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• 月曜日, 11月 09th, 2009

文学が、小説、評論が確かな力をもっていて、時代に、インパクトを与えた時代があった。柄谷は、そんな時代に、文芸評論家としてスタートし、小説家・中上健次と二人三脚で、新しい文学空間を切り開いた。(風景の発見)

その柄谷行人も、1992年、中上健次がガンで死ぬと、文学の現場から去って、文芸批評をも辞めてしまった。

本書では、はじめて、柄谷が、政治・思想について、詳しく語っている。柄谷の愛読者には、なぜ、彼が、文芸評論を辞めるに至ったのか、どんな思想を構築しようとしているのか、興味が尽きない。東大に入学して、学生運動をはじめ、文芸評論家になり、英語の大学講師(教授)をして、生活の糧を得ながら、マルクスの研究から、言語・数・貨幣についての考察、国家・ネーションへと至る道程が、詳しく語られていて、素人にも、よくわかる。

柄谷行人の「探求」は、人間世界の原理を求める道である。世界の(知)に対抗できる論文・評論から思想へと転換した地点が、政治を語りながら解き明かされていて、実に、興味深い本である。

小林秀雄、吉本隆明、秋山駿と、それぞれが、文芸評論から、固有の文章へ、思想へと展開していったように、柄谷行人も、自らの(核)を、マルクス・カントを読み込むことで、構築している。

小林秀雄のドストエフスキー論が、世界に通用するレベルであったように、柄谷のマルクスや「探求」も世界の論文と、肩を並べても見劣りのしないものにと、その志が覗える。

ポストモダンの象徴のように思えた柄谷行人が、実は、その限界を読み取っていて、自らが、ポストモダンを否定しているのも面白い事実であった。

世界を、存在を、宇宙を、一人の人間が知尽するには、余にも、分野が専門化しすぎていて、誰の手にも負えなくなっている。

(政治)は、一に原理、二に行動であると思うが、もの書きは、いつも、(現実)に対して、無力感を痛感する。時代の中でのアクションが、政治家のようには起こせない。それでも、原理によって、ヴィジョンを提示することは出来る。

(現場)で行動すると、文学者や思想家は、必ず、躓いてしまう。それでも人は運動する。(現実)は、いつも、原理のようには動かず、人の予測を裏切ってしまう。

それでも、運動は起こり、思想は樹立される。

柄谷行人が、(文学)から去ってしまったのは淋しい限りだが、(本)は、何も、文学に限らない。今後、魅力的な(本)を出し続けてくれれば、”柄谷行人の宇宙”が、結晶するだろう。思想家・柄谷行人からは、まだ、眼が離せない。

Category: 書評
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