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• 木曜日, 9月 30th, 2010

1. 「数学史」(岩波書店刊) 佐々木力著 定価15,000円(919ページ)
2. 「世界史の構造」(岩波書店刊) 柄谷行人著
3. 「1968」上・下巻(新曜社刊) 小熊英二著 定価6,800円
4. 「養老天命反転地」(毎日新聞社刊) 荒川修作 マナドリン・ギンズ:建築的実験
5. 「「悪」と戦う」(河出書房新社刊) 高橋源一郎著
6. 「見えない音・聴こえない絵」(新潮社刊) 大竹伸朗著
7. 「既にそこにあるもの」(ちくま文庫刊) 大竹伸朗著
8. 「アンフィニッシュト」(文春文庫刊) 古処誠二著
9. 「文土の魂・文土の生魑魅」(新潮文庫刊) 車谷長吉著
10. 「ヒトはどうして死ぬのか」死の遺伝子の謎(幻冬舎新書刊) 田沼靖一著
11. 「私の作家評伝」(潮文庫刊) 小島信夫著(782ページ)
12. 「荘子」中国古典選12(朝日新聞社文庫刊) 福永光司

人間の使用する(表現)にはいろいろある。
言葉(文字)(声)、数、数式、絵、写真、彫刻、舞踏、建築、映画、音楽・・・。
言葉は「自然言語」である。日常生活から、文学、哲学、芸術に至るまで、(言語)なしには考えられない。
しかし、「自然言語」では、決して、表現できぬものがある。クオーク、素粒子から宇宙の法則まで、数、数式による表現が、もっとも適している。
(数学)は、中学、高校時代から、嫌手である。
なぜ?(数)を(私)=(存在)に対して、上手く、結びつけて、(考える)ことができなかったのだ。
しかし、「零の発見」や「超数学」を読んでみると、これが、なかなか、面白かった。
「フェルマーの最終定理」は、読んでいて、ニンゲンの、精神の歩みにゾクゾクした。
で、(数学)が、中学生くらいしかわからないのに、「プリンキピアマテマテイカ序論」(A・N ホワイトヘッド B・ラッセル)などを嚙ってみた。
「数」について、「数学」について、少しは、勉強してみたいと思って、もう、60歳を過ぎているのに、「数学史」を購入した。世界の、古代から現代に至るニンゲンが、「数」について、どこまで考えたのか、知りたくなったのだ。
まったく、我ながら、おかしくて、仕方がない。
嫌手の(数学)が、どうやら、面白くなってきた。晩学のすすめではないが、「数」と「人間」が頭の中で、ぴったりと結びついてきたのだ。
しかし、数学者たちは、(数)でものを考えるのだろうか?あるいは、考えるのは、やはり言葉で、(表現)が(数)ということになるのだろうか?

「1968」は、「全共闘」運動をめぐる研究書である。私自身、団塊の世代と呼ばれている年代に属している。正に、「全共闘」そのものであるから「1968」年が、研究される「歴史」になってしまったのかと、感慨が深い。
私自身に関係の深い、母校「早大闘争」第6章を読んでみた。青春の真っ盛りの、蒼白く、やせた、学生たち、(私)、仲間たちの群像が、事件や事故や現象となって、追体験できた。もう、40年ほどの時が流れた。
私のライフワーク「百年の歩行」の第二部で、「全共闘」は扱わざるを得なくなるだろう。
「1968年」は、その為の、資料である。
何にしろ、上巻が1091ページ、下巻が1011ページである。単行本にすると、一冊500~600枚として全10巻になる書物である。大変な労作である。
”歴史は、私の中にあり” 誰もが、そう思っているだろう。

夏の盛りに、岐阜県養老町を訪問した。もちろん、荒川修作の作った、「養老天命転地」を体験するための旅であった。死者との対話。(後で、エッセイ、紀行文を書きます。)

画家、大竹伸朗のエッセイ集を読む。現代の表現者、画家は、「荒川修作」の存在を、どのように、考えているのだろうか?

小島信夫「私の作家評伝」 昔の本を、本棚からとりだして読みはじめたら、面白くて、面白くて、728ページ、一気に読んでしまった。

「孔子」や「荘子」や「老子」の、つまりは、東洋の知を、もう一度、ゆっくりと考えてみたい。

そうか、「文学」を棄てた柄谷行人は、やはり「世界史の構造」へと至るのか!!
孔子や荘子の生きざまと、発言と、論理と柄谷行人を読みくらべてみると、ニンゲンの時間の幅が見えてくる。
人は、どれだけ、遠くまで来たのか!!

Category: 読書日記
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