Archive for the Category ◊ 読書日記 ◊

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• 水曜日, 3月 28th, 2012

1. 「ドストエフスキーと秋山駿と」(情況新書刊) 秋山駿VS井出彰共著
2. 「日本的霊性」(岩波文庫刊) 鈴木大拙著
3. 「般若心経・金剛般若経」(岩波文庫刊) 中村元・紀野一義訳注
4. 「空の論理」(春秋社刊) 中村元著
5. 「日本真言の哲学」(大法論閣刊) 金山穆韶・柳田 謙十郎共著
6. 「般若経の真理」(春秋社刊) 三枝充悳著
7. 「密教の歴史」(平楽寺書房刊) 松長有慶著
8. 「空海入門」(法蔵館刊) 高木訷元著
9. 「空の論理(中観)」(角川ソフィア文庫刊) 梶山雄一・上山春平共著
10. 「ガンダーラ美術にみるブッタの生涯」(二玄社刊) 栗田功著
11. 「華厳経」「楞伽経」(東京書館刊) 中村元著
12. 「新釈尊伝」(ちくま学芸文庫刊) 渡辺照宏著
13. 「西行物語」(講談社学芸文庫刊) 桑原博文訳注
14. 「認識と超越」(唯識)(角川ソフィア文庫刊) 服部正明・上山春平共著
15. 詩集「残り灯」(土曜美術社出版販売刊) 山野井悌二著
16. 「瓦礫の中から言葉を」(NHK出版新書刊) 辺見庸著
17. 「密教、自心の探求」(大法輪閣刊) 生井智紹著
18. 「遍路巡礼の社会学」(人文書院刊) 佐藤久光著
19. 「四国遍路と世界の巡礼」(法蔵館刊) 研究会編
20. 「四国遍路の宗教学的研究」(法蔵館刊) 星野英紀著
21. 「親鸞」(激動篇)上・下(講談社刊) 五木寛之著
22. 「『大日経』入門」(大法輪閣刊) 頼富本宏著
23. 「<世界史>の哲学」(古代篇)(中世篇)(講談社刊) 大澤真幸著
24. 「古寺巡礼」(岩波文庫刊) 和辻哲郎著
25. 「山家集」(岩波文庫刊) 佐々木信綱校訂西行著
26. 「一般意志2.0」(講談社刊) 東浩紀著
27. 「『金剛頂経』入門」(大法輪閣刊) 頼富本宏著
28. 「密教瞑想から読む般若心経」(大法輪閣刊) 越智淳仁著
29. 「理趣経講讃」(大法輪閣刊) 松長有慶著

”わかる”というのは不思議な力である。
”言葉”の意味を本当に”わかる”とはどういうことであろうか?
人は”母語”でしか、わからないものか?あるいは、翻訳語でも、”わかる”ということは、可能なのか?

最近、仏典を中心に、仏教関係の「本」を集中的に読みはじめて、さまざまな疑問が湧いてきた。”コトバ”に関してである。

新聞で、明治の文豪たち、夏目漱石、森鴎外、樋口一葉、泉鏡花の文章を、現代語に翻訳をしないと、若い読者たちには、読むことができない、という記事を見たのは、何時のことだろうか。
明治の文学も、終に、江戸時代の文学と同じように、古典になってしまったかと、感慨深いものがあった。
明治から百数十年、外国語の翻訳の時代が続いた。本は、翻訳で読み、音楽はレコードで聴く時代であった。21世紀。世界が、コンピューターで、つながる時代になって、英語が、共通語・世界語になりつつある。
パソコン、インターネットの用語は、ほとんどが英語であって、用語は翻訳すらされないまま、そのまま、日常語として飛び交っている。
会議も、会話も、報告書も、すべて、英語を使用する、日本企業が現れた。
日本が滅びる、日本文化が消える、日本民族が滅亡する、そんな危機感すら漂いはじめた、グローバル化の時代である。

そんな時代に、漢文で書かれた仏典や仏教書を読む。
もちろん、仏教事典、密教事典を牽かなければ、読めない。
「源氏物語」「平家物語」「方丈記」「徒然草」と同じ、古典であるが、古文と仏典は、まったくちがう。

仏典は、基本的に、呉音で読む。通常の古典は、漢音で読む。
●変化(へんか) → 変化(へんげ)
●微妙(びみょう) → 微妙(みよう)
●来影(らいえい) → 来影(らいよう)
また、同じ漢字でも、意味がちがう。
(識)(心)(方便)
仏教の原典は、古代インドのサンスクリット語、パーリー語である。中国語に、翻訳されて、中国風になる。そして、日本に伝わり、日本語に翻訳され、読み下し文となり、現代の、漢字・ひらがな混り文という「日本文」になった。
つまり、二回、三回、原典から、翻訳されて、日本風な、”仏教”が成長していく。
コトバの変化に、意味は、どうなった?
「意味」は、度重なる翻訳に耐え得るのか?

「空海」の著書を、原文で読めるのは、専門の研究者くらいのもので、一般の日本人には手に負えるものではない。

意味を正しく読みとるには、原文を読むしかない。しかし、専門家以外の人は、原文を読めない。
”翻訳”には、広く、現代人に、読まれる為には、欠かせないものである。

一番困るのは、仏典も、漢字、現代の日本人が知っている漢字で書かれているのに、読み方とその意味が異なる点である。
そして、仏教用語としての漢字を、日本風に翻訳すると、なんだか、気が抜けたビールみたいに、別のものに、変わってしまうことだ。
本当に、翻訳は可能かと考えてしまう。

信仰としての特別の宗教をもっていない日本人が大半を占める現代である。
”信仰””信心”という前に、コトバの問題(仏典、お経等)が、大きな壁になっているのではないか。
誰も読めない、仏典では、仏教が、宗教が、人々の間に、広がらないのは、当然であろう。
コトバは生きている。
時代とともに変化する。
その時代の、その人の”母語”がある。
”母語”で考え、”母語”で感じる。
漢字とひらがなとカタカナの、このゆるやかな、あらゆるものを吸収する”日本語”のダイナミズムに、”仏典”も、対応を迫られていると思う。

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• 金曜日, 12月 09th, 2011

①「エネアデスⅠ・Ⅱ」(中公クラシックス刊) プロティノス著
②「ヨーガ①」(せいか書房刊) エリアーデ著作集⑨
③「社会は絶えず夢見ている」(朝日出版社刊) 大澤真幸著
④「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書刊) 橋爪三郎×大澤真幸著
⑤「神秘の夜の旅」(トランスビュー社刊) 若松英輔著
⑥「娘巡礼記」(岩波文庫刊) 高群逸技著
⑦「世界宗教史」(ちくま学芸文庫刊) ミルチア・エリアーデ著
⑧「阿字観瞑想入門」(春秋社刊) 山崎泰廣著
⑨「仏教入門」(東京大学出版会刊) 高崎直道著
⑩「マンダラ事典」(春秋社刊) 森稚秀著
⑪「密教」(岩波新書刊) 松長有慶著
⑫「空海コレクション①」(ちくま学芸文庫刊) 宮坂宥勝監修
⑬「空海コレクション②」(ちくま学芸文庫刊) 宮坂宥勝監修
⑭「これはペンです」(新潮社刊) 円城塔著
⑮「超訳 ニーチェの言葉」(ディスカヴァー21刊) 白鳥春彦編・訳
⑯「蜩の声」(講談社刊) 古井由吉著
⑰「不可能」(講談社刊) 松浦寿輝著
⑱「存在の一義性を求めて」(岩波書店刊) 山内志朗著
⑲「密教辞典」(法蔵館刊) 佐和隆研編
⑳「宇宙は本当にひとつなのか」(講談社ブルーブックス刊) 村山斉著

9月から、本気になって、「空海」を読みはじめた。
機が熟したのかもしれない。「本」は、読む年齢によって、味わえる質がちがう。

20代の頃、「空海」の著作集を購入したが、歯がたたなくて、本棚に入れたまま、放ってあった。生きてみなければ、わからない、理解できない「本」がある。いや、頭でわかっても、身にしみて、なるほどと納得することはない。

「空海」の文章は、もう、現代人には、読みとれなくなっている。だから、「密教辞典」を索きながら、ゆっくりと、ゆっくりと読む。
宗教論、言語論、心理学、身体論、存在論、当時の総合的な、哲学の書である。
詩文もある。戯曲もある。随筆もある。碑文もある。手紙もある。引用が多い。すると、その引用の原典も読まなければならない。「空海」の文体を、感じられるようになるまで、何年かかるだろう。

とにかく、4年間、「空海」の主著を中心にして、読んでみよう、と考えて、高野山大学の門をくぐった。3.11以前の私には、考えられぬことである。
「空海」へと歩く、旅のはじまりである。どうなることやら、私にも、わからない。

結局、「空海」を読みはじめると、密教について、古代インドについて、中国について、中世について、キリスト教について、イスラム教について、というふうに、次から次へと、読むべきものが、根を張っていくのだ。

そして、「読む」と「瞑想」と「実践」が、ひとつにならないと、(三密)、(空海)さんは、わからない、ということが、わかってくる。精神と言葉と身体(意・口・身)で世界・宇宙を知る手法が密教であるから。

小説「不可能」は、松浦寿輝の三島由紀夫観から作られたものである。老いを嫌悪した三島由紀夫が、老人になるまで生きたら、という仮定のもとに、書かれた小説である。

社会学者、大澤真幸の「本」は、(知)であふれていて、刺戟を受ける。実に、面白い発想であり、切り口の斬新さ、読み込みの深さに驚かされる。が、いつも、最後に、さて、本人は、どうなんだと考えてしまう。小説で言えば、「私小説」の芯の、肉声がないのだ。

「娘巡礼記」は、若い娘が、四国八十八ヶ所を歩いて、巡礼する話、紀行文である。「遍路」本の元祖とも言える、古典である。歩くところに、物語が、発生する、だから、遍路は面白い。

村山斉の「宇宙・・・」は、終に、人類は、まったく新しい、宇宙論の時代に突入した、と教えてくれる、誰にでも、わかる本である。ニュートン、アインシュタインと進化してきた宇宙論が、原子・ニュートリノ・素粒子論が、否定される。10の500乗個の宇宙。原子で出来ていた宇宙が、実は、そうではなかった、まるで、もう、SFのような宇宙論。

※お受戒を受けた。
 阿息観を教わった。
 月輪観を教わった。
 「阿」字観を教わった。

深遠な、密教の世界への入口である。
確かに、「空海」を読むだけでは、なるほど、半分も、わからないはずだ、と、認識ができた。
「読む」と「実践」である。

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• 月曜日, 10月 03rd, 2011

①「詩の礫」(徳間書店刊) 和合亮一著
②「詩ノ黙礼」(新潮社刊) 和合亮一著
③「詩の邂逅」(朝日新聞出版刊) 和合亮一著
④「『井筒俊彦』叡智の哲学」(慶応義塾大学出版会刊) 若松英輔著
⑤詩集「ガラスの中の言葉達」(土曜美術社出版販売刊) 由羽著
⑥「『生』の日ばかり」(講談社刊) 秋山駿著
⑦「地上の人々」(パロル舎刊) 井出彰著
⑧「マホメット」(講談社学術文庫刊) 井筒俊彦著
⑨「アラビア哲学」(慶応義塾大学出版会刊) 井筒俊彦著
⑩「神秘哲学」(慶応義塾大学出版会刊) 井筒俊彦著
⑪「露西亜文学」(慶応義塾大学出版会刊) 井筒俊彦著
⑫「読むと書く」(慶応義塾大学出版会刊) 井筒俊彦著
⑬「震災歌集」(中央公論新社刊) 長谷川櫂著
⑭「生首」(毎日新聞社刊) 辺見庸著

言語哲学者・井筒俊彦の主著「意識と本質」を再読・熟読をした。3・11以降でも、安心して、読める数少ない本のひとつである。

今回は、20歳の大学生に戻って、丁寧に、ノオトを執りながら、読んでみた。サルトルの名作「嘔吐」から、西洋の知と東洋の知が、構造的に、解き明かされていくのだ。宣長、芭蕉、リルケ、マラルメ、ソシュール、ユング、孔子、老子、古代インド、イスラーム、大乗仏教から禅、胡子、道元、プラトン、そして、真言の空海まで。井筒のコトバは、時空を超えて疾走する。その快感に身をゆだねる。

いったい、井筒俊彦のコトバは、どこから来たのだろう?そう思って、手に入る、井筒の本を買い集めて、読みはじめた。アラビヤ文学からロシア文学まで、30の国のコトバを自由自在に、読み書きできたという、正に、語学の天才である。

そんな時、若い評論家が、井筒俊彦を論じた「本」を処女出版した。若松英輔である。はじめての「本」が、井筒俊彦についてというのもすごいことだ。

「読むと書く」に、高野山での井筒の講演会録が入っていて、「存在はコトバである」と、空海、密教、真言の核に、言語学者として、挑戦して、謎を読み解く手法には、驚愕した。

「マホメット」「アラビア哲学」「神秘哲学」と若き日の、井筒俊彦がその思考を深めていく、行程は、実に、スリリングであった。

3・11に関して、和合亮一の詩、長谷川櫂の短歌、辺見庸の詩、(「眼の海」−わたしの死者たちに)=「文學界」は、私のココロを打った。

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• 火曜日, 6月 14th, 2011

1. 「『古事記』神話の謎を解く」(中公新書刊) 西條勉著
2. 「新約聖書」訳と注 ルカ福音書(作品社刊) 田川建三著
3. 「ホーキング、宇宙と人間を語る」(エクスナレッジ刊) スティーブン・ホーキング著
4. 「イエーツ詩集」(思潮社刊) 加島祥造訳
5. 「文学のプログラム」(講談社文芸文庫刊) 山城むつみ著
6. 「折口信夫文芸論集」(講談社文芸文庫刊) 折口信夫著・安藤礼二編
7. 「ハイデガー『存在と時間』の構築」(岩波現代文庫刊) 木田元著
8. 「ゲーデルの哲学」(講談社現代新書刊) 高橋昌一郎著
9. 「知性の限界」(講談社現代新書刊) 高橋昌一郎著
10. 「森の生活」上・下(岩波文庫刊) ウォールデン著
11. 「青春の門」第七部(講談社文庫刊) 五木寛之著
12. 「空海の思想的展開の研究」(株トランスビュー刊) 藤井淳著
13. 「少年殺人者考」(講談社刊) 井口時男著
14. 「自由訳般若心経」(朝日新聞出版刊) 新井満著
15. 「福島原発人災記」(現代書館刊) 川村湊著
16. 「黒い雨」(新潮文庫刊) 井伏鱒二著
17. 「三陸海岸大津波」(文春文庫刊) 吉村昭著
18. 「超高齢社会」(アドスリー刊) 坂田期雄著 ●書評 http://www.adthree.com/
19. 「賑やかな眠り」(土曜美術社出版販売刊) 詩集 宇宿一成著
20. 「十六の話」(中公文庫刊) 司馬遼太郎著
21. 「意識の形而上学」(中公文庫刊) 井筒俊彦著

3・11以後は、頭の大半が、地震・津波・原発事故に占領されているためか、読書を楽しむから、読書の果てに、究極を求めてしまう傾向が現れた。

できるだけ、必要のないものは、読まないようにしたい。作品は、作者が、どれだけ、心を深く沈めて書いているかで、だいたいの出来、不出来は決まってしまう。

「東日本大震災」についても、雑誌や単行本や特集記事を読んでいる。同じ言葉を書いていても、同じ主旨の文章を書いていても、被災者であるか、そうでないかで、言葉の意味は、まったく違ってしまう。

例えば、詩人の、和合亮一は、日経新聞にエッセイを書いていた。3・11以前の話である。日常の、(私)をめぐる、個人的な話を、緊張感のない、文章で書いていた。凡庸な詩人だと思って、評価できなかった。

ところが、3・11を体験して、同時進行で書き続けている「詩の礫」は、同じ人間の作品とは思えない、秀れた詩であった。考えて、書いているのではなく、(私)に来る言葉を、そのまま、叩きつけて、書いているのだ。人が変身したというよりも、(場)が(状況)が、和合亮一という詩人を借りて、語らせている、そんな具合である。

西條勉も、今、人間に、何が必要かを、古代の、古典を追うことで、現代を、逆に、照らし出そうとしている。私の、大学時代の友人である。

山城むつみの「ドフトエフスキー」の発想がどこから来たのか、「文学のプログラム」が教えてくれる。「古事記」「万葉集」の、中国語を使って、日本の文章を書くという行為の研究に、その発想の根があった。

井口時男の「少年殺人考」は、異様な殺人者、殺人行為に興味があって、書いたものではなく、殺人者となった少年たちの言葉、言語表現を追求していくというスリリングな一冊である。

今年から、本格的に、密教、空海に関する書物、空海の著作を読みはじめた。「空海の思想的展開の研究」は、700ページを超える大冊である。作者・藤井淳は、まだ、30代の若き研究者。力作。

古典、哲学書、宗教書、そして、宇宙に関する読書が増えている。語学の大天才、30数ヶ国語を自由に話せる(!!)井筒俊彦と司馬遼太郎の対談「十六の話」(所収)は、実に、壮快である。

井筒俊彦の最後の著作「意識の形而上学」は、哲学者、思想家の風貌が遠眺できる本である。

ホーキングの宇宙論を手にする度に、もう、人間には、宇宙そのものを、見定める術は、なくなったと思えてしまう。(ダーク・マターとは何か?)

宇宿一成の詩集「賑やかな眠り」は、声と文字が上手く入り混った、言葉そのものを生きる(詩集)であった。

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• 水曜日, 2月 23rd, 2011

1. 「ドストエフスキー」(講談社刊) 山城むつみ著
2. 「ねむり」(新潮社刊) 村上春樹著
3. 「親鸞と道元」(詳伝社刊) 五木寛之・立松和平共著
4. 「盲いた黄金の庭」(岩波書店刊) 吉増剛造著
5. 「『純粋理性批判』を噛み砕く」(講談社刊) 中島義道著
6. 「句集 去来」(角川学芸出版刊) 遠藤若狭男著
7. 「リマーク」(トランスビュー社刊) 池田晶子著(再読)
8. 「白川静の世界」(文学篇)(平凡社刊) 白川静著
9. 「生命と偶有性」(新潮社刊) 茂木健一郎著
10. 「ユング名言集」(PHP研究所刊) カール・ダスタフ・ユング著
11. 「苦役列車」(新潮社刊) 西村賢太著
12. 「場所と産霊」(講談社刊) 安藤礼二著
13. 「大浦通信」(矢立出版) 吉増剛造・樋口良澄共著
14. 「神的批評」(新潮社刊) 大澤信亮著

生きることが思想になり、表現された思想が生活を変える—その往復運動のダイナミズムに身を任せている批評家が誕生した。小林秀雄と正宗白鳥の「実生活と思想」論争を思いだした。大澤信亮である。「神的批評」は処女作。生きること、食べることに、ニンゲンの暴力を見いだしている、あらゆることを「問い」続ける人の出現。新しいニンゲンの発見となるか?

もう、これ以上、ドストエフスキーの読み方はあるまいと思われるほど、世界の知者たちが、ドストエフスキーを論じてきた。ところが、山城むつみは、量子論的ドストエフスキーの読解を発見した。ドストエフスキーは、死んでも進化していく言葉である。感服。

吉増剛造の「大浦通信」を読み、写真集「盲いた黄金の庭」を観る。不思議なことに、吉増を読むと、いつも、言葉が、感性が吉増の色に染まってしまう。吉増の、ひび割れ、淵、溝、余白、亀裂、切断、端、辺、あらゆる時空に、浸透してしまう、言葉の宇宙に、身も心も、染まってしまう。科学、哲学、数学の、まだ、入りきれない空間に、(言葉)がある快感。

偶然、京都の予備校で知り合った男が、大学に入ってみると、同じクラスにいた。どこを受験するとも、何とも、話もしなかったのに。遠藤喬、俳人、遠藤若狭男である。その遠藤が、第四句集を出版した。辛い俳句であった。軽みと、感性の細やかなきらめきと淡々たる生活の中の発見が信条であったはずの、遠藤の句が、今度の句集では、重く、暗く、沈んでいた。父の死、母の死、本人のガン発見と、俳句にしては、テーマが重すぎて、句から思いがはみだしている。最後の5句は、読みながら、絶句して、句の、はるかな彼方を覗いてしまった。

「私小説」作家、西村賢太が、終に芥川賞を受賞。おめでとう。鬼となって、書いてきた「私小説」である。無視され、馬鹿にされてきた「私小説」が光る。

「リマーク」は、考える人・池田晶子の思索ノオトである。(考える)が、どのように起ちあがってくるか、手にとるようにわかる本。愛読者には、こたえられない。

茂木健一郎は、科学者にしては、診らしく、(文学)のわかる人である。小林秀雄、夏目漱石を、きっちりと読み込んでいる。そして、宇宙に1回限りの生をいきるニンゲンの、存在の、驚愕を知る感性をもっている。脳の研究者。果たして、(存在)そのものに、一撃を加えることが出来るかどうか。

12月、1月、2月と、重量感のある「本」の読書が続いた。お陰で、長篇小説「百年の歩行」の筆が止まった。しかし、読みながら、書いていると、文章の振幅が大きく、深くなる。つまり、(私)を、発見し続けることが出来るのだ。特に「ドフトエフスキー」山城むつみは、身に沁みた。そんな時には、「ユング名言集」をめくって、思考を遊がせ、心を、深いところにもっていく。

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• 月曜日, 12月 20th, 2010

1. 「さらば、立松和平」(ウエイツ刊) 福島泰樹編著
2. 「兵どもが夢の先」(ウエイツ刊) 高橋公著
3. 「新約聖書」(パウロ書簡その1)訳と註(作品社刊) 田川建三訳著
4. 「新約聖書」(パウロ書簡その2)(擬似パウロ書簡)訳と註(作品社刊) 田川建三訳著
5. 「これから『正義』の話をしよう」(早川書房刊) マイケル・サンデル著
6. 「量子の社会哲学」(講談社刊) 大澤真幸著
7. 「徒然草」(岩波文庫)再読 吉田兼好著
8. 「ブッタのことば」(岩波文庫) 中村元訳
9. 「ブッタ最後の旅」(岩波文庫) 中村元訳
10. 「ブッタの真理のことば・感興のことば」(岩波文庫) 中村元訳
11. 「この人を見よ」(新潮文庫)再読 ニーチェ著
12. 「残酷人生論」(毎日新聞社刊) 池田晶子著
13. 「理性の限界」(講談社現代新書刊) 高橋昌一郎著
14. 「流跡」(新潮社刊) 朝吹真理子著

古代人の生きた言葉、考えた、信じた思想を、現代の日本人の言葉に翻訳する—いや、移植すると言った方がいいか?—「新約聖書」田川建三著を読み続ける。正確に、しかも、こなれた日本語で、美しい文章で。翻訳は、難事業であると思う。一度読み、素読の後で、考えながら読み、注釈を読む。簡単な言葉に、数百ページの注釈が要る。途轍もなく、深い、世界である。完訳が期待される。

全共闘運動の先頭に立って戦った、高橋公著「兵どもが夢の先」は、私は、かく生きたという証の書である。団塊の世代必読の書だろう。

テレビで、話題のマイケル・サンデル教授の授業を観た。対話術が、実に巧みな先生である。講師と聴集が、同じ場に立ち、同じ問題を考えて、深化させていく手法は、まるで、ブレヒト効果である。著作を買って、読んでみた。考える中心には、やはり、カントがあった。哲学の核があっての、現実問題への応用である。

「ブッタの言葉」を読んでいると、軽佻浮薄な現代人が、忘れて、見向きもしなくなった言葉が光っていて、胸が疼く。閑かに、ものを考えて、生きるということを失ってしまった人間は、もう一度、棄ててしまった(言葉)に生命を吹き込まねばなるまい。

久し振りに、若い人の小説を読む。「流跡」朝吹真理子著。なつかしい70年代の文学の香りを嗅いだ。ロブ・グリエ、ビュトールなどのヌーボーロマンの時代。フランス文学の伝統。中村真一郎、三枝和子、鈴木貞美、三砂朋子・・・。私も、早稲田文学に「投射器」を書いた。しかし、アンチ・ロマンは、日本の風土では育たなかった。文体、感性とも、申し分のない人であるが、(生きた人間)の声が含まれてくると、面白いのだが。昔の自分を見ているようで、拍手を送りたくなる。足りないのは(労働)か?

「社会学」や「社会哲学」が、何であるのか、詳しくは知らないが、「量子の」という言葉に魅かれて、大澤真幸の本を読んだ。
実は、毎月購入している「群像」で、「<世界史>の哲学」という連載があって、興奮しながら、読んでいる。その作者が、大澤真幸であった。随分とフィールドの広い人で、宗教、哲学、絵画、小説、思想、科学、音楽と、さまざまな分野を、駆け抜けながらある一点にむけて、言葉、思考が展開する、その、スリルが、実に、面白い。
(知)の破綻と(知)の共時性、その二つが、大澤の言わんとすることであろう。ニンゲンの思考は、(数)で(論理)で(存在論)で、特異点に衝突してしまっている。しかし、一人の(考える)と思われたものが、実は、異分野でも、同じようなことが起こってしまう。不思議だ。ユングの(共時性)。
「理性の限界」高橋昌一郎著。この本でも、大澤と同様に、不可能、不確実、不完全性が書かれている。

(知)が破綻しているのに、ニンゲンは、平気でセイカツをしている。(知)とは何か?(知)を語る人の(私)は、(私)自身は、どうなっているのだろう?私は、二人に、訊いてみたい。放り出された読者は、いったい、何処へ行くのか?

最後に、池田晶子の「残酷人生論」が増補、新装版で、出版された。晩年に、探求されることになる、さまざまな種子が含まれている本で、第二の処女作と呼んでも、不思議ではない「考える人」の本である。(書評欄を見て下さい)
今年も暮れた。

読書は、日々の友となった。アフォリズムは、1500本に達した。長篇小説「百年の歩行」は、現在進行中である。世界のアラカワ、荒川修作をめぐるエッセイも、来年スタートしたい。

私は、メールもパソコンも出来ない。メールで感想を送っていただいても、読むことは出来るが、返事が出来ず申し訳ありません。正に時代遅れの男である。
手紙人間であるから、手紙で、感想批判をいただけると、実にありがたい。

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• 木曜日, 9月 30th, 2010

1. 「数学史」(岩波書店刊) 佐々木力著 定価15,000円(919ページ)
2. 「世界史の構造」(岩波書店刊) 柄谷行人著
3. 「1968」上・下巻(新曜社刊) 小熊英二著 定価6,800円
4. 「養老天命反転地」(毎日新聞社刊) 荒川修作 マナドリン・ギンズ:建築的実験
5. 「「悪」と戦う」(河出書房新社刊) 高橋源一郎著
6. 「見えない音・聴こえない絵」(新潮社刊) 大竹伸朗著
7. 「既にそこにあるもの」(ちくま文庫刊) 大竹伸朗著
8. 「アンフィニッシュト」(文春文庫刊) 古処誠二著
9. 「文土の魂・文土の生魑魅」(新潮文庫刊) 車谷長吉著
10. 「ヒトはどうして死ぬのか」死の遺伝子の謎(幻冬舎新書刊) 田沼靖一著
11. 「私の作家評伝」(潮文庫刊) 小島信夫著(782ページ)
12. 「荘子」中国古典選12(朝日新聞社文庫刊) 福永光司

人間の使用する(表現)にはいろいろある。
言葉(文字)(声)、数、数式、絵、写真、彫刻、舞踏、建築、映画、音楽・・・。
言葉は「自然言語」である。日常生活から、文学、哲学、芸術に至るまで、(言語)なしには考えられない。
しかし、「自然言語」では、決して、表現できぬものがある。クオーク、素粒子から宇宙の法則まで、数、数式による表現が、もっとも適している。
(数学)は、中学、高校時代から、嫌手である。
なぜ?(数)を(私)=(存在)に対して、上手く、結びつけて、(考える)ことができなかったのだ。
しかし、「零の発見」や「超数学」を読んでみると、これが、なかなか、面白かった。
「フェルマーの最終定理」は、読んでいて、ニンゲンの、精神の歩みにゾクゾクした。
で、(数学)が、中学生くらいしかわからないのに、「プリンキピアマテマテイカ序論」(A・N ホワイトヘッド B・ラッセル)などを嚙ってみた。
「数」について、「数学」について、少しは、勉強してみたいと思って、もう、60歳を過ぎているのに、「数学史」を購入した。世界の、古代から現代に至るニンゲンが、「数」について、どこまで考えたのか、知りたくなったのだ。
まったく、我ながら、おかしくて、仕方がない。
嫌手の(数学)が、どうやら、面白くなってきた。晩学のすすめではないが、「数」と「人間」が頭の中で、ぴったりと結びついてきたのだ。
しかし、数学者たちは、(数)でものを考えるのだろうか?あるいは、考えるのは、やはり言葉で、(表現)が(数)ということになるのだろうか?

「1968」は、「全共闘」運動をめぐる研究書である。私自身、団塊の世代と呼ばれている年代に属している。正に、「全共闘」そのものであるから「1968」年が、研究される「歴史」になってしまったのかと、感慨が深い。
私自身に関係の深い、母校「早大闘争」第6章を読んでみた。青春の真っ盛りの、蒼白く、やせた、学生たち、(私)、仲間たちの群像が、事件や事故や現象となって、追体験できた。もう、40年ほどの時が流れた。
私のライフワーク「百年の歩行」の第二部で、「全共闘」は扱わざるを得なくなるだろう。
「1968年」は、その為の、資料である。
何にしろ、上巻が1091ページ、下巻が1011ページである。単行本にすると、一冊500~600枚として全10巻になる書物である。大変な労作である。
”歴史は、私の中にあり” 誰もが、そう思っているだろう。

夏の盛りに、岐阜県養老町を訪問した。もちろん、荒川修作の作った、「養老天命転地」を体験するための旅であった。死者との対話。(後で、エッセイ、紀行文を書きます。)

画家、大竹伸朗のエッセイ集を読む。現代の表現者、画家は、「荒川修作」の存在を、どのように、考えているのだろうか?

小島信夫「私の作家評伝」 昔の本を、本棚からとりだして読みはじめたら、面白くて、面白くて、728ページ、一気に読んでしまった。

「孔子」や「荘子」や「老子」の、つまりは、東洋の知を、もう一度、ゆっくりと考えてみたい。

そうか、「文学」を棄てた柄谷行人は、やはり「世界史の構造」へと至るのか!!
孔子や荘子の生きざまと、発言と、論理と柄谷行人を読みくらべてみると、ニンゲンの時間の幅が見えてくる。
人は、どれだけ、遠くまで来たのか!!

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• 金曜日, 6月 18th, 2010

1. 「白川静読本」(平凡社刊)
2. 「フエルマーの最終定理」(新潮社文庫刊) サイモン・シン著
3. 「宇宙創成」上・下(新潮社文庫刊) サイモン・シン著
4. 「事象そのものへ!」(新装復刊) 池田晶子著 トランスヴュー
5. 「詩のかおり詩のひびき」(Obunest刊) 壬生洋二著
6. 「西脇順三郎詩集」(思潮社刊)
7. 「新約聖書 訳と注① マルコ福音書 マタイ福音書」全6巻(作品社刊) 田川建三著
8. 「漢字」(岩波新書刊) 白川静著
9. 「孔子伝」(中公文庫刊) 白川静著
10. 「中原中也の手紙」(講談社文芸文庫刊) 安原喜弘著
11. 「何処へ」「入江のほとり」(講談社文芸文庫刊) 正宗白鳥著
12. 「アムバルワリア」「旅人かへらず」(講談社文芸文庫刊) 西脇順三郎著
13. 「クオンタム・ファミリーズ」(新潮社刊) 東浩紀著

今月は、心が悲鳴をあげている。日々のリズムが狂ってしまって、平常心でものを考えられない。
ニンゲンの規格から外れてしまうほど大きい「天命反転」という思想を掲げて、「私は死なない」と言い放ち、「死ぬのは法律違反です」と断言した荒川修作が、ニューヨークの病院で死んだ。(死んだ?)(アラカワの死)それはいったい何だろう。
頭が上手く、考えられない。現在、荒川の「ヘレン・ケラーまたは荒川修作」(マドリン・ギンズ共著)新刊読んでいる途中であった。腰を据えて、アラカワに立ちむかいはじめているところだから・・・。
「免疫の意味論」の著者、多田富雄氏も死んだ。ニンゲンを、超・スーパーシステムだと、論じた「本」は、実に、刺激的な一冊であった。

※350年間、誰も解けなかった「フエルマーの最終定理」を読む。数という魔に挑む天才数学者の物語である。サイモン・シンの語りが見事である。
「宇宙は数である」と思いたくなる本であった。

※「事象そのものへ!」池田晶子の思考の原点。新装版を再読。止まらない。魅力。

※中原中也の手紙は、詩人の素顔があって、愛読者にはうれしい。

※「詩のかおり詩のひびき」壬生洋二著は、私の大学時代の同人誌「あくた」の仲間の「本」である。70年代の、まだ、詩、小説、思想を語り合う場があった時代に、著者が愛読した詩人たちの「詩」を紹介している。中也、朔太郎、達治、石原吉郎など。若者にはおすすめの解説書。

※白川静の「本」を熟読。

さて、現代人にとって、宗教とは何だろう。雑誌「考える人」で、聖書研究者の田川建三の特集があった。
私は、若い頃、「原始キリスト教史の一断面」と「イエスという男」「宗教とは何か」を読んで、共感、感動、驚愕し、日本にも、古代の原書を読み、一生を、聖書研究に捧げる人がいるのを知った。宗教するニンゲンの生きざまを見た。その田川建三氏が、インタヴューで「神は結局、存在しない」と断言している!!
超一流の研究者の言葉は重い。キリスト教信者にとっては、大変なショックだろう。
しかし、その時代に、宗教が必要だったことは、認めてほしいと言っている。千年、二千年たっても、ニンゲンは、(宗教的)なものを必要とはしているのだ。

その田川建三氏が、「新約聖書」を翻訳して、解注をつけた。全6巻、(現在刊行中)
「聖書」は断片的にしか読んでいないが、田川さんの訳なら、一生かけて、読んでみようと思った。古代人の文字を読みかえすのに、何十年もかけて、宗教を考えて、実戦してきた田川建三氏の大仕事である。

<数>の謎に一生を捧げて挑み続けたアンドリュー・ワイルズ。
<漢字>の研究に生涯を賭けた白川静。
<キリスト教、聖書>の研究が生きることである田川建三氏。
<昆虫>昆虫を観察してでも人は一生を生きられるという感動をくれたファーブル。

(ニンゲン)が生きるという姿が輝いている。

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• 火曜日, 5月 18th, 2010

1. 「ピストルズ」(講談社刊) 阿部和重著
2. 随筆集「一私小説書きの弁」(講談社刊) 西村賢太著
3. 「続審問」(岩波文庫刊) J.L.ボルヘス著
4. 「創造者」(岩波文庫刊) J.L.ボルヘス著
5. 「ヘレン・ケラーまたは荒川修作」(新書館刊) マドリン・ギンズ 荒川修作 共著 定価4,800円
6. 「どうで死ぬ身の一踊り」(講談社文庫刊) 西村賢太著
7. 「マラルメ全集」(全5巻)第1巻「詩・イジチュール」(筑摩書房刊) 訳:松室三郎・阿部良雄・菅野昭正・清水徹・渡辺守章 定価 19,000円

※21年の歳月をかけて、「マラルメ全集」全5巻が完結した。5人の翻訳者の方々にとっては、半生を費した仕事だろう。(訳者の一人、松室三郎氏は故人となっている)

なぜ、21年という長い、長い、歳月がかかったのだろうか?
①マラルメの作品は、実に難解である。(本当に、日本語として訳し得るのか?)
②没後、100年を過ぎて、次々に新しい資料が出て来た。

ちなみに、私が、第1回配本を購入したのは、1989年3月(東京の、八重洲ブックセンター)である。
「ディヴァガシオン他」(単価9,500円) 本文544ページ、別冊・解題・注解334ページ。
銀色の函に入っていた。帯文には「世界は一冊の書物へと到るためにつくられているのです」というステファヌ・マラルメの言葉が刻まれている。

出版社にとっても、息の長い、忍耐のいる、大きな、大きな事業であっただろう。

現在、小説(純文学)が売れない。詩は、もっと売れない。数十、数百冊単位だと云う。しかし、小説を書く人も、詩を書く人も、大勢いる。インターネットで、自由に、詩を書いて、発表している。

せめて、現代詩を書く人たちには、先人たちの詩を読んでもらいたい。
不出生のマラルメの詩に、一度でも触れる機会があれば、その人の詩作は、まったく、ちがったものになるだろう。

存在について、人間について、言語について、これほど、深く考えて、実践した詩人は、他にない。
現在でも、マラルメに匹敵する詩を書ける詩人はいない。(吉増剛造?)
難解なものに挑まない(知性)は、(知)ですらない。最高の詩、マラルメの「絶対言語」、それは、ニンゲンが作り出した、もうひとつの宇宙である。

21年間、待って、「マラルメ全集Ⅰ」を入手した。
感動は、実に深い。だから、読書はやめられない。
出版社・訳者の方々に、一読者として、お礼を言いたい。感謝である。

※ボルヘス再読。実に、切れ味が良い。ボルヘスの博覧強記に触れると、どういう訳か、いつも、日本の天才・南方熊楠を思い出してしまう。

※天才・奇才の荒川修作の「ヘレン・ケラーまたは荒川修作」も、実に楽しみな一冊である。

まだまだ、ニンゲンは、すてたものではない。思考は、活火山のように、爆発をしている。問題は、それを、読者が、共有する努力を惜しまないことだ。時間が足りない。

マラルメやボルヘスの作品に触れると、どうしても、現代の日本の作家たちの作品が、色褪せてみえてしまう。
作者たちは、青くなって、必死に、思考し、文章を紡がねば、いつまでたっても、衰弱する文章しかひねり出せまい。

文学は、科学のようには、進化をしないものだ。思考の密度、文章の格がちがうのだ。
日本の作家で、対抗できるのは、おそらく、零記号のような文体をもつ古井由吉くらいだろうか?古井由吉は、そこに、石が存在するように、文章を存在させる域に達している唯一の人・作家である。

Author:
• 水曜日, 4月 21st, 2010

1. 「コーラン」上・中・下(岩波文庫刊) 井筒俊彦訳
2. 「悪の華」(岩波文庫刊) ボードレール 堀口大学訳
3. 「巴里の憂鬱」(岩波文庫刊)ボードレール 堀口大学訳
4. 「他力」(講談社文庫刊) 五木寛之著
5. 「風に吹かれて」(角川文庫刊) 五木寛之著
6. 「小説修業」(中公文庫刊) 保坂和志 小島信夫共著
7. 「ミドルワールド」(紀伊国屋書房刊) マーク・ホウ著
8. 「烏有比譚」(講談社刊) 円城塔著
9. 「後藤さんのこと」(早川書房刊) 円城塔著
10. 「金子光晴」(筑摩書房刊) 金子光晴著
11. 「細雪」上・中・下(新潮文庫刊) 谷崎潤一郎著
12. 「詩片集素描」(土曜美術社出版販売) 山野井悌二著
13. 「高野聖」(角川文庫刊) 泉鏡花著
14. 「寓話」(プロジェクトK発行) 小島信夫著
15. 「金融狂荒」(文芸社刊) 相馬尚文著
16. 「暗渠の宿」(新潮文庫) 西村賢太著
17. 「OUT」上・下(講談社文庫刊) 桐野夏生著
18. 「柔らかな頬」上・下(文春文庫刊) 桐野夏生著
19. 「グロテスク」上・下(文春文庫刊) 桐野夏生著
20. 「残虐記」(新潮文庫刊) 桐野夏生著

はじめて、円城塔の小説を読む。
安部公房の直系の作家が登場した。いったい、これが小説と呼べるだろうか?と思えるほど、新しい作家である。
本文よりも、注釈の方が多かったり、骨と皮だけであって、あとは、理論が統一している作品。
理系の作家らしく、実に論理的である。もう一滴そこに血が流れると、実に、面白い作家になる。
安部公房は、ひらがなのつかい方が、上手い作家だった。論理に、肉感性があった。
円城塔は、分野も無視して疾走する。純文学、SF、小説、エッセイ、文章までも、破壊してしまうかもしれない。

ボードレールや金子光晴や泉鏡花や谷崎潤一郎を再読する。青春時代に読んだ本を、60歳を過ぎて読み直してみる。なるほど、そのように、生きたのかと、感慨が深い。

「寓話」は、保坂和志氏が、師と仰ぐ作家、小島信夫の小説である。絶版になった小説を、個人が、復刊するという、困難な仕事に挑戦した保坂和志氏には、エールを送りたい。
この傑作は、ゆっくりと時間をかけて読みたい。

車谷長吉に続く「私小説」作家が誕生した。西村賢太だ。
なぜか、現在、「私小説」を読むと、ホッと安心する。古風だからではない。もっとも、現代的である。
人間が、頭で組み立てた小説には、どこか、薄ら寒い風が吹いているから、「私小説」に現れるニンゲンの形姿が、技巧、戦略を通り超して、(知)以上のものを表出してくれる−その姿が眼にやさしい。

「風に吹かれて」エッセイが時代そのものだった。
五木寛之の金字塔は、小説「青春の門」である。その五木寛之が、満を持して、小説「親鸞」を書いた。熟読した。大先輩に対して、礼を失する訳にもいくまい。じっくりと、再読して、論じてみたい。なぜ、現在、宗教であるのか?