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• 月曜日, 11月 09th, 2009

小説がその時代を象徴して、風俗となる時代があった。

石原慎太郎「太陽の季節」
大江健三郎「芽むしり仔撃ち」
三島由紀夫、石原慎太郎、大江健三郎、柴田翔、開高健と、作家が時代を伐りひらいて、その時代のオピニオンリーダーともなった。

しかし、いつまでも、一人の作家が、時代を代表して、疾走できるわけがない。時代が変われば、旧いスタイルになる作家は、棄てられて、また、次の作家が現れ、その繰り返しの周期は、10年、5年、3年と短くなって、終には、毎年、量産される新人の芥川作家たちは、受賞作以上のものを書けずに、世の中から消え去って、数年も生き長らえて、本物の作家となるのは、10年に、数人しか、残らなくなってしまった。

その上に、作家の力が衰弱したのか、小説自体の力が落ちたのか、芥川賞でさえも、世間から注目をひかぬという時代になってきた。

独特のテーマ、文体、知力を持った作家たちが、次から次へと誕生する訳がない。

10代、20代の、若い作家たちの受賞もあったが、感性だけで、何年間も、小説を書ける訳がないし、人生をよく生きていない人の言葉に感嘆する時代は終って、成熟した、分化した、専門化した、複雑性の時代は、作家たちの資質や才能や体力や知力で乗り切れるほどに甘くはない。

しかし、小説は好きの読者は、いるもので、いつも、新しい、力感あふれる、魅力的な作品を求めている。小説は、もっともよく生きている人の姿を写す鏡だから、読者は、現代の空気を、思想を、風俗を、小説の中に発見したがる。

私も、ふらりと本屋さんに立ち寄っては、名前も知らぬ作家の本をペラペラとめくって、立ち読みをする。都市から離れた市だから、本の種類も限られている。

ある日、「肝心の子供」を手にとって、3ページほど読んで、紙面から言葉が起ちあがってくる、新鮮な驚きを覚えたので、購入した。言葉の磁場が強力で、とても、新人の処女作とは思えない、確かな文体があった。一行一行、細部は、肌理が細かくて、具体的であるのに、目を離して、遠くから眺めると、光景が奇妙にゆがんでしまって、焦点を結ばず、時空がゆらいでいるのだった。言葉自体に核があるのだが、まるで、ゼロ記号のように、つるつると滑って、意味をそぎおとしてしまうのだ。

つまり、読者の感情移入を許さない、安心という着地を許さない、文体である。しかも奇妙な魅力に満ちているのだ。

私は、モーリス・ブランショの作品を想った。言葉が言葉を呼び、いわゆる、ふつうの時間、空間を無視して、文章が、自動的に流れ、ぶつぶつ呟くように、ただただ、漂い、流れ、一切の(着地)を拒否している作品。

磯崎憲一郎は、いわゆる、リアリズムを棄てた作家だ。絵でいえば、ピカソ、彫刻ならば、ジャコメッティ、音楽でいえば、シェンベルグ、つまり、小説のキュービズムを実現した作家である。

主人公との一体感のもてる従来の小説ではないから、いわゆる、感動がない。人よりも、言語が、主人公である。意味を求めても仕方がない。(現実)は、分析されて、(日常)は、その時空を奪われて、ひとつのメタ物語へと達している。

だから、これは、いったい、何を書いているのだ、どういう意味があるのだろうという、素朴な読者の問いには一切答えがないのだ。

「本」の帯に「人間ブッダから始まる三代を描いた新しい才能」と書いてあるが、仏教の創造者、釈迦を多少なりとも知っている読者の期待は、すべて、裏切られてしまう。仏教も、修業も、悟りも、ない。

それでも、磯崎の文章には、読者の頭脳を刺激する強い力があって、ぐいぐいと、ひきこみ、ひらめき、衝突、発光、消滅と言ったものが、随所にちりばめられている。

本の奥付けを見ると、2007年11月である。初版本である。おそらく、この種の小説を読みこなす読者は、最高3000名くらいだろう。つまり、磯崎が、小説を書いて、メシを食うのは、大変だ。おそらく、一般の読者は、むつかしい、面白くない、解らないと、相手にしないだろう。しかし、大事に育ててもらいたい”才能”である。そんなことを、勝手に考えながら、歳月が流れた。

「終の住処」が芥川賞を受賞し、作者が、大手商社に勤務する部長だと知って、なおさら驚いた。

商社マンである、しかも、大手の、それが話題にもなって、11万部が売れたと聞き、信じられぬ思いがした。いったい、誰が、あの作者の文章を読みこなすのだろうか?

もちろん、売れると、読まれると、感動するでは、まったく、質のちがった話である。

で「終の住処」を読んでみた。

時空もゆがむ、正に、アインシュタインの時代の小説である。30歳を過ぎた男と女が結婚して、子供が出来、家を建ててというふうな筋書きを書いても、虚しいだけで、11年も妻と口を利かなかったり、数ヶ月も月は満月のままだったりと、いかにも、キュービスム風な小説のスタイルで、リアリズム風に小説を読む習慣の読者は、躓きぱなしになるか、その文章を、ただ、すいすい読んで、考えることもなく、先へ先へと、素通りしてしまうだろう。(月)は(月)ではなく、(妻)は(妻)ではない。物としての月、月と呼ばれている月、いわゆる(現実)も、この小説の中では、磯山の文法に従って、その統治下のもとにある(現実)となっている。

考えてみれば、すぐにわかることだが、(現実=現象)は、言葉の中にはない。これは、小説(フィクション)ではなくて、事実を書いたドキュメントですと語ったところで、実は、言語化する時には、もう、(現実・現象)は、別のものになっている。

人は、エッセイやノンフィクションを(事実)と読みたがるが、そんなことはない。(モノ)は、言葉の外にある。絵の外にある。写真の外にある。事実そのままを写した写真も、また、事実ではなくて、(写真)なのだ。

磯崎は、そのことを、知悉して、充分に、使用している作家である。

小説は、決して、筋ではまとめられないし、プロットの中にもないし、一行一行の文章の中にしかないのだ。

だから、磯崎の小説のストーリーを語っても、何も語らないに等しいほど虚しいのだ。

文体こそが生きものである。
読む瞬間にこそ、リアリティが発生する。

磯崎の小説は、メタノベルである。

しかも、文章の一行一行は、とても(現実)によく似ているくらいに、精緻にできているので、一見(現実)がそこにあると思われがちだが、眼を遠くへ離せば、すぐに、その細部も、得体の知れぬ別のものに変わってしまう。

メンバーにメンバーを加えて、それがクラスになる。メンバーには、クラスのことはわからない。そういう原理で貫かれている。

それにしても、行変えの少ない文章は読み辛い、作家三島由紀夫は、4~5行で、行を変える習慣を守った。

新しい時代の、新しい小説に、新しい才能が挑戦する。ニュートン的な、絶対的な時間の中で、長く育まれた小説が、いよいよ、自由に伸びたり縮んだり、曲がったりするアインシュタイン的時空の中で、どのように成長するか、実に、楽しみな作家の出現である。

Category: 書評
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