日本初の批評家とも言える、中世の人・吉田兼好は、その主著『徒然草』で、人間が生きるための大事、必要なものは、衣・食・住であって、それに、医を加えて、四つが「安心」に生きられる条件だとしている。(百二十三段)「饑えず、寒からず、風雨に侵されずして・・・ただし、人皆病あり。」
八百年を経ても、人間の生活は、倹約で簡素で、シンプルが一番良い。
人類を脅かしてきたものは、天変地異(地震、津波、台風、大雪、火山の噴火、洪水、早魃)からくる飢餓、そして、いつまでたっても、地上からなくならない、戦争である。
誰もが、心が穏やかにくらせる「安心」と「安全」を願っている。
不安と心配のない、生活は、いつの時代でも、人間が願う一番の希望である。
文化、文明が高度に発達した21世紀の人間は、「安心」な生活を実現できたであろうか。
家は、会社は、社会は、便利で快適な電化製品であふれ、車・船・電車・飛行機は、人を、早く、労なく、遠くまで運んでくれる。
科学技術、医療技術、薬、病いは、予防と治療で、克服されたかに見えた。「安心」と「安全」な社会が実現された?
否である。
21世紀は、繁栄の影で、人間が傷つき、疲労し、病み、自死し、失業し、孤立し、苦しみ、悲しみ、悲嘆の底で喘ぎ、人間の存在そのものが、おそろしく、稀薄になった時代である。
この存在の、耐えられない軽さは、いったいどこから来るのだろうか?
もちろん、「安心」して生きている人間は、極く、少数であろう。
家の崩壊、学級崩壊、会社崩壊、そして、人間の、(私)の崩壊である。
衣・食・住・医が無いのではない。物もあふれている。テレビは、CMは、毎日毎日もっと買ってくれ、と叫んでいる。
効率、便利、数値を追いかけて、大量消費を美徳とした人間の、価値観、その手法が、人を、機械人間、働くマシーンにした。
競走に明け暮れて、疲労し、過労に陥って、病気になる、ウツ病、生活習慣病、失業、自殺、そして、ワーキング・プアー群。
「安心」は、どこにもない。衣・食・住すらままならぬ。生活というものが成立しない。将来に、不安を覚える若者、病気と介護におびえる老人。
不安、心配、ストレス、悩み、「安心」を得るための、基盤が崩れているのだ。
現代ほど、釈尊の「生、老、病、死」が、身に沁みる時代もないのではないか。四苦八苦しながら生きる、超高齢者社会が来た。病人であふれる為、医療費で国の財政は破綻寸前である。葬式の看板ばかりが目につく。
正に「安心(あんじん)」が求められる時代となった。しかし、信仰し、信心をして、宗教によって、目覚め、悟り、救われる「安心(あんじん)」にむかう人は少ない。
なぜか?大問題である。
人間は、人間になる為に生きる。
そして(私)を二重に生きる存在である。「社会的な私」と「存在そのものとしての私」である。
(私)には、(私)の場がいる。
ひとつは、社会の中で、仕事の場をもつことだ。もうひとつは、宇宙に生の一回性を生きる存在としての私の場をもつことである。
このふたつが、調和してこそ「安心」が生れる。
ところが、大半の人間が、(仕事=私)と考えて、生きている。地位、職場、役割り。
失業した人は、場がないから、(私)を失う。定年になった人は、名刺、椅子を失うから、(私)を失う。実は、社会的な、職場の(私)を失っただけで、(私)という、存在そのものに眼を向ければいいのだ。
背広を脱ぐ前と脱いだ後では、生きるスタイルを変えればいい。
吉田兼好も言っている。衣・食・住と医があれば、社会のあれやこれやを離れて、私自身を楽しめ、と。
人生の、21世紀の、本当の恐怖・畏怖を味わったのは、3・11東日本大震災と原発事故であった。
マグニチュード8を超える大地震、千葉から青森まで、海浜を襲った大津波、そして、ヒロシマの原爆の何十倍もの放射能を撒き散らしたフクシマの原発事故。
意識が完全に、ゼロ・ポイントに陥った。驚愕で、身振いが止まらぬ、大惨事であった。
3・11は日本人を震撼させた。
おそらく、「安全・安心(あんしん)」という神話が、科学の知が、完全に崩れ去った瞬間であった。その後も、政治家も、科学者も、本当のことを言わなかった。論理も言葉も死んでしまった。「安全・安心」は何処にもない。誰もが直感した。人間の手に負えぬものがある。われらが地球は、決して、安全ではない。科学の知など、自然・宇宙の運動に比べれば、一粒の砂だ。
ニンゲンの、生き方を、変えなければならない。もう、3・11以前の生き方は出来ない。
本当の、「安心」とは、いったい何だろう?
生活の「安心」は、存在の「安心」にかわらなければならない。
何処に、そんな言葉がある?何処に、本当に、「安心」できるものがある?
科学の知は、人間を、論理として、支えてきた。
しかし、21世紀になって、科学の知は、破綻した。
量子力学の出現。光の素粒子は、1が2になり、2が1になる、測れない。決められない。ハイゼンベルグからボームの研究まで。
超数学。ゲーデルの仕事。不完全性定理。
コンピューター。誰も、その経過を確かめられない。
不可測である。不確実である。不可知である。つまり、科学の知には「安心」がなくなった。(神はサイコロを振らない)(アインシュタイン)
フクシマの原発も、実は、人間がコントロールするのは、不可能であった。地球の中に小さな太陽を作ったのだから。プルトニウムの放射能の半減期は十万年である。たった百年も、いや、十年先も、見通せない人間が、原発を、継続するのは間違いである。
宗教の「安心(あんじん)」は、科学の知に支えられた生活の「安心(あんしん)」ではない。
人間とは何者か、何処から来て何処へ行くのか、という大問題、「生老病死」という人間の条件から発生する不安を、凝視し、信仰によって、実践し、「安心(あんじん)」を得る、覚者への道である。覚醒し、悟り、涅槃へ至る「安心(あんじん)」の仏教である。
浄土教は、阿弥陀仏を信じて、念仏を唱え極楽へ往生する、「安心(あんじん)」である。
禅宗は、坐って、瞑想し、「無」へと達して、「安心(あんじん)」を得る。(止観)
真言宗は、三密を実践して、即身成仏を祈る「安心(あんじん)」である。(三昧)
宗教は、「社会的な私」を棄てて、「存在としての私」に向き合う。生活の「安心(あんしん)」ではなくて、存在者の「安心(あんじん)」を求める。山川草木悉皆仏性。あらゆる存在が、宇宙そのものである。
江戸時代の、慈霊尊者は、宗派の争いを超えて、釈尊に帰れと説いた。
信仰、菩提心、21世紀の人間が、発心して、宗教へむかい、「安心(あんじん)」を得るためには、3・11の、未曾有の、大災害と、死者たち、被災者たちを、思えばよい。
家を失い、家族を喪い、仕事を失い、故郷を喪い、3・11以前の(私)を喪い、生存の根を断ち切られ、諸行無常に身を引き裂かれ、「安心(あんしん)」から見放され、せめて「安心(あんじん)」を求めるしか術がない。
水、毛布、灯油、おにぎり、薬、部屋、お金、仕事、対話、そして「安心(あんじん)」が必要であろう。
話せば心が壊れる人がいて、話さなければ心が壊れる人がいて、故郷に帰りたい人がいて、故郷の風景を見たくもない人がいて、東北の被災地は、まだ、まだ、風景まで、痛み、深く、傷ついている。
四泊五日の旅。釜石、大船渡、三陸と、壊れた風景の中を、黙って、歩き、話を聴き、わずかばかりの支援金を渡して、復興と復活と再生を祈り、人々が、傷ついたままでも、「安心(あんしん)」から「安心(あんじん)」へと、心の舵を切れるようにと、念じ、私の心も、共振れして、真っ暗に染って、青い海と青い空が、見えなくなった。
空海さんが、現れたら、同行二人してくれるだろうに。
「安心(あんじん)」を、人々に、説いてくれるだろうに。
「生れ生れ生れ生れて 生の始めに暗く
死に死に死に死んで 死の終りに冥し」 空海−(秘蔵宝鑰)
「安心(あんしん)」も「安心(あんじん)」の道も遠し
21世紀の人間である。
人間に、いったい、何が出来る?
奉仕の気持で生きるだけだ。
(平成24年12月13日 高野山大学大学院レポート)