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• 土曜日, 9月 14th, 2013

超球宇宙にとって、小さな、小さな、地球という惑星に、人間が生きているという現象には、いったい、どんな意味があるのだろうか?

21世紀に生きる人間の、死生観、世界観、宇宙観は、どうなっているのだろうか?

宗教・科学という、文化・文明を、数千年かけて築きあげてきた人間は、今、大きなターニングポイントに立っている。

特に、日本では、3・11の、大津波、大地震、原発事故で、人間の科学の(知)がまったく役に立たず、政治家のコトバ、学者のコトバ、知識人のコトバも、信ずるに足らぬ、愚かなものばかりであった。意識が、ゼロ・ポイントに落ちて、判断中止、頭が空っぽになるおそろしい事態が続いた。人間が終ってしまう、メルトダウンの恐怖であった。

宗教者たちは、どんな役割りを果たしたであろうか?一番必要とされたのは、宗教者のコトバであり、宗教者の行動ではなかったか。

何人の「空海」が、災難に会った人々のところへ、死者たちの残された現場へと、飛んでいったのか。

空海には、ふたつの貌がある。「六大・四曼・三密」を思想の核とする、真言宗の宗祖の貌であり、、貧しい人、困っている人々を救ける、お大師さん(弘法)という貌である。

五大に皆響きあり 十界に言語を具す 六塵に悉く文字あり 法身は是れ実相なり『声字実相義』

六大 無礙にして常に瑜伽なり(体)
四種曼荼 各離れず(相)
三密 加持して速疾に顕わる(用)
『即身成仏義』

空海は、「自心の源底」を覚知して、コトバを、言語論から、存在論へ、存在論から、信仰論へと歩を進めている。『十住心論』。『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』は、真言宗の根本経典である。

世界の三十カ国語を、自由に読み書きした言語哲学者、井筒俊彦は、(イスラム教『コーラン』の訳者)空海の真言を、東西古今の経典、名著を引用した上で、日本人が達した最高の、世界的コトバ・思想であると、分析している。共時的、言語の分節化は、他に類を見ない、異文化、異宗教間の、コミュニケーションの華である。『意識と本質』

「存在はコトバである」という井筒の認識は、存在論、言語論、記号論、宗教論が、コズミックな領域まで達した時、はじめて、異文化、異宗教、異言語の壁を越えて、成立する証しであろう。

原典、原語を読むことが、学問の始まりである—原理・原則を語っている。異文化、差異があってこそ、それを承認してからこそ、対話がはじまる。空海の思想も、多言語の中から起ちあがっている。

大日如来。法身が語る—という困難を、思想化した時、コトバを、体、相、用と、自心の源底で覚知した時、空海の世界・宇宙が確立された。

『古事記』(万葉仮名)『日本書紀』(漢文)『源氏物語』(漢字ひらがな文)は、神道、歴史、仏教の思想の源である。天(神)に捧げた神聖文字・漢字が、中国から伝来し、漢字ひらがな混り文という、独自の、日本文を創り出した。(空海が、いろは歌を作ったという俗説もある)

良くも悪しくも、私たち日本人の思想も、その、日本文の中にある。

日本人は、曖昧である。カミも仏もいる。あはれ、無常、わび、さび、粋、日本文とともに、美の感覚は、実に、繊略である。寛容である。

一神教の、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教との対話が、可能かどうか、空海や井筒のテキストに学ぶしかない。

戦後、日本人は、経済と科学と常識に重点を移して、神道や仏教は、学校の授業から消えてしまった。宗教、修身、道徳がなくなって、倫理となった。(決して、スピノザのエチカ(倫理)ではない。)

村の共同体が壊れ、家が壊れ、個人が壊れ”便利”と”快適”と”効率”だけを重視して、経済的人間(エコノミックアニマル)として、生きてきた。

戦後六十余年、宗教に縁がなくて、文学のドストエフスキーのコトバに心酔してきた私も、3・11があって、やっと、日本の宝、空海のコトバ、原典に、立ち戻ってみようとしている、今日、この頃である。

(8月7日 高野山大学大学院レポート)

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• 金曜日, 8月 30th, 2013
2801. 身体に芯棒がなければ歩けない。精神にも芯棒がなければ、考えられぬ。
2802. 塔に心柱があり、身体には背骨があり、精神には意識がある。
2803. 意識は、無限速度で刻を移動する(私)に絶えず、同伴をしておる。
2804. 存在の独楽が廻っているうちは、(私)は生きている。完全静止は(私)の終りである。宇宙も同じ原理だ。
2805. ”眩暈”は、起き上がることも、歩くことも、不可能にする。風景の固定は、自然な歩行の条件であった。
2806. 普通に歩くことが、どれだけ多くのエネルギーに支えられているのか、病気をして、”眩暈”にあって、やっと納得した。
2807. 「位置」は、眼と耳で決定される。姿勢を保つのも、足腰だけではなく、眼と耳の力が不可欠だった。
2808. 一兆億年後の、わが宇宙の死滅。ニンゲンは、そのことに、どんな感慨をもつだろうか?無限か永遠か!!
2809. 始まりも知らず、終りも知らず、存在の地平線の内で、今だけを生きている。
2810. 存在の地平の特異点はカミの手に似ている。
2811. 存在も非在も、あるものの見方にすぎない。(体、相、用)
2812. 無限速度でスピンする(私)。千の貌があっても不思議ではあるまい。
2813. 木が、石が、空が、定まって見えるか、ゆらぎの波と見えるか、眼という、能力にかかっている。
2814. 無から吹き上がってくる時空。”私”の顕現、(私)の発見。
2815. ゆらぎの、波の、偶然の、時と場に、存在というコトバが、結晶する。
2816. 宇宙にとって、ニンゲンという存在は何者でもなかった、何事でもなかった、そう断言できるか?
2817. 勝手に、(私)の全細胞が開いて、数十億年という時間を逆行して、単細胞に至ろうとする、そんな、存在自体のざわめきが聞こえる。
2818. 単細胞が見た夢の果てが(私)である、と言うのだろうか?
2819. 21世紀の最大の発見は、(無)から(有)が、つまり、時空が、コトとモノが発生したということであろう。
2820. 今朝も、(私)という存在に躓いて、ニンゲンを発見する、驚愕が、いつのまにか、普通のことになってしまった。
2821. 時空に放り出されてからというものは、もう、本能と知で、ただ、(生きる)をしてきただけだ。それが、何であろうと、同じことであるが。
2822. ニンゲンは、とりあえず、(社会的な役割り)を求めて、生きる、それを、仕事と呼んでいる。では、(宇宙的な役割り)とは、いったい、何であろうか?存在すること−そのものの意味だ!!
2823. (私)も、宇宙の一員であって、毎日、毎秒、コズミック・ダンスを踊っている。しかし、その行為が、何であるのか、まったく、わからない。
2824. つまり、死が、わからないように、生も、まったく、わからないのだ。
2825. 食べる、産むという、本能さえも、考えてみると、(私)には、よくわからない。
2826. 原子の、生命化が、なぜ、そうなるのか、根源的には、わからないように、だから、(私)は、他者を生きている。
2827. 空間に、昨日の、色と線と質感が戻ってきて、時間が流れている。実に、自然に。今日も、コトとモノのカオスの海を泳ぎ切ることができると、意識をした。
2828. 色の限界地点で、草木の緑がふるえている六月。色は、コトバに、存在そのものになって、歩いている(私)を襲う。不意に(私)は、無限時間の中を、おそろしい速度で通過している、と、宙吊りになったまま、思う。
2829. 緑の、色の、力に、時間も、空間も、ニンゲンも、共振れしている、六月である。
2830. 痙攣している六月。どもっている六月。浮遊している六月。光の中で、闇の中で、あたらしく、誕生するものがある。まだ、名前はないが。
2831. 痙攣する六月の歩行は、決して、知ることではなく、楽しむことである。何を?不可能を!!
2832. もう、生への燃え盛るような意思は起ちあがらないが、静かな、静かな、眼だけは在る。
2833. 起つ位置によって、人は、宗教を得、科学を得る。決して、否定しあう関係ではない。
2834. 事象を分析する科学。事象を生きる宗教!!
2835. 共存には寛容の精神がいる。
2836. 文学は、畏怖すべきもの、不可能との対話であり、そこに、ニンゲンがいる。
2837. 沈黙にも、おそろしい、エネルギーがある。決して、何も、考えていない、のではなく、ただ、存在の重みに、耐えているのだ。
2838. コトバよ、来い、あらゆるコトバよ来い、と叫んでも、来ないから、黙る。
2839. コトバを、存在に、存在を、祈りに変えてしまった、空海の真言の力よ。
2840. (科学)も(宗教)も、見えないものをみる。しかし、その、見えないものが、異なる。
2841. 3・11の現場を歩いたとき(私)=生命がひとつの痙攣になった。今日も、歩行のときに、ひとつの痙攣になった。
2842. 空海は、存在そのものを開いてしまう。だから、存在はコトバとなる。
2843. 空海とスピノザ。宗教者と哲学者である。自然を、存在を、宇宙にカミ・ホトケとして、開いてしまった二人である。
2844. コトバの位相。ニンゲンのコトバ、カミ・ホトケのコトバ。
2845. 宇宙に、(私)という身体を投げだす時、宇宙にそのまま流れる時空と合体できる。さて、跳べるか?
2846. 善も悪もない「自然」がある。原子の世界。「宇宙原理」である。善と悪がある「人間社会」である。原発の世界。「人間原理」である。
2847. 3・11の現場の光景は、ニンゲンが忘れていた、畏怖すべき「無」の力の顕現であった。そして、ニンゲンは、同時に、「悪」としての原発を確信した。
2848. さて、3・11の瞬間に、畏怖した「自然」の存在であったが、まだ、二年と三ヶ月しか経っていないのに、もう、ニンゲンの欲望だけが疾走している。暗愚のニンゲン。
2849. ニンゲンは、何を怖れているのだろうか?戦争、飢餓、貧乏、不幸、苦痛・・・ いやいや、唯一、(無)であろう。
2850. (無)に至る、存在の眩暈が、完全に終るならば。
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• 火曜日, 8月 27th, 2013

夢を見るのはニンゲンだけであろうか?
夢を生きるのもニンゲンだけであろうか?
夢がたり 正夢 逆夢 白昼夢 夢占い 夢魔 夢じら
せ 夢合せ そして 夢枕

昔から ヒトは 夢を語ってきた
樹上に坐禅をした 鎌倉時代の 明恵上人は 一生涯
見た夢を綴り続けた 「夢記」
平成の詩人 一色真里は 「夢千一夜」 を記した もち
ろん 夢を科学して 無意識やリビドーを発見したのは
フロイドである 「夢判断」

他人から 見た夢の話を聴く 誰でもが 普通に経験す
る ありふれた話である ところが 他人の夢に 自分
が現れた 夢の話となると 少し 話がちがってくる
まして 夢枕に立ったと言われると、もっと奇妙なこと
になる

もう20年も昔のことである 五月の ある日の 早朝に
聞き覚えのない 女性の声で 電話がかかってきた 昨
夜 Nが死にました 何? なぜ? 肺ガンでした 死
ぬ少し前に あなたが 主人の夢枕に立ちました さよ
うならの挨拶に来てくれたと大変 喜んでいました 死
んだら お礼の電話を入れるようにと Nの遺言でした

返事に窮して お悔みを言ってみたが 父母でもなく
兄弟でもなく なぜ 友人の私であったのだろうと 長
い間 私の心に棲みついている声であった 昔から 夢
枕に立つのは 神 仏と相場が決まっているのに

Nはラグビーのボールを追っていた
私は ブラスバンドの指揮棒を振っていた
田舎の高校の同級生であった 無二の親友というのでも
なかった 東京の大学生の時二年間 同じ下宿にいた
その後も 街角で 街頭で 駅の改札口で 妙な出合い
かたをした 偶然というには 余りにも 変な縁であっ
た 最後に会ったのも 路上であった 俺 肺にカビが
生えているらしい 真黒な顔で 淋し気で 消え入るほ
どの声だった

昨夜 私の夢にNが顕れた どうだい? そちらこそ
どうだい? 夢も現も融け合って あらゆる境目が揺れ
時空もゆらぎはじめた齢になった あの時 君の夢枕に
立ったのは確かに私だとNに告げた

生きている存在だけが生きているのではない 死者も
また 生きている

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• 月曜日, 6月 10th, 2013

   深夜の 闇の中での 眼の訓練(レッスン)は もう 日々の儀式とな
った 時計が十二時を廻ると闇の底の 部屋のベッドに 横
たわって ゆっくりと眼を閉じて 呼吸を整え モノとコト
を消し 身体を消し コトバを消して 瞑想し 宇宙で一番
深い闇の底で あるモノを見る 眼の練習を開始する 宇宙
に浮遊して

   眼があるだけではモノは見えない 赤ん坊は 生れると
毎日 モノを見るために 眼の使い方の練習(レッスン)をする 眼を開
けているだけでもモノは見えない 生まれつきの盲人が ある
日突然 眼の機能が回復しても モノは見えない 白い幕が
見えるだけだ 風景や顔を見るためには 眼の使い方の訓練(レッスン)
が必要だ

   眼を閉じていても モノは見える 夢がある 記憶がある
   幻がある 白昼夢がある 頭を強打した時には 瞼の裏に
   光の火花が散る 指で両眼の眼窩を強く押し続けると 光
の洪水が見える 金色の光の海である

   三ヶ月間 深夜の儀式を続けた ある日 突然 闇の中に
   丸く白い暈(アロー)が顕現した 閉じた右眼の前方に 二 三セン
チの 十円玉ほどの柔らかい光の暈(アロー)が示現した 微かな 瞼
と眼球の動きで 消えたり 現れたりを繰り返した 闇の中
の華であった

   半年が経った ある日 突然 光の形象が来た 眺めてい
ると 八種類の光の形象だった 全宇宙の モノの形は 基
本型が八つである 宇宙の原理だ 夥しい光の祭典だった

   一年が経った いつもの 閉じた眼の前方に現れる 白く
丸く柔らかい光の暈が 突然破れた 開いた 見知らぬニン
ゲンの顔が現れた 顔は 数秒毎に 次から次へと入れ変わ
って 十人 百人 千人と増え 一向に止むことがない い
ったい何が起こってるのか 瞬間 身体の機能が壊れてし
まったかと一抹の不安が横切った 無数の顔は 何処から来
るのか 宇宙の無限遠点から 瞬間移動をしてくるのか あ
るいは ココロの 無・意識の アーラヤ識の 種子たちが
   顔となって薫習(くんじゅ)してくるのか わからない 結局 無数の
顔の出現に畏怖を感じて 眼を開いた 眼の前には いつも
の 平凡な 部屋の闇があった

   求めているのは 幻身である 誰も見たことがない その
手法もわからない 今日も 眼を閉じて 宇宙で一番深い闇
の底に 幻身を見る儀式は続いている

(注)「幻身」(チベット密教-ゲルク派・ツォンカパの幻身理論。
意識の上だけではなく、体外離脱をして、マンダラとともに、本当
の本尊の身体を出現させること) 絶対に、真似しないで下さい。

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• 水曜日, 5月 01st, 2013
2701. 書いたのは誰か?と問い、言ったのは誰か?と問い、「コトバ」とは何か?を考えると、「言葉」と「ことば」と「コトバ」の多様なものが見えてくる。コトバは、単なる、文字、記号ではなくなってしまうのだ。
2702. 「文字」を使用する。「声」を使用する。「コトバ」を使用する。言ったのは?聞いたのは?書いたのは?いったい、誰であろうか?と考えてみる。
2703. 来るもの、エネルギーである声。いや、声に変換されるあるもの。
2704. 数というものが消失してしまう地点で、存在というのも消去してしまう地点で、一切が結ぼれて。
2705. ものを書かない(書けない)、ものを読まない(読めない)、燃え盛る(知)で生きてきた人が、もう、話をすることもなく、沈黙へと滑り落ちて、そして、ただ、存在している。さようならの、サインであろうか?
2706. あらゆる交流というものが絶たれて、音信が消えていく、静かに。
2707. 新緑を巡って歩いていると、植物たちの、静かな知慧を覚知する。
2708. 見るとは、光のあらわれかたであろう。
2709. 闇は見るを消し去ってしまう。
2710. 原子が、素粒子があるのではなく、あらわれかたを見ているばかりだ。
2711. 色も、また、光とともに、時とともに、移ろっていく日々である。
2712. 木々にも、それぞれ固有の揺れかたがある。風を受けて。
2713. 人も、また、それぞれに、固有の揺れかたがある。
2714. 死ぬことの不思議は、もちろんのことだが、生れてくることも、ひとつの奇蹟である。
2715. 来た者は、去る者となる。もうすぐ、確実に、その時が来る。
2716. あるものがある、ないものはない。もう、そろそろ、いいだろう。そのように、見定めても。
2717. コトバが静かになってきたら、(私)も静かになるだろう。
2718. 大きな、強い、激しいコトバばかりで生きてきた人も、静かなコトバには勝てない。いや、勝ち負けもない。
2719. お互いに「正しい」と主張し合って、相手を、批判、批難、攻撃して、結局、争いに、終止符を打てない愚。
2720. 宇宙に、咲いて、輝いて、散る。一瞬のニンゲン、その意識に覚醒すれば、争いも、消せるものを。
2721. 風景を歩く、コトバは道の外にあるから。
2722. 一切は、変わる、歩く度に、移ろう、風景である。
2723. (私)も、また、ひとつの風景である。
2724. 苦が来る、楽が来る、道である。
2725. 小さな頂点へと、昇って、下りる、一日の波。
2726. 見ても見えず、聞いても聞こえず、語っても語られず、それでも(信)を実践するニンゲンであるか。
2727. 青葉若葉の季節となった。生命がぴちぴち反ねている。葬式も、日々、増えているが。
2728. 革命と隠遁。孔子と老子を惟う。可能性の人と不可能性の人であった。
2729. (私)を発見する。そこにだけ、ニンゲンがいる。
2730. 四月の風景は、歩く度に、音楽に転調する。
2731. 朝から大きな溜息をついて、眠るだけでは取れなくなった無数のシコリがあって。
2732. あれやこれやと点検しても、切りがなく、決断だけが鈍くなって、浮上する機会を逸してしまう。過齢であろうか。
2733. 何度でも、スタートを切れる年齢があった。もう、方向が見えていても、気が起ち上がらぬ。
2734. さようならと言ったり、言われたり。五文字の重さだけが、虚ろに響く。
2735. 本当のことは、言ってしまえば、ただのコトなり、言わなければ、秘密になる。
2736. 暗号化されたコードは、脳という器管にしかないのか?あるいは、腸官にも、胸腺にも遍在しているのか?
2737. 脳は、単に、来る音信を、受ける装置であって、やはり(私)が、コードそのものであるのだ。
2738. コトバ以前の声も、充分に、伝える音信である。
2739. 身振りが、コトバ以上に、ものを言うことがある。
2740. 食べれなくなる、歩けなくなる、話せなくなる、身につけた一切が消えていく。その時は、死ぬ時だ、自然に。
2741. あれだけ輝いていたニンゲンが、もう、光を放たない。何処へ行ったのかあれらの力は。
2742. 誤ちを犯しても犯しても、修正できる力がある。それが若さというものだ。
2743. 老いると、ひとつの誤ちが命取りになる。再生できない。風邪をひいたと。
2744. 「戒律」と「法」どちらも、ニンゲンが作ったものである。「法」は、ニンゲンが社会に生きる時、集団の秩序を乱さないための規則である。「戒律」は宗教者として、生きいくための規則である。
2745. ニンゲンの、最高の快楽は、宇宙を呼吸することである。
2746. 百兆年もすれば、我が地球も太陽も銀河も宇宙も、一切が消滅して、いつか来た(無)へと還ってしまう。もう、コズミック・ダンスを踊る舞台も生きものも、一切がない。
2747. 時空の蒸発した後は、虚時間の宇宙が、別の原理で始まっているか?
2748. どう考えても、おかしい、小さすぎる宇宙の年齢が百三十七億年というのは。二千億個の銀河集団にすぎないというのは。長い間、そう思っていた。ホーキンス博士が言ってくれた。宇宙は10の500乗個はある、と。ホッとした。無限個の宇宙!!ニンゲンの手が、宇宙にとどくのはおかしい!!
2749. 痙攣が来る度に、ひとつの思考が起ちあがる。
2750. (私)はコンタクトする。あらゆるものに。で、(私)の一日が出現する。
2751. 触るものが何であるのか、いつも、意識が、チェックをする。で、あれでもない、これでもないと、(私)は呟いている。
2752. これも良し、あれも良し、と思える日には、風景が(私)にやさしい。
2753. 歯痛が(私)の一日を変えてしまう。忌忌しいのは、いったい何だ!!
2754. 慣れることができない、習慣化できないから、”痛み”は、(私)を破壊する。いい(私)を消し去ってしまう。
2755. 生きる勝手が、まるで、わからなくなる、人生の途上で。ただ、歩け!!
2756. 学習した、習性と化していた、生きる規則が、まったく、役に立たなくなる、それは、恐怖であり、不可思議である。ただ、歩け!!
2757. 生きるスタイルと、存在のスタイルは、必ずしも、重ならない。裂け目がある。深淵に落ちないように。気をつけて。ただ、歩け!!
2758. 何度でも、何度でも、(私)に還ってくる、一日の朝が来るように。で、顔を確かめてみる。顔がどこかへ逃げていないか、と。
2759. (私)の中心にいるか、(私)の辺境にいるか、強気と弱気の現れである。ただ、歩け!!
2760. ”無”からの顕現。入口と出口の鍵である。
2761. 惑星の一回転を一日と呼ぶことに、慣れてしまったニンゲンである。銀河の一回転を、何と呼ぼうか?
2762. 宇宙と、ひとまわりしてきた者が呟いた。歩いてみれば、(私)は遍在していた。
2763. 在るとも無いとも断言できない、確率の中で、偶然、顕れてしまったニンゲンである。
2764. たった、(私)一人を始末できない。
2765. 身体の重さ、重力に合わせて、沈んでいく”私”。
2766. おーいと、遠くで呼ぶものがいる。無限遠点から来る音信!!解読できるのは、なぜか?
2767. まったく、ニンゲンは、何を考えだすかわかったものではない。超えてはならぬ一線を越えてしまうかもしれない。高次元へのジャンプである。
2768. 存在そのものの、在り様が、一瞬にして変わってしまう時、ニンゲンが猿を見ているように、何かが、ニンゲンを見ているだろう。
2769. 道具・機械は、ニンゲンの能力の延長であり、部分であったのに、何時の闇にか、その地位は、逆転してしまった。危機である。
2770. キューバ危機の、ケネディ大統領の選択は、正しい選択であったのだろうか?イラン戦争の、ブッシュ大統領の選択は、正しい選択であったのだろうか?殷の紂王は、亀の甲羅に、漢字を書いて、戦争、戦勝を占った。天の声を聴いた。三千数百年前のことである。ニンゲンは、進歩しているか?
2771. 光に反応することは、実に、シンプルな快楽である。特に、冬の、日溜りでは。
2772. 日々の、あれやこれやを、無用のものと見なして、取り去ってみると、いったい、何が残る?それが(私)だ。
2773. ニンゲンの必要は、そんなには、多くはない。他人が思っているほどには、多くはない。(私)を構成するのは、空気と、極く少量のもので、けっこうである。
2774. これ以上は、超えてはならぬ、と肉体が叫ぶ。痛みは、(私)の破壊への警鐘である。耳を傾けろ。
2775. 歩いているときには、思考を止めて存在の放つオーラーを浴び続ける。
2776. 宗教の宇宙は、ニンゲンと神・仏の宇宙である。科学の宇宙は、ニンゲンを無化して神も仏も非在と化す宇宙である。
2777. (無)から(有=時空=宇宙)が顕現した−その証拠は、終に、カミの存在をも、無化してしまった21世紀である。
2778. (無)から(有)は生じないと、信じていた時代が、妙になつかしい。
2779. ニンゲンはいつも、「正しい選択」を出来るとは限らない。だから、修正があり、やり直しがある。
2780. 風景も文体で変わってしまう。
2781. 機械を作ったニンゲンが機械に使われて一生が終る時代になった。
2782. 機械とニンゲン、能力の一点で、比較すると、”人間性”は奪われてしまう。
2783. 誤ちを犯すからニンゲンである。しかし、もう、二度と、取り返しのつかない誤ちが浮上してきた。
2784. 決定ができない。正しい、誤っている、と決められない時代である。さて、困った、ニンゲンに、選択する道はあるのか?
2785. Aでもない、Bでもない、ええい、Cにしておこうか。ニンゲンの手法。
2786. 速く、大量に、正しく、実行する機械。ニンゲンは、とぼとぼ、歩いている。右に左に揺れながら。
2787. 仕事は機械に、遊びはニンゲンに。機械は、決して、遊ばない。
2788. ニンゲンの仕事は、どんどんどんどん電脳機械に奪われて。インプットすれば、後は、遊んでアウトプットを待っている。ニンゲンの(考える)は、いったい、何処へ行ったのだろう?
2789. (考える)を考える機械が出現すれば、ニンゲンの特権が消えてしまう?
2790. 手に負えないのは、天変地異ばかりではない。原爆も原発も機械も、ニンゲンが、コントロールできなくなりつつある。
2791. アインシュタインの脳を、そのまま、コピーした機械は、ニンゲンか機械か?
2792. ニンゲンは、遺伝子による、子供の誕生以外に、もうひとつの”誕生”を創り出しつつある。
2793. ”無限”の前でも、”無”になれないのが、ニンゲンである。
2794. もう、日常には、(私)を刺戟するものがなくなった。さて、逝くか、クラインの壺と化して。
2795. 離合集散!!コレハ、ニンゲンノコトカ ソンザイノコトカ?
2796. マルデ、方角トイウモノガ、ナクナッテシマッタ。東西南北、前後左右上下。揺レテイル。揺ラギノ波ダケガ在ル。
2797. 歩行ノ消滅ハ、ニンゲンの消滅トナル。
2798. 明日、人類ガ滅ビルトモ、ニンゲンヨ、今日ハ歩ケ。
2799. 今日ノ花ヲ、今日摘ム。
2800. 吃ラナイト、考エラレナイ。ソレガ、考エル自然デアル。
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• 金曜日, 4月 05th, 2013
2601. コトバを話すことによって、コトバを書くことによって、隠されてしまうものがある。
2602. 告白は、秘めていたものを、表に顕わす行為と思われているが、告白という行為自体が、あるものを隠してしまう。
2603. コトバは、表徴であるから語れば、書けば、意味が発生してしまうが、コトバは、絶えず、表徴の裏で、同時に、隠す性質をも発揮してしまう。
2604. 一切を語ることの、不可能性がコトバにはある。その証拠に、コトバのない世界がある。
2605. コトバで考えていた。コトバを考えていた。今、コトバを生きている。
2606. そうか、コトバは、論じるものではなくて、コトバを生きるのだ。
2607. ある日、突然、(私)の起っている次元が変わっているのに、気がついた。
2608. (私)への執着がだんだん薄くなってきて、(無私)の階段を登ると、そこには(普通)がある。
2609. 西行が、芭蕉が、中也が登った階段を、(私)も、歩きはじめている。
2610. このように生きることが、ニンゲンであったかと、還暦を過ぎて、内省している。暗愚である。
2611. 結局、半分しか、経験することができない。生と死。そのように創られているから。
2612. 痙攣して、放心して、気絶・卒倒する3.11であった。今は・・・
2613. 人は、コトバと共に生きている。いや、コトバがその人を生きている。コトバ以外の世界で、人は生きていない。”文は人なり”とは、”人は文(コトバ)なり”である。”初めにコトバありき”なるほど、納得だ。
2614. コトバの力が弱くなった、衰えたと人は言う。人の力が弱くなって、衰えたから、コトバの力も呼応しているのだ。
2615. (私)とは、ある日、突然、時空に、(場)をもらった者である。光って、生きて消えて死ぬ。ある日、突然、(私)という(場)が消失してしまう。
2616. 空気の薄い時代である。ニンゲンの、エネルギーとなる、酸素が足りない。息切れがする。切れ切れの、事象の、断片ばかりだ。
2617. コトバを書いているのは、半分(私)であり、半分は(私)ではない。コトバの性質上、そのように、コトバを書くしかないのだ。
2618. コトバは、誰のものでもない。ところが、書いてしまった文章を、ソレは、(私)のもので、(私)の意見だと思いはじめる。そして、最後には、コトバそのものも忘れてしまう。
2619. 作者自身は、作品自体ではない。
2620. コトバは、来るものだから、作家が、作品を完全に、コントロールできる訳がない。
2621. 「本」のコトバを読む時と、人のコトバを聴く時では、同じコトバでも、まったく、意味がちがってしまう。眼と耳。
2622. 状況が異なる場合、語る人が異なる場合、コトバはちがった姿と意味を見せる。
2623. 宙にむかって、それぞれが、コトバを放ち、何回も何回も、聴いては投げ合ううちに、コトバの場が出来あがり、ベクトルが決まり、コトバの磁場の中で発生した意味が、形を整えていく会話であるか。
2624. 問答と言っても、はじめから、質問と答えが定まっている訳ではない。勝手に、思いを、投げかけて、少しずつ、蜘蛛の巣のようなコトバの場が出来あがってくる。その、コトバの束の中から問いが誕生し、いつのまにか答えが導かれる。
2625. とりとめもなく、だらだらと続く会話である。何かを語っているのではない。コトバの波に、身を任せて、楽しんでいるのだ。
2626. 私が(私)と書く時、その(私)は、一人称単数ではない。三人称複数である。(私)は、あなたであり、彼であり、彼女たちでもある。(私)は、他者である。
2627. コトバを、論理や知性などでねじ曲げないこと。コトバに、自然に、語らせる。
2628. ニンゲンがいる、あるいは、ニンゲンがいたと宇宙に、報せなければならない。さて、何が、可能であろうか?
2629. 時代とはコトバの環である。ネットワークである。コトバのキャッチボールの中に、ニンゲンが生きている。誰も、その外へは出られない。
2630. 中心は、反転して辺地となり、辺地は、反転して中心となる。
2631. 鳥が飛んできて枯枝にとまった。さて、縁と見るか、偶然と見るか?事象は、見方で、変わってしまう。
2632. 桜の歌と恋の歌ばかり詠んできた西行も、六道を詠み、釈教歌を詠み、最後には、歌が、真言になってしまった。
2633. 極小の素粒子の果てへ、極大の宇宙の果てへと行っても、そこには、ニンゲンがいない!!ニンゲンは、どうやら、中間的な存在である。ちょうど、ニンゲンそっくりのニンゲン。
2634. 死を嫌悪し、遠去けながら、死に魅了され、招き入れる、ニンゲンである。
2635. もう、コトバとは、おさらばだとコトバで語ってしまう、ニンゲンである。
2636. 内的に在る力だけが、生きる力として現れる。
2637. ○○という時代があったのではなくて、○○という時代を発見した、で、コトバで、再編してみた。
2638. 事実は、決して、絶対ではない。過去の○○という時代を考えなくても○○という現在という時代の事実を考えるだけで、充分だ。
2639. モノとコトの(事実)は、一人一人に対して、ちがう貌を見せるではないか。
2640. 生きているニンゲンは、無数の死角がある。(事実)も、非連続的な漂流物にすぎない。
2641. 宇宙の、時空のグレート・マザーとは何か?生命の、たったひとつの、グレート・マザーの種子とは何か?根源的な問いは、このふたつしかない。
2642. 宇宙のファースト・スターを創りあげたものは、時空の種子であろう。
2643. なるほど、「動物たちには歴史がない」と人は言うが、正確には、ニンゲンが、コトバでそう考えているのだ。しかし、コトバを持たぬ動物も、未来を考えぬ訳ではない。本能としての細胞が、遺伝子が、未来へと、子孫という分身を残すのだ。それが動物たちの考え方である。
2644. 隠せば隠すほど、顕れてしまう華もあれば、告白しても告白しても顕れぬ種子がある。
2645. (~から生れてくる)という現象が、思考を規定している。頑固なまでに。強烈に。(母から生れてくる)と。決して、(母を生む)とは言わない。
2646. 意味がある、のではなくて、意味を生むコトバである。
2647. (~から)は(~まで)を決定している。(~から)と言った時、人は、決定の外へは出れない。生れてから、死ぬまで、と。
2648. 現実を(現実)と書くのは、(現実)というものが、モノそれ自体の複雑さ、多様性を含んでいるからだ。
2649. 事実をいくら、厳密に、拾い集めても、決して(現実)は、わからない。
2650. 語りは、単に、ひとつの象徴であって、隠喩以外の何ものでもない。
2651. 誰でも、自分の生が、今、最低点にいると思える、辛い時期がある。一番の思想が育っている時に。
2652. 無意識に隠されたものを、記憶の底に隠されたものを、思考の外に隠されたものを、存在の彼方に隠されたものを、暴露するアフォリズムであらねばならない。当然、コトバの外へと隠されたものをコトバで表現することは不可能だが・・・
2653 コトバの余白に書く。いや、余白を読む。白紙も語るということだ。
2654. 沈黙も、また、コトバである。いや、コトバが反転をしたコトバである。
2655. ディオニコソスとアポロン。ロゴス中心主義からの脱出。ニーチェは、いつも、事象から疾走する。で、ダブル・バイントに陥って、深淵へと落下する。
2656. 大別すると、ニンゲンの考え方は三つになる。
①(神)的なもののもとに、一切が存在する(当然ニンゲンも)。
②一切の存在は、ニンゲンが感じて、考えて、想像・幻想する(宇宙)である。
③(無)から、虚時間から、時間と空間が爆発をして、原子たちが誕生し、時空を疾走し、137億年の進化の道をたどっている。単細胞が37億年かけて、ニンゲンに至った、と。
①②③どの立場に立つかで、ニンゲンの生きる意味、人生観はまったくちがったものになる。さて、あなたは、どの立場に立って生きているか?
2657. ニンゲンは、生き死にを考える。森羅万象を意味付けをする。宇宙は、一切、考えない。ただ、存在する。その一歩の距離が無限である。
2658. 超球宇宙に、原理、法則を求めるのは、ニンゲンである。宇宙はくしゃみすらしない。
2659. 存在がくるりと非在になる時、ニンゲンの眼には見えないが、透明な門が確かにある。
2660. 穴だらけのニンゲン、穴だらけの細胞、穴だらけの原子、内なる空間が形となる不思議。
2661. 時間にも、穴があけば、いったい何が起こるのだろう?
2662. (1+1=2)の世界は、コンピューターに任せておこうか。(1+1=2)の外側へと超出する世界に、ニンゲンは生きているから。
2663. 正しく考えることも出来るが、誤って考えることも出来るニンゲンである。
2664. 子育てには限度がない。百点満点がないからだ。生きるのも、結局、同じことだ。(私)を育てるのも限度がない。
2665. 父の墓の、背景に、山の斜面に、堂々とした、山ツツジの大木があって、その花の色、妙に、気になって、仕方がない。呼んでいるのか?
2666. 今日は、時空も、眩暈している。
2667. 生きるは、殺すである。ニンゲンは、毎日毎日、その大原則に従って、生きている。
2668. ニンゲンは、日々を生きるための、「食事」を、殺すことを、本能のせいにして、通り過すことが出来るだろうか?
2669. 不条理を生きている、(食べる=殺す)を考えることは、無・意味である−では、済ませられない。
2670. 支えきれぬものを、ニンゲンを破壊してしまうものを、(夢)の領域に、無・意識に、押し出して、(私)だけが、安全地帯にいる、そんな便利な構造に、ココロは納得をしていない。
2671. 身体に反逆する。身体も反逆する。ココロが乱れるわけだ。
2672. 長く生き延びる者は、よく殺した者である。
2673. 儀式は、なぜ、必要なのか?人間にとって。食べるからである。生きるものたちを。血を流したのは、捕らえられた生きものと人間である。
2674. 生きものを食べるニンゲンは、宗教的にならざるを得ない。血を流すから。食事の前の、いただきますは、お祈りの儀礼である。
2675. 食事をすると、もう、罪の意識が発生する、ニンゲンである。生命を食べるから。
2676. 生きているものも、死んでいるものも、食べてしまう、ニンゲンである。その時の、自分の顔は、見なくても、充分に、わかっている。
2677. ニンゲンには、まだまだ開発すべき能力が無限にある。その時代の常識や知に、縛られすぎである。ニンゲンの蔵には、無尽蔵の(力)があるのに。
2678. 眼に見えぬものは信じられぬと言いながら、原子や素粒子やヒッグス粒子は、なるほど、と信じてしまう。科学の(知)の証明だからと。
2679. 眼に見えぬ仏や大日如来は、どうであろうか?浄土や天国は、信じられぬか?眼に見えぬから?証明するものがないという理由で?
2680. 横超すると、高次の次元に、浄土がある、と。大日如来の存在が、見えると。
2681. 証明できぬものは、信じられぬか?10の500乗個もあるという、ホーキング博士の、宇宙も、信じられぬか?
2682. 昔の人は、昔の人風に、見えぬものをも信じた。現代人は、もう、そのような、信じ方を持てぬだけだ。否定はできまい。
2683. 十一次元の時空を、異次元を、見えぬからと言って、否定も出来まい。
2684. 毎秒、おびただしい、ニュートリノが(私)の身体を、通りぬけている。眼には見えぬが。真空もエネルギー場だ。
2685. 身体を、あらゆる物事を、貫通するものの存在を、知ってしまった、ニンゲンであるのに、まだ、眼に見えぬ、”神秘な存在”を、信じられぬか?
2686. 無から有が発生すると、数学者は、物理学者は、証明をした。それでも、日常の、生活では、無から有は発生しないと、考えて、生きている。なぜか?
2687. (眼)という機能に、(脳)という機能に、ニンゲンは、捉われすぎている。
2688. ある日、「石」が石を超えたものになる。「火」が火を超えたものになる。「水」が水を超えたものになる。突然、モノの見方が変わってしまう。そんな瞬間が、日が、ターニング・ポイントがあるものだ。
2689. (死)は、垂直に、時間を跳ぶ。
2690. 歩いて、生きる。歩いて、死ぬ。歩いて、再生する。
2691. 俗が聖に。辺地が中心に。変化と遍在は、モノとコトの常だ。
2692. 風景の暗号を解くと、次元がひとつあがって、桜の花も、真言になる。
2693. 宗教も、また、ニンゲンの可能性への挑戦の形式であろうか?
2694. 存在にカミを見る人、非在にカミを見る人、見るという(眼の力)を超えてしまう人。
2695. 考えるというスタイルが終わってしまう。
2696. 突然異変は、誤算ではない。(私)は他者だーの実践である。
2697. 来たものが音になる(モーツァルト)。来たものがコトバになる(ニーチェ)。不思議だ。来たものは、同じものであるのに。
2698. 毎日、毎日歩いている、桜、桜、と。まるで、桜守の西行である。
2699. 歩行(小説)と舞踊(詩)と跳躍(アフォリズム)の日々が続いている。
2700. 古代の廃墟に、ニンゲンの歴史を見るよりも、ニンゲンの身体に、古代の種子を見る。
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• 月曜日, 4月 01st, 2013
「間」と「黄昏」の文体が描きあげた人生のかたち

父と母と昭和への鎮魂の書である。
詩と散文が結婚した小説である。
「間」と「黄昏」の文体である。小説にとって、文体は生命である。黒田は、千年前の王朝文学(ひらがな文『枕草子』『源氏物語』)を、現代に甦えらせた。幽玄と寂の世界である。

死者と生者の間に、喪われた過去と現在の間に、夢と現の間に、昼と夜の間に、人と他人の間に、モノとモノの間に、たゆたい、ゆっくりと吹きぬけていく、透明な風がある。草の色が、部屋の匂いが、家具の形が、庭の木々が、あらゆるものが、溶けあって、解き放たれて、共振れし、「風の文体」の中に顕現する様は、軽い眩暈となって、一切の境界を消し去ってしまった。(漢字は名詞、ひらがなは、漢字と漢字の間にある。つなぐもの)

記憶も定かでない、死とは何かもわからない、幼い頃に、母を亡くし、三十八年して、父を亡くし、一人娘は、二十年で八か所も、住居を変え、食べるためのしごとを、八しゅるいも変えて、ほんらいのしごと(小説を書くこと)を続けて、生きている。戦前から戦後へ、昭和という時代の空気を吸って、いくつかの恋をしながら、一人で、生きている。記憶の暗箱から、不意に立ち現れる、生の断片がきらめき、夢の断片が浮かびあがり、昼でもない、夜でもない、黄昏の文体は、寂の中に生きる、人生のかたちを、描きあげた。

主人公の名前がない、父と母の名前がない、地名がない、固有名詞がない、モノの名前がない、会話がない、夢、現実、現在、過去の境界がない、何時も読んでいる小説の、日本の文章がない、ないないづくしの小説である。漢字がひらがなになっている。センテンスが長い、長い文章は、十六行にも及ぶ。まるで一筆書きの絵である。

むつかしい、わからない、たった百枚(?)の短篇なのに、何度か挑戦したが、中断して投げだしてしまうという声が、あちこちであがっている。なぜか?漢字ひらがな混りの、日本文に、眼と頭が慣れてしまっているのだ。

「abさんご」は眼で読む小説ではない。声で読む小説である。黙って、ひらながを眼で追って、頭の中で、声を出して、読む。必ず、最後まで、読み通すことが出来る。意味は、声の中にあって、何度か読めば、自然にわかってくる。(英語と同じ)

名前や名詞を使わない理由は、黒田が二十六歳の頃に書いた「タミエの花」に隠されている。タミエは、花の本当の名前を求めたのだ。もの自体の名前を探しているのだ。つまり、世間が、他人が、使っているコトバでは、本当の名前は呼べないのだ。まだ、名前のないものに、タミエの、固有の名前を付けたいのだ。黒田は、この作業を、五十年、続けることになる。

孔子は、「論語」で、「正名論」を語っている。弟子の子路に、乱れた国を治めるために、何が必要かと問われて、コトバを正しく使うことだと答えた。そのコトバとは、社会に流通する、誰もに、共通するものの謂である。黒田の求めたコトバは、それではない。マラルメが求めた、「絶対言語」である。虚無の底から、狂気の一歩、手前で、探しあてた「賽の一振り」である。

漢字には、字義と字相がある。意味だけを求めるなら、白川静の「辞通、辞訓、辞統」を調べればよい。黒田は、五十年かけて、「タミエの花」の名前を発見した。花の名前は「abさんご」であった。

黒田の小説の系譜。①泉鏡花「草迷宮」②中勘助「銀の匙」③小田仁二郎「触手」④谷崎潤一郎「鍵」⑤石川淳「白猫」⑥折口信夫「死者の書」⑦古井由吉「仮往生伝試文」

五十年、百年、生き残る、文体が生命の、作家、作品である。もう封印した母の名前が呼べるよ!!黒田さん。

(2月6日記)

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• 金曜日, 3月 08th, 2013

「がんばれ、日本、がんばれ日本」

???

TVで連日放送されたコマーシャルである
サッカーの応援ではない
3-11の、東北へのメッセージである
ちがう、ちがう、ソレはちがう
瞬間、心痛が走った 耳が拒絶をした
不愉快、不快、怒りが来た

ウツ病患者に、がんばれと言うか? 言うまい
アウシュヴィツの、ホロコーストの、死者たちに、被害者たちに、がんばれ、ユダヤ人と言うか? 言うまい
ヒロシマの、ナガサキの、死者たちに、被爆者たちに、がんばれ、ヒロシマ、がんばれナガサキと言うか? 言うまい
3-11の死者たちに、被災者たちに、がんばれ、日本、がんばれ、東北と言うな!!

声は言霊である。
コトバは、記号でも、道具でもない
明呪であり、殺呪である
死者は二度死ぬ
生きられる人をも殺してしまう

ただちに人体に影響はありません(政治家)
二重、三重にガードされているので、メルトダウンはありません(科学者)
小さな魚だけで、大きな魚は汚染されません、大丈夫です、汚染水は、流されて、薄められて、拡散されます(生物学者)

コトバは兇器だ、いや、乱れたコトバは、信を崩し、安心を奪い、国を滅亡させる
コトに、モノに、コトバを正しくあてがえと孔子は言った。
今、21世紀の「正名論」が希求される。

※「正名論」 孔子は、弟子の子路に「先生、国の秩序の乱れを正すためには、どうすればいいのでしょうか」と問われて「コトバを正しく使うことだ」と答えた。

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• 火曜日, 2月 19th, 2013

人間が、生きている限り、苦しみ、悲しみ、痛みはなくならない。(生・老・病・死)の四苦からの超越を説いた、釈尊の言葉は、人間が(生きる−死ぬ)というコンセプトを、存在の条件とする限りにおいて、(真実)であろう。

科学、医学、経済、文明の発達も、四苦を減らすことはあっても、完全に、なくすことは出来ない。

宗教が、21世紀になっても、その存在理由がなくならないのは、苦の世界を救うというところにあるのだろう。

3.11東日本大震災(原発事故)は、生きる人間の根源を揺さぶって、問い直しを求める、天災、人災であった。

日本人はもちろん、世界中の人々が、(生きる−死ぬ)という人間の、悲しいコンセプトに、思いを馳せた、日々であった。

「安全・安心」というコトバが死んだ。科学者、政治家、知識人、文学者のコトバが、死んで、役に立たない。

死者にあてがうコトバがない。被災者のコトバを受け入れる、いい耳がない。

いったい、宗教者は、現在、どんなコトバを発しているのだろう?何を、実践しているのだろう?

ある日、突然、空海さんのコトバを読みたくなった、空海さんの声に耳を傾けたくなった。秘められた教えと実践の道があるはずだ。

初めて、高野山を参詣した。五月の、薫風が吹き、山桜の名残があって、新緑が芽を出しはじめた季節であった。

山上の宗教都市であった。千二百余年の、歴史を刻む、高野山を、時空を越えて、歩いてみた。

僧になる為の、僧の、修学、実践の、根本道場である。京の俗と高野の聖と、政治、宗教、学問、社会実践、教育、芸術と、日本の誇る天才の名にふさわしい、空海が行き来し、歩き、三密修行を実践した地である。

高野山の歴史を展望するためには、幾多の課題を追ってみなければならない。

宗教と政治権力(天皇・貴族・武士)宗教と経済(荘園、寺田)宗教と学問(中国、インドの歴史)入定信仰(奥の院)弘法大師信仰、檀家制度、宗教抗争(浄土真宗)分派抗争(御室派、根来派)神仏混淆(神道)高野山信仰(浄土観)(聖地化)(曼荼羅)四国遍路(高野聖)そして、明治時代の神仏分離と廃仏毀釈。

空海に、鎮護国家を求める天皇から、弘法大師の教えを、全国行脚して唱教する、高野聖まで、高野山を、支え続けた人々に限りがない。

①政治権力と宗教
聖徳太子と豪族の蘇我氏は、仏教の導入に力を尽くした。
空海は、唐から、帰国して、嵯峨天皇に、唐の詩書、梵字書、古人の筆蹟を、淳和帝には、唐製の狸毛の筆を献上している。三筆と呼ばれた、能書家の嵯峨天皇は、空海のよき理解者、支援者であった。空海は、高雄山寺から、東寺を、そして、高野山に、根本道場を開く、赦しを得ることになる。

「上求菩提・下化衆生」、天皇とも庶民とも共に歩む「済世利民」の空海の思想が、実によく出ている。聖地、高野山では、密教・真言宗の三密・実践修行をして、俗地、京の街では、天皇、貴族とも、仏教、密教を語らうという、柔軟な姿勢である。

『源氏物語』を書いた紫式部のスポンサーでもあり、光源氏のモデルとも言われている、関白・藤原道長と藤原頼道も(摂関)高野山への参詣、寄進等、支援を惜しまなかった。

道長の参詣と頼道の登山は、後に、摂関家や上皇たちの参詣を促し、地方豪族たちの、高野山への関心を高め、荘園、寺田の寄進はもとより、寺院の建立、修復と、全国への、真言宗の普及に、大きな役割を果たした。

政治権力と宗教権力の二人三脚の好例である。

その一方で、戦国時代、下克上の世になると、宗教は、武士の政治権力と正面衝突をする。信長の比叡山焼き打ち、秀吉の、根来の焼き打ち、真宗(浄土)の連如が武装化した、一向一揆、そして、武力を用いず、法をもって、宗教に対した、徳川幕府の、キリシタン禁の条例、寺院諸法度の、壇那寺、檀家制度の導入、明治政府の、天皇を中心とする体制から来た、神仏分離令、廃仏毀釈と、政治と宗教の問題は、現代に至っても、世界中で解決に至らず、戦争、紛争が続いている。

幸いにも、日本では、政教分離の、政策がとられているが。

②教学の伝承と宗門、宗派の対立
鴨長明の『方丈記』に依ると、源平の合戦で、武家政権が誕生した後も、王権と武士の二大権力の戦い、武士同志の戦いが尽きず、その上に、大火事、大風、大地震、大津波、疫病、飢饉で、人々は、この世を、地獄である、と、虚無、無常観、末法思想が人心を染めあげていた。

地の底から、庶民、武士の間から、新仏教が噴出をした。この世が地獄なら、せめて、来世では、極楽浄土に往生したい、念仏を唱えるだけで(法然)弥陀の本願を信心するだけで(親鸞)、浄土に往生できるという、一宗一尊の、浄土宗、浄土真宗の出現である。あるいは、浄土などない、この世がすべてである、南無妙法蓮華経と唱えて、叫び続け、この現世を仏国土にする(日蓮)日蓮宗。そして、戦いが仕事である武士は、生死を日常として生きており、(無)の境地を求める、禅宗へと、精神統一を企った。

台蜜・天台宗は、教相、事相においても、純蜜・真言宗に遅れをとった。最澄と空海の密教理解の差であろう。

しかし、最澄の弟子、円仁は、入唐して、新たに、蘇悉地経を加え、円珍、安然と、天台宗を、法華・華厳、念仏、止観を中心とする綜合的仏教へと発展させた。

その天台宗から、鎌倉新仏教の教祖たち、法然、親鸞、日蓮、道元が輩出された。

一方で、真言宗は、空海の十代弟子たちが健闘するも、新しいものを生み出すこともなく、暗黒の時代が続いた。

口舌の徒の新仏教に対して、密教は、口伝・面授、師資相承の、秘められた仏教である。

密教は、浄土をよく考えてこなかった。なにしろ、「即身成仏」である。

荒廃した、高野山を救ったのは、真言宗の中興の祖、覚鑁・興教大師であった。

高野山に、伝法院を建立。根来に、神宮寺(後の根来寺)を建立。密教院の完成。

教学の再興、事相の振興。何よりも、密教と念仏を融合させて、真言念仏とした。唱える仏教の流行に、敏であった。また、高野山の金剛峯寺の座主を、東寺の座主から切り離した。高野山は、東寺の末寺であった。

しかし、覚鑁は、後に、千三百人の弟子を連ねて、高野山を降り、根来派(新義派)を結成することになる。

③お寺という学校の力
空海は、誰もが、平等に学べる学校『綜芸種智院』を創設した。貴族、豪族の子弟しか学べない大学、国学しかない時代である。千年早い、理想の学校であった。

寺院は、僧になる為の教学、修行、学問と実践の場である。キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルは、高野山を、日本の六大大学として、考えている。三千五百人の学生がいる、大学の町である。

中世から近世にかけて、貴族、武士、庶民と、学問、教育の必要が高まっていく。

足利学校や金沢文庫、武士たちも、学問を身につけ、教養を高め、武士道を極めた。江戸時代には、武士たちの、藩校が出現し、庶民の為の、寺子屋が誕生した。読み、書き、そろばんは、商いの栄えた江戸には、必要不可欠なものであった。商家の娘の嫁入りの道具に、兼好の『徒然草』が流行った時代である。

京、大阪、江戸で、木版印刷が盛んになった。寺子屋の教科書、往来物は、その種類が四千冊を越えた。江戸の識字率は、当時、世界一であった。高野山でも、木版印刷の技術が導入された。写本をした、本を製作できなかった時代が、長く続いたが、近世は、印刷の技術を得ることで、大量の「本」の出版を可能にした。役者絵、瓦版、教科書、経典、養生訓、出版事業は、知識の伝達を、一気に全国へと拡大した。その中心に、僧がいて、お寺があった。

④高野聖の力
僧にも、階級、階位がある。検校、阿闍梨、山籠、入寺、三昧、久住者、衆分(鎌倉時代−金剛峯寺の例)

僧は、大別して、学侶、行人、聖となる。仏教、密教の研究をする、実践をする、学侶。供花、点灯、寺の管理に従事する、行人。そして、全国を行脚して、密教、真言を唱導する聖。勧進は、大きな目的のひとつである。しかし、高野山を、入定信仰を、(弘法大師は現在でも、奥の院に生きていて、我々衆生を救ってくれる。何しろ、弥勒菩薩が下生して、人間を救ってくれるまで、五十六億七千万年もあるのだ)大師信仰を拡めたのは、高野聖である。三密行は知らずとも、四国八十八ヶ所を巡礼すれば、お大師さんに会える、遍路も、高野聖と同じ、歩く信仰である。

南無大師遍照金剛の中に、空海はいる。

高野山が、浄土になり、八葉の曼荼羅になり、聖地と化した、その底辺には、名もない高野聖たちの精進があったことは、まちがいないだろう。文化は交通でもあるから。

(高野山大学大学院レポート)

政治と宗教の問題は、古くて新しい。政治権力のめざすものと、宗教のめざすものが、(法、教義)あるいは、世界観、宇宙観が異なる為である。抗争、紛争、戦争と、宗教と政治は、東西古今で、衝突してきた。

しかし、宗教が国家権力と二人三脚で歩む場合もあった。願護国家という役割を負って。

空海は、聖と俗を、見事に使いわけた。空海の入定後も、天皇、皇族、貴族(藤原家)武士(平家、源氏)に支えられた、高野山である。(ただし、秀吉には攻められている。)

橋を架け、井戸を掘り、道路を整備し、貧しい人、病者たちに、宿や小屋を作ってあげ、お金やお米をあげるなどの、慈善事業、福祉事業に精を出し、全国を遊行して、勧進をして、信仰をひろめた、無名の高野聖たちの存在も、大きな力となって、高野山を支えてきた。

現在では、政教分離政策がとられている日本である。

しかし、世界各地で、宗教と政治の対立、宗派の対立、紛争が、民族紛争の原因ともなっている、事実がある。

21世紀は、共生、共存の世界が実現される時代であってほしいものだ。

曼荼羅の思想、コスモロジーが、役に立つ時代であるかもしれない。

何時、地表に立っている人間は、宇宙的観点を確立できるのだろうか?

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• 火曜日, 2月 19th, 2013

「日本で、天才といえば”空海”でしょう。」
日本人初のノーベル賞を受賞した、物理学者、湯川秀樹の言葉である。

高野山は、空海が、真言密教の、根本道場として開いた寺院であり、宗教都市である。

完璧と思える、密教思想の構築はもちろん、満濃ヶ池の土木工事、自由平等を旨とした、綜芸種智院という学校の設立、梵字悉雲と辞典の編集、芸術としての書、自心の源底にまで至った、言語の天才、その詩心、天皇から衆生に至るまで、幅の広い交流、空海は、正に、天才の名にふさわしい、人物である。その死後も、弘法大師として、千年にわたる時空を超えて、人々の心の中を歩いている。

空海・弘法大師・そして、高野山は、分野を超えた(文化)として、日本全国に、今も深く、根付いている。

とても、一人の人間が為し得た、仕事・事業とは思えない、空海の業績である。今回は文学という文化に限定して、高野山、空海、弘法大師をめぐる思想を表出した、文学作品を、考察してみようと思う。

西行(1118~1190)『山家集』

ねがはくは花のしたにて春死なむ
そのきさらぎの望月の頃(春歌)

歌聖と呼ばれる西行ほど、花(桜)の歌を多く歌った人はいまい。桜が恋人である。歌は、桜へのラブ・レターである。

西行・本名は佐藤義清。僧名は円位。西行は号である。白河天皇の時代、院の警固をする北面の武士であった。藤原の血を引く家系。

二十三歳で、突然、出家する。理由は不明。

惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは
身を捨ててこそ身をも助けめ

出家。遁世時の覚悟の歌である。武士を捨て、妻子を捨て、家を捨て、仏門に入ることが、自らを救うことになる、心境の歌だ。

東北行脚の後、三十二歳頃から、西行は、高野山に、庵を構えて、約三十年余り棲んでいる。仏門での毎日の修行かと思うと、そうではない。吉野へ、京へ、熊野へ、四国へ、九州へと、旅をしては、歌を詠んでいる。神護寺の文覚に、仏門に専念しないで、数奇心で、歌ばかり詠んでいる、とんでもない僧だと非難される。しかし、実際に会ってみると、好人物で、人間としての品位、教養があって叱れない、というエピソードがある。

『山家集』には、恋の歌、花(桜)の歌が、圧倒的に多い。その中には、高野を詠んだ歌、高野から、友、知人に送った歌もある。

僧であるから、当然、「釋教歌」もある。地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天と六道を読んだ歌もある。

また「聞書宗」の中に、「地獄絵を見て」として

見るも憂しいかにすべき我心
かかる報いの罪やありける

『万葉集』は、万葉仮名で書かれた、風景や心情を、直接的に読んだ歌であるが、『古今集』から『新古今集』の時代になると、幽玄有心を、技巧を、喩を重んじた、(知)的な歌の姿へと変わっていく。その中で、西行は、只一人、自然に、感情のあふれるままに、あるいは、考えるままに、歌を詠んだ。藤原俊成、定家の歌と比べてみると、喩に頼らない分だけ、力強い。純粋で、行動的で、感情的で、僧と歌人の間で、揺れ、悩み、そして、歌に「寂」の気配が、漂っている。

三夕の歌、寂蓮法師、藤原定家、そして、西行の歌を比べてみると、実に、よく、理解できる。

心なき身にもあはれは知られけり
鴫立つ沢の秋の夕暮

恋の歌、花(桜)の歌から、離別歌、哀傷歌、釋教歌、聞書集と進んでくると、西行の歌にも、仏教の、密教の色彩が滲み出てくる。

明恵上人の伝記に、西行の歌論が記されている。かつては、数奇者で、「虚空如ナル心」で歌を詠んでいたが、今は、詠む歌は、真言で、和歌は如来の真の形体であって、歌によって、悟りを得た、と。気性の激しさと純粋とが入り混じった心をもっていた西行も、武士の剛気と歌人の寂と僧の悟りへと、足を踏み入れて、河内国、葛城山の麓、弘川寺にて、寂した。七十三年の人生であった。

風になびく富士の煙の空にきえて
行くゑも知らぬわが思ひかな

空海、高野山、遍路をめぐる、小説。
名作、四作を選ぶなら、迷わず①泉鏡花『高野聖』②田宮虎彦『足摺岬』③井伏鱒二『へんろ宿』④司馬遼太郎『空海の風景』を挙げる。

『空海の風景』(上・下巻)は、幕末の士々たちを描いて、国民的作家となった、司馬遼太郎が、構想十年、三年の月日をかけて、執筆した、司馬文学の金字塔である。空海の眠っている奥の院へ足を運ぶ度に、参道の右手に立っている、高野山を描いた、司馬の一文が、碑となっている姿に眼を止める。仏教(密教)に無縁の人、空海を知らぬ人、どれだけ多くの人々が、司馬遼太郎の「空海の風景」を読んで眼を開かれたことかと感嘆する。

司馬は、空海の誕生の地、屏風ヶ浦から、入定する高野山まで、空海の足跡を追って、すべてのゆかりの地を、歩いている。空海の著作はもちろん、研究書、関係資料を、数百冊読破している。そして、密教の研究者、僧たちに、疑問のすべてを問い糺している。新聞記者の手法である。いかにも、記者出身である、司馬のスタイルだ。そして、自らの考え、感想を呟く。それが司馬史観と呼ばれている。

司馬は、神的な視点に立って語る。人間・空海の実像に迫るために。もちろん、司馬は、宗教・仏教・密教は、語るものではなく、信仰し、実践するものであると知悉している。だから、真言宗の、経典の核には踏み込まない。密教の、専門家、僧たちの批判も、承知の上である。だから、空海の残したもの、歩いた場所に、「空海の姿」を発見するのだ。ゆえに「空海の風景」である。仏教用語を、極力排した、大衆が読める「空海」である。

泉鏡花(明治六年~昭和十四年)は、幻想的な、迷宮を描く、特異な作家であり、『高野聖』は、彼の出世作・代表作である。旅の途上で出会った、高野聖に、その体験談を聴くというスタイルの小説である。深山幽谷で妖しい美女、白痴の子、怪物や血を吸う蛭に会う話である。全国を行脚して、真言を唱導し、各地の面白い、奇妙な咄を、語り歩く、高野聖の姿が、リアルに浮かびあがってくる名作である。

鏡花は、文体を生命とした作家である。物語の概説では、鏡花の小説は、わからない。後に、三島由紀夫、川端康成が絶賛した、鏡花の文体である。一行一行読みながら、主人公と作家と共に歩く。その時、読むがそのまま生きるになる。文体だけが、時代を超えてその内包する思想を伝える器である。

『足摺岬』は、田宮虎彦の代表作・短篇である。田宮は、魂の彷徨を描く作家である。暗い情念、宿命、貧、病が主題である。苦悩する作家とも呼べる。

物語は、青春の悩悶をかかえた男が、四国八十八ヶ所の、三十八番札所金剛福寺を訪れるところから始まる。自殺を企てようとする青年である。足摺岬は、断崖絶壁がある自殺の名所と呼ばれている。遍路宿で、さまざまな宿命を背負った遍路の話を聞き、魂が浄化されていく。宿の娘に、遍路たちに、生命を救われる。そして、戦後、ふたたび、足摺岬を訪れる。貧乏で、生命の恩人の妻を死なせ、後悔と失意の人生である。四国八十八ヶ所が魂の復活と再生の場である。田宮本人は自殺。

『へんろ宿』は、掌篇小説ではあるが、井伏鱒二の名作のひとつである。土佐の、旅先での、「へんろ宿」の一日を、描いている。何処から来て、棲みついたのか、誰の子供かわらない小学生、冷えたセンベイ蒲団、辺境の、遍路たちの、奇妙な生態を、冷静な筆で書き切っている。

遍路・空海との同行二人の、四国八十八ヶ所巡礼も、現在では、ひとつの、文化として定着をした。宗派、人種、信仰の有無を問わぬ四国遍路は、江戸時代から、平成まで、脈々と受け継がれて、伝統文化の域に達している。

紀行文、手記、インターネットの感想など夥しい情報が発信されている。

『娘巡礼記』高群逸枝著は、近代、現代の、第一号であろう。大正七年、熊本の家を出て、仕事を中断し、新しい何かを求めて、二十四歳の娘が、四国遍路に挑戦する。その手記が、地元の新聞に、掲載されて、大きな評判を呼んだ。当時は、橋も、道路も、整備されていない時代である。四国の古道、街道を歩いて廻る一人旅である。遍路たちとの邂逅、地元の生活者との出会い、風雨との戦いと、涙と汗が光る、紀行文学である。

月岡祐記子『平成娘巡礼記』は、高群の現代版である。平成の若い娘の感性が瑞々しい。

『四国遍路』辰濃利男著は、長年、新聞記者として取材し、自らも、遍路として歩いた体験を、知的に、総合的に、分析、現代遍路のお手本となるテキスト。

『マンダラ紀行』は、「月山」で芥川賞を受賞した、作家、森敦が、四国八十八ヶ所と曼荼羅の秘密を、メビウスの輪の理論を用いて、分析、解読している。直木賞作家・私小説家の、車谷長吉の『四国八十八ヶ所感情巡礼』は、妻と二人の道中記である。

(高野山大学大学院レポート)

「平家物語」「方丈記」「徒然草」「山家集」「源氏物語」と、日本文学の核となるべき、歴史物語、評論集、小説も、すべて、「仏教」なしには成立しない作品である。

漢字が中国から日本にもたらされた時、日本には、文字がなかった。話し言葉の、和語があっただけである。漢字とともに伝来した仏教は、中国の史書五経とともに、学問に欠かせぬ存在であった。

漢字ひらがな混りの、日本文が成立した後にも、仏教用語は、しっかりと、漢字の意味に寄り添って、思想と化している。日本人の風土に、感性に溶け込んでいるのだ。

空海は、真言宗の開祖である。その一方で、書は、三筆の一人であり、サンスクリット語の修学、辞典の編集、小説風な劇曲も書き(三教指帰)詩心にあふれた、手紙や文章を残している。いわば、総合的な芸術家でもあった。(性霊集)

空海をめぐって、遍路、高野聖をめぐって、研究や論文はおびただしい。

語学の天才、詩人、書家、作家と、多面的な空海である。

で、空海のゆかりの地(神護寺、東寺、高野山、室戸岬、善通寺等々)をめぐって、巡礼して、書かれた、文学作品も限りがない。

泉鏡花、司馬遼太郎、井伏鱒二、田宮虎彦と、一流の作家たちが、それぞれの、空海や遍路や高野聖を、作品化している。

「仏教」と「文学」は、読めば読み解くほどに、深い縁で、結ばれている。

現在では、外国人や、宗教に無縁と思われた若者たちまでが、四国八十八ヶ所巡礼の旅に出て、その感想や日記が、インターネットで、ブログとして、流れている。おそらく、気が付くと、空海の思想に触れているのだ。

自然に、自らの姿を最確認して、マンダラの宇宙へと、入っているのだろう。

(宗教)と(文学)は、また、永遠のテーマでもある。