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• 水曜日, 1月 23rd, 2013

千年たっても、二千五百年たっても、人間という存在(生きる−死ぬ)というコンセプトには変わりがない。「諸行無常」の風は吹き続けている。

文明・文化の発展・進歩も、人間という存在の(生・老・病・死)は変えようがない。

いつの時代でも、(生きる)は四苦八苦の生活であり、(死ぬ)は、恐怖と不安に変わりはない。

生活の「安心(あんしん)」から、人間存在の「安心(あんじん)」。つまり、宗教が求められる。

「人となる道」を説いたのは、江戸時代の慈雲尊者である。儒教、神道、禅宗、密教を修学し、天、神、仏に「安心(あんじん)」を求めた博識強記の人で、梵字悉曇の、慈雲流を起こし、葛城神道を唱えた。

宗教の、宗派を疑い、風紀の乱れた江戸の太平に、釈尊に帰れと、「正法律」を唱えた僧である。

「人となる道」は、貴族、武士、町民に、「十善戒」の実践を説いた、法話集である。

人間は、放っておくと、本能で生きる動物になり、決して(人)となることは出来ない。

出家者であれ、在家信者であれ、凡夫の衆生であれ、「十善戒」の実践があってこそ、「人となる道」を歩むことができる。「十善戒」は、密教真言の、身口意を、そのまま含んでいる。「十善法話」は、そのまま、21世紀を生きる現代人にも、有効である。

明治生まれの、栂尾祥雲の『真言宗安心読本』は、古代から近代に至る、宗教の「安心(あんじん)」説を展望して、自らの「根本安心(あんじん)」の確立への道を説いた本である。

栂尾祥雲の「根本安心」を読み解く前に、中村本然著「密教の安心(あんじん)」にそって、仏教の「安心(あんじん)」の歴史を追ってみよう。

①釈尊の「安心(あんじん)」は涅槃(ニルヴァナ)である。
(生、老、病、死)の人間世界苦を自覚し、発心をして、出家、修行、その仏果として、煩悩を棄て、業(カルマ)を絶ち、解脱して、一切の迷いのない「安心(あんじん)」の境地・涅槃へと至った、覚者、ブッタである。「戒、定、慧」−仏教の誕生である。

②浄土宗(法然)念仏を唱える「安心(あんじん)」
ただ、ひたすら、南無阿弥陀仏と念仏を唱えて、浄土へ、というシンプルな、浄土宗の手法は、大衆の間に、人気を博して、「安心(あんじん)」を約束した。

③浄土真宗(親鸞)信心する「安心(あんじん)」(他力)
阿弥陀仏の本願を信じて、浄土への往生を願う「安心(あんじん)」、不動の信心をもつ、他力による救いの「安心(あんじん)」。
妻帯し、僧でもない、俗でもない、信心の人・親鸞の、真宗は、貴族のものであった仏教を、武士から庶民へと拡大し、隆盛を極めた。鎌倉新仏教の祖師。念仏を弾圧され、遠流となり、還俗した。悪人正機説をといた「歎異抄」は、現代でも、説得力がある。

④禅宗(道元)坐禅する「安心(あんじん)」
中国で華ひらいた、禅である。祖・達麿。禅は、坐禅によって、一切を超越し、「無」の境地に至って、大悟を得る「安心(あんじん)」である。
直指人心、見性成仏を核とする。不立文字の世界であるが、禅問答は、ダブルバインド(ベイトソン)の理論と同じ、非A、非Bと否定を重ねて、別の位相に至る手法である。
山は山である。
山は山ではない。
やはり、山は山である。

さて、密教・真言宗の「安心(あんじん)」とは何であろうか。秘められた教えの、真言は、口舌の浄土門とは異って、口伝であり、師資相承であり、広く、大衆に説き聞かせるものではない。儀礼と法会が中心であるから、念仏を唱えたり、弥陀の本願を信じたり、坐禅をするといった、シンプルなものではない。

面授でしか伝達不可能な秘教である。
阿息観、阿字観、五相成身観、身に印を結び、口に真言を唱え、意を三昧地に、という三密も、師資相承でなければ、理解、習得が出来ない。

仏教の目的は、仏(ブッタ)になることである。

真言の目的は、即身成仏することである。

発心し、三密の行を実践して、即身成仏をする。密教・真言では、仏になるのではなく、私の中にある仏に目覚めることである。この身、そのままに、仏になるということは、私が大日如来と合体する。入我我入で、大日如来という宇宙が私であると、悟ることにある。

真言の「安心(あんじん)」は、なかなかに、むつかしい。

栂尾祥雲は、古来の「安心(あんじん)」から近世、近代、現代の「安心」を、読み解いている。

「如実知自心安心、菩提心安心、本不生安心、凡聖不二安心、密厳仏国安心の五種は、何れも密宗安心の標的たる絶対不可思議境を異った言葉で表現したに過ぎない」(根本安心)

古来の安心説には、他にも、十方浄土、都率浄土、西方浄土(枝末安心)安心があり、安心及び起行として、即身成仏(理具、加持顕得)三句(菩提心、大悲、方便)安心、そして、起行として、三力(自力、他力、法界力)三密修行(三密双修)光明真言(一密口唱)がある。

起行とは、信心が身口意のはたらきの上に現れた行為、実践のことである。

「安心」と「起行」という分類が、栂尾祥雲の手法である。

栂尾祥雲による、
先人、他者の「安心」説への批判と否定には、いくつかのパターンがある。

①安心を確立した後の起行に属するもの。即身成仏安心、三句安心、三力安心など。
対象(長谷宝秀。三句安心説)否定

②二種、三種の安心を立てる。
「安心」はひとつである。
出家者の安心、在家者の安心と区別し分ける。あるいは、初心者、上級者と分ける。上根、中根、下根と、その人の修行のレベル、知識、階級で分けるなどは、あってはならない。即身成仏できる人、極楽往生できる人と区別するのは、本当の真言行者ではない、と厳しく批判する。(総安心・別安心など)

③経典に、その拠るところの、文がない。説かれていないものは、正統密教の「安心」とは言えない。(定、散二種安心)

では、栂尾祥雲の、真言の「安心」とは、何であろう?「根本安心」の意味は、どのようなものであろう?

「安心(あんじん)」という言葉は、浄土門が使いはじめたもので、真言宗には、江戸時代の、憲深が「宗骨抄」で使用したのが、初出である。

宗祖・空海は、その主著「十住心論」で、「住心」「無畏」「信心」を「安心(あんじん)」と同じ意味で用いている。

栂尾祥雲の着眼は、「住心」を「安心」とし読み変えることにある。言うまでもなく「十住心論」は、心の、信仰のステップを十段階に別け、動物のような、本能のみで生きる心・羝羊の第一住心から、最高の悟りの状態である、秘密荘厳の第十住心に分類されている。同時に、どの宗派が仏果をよりよく得ることが出来るか、理論的に論じた、仏教の構造論ともなっている。

正に、空海の、仏教思想のパースペクティブである。

「大師は安心と云ふことの代わりに住心なる語を用ひ、真言の安心を自ら掲揚して秘密荘厳心を説かれている」(読本より)

「秘密荘厳安心と云ふ中には、如実知自心と云ふことも菩提心と云ふことも本不生と云ふことも、凡聖不二と云ふことも密厳仏国と云ふことも悉く包含され」ていると考えている。

これが、栂尾祥雲の主張する「根本安心」である。

『大日経』で説かれた、六無畏を、六種安心として、それを発展させて、十住心とし、真言の安心とした。

自心の源底にまで至った、空海の、真言の究極のコトバを、井筒俊彦は、マラルメの絶対言語、禅、芭蕉、サルトル、荘子、東西古今のあらゆる言語を分節化して、最高の言語=コトバとしている。

また、人間の(知)を、本能から、学習、メタレベルへと5段階に分類した、20世紀の(知)の巨人、ベイトソンの「精神の生態学」は、空海の『十住心論』と均り合っていて、天才空海の、構造主義が、充分に、現代にも通用することを示していて、興味深い。

さて、現代の「安心(あんじん)」はどうであろうか?

弘法大師入定信仰、高野山浄土信仰、同行二人信仰が一般の大衆に広がりを見せている。これらは、もちろん、「即身成仏」思想からの派生でもないし、祖師空海の時代にはなかったものである。(中村本然)

秘められた教、口伝、師資相承、面授を中心に、布教された、密教、真言も、口舌でもって、大衆に説かねばならぬ時代である。

確かに、念仏や坐禅に比べると、密教・真言は、その宗旨を、一言で言うとなると、なかなか難しい。

梵字、三密、如実知自心、即身成仏、秘密荘厳、本不生、凡聖不二、どれも、言葉を聴いただけでは、わからない。シンプルで、主旨がそのまま伝わるコトバは見つからない。

栂尾祥雲は、大師の御宝号「遍照金剛」を現代の密教安心としてあげている。

どうであろうか?

(平成24年12月21日 高野山大学大学院レポート)

Category: 空海への旅
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