Archive for the Category ◊ 作品 ◊
2951. 「内部の人間」トハ、イッタイ、何者デアロウカ。
2952. 「内部の人間」トハ、誰カ?
2956. 石塊(イシコロ)トハ何カ。
2958. 石塊の行処?
2960. 秋山駿のノートのコトバに触れると読者は、火傷をする。なぜか?すべてのコトバが、実際の、生きる為のコトバである、存在自体を考え尽くすコトバだから。強度の強い文体は、必死に生きる、考える、秋山駿の生の姿に比例している。
2962. 秋山駿の「なるほど」と「うん」と「どうも」
2963. 「犯罪」と「内部の人間」
2965. ニンゲンは、いったい、何を、礎にして、生きているのだろうか?
2966. ほんの、ちょっとしたことが、普通にできない(行為とコトバ)。
2967. 「石塊とは何かという物語」
①石塊がある。②私は石塊を見る。③私は石塊を考える。④撫でる、割る、砕く、噛む・・・石塊は石塊のままだ。⑤石塊は私に語っている。(石塊のコトバで)⑥石塊が私を見る!!※10日、100日、約1000日・・・石塊との対話が続いた!!⑦私は石塊になる(純粋直観)。⑧石塊!!石塊が現成する。⑨私!!私が現成する。
2968. 秋山駿の、あの「内部の人間」のノートの思想(コトバ)は、いったい、何処から来たのだろう?
2969. では、コトバは、何処から起ちあがったのか?
2971. 小説ではない。哲学でもない。評論ですらない。もちろん、日記ではない。ノートの思想(コトバ)は、「生」の現場から考える、「内部の人間」秋山駿の裸の形姿である。30年、40年(文学)から遠く離れて実人生を生きてきた(私)も、どういう訳か、秋山駿のノートの思想(コトバ)だけは、読み続けてきた。信頼に足る人間の声、形姿を、自分の眼と耳で追っていたかった。
2972. ①私は石塊を見る②石塊は私を見る③石塊は石塊を見る④私は私を見る
2973. (私)の中心(内部)に私がいない。他人(医師)の声が(私)の中心にいる。(私)は、声に占領されている。(私)は、ノミとツチの音に占領されている。声が、音が、(私)の内部から聴こえる。
2975. ノートのコトバがわかるためには、ノートのコトバの外へ出なければならない。そして、ふたたび、ノートのコトバの世界へと戻らねばならない。
2977. 対話、対談は、いつも、真剣勝負である。火花が散る。白熱すると、秋山駿は、白眼をむくのだ。何処か遠いところを見て、自分の蔵の中 にある、自分のコトバを取り出してくる。相手にも、同じ、真剣を求める。教養や知識や他人のコトバは許さない。必ず、自らの生の現場から掬いあげた コトバでないと、容赦しない。一言に賭ける、秋山駿のコトバは、他人を殺してしまう力をもっていた。
2979. 三島由紀夫と秋山駿
2981. 野に遊ぶ、川に遊ぶ。
2983. 「内部の人間」秋山駿は、独身者ではない。
2984. 「手の力(コトバ)」と「声という力(コトバ)」
2985. 魂が魂を呼ぶ
2986. 秋山駿のノートのコトバは、単独者の為のものである。
2987. 「内部の人間」秋山駿の咎と罪とは何か?
2988. 「内部の人間」は、結局、「内部の人間」へと帰ってくる!!
2991. 最後まで本当の(知)を中也のコトバに求めた秋山駿であった。「内部の人間」の声。
2999. ニンゲンには、「生・老・病・死」があるから、誰でも、人生に、四度以上、悩みをかかえることになる。実際、二進も三進も いかぬ時があるものだ。(私)が、私自身の内部へとへたり込んで、一歩も進めぬ時があった。若い妻と私が、不幸に、不幸が重なって、どん底に生きている 時、 秋山駿から、一通の手紙をもらった。
3000. 大事ナ人ガ死ンダ時ニハ、ニンゲンハ、イッタイ、何ヲスレバイイノダロウ?
【追記】
2901. ニンゲンは、何時頃から、何歳頃から、単なる声ではなくて、魂の声を聴き始めるのだろうか?一生、魂の声を聴かない(聴けない)人もいるのだろうか?
2902. (私)が生きているという、普通の実感から、何か、得体の知れない、途轍もないものが(私)を生きているという実感が生じるまで、随分と、時間がかかるものだ。(気付きのないまま、死んでしまう人もいるのだろうか?)
2903. 光とともに来るものがある。闇とともに来るものがある。一瞬のうちに、純粋直観でわかってしまう。コレだ!!と。(私)は宇宙だ!!と。
2904. (私)は宇宙エネルギーの一個の顕れである。それ以上でも、それ以下でもない。(私)は私自身であると同時に宇宙である。1であり、全体である。
2905. 空の色が、あまりにも青すぎて、青を超出して、青に見えなくなった。
2906. (私)が決定した(意思で)。本当に、そうであろうか?(私)を形成しているもの、囲続しているもの、それらの一切が(私)をして、決定せしめているのだ。60兆の細胞たちよ!!
2907. コトバで、(私)を追っても、追っても、引潮のように、遠くへ、退いてしまう。意識が無限速度に達した時、ええい、構うものか、跳べ、(無)へ。
2908. 幻でもよい、幻花でもよい、何かを見つづけなければ、生きてゆけない、3・11の被災者の日々である。
2909. 身体が衰弱し、ココロが折れて、次から次へと自死していく、3・11の被災者よ。現も夢もあるものか、生者は死者に、死者は生者に。
2910. ニンゲンは、色を、形を、見ているのではない。光の貌を見ているのだ。
2911. 似ている?何に?光に。あたり前だ。(私)も君も光から来たものだから。
2912. 歩いて、歩いていると、現成する(私)がある。
2913. 見る。転成する。ふたたび、見る。リアルに。すると、(私)が現成する。(井筒俊彦の声)
2914. 眼も狂う。視差ばかりではない。見るにも、次元があるからだ。
2915. 絶対リアルで見える人は、もう普通の”眼”には戻れない。
2916. 現。現れる。示現する。顕現する。現成する。見ろ。意味は、文字とともに、変わってしまう。
2917. ニンゲンの”無”と宇宙の”無”はまったく、異なるものである。
2918. 証拠は?科学の”無”と禅の”無”を比べてみよ。
2919. 宇宙樹(コズミック・ツリー)がある。信じられるか?見えるか?光に、闇に、見えたり、見えなかったり、無数の宇宙樹が存在している。
2920. 存在をコトバで開いてしまった、空海さんである。自心の源底に至って。さあ、行け、その位相へ。
2921. 人類が滅びると、竹と昆虫の世紀が来る。クマムシは、地上最強の生きものである。木でものない、草でもない、苔でもない、竹という植物の生命力。
2922. 文明が地球を汚染する。(文明=人間)地球のありとあらゆる資源を喰い尽くして、ニンゲンよ、自滅するのか!!
2923. 生命現象に、意味を与えたのはニンゲンだけであろうか?ただ、生きている、ただ存在している、ニンゲンは、そのことに、我慢がならぬ生きものである。
2924. (私)は私に我慢がならぬ。いったい、ニンゲンは、進化をして(変身して)何になりたいというのだ。
2925. 文字(文章)そのものが、声のように、波動をもつことは果たして、可能だろうか?いわば(波動の文字)
2926. 無から無へ(無→有→無)(私)も宇宙も同じ原理である。(21世紀の大発見であろう)
2927. (私)という物質は、もう一人の(私)という反物質と対である。つまり、存在している(私)は、常に存在しない(私)に支えられているのだ。誰が、どうやって、あの世や異次元を、反物質宇宙を、否定できよう。
2928. (私)が消えて、音になる。(私)が消えて、音楽がある。至高の体験であった。宇宙そのものと一緒になって、歌っている。参加している。そんな至福の少年時代があった。「昔の光、今何処!!」である。
2929. (私)の中心にも立てないのに、もう、人生の中央に放り出されていた。19歳。世間に、社会に、世界に、いったい、どうやって、生きていけばいいのか、白紙であった。
2930. 文字も、数も、コトバも、一切が教わったまま、実行された。(私)のものなど、どだい、何もなかったのだ。何時から、ヒトは、(私)のものと思いはじめたのだろう?
2931. 人類が死んで、動物が死んで、絶えて、「竹の世紀」が来る、誰のコトバだったのか、億年単位の時間の流れる音が聴こえて来るコトバだ。
2932. 「物になる」「竹になる」「魚になる」東洋の思考の形である。西洋の思考の形を超えている。
2933. なぜ、コトバは、絶対的な強度をもって人のココロを刺し貫くのだろう。
2934. 至高の時には(私)がいない。
2935. 12キロの道を歩いて、嫁に来た祖母は、鏡台が唯一の嫁入り道具であった。100歳まで、正座をして、朝・夕、鏡台にむかう女であった。
2936. 母の嫁入り道具は、風呂敷につつんだ尋常高等小学校の、成績書ひとつであった。オール甲の成績で、母親が、これしか持って行かせるものがないと、手渡したものだった。父の希望は、背が高くて、賢い女、母の望みは、子供たちを、大学に、学問の道にすすませることであった。身を捨てて、身を粉にしても。
2937. 私の妻の嫁入り道具は、ピアノであった。音楽に生きる娘であった。借家には、私には、立派すぎるものであった。
2938. ニンゲンは、絶えず(私)をしている!!現でも夢の中でも、意識は、絶えず、(私)を捉えている!!気絶でもしない限りは。
2939. (私)をなくしてしまうほどに、歩いて、歩いて、歩き続けると、照らし出された世界に、光景の中にあるものは、色も形もない、魂という存在ひとつである。
2940. (私)が手を振るのではない。さよならと、手を振っているのは、風景そのものであった。
2941. 他界の気配を感じた時はそのまま、上手く、消え去りたいものだ。何も残さず。
2942. 存在の窓口に起っている。朝である。
2943. 来るものと来ないものの汀に起つ。
2944. 見えるものと見えないもの、眼の、境目に起っている。
2945. 関係の結び目、節が見える。
2946. 未生の(私)を問う(私)。
2947. 鳥の声を見て、花の色を聴く。なんの不思議ぞ。
2948. 動いているから鎮まる水。(私)身体の中で。
2949. 眼を閉じる。闇が来る。そして、光が来る。光が見える。意識が消える。やはり、(私)は、光の子だった!!
2950. (私)が消えて、事物が消えて、一切がコズミック・ダンスそのものになっている!!
2851. (私)が無限に手を振ると、100億光年の彼方では、ひとつの銀河が大爆発をする。(宇宙的バタフライ効果)なんの不思議があるものか!!東京で一匹の蝶が羽撃くとニューヨークでは大嵐だ(地球的バタフライ効果)
2852. ヒトは、ただの赤ん坊として生れてくる。そして、ただの老人として死んでいく。さて、いったい、何があったのか?諸行無常。なんの不思議もない。
2853. 重いがなければ軽いもない。苦がなければ楽もない。形のある、なしをニンゲンのココロは超えてしまう。
2854. ニンゲンが、宇宙と呼んできたものが、たったひとつの無限の宇宙が、無限個の宇宙のひとつであったと言われても、誰が、どのように、信じるのだろうか?(カミの力でも足りない)
2855. ソレは(私)の身体だから、わかっている!!とんでもない。ソレは(私)が知っている以上のものである。だから、(私)とは、他者である。
2856. (私)を使い切れずに、死んでいくニンゲン。なぜ?銀河系に匹適する脳を持ちながら、ニンゲンは(私)という宇宙のほんの一部を使用して、自らの人生としているのか?
2857. あらゆる状況、あらゆる環境に遭遇してこそ、ニンゲンの全的能力は、発揮される。危機こそ、その瞬間である。
2858. 平々凡々に生きるのも良し。ただし、平々凡々の(私)の使い方で終る。
2859. ドストエフスキーの実人生と小説と、どちらが、異様であろうか?経験のレベルに創作は比例している。
2860. ココロに宇宙を入れる。どこまで広がるか?どこまで認識できるか?どこまで耐えられるか?
2861. 私の眩暈は、3・11の大地震の揺り戻しであろうか?1000日も経ったのに!!心も身体も、(私)という存在自体があの日から、揺れっぱなしである。
2862. (私)の頭にもココロにも入り切らなかった未曾有の揺れは、今も、あの日から時空を超えて、続いているのだ。
2863. 3・11の死者たち、被災者たちに、ココロを寄せた、心やさしき者たちは、ウツ状態から抜け出せないでいる。
2864. 病いも悲嘆も、共振する波である。虚へ、空へ、無へと落ち込んだニンゲンは、容易に回復できないでいる。3・11は、原発は、負の核である。
2865. たった5ヶ月間の、歩行困難で、自然の歩行が思い出せない。
2866. 12月の、椿の蕾と一緒に刻を歩こう。3月には、自然に、深紅の花が咲く、と。
2867. 風景と溶け込んで歩いていた。今は、硬直して、風景に弾かれて、歩いている。
2868. 共感、共鳴、共生の姿勢を取り戻して、自然とともに、歩く日よ、来い。
2869. 左に、右に、風景が傾くから、(私)も、同じように、傾いて、歩いている。ぐったりと疲れ、立ち止って、深呼吸。
2870. 眩暈は、原因不明の病気(?)を次から次へと連れてくる。やれやれ、である。
2871. おそらく、読めない、書けない、起てない、歩けないは、来たるべき(死)へのレッスンとなるだろう。病気や眩暈には、とことん付き合ってやれ。
2872. あなたは、芭蕉派か西鶴派か?旅に病んで夢は枯野を駆け巡る(人生を旅して漂泊の旅を続けたが、病気になっても、私の見果てぬ夢は、枯野を、今も駆け巡っている)この世の月見過ごしにけり末二年(人間人生50年といわれるが、もう二年も、余分に生きてしまったよ、そろそろ向こうへ逝ってもいいだろう)
2873. 病いの時には、病んでいる。病いの感情、病いの思考を呼吸している。
2874. 一切において、文句というものを言わない。与えられた環境を生き切った父であった。
2875. モノ書きは、誰でも、感応する繊細な神経・心性を持っている。いわば、傷つきやすい種族である。
2876. 思考の強靭な糸も、自らの心性によって紡ぎだされる。
2877. 直観、ひらめき、イメージが育って思想になる。無・意識から、コトバが産出されるのだ。
2878. 思考の糸は、意識とともに廻りはじめたら、絶対速度に達してしまう。止まらないのだ。
2879. なんの為の人生?生れてから、どんどん、順に追っていくと、結局、死ぬため、となる。(ニンゲンとして死ぬ、より良く死ぬ?)で(私)の死は、わからない、となっている。
2880. さて?はて?やれやれの人生である。
2881. 覚りの境地は、誰も語れない。(私)ではない。ニンゲンではない。生命ですらない。「人間原理」の一切がない。「宇宙原理」との合体である。その時、もう、もとのニンゲンには戻れない。だから、語れない。ニンゲンのコトバではなく、仏のコトバとなる。
2882. コトバから抜け出せた人は、瞑想の世界で、ただ、生きている。覚りも何も語らない。「空」にいるだけだ。
2883. (私)は、今、ここをなくせない。(私)の外部に立たなければ。で、ニンゲンには、できない。いつまでも、いま、ここの(私)を生き続けている。
2884. (生きる)がむずかしいのは、いつまでたっても、(今)(此処)を生きるしか術がない存在のニンゲンであるからだ。そして、(今)(此処)は、いつも、見知らぬ、新しいものである。
2885. (私)の外部に立って(私)を生きる。つまり、覚りとでもいうのだろうか?異次元に立って、生きる、可能か?
2886. (私)は(私)だという、自己同一性の証明は得られるのか?時間の尺度(幅)を変えて考えてみる。昨日の(私)、10年前の(私)、百年前の(私)、千年前の(私)、魚であった二億年前の(私)。・・・三七億年前の単細胞の(私)・・・。その時、(私)は、どのように存在していたのか?(存在していなかったのか?)(私)はいったい、何だったのか?
2887. 宇宙という巨大時計の中に(私)を置いてみる。生命の種子の爆発する姿が見える。
2888. 無数の生命の連鎖の上に咲いた花(私)。ニンゲン種と呼ばれている。
2889. 単細胞の夢は、とても、一人のニンゲンが考えられるレベルのものではない。無数の地球の生命の群れを視よ。
2890. (見る)には、いくつもの段階がある。ステップできる人は、次から次へと、新しい位相で、モノを見ることが可能だ。もちろん、異次元まで見えてしまう。超球宇宙も、(見る)だろう。
2891. 瞑想。あらゆるものがやってくる。見える。眼がなくても、モンが見える。それは、ココロの顕れであろうか?あるいは、幻想であろうか?それとも、本物であろうか?
2892. 思考、想いが熱をもって、実際の身体を、火傷させる。
2893. 輪廻転生して永遠に生きる、それは、いやだ、絶対に、死に切りたいと思う人は仏教へ。永遠の生命を求める人は、キリスト教へ。
2894. ニンゲンという種が続く限り、(私)は、死ぬことができない。(私)は、時空を超えて、遍在する。
2895. 単細胞から多細胞への飛翔。(個)から(群れ)への飛翔。何が、いったい、そうさせたのか?億年単位で、その闇を考える。
2896. もういいだろう、と思う人。まだもっと、と思う人。(生きる)の意味の考え方がちがうのだ。
2897. ニンゲンは、なんでも、科学しなければ気がすまぬ動物らしい。科学も、また、ニンゲンが発見したひとつの方法であるのに。
2898. 一度、会いましょうよ。特別な話がなくても、顔を見て、お互いの眼を見て、声を聴いているだけで和やかな時が流れる。
2899. とびっきりのものを求めなくても、そこらにあるもので、充分に、楽しみが生れる。苦が生れることもあるが。
2900. なぜ、ニンゲンは、(生)の現場では足りずに、(天国)とか(地獄)とか(極楽)とか(浄土)とかを、創造してしまったのか?(今、ここを生きると言いながら)
1. 「abさんご」(文藝春秋刊) 黒田夏子著
2. 「道元」(創元社刊) 大谷哲夫著
3. 「書評紙と共に歩んだ五〇年」(論創社刊) 井出彰著
4. 「ざまくるう」(文芸社刊) 羽島あゆ子著
5. 「草窓のかたち」詩集(思潮社刊) 鈴木東海子著
6. 「原始仏教」(ちくま学芸文庫刊) 中村元著
7. 「新古今和歌集」上・下巻(角川ソフィア文庫刊) 久保田淳訳注
8. 「世界宗教史」全8巻(ちくま学芸文庫刊) ミルチア・エリアーデ著
9. 「哲学の起源」(岩波書店刊) 柄谷行人著
10. 「盤上の夜」(東京創元社刊) 宮内悠介著
11. 「読むことのアレゴリー」(岩波書店刊) ポール・ド・マン著 土田知則訳
12. 「ポール・ド・マン」(岩波書店刊) 土田知則著
13. 「空海の「ことば」の世界」(東方出版刊) 村上保壽著
14. 「哲学とは何か」(河出文庫刊) ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ著
15. 「宗教と宗教の<あいだ>」(風媒社刊) 南山宗教文化研究所編
16. 「スピノザ」(平凡社刊) ジル・ドゥルーズ著
17. 「聖書考古学」(中公新書刊) 長谷川修一著
18. 「空海の智の構造」(東方出版刊) 村上保壽著
19. 「清沢満之集」(岩波文庫刊) 安冨信哉編
20. 「はじめたばかりの浄土真宗」(角川ソフィア文庫刊) 内田樹・釈徹宗共著
21. 「対象喪失」(中公新書刊) 小比木啓吾著
22. 「シシリー・リンダース」ホスピス運動の創始者(日本看護協会出版会刊) シャーリー・ドゥブレイ著
23. 「旅鞄」(角川書店刊) 遠藤若狭男句集
24. 「永遠の空腹」(コールサック社刊) 松木高直詩集
25. 「方丈記」(岩波文庫刊) 鴨長明
26. 「昭和三十年代演習」(岩波書店刊) 関川夏央著
27. 「徒然草」(岩波文庫刊) 吉田兼好著
今年の夏は、60余年生きてきた人生においても、記憶にないほどの、暑さであった。
夏の光と熱が、容赦なく、植物と動物に降り注いだ。
地球温暖化とは言え、真夏日が二ヶ月も続くと、食欲はもちろん、あらゆる生に対する意欲が落ちてしまう。
不眠の夜が続く。熱中症で死者まで出る。
いつもの、朝・夕の散歩まで中止してしまった。筋肉は衰え、ただ、室内で、読書の日々である。
『徒然草』『方丈記』『新古今和歌集』など、昔の人の、声や姿に想いを馳せる。
現代の、現実の、片がつかぬ、様々な問題から解き放たれて、中世に生きてみる。
7月下旬から6泊7日で、高野山大学大学院のスクーリングと熊野三山の旅に出た。熊野古道は、大木と石のある、坂道である。三山、特に、那智大社は、約600段もある石段を登って、降りるだけで、汗が吹き出し、途中で、何度も、立ち止まって、深呼吸をした。なぜ、古代から熊野か?と—考えながら。
真夏日の長旅は、身体にこたえた。帰って、3日目に、眩暈を起こした。
深夜、起ちあがろうとしたら、天井と床がぐるぐると廻った。手をついて、バランスをとるが、立ちあがれない。
そのまま、深夜、病院へ。幸いMRIを撮ったが、脳には異常がなかった。日を改めた、耳鼻科へ。眼が静止しない。勝手にぐるぐる動くのだ。風景が揺れる。歩けない。耳に耳石がある。耳石が三半規管に入ると、脳が異物に反応する。で、眩暈が生じる。
三半規管の故障ではないらしい。医者は、病名も言わず、眼や頭や身体を、よく動かすようにと言うだけだ。
1ヶ月、眩暈を止める薬を呑む。眩暈は、その後、起こらないが、歩く度に右に、左に、身体が揺れ、ふらふらする。
NHKで、”眩暈防止”の番組があった。
①枕を高くすること
②朝起きる時、右の耳を下にして10秒、上にして10秒、左の耳を下にして10秒数える。
家で出来る簡単なことだ。(医者いらず)
毎朝、実行する。薬がきいたのか、NHKの番組—の実戦が利いたのか、幸い、大きな眩暈は起きてない。
しかし、まだ、歩行はふらふらする。つくづく、人間は、心身で生きている動物であると感じ入った。
『abさんご』76歳、最高齢者の芥川賞、その文体、ひらがな文、登場人物、地名が一切ない、会話がない、横書き、夢と現が入り混じっている話題の小説であった。
「読書会」で、みなさんに読んでもらい、感想を聴いた。7~8割の人が、否定的だった。なぜ、このような、読みづらい文章で、書かなければならないのかというのが、その理由であった。
10年に1作品しか書かない。(なるほど、だから、この文章)同人雑誌で、頑張ってきた。”人生”を書くことに捧げた人の文章である。(書くこと=生きること=仕事)
私も、学生時代同人誌「あくた」を主催した。13号まで出した。約7年かけて。詩集を出した同人が3人、小説を出した同人が2人、評論を出した同人が1人、俳句集を出した同人が1人、総勢60人が参加した、昭和の、70年代の、「同人雑誌」盛んなりし頃の話である。
『ざまくるう』羽島あゆ子著も、長い間同人雑誌で、小説を書いている人らしい。プロと素人作家のちがいが、読みとれる作品である。
(主人公=私)の作品であるが、作品世界が現実の(私)=作者の介入で、惜しいかな、小説が濁ってしまっている。分裂している。文章は、ある域に達しているのだが・・・。
黒田夏子と羽島あゆ子の作品を、比較してみると、同じ同人誌を舞台にしてきた作家だが、<作品>に、全人生をかけている人と、そうでない人の、美学の差が見えてしまう。(人生を棒に振る覚悟)
キリスト教なら、田川建三、イスラム教なら井筒俊彦、仏教は?空海は?村上保壽の空海の考察に出合って、はじめて、「空海の研究者」のコトバに出合ったと感嘆した。
結局、研究+実践がなければ、空海の思想は、読み解けない。評論→存在論→宗教実践論へと「空海のことば」を探求した者に、はじめて、邂逅した。感謝。
ジル・ドゥルーズの諸作は、いつも、新しい概念の時空へと導いてくれる、21世紀の、最高の書である。
ポール・ド・マンの諸作を読む。
翻訳者が、そのまま、解説者になり、哲学者になる、土田知則は、ボール・ド・マンとともに歩いている人だ。
それにしても、日本人は、必ず、翻訳から身を起こして、(考える人)になる。日本人の、ひとつの、パターンであろう。
友人の書を読む。
井出彰は、書評新聞とともに、人生を歩んだ人である。同時に、小説家でもある。時代の証人としての、コトバが光っている。
遠藤若狭男(俳人)。
大学の同級生である。「あくた」同人である。教師をしながら、一生、俳句を詠んできた。胃ガン、肺ガンと、転移したガンとともに、生き、俳句を人生の友とした男である。母へ、父へ、故郷・若狭への思いが、絶唱となっている。
それにしても、異常な夏は、9月も半ばだというのに、まだ、30度超えが続いている。
晩夏と初秋が入り混じって、区別がつかぬ、妙な年である。
秋の虫は、恋人を求めて、鳴き続けている。人間は、植物同様、枯れて、青息吐息である。3・11以降原発は、片が付くということがない。コントロールできぬ!!
超球宇宙にとって、小さな、小さな、地球という惑星に、人間が生きているという現象には、いったい、どんな意味があるのだろうか?
21世紀に生きる人間の、死生観、世界観、宇宙観は、どうなっているのだろうか?
宗教・科学という、文化・文明を、数千年かけて築きあげてきた人間は、今、大きなターニングポイントに立っている。
特に、日本では、3・11の、大津波、大地震、原発事故で、人間の科学の(知)がまったく役に立たず、政治家のコトバ、学者のコトバ、知識人のコトバも、信ずるに足らぬ、愚かなものばかりであった。意識が、ゼロ・ポイントに落ちて、判断中止、頭が空っぽになるおそろしい事態が続いた。人間が終ってしまう、メルトダウンの恐怖であった。
宗教者たちは、どんな役割りを果たしたであろうか?一番必要とされたのは、宗教者のコトバであり、宗教者の行動ではなかったか。
何人の「空海」が、災難に会った人々のところへ、死者たちの残された現場へと、飛んでいったのか。
空海には、ふたつの貌がある。「六大・四曼・三密」を思想の核とする、真言宗の宗祖の貌であり、、貧しい人、困っている人々を救ける、お大師さん(弘法)という貌である。
五大に皆響きあり 十界に言語を具す 六塵に悉く文字あり 法身は是れ実相なり『声字実相義』
六大 無礙にして常に瑜伽なり(体)
四種曼荼 各離れず(相)
三密 加持して速疾に顕わる(用)
『即身成仏義』
空海は、「自心の源底」を覚知して、コトバを、言語論から、存在論へ、存在論から、信仰論へと歩を進めている。『十住心論』。『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』は、真言宗の根本経典である。
世界の三十カ国語を、自由に読み書きした言語哲学者、井筒俊彦は、(イスラム教『コーラン』の訳者)空海の真言を、東西古今の経典、名著を引用した上で、日本人が達した最高の、世界的コトバ・思想であると、分析している。共時的、言語の分節化は、他に類を見ない、異文化、異宗教間の、コミュニケーションの華である。『意識と本質』
「存在はコトバである」という井筒の認識は、存在論、言語論、記号論、宗教論が、コズミックな領域まで達した時、はじめて、異文化、異宗教、異言語の壁を越えて、成立する証しであろう。
原典、原語を読むことが、学問の始まりである—原理・原則を語っている。異文化、差異があってこそ、それを承認してからこそ、対話がはじまる。空海の思想も、多言語の中から起ちあがっている。
大日如来。法身が語る—という困難を、思想化した時、コトバを、体、相、用と、自心の源底で覚知した時、空海の世界・宇宙が確立された。
『古事記』(万葉仮名)『日本書紀』(漢文)『源氏物語』(漢字ひらがな文)は、神道、歴史、仏教の思想の源である。天(神)に捧げた神聖文字・漢字が、中国から伝来し、漢字ひらがな混り文という、独自の、日本文を創り出した。(空海が、いろは歌を作ったという俗説もある)
良くも悪しくも、私たち日本人の思想も、その、日本文の中にある。
日本人は、曖昧である。カミも仏もいる。あはれ、無常、わび、さび、粋、日本文とともに、美の感覚は、実に、繊略である。寛容である。
一神教の、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教との対話が、可能かどうか、空海や井筒のテキストに学ぶしかない。
戦後、日本人は、経済と科学と常識に重点を移して、神道や仏教は、学校の授業から消えてしまった。宗教、修身、道徳がなくなって、倫理となった。(決して、スピノザのエチカ(倫理)ではない。)
村の共同体が壊れ、家が壊れ、個人が壊れ”便利”と”快適”と”効率”だけを重視して、経済的人間(エコノミックアニマル)として、生きてきた。
戦後六十余年、宗教に縁がなくて、文学のドストエフスキーのコトバに心酔してきた私も、3・11があって、やっと、日本の宝、空海のコトバ、原典に、立ち戻ってみようとしている、今日、この頃である。
(8月7日 高野山大学大学院レポート)
2801. 身体に芯棒がなければ歩けない。精神にも芯棒がなければ、考えられぬ。
2802. 塔に心柱があり、身体には背骨があり、精神には意識がある。
2803. 意識は、無限速度で刻を移動する(私)に絶えず、同伴をしておる。
2804. 存在の独楽が廻っているうちは、(私)は生きている。完全静止は(私)の終りである。宇宙も同じ原理だ。
2805. ”眩暈”は、起き上がることも、歩くことも、不可能にする。風景の固定は、自然な歩行の条件であった。
2806. 普通に歩くことが、どれだけ多くのエネルギーに支えられているのか、病気をして、”眩暈”にあって、やっと納得した。
2807. 「位置」は、眼と耳で決定される。姿勢を保つのも、足腰だけではなく、眼と耳の力が不可欠だった。
2808. 一兆億年後の、わが宇宙の死滅。ニンゲンは、そのことに、どんな感慨をもつだろうか?無限か永遠か!!
2809. 始まりも知らず、終りも知らず、存在の地平線の内で、今だけを生きている。
2810. 存在の地平の特異点はカミの手に似ている。
2811. 存在も非在も、あるものの見方にすぎない。(体、相、用)
2812. 無限速度でスピンする(私)。千の貌があっても不思議ではあるまい。
2813. 木が、石が、空が、定まって見えるか、ゆらぎの波と見えるか、眼という、能力にかかっている。
2814. 無から吹き上がってくる時空。”私”の顕現、(私)の発見。
2815. ゆらぎの、波の、偶然の、時と場に、存在というコトバが、結晶する。
2816. 宇宙にとって、ニンゲンという存在は何者でもなかった、何事でもなかった、そう断言できるか?
2817. 勝手に、(私)の全細胞が開いて、数十億年という時間を逆行して、単細胞に至ろうとする、そんな、存在自体のざわめきが聞こえる。
2818. 単細胞が見た夢の果てが(私)である、と言うのだろうか?
2819. 21世紀の最大の発見は、(無)から(有)が、つまり、時空が、コトとモノが発生したということであろう。
2820. 今朝も、(私)という存在に躓いて、ニンゲンを発見する、驚愕が、いつのまにか、普通のことになってしまった。
2821. 時空に放り出されてからというものは、もう、本能と知で、ただ、(生きる)をしてきただけだ。それが、何であろうと、同じことであるが。
2822. ニンゲンは、とりあえず、(社会的な役割り)を求めて、生きる、それを、仕事と呼んでいる。では、(宇宙的な役割り)とは、いったい、何であろうか?存在すること−そのものの意味だ!!
2823. (私)も、宇宙の一員であって、毎日、毎秒、コズミック・ダンスを踊っている。しかし、その行為が、何であるのか、まったく、わからない。
2824. つまり、死が、わからないように、生も、まったく、わからないのだ。
2825. 食べる、産むという、本能さえも、考えてみると、(私)には、よくわからない。
2826. 原子の、生命化が、なぜ、そうなるのか、根源的には、わからないように、だから、(私)は、他者を生きている。
2827. 空間に、昨日の、色と線と質感が戻ってきて、時間が流れている。実に、自然に。今日も、コトとモノのカオスの海を泳ぎ切ることができると、意識をした。
2828. 色の限界地点で、草木の緑がふるえている六月。色は、コトバに、存在そのものになって、歩いている(私)を襲う。不意に(私)は、無限時間の中を、おそろしい速度で通過している、と、宙吊りになったまま、思う。
2829. 緑の、色の、力に、時間も、空間も、ニンゲンも、共振れしている、六月である。
2830. 痙攣している六月。どもっている六月。浮遊している六月。光の中で、闇の中で、あたらしく、誕生するものがある。まだ、名前はないが。
2831. 痙攣する六月の歩行は、決して、知ることではなく、楽しむことである。何を?不可能を!!
2832. もう、生への燃え盛るような意思は起ちあがらないが、静かな、静かな、眼だけは在る。
2833. 起つ位置によって、人は、宗教を得、科学を得る。決して、否定しあう関係ではない。
2834. 事象を分析する科学。事象を生きる宗教!!
2835. 共存には寛容の精神がいる。
2836. 文学は、畏怖すべきもの、不可能との対話であり、そこに、ニンゲンがいる。
2837. 沈黙にも、おそろしい、エネルギーがある。決して、何も、考えていない、のではなく、ただ、存在の重みに、耐えているのだ。
2838. コトバよ、来い、あらゆるコトバよ来い、と叫んでも、来ないから、黙る。
2839. コトバを、存在に、存在を、祈りに変えてしまった、空海の真言の力よ。
2840. (科学)も(宗教)も、見えないものをみる。しかし、その、見えないものが、異なる。
2841. 3・11の現場を歩いたとき(私)=生命がひとつの痙攣になった。今日も、歩行のときに、ひとつの痙攣になった。
2842. 空海は、存在そのものを開いてしまう。だから、存在はコトバとなる。
2843. 空海とスピノザ。宗教者と哲学者である。自然を、存在を、宇宙にカミ・ホトケとして、開いてしまった二人である。
2844. コトバの位相。ニンゲンのコトバ、カミ・ホトケのコトバ。
2845. 宇宙に、(私)という身体を投げだす時、宇宙にそのまま流れる時空と合体できる。さて、跳べるか?
2846. 善も悪もない「自然」がある。原子の世界。「宇宙原理」である。善と悪がある「人間社会」である。原発の世界。「人間原理」である。
2847. 3・11の現場の光景は、ニンゲンが忘れていた、畏怖すべき「無」の力の顕現であった。そして、ニンゲンは、同時に、「悪」としての原発を確信した。
2848. さて、3・11の瞬間に、畏怖した「自然」の存在であったが、まだ、二年と三ヶ月しか経っていないのに、もう、ニンゲンの欲望だけが疾走している。暗愚のニンゲン。
2849. ニンゲンは、何を怖れているのだろうか?戦争、飢餓、貧乏、不幸、苦痛・・・ いやいや、唯一、(無)であろう。
2850. (無)に至る、存在の眩暈が、完全に終るならば。
夢を見るのはニンゲンだけであろうか?
夢を生きるのもニンゲンだけであろうか?
夢がたり 正夢 逆夢 白昼夢 夢占い 夢魔 夢じら
せ 夢合せ そして 夢枕
昔から ヒトは 夢を語ってきた
樹上に坐禅をした 鎌倉時代の 明恵上人は 一生涯
見た夢を綴り続けた 「夢記」
平成の詩人 一色真里は 「夢千一夜」 を記した もち
ろん 夢を科学して 無意識やリビドーを発見したのは
フロイドである 「夢判断」
他人から 見た夢の話を聴く 誰でもが 普通に経験す
る ありふれた話である ところが 他人の夢に 自分
が現れた 夢の話となると 少し 話がちがってくる
まして 夢枕に立ったと言われると、もっと奇妙なこと
になる
もう20年も昔のことである 五月の ある日の 早朝に
聞き覚えのない 女性の声で 電話がかかってきた 昨
夜 Nが死にました 何? なぜ? 肺ガンでした 死
ぬ少し前に あなたが 主人の夢枕に立ちました さよ
うならの挨拶に来てくれたと大変 喜んでいました 死
んだら お礼の電話を入れるようにと Nの遺言でした
返事に窮して お悔みを言ってみたが 父母でもなく
兄弟でもなく なぜ 友人の私であったのだろうと 長
い間 私の心に棲みついている声であった 昔から 夢
枕に立つのは 神 仏と相場が決まっているのに
Nはラグビーのボールを追っていた
私は ブラスバンドの指揮棒を振っていた
田舎の高校の同級生であった 無二の親友というのでも
なかった 東京の大学生の時二年間 同じ下宿にいた
その後も 街角で 街頭で 駅の改札口で 妙な出合い
かたをした 偶然というには 余りにも 変な縁であっ
た 最後に会ったのも 路上であった 俺 肺にカビが
生えているらしい 真黒な顔で 淋し気で 消え入るほ
どの声だった
昨夜 私の夢にNが顕れた どうだい? そちらこそ
どうだい? 夢も現も融け合って あらゆる境目が揺れ
時空もゆらぎはじめた齢になった あの時 君の夢枕に
立ったのは確かに私だとNに告げた
生きている存在だけが生きているのではない 死者も
また 生きている
深夜の 闇の中での 眼の訓練(レッスン)は もう 日々の儀式とな
った 時計が十二時を廻ると闇の底の 部屋のベッドに 横
たわって ゆっくりと眼を閉じて 呼吸を整え モノとコト
を消し 身体を消し コトバを消して 瞑想し 宇宙で一番
深い闇の底で あるモノを見る 眼の練習を開始する 宇宙
に浮遊して
眼があるだけではモノは見えない 赤ん坊は 生れると
毎日 モノを見るために 眼の使い方の練習(レッスン)をする 眼を開
けているだけでもモノは見えない 生まれつきの盲人が ある
日突然 眼の機能が回復しても モノは見えない 白い幕が
見えるだけだ 風景や顔を見るためには 眼の使い方の訓練(レッスン)
が必要だ
眼を閉じていても モノは見える 夢がある 記憶がある
幻がある 白昼夢がある 頭を強打した時には 瞼の裏に
光の火花が散る 指で両眼の眼窩を強く押し続けると 光
の洪水が見える 金色の光の海である
三ヶ月間 深夜の儀式を続けた ある日 突然 闇の中に
丸く白い暈(アロー)が顕現した 閉じた右眼の前方に 二 三セン
チの 十円玉ほどの柔らかい光の暈(アロー)が示現した 微かな 瞼
と眼球の動きで 消えたり 現れたりを繰り返した 闇の中
の華であった
半年が経った ある日 突然 光の形象が来た 眺めてい
ると 八種類の光の形象だった 全宇宙の モノの形は 基
本型が八つである 宇宙の原理だ 夥しい光の祭典だった
一年が経った いつもの 閉じた眼の前方に現れる 白く
丸く柔らかい光の暈が 突然破れた 開いた 見知らぬニン
ゲンの顔が現れた 顔は 数秒毎に 次から次へと入れ変わ
って 十人 百人 千人と増え 一向に止むことがない い
ったい何が起こってるのか 瞬間 身体の機能が壊れてし
まったかと一抹の不安が横切った 無数の顔は 何処から来
るのか 宇宙の無限遠点から 瞬間移動をしてくるのか あ
るいは ココロの 無・意識の アーラヤ識の 種子たちが
顔となって薫習(くんじゅ)してくるのか わからない 結局 無数の
顔の出現に畏怖を感じて 眼を開いた 眼の前には いつも
の 平凡な 部屋の闇があった
求めているのは 幻身である 誰も見たことがない その
手法もわからない 今日も 眼を閉じて 宇宙で一番深い闇
の底に 幻身を見る儀式は続いている
(注)「幻身」(チベット密教-ゲルク派・ツォンカパの幻身理論。
意識の上だけではなく、体外離脱をして、マンダラとともに、本当
の本尊の身体を出現させること) 絶対に、真似しないで下さい。
