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• 水曜日, 10月 10th, 2012

ニンゲンには、
光に”無限”を直観して、感受する、心的な力がある。(永遠、聖なるもの、畏怖すべきもの)
また、神、仏に感応する、神的な力もある。仏像は、イコンは、(信)という力でもって、神や仏へと、異次元へと跳ぶための、ひとつの仮の形、表徴であろうか。(眼に見えぬものを見るために)

眼に見えない、放射能、素粒子・ヒッグス粒子と、眼に見えない、神や仏と、いったい、何が、どのようにちがうのだろうか?
素粒子は、理論で、数式で、実験で、科学の(知)が証明したものである。
眼に見えない、神や仏は、信じるという(信)の力で証明するものである。
(考える)と(信じる)は、同じコトバというものであるが、その、位相と意味が異なる。哲学、科学の(知)と、宗教の(信)

阿弥陀三尊像(京都・三千院)

光。今も昔も、光は、人間を魅了して止まない。太陽の、月の、2000億個の銀河の、2000億個の恒星の、無限遠点から来る、光という宇宙からの音信に魅惑されて、それを読み解きたいと思う。宇宙は、読み解くための巨大な本であり、光は、その中心にある存在である。
光の光子は、1かと思えば2になり、計測しようとすると、2が1になる、正に、量子論的な存在である。

阿弥陀如来は、無限の光を放つ仏である。宗教にとって、光は、聖なるもの、崇高なるものの象徴として欠かせない。聖書でも、天地創造のはじめに、神が、光あれと言えば、光があらわれた。
仏教でも、光は、さまざまな役割りを果たす、聖なる存在である。

「阿弥陀」
「大乗仏教における最も重要な仏の一つ。<阿弥陀仏><阿弥陀如来>と呼び、略して<弥陀>ともいう。」(仏教辞典)
「[原語と訳語] サンスクリット原名は二つあり、Amitaayusは、<無限の寿命をもつもの、無量寿>Amitaabhaは<無限の光明をもつもの、無量光の意味で、どちらも<阿弥陀>と音写された。」(仏教辞典)

光という語を、その名前に冠した仏、阿弥陀は、インドで誕生したが、太陽神、アラーの神の影響を受けたという説もある。
光り輝く阿弥陀は、西方の、極楽浄土・光の国に棲んでいる仏である。

平安末期から鎌倉時代にかけて、末法思想が浸透して、人々は、戦乱、飢餓、病い、大地震、大津波の現世を厭い、極楽浄土へ往生することを願い、阿弥陀に救いを求めた。
阿弥陀は、四十八の本願を立て、その中でも、十八願は、一切の象生は、阿弥陀の名を唱えるだけで、往生できる、それまでは、菩薩から悟りをひらいた如来にはならぬと約束を誓った。

和歌山の、補陀落渡海は、舟に乗って、西方の極楽浄土をめざす信仰であった。僧たちは、浄土をめざした。飲みもの食べものもなく、舟に乗って、泣く泣く、海へ、西方へ、浄土を願って、漕ぎ出した。光の国を求めて。
現世は、苦であり、闇の世界である。浄土思想は、光を放する仏、阿弥陀のいる、極楽浄土で救われたいという、他力本願の思想である。

ただ、ひたすら、南無阿弥陀仏の六文字を唱えれば、往生できるという、実に、シンプルな思想は、法然、親鸞の出現で、頂点をむかえた。
空海の、真言の、三密の、深遠な、哲学的宗教思想は、天皇、貴族の知識人の心を捉えたが、浄土教、浄土真宗は、武士、庶民、大衆の心を魅了した。

京都の、山間の、大原の地に「三千院」がある。歩いて、約三十分ほどの「寂光院」とともに、日本人に人気のある、天台宗の古刹である。
青不動で有名な青蓮院・妙法寺とともに、延暦寺の三門跡のひとつである「三千院」には、阿弥陀三尊像が設置されている。
阿弥陀三尊像が安置されている極楽院本堂は、平安時代の遺構で、まるで、舟底型のように、灰暗くて、狭い。
二十歳の頃から、春、夏、秋、冬と、桜、青葉、紅葉、雪の風景を楽しみながら、四度ばかり訪寺をした。
渡来人の仏師たちが伝えた、シンプルな飛鳥の仏たち、飾りの増えた白鳳の仏たち、仏像の様式、技術が爛熟とした天平の仏たち、男性的で、神秘的な、空海の時代、平安前期の仏たち、そして、終に、日本風な、オリジナルの仏たちの出現した、藤原時代。日本の、定朝、運慶と、仏師たちも、大和風な、<美>の世界を表現した。

「阿弥陀三尊像」(1148年)

結跏趺坐、印は、定印ではなく、右手をあげ、左手を膝の上に置いた、来迎印。背景には、金色の十三仏と十三仏種子、顔は、いつもおだやかで、半眼、瞑想、三味地に入ったかのようで、親しみのあるリアリズム。光を放つ白毫が、額に確と刻まれている。
脇侍は、膝を折り曲げ、手に蓮台を持ち、宙を飛んでいるように、前傾姿勢である、観音菩薩。同じく、同じ姿勢で、合掌印をつくり、蓮の台座の上に坐っている勢至菩薩。
二つの仏の特徴は、光を放射する、光円と光条があることだ。

仏たちの、
光を放つ、光を発するものに、白毫がある。頭光がある。眼がある。毛穴がある。舌の根がある。(長舌相)
光は、三千大千世界を照らしだして、正しく完全な悟りに(無上等正覚)導くためのものである。光は、五色の糸(紙)でも表現される。象生は、何もしなくても、仏たちを拝って、光を浴び、南無阿弥陀仏を唱えればいいのである。
十三観に「日想観」がある。太陽、光をイメージする瞑想である。
光は、力、エネルギーである。仏たちは、光を放つ。あるいは、瞑想の中で、仏を胸にして、光を放ち、本当の仏を、光の手で、捉えるという手法もある。
光は、山と日常を、天と地を、結ぶ、降臨する光、昇天する光、あらゆる境界を、結びつけるのが(光)である。

文学にも、見事に、(光)を表現した作品がある。
「ひかりごけ」(武田泰淳作)である。
テーマは、「難破船長人喰事件」だ。戦時中、軍の船、清神丸(乗組員7名)が、嵐で漂流、難破、洞窟のある、無人島に上陸。何も食べるものがなくて、仲間たち、人間を食べあい、最後に、船長が生き残る話。
羅臼の村で、地元の校長先生に、ひかりごけを見るために、ある洞窟に案内される話。戯曲として、生き残った、船長他三人が、人肉を食べる場面。船長が裁判所で、裁きを受ける場面、の三部構成。人間の肉を食べた者には、頭の後に、光の輪ができる。人肉を食べた人には見えないが、罪を犯していない人には見える。その光が、植物の放つ、ひかりごけの光に似ているのだ。

人間の原罪を考える作品である。裁判長も、検事も、弁護士も、その光が見えないという。船長は、もっと見てくれ、あなたたちは、食べていないのだから、俺の頭の後にある、光の輪を見てくれと叫ぶ。
実は、傍聴人たちにも、見えない。武田泰淳は、実は、読者にも、見てくれ、と叫んでいる。
”我慢”あらゆる我慢をして生きている船長の思想に、普通に生きている、と思っている人々は、どう応えるか。サルトルの「嘔吐」よりも、更に、深い、東洋の思想を、「ひかりごけ」は、表現している。
実は、泰淳は、お寺の生まれで、得度している。僧でありながら、共産主義に加担した。兄は、浄土宗の高僧である。

「光は、まだまだ謎である。

アミダブツよ、
3.11の被災地に
光の慈雨を
降らせてよ!!

※最高の光は、大日如来、法身であった。 H24.8

(高野山大学大学院レポート)

Category: 空海への旅
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