう心性は辛いものだ。
993. 「本質」を捉えるはずの言語に、いつのまにか、裏切られてしまう。「木は、木ではない」と。
994. さて、起こってしまったコトとは、いったい、何のことだろうか?
995. 「物」には影がある。「数」には虚数がある。「十」には一がある。(私)には、何がある?
996. 給料袋を受けとる手、給料袋を渡す手、同じ手だが、その感触の中味がちがった。
997. (私)を形成している(水)が内爆発を起こしておる。
998. 原子の集合体である(私)というニンゲンの核とはいったい何だろう。生命形態という場の(私)
999. 深夜、突然、(私)は崩壊感覚に襲われた。名伏しがたい、存在(私)への不快感が来た。私は、やっとのことで、窓から飛びおりたいという内的な衝動に耐えた。夜が明けて、朝が来た。危機は去った。どうやら、普通の一日のセイカツをはじめている。
1000. 時間を生きる。空間(場)で生きる。長い間そうしてきた。現在では、「時空」を生きる時代になったが、ニンゲンはなかなか慣れることができない。伸縮する「時空」は、あらゆるものを変化させ、コズミック・ダンスを踊る超スーパーシステムのニンゲンは、宇宙を漂流している。「無限」へと。
夢を見たのではない。幻を視たのでもない。縁側に蹲って、夜の闇に眼を泳がせている時、不意に、一人の男の姿が見えた。あるいは、私の脳裡に浮かんだものが、闇の中に投影されたのかも知れない。とにかく、大地に立っている一人の大男を視たのだ。兵隊のように大地に直立し、大きく開いた両足は、地面の砂利に突き刺さっていて、両手は、天に向かって伸び、眼を見開き、鮭のように開いた大きな口から、真っ赤な、長い長い舌を出していた。父だった。
今しがた、四国の弟から電話があった。平成21年1月2日、夜、10時47分、父が死にました。そうか、と静かに電話を切って、独りになりたくて、縁側に出た。
共感覚とでも言うのだろうか?弟の声に呼応するかのように、父の画像(イメージ)が発生した。私自身は、ちっとも不思議がることもなく、自然に、父の画像を受け入れた。父の大きく開けた口からは、真っ赤な、長い、長い舌が伸びてきて、私に迫ってくるのだ。何か、大切なことを、必死で、訴えているらしい。舌は、波のように揺れて、どんどん、どんどんと伸びてくる、まるで、一匹の生きものだ。その舌の上には、無数の文字が刻まれている。時空も揺れていた。距離も、時間も、ゆがんでいて、一切が、不定であった。
名状しがたい、その経験は、私にとっては、実に、自然であるのだが、おそらく、詩にも、小説にもならない。不思議を、そのまま語れば、文章にもならぬ。私は、夜の、冬空のもとで、ふるえながら、いつまでも、消えない父の画像を眺めていた。いったい何を伝えたいのか。
翌朝、電車に乗り、新幹線に乗り、バスに乗り、父のもと(?)へ帰郷する間も、眼を閉じれば、父の画像が来て、真っ赤な、長い長い舌が、活き活きと蠢めき、私に迫ってきた。もう、一年にもなるが、一周忌の法事が終っても、その姿は、現れた時のままで、私に、舌に書かれた文字を読み解くように、要求している。
身体や形質は、遺伝する。声で伝える思想もある。しかし、このような形での伝え方を、何と呼べばいいのだろうか?
父の、もうひとつの遺伝子が、最期の挨拶でも送っているのだろうか。私は知らない。私の、父への、唯一の返礼は、真っ赤な、長い長い舌に書かれた文字を、いつの日か、読み解くことである。
平成22年(3月4日)記
1. 「白川静読本」(平凡社刊)
2. 「フエルマーの最終定理」(新潮社文庫刊) サイモン・シン著
3. 「宇宙創成」上・下(新潮社文庫刊) サイモン・シン著
4. 「事象そのものへ!」(新装復刊) 池田晶子著 トランスヴュー
5. 「詩のかおり詩のひびき」(Obunest刊) 壬生洋二著
6. 「西脇順三郎詩集」(思潮社刊)
7. 「新約聖書 訳と注① マルコ福音書 マタイ福音書」全6巻(作品社刊) 田川建三著
8. 「漢字」(岩波新書刊) 白川静著
9. 「孔子伝」(中公文庫刊) 白川静著
10. 「中原中也の手紙」(講談社文芸文庫刊) 安原喜弘著
11. 「何処へ」「入江のほとり」(講談社文芸文庫刊) 正宗白鳥著
12. 「アムバルワリア」「旅人かへらず」(講談社文芸文庫刊) 西脇順三郎著
13. 「クオンタム・ファミリーズ」(新潮社刊) 東浩紀著
今月は、心が悲鳴をあげている。日々のリズムが狂ってしまって、平常心でものを考えられない。
ニンゲンの規格から外れてしまうほど大きい「天命反転」という思想を掲げて、「私は死なない」と言い放ち、「死ぬのは法律違反です」と断言した荒川修作が、ニューヨークの病院で死んだ。(死んだ?)(アラカワの死)それはいったい何だろう。
頭が上手く、考えられない。現在、荒川の「ヘレン・ケラーまたは荒川修作」(マドリン・ギンズ共著)新刊読んでいる途中であった。腰を据えて、アラカワに立ちむかいはじめているところだから・・・。
「免疫の意味論」の著者、多田富雄氏も死んだ。ニンゲンを、超・スーパーシステムだと、論じた「本」は、実に、刺激的な一冊であった。
※350年間、誰も解けなかった「フエルマーの最終定理」を読む。数という魔に挑む天才数学者の物語である。サイモン・シンの語りが見事である。
「宇宙は数である」と思いたくなる本であった。
※「事象そのものへ!」池田晶子の思考の原点。新装版を再読。止まらない。魅力。
※中原中也の手紙は、詩人の素顔があって、愛読者にはうれしい。
※「詩のかおり詩のひびき」壬生洋二著は、私の大学時代の同人誌「あくた」の仲間の「本」である。70年代の、まだ、詩、小説、思想を語り合う場があった時代に、著者が愛読した詩人たちの「詩」を紹介している。中也、朔太郎、達治、石原吉郎など。若者にはおすすめの解説書。
※白川静の「本」を熟読。
さて、現代人にとって、宗教とは何だろう。雑誌「考える人」で、聖書研究者の田川建三の特集があった。
私は、若い頃、「原始キリスト教史の一断面」と「イエスという男」「宗教とは何か」を読んで、共感、感動、驚愕し、日本にも、古代の原書を読み、一生を、聖書研究に捧げる人がいるのを知った。宗教するニンゲンの生きざまを見た。その田川建三氏が、インタヴューで「神は結局、存在しない」と断言している!!
超一流の研究者の言葉は重い。キリスト教信者にとっては、大変なショックだろう。
しかし、その時代に、宗教が必要だったことは、認めてほしいと言っている。千年、二千年たっても、ニンゲンは、(宗教的)なものを必要とはしているのだ。
その田川建三氏が、「新約聖書」を翻訳して、解注をつけた。全6巻、(現在刊行中)
「聖書」は断片的にしか読んでいないが、田川さんの訳なら、一生かけて、読んでみようと思った。古代人の文字を読みかえすのに、何十年もかけて、宗教を考えて、実戦してきた田川建三氏の大仕事である。
<数>の謎に一生を捧げて挑み続けたアンドリュー・ワイルズ。
<漢字>の研究に生涯を賭けた白川静。
<キリスト教、聖書>の研究が生きることである田川建三氏。
<昆虫>昆虫を観察してでも人は一生を生きられるという感動をくれたファーブル。
(ニンゲン)が生きるという姿が輝いている。
901. ニンゲンは、宇宙の風媒花である。行け、時空を超えて。
902. 黄金の時間を食い尽くして生きよう。
903. 神々のいなくなった荒野を歩いている。
904. 経験というものが、役に立つ領域は限られている。生きれば、新しいことばかり。
905. 激しい快楽が、静かな燠火の楽しみに変わってしまった。
906. とりとめのない、普通の一日も、ありがたい。
907. 一応、ニンゲンと呼ばれて生きてきたが、(私)が解ったためしがない。
908. 宇宙の総時間から見れば、ひととき生きて、滅びてしまう。小さな惑星・地球のニンゲンたち。何処まで行けるだろうか?何が出来るだろうか?無限の時空は、存在の秘密を覗き見させてくれるのか?
909. 形態の進化には、億年単位の時間が必要だ。一人のニンゲンには、手も足もでない、気の遠くなるような、無限のひろがりの前にて、内爆発を起こして、むなしい抵抗を試みてはいるが・・・。
910. 「神は存在しない」そう呟かざるを得ない時代に生きているニンゲンが、次に求めるものは、時空の行方か、存在の究極の姿か。
911. 物質も、動植物の生命たちと同じように、もうひとつの記憶体ではないのか。千年、億年の石を眺めていると、そんな妙な気がした。いやいやと頭を振って歩きはじめたが。
912. いつも、一日のはじまりには、正坐をして、一日に向き合う儀式を行う。図面を描いて、計画を立てて、一歩を踏みだす瞬間には心の掛け声。
913. 音速者、光速者、思考者。一歩一歩、歩いてきたニンゲンも飛びはじめた。そして・・・。思考の十一次元へ。
914. 今日も、一日という地球の自転のリズムが刻まれる。泣いたり、笑ったり、昼と夜を分かたずに。
915. 目覚めると、(私)は、そいつに気がついて、いつものように握手をしている。
916. 無限に広い海、無限に広い空と思った頃のニンゲンは、まだ、牧歌的で、幸福であった。
917. 空の青、空の闇、どちらも、果てがなかった。地球の外から眺めてみると、空の青は薄く、細い帯となり、空の闇だけは、どこまでも続く、漆黒の闇・深淵である。「夜と昼」どちらが本当の顔かわかっただろう。
918. どんよりとした曇り空の下、肩にかかる重力が、いやに重く感じられる。
919. 1日の中に(私)が納まりきらぬ日がある。狂おしくて。
920. 会うのは、歩いている人ばかり。歩行する姿も形も十人十色。
921. 町を見て、国を見て、宇宙を見て、最後に見るのは、事象の地平線の彼方にある(私)。
922. 「何処か」は、いつも宙吊りであって、着地点が決まると、(現実)の(今・ここ)に吸い寄せられる。だから、「何処か」へは、永遠に行けない。
923. (私)の死後、ニンゲンたちの死後、宇宙は、何事もなかったかのように、存在し続ける。虚無感が生じるのは、そんな時だ。
924. 夢中になって仕事をしていたら、そろそろニンゲンの終わりの時だった−で、さようならだ。いったい、何をした?
925. 人は、「一生」を生きるのではない。(今・ここ)を生きて、生きて、生きてきたことが、人の一生と呼ばれるだけだ。
926. 無数のニンゲンがいて、会える人は、ほんの一握り。無数のモノが溢れていて、無数のコトが起こって、(私)が関係するのは、手がとどく範囲のものだけだ。
927. 物語は、意識を乗せていくのだ。だから、言葉は、意識が光のように、あらゆるものを照らし出すように在らねばならない。そう、光に耐えられる言葉が必要である。
928. もう、いや、いまや、いまだに、(私)は決定されない。(私)は、不可能だ。
929. ニンゲンと呼ばれている(私)を名付けられない。
930. (私)が、どのようにして(あなた)になれる?
931. 生れ変わるのではなく、生れ直すのは、可能だろうか?つまり、(私)が、ふたたび、生れるのだ。だから、復活でもなく、輪廻転生でもなくて。
932. やはり、魂と呼んでしまうことに問題があるのだな。ソレを。余分な色がつく。
933. 何をしている?と問われたら、迷わずに、照れずに、「文学」をしていると断言できる人が、何人いるだろうか?相手の眼を、正面から見て。作家と呼べる人は少ない。
934. 宇宙を解読するのが、「本」であるのか?宇宙自体が記された「本」であるのか?
935. 一日という時空を書くことは、誰にも出来ない。「一日、何もなし」と日記に書いた人は、何を書いて、何を書けなかったのだろうか?
936. 意識は、いつでも、自然に、在ること、を確認している。
937. 魅入られたように、モノにのめり込む。そのモノが仕事であれば、文句はあるまい。趣味であれば、どうであろうか?悪徳であれば、取り返しがつかない。
938. 宇宙が、宇宙自体が見ている夢のひとつであるならば、当然、ニンゲンも夢見られている存在のひとつにすぎない。(哄笑)
939. 「悩みの種」がなければ、誰も悩まないだろう。生きている限り、悩みが発生する、生きること自体が「悩みの種」だから。
940. 死者たちを見る時、いつも、頭の隅で、いったい、ニンゲンは、何をしてきたのだろうと考えてしまう。
941. 山の中に山があり、その山の中にも、また、山がありというふうに、山は、幾多の山をかかえ込んでいる。
942. 在ることと見ることは、永遠に結びつかなくなった。誰がそうしたのか?量子論のハイゼンベルグだ。
943. 見えなくても、聞こえなくても、話せなくても、ヴィヴィドに生きていたヘレン・ケラーという存在。いったい、彼女の何が生きていたのか?覚醒したのは何か?
944. ほんの少しだけ、感覚を揺さぶられると、もう、ニンゲンは、自分がどこにいるのか、何をしているのか、わからなくなる。空海の手法。戒壇めぐり。
945. 時代には、いつも、その時代にふさわしい死生観が生れる。神話の時代の、宗教の時代の、科学の時代の。宇宙の時代の死生観とは何か?
946. 一番の恐怖は、終りのない苦痛である。永遠は恐怖だ。
947. 気絶する人がいる。無限の中の生の一回性に目覚めて。しかし、歩け!!
948. 歩くと、いつも、中心が動いているという感覚が生じる。(私)という不思議が歩いているから。
949. 痛みは、ニンゲンの、良い部分を殺してしまう。何を考えだすかわかったものではない。
950. 中心を失ったニンゲンは苦しい。どこもが中心であると言われても、救いを、求める、中心もない。
1. 「ピストルズ」(講談社刊) 阿部和重著
2. 随筆集「一私小説書きの弁」(講談社刊) 西村賢太著
3. 「続審問」(岩波文庫刊) J.L.ボルヘス著
4. 「創造者」(岩波文庫刊) J.L.ボルヘス著
5. 「ヘレン・ケラーまたは荒川修作」(新書館刊) マドリン・ギンズ 荒川修作 共著 定価4,800円
6. 「どうで死ぬ身の一踊り」(講談社文庫刊) 西村賢太著
7. 「マラルメ全集」(全5巻)第1巻「詩・イジチュール」(筑摩書房刊) 訳:松室三郎・阿部良雄・菅野昭正・清水徹・渡辺守章 定価 19,000円
※21年の歳月をかけて、「マラルメ全集」全5巻が完結した。5人の翻訳者の方々にとっては、半生を費した仕事だろう。(訳者の一人、松室三郎氏は故人となっている)
なぜ、21年という長い、長い、歳月がかかったのだろうか?
①マラルメの作品は、実に難解である。(本当に、日本語として訳し得るのか?)
②没後、100年を過ぎて、次々に新しい資料が出て来た。
ちなみに、私が、第1回配本を購入したのは、1989年3月(東京の、八重洲ブックセンター)である。
「ディヴァガシオン他」(単価9,500円) 本文544ページ、別冊・解題・注解334ページ。
銀色の函に入っていた。帯文には「世界は一冊の書物へと到るためにつくられているのです」というステファヌ・マラルメの言葉が刻まれている。
出版社にとっても、息の長い、忍耐のいる、大きな、大きな事業であっただろう。
現在、小説(純文学)が売れない。詩は、もっと売れない。数十、数百冊単位だと云う。しかし、小説を書く人も、詩を書く人も、大勢いる。インターネットで、自由に、詩を書いて、発表している。
せめて、現代詩を書く人たちには、先人たちの詩を読んでもらいたい。
不出生のマラルメの詩に、一度でも触れる機会があれば、その人の詩作は、まったく、ちがったものになるだろう。
存在について、人間について、言語について、これほど、深く考えて、実践した詩人は、他にない。
現在でも、マラルメに匹敵する詩を書ける詩人はいない。(吉増剛造?)
難解なものに挑まない(知性)は、(知)ですらない。最高の詩、マラルメの「絶対言語」、それは、ニンゲンが作り出した、もうひとつの宇宙である。
21年間、待って、「マラルメ全集Ⅰ」を入手した。
感動は、実に深い。だから、読書はやめられない。
出版社・訳者の方々に、一読者として、お礼を言いたい。感謝である。
※ボルヘス再読。実に、切れ味が良い。ボルヘスの博覧強記に触れると、どういう訳か、いつも、日本の天才・南方熊楠を思い出してしまう。
※天才・奇才の荒川修作の「ヘレン・ケラーまたは荒川修作」も、実に楽しみな一冊である。
まだまだ、ニンゲンは、すてたものではない。思考は、活火山のように、爆発をしている。問題は、それを、読者が、共有する努力を惜しまないことだ。時間が足りない。
マラルメやボルヘスの作品に触れると、どうしても、現代の日本の作家たちの作品が、色褪せてみえてしまう。
作者たちは、青くなって、必死に、思考し、文章を紡がねば、いつまでたっても、衰弱する文章しかひねり出せまい。
文学は、科学のようには、進化をしないものだ。思考の密度、文章の格がちがうのだ。
日本の作家で、対抗できるのは、おそらく、零記号のような文体をもつ古井由吉くらいだろうか?古井由吉は、そこに、石が存在するように、文章を存在させる域に達している唯一の人・作家である。
801. もういいと自分の一生を思う時に、充分に生きたと思う人と、不運と不幸でうんざりだと思う人の差が生じてしまう。
802. 手で、自分の手で、モノを作る、それが一番、ニンゲンらしい仕事だ。
803. 腰の重い人だと言われるが、いざ、出発と決まると、今度は、疾走して、止まらなくなる。不器用な男だ。
804. (私)の死ぬということがわからないように、(私)の生れるということもわからなかった。気がつけば、(私)がいる、(今・ここ)に、それだけだ。
805. 不安、痛み、恐怖、ニンゲンが、逃れたいと思うものの、ベスト3であろう。困ったことに、生きて、存在する限りは、なくならないものばかりだ。
806. 楽しみ、喜び、快楽、感動、感激、法悦、60年も生きているのに、悲と苦の思いばかり多くて、(快)は少ないものだ。何日あった?
807 (数)は宇宙にあるものの名前か?
808. (考える)ことの範疇にないものに対して、(考える)という方法で挑む−それは無謀だ。
809. 1はわからない。1はこわい。1は考えられない。だから、2からはじめる。はじまりの2は1ではない。
810. 夫婦(2)は子供(1)を生む。2は1である。日本語としては、ちっともおかしくはない。しかし・・・。
811. 思考の連鎖がはじまっている。あらゆるものが、結局、ひとつのものに、通底してしまう。
812. 数学の問題を解くように、人生の問題を解く。それは、どだい、無理である。質と位相がちがう。
813. 生きる・一番の必要は、湧きあがるエネルギーだ。衰弱が一番困る。まだ、堕落する方がましだ。
814. すべてを失うことが、快感であり、心が、もっとも落着く人もいる。(自己処罰)
815. モノをもらったり、モノを持つと、妙に落着かず、持ちおもりがする種族(タイプ)が、必ずいる。
816. 誰もが、罪人になることを、拒むわけではない。大きな力で、処罰されて、ホッとする人もいる。早く捕らえてくれ、早く死刑にしてくれと。
817. ニンゲンは、実に、奇妙な生きものだ。助けてくれ、とも、殺してくれ、とも叫んでしまう。
818. 父殺し。王殺し。神殺し。存在殺し。連鎖してしまう、殺すということ。誰が?
819. 引き裂かれたまま生きている(私)
820. 空はいつも泡立っている。光の独楽が廻っているから空間はいたるところで歪んで見える。鏡のように澄んだ青空はない。
821. 「物語」(小説)の場自体がモノを考えてしまう。
822. よく、小説家が、勝手に「物語」が動きはじめたと語るが、フィクション(小説)であれ、ノンフィクション(事実)であれ、言語場を作ってしまうと、そこに、(力)が現れて、その差異が、衝突して、動きはじめ、作家は、本人が書いているのではなく(考え)る磁場に巻き込まれてしまうのだ。
823. 一人の作家が、思考するよりも、さらに、多くのものが、書かれる作品と、書かれない作品の両世界にひろがってしまうのだ。
824. 誰も書けない世界、言葉の外側に、(絶対言語)は立ちあがる。
825. どこまで、心の深淵へと降りていけるか。無意識の、アーラヤ識の、彼方へ。モノとココロが合体する1かゼロの地点へ。
826. モノとコトに囲続されて、形態の不条理へと身を委ねている。
827. 父の父の父の父へ。母の母の母の母へと。(私)は、その透明な糸をたぐり寄せてみる。
828. ニンゲンは、誰でも、いつか、不条理な(私)の死を受容せねばならぬ。現在、そのレッスンが必要だ。
829. すべてを失った者は、死の受容もやさしい。あらゆるものを手に入れたと思った者は死の受容に喘ぐ。どちらが幸せかわからない。幸せは不幸。不幸は幸せ。
830. 死にたいと思う人、生きたいと思う人。同じニンゲンで、まるで、意思のベクトルがちがう。存在することの畏しさ、不思議。
831. 何もいいことがなかった。幸福な日は、数えるほどだった。それでも、ゼロではない。生きて、存在しているだけで。
832. 思い出には限りがない。最低のものから最高のものまで。味わえば、文句はないだろう。で、どうだった?
833. わかっているだろうか?
ニンゲンが生きるということを。
ぼんやりと齢をとってしまって。
死にもの狂いで生きてきた。
ニンゲンの証明は、結局、自分自身で片をつけるしかない。
834. 平凡、普通。それは、すべて、他人との比較である。計りは(私)の中にある。
835. 文句に、愚痴に、不平に、不満に、悪口に、不快に、出てくるわ、出てくるわ、そんなニンゲンに限って、自分には甘いのだ。
836. この程度のニンゲンだと、自分自身に言いきかせられる人は、まだ、モノがわかっている。バカのバカは、利巧ではないが。
837. たいがいのニンゲンは、いつも、自分を、いい子にして語りたがる。なぜだ?
838. ただし、自分を責めて、責めて、責めて、必要以上に責める人は、自分を滅ぼしてしまう。
839. 結局、お前は、そういうニンゲンだよと他人が言う時、耳に痛いが、半分は当たっている。他人の眼は、厳しい。
840. 批判しても、攻撃をしても、悪口を言っても、隠口をきいても、結局、ニンゲンは、群れから離れられない。世間という世界。
841. おそらく、他人は、誤解をしない。ゆがんでいるものは、ゆがんでいるように見る。
842. 「俺を信じてくれ」という人は、言葉以外の行動の重さを、ほとんどわかっていない。
843. 嘘が、そのまま、身についている人がいる。平気である。嘘をつくのが。で、最後には、自分自身にも嘘をついていて、行き場を失ってしまう。
844. 情の人、知の人という。どちらを信用する?いつも別れ道は、そこにある。
845. 自分自身を大事にする。生きものだから当たり前だ。誰も文句はない。しかし・・・。
846. はじめて、62歳を生きている。だから、新しいことばかりだ。わからないのだ。心も身体も。
847. なぜ、人は、ニンゲンという、存在の、運命を受け入れてしまうのだろう。誕生から死へ。生、老、病、死というものを。100%の絶対だからと。もっと、他の、存在の変容はないものかと、考えないのだろうか?
848. 形があるから、形の変化を見てしまう。形がなければ・・・、いったいお前は、何を言いたいのかと、批難の声が飛んでくる。
849. 飛びっきりの、絶対の、有無を言わせぬ、生の一回性が、宇宙にはあるのだから、心臓がとび出してもおかしてないのに、平気で日々を生きている。その時が来るまで。
850. 死を前にして、作家・評論家の小田実は、「死なない念仏を唱えてよ」と、出家している瀬戸内寂聴に言った。「そんなものある訳ないじゃない」答えである。
851. 現在、いったい、宗教の存在理由はどこにあるのだろう。何をしているのか?何ができるのか?
852. 「 」ではなくて、( )でもなくて、) (を使いたくなる時がある。在るのに無い。居るのに居ない。開かれていて、内と外がない場合。
853. カーテンが風に揺れている。ただそれだけ。
854. 私のような男を受け入れてくれる女には、惚れたくないと友が言った。誰の言葉だったのか?
855. 頭が濁っている時には、ひたすら歩くこと。
856. 回転する独楽の模様の澄みかたが頭脳にも欲しい。
857. ニンゲンは、進化してきたと言われても、(私)は、私自身のことも、よく知らないのに。
858. 日常のセイカツの中に、一本の杭くらいは打っておこう。(現場)の勘がなくなれば、本当の世捨人の思考になる。
859. 銀河と原子の間で、中くらいのニンゲンは、どちらにも行けずに浮遊している。
860. 望遠鏡と顕微鏡が神を殺した。もう、誰も、神のイメージがもてない。
861. 「私小説」が光っている。耳によく響く声で。車谷長吉の声。西村賢太の声。
862. 今日、鶯の初音を聴いた。4月10日は、鶯記念日。
863. 何もしたくないために、言い訳ばかり考えている。おそらく、存在すること自体に、不満、不快があるのだろう。
864. 人が死体になった時の、あの言いようのない、踏しみしだかれた屈辱と悲惨。
865. 気分は、思考を変えられるか?
気分は、思考を作り出すか?
気分は、思考を呑みつくすか?
866. 肉体をゆすって、精神のリズムを整える。
867. ニンゲンの視点は小さすぎて、視野は、まだまだ狭すぎて、思考も低空飛行を続けている。もっともっと、超球宇宙へ。
868. いったい何をやっているのか、ニンゲンは、本当のことを解っていない。
869. 無限に続くラッキョの皮をむいている。生きている不思議を、誰も疑わない。
870. (神)を作り出した時代と、(神)を棄ててしまった時代と、どちらが幸せか、俄に断じがたい。
871. 日が昇り、日が沈む、地球の1日に慣れてしまったニンゲンは、宇宙の悠久のリズムに背丈が合わない。
872. 往復運動が思考のダイナミズムを生む。雑多な日常の中の思索活動。
873. 元手のかかった文章は、真夏日に呑む水と同じだ。全身に涼気が走る。心臓が、きゅっと音をたてて鳴る。
874. 気が通う。そんな人が何人いるだろう。
875. 知識だけで書いた文章は、尖っていて、ちっとも味がない。正確なだけで、面白くない。
876. 思考のゆらぎから結晶まで、文章が捉えたとして、宇宙の痙攣は、するりと身を変わしてしまう。
877. 時空の中で、途方にくれないニンゲンがいるだろうか。位置も場所を定まらず。
878. 宇宙飛行士たちは、美しい地球を、誇らし気に語るが、宇宙の暗黒の淵、闇の恐怖、畏怖については、多くを語りたがらない。なぜか?
879. あらゆる物語を聴かされる人、知らされる人にとって、一人の作家など、もはや、なんのことはない。すべては、宇宙へと放たれる精神の軌跡にすぎないから。
880. 無限に続く物語には、「本」としての終わりや始まりはない。宇宙という物語。
881. 最高の作品とは、作者(私)の手から離れて言語そのものの歴史へと化したものである。
882. 石は、石以外にはなりたくないと言っている。水は、水以外のものにはなりたくないと言う。(私)は、永遠に、(私)として存在し続けるだろう。
883. 言語の物質化は、どのように、可能であろうか?分秘される、言葉は、言葉自身をしらない、ただのものになる。
884. ニンゲンは、けっこうアバウトな生きものかもしれない。どんな天才であっても。
885. とことん考えると、脳が痙攣する。そんな時には、解き放ってやれ。頭を棄てて、肉体へと走れ。
886. 泣くという行為がなければ、ニンゲンの悲しみには行き場がない。泣いて、泣いて、声をあげて泣くのだ。
887. 夫婦でも、親子でも、どうしても救けてやれない場合がある。死に至る病いだ。(私)は(あなた)にはなれない。
888. 火山の大爆発。6000年のニンゲンの一切の文明が役に立たない。
889. 他人(ひと)を丸ごと理解しようなんて、どだい、無理である。(私)自身でさえ、その正体が解らないのだから。
890. 書くことは、すでに書かれてしまったことを掘り起こすことかもしれない。
891. ニンゲンは、コズミック・ダンスを踊りながら何処へ行くのか?何をしているのか?一切が、眼隠しされたままだ。
892. 現在のニンゲンは、あらゆる面で、宙吊り状態である。(今・ここ)を通過しているだけの小さな、小さな、小さな存在。
893. 誰かはわからないが、最後のニンゲンは、生命、存在、宇宙のすべてを報らされるように出来ているとでもいうのだろうか。
894. 私たちニンゲンは、永久に「宇宙という巨大な本」を書き続けているマラソン・ランナーである。
895. 永続する(言葉)は、誰のものでもない。個人の(私)を超えて、不死の(言葉)になる。
896. 何が書かれているかよりも、「本」は、すべてのニンゲンに共通する(思考)の形だ。さあ、どんどん考えてくれ。
897. モノやコトがわかるのは、それらがすべて在るものだから。
898. 終日、歯痛で唸っている。何も手につかないだらしなさ。痛み、苦痛の破壊する力。
899. 歩いてみろ、あらゆるものが、思考の発条(ばね)になる。
900. 人生80年、ひとときのまどろみである。
701. アフォリズムはヴィジョンである。透明な橋を架ける力だ。
702. 昔の人は、よく歩いた。読んだ書物は、次から次へと消えていくが、歩いた足の裏が知っている大地の声とリズムは、不思議と消えないものだ。(現場)が何よりも大事である。
703. いくら考えてもわからないことが、時がたつと、時そのものが教えてくれる。だから、”時”に身をゆだねている。
704. 考えようとするから、わからない。生きようとすれば、わかってくる。
705. いつまでたっても”時”が皆目わからない。発生も消滅も顕現も。モノの時、イノチの時。
706. もっと読みたい、もっと、ムイシュキンと歩きたい、もっと一緒にいたい。合体した魂が、そう叫び続ける。それが、最高の読書だ。読むことが、そのまま生きることになってくる。
707. なぜ、人は、なつかしいという感覚で、モノとヒトを眺められるのだろう。会うこと。別れること。
708. 「またふたたび」という感覚と、「もう二度と」という感覚が、同じ、一人のヒンゲンの中に生じる不思議。
709. 生きることは、(私)を創造した宇宙への返礼である。
710. もう、アレ、コレと考えない。ただ(私)に顕れるものをそのまま記しているだけだ。
711. ここにいるのは誰だ?まさか、幽霊ではあるまいと、宇宙に問いかけると、もっと見ろ、もっと考えろと風が吹いているだけ。何も応えずに。
712. 去るもの、来るもの、通過している(私)は、いつも、(今・ここ)に立ちつくしている。
713. 蛙の鳴く声が、桜の散る空間に響いてくる。妙に狂おしい。春である。
714. もっと、もっと、どこまでも降りていって一番深いところまで。何が見えた?何がわかった?
715. 歩くことが、老いの計りになる。
716. 一人で生きるよりも、二人で生きる方が生き易い。第一、自然である。対のセイカツ。♀と♂。そして・・・。
717. 薄い膜だけが、ニンゲンの、(私)の生きる器である。
718. 何もかもが溶解していく。傷ついて、破れて、壊れて。芯よ起て!!
719. 巨木の生きる姿に、ニンゲンは圧倒されるばかりだ。
720. どんな仕事であれ、とりあえず、自分は仕事をしているという感覚があれば、大丈夫。空虚には呑み込まれない。
721. 何もすることがないと、心は、蛸になって我が身を喰いつくしてしまう。
722. もう、モノを、直接見るだけでは、コトが足りない。それも、ひとつの在り方にすぎないから。
723. 生きものたちは、それぞれ、自らが生きるために必要な形態を持つに至る。不思議だ。
724. 老衰死。病死。事故死。自殺死。他殺死。餓死。戦死。心中死。脳死。処刑死。切腹。狂死。大量殺人死(ジェノサイト)・・・。あ~あ。ニンゲンの死は、一回限りで、ひとつなのに。
725. 芸術は、どこかに”狂”の一滴を注入しなければ輝かない。小説も同じことだ。
726. 空を眺めすぎると(私)が消えてしまう。
727. 身。身体。体。躰。軀。漢字は、他の言語よりも面白い。何よりも、形がものを言う。
728. 「本」を読む。「文章」を読む。昔は、「知」を知ることが面白くて、意味、内容ばかりを探った。今では、何かを自由に思わせてくれる文章が面白い。だから、読まずに、凝っと眺めている。視線に長く耐えられる文章がいい。大半の文章は、眺めていると、崩れ壊れてしまう。
729. 光るものを「光」と命名しても仕方がない。「大日如来」と古人は呼んだ。おそらく、それは、正しい。「1」も、そのように、成立するしかないか?
730. 空海も、南方熊楠も、岡潔も、天才と呼ばれる人たちは「大日如来」を信じた。
731. 死ぬ時には、光の中へと飛び込むのだ。「大日如来」の中へ。横超。
732. 「1。光。大日如来。宇宙。」わかっているのに、わからないものばかりである。
733. 在るものでも、わかりかたをわからないと、まったくそのもの自体がわからない。しかし、信じるか!!
734. 「自然」という暗号を読み解くだけで、ニンゲンは、30億年を費してしまった。
735. 宇宙自体が、自らを記憶しているとすれば、ニンゲンも、大きなものに、記憶されている。
736. 知り得たものの量は、雨の一滴で、それでも、ニンゲンとして生きてゆかねばならぬ。無明。暗愚。
737. 宇宙には、「1」そのものは、存在しない。そんな声が脳裡に響いたので(私)は、無視して、歩き続けた。「1」をめぐる無限を思いながら。
738. (私)の外へと超出すること。
739. 身体が重い、身体が軽いと感じる時のあの微妙な感触、(私)は、(私)という器、入れもの、を思い浮かべている。しかし、まだ、(私)は、その、重い、軽いの膜を知らない。
740. 他人の声に、他人の存在に、誘い出されて響く(私)がいる。モノに、コトに、ニンゲンに誘発されてこそ、共に生きる意味がある。
741. 単独者の(私)という存在、長い間、そう考えていたが、(私)は、どうやら、あらゆるものの、集合した、ひとつの統合体かもしれぬ。だから、分裂していて、解体される。
742. 話をしながら、テレビを観る。点のことばかりを考えながら三角形を思い描く。同時に、二つのこと、三つ以上のことを実行する能力。ニンゲンは、考え得ることは、すべて、可能にしていく生きものかもしれない。(聖徳太子の未来)
743. 「もう、死んだように生きておるよ」と友は、淋し気に笑っているが、活躍の場が消えても、(私)という場は、残っているのだから、(私)という宇宙を歩いてみればいい。
744. 「あらわるモノ・コトは、考えられる対象として存在する。考える、起点は、どこにでも、ごろごろと転がっておる。
745. 見るということは、ひとつの見方である。
746. (私)が存在として顕現した以上、自分自身の存在くらいは、証明してやろうと思うのは、当然の欲望である。何代かかっても、ニンゲンは、宇宙に口を割らしてやれと思い続けるだろう。(沈黙する宇宙への質問状を作ってでも)
747. (声)が来たと言う。神からの(声)が来たと言う。ニンゲンの耳にとどいた(声)は、果たして、宇宙から来たものか?(神は、宇宙ではない)(声の正体は?)(光?)
748. 光は、声にもなる。共感覚があれば。
749. 闇から闇へは赦さない。果たして、誰にものを言っているのか?
750. 眼を閉じても、開いていても、いつも、額の前方に、何かがある。(私)の身体ではないのに、それは、いつも(私)と一緒に存在する。何?
751. 思考には、いくつも層があって、一歩一歩その層をステップしている。
752. ほとんどの「不満」は、自分が、自分自身に対して抱いているイメージよりも、他人が自分に対して抱いてくれるイメージが、劣っているという理由にある。もっと、(私)を見てよ。もっと(私)を知ってよ、もっと(私)の価値を認めてよと、叫んでいるのだ。あ~あ。ぷーふい。
753. 「どうも、(私)はないみたいだ」と言うから「まるで、幽霊じゃないか」と応えると「君に僕が見えるのか」と叫んだ。
754. (ただの人)になってからが、勝負である。衣裳をすべて脱ぎ棄てて、自分自身の貌を、じっくると覗き込んでみる。
755. 生きることは、どうやら、だんだんと、ニンゲンになっていくことである。形姿は、求めたように、現れるから。無数の貌。
756. あらゆる情報を集めて考えてみるか、ひとつのものを、じっくりと、何年も眺めて考えてみるか、(総合者と単独者の眼)
757. 本能半分。学習半分。
758. 生命が進化したとして、生命の系統樹を考える時、一つの単細胞に達するのか、あるいは、単細胞の群れへと達するのか、そこに<1>という数の魔がいるような気がする。
759. 同じように、俺たちの「宇宙」のビッグ・バンは、たったひとつの大爆発であったのか、複数の、多数のビッグ・バンがあったのか?証明もできない問いは、問いですらないのか!!
760. 地に、足をつけて、明日は、郵便局へ行こう。何を送りに?何を伝えに?
761. 歩けるうちには、歩こう。それ以外に、することがあるのか?
762. ニンゲンから(仕事)を取りあげてしまうと、自ら、長い間、放っておいた(私)に立ち向かわなければならない。で、突然、(私)が牙をむく。誰だ、お前は?必死になって、(私)を耕してみるしか他に術はないのだ。
763. なぜ、数があるのか、誰も証明できない。1が証明できないという。(私)とは何かがわからないはずだ。
764. 宇宙に、純粋な(1)として存在しているものなどあるのだろうか?私は知らない。数は深淵だ。足をとられると畏ろしい。
765. 私は、一人のニンゲンであるが、(1)ではない。一本の木は、木としてあるが(1)ではない。
766. 素朴に、自然を見て、在ると思える平凡な領域で生きていると、(自然)が、本当に、あるかどうか証明できぬと唸っている大数学者、自然科学者たちは・・・。知らぬが仏か?
767. ニンゲンは、あまりにも、素直に、(在る)ことを見るために、眼と脳のシステムに委ねすぎているのだろうか?(在る)ように見えると考えたのは、実は、ひとつの見方にしかすぎなった。見方が、ちがうと(在る)は、見えなくもなってしまう。(在る)か(無い)かは、わからなくなる−と、木も石も自然も存在するかどうか、本当は、わからなくなる。
768. 純朴な(1)は、宇宙のどこにも、発見できない。だから、人類の(知)は、まだ(1)を証明できない。6000年の文明とは、その程度のものである。もちろん(私)とは何かを問い続けても、わかるわけがない。
769. 自然の中を、どこを探しても(1)はない。しかし、人は、一枚の葉とか、一個の石とか、一本の木とか、どこかに(1)を探したがる。見る、意識する、どこまで追求しても、結局、自然の中には(1)がない。(ない)ということだけがわかってくる。どだい、(数)は、なぜ、現れたのだろう。(数)とは何か?
770. 木を見る。自然を見る。見えるように見ている。で、その、見えるようにが、崩れてしまうと(自然)は自然ではなくなってしまう。すると(見る)ということも、実は、アテにならない。テレビ画面の接続不良のように、(自然)に点と線が走って、画像が、見えなくなる。(自然)が、そのように崩れてしまう。それでは、(見)ている自然は、在るとも無いともいえなくなる。
771. 考えていては、アフォリズムは書けない。向う側から来るのを待つのだ。五感を解き放って。
772. (私)は、もちろん、宇宙人である。(私)が顕現した理由は、宇宙を知悉するためである。
773. (在る)から(居る)への移行が、宇宙での最高の変革であった。
774. 「小説」を書こうと意識した瞬間から、「物語」の「虚」が、作者の脳裡を掠める。だから、「小説」の文章とエッセイの文章は、まったくちがってしまう。
775. 何もない、実に、頼りないところから、筆(ペン)をすすめると、不思議なことに、小説の文章はのびやかになる。そこに、小説の上質な部分が現れる。いわば、腕の見せどころである。(考える)ことが光る。
776. 文体は思考の回路である。
777. 私たちが居ることは、どうやら、そんなに確かなことでないかもしれない。幽霊のような存在が、(私)の耳許でそう呟いた。眼の前の自然が消えた。1でもあり、2でもある。数でないかもしれない。
778. 存在(モノ)も形も色彩も、見る・見られるという関係をすりぬけると、虚へと移行する。
779. 蛇が自分の尻尾を咥えるようにして1が1を呑みこむことができるのだろうか?
780. 宇宙に生きることは、(1)を探す旅であるかもしれない。
781. (私)とは、途中で、放り出されてしまった存在の名前だろうか。
782. 光の光源を、呼びようがなくて、「大日如来」と云ったのは、おそらく正しいかもしれない。
783. 不思議なことに、物書き(作家)は、その言葉が潔くなればなるほど、死が近くなって、自死に至る。村上一郎、三島由紀夫、石原吉郎。
784. 30億年かかって、生きてきた(私)であるから、自殺は、実にもったいない。
785. いい読み手がいなければ、いい書き手は育たない。読むことと、書くことは、共同作業である。
786. 天皇、エンペラーの問題は、30億年の生命史の中に位置づければ、その姿がよく見えてくる。現実は、人は、たかだか、100年、1000年の単位で考えるから、その姿を見誤ってしまう。
787. 母から生まれてきたが、母の母、そのまた母と考えて、グレートマザーに思いを至すと、30億年も生みつづけている姿に、感動すら覚える。
788. 精神が、もっとも深いところに達すると、それが、そのまま、外部に存在するものに通底してしまう。
789. 外在した脳がスパークする時、いったい、何が起こっているのか、と思うほどの、陶酔の時が来る。
790. 「40年」もサラリーマンをしてくると、会社から放り出された時、どこにむかって、何をしていいのか、まったく見当がつかぬ」と友人が真顔で語った。「誰かに、命令してほしい」とも。
791. 誰でも、自分の(場所)と(役割)が欲しいのだ。
792. 会社生活で忘れていたものは(私)である。停年になると、その(私)が、姿を出して、お前はいったい、何をしてきたのだ、お前はいったい何者だと、怪物のように、突然、牙をむくのだ。
793. 働いてきた(私)は、存在としての(私)よりも小さいのに、(仕事=私)と考えたがる錯覚。
794. 何もかも、狂的な世界であるのに、平気で生きているニンゲン。
795. 訳もわからぬまま、透明な膜の中に突入して、一歩も、歩けぬ時期がある。
796. 日も、月も、季節も、遠くなったり、近くなったり。色彩までちがって見える。
797. 一日に、一度、ひとつは、ものを考えること。
798. 意識もなく、モノに、コトに気分が悪くなって、嘔吐を催す時がある。世界と上手く握手が出来ない。ユーウツな日。
799. 春、三月、空がすみれ色になる。光が変わった。気が昂ぶって、歩いてみたくなった。光の誘惑。
800. 時間をもて余す人、時間が足りない人。やれやれ、自由というものは、やっかいだ。
1. 「コーラン」上・中・下(岩波文庫刊) 井筒俊彦訳
2. 「悪の華」(岩波文庫刊) ボードレール 堀口大学訳
3. 「巴里の憂鬱」(岩波文庫刊)ボードレール 堀口大学訳
4. 「他力」(講談社文庫刊) 五木寛之著
5. 「風に吹かれて」(角川文庫刊) 五木寛之著
6. 「小説修業」(中公文庫刊) 保坂和志 小島信夫共著
7. 「ミドルワールド」(紀伊国屋書房刊) マーク・ホウ著
8. 「烏有比譚」(講談社刊) 円城塔著
9. 「後藤さんのこと」(早川書房刊) 円城塔著
10. 「金子光晴」(筑摩書房刊) 金子光晴著
11. 「細雪」上・中・下(新潮文庫刊) 谷崎潤一郎著
12. 「詩片集素描」(土曜美術社出版販売) 山野井悌二著
13. 「高野聖」(角川文庫刊) 泉鏡花著
14. 「寓話」(プロジェクトK発行) 小島信夫著
15. 「金融狂荒」(文芸社刊) 相馬尚文著
16. 「暗渠の宿」(新潮文庫) 西村賢太著
17. 「OUT」上・下(講談社文庫刊) 桐野夏生著
18. 「柔らかな頬」上・下(文春文庫刊) 桐野夏生著
19. 「グロテスク」上・下(文春文庫刊) 桐野夏生著
20. 「残虐記」(新潮文庫刊) 桐野夏生著
はじめて、円城塔の小説を読む。
安部公房の直系の作家が登場した。いったい、これが小説と呼べるだろうか?と思えるほど、新しい作家である。
本文よりも、注釈の方が多かったり、骨と皮だけであって、あとは、理論が統一している作品。
理系の作家らしく、実に論理的である。もう一滴そこに血が流れると、実に、面白い作家になる。
安部公房は、ひらがなのつかい方が、上手い作家だった。論理に、肉感性があった。
円城塔は、分野も無視して疾走する。純文学、SF、小説、エッセイ、文章までも、破壊してしまうかもしれない。
ボードレールや金子光晴や泉鏡花や谷崎潤一郎を再読する。青春時代に読んだ本を、60歳を過ぎて読み直してみる。なるほど、そのように、生きたのかと、感慨が深い。
「寓話」は、保坂和志氏が、師と仰ぐ作家、小島信夫の小説である。絶版になった小説を、個人が、復刊するという、困難な仕事に挑戦した保坂和志氏には、エールを送りたい。
この傑作は、ゆっくりと時間をかけて読みたい。
車谷長吉に続く「私小説」作家が誕生した。西村賢太だ。
なぜか、現在、「私小説」を読むと、ホッと安心する。古風だからではない。もっとも、現代的である。
人間が、頭で組み立てた小説には、どこか、薄ら寒い風が吹いているから、「私小説」に現れるニンゲンの形姿が、技巧、戦略を通り超して、(知)以上のものを表出してくれる−その姿が眼にやさしい。
「風に吹かれて」エッセイが時代そのものだった。
五木寛之の金字塔は、小説「青春の門」である。その五木寛之が、満を持して、小説「親鸞」を書いた。熟読した。大先輩に対して、礼を失する訳にもいくまい。じっくりと、再読して、論じてみたい。なぜ、現在、宗教であるのか?