Author:
• 月曜日, 11月 09th, 2009

久々の本格的な、小説読みの、評論家の登場である。小説が好きで、好きで、たまらない人が、長年、読み込んできた、愛読書を、明晰な思考力と、雄大な構想力と、知的な方法論を駆使して論じた、魅力にあふれる処女作の出版である。

小林秀雄、吉本隆明、江藤淳、秋山駿と、個性ある評論家たちが出現して、柄谷行人以後、なかなか、小説家にとって、その作品の本質を論じきれる評論家の存在が、希薄だった。

作家は、評論家と共に育つものだ。江藤淳と大江健三郎、柄谷行人と中上健次などは、二人三脚で、ひとつの時代を創りあげた、いい例である。

安藤礼二には、新しい時代の作家たちと共に、歩み、時代をリードする膂力がある。

折口信夫「死者の書」、埴谷雄高「死霊」、稲垣足穂「弥勒」、中井英夫「虚無への供物」、江戸川乱歩「陰獣」、さらに、知の巨人・南方熊楠、戦後文学を代表する武田泰淳と、論じている作家、作品は、すべて、文学の第一級品のみである。しかも、何回も、何十回も読み込まなければ解けぬ、存在のありかたと、固有の文体と、思想を放っている作家、作品たちである。

安藤の美点は、その文体にある。

考えている、その形が、言葉の中に、そのまま美事に定着していて、リズムを刻み、放射状にのびていく文体に結晶している点だ。思考が起ちあがると、一気に、虚無へと疾走して、ゆるやかにたわみ、立ち止まり、発条のように弾み、どこまでも、作品の文章とともに歩み続ける。考えることを追う文体は、(書く=読む)の緊張感を一時も手離さなず、光のように、快楽へとのぼりつめる。

裸の、考える兇器だ。

文章を読みながら、いつも、今・ここが、呼吸しているという思考の手ごたえがあって、文学を論じた「本」では、久々に、興奮の渦が全身を駆けぬけるほどに、スリリングな一冊であった。

特に、折口を論じながら、空海が修業をした室戸岬の洞窟のシーンは、(いづれ、私も、小説で、そのシーンを書こうと考えていたので、)心も脳も揺さぶられるほどの力感に満ちていた。

(独在者たちの系譜)と銘打たれた、この600ページに至る大冊は、従来の、日本の文学にはない、新しい視点で刺し貫かれていた。

文学作品の最高の分析者であり、哲学者でもある、ジル・ドルーズのことを、頭の隅で考え合わせた。

評論作品も、小説と同じように、立派な、文学作品であると実証した、見事な実例であった。感動・感謝である。

Category: 書評
You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can leave a response, or trackback from your own site.
Leave a Reply