Archive for the Category ◊ 作品 ◊
2851. (私)が無限に手を振ると、100億光年の彼方では、ひとつの銀河が大爆発をする。(宇宙的バタフライ効果)なんの不思議があるものか!!東京で一匹の蝶が羽撃くとニューヨークでは大嵐だ(地球的バタフライ効果)
2852. ヒトは、ただの赤ん坊として生れてくる。そして、ただの老人として死んでいく。さて、いったい、何があったのか?諸行無常。なんの不思議もない。
2853. 重いがなければ軽いもない。苦がなければ楽もない。形のある、なしをニンゲンのココロは超えてしまう。
2854. ニンゲンが、宇宙と呼んできたものが、たったひとつの無限の宇宙が、無限個の宇宙のひとつであったと言われても、誰が、どのように、信じるのだろうか?(カミの力でも足りない)
2855. ソレは(私)の身体だから、わかっている!!とんでもない。ソレは(私)が知っている以上のものである。だから、(私)とは、他者である。
2856. (私)を使い切れずに、死んでいくニンゲン。なぜ?銀河系に匹適する脳を持ちながら、ニンゲンは(私)という宇宙のほんの一部を使用して、自らの人生としているのか?
2857. あらゆる状況、あらゆる環境に遭遇してこそ、ニンゲンの全的能力は、発揮される。危機こそ、その瞬間である。
2858. 平々凡々に生きるのも良し。ただし、平々凡々の(私)の使い方で終る。
2859. ドストエフスキーの実人生と小説と、どちらが、異様であろうか?経験のレベルに創作は比例している。
2860. ココロに宇宙を入れる。どこまで広がるか?どこまで認識できるか?どこまで耐えられるか?
2861. 私の眩暈は、3・11の大地震の揺り戻しであろうか?1000日も経ったのに!!心も身体も、(私)という存在自体があの日から、揺れっぱなしである。
2862. (私)の頭にもココロにも入り切らなかった未曾有の揺れは、今も、あの日から時空を超えて、続いているのだ。
2863. 3・11の死者たち、被災者たちに、ココロを寄せた、心やさしき者たちは、ウツ状態から抜け出せないでいる。
2864. 病いも悲嘆も、共振する波である。虚へ、空へ、無へと落ち込んだニンゲンは、容易に回復できないでいる。3・11は、原発は、負の核である。
2865. たった5ヶ月間の、歩行困難で、自然の歩行が思い出せない。
2866. 12月の、椿の蕾と一緒に刻を歩こう。3月には、自然に、深紅の花が咲く、と。
2867. 風景と溶け込んで歩いていた。今は、硬直して、風景に弾かれて、歩いている。
2868. 共感、共鳴、共生の姿勢を取り戻して、自然とともに、歩く日よ、来い。
2869. 左に、右に、風景が傾くから、(私)も、同じように、傾いて、歩いている。ぐったりと疲れ、立ち止って、深呼吸。
2870. 眩暈は、原因不明の病気(?)を次から次へと連れてくる。やれやれ、である。
2871. おそらく、読めない、書けない、起てない、歩けないは、来たるべき(死)へのレッスンとなるだろう。病気や眩暈には、とことん付き合ってやれ。
2872. あなたは、芭蕉派か西鶴派か?旅に病んで夢は枯野を駆け巡る(人生を旅して漂泊の旅を続けたが、病気になっても、私の見果てぬ夢は、枯野を、今も駆け巡っている)この世の月見過ごしにけり末二年(人間人生50年といわれるが、もう二年も、余分に生きてしまったよ、そろそろ向こうへ逝ってもいいだろう)
2873. 病いの時には、病んでいる。病いの感情、病いの思考を呼吸している。
2874. 一切において、文句というものを言わない。与えられた環境を生き切った父であった。
2875. モノ書きは、誰でも、感応する繊細な神経・心性を持っている。いわば、傷つきやすい種族である。
2876. 思考の強靭な糸も、自らの心性によって紡ぎだされる。
2877. 直観、ひらめき、イメージが育って思想になる。無・意識から、コトバが産出されるのだ。
2878. 思考の糸は、意識とともに廻りはじめたら、絶対速度に達してしまう。止まらないのだ。
2879. なんの為の人生?生れてから、どんどん、順に追っていくと、結局、死ぬため、となる。(ニンゲンとして死ぬ、より良く死ぬ?)で(私)の死は、わからない、となっている。
2880. さて?はて?やれやれの人生である。
2881. 覚りの境地は、誰も語れない。(私)ではない。ニンゲンではない。生命ですらない。「人間原理」の一切がない。「宇宙原理」との合体である。その時、もう、もとのニンゲンには戻れない。だから、語れない。ニンゲンのコトバではなく、仏のコトバとなる。
2882. コトバから抜け出せた人は、瞑想の世界で、ただ、生きている。覚りも何も語らない。「空」にいるだけだ。
2883. (私)は、今、ここをなくせない。(私)の外部に立たなければ。で、ニンゲンには、できない。いつまでも、いま、ここの(私)を生き続けている。
2884. (生きる)がむずかしいのは、いつまでたっても、(今)(此処)を生きるしか術がない存在のニンゲンであるからだ。そして、(今)(此処)は、いつも、見知らぬ、新しいものである。
2885. (私)の外部に立って(私)を生きる。つまり、覚りとでもいうのだろうか?異次元に立って、生きる、可能か?
2886. (私)は(私)だという、自己同一性の証明は得られるのか?時間の尺度(幅)を変えて考えてみる。昨日の(私)、10年前の(私)、百年前の(私)、千年前の(私)、魚であった二億年前の(私)。・・・三七億年前の単細胞の(私)・・・。その時、(私)は、どのように存在していたのか?(存在していなかったのか?)(私)はいったい、何だったのか?
2887. 宇宙という巨大時計の中に(私)を置いてみる。生命の種子の爆発する姿が見える。
2888. 無数の生命の連鎖の上に咲いた花(私)。ニンゲン種と呼ばれている。
2889. 単細胞の夢は、とても、一人のニンゲンが考えられるレベルのものではない。無数の地球の生命の群れを視よ。
2890. (見る)には、いくつもの段階がある。ステップできる人は、次から次へと、新しい位相で、モノを見ることが可能だ。もちろん、異次元まで見えてしまう。超球宇宙も、(見る)だろう。
2891. 瞑想。あらゆるものがやってくる。見える。眼がなくても、モンが見える。それは、ココロの顕れであろうか?あるいは、幻想であろうか?それとも、本物であろうか?
2892. 思考、想いが熱をもって、実際の身体を、火傷させる。
2893. 輪廻転生して永遠に生きる、それは、いやだ、絶対に、死に切りたいと思う人は仏教へ。永遠の生命を求める人は、キリスト教へ。
2894. ニンゲンという種が続く限り、(私)は、死ぬことができない。(私)は、時空を超えて、遍在する。
2895. 単細胞から多細胞への飛翔。(個)から(群れ)への飛翔。何が、いったい、そうさせたのか?億年単位で、その闇を考える。
2896. もういいだろう、と思う人。まだもっと、と思う人。(生きる)の意味の考え方がちがうのだ。
2897. ニンゲンは、なんでも、科学しなければ気がすまぬ動物らしい。科学も、また、ニンゲンが発見したひとつの方法であるのに。
2898. 一度、会いましょうよ。特別な話がなくても、顔を見て、お互いの眼を見て、声を聴いているだけで和やかな時が流れる。
2899. とびっきりのものを求めなくても、そこらにあるもので、充分に、楽しみが生れる。苦が生れることもあるが。
2900. なぜ、ニンゲンは、(生)の現場では足りずに、(天国)とか(地獄)とか(極楽)とか(浄土)とかを、創造してしまったのか?(今、ここを生きると言いながら)
1. 「abさんご」(文藝春秋刊) 黒田夏子著
2. 「道元」(創元社刊) 大谷哲夫著
3. 「書評紙と共に歩んだ五〇年」(論創社刊) 井出彰著
4. 「ざまくるう」(文芸社刊) 羽島あゆ子著
5. 「草窓のかたち」詩集(思潮社刊) 鈴木東海子著
6. 「原始仏教」(ちくま学芸文庫刊) 中村元著
7. 「新古今和歌集」上・下巻(角川ソフィア文庫刊) 久保田淳訳注
8. 「世界宗教史」全8巻(ちくま学芸文庫刊) ミルチア・エリアーデ著
9. 「哲学の起源」(岩波書店刊) 柄谷行人著
10. 「盤上の夜」(東京創元社刊) 宮内悠介著
11. 「読むことのアレゴリー」(岩波書店刊) ポール・ド・マン著 土田知則訳
12. 「ポール・ド・マン」(岩波書店刊) 土田知則著
13. 「空海の「ことば」の世界」(東方出版刊) 村上保壽著
14. 「哲学とは何か」(河出文庫刊) ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ著
15. 「宗教と宗教の<あいだ>」(風媒社刊) 南山宗教文化研究所編
16. 「スピノザ」(平凡社刊) ジル・ドゥルーズ著
17. 「聖書考古学」(中公新書刊) 長谷川修一著
18. 「空海の智の構造」(東方出版刊) 村上保壽著
19. 「清沢満之集」(岩波文庫刊) 安冨信哉編
20. 「はじめたばかりの浄土真宗」(角川ソフィア文庫刊) 内田樹・釈徹宗共著
21. 「対象喪失」(中公新書刊) 小比木啓吾著
22. 「シシリー・リンダース」ホスピス運動の創始者(日本看護協会出版会刊) シャーリー・ドゥブレイ著
23. 「旅鞄」(角川書店刊) 遠藤若狭男句集
24. 「永遠の空腹」(コールサック社刊) 松木高直詩集
25. 「方丈記」(岩波文庫刊) 鴨長明
26. 「昭和三十年代演習」(岩波書店刊) 関川夏央著
27. 「徒然草」(岩波文庫刊) 吉田兼好著
今年の夏は、60余年生きてきた人生においても、記憶にないほどの、暑さであった。
夏の光と熱が、容赦なく、植物と動物に降り注いだ。
地球温暖化とは言え、真夏日が二ヶ月も続くと、食欲はもちろん、あらゆる生に対する意欲が落ちてしまう。
不眠の夜が続く。熱中症で死者まで出る。
いつもの、朝・夕の散歩まで中止してしまった。筋肉は衰え、ただ、室内で、読書の日々である。
『徒然草』『方丈記』『新古今和歌集』など、昔の人の、声や姿に想いを馳せる。
現代の、現実の、片がつかぬ、様々な問題から解き放たれて、中世に生きてみる。
7月下旬から6泊7日で、高野山大学大学院のスクーリングと熊野三山の旅に出た。熊野古道は、大木と石のある、坂道である。三山、特に、那智大社は、約600段もある石段を登って、降りるだけで、汗が吹き出し、途中で、何度も、立ち止まって、深呼吸をした。なぜ、古代から熊野か?と—考えながら。
真夏日の長旅は、身体にこたえた。帰って、3日目に、眩暈を起こした。
深夜、起ちあがろうとしたら、天井と床がぐるぐると廻った。手をついて、バランスをとるが、立ちあがれない。
そのまま、深夜、病院へ。幸いMRIを撮ったが、脳には異常がなかった。日を改めた、耳鼻科へ。眼が静止しない。勝手にぐるぐる動くのだ。風景が揺れる。歩けない。耳に耳石がある。耳石が三半規管に入ると、脳が異物に反応する。で、眩暈が生じる。
三半規管の故障ではないらしい。医者は、病名も言わず、眼や頭や身体を、よく動かすようにと言うだけだ。
1ヶ月、眩暈を止める薬を呑む。眩暈は、その後、起こらないが、歩く度に右に、左に、身体が揺れ、ふらふらする。
NHKで、”眩暈防止”の番組があった。
①枕を高くすること
②朝起きる時、右の耳を下にして10秒、上にして10秒、左の耳を下にして10秒数える。
家で出来る簡単なことだ。(医者いらず)
毎朝、実行する。薬がきいたのか、NHKの番組—の実戦が利いたのか、幸い、大きな眩暈は起きてない。
しかし、まだ、歩行はふらふらする。つくづく、人間は、心身で生きている動物であると感じ入った。
『abさんご』76歳、最高齢者の芥川賞、その文体、ひらがな文、登場人物、地名が一切ない、会話がない、横書き、夢と現が入り混じっている話題の小説であった。
「読書会」で、みなさんに読んでもらい、感想を聴いた。7~8割の人が、否定的だった。なぜ、このような、読みづらい文章で、書かなければならないのかというのが、その理由であった。
10年に1作品しか書かない。(なるほど、だから、この文章)同人雑誌で、頑張ってきた。”人生”を書くことに捧げた人の文章である。(書くこと=生きること=仕事)
私も、学生時代同人誌「あくた」を主催した。13号まで出した。約7年かけて。詩集を出した同人が3人、小説を出した同人が2人、評論を出した同人が1人、俳句集を出した同人が1人、総勢60人が参加した、昭和の、70年代の、「同人雑誌」盛んなりし頃の話である。
『ざまくるう』羽島あゆ子著も、長い間同人雑誌で、小説を書いている人らしい。プロと素人作家のちがいが、読みとれる作品である。
(主人公=私)の作品であるが、作品世界が現実の(私)=作者の介入で、惜しいかな、小説が濁ってしまっている。分裂している。文章は、ある域に達しているのだが・・・。
黒田夏子と羽島あゆ子の作品を、比較してみると、同じ同人誌を舞台にしてきた作家だが、<作品>に、全人生をかけている人と、そうでない人の、美学の差が見えてしまう。(人生を棒に振る覚悟)
キリスト教なら、田川建三、イスラム教なら井筒俊彦、仏教は?空海は?村上保壽の空海の考察に出合って、はじめて、「空海の研究者」のコトバに出合ったと感嘆した。
結局、研究+実践がなければ、空海の思想は、読み解けない。評論→存在論→宗教実践論へと「空海のことば」を探求した者に、はじめて、邂逅した。感謝。
ジル・ドゥルーズの諸作は、いつも、新しい概念の時空へと導いてくれる、21世紀の、最高の書である。
ポール・ド・マンの諸作を読む。
翻訳者が、そのまま、解説者になり、哲学者になる、土田知則は、ボール・ド・マンとともに歩いている人だ。
それにしても、日本人は、必ず、翻訳から身を起こして、(考える人)になる。日本人の、ひとつの、パターンであろう。
友人の書を読む。
井出彰は、書評新聞とともに、人生を歩んだ人である。同時に、小説家でもある。時代の証人としての、コトバが光っている。
遠藤若狭男(俳人)。
大学の同級生である。「あくた」同人である。教師をしながら、一生、俳句を詠んできた。胃ガン、肺ガンと、転移したガンとともに、生き、俳句を人生の友とした男である。母へ、父へ、故郷・若狭への思いが、絶唱となっている。
それにしても、異常な夏は、9月も半ばだというのに、まだ、30度超えが続いている。
晩夏と初秋が入り混じって、区別がつかぬ、妙な年である。
秋の虫は、恋人を求めて、鳴き続けている。人間は、植物同様、枯れて、青息吐息である。3・11以降原発は、片が付くということがない。コントロールできぬ!!
超球宇宙にとって、小さな、小さな、地球という惑星に、人間が生きているという現象には、いったい、どんな意味があるのだろうか?
21世紀に生きる人間の、死生観、世界観、宇宙観は、どうなっているのだろうか?
宗教・科学という、文化・文明を、数千年かけて築きあげてきた人間は、今、大きなターニングポイントに立っている。
特に、日本では、3・11の、大津波、大地震、原発事故で、人間の科学の(知)がまったく役に立たず、政治家のコトバ、学者のコトバ、知識人のコトバも、信ずるに足らぬ、愚かなものばかりであった。意識が、ゼロ・ポイントに落ちて、判断中止、頭が空っぽになるおそろしい事態が続いた。人間が終ってしまう、メルトダウンの恐怖であった。
宗教者たちは、どんな役割りを果たしたであろうか?一番必要とされたのは、宗教者のコトバであり、宗教者の行動ではなかったか。
何人の「空海」が、災難に会った人々のところへ、死者たちの残された現場へと、飛んでいったのか。
空海には、ふたつの貌がある。「六大・四曼・三密」を思想の核とする、真言宗の宗祖の貌であり、、貧しい人、困っている人々を救ける、お大師さん(弘法)という貌である。
五大に皆響きあり 十界に言語を具す 六塵に悉く文字あり 法身は是れ実相なり『声字実相義』
六大 無礙にして常に瑜伽なり(体)
四種曼荼 各離れず(相)
三密 加持して速疾に顕わる(用)
『即身成仏義』
空海は、「自心の源底」を覚知して、コトバを、言語論から、存在論へ、存在論から、信仰論へと歩を進めている。『十住心論』。『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』は、真言宗の根本経典である。
世界の三十カ国語を、自由に読み書きした言語哲学者、井筒俊彦は、(イスラム教『コーラン』の訳者)空海の真言を、東西古今の経典、名著を引用した上で、日本人が達した最高の、世界的コトバ・思想であると、分析している。共時的、言語の分節化は、他に類を見ない、異文化、異宗教間の、コミュニケーションの華である。『意識と本質』
「存在はコトバである」という井筒の認識は、存在論、言語論、記号論、宗教論が、コズミックな領域まで達した時、はじめて、異文化、異宗教、異言語の壁を越えて、成立する証しであろう。
原典、原語を読むことが、学問の始まりである—原理・原則を語っている。異文化、差異があってこそ、それを承認してからこそ、対話がはじまる。空海の思想も、多言語の中から起ちあがっている。
大日如来。法身が語る—という困難を、思想化した時、コトバを、体、相、用と、自心の源底で覚知した時、空海の世界・宇宙が確立された。
『古事記』(万葉仮名)『日本書紀』(漢文)『源氏物語』(漢字ひらがな文)は、神道、歴史、仏教の思想の源である。天(神)に捧げた神聖文字・漢字が、中国から伝来し、漢字ひらがな混り文という、独自の、日本文を創り出した。(空海が、いろは歌を作ったという俗説もある)
良くも悪しくも、私たち日本人の思想も、その、日本文の中にある。
日本人は、曖昧である。カミも仏もいる。あはれ、無常、わび、さび、粋、日本文とともに、美の感覚は、実に、繊略である。寛容である。
一神教の、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教との対話が、可能かどうか、空海や井筒のテキストに学ぶしかない。
戦後、日本人は、経済と科学と常識に重点を移して、神道や仏教は、学校の授業から消えてしまった。宗教、修身、道徳がなくなって、倫理となった。(決して、スピノザのエチカ(倫理)ではない。)
村の共同体が壊れ、家が壊れ、個人が壊れ”便利”と”快適”と”効率”だけを重視して、経済的人間(エコノミックアニマル)として、生きてきた。
戦後六十余年、宗教に縁がなくて、文学のドストエフスキーのコトバに心酔してきた私も、3・11があって、やっと、日本の宝、空海のコトバ、原典に、立ち戻ってみようとしている、今日、この頃である。
(8月7日 高野山大学大学院レポート)
2801. 身体に芯棒がなければ歩けない。精神にも芯棒がなければ、考えられぬ。
2802. 塔に心柱があり、身体には背骨があり、精神には意識がある。
2803. 意識は、無限速度で刻を移動する(私)に絶えず、同伴をしておる。
2804. 存在の独楽が廻っているうちは、(私)は生きている。完全静止は(私)の終りである。宇宙も同じ原理だ。
2805. ”眩暈”は、起き上がることも、歩くことも、不可能にする。風景の固定は、自然な歩行の条件であった。
2806. 普通に歩くことが、どれだけ多くのエネルギーに支えられているのか、病気をして、”眩暈”にあって、やっと納得した。
2807. 「位置」は、眼と耳で決定される。姿勢を保つのも、足腰だけではなく、眼と耳の力が不可欠だった。
2808. 一兆億年後の、わが宇宙の死滅。ニンゲンは、そのことに、どんな感慨をもつだろうか?無限か永遠か!!
2809. 始まりも知らず、終りも知らず、存在の地平線の内で、今だけを生きている。
2810. 存在の地平の特異点はカミの手に似ている。
2811. 存在も非在も、あるものの見方にすぎない。(体、相、用)
2812. 無限速度でスピンする(私)。千の貌があっても不思議ではあるまい。
2813. 木が、石が、空が、定まって見えるか、ゆらぎの波と見えるか、眼という、能力にかかっている。
2814. 無から吹き上がってくる時空。”私”の顕現、(私)の発見。
2815. ゆらぎの、波の、偶然の、時と場に、存在というコトバが、結晶する。
2816. 宇宙にとって、ニンゲンという存在は何者でもなかった、何事でもなかった、そう断言できるか?
2817. 勝手に、(私)の全細胞が開いて、数十億年という時間を逆行して、単細胞に至ろうとする、そんな、存在自体のざわめきが聞こえる。
2818. 単細胞が見た夢の果てが(私)である、と言うのだろうか?
2819. 21世紀の最大の発見は、(無)から(有)が、つまり、時空が、コトとモノが発生したということであろう。
2820. 今朝も、(私)という存在に躓いて、ニンゲンを発見する、驚愕が、いつのまにか、普通のことになってしまった。
2821. 時空に放り出されてからというものは、もう、本能と知で、ただ、(生きる)をしてきただけだ。それが、何であろうと、同じことであるが。
2822. ニンゲンは、とりあえず、(社会的な役割り)を求めて、生きる、それを、仕事と呼んでいる。では、(宇宙的な役割り)とは、いったい、何であろうか?存在すること−そのものの意味だ!!
2823. (私)も、宇宙の一員であって、毎日、毎秒、コズミック・ダンスを踊っている。しかし、その行為が、何であるのか、まったく、わからない。
2824. つまり、死が、わからないように、生も、まったく、わからないのだ。
2825. 食べる、産むという、本能さえも、考えてみると、(私)には、よくわからない。
2826. 原子の、生命化が、なぜ、そうなるのか、根源的には、わからないように、だから、(私)は、他者を生きている。
2827. 空間に、昨日の、色と線と質感が戻ってきて、時間が流れている。実に、自然に。今日も、コトとモノのカオスの海を泳ぎ切ることができると、意識をした。
2828. 色の限界地点で、草木の緑がふるえている六月。色は、コトバに、存在そのものになって、歩いている(私)を襲う。不意に(私)は、無限時間の中を、おそろしい速度で通過している、と、宙吊りになったまま、思う。
2829. 緑の、色の、力に、時間も、空間も、ニンゲンも、共振れしている、六月である。
2830. 痙攣している六月。どもっている六月。浮遊している六月。光の中で、闇の中で、あたらしく、誕生するものがある。まだ、名前はないが。
2831. 痙攣する六月の歩行は、決して、知ることではなく、楽しむことである。何を?不可能を!!
2832. もう、生への燃え盛るような意思は起ちあがらないが、静かな、静かな、眼だけは在る。
2833. 起つ位置によって、人は、宗教を得、科学を得る。決して、否定しあう関係ではない。
2834. 事象を分析する科学。事象を生きる宗教!!
2835. 共存には寛容の精神がいる。
2836. 文学は、畏怖すべきもの、不可能との対話であり、そこに、ニンゲンがいる。
2837. 沈黙にも、おそろしい、エネルギーがある。決して、何も、考えていない、のではなく、ただ、存在の重みに、耐えているのだ。
2838. コトバよ、来い、あらゆるコトバよ来い、と叫んでも、来ないから、黙る。
2839. コトバを、存在に、存在を、祈りに変えてしまった、空海の真言の力よ。
2840. (科学)も(宗教)も、見えないものをみる。しかし、その、見えないものが、異なる。
2841. 3・11の現場を歩いたとき(私)=生命がひとつの痙攣になった。今日も、歩行のときに、ひとつの痙攣になった。
2842. 空海は、存在そのものを開いてしまう。だから、存在はコトバとなる。
2843. 空海とスピノザ。宗教者と哲学者である。自然を、存在を、宇宙にカミ・ホトケとして、開いてしまった二人である。
2844. コトバの位相。ニンゲンのコトバ、カミ・ホトケのコトバ。
2845. 宇宙に、(私)という身体を投げだす時、宇宙にそのまま流れる時空と合体できる。さて、跳べるか?
2846. 善も悪もない「自然」がある。原子の世界。「宇宙原理」である。善と悪がある「人間社会」である。原発の世界。「人間原理」である。
2847. 3・11の現場の光景は、ニンゲンが忘れていた、畏怖すべき「無」の力の顕現であった。そして、ニンゲンは、同時に、「悪」としての原発を確信した。
2848. さて、3・11の瞬間に、畏怖した「自然」の存在であったが、まだ、二年と三ヶ月しか経っていないのに、もう、ニンゲンの欲望だけが疾走している。暗愚のニンゲン。
2849. ニンゲンは、何を怖れているのだろうか?戦争、飢餓、貧乏、不幸、苦痛・・・ いやいや、唯一、(無)であろう。
2850. (無)に至る、存在の眩暈が、完全に終るならば。
夢を見るのはニンゲンだけであろうか?
夢を生きるのもニンゲンだけであろうか?
夢がたり 正夢 逆夢 白昼夢 夢占い 夢魔 夢じら
せ 夢合せ そして 夢枕
昔から ヒトは 夢を語ってきた
樹上に坐禅をした 鎌倉時代の 明恵上人は 一生涯
見た夢を綴り続けた 「夢記」
平成の詩人 一色真里は 「夢千一夜」 を記した もち
ろん 夢を科学して 無意識やリビドーを発見したのは
フロイドである 「夢判断」
他人から 見た夢の話を聴く 誰でもが 普通に経験す
る ありふれた話である ところが 他人の夢に 自分
が現れた 夢の話となると 少し 話がちがってくる
まして 夢枕に立ったと言われると、もっと奇妙なこと
になる
もう20年も昔のことである 五月の ある日の 早朝に
聞き覚えのない 女性の声で 電話がかかってきた 昨
夜 Nが死にました 何? なぜ? 肺ガンでした 死
ぬ少し前に あなたが 主人の夢枕に立ちました さよ
うならの挨拶に来てくれたと大変 喜んでいました 死
んだら お礼の電話を入れるようにと Nの遺言でした
返事に窮して お悔みを言ってみたが 父母でもなく
兄弟でもなく なぜ 友人の私であったのだろうと 長
い間 私の心に棲みついている声であった 昔から 夢
枕に立つのは 神 仏と相場が決まっているのに
Nはラグビーのボールを追っていた
私は ブラスバンドの指揮棒を振っていた
田舎の高校の同級生であった 無二の親友というのでも
なかった 東京の大学生の時二年間 同じ下宿にいた
その後も 街角で 街頭で 駅の改札口で 妙な出合い
かたをした 偶然というには 余りにも 変な縁であっ
た 最後に会ったのも 路上であった 俺 肺にカビが
生えているらしい 真黒な顔で 淋し気で 消え入るほ
どの声だった
昨夜 私の夢にNが顕れた どうだい? そちらこそ
どうだい? 夢も現も融け合って あらゆる境目が揺れ
時空もゆらぎはじめた齢になった あの時 君の夢枕に
立ったのは確かに私だとNに告げた
生きている存在だけが生きているのではない 死者も
また 生きている
深夜の 闇の中での 眼の訓練(レッスン)は もう 日々の儀式とな
った 時計が十二時を廻ると闇の底の 部屋のベッドに 横
たわって ゆっくりと眼を閉じて 呼吸を整え モノとコト
を消し 身体を消し コトバを消して 瞑想し 宇宙で一番
深い闇の底で あるモノを見る 眼の練習を開始する 宇宙
に浮遊して
眼があるだけではモノは見えない 赤ん坊は 生れると
毎日 モノを見るために 眼の使い方の練習(レッスン)をする 眼を開
けているだけでもモノは見えない 生まれつきの盲人が ある
日突然 眼の機能が回復しても モノは見えない 白い幕が
見えるだけだ 風景や顔を見るためには 眼の使い方の訓練(レッスン)
が必要だ
眼を閉じていても モノは見える 夢がある 記憶がある
幻がある 白昼夢がある 頭を強打した時には 瞼の裏に
光の火花が散る 指で両眼の眼窩を強く押し続けると 光
の洪水が見える 金色の光の海である
三ヶ月間 深夜の儀式を続けた ある日 突然 闇の中に
丸く白い暈(アロー)が顕現した 閉じた右眼の前方に 二 三セン
チの 十円玉ほどの柔らかい光の暈(アロー)が示現した 微かな 瞼
と眼球の動きで 消えたり 現れたりを繰り返した 闇の中
の華であった
半年が経った ある日 突然 光の形象が来た 眺めてい
ると 八種類の光の形象だった 全宇宙の モノの形は 基
本型が八つである 宇宙の原理だ 夥しい光の祭典だった
一年が経った いつもの 閉じた眼の前方に現れる 白く
丸く柔らかい光の暈が 突然破れた 開いた 見知らぬニン
ゲンの顔が現れた 顔は 数秒毎に 次から次へと入れ変わ
って 十人 百人 千人と増え 一向に止むことがない い
ったい何が起こってるのか 瞬間 身体の機能が壊れてし
まったかと一抹の不安が横切った 無数の顔は 何処から来
るのか 宇宙の無限遠点から 瞬間移動をしてくるのか あ
るいは ココロの 無・意識の アーラヤ識の 種子たちが
顔となって薫習(くんじゅ)してくるのか わからない 結局 無数の
顔の出現に畏怖を感じて 眼を開いた 眼の前には いつも
の 平凡な 部屋の闇があった
求めているのは 幻身である 誰も見たことがない その
手法もわからない 今日も 眼を閉じて 宇宙で一番深い闇
の底に 幻身を見る儀式は続いている
(注)「幻身」(チベット密教-ゲルク派・ツォンカパの幻身理論。
意識の上だけではなく、体外離脱をして、マンダラとともに、本当
の本尊の身体を出現させること) 絶対に、真似しないで下さい。
2701. 書いたのは誰か?と問い、言ったのは誰か?と問い、「コトバ」とは何か?を考えると、「言葉」と「ことば」と「コトバ」の多様なものが見えてくる。コトバは、単なる、文字、記号ではなくなってしまうのだ。
2702. 「文字」を使用する。「声」を使用する。「コトバ」を使用する。言ったのは?聞いたのは?書いたのは?いったい、誰であろうか?と考えてみる。
2703. 来るもの、エネルギーである声。いや、声に変換されるあるもの。
2704. 数というものが消失してしまう地点で、存在というのも消去してしまう地点で、一切が結ぼれて。
2705. ものを書かない(書けない)、ものを読まない(読めない)、燃え盛る(知)で生きてきた人が、もう、話をすることもなく、沈黙へと滑り落ちて、そして、ただ、存在している。さようならの、サインであろうか?
2706. あらゆる交流というものが絶たれて、音信が消えていく、静かに。
2707. 新緑を巡って歩いていると、植物たちの、静かな知慧を覚知する。
2708. 見るとは、光のあらわれかたであろう。
2709. 闇は見るを消し去ってしまう。
2710. 原子が、素粒子があるのではなく、あらわれかたを見ているばかりだ。
2711. 色も、また、光とともに、時とともに、移ろっていく日々である。
2712. 木々にも、それぞれ固有の揺れかたがある。風を受けて。
2713. 人も、また、それぞれに、固有の揺れかたがある。
2714. 死ぬことの不思議は、もちろんのことだが、生れてくることも、ひとつの奇蹟である。
2715. 来た者は、去る者となる。もうすぐ、確実に、その時が来る。
2716. あるものがある、ないものはない。もう、そろそろ、いいだろう。そのように、見定めても。
2717. コトバが静かになってきたら、(私)も静かになるだろう。
2718. 大きな、強い、激しいコトバばかりで生きてきた人も、静かなコトバには勝てない。いや、勝ち負けもない。
2719. お互いに「正しい」と主張し合って、相手を、批判、批難、攻撃して、結局、争いに、終止符を打てない愚。
2720. 宇宙に、咲いて、輝いて、散る。一瞬のニンゲン、その意識に覚醒すれば、争いも、消せるものを。
2721. 風景を歩く、コトバは道の外にあるから。
2722. 一切は、変わる、歩く度に、移ろう、風景である。
2723. (私)も、また、ひとつの風景である。
2724. 苦が来る、楽が来る、道である。
2725. 小さな頂点へと、昇って、下りる、一日の波。
2726. 見ても見えず、聞いても聞こえず、語っても語られず、それでも(信)を実践するニンゲンであるか。
2727. 青葉若葉の季節となった。生命がぴちぴち反ねている。葬式も、日々、増えているが。
2728. 革命と隠遁。孔子と老子を惟う。可能性の人と不可能性の人であった。
2729. (私)を発見する。そこにだけ、ニンゲンがいる。
2730. 四月の風景は、歩く度に、音楽に転調する。
2731. 朝から大きな溜息をついて、眠るだけでは取れなくなった無数のシコリがあって。
2732. あれやこれやと点検しても、切りがなく、決断だけが鈍くなって、浮上する機会を逸してしまう。過齢であろうか。
2733. 何度でも、スタートを切れる年齢があった。もう、方向が見えていても、気が起ち上がらぬ。
2734. さようならと言ったり、言われたり。五文字の重さだけが、虚ろに響く。
2735. 本当のことは、言ってしまえば、ただのコトなり、言わなければ、秘密になる。
2736. 暗号化されたコードは、脳という器管にしかないのか?あるいは、腸官にも、胸腺にも遍在しているのか?
2737. 脳は、単に、来る音信を、受ける装置であって、やはり(私)が、コードそのものであるのだ。
2738. コトバ以前の声も、充分に、伝える音信である。
2739. 身振りが、コトバ以上に、ものを言うことがある。
2740. 食べれなくなる、歩けなくなる、話せなくなる、身につけた一切が消えていく。その時は、死ぬ時だ、自然に。
2741. あれだけ輝いていたニンゲンが、もう、光を放たない。何処へ行ったのかあれらの力は。
2742. 誤ちを犯しても犯しても、修正できる力がある。それが若さというものだ。
2743. 老いると、ひとつの誤ちが命取りになる。再生できない。風邪をひいたと。
2744. 「戒律」と「法」どちらも、ニンゲンが作ったものである。「法」は、ニンゲンが社会に生きる時、集団の秩序を乱さないための規則である。「戒律」は宗教者として、生きいくための規則である。
2745. ニンゲンの、最高の快楽は、宇宙を呼吸することである。
2746. 百兆年もすれば、我が地球も太陽も銀河も宇宙も、一切が消滅して、いつか来た(無)へと還ってしまう。もう、コズミック・ダンスを踊る舞台も生きものも、一切がない。
2747. 時空の蒸発した後は、虚時間の宇宙が、別の原理で始まっているか?
2748. どう考えても、おかしい、小さすぎる宇宙の年齢が百三十七億年というのは。二千億個の銀河集団にすぎないというのは。長い間、そう思っていた。ホーキンス博士が言ってくれた。宇宙は10の500乗個はある、と。ホッとした。無限個の宇宙!!ニンゲンの手が、宇宙にとどくのはおかしい!!
2749. 痙攣が来る度に、ひとつの思考が起ちあがる。
2750. (私)はコンタクトする。あらゆるものに。で、(私)の一日が出現する。
2751. 触るものが何であるのか、いつも、意識が、チェックをする。で、あれでもない、これでもないと、(私)は呟いている。
2752. これも良し、あれも良し、と思える日には、風景が(私)にやさしい。
2753. 歯痛が(私)の一日を変えてしまう。忌忌しいのは、いったい何だ!!
2754. 慣れることができない、習慣化できないから、”痛み”は、(私)を破壊する。いい(私)を消し去ってしまう。
2755. 生きる勝手が、まるで、わからなくなる、人生の途上で。ただ、歩け!!
2756. 学習した、習性と化していた、生きる規則が、まったく、役に立たなくなる、それは、恐怖であり、不可思議である。ただ、歩け!!
2757. 生きるスタイルと、存在のスタイルは、必ずしも、重ならない。裂け目がある。深淵に落ちないように。気をつけて。ただ、歩け!!
2758. 何度でも、何度でも、(私)に還ってくる、一日の朝が来るように。で、顔を確かめてみる。顔がどこかへ逃げていないか、と。
2759. (私)の中心にいるか、(私)の辺境にいるか、強気と弱気の現れである。ただ、歩け!!
2760. ”無”からの顕現。入口と出口の鍵である。
2761. 惑星の一回転を一日と呼ぶことに、慣れてしまったニンゲンである。銀河の一回転を、何と呼ぼうか?
2762. 宇宙と、ひとまわりしてきた者が呟いた。歩いてみれば、(私)は遍在していた。
2763. 在るとも無いとも断言できない、確率の中で、偶然、顕れてしまったニンゲンである。
2764. たった、(私)一人を始末できない。
2765. 身体の重さ、重力に合わせて、沈んでいく”私”。
2766. おーいと、遠くで呼ぶものがいる。無限遠点から来る音信!!解読できるのは、なぜか?
2767. まったく、ニンゲンは、何を考えだすかわかったものではない。超えてはならぬ一線を越えてしまうかもしれない。高次元へのジャンプである。
2768. 存在そのものの、在り様が、一瞬にして変わってしまう時、ニンゲンが猿を見ているように、何かが、ニンゲンを見ているだろう。
2769. 道具・機械は、ニンゲンの能力の延長であり、部分であったのに、何時の闇にか、その地位は、逆転してしまった。危機である。
2770. キューバ危機の、ケネディ大統領の選択は、正しい選択であったのだろうか?イラン戦争の、ブッシュ大統領の選択は、正しい選択であったのだろうか?殷の紂王は、亀の甲羅に、漢字を書いて、戦争、戦勝を占った。天の声を聴いた。三千数百年前のことである。ニンゲンは、進歩しているか?
2771. 光に反応することは、実に、シンプルな快楽である。特に、冬の、日溜りでは。
2772. 日々の、あれやこれやを、無用のものと見なして、取り去ってみると、いったい、何が残る?それが(私)だ。
2773. ニンゲンの必要は、そんなには、多くはない。他人が思っているほどには、多くはない。(私)を構成するのは、空気と、極く少量のもので、けっこうである。
2774. これ以上は、超えてはならぬ、と肉体が叫ぶ。痛みは、(私)の破壊への警鐘である。耳を傾けろ。
2775. 歩いているときには、思考を止めて存在の放つオーラーを浴び続ける。
2776. 宗教の宇宙は、ニンゲンと神・仏の宇宙である。科学の宇宙は、ニンゲンを無化して神も仏も非在と化す宇宙である。
2777. (無)から(有=時空=宇宙)が顕現した−その証拠は、終に、カミの存在をも、無化してしまった21世紀である。
2778. (無)から(有)は生じないと、信じていた時代が、妙になつかしい。
2779. ニンゲンはいつも、「正しい選択」を出来るとは限らない。だから、修正があり、やり直しがある。
2780. 風景も文体で変わってしまう。
2781. 機械を作ったニンゲンが機械に使われて一生が終る時代になった。
2782. 機械とニンゲン、能力の一点で、比較すると、”人間性”は奪われてしまう。
2783. 誤ちを犯すからニンゲンである。しかし、もう、二度と、取り返しのつかない誤ちが浮上してきた。
2784. 決定ができない。正しい、誤っている、と決められない時代である。さて、困った、ニンゲンに、選択する道はあるのか?
2785. Aでもない、Bでもない、ええい、Cにしておこうか。ニンゲンの手法。
2786. 速く、大量に、正しく、実行する機械。ニンゲンは、とぼとぼ、歩いている。右に左に揺れながら。
2787. 仕事は機械に、遊びはニンゲンに。機械は、決して、遊ばない。
2788. ニンゲンの仕事は、どんどんどんどん電脳機械に奪われて。インプットすれば、後は、遊んでアウトプットを待っている。ニンゲンの(考える)は、いったい、何処へ行ったのだろう?
2789. (考える)を考える機械が出現すれば、ニンゲンの特権が消えてしまう?
2790. 手に負えないのは、天変地異ばかりではない。原爆も原発も機械も、ニンゲンが、コントロールできなくなりつつある。
2791. アインシュタインの脳を、そのまま、コピーした機械は、ニンゲンか機械か?
2792. ニンゲンは、遺伝子による、子供の誕生以外に、もうひとつの”誕生”を創り出しつつある。
2793. ”無限”の前でも、”無”になれないのが、ニンゲンである。
2794. もう、日常には、(私)を刺戟するものがなくなった。さて、逝くか、クラインの壺と化して。
2795. 離合集散!!コレハ、ニンゲンノコトカ ソンザイノコトカ?
2796. マルデ、方角トイウモノガ、ナクナッテシマッタ。東西南北、前後左右上下。揺レテイル。揺ラギノ波ダケガ在ル。
2797. 歩行ノ消滅ハ、ニンゲンの消滅トナル。
2798. 明日、人類ガ滅ビルトモ、ニンゲンヨ、今日ハ歩ケ。
2799. 今日ノ花ヲ、今日摘ム。
2800. 吃ラナイト、考エラレナイ。ソレガ、考エル自然デアル。
2601. コトバを話すことによって、コトバを書くことによって、隠されてしまうものがある。
2602. 告白は、秘めていたものを、表に顕わす行為と思われているが、告白という行為自体が、あるものを隠してしまう。
2603. コトバは、表徴であるから語れば、書けば、意味が発生してしまうが、コトバは、絶えず、表徴の裏で、同時に、隠す性質をも発揮してしまう。
2604. 一切を語ることの、不可能性がコトバにはある。その証拠に、コトバのない世界がある。
2605. コトバで考えていた。コトバを考えていた。今、コトバを生きている。
2606. そうか、コトバは、論じるものではなくて、コトバを生きるのだ。
2607. ある日、突然、(私)の起っている次元が変わっているのに、気がついた。
2608. (私)への執着がだんだん薄くなってきて、(無私)の階段を登ると、そこには(普通)がある。
2609. 西行が、芭蕉が、中也が登った階段を、(私)も、歩きはじめている。
2610. このように生きることが、ニンゲンであったかと、還暦を過ぎて、内省している。暗愚である。
2611. 結局、半分しか、経験することができない。生と死。そのように創られているから。
2612. 痙攣して、放心して、気絶・卒倒する3.11であった。今は・・・
2613. 人は、コトバと共に生きている。いや、コトバがその人を生きている。コトバ以外の世界で、人は生きていない。”文は人なり”とは、”人は文(コトバ)なり”である。”初めにコトバありき”なるほど、納得だ。
2614. コトバの力が弱くなった、衰えたと人は言う。人の力が弱くなって、衰えたから、コトバの力も呼応しているのだ。
2615. (私)とは、ある日、突然、時空に、(場)をもらった者である。光って、生きて消えて死ぬ。ある日、突然、(私)という(場)が消失してしまう。
2616. 空気の薄い時代である。ニンゲンの、エネルギーとなる、酸素が足りない。息切れがする。切れ切れの、事象の、断片ばかりだ。
2617. コトバを書いているのは、半分(私)であり、半分は(私)ではない。コトバの性質上、そのように、コトバを書くしかないのだ。
2618. コトバは、誰のものでもない。ところが、書いてしまった文章を、ソレは、(私)のもので、(私)の意見だと思いはじめる。そして、最後には、コトバそのものも忘れてしまう。
2619. 作者自身は、作品自体ではない。
2620. コトバは、来るものだから、作家が、作品を完全に、コントロールできる訳がない。
2621. 「本」のコトバを読む時と、人のコトバを聴く時では、同じコトバでも、まったく、意味がちがってしまう。眼と耳。
2622. 状況が異なる場合、語る人が異なる場合、コトバはちがった姿と意味を見せる。
2623. 宙にむかって、それぞれが、コトバを放ち、何回も何回も、聴いては投げ合ううちに、コトバの場が出来あがり、ベクトルが決まり、コトバの磁場の中で発生した意味が、形を整えていく会話であるか。
2624. 問答と言っても、はじめから、質問と答えが定まっている訳ではない。勝手に、思いを、投げかけて、少しずつ、蜘蛛の巣のようなコトバの場が出来あがってくる。その、コトバの束の中から問いが誕生し、いつのまにか答えが導かれる。
2625. とりとめもなく、だらだらと続く会話である。何かを語っているのではない。コトバの波に、身を任せて、楽しんでいるのだ。
2626. 私が(私)と書く時、その(私)は、一人称単数ではない。三人称複数である。(私)は、あなたであり、彼であり、彼女たちでもある。(私)は、他者である。
2627. コトバを、論理や知性などでねじ曲げないこと。コトバに、自然に、語らせる。
2628. ニンゲンがいる、あるいは、ニンゲンがいたと宇宙に、報せなければならない。さて、何が、可能であろうか?
2629. 時代とはコトバの環である。ネットワークである。コトバのキャッチボールの中に、ニンゲンが生きている。誰も、その外へは出られない。
2630. 中心は、反転して辺地となり、辺地は、反転して中心となる。
2631. 鳥が飛んできて枯枝にとまった。さて、縁と見るか、偶然と見るか?事象は、見方で、変わってしまう。
2632. 桜の歌と恋の歌ばかり詠んできた西行も、六道を詠み、釈教歌を詠み、最後には、歌が、真言になってしまった。
2633. 極小の素粒子の果てへ、極大の宇宙の果てへと行っても、そこには、ニンゲンがいない!!ニンゲンは、どうやら、中間的な存在である。ちょうど、ニンゲンそっくりのニンゲン。
2634. 死を嫌悪し、遠去けながら、死に魅了され、招き入れる、ニンゲンである。
2635. もう、コトバとは、おさらばだとコトバで語ってしまう、ニンゲンである。
2636. 内的に在る力だけが、生きる力として現れる。
2637. ○○という時代があったのではなくて、○○という時代を発見した、で、コトバで、再編してみた。
2638. 事実は、決して、絶対ではない。過去の○○という時代を考えなくても○○という現在という時代の事実を考えるだけで、充分だ。
2639. モノとコトの(事実)は、一人一人に対して、ちがう貌を見せるではないか。
2640. 生きているニンゲンは、無数の死角がある。(事実)も、非連続的な漂流物にすぎない。
2641. 宇宙の、時空のグレート・マザーとは何か?生命の、たったひとつの、グレート・マザーの種子とは何か?根源的な問いは、このふたつしかない。
2642. 宇宙のファースト・スターを創りあげたものは、時空の種子であろう。
2643. なるほど、「動物たちには歴史がない」と人は言うが、正確には、ニンゲンが、コトバでそう考えているのだ。しかし、コトバを持たぬ動物も、未来を考えぬ訳ではない。本能としての細胞が、遺伝子が、未来へと、子孫という分身を残すのだ。それが動物たちの考え方である。
2644. 隠せば隠すほど、顕れてしまう華もあれば、告白しても告白しても顕れぬ種子がある。
2645. (~から生れてくる)という現象が、思考を規定している。頑固なまでに。強烈に。(母から生れてくる)と。決して、(母を生む)とは言わない。
2646. 意味がある、のではなくて、意味を生むコトバである。
2647. (~から)は(~まで)を決定している。(~から)と言った時、人は、決定の外へは出れない。生れてから、死ぬまで、と。
2648. 現実を(現実)と書くのは、(現実)というものが、モノそれ自体の複雑さ、多様性を含んでいるからだ。
2649. 事実をいくら、厳密に、拾い集めても、決して(現実)は、わからない。
2650. 語りは、単に、ひとつの象徴であって、隠喩以外の何ものでもない。
2651. 誰でも、自分の生が、今、最低点にいると思える、辛い時期がある。一番の思想が育っている時に。
2652. 無意識に隠されたものを、記憶の底に隠されたものを、思考の外に隠されたものを、存在の彼方に隠されたものを、暴露するアフォリズムであらねばならない。当然、コトバの外へと隠されたものをコトバで表現することは不可能だが・・・
2653 コトバの余白に書く。いや、余白を読む。白紙も語るということだ。
2654. 沈黙も、また、コトバである。いや、コトバが反転をしたコトバである。
2655. ディオニコソスとアポロン。ロゴス中心主義からの脱出。ニーチェは、いつも、事象から疾走する。で、ダブル・バイントに陥って、深淵へと落下する。
2656. 大別すると、ニンゲンの考え方は三つになる。
①(神)的なもののもとに、一切が存在する(当然ニンゲンも)。
②一切の存在は、ニンゲンが感じて、考えて、想像・幻想する(宇宙)である。
③(無)から、虚時間から、時間と空間が爆発をして、原子たちが誕生し、時空を疾走し、137億年の進化の道をたどっている。単細胞が37億年かけて、ニンゲンに至った、と。
①②③どの立場に立つかで、ニンゲンの生きる意味、人生観はまったくちがったものになる。さて、あなたは、どの立場に立って生きているか?
2657. ニンゲンは、生き死にを考える。森羅万象を意味付けをする。宇宙は、一切、考えない。ただ、存在する。その一歩の距離が無限である。
2658. 超球宇宙に、原理、法則を求めるのは、ニンゲンである。宇宙はくしゃみすらしない。
2659. 存在がくるりと非在になる時、ニンゲンの眼には見えないが、透明な門が確かにある。
2660. 穴だらけのニンゲン、穴だらけの細胞、穴だらけの原子、内なる空間が形となる不思議。
2661. 時間にも、穴があけば、いったい何が起こるのだろう?
2662. (1+1=2)の世界は、コンピューターに任せておこうか。(1+1=2)の外側へと超出する世界に、ニンゲンは生きているから。
2663. 正しく考えることも出来るが、誤って考えることも出来るニンゲンである。
2664. 子育てには限度がない。百点満点がないからだ。生きるのも、結局、同じことだ。(私)を育てるのも限度がない。
2665. 父の墓の、背景に、山の斜面に、堂々とした、山ツツジの大木があって、その花の色、妙に、気になって、仕方がない。呼んでいるのか?
2666. 今日は、時空も、眩暈している。
2667. 生きるは、殺すである。ニンゲンは、毎日毎日、その大原則に従って、生きている。
2668. ニンゲンは、日々を生きるための、「食事」を、殺すことを、本能のせいにして、通り過すことが出来るだろうか?
2669. 不条理を生きている、(食べる=殺す)を考えることは、無・意味である−では、済ませられない。
2670. 支えきれぬものを、ニンゲンを破壊してしまうものを、(夢)の領域に、無・意識に、押し出して、(私)だけが、安全地帯にいる、そんな便利な構造に、ココロは納得をしていない。
2671. 身体に反逆する。身体も反逆する。ココロが乱れるわけだ。
2672. 長く生き延びる者は、よく殺した者である。
2673. 儀式は、なぜ、必要なのか?人間にとって。食べるからである。生きるものたちを。血を流したのは、捕らえられた生きものと人間である。
2674. 生きものを食べるニンゲンは、宗教的にならざるを得ない。血を流すから。食事の前の、いただきますは、お祈りの儀礼である。
2675. 食事をすると、もう、罪の意識が発生する、ニンゲンである。生命を食べるから。
2676. 生きているものも、死んでいるものも、食べてしまう、ニンゲンである。その時の、自分の顔は、見なくても、充分に、わかっている。
2677. ニンゲンには、まだまだ開発すべき能力が無限にある。その時代の常識や知に、縛られすぎである。ニンゲンの蔵には、無尽蔵の(力)があるのに。
2678. 眼に見えぬものは信じられぬと言いながら、原子や素粒子やヒッグス粒子は、なるほど、と信じてしまう。科学の(知)の証明だからと。
2679. 眼に見えぬ仏や大日如来は、どうであろうか?浄土や天国は、信じられぬか?眼に見えぬから?証明するものがないという理由で?
2680. 横超すると、高次の次元に、浄土がある、と。大日如来の存在が、見えると。
2681. 証明できぬものは、信じられぬか?10の500乗個もあるという、ホーキング博士の、宇宙も、信じられぬか?
2682. 昔の人は、昔の人風に、見えぬものをも信じた。現代人は、もう、そのような、信じ方を持てぬだけだ。否定はできまい。
2683. 十一次元の時空を、異次元を、見えぬからと言って、否定も出来まい。
2684. 毎秒、おびただしい、ニュートリノが(私)の身体を、通りぬけている。眼には見えぬが。真空もエネルギー場だ。
2685. 身体を、あらゆる物事を、貫通するものの存在を、知ってしまった、ニンゲンであるのに、まだ、眼に見えぬ、”神秘な存在”を、信じられぬか?
2686. 無から有が発生すると、数学者は、物理学者は、証明をした。それでも、日常の、生活では、無から有は発生しないと、考えて、生きている。なぜか?
2687. (眼)という機能に、(脳)という機能に、ニンゲンは、捉われすぎている。
2688. ある日、「石」が石を超えたものになる。「火」が火を超えたものになる。「水」が水を超えたものになる。突然、モノの見方が変わってしまう。そんな瞬間が、日が、ターニング・ポイントがあるものだ。
2689. (死)は、垂直に、時間を跳ぶ。
2690. 歩いて、生きる。歩いて、死ぬ。歩いて、再生する。
2691. 俗が聖に。辺地が中心に。変化と遍在は、モノとコトの常だ。
2692. 風景の暗号を解くと、次元がひとつあがって、桜の花も、真言になる。
2693. 宗教も、また、ニンゲンの可能性への挑戦の形式であろうか?
2694. 存在にカミを見る人、非在にカミを見る人、見るという(眼の力)を超えてしまう人。
2695. 考えるというスタイルが終わってしまう。
2696. 突然異変は、誤算ではない。(私)は他者だーの実践である。
2697. 来たものが音になる(モーツァルト)。来たものがコトバになる(ニーチェ)。不思議だ。来たものは、同じものであるのに。
2698. 毎日、毎日歩いている、桜、桜、と。まるで、桜守の西行である。
2699. 歩行(小説)と舞踊(詩)と跳躍(アフォリズム)の日々が続いている。
2700. 古代の廃墟に、ニンゲンの歴史を見るよりも、ニンゲンの身体に、古代の種子を見る。
「間」と「黄昏」の文体が描きあげた人生のかたち
父と母と昭和への鎮魂の書である。
詩と散文が結婚した小説である。
「間」と「黄昏」の文体である。小説にとって、文体は生命である。黒田は、千年前の王朝文学(ひらがな文『枕草子』『源氏物語』)を、現代に甦えらせた。幽玄と寂の世界である。
死者と生者の間に、喪われた過去と現在の間に、夢と現の間に、昼と夜の間に、人と他人の間に、モノとモノの間に、たゆたい、ゆっくりと吹きぬけていく、透明な風がある。草の色が、部屋の匂いが、家具の形が、庭の木々が、あらゆるものが、溶けあって、解き放たれて、共振れし、「風の文体」の中に顕現する様は、軽い眩暈となって、一切の境界を消し去ってしまった。(漢字は名詞、ひらがなは、漢字と漢字の間にある。つなぐもの)
記憶も定かでない、死とは何かもわからない、幼い頃に、母を亡くし、三十八年して、父を亡くし、一人娘は、二十年で八か所も、住居を変え、食べるためのしごとを、八しゅるいも変えて、ほんらいのしごと(小説を書くこと)を続けて、生きている。戦前から戦後へ、昭和という時代の空気を吸って、いくつかの恋をしながら、一人で、生きている。記憶の暗箱から、不意に立ち現れる、生の断片がきらめき、夢の断片が浮かびあがり、昼でもない、夜でもない、黄昏の文体は、寂の中に生きる、人生のかたちを、描きあげた。
主人公の名前がない、父と母の名前がない、地名がない、固有名詞がない、モノの名前がない、会話がない、夢、現実、現在、過去の境界がない、何時も読んでいる小説の、日本の文章がない、ないないづくしの小説である。漢字がひらがなになっている。センテンスが長い、長い文章は、十六行にも及ぶ。まるで一筆書きの絵である。
むつかしい、わからない、たった百枚(?)の短篇なのに、何度か挑戦したが、中断して投げだしてしまうという声が、あちこちであがっている。なぜか?漢字ひらがな混りの、日本文に、眼と頭が慣れてしまっているのだ。
「abさんご」は眼で読む小説ではない。声で読む小説である。黙って、ひらながを眼で追って、頭の中で、声を出して、読む。必ず、最後まで、読み通すことが出来る。意味は、声の中にあって、何度か読めば、自然にわかってくる。(英語と同じ)
名前や名詞を使わない理由は、黒田が二十六歳の頃に書いた「タミエの花」に隠されている。タミエは、花の本当の名前を求めたのだ。もの自体の名前を探しているのだ。つまり、世間が、他人が、使っているコトバでは、本当の名前は呼べないのだ。まだ、名前のないものに、タミエの、固有の名前を付けたいのだ。黒田は、この作業を、五十年、続けることになる。
孔子は、「論語」で、「正名論」を語っている。弟子の子路に、乱れた国を治めるために、何が必要かと問われて、コトバを正しく使うことだと答えた。そのコトバとは、社会に流通する、誰もに、共通するものの謂である。黒田の求めたコトバは、それではない。マラルメが求めた、「絶対言語」である。虚無の底から、狂気の一歩、手前で、探しあてた「賽の一振り」である。
漢字には、字義と字相がある。意味だけを求めるなら、白川静の「辞通、辞訓、辞統」を調べればよい。黒田は、五十年かけて、「タミエの花」の名前を発見した。花の名前は「abさんご」であった。
黒田の小説の系譜。①泉鏡花「草迷宮」②中勘助「銀の匙」③小田仁二郎「触手」④谷崎潤一郎「鍵」⑤石川淳「白猫」⑥折口信夫「死者の書」⑦古井由吉「仮往生伝試文」
五十年、百年、生き残る、文体が生命の、作家、作品である。もう封印した母の名前が呼べるよ!!黒田さん。
(2月6日記)
