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• 水曜日, 2月 23rd, 2011

ドストエフスキー 山城むつみ著 (講談社)

世界の知者たちが、百数十年にわたって、ドストエフスキーという小説宇宙を語り、論じてきた。
二葉亭四迷、小林秀雄、森有正、加賀乙彦、埴谷雄高、秋山駿、樋谷秀昭、江川卓、亀山郁夫、E・H・カー、グロスマン、バフチン、ヴィトゲンシュタイン。

感性的に、直感的に、内的に、思想的に、宗教的に、哲学的に、存在論的に、言語論的に、もう、これ以上、読み込むのは、無理だろうと思えるほど、さまざまな、切り込み方で、語られてきた、ドストエフスキーである。もう、これ以上、語られまい。分析されまい。

果たして、更なる一歩を踏み込んだ、読み込みが、実践された。

山城むつみ氏による、量子論的なドストエフスキー論であった。同じ声、同じ文章が、放った人によって、まったく、別の内容になってしまうという方法、分析論である。

山城むつみ氏は、ドストエフスキーの小説をテーマーとして語るのではなくて、あくまで、語られた文章を、そのまま読み込み、分析するという手法を執った。

何が語られるのか、テーマーを抉出して語るのではなくて、その文章が、語っているもの、(文)そのもの、言葉そのものを、凝視することで、ドストエフスキーの新しい断面を、表出しているのだ。

7年半も、ドストエフスキーを書き継ぐという行為は、その時々を、刹那的に生きている現代人にとっては、信じられないような、気の遠くなる行為である。

つまり、一冊読めば、一ヶ月ほど、ドストエフスキー熱が消えない小説、日記を、山城氏は、7年半も、自らの内に響かせ続けたのだから、日常の、日々の生活の継続は、凄まじいものがあっただろうと、推察される。

「罪と罰」「悪霊」「白痴」「カラマーゾフの兄弟」という、ドストエフスキーのいわゆる四大長篇に加えて、「地下室の手記」「未青年」「作家の日記」を、中篇の「やさしい女」を中核に据えて、新しい視点を獲得している。

山城氏の手柄は3つある。
①量子論的な分析の発見。
②今まで、失敗作と見棄てられてきた「未青年」を、新しく、現代的に読みかえたこと。
③子供たちの、多声的、存在論的な読み込み。

30日ほどかけて、山城氏の「ドストエフスキー」を読み込んだ。

ドストエフスキー論を書くと、不思議なことに、その人の(書き手)人生観、思想のレベルが、照らし出されてしまう。だから、ドストエフスキーが、いかに、言葉の力を、遠くまで、運んでしまった人かが、判明する。まるでリトマス試験紙である。論者が書いているのか、ドストエフスキーが、書かせているのか、見分けがつかなくなってしまう。読むたびに、新しい発見がある。

実際、てんかん(病気)、賭博(賭けごと)、不倫(姦通)、政治犯(シベリア流し)と、ドストエフスキーの実人生そのものも、普通の生活者の、日常のレベルをはるかに越えている。稀有のものである。実生活の、波瀾万丈の人生を、源水とした、作品群は、「実生活と思想」として、語っても、語っても、語り尽くせない、謎に満ちている。ドストエフスキーは、人間の、コントロール、抑制がきかない地点まで踏み込んでしまっている。だから、ドストエフスキーを読むことは、現場で生きる以上の、リアリティがある。怖い、恐ろしい、畏怖すべき、人、小説である。

私は、(無限)を感じさせてくれる、唯一の作家が、ドストエフスキーだと思って、長年、読み継いでいる。(無限)に触れる、興奮と驚愕は、他の作家にはない。

山城むつみ氏の「ドストエフスキー」は、(普遍)へと達してしまった。ドストエフスキーの声、文章と、均り合うほどに、そのヴィジョンを、語ってしまった、現代の秀作であると信ずる。敬服する。

願わくば、ドストエフスキーの愛読者が、一人でも多く、氏の「ドストエフスキー」を読まれんことを、切に、希望する。

久し振りに、進化するドストエフスキー論が読めて、また、新しい眼が開かれた。長い、日々の、労苦が、読者諸兄が、読み込むことによって、むくわれることと思う。お陰で、一ヶ月以上、私の頭も、ドストエフスキー熱が出て、日々の生活も、その声に、染められてしまった。感謝である。

Category: 書評
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