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• 月曜日, 2月 22nd, 2010

1. 「海の家族」(土曜美術社出版販売刊) 中村純詩集
2. 「海の血族」(土曜美術社出版販売刊) ささきひろし詩集
3. 「メール症候群」(土曜美術社出版販売刊) 渡ひろこ詩集
4. 「一日一書」(新潮文庫刊) 石川九楊著
5. 「無量の光 上・下」(文芸春秋社刊) 親鸞聖人の生涯 津本陽著
6. 「武満徹−自らを語る」(青土社刊) 安芸光男聞き手
7. 「蕪村俳句集」(岩波文庫刊)
8. 「喪の日記」(みすず書房刊) ロラン・バルト著
9. 「学問のすすめ」(岩波文庫刊) 福沢諭吉著
10. 「福翁自伝」(岩波文庫刊) 福沢諭吉著
11. 「遠雷」(河出書房新社刊) 立松和平著(再読)

「零度のエクリチュール」という(知)を放って、記号の帝国を読み解いた、あの、時代の、最前線を歩いていた、ロラン・バルトの面影は、一切ない。「喪の日記」は、バルトの裸の声である。おそろしいほどの断絶である。(知と情)
切断された断面には、マモン(母)に恋いこがれて、二人の世界・生活を、老年になるまで守り通した男の、突然のマモンの死・不在に、嘆き、悲しみ、涙の日々をおくる、異様なロラン・バルトの姿がある。

まるで、幼児か、少年のように、おろおろして、心も空になり、「喪の日記」を綴る、この、正視に耐えぬ混乱は、いったい、どこから来るのか、あの、(知)の塊りを書き続けた、ロラン・バルトは、いったい、どこへ、姿を隠したのか。

母の子宮から、永遠に離れられない。マモンに、理想の女を見て、結婚もせず、二人の生活が、完全な宇宙であるかのように、生きてきた、そのセイカツの中から、フランスを、時代を、伐り開く、エクリチュールが生れたと、誰が、信じられるか、この分裂する男、禅経症に揺れる、老いた男に。

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• 月曜日, 2月 22nd, 2010
501. 放擲したモノもコトも、遠くなり、ひたすら、魂を舐いでいる。幾多の夢は、空にのぼって、消えて。
502. 転んで、転んで、歩き方を覚えた。一人前の顔をして、世間を渡り歩いていても、転んで、転んで、生き方を覚えた。失敗のない人生などない。
503. 人に会う。笑顔があれば、大丈夫。
504. 人間は、農夫が土を耕すように、一画、一画、漢字とひらがなを書かねばならない。文章の奥が深くなって、心にとどくために。
505. 表情も文化である。ニンゲン以外は笑わない。気配を読む、空気を読む、実に繊細な表情は感情を伝えるリトマス試験紙だ。
506. 何を考えているのか、一番わからないのが笑顔である。ホッともするが。
507. 笑わないニンゲンが増えている。笑えないのだ。病んでいて。傷だらけで。
508. (そのこと)を知っている。
     (そのこと)を知らない。
     (そのこと)を知らないと知っている。
     結局、知らないということが、わかってきた。
509. ときどき、モノ自体の素顔が覗いて、爆発的な暴力を振るう時がある。
510. 石化するニンゲンを視た。
511. 雨の日には殺人が多い。自殺者が多い。死者は、雨に吸い寄せられる。
512. ”ブータン”という国には、墓がない。長い間、私は、その事実を知らなかった。そうか、魂はめぐる、輪廻転生の国だ。
513. (今・ここ)で発光し続けるニンゲン。魂の灯が消えるまでの空騒ぎだ。
514. 伸縮自在のやわらかい二本の角と足が触れる部分が蝸牛の宇宙だ。
515. おそろしいヨー、おそろしいヨー、と、五歳になった少年は、泣き続けるのだが、何を聴いても、首を横に振る、大人たちには、見当がつかぬ。人は、生きると、自然に、おそろしいものを知ってしまうものらしい。誰にも助けてあげる術がない。
516. 結局、どう生きてみても、(私)を、説得することが一番難しかった。断念につぐ断念。
517. 人間は、身の丈以上に、ニンゲンのことを考えてはいけない。眼の前に、無限があっても。
518. 考えるようには生きられないのに、考えるということを止められないニンゲンである。
519. どんな説明も、完全な説明に至ることはない。だから、対話は終らないし、切りがない。
520. どのように生きていると他人に訊いてみると、ほとんどがセイカツの説明ばかりで、生きている(私)のちがいに、びっくりした。(私)はどこにいるの?
521. ついこの間、そう、たった500年ばかり前までは、海の彼方に、山の彼方に、浄土を求めていたニンゲンは、もう、現代では、銀河の、宇宙の、彼方に浄土を求めなくてはならない、そういう時代になった。
522. 人が、随分と、遠いと感じる日々がある。
523. 神輿は、ひとりでは担げない。肩と肩で支え合うところに、神輿の本質がある。
524. 一粒の砂にも、無限がある。なぜ?答えは、時間だ。一粒の砂も、また、無限の時間を帯びている。砂粒の私。
525. 無限に展開される思考には、いつも、意識がぴったりとくっついている。
526. 柔らかい蝸虫のような脚を持たねばならない。モノに吸いつく、あの認識する脚。
527. 思索の日々ほど、豊饒なものはない。他には、何もいらない。無限に身をゆだねる。
528. 歩きながら、自然に、1、2、3、4と数を数えている。数こそが疑われなくてはならない。−突然、どこからか、そんな声が降ってきた。頭の中央に。そして、蒼ざめてしまった。
529. 無名の者。名前がないのではない。名前を消して生きる者の謂だ。
530. 木の本能?木の遺伝子。そんなものがあるのだろうか。花を咲かせ、実をつけて、子孫を残すという方法。
531. 場を変えてみる。簡単な行為が思考を変える。目の移動。
532. 気分というニューアンス。思考よりも繊細な襞の染まり方。眼の色にでる。気分という波。
533. 感情には、いつも、さざ波が立っている。
534. 風に吹かれて、光に触れて、歩いているだけで、角がとれ、固い思いが溶けて、流れ出し、リズムにのって、浮遊するものが結晶する。
535. 一日一日、在るということを確認していくこと。ひび割れ、痙攣し、渇き切っている(私)が再生するために。
536. 不思議だ。歩けば歩くほどに、リズムが、点在するものを統一してくれる。
537. (世界)の顕現の仕方は、ひとりびとりちがっている。
538. 眼の分析は、瞬時に行われている。説明はその後からついてくる。
539. 村にはじめて、バスが来た日、少年たちは、バスを追って、排気ガスを吸った。それが、文明だった。
540. 人は風土に染められて生きている。旅に出て、歩いてみると、風景ごとに人がちがう。
541. 夏の光がある。ムルソーはそこで生れた。
542. 閑居の日々が、我が身に来るとは、考えもせぬ事態であった。誠に、春、夏、秋、冬という四季が人間にもやってくるものだ。
543. 百年、千年と鳴り響く声でなければ思想という名に価しない。それは(私)の声である。
544. 「不易流行」と芭蕉は語った。なるほど、400年経っても、生きている「普遍」だ。
545. 父の死は「次は、お前の番だよ」と、絶対的な声で、知識や哲学や思想をうっちゃった。痙攣である。
546. 喪が明けた。私も、また、死すべき者として生きねばならぬ。
547. 人は、いつも、その延長線上にいると安心する。いつ断たれるか、わからぬ日々であるのに。
548. 持続は、もちろん、力ではあるが、悪い習慣ほど、困ったことに続いてしまう。
549. 「我」と「執着」を捨てて、無私の私へと至るその鍛錬がいる。
550. (私)を考える−思想
     (私)に固執する−自己愛
     この二つは、まったく異なる。
551. 久し振りに(現場)に顔を出すと、いかに、私が、隠者へと傾斜しているかがよくわかった。たった一年、(現場)を離れただけで。
552. 何もかも、うんざりだという状態は心の井戸が浅くなっている証拠だ。深呼吸をする。
553. 不在は見えないのに、見えてくる、それが死者だ。
554. 四六時中、(私)は、死すべきものだと、意識し続けることは、誰にも出来ない。気が狂うだけだ。
555. 「生」が盛りになればなるほど、「死」も近くに在る。
556. 「文学」に淫しすぎると、思考がゆがむ。
557. 今では、父の存在が、ひとつの画像(イメージ)になってしまった。驚きである。
558. 必要とされる人間がある。必要とされる会社がある。では、老人は、高齢者は、どのように、必要とされるのか?現代の問題である。
559. 現代に生きる人は、誰であれ、多かれ少なかれ、神経症的な痙攣をまぬがれることは出来ない。
560. 放棄せざるを得ない、そんな認識で生きるしかないニンゲンであるから、当然この世界=宇宙は、分裂的に存在する。確実なものは何もない、一切は、混沌であると。
561. 存在(モノ)と言語(コトバ)の比重を、誤まらぬように、使用して、生きる。
562. 頭を殺して、足で生きる日もある。
563. 質素に生きる。余分なものを剥ぎ落として、それでも、考えるという宇宙は、豊饒である。
564. 畏怖の感覚はなくしてはならない。山へ、海へ、野へ、川へ、自然のあふれる中へと(私)を晒してみるだけで充分だ。
565. まあまあという、平凡な、感情が、セイカツには必要である。
566. 時空がなければ、時間もない。一人に一人の時空。
567. (私)へと、結晶したものが、いつのまにか、衰弱し、分解されて、消えていく。
568. 永遠に触れると、破壊される。畏怖と苦痛がある。卒倒して、痙攣するだけだ。
569. 清潔に、綺麗に、整理された世界。塵も芥もない。ニンゲンの身体は、細菌だらけだから、そんな世界には棲めない。やはり、汗と汚れが似合う。
570. 風が吹く。竹が揺れる。竹の動きは、すべて、曲線で出来ている。眺めていて飽きるということがない。現代人の心に、竹を接木したくなる。
571. 人は、病むと、(病んだ人)になる。もう、元気な時の、あの人ではない。
572. (現場)に人の姿が少なくなった。
     (街)に人の姿が少なくなった。
     (病院)に行くと、人ばかりである。
573. 久しく、(人の高み)のようなものを見たことがない。
574. 人の持つ場所の形はさまざまだが、必ず一人にひとつ場所が必要だ。歪んでいても。
575. 一人の人間の手が届く範囲など、たかだか知れたものだ。何度、断腸の思いをしたことか、ほんの身近で。
576. 大事の時に、知恵と力が足りなかった。努力をしても、いつも、「後の祭り」だ。赦してくれ!!
577. 知恵と力が少しは、身についてきたと思ったら、もう、本人自身が、ボロボロである。
578. 実の業という。(実業)万巻の書を読破するよりも、具体的な、ひとつの行為が要る場合がある。
579. 無学、無知は、責められないが、辛いことに、それが(悪)を生むことがある。更に辛くなる。
580. 壁は、次から次へと現れる。人が、高みへと昇ろうとすれば。おそらく、限度がない。
581. 人が高揚するように時代も高揚する時がある。
582. 沈滞する、没落する時には、淋しく、悲しく、辛いものだが、いつかは、歩み出す時が来る。ぐるぐる廻る世界だから。
583. 生き方と、放つ言葉が合致しなければ、言葉は、正直なもので、見事なくらいに反逆して、その人を撃つ。
584. 若いうちには、先行した言葉が、肉離れを起こしても、当然だ。まだ、生きていないから。ヴィジョンのままに走れ!!
585. 江戸の風を受けて育った福沢諭吉が、なぜ「学問のすすめ」を書けたのか。百年も生き延びる言葉を。明治の風が吹きぬけたのだ、彼の内部に。
586. 原子たちが、何億、何兆も集って、歩き出し、笑ったり、泣いたり、考えはじめたと思えば、なんだか、おかしい。不思議そのものである。
587. 一千万分の一の世界。原子を、ニンゲンが、見る時代になった。原子のかたまりが原子を覗く不思議。言葉がとどかない。何?それ。
588. 頭がくらくらして、眼が、見るという力の限界を越してしまったような畏怖が来た。原子の並んだ絵図に。
589. 闇の中で、眼を閉じて、モノを見ようとしはじめた(私)がいる。透視する力の顕現。
590. 宇宙に吹きわたる原子の風。今日も縁側で風を受ける。煙草を喫いながら。
591. 細胞の粒々が、すべてが、眼になる。
592. 電子言語は、時空へと放たれるモノであったのか?
593. 空騒ぎであれ、他人真似であれ、真険であれ、とにかく、他人がするということを、私もやってみる。神輿を担ぐ一人、参加者になるために。
594. 朝日が昇り、夕日となって沈む。眼は、いつも、発見している。何を?光という太陽の不思議を。
595. (私)の声だけを記している「本」を探している。なかなか、見つからない。混ざった、濁った声ばかりだ。
596. 作為のない、自然な(私)の声に耳を傾けたいが、雑音ばかりが流れてくる。
597. 余分なものが多すぎる。簡素が一番であるのに。
598. 私には、地面に対して、垂直に立つための、首と顔・頭の位置の在り方(納まり方)がわからない。誰でもがするように、自然に立っても傾いているのだから。
599. 40年振りにお会いした、高校の音楽の先生が「あなたは、いつも、首を傾けて歩いていたわね」と告白った。そういえば、私の一番古い写真、祖母と並んだ写真も口を真一文字に結び、掌を握りしめて、首を傾けている。なぜ、私は、傾いているのか?
600. 冬の日、雨の後、木の枝に無数の水滴が付着している。それが、落ちるさまを、長い間、眺めていた。無為の休日。
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• 月曜日, 1月 18th, 2010
401. 人間は、意識が、産む、産まぬ、と選択できる。鮎も鮭も本能で産む。で、意識が本能に勝ったとは言えぬ。どちらが良いか、本当は、わからない。高低はない。
402. お前は必要な子だったと喜ばれた者か、お前はいらない子だったと、憎まれた者かで一生は大きく左右されてしまう。
403. 「存在は良し」という声が響けば、もう、それだけで、生きる意味が半分はある。
404. 本能も、また、生きるための大きな声の指令だろうか。知性と同じほどに。
405. 魂が生れるのであれば、(私)は魂だ。
406. 不死の人とは魂の謂か!!
407. (私)は、人間という物語を生きている。
408. 父が死んだ瞬間から、私の中に、突然ひとつの画像が発生した。直立不動で立っている父が、大きな口をあけている。口からは、赤い、長い長い舌が伸びて来て、私に迫ってくる。眼を見ひらいて、私に、訴えている。その長い舌は、波のように、揺れていて、舌の上に、文字が書き込まれている。父が死んで、もう、一年になるのに、そのイメージは、消えない。私は、その画像が出現する度に舌に書かれた文字を読もうとしている。父が、何を言いたかったのか、いつの日か、解るだろうと思っている。奇妙な経験だ。
409. 確か、動物としての本能が壊れたのが人間であると語ったのは、心理学者の岸田秀だった。なるほど、四六時中セックスができるし、自殺もできる、原爆まで作ってしまった、戦争もする、何よりも言葉を作って、考えるということまでするようになった。
410. 鮎や鮭の産卵の瞬間の、あの、裂けるように開いた口、苦痛か、眼は虚空を見ているが。
411. (私)が在ると思う瞬間に、いつでも(世界=宇宙)がひろがって在る。
412. 空っぽの家に、空っぽの言葉。
413. 「私」の使用法は、どこで学習できる?家?学校?会社?本能?
414. 明日は、わが身ぞ。そう覚悟をして、一日を生きねばならぬ。呼吸は一瞬で無限。
415. 「眼球遊び」は面白く、身体の不思議が体験できる。指で、両目蓋を圧迫する。光が飛び交って、まるで、光の誕生する宇宙である。見える、見える、眼以外の力で。
416. 時間の中で無化されるあらゆるモノとコト。それでも、存在は、呟き続けてる、泡のように。
417. 結局、人がどちらに転んでも、何かを為しても、何もしなくても、時空は、びくともしないで在り続ける。偶然という魔。
418. 知者、識者が考えて、考えても戦争をやめる理由、法、論理、が構築できないのなら、知識がないのなら、「無答無用!!戦争は禁止とでも言うしかないか」
419. 偶然生きてきた。自分で望んで生まれてきた人は、誰もいない。おそるべし偶然の歴史。
420. 戦争をする前に、サイコロを振って、勝ち負けを決める−一番の平等、文句なし。
421. いい戦争(聖戦)も、悪い戦争(侵略)もない。ただ、人と人が殺し合う戦争があるだけだ。
422. 他人を見れば愛し、敵を見れば殺し、これでは、ニンゲンは、壊れ、分裂してしまう。(人)は矛盾に耐えられぬ、正しい存在だ。
423. 歩いている。私が薄れる。意識が私を離れるその瞬間に、それは来る。それの貌が見える。一番深いところに隠れていたものが顕現する。触れて、達して、それと共に痙攣している。(普遍)
424. 芭蕉は、「純粋直観」でものを捉えて、「絶対言語」で俳句を作る。だから、句の言葉は、日常のものであっても、彼方から垂直に来る。正に、「風雅の誠」である。
425. 瞬時に来たものは、歩いているうちにでも、言葉にして、ノオトに記さねばならぬ。それは、光のように消えてしまうから。
426. 歩くことは、私の意識を純化することである。だから、声は、いつでもその境目をすぎると、素直に来るのだ。耳にとどくのではない。脳の中心を直撃する。そして、心に触れる。
427. 道を歩く。風景の中を歩く。意識が、見るものに触れて、一瞬一瞬ぴくぴくと反応している。知覚。風景の発見。原子の群れの集合、その流れ。まだ、本当は、見えていない、漠然と続く道、漠然とある家並み、植木、空・・・。
それぞれが、バラバラに存在している、統一はない。まだモノらしいが、よくは、わからない。ぼんやり。
428. 人間の自由度は、行為にしろ、思考にしろそれほど、大きな閾をもっている訳ではない。しかし、一が多である、一粒の砂に無限があり、思考からは永遠に至る発見もあって、ニンゲンまだまだ捨てたものじゃないぞな。
429. 一切を無化する時間に対しては、一瞬の中にも永遠があると、嘘ぶいて、時を呼吸してみる。
430. 虚無に蒼ざめる。生の一回性に、慄のき二度と顕現しないという存在の宿命に、躓いて、絶望するのも当然だが、(普通)のセイカツをする心の形があれば、気がちがうこともあるまい。
431. 「花は花である」−花は花そのものではない−花は風である−花は心である−花は星座である−花は無限である
見たり、思ったり、考えたり、(花)は出現しては、消える(美)だ。
432. 「音楽が流れる。耳がそのまま心になる。」
433. 男よ、男よ、男よと、女よ、女よ、女よと、求める力、肉の力、本能の力、愛の力、なんと呼んでもいいが、その力が、何百年、何千年、何万年と、ニンゲンを作りあげてきたと思うと、個人の(私)が求めるのか、類としてのニンゲンが求めているのか、その根源的な力は、生命の祝祭とでも呼ぶべき、おそろしいものである。
434. 産卵時には、鮎や鮭が、裂けるほどに口を開き、全身を痙攣させ、眼は虚空を見ている、快感か苦痛かは見わけがつかないが、とにかく、ある生の絶頂に達する。そして、ぼろぼろになって死んでいく。魚たちの性交。生命の伝達。
435. 肉体、細胞の力の(産み続ける力)の圧倒感!!
436. 困ったことに、ガン細胞も、また(私)である。
437. (私)を創っている細胞に、突然、発生して、一気に、その勢力を強める、異分子、ガン細胞は、(私)自身を滅ぼしてしまう。
438. 人間の細胞の爆発力は、驚威である。しかし、その力を上廻るのが(ガン細胞)だ。
439. おそらく、私は、生きられる限り、私の、もっとも深いところへと、降りていって、私の「元型」を覗き込まねばならぬと思う。「私」とは何者かと。
440. 言語の限界を超えた、「絶対言語」で、詩を創造したマラルメは、メタレベルの最高地点まで歩いていった。虚無から美へ。
441. 日常の、表層の、普通のものの次元から跳びあがって、高次の次元へと旅立ったまま、還って来ぬ人たちもいる。狂人と呼ばれたまま。
442. 何層あるか、わからぬ位相へは、覚悟を決めて、超歩せねばなるまい。猿から人へ。人からXへ。
443. 表層も深層も、歩行の危機はどこにでもある。
444. 人に、動物に、植物に、鉱物に、触ってみる。触れられている(私)が、映し出されて、手が、眼が、耳が、口が、鼻が騒ぎはじめる。
445. 山の墓!! 海の墓!! どこからか私の耳に流れ込んできた音信である。
446. 目的地へと歩く道から、歩行そのものを愉しむ道へと、変わってしまった。
447. 今日も、宇宙への旅に出る。砕け散った(私)を拾い集めて。
448. (人を殺すな!!)日常の声が(人を殺せ!!)と戦争の声に変わる。人間の良質な部分がすべて失われて、人間の悪質な部分が吹き出してくる戦争の論理。敵と味方の二分法。
449. 実在する(私)空である(私)。どのように表現しようとも(私)から発している。
450. (私)の生きた経験を、一日を、そのまま他人に伝えるのは、いかにも、不可能である。
451. (私)が空っぽの状態の時には、ゆっくりと潮が満ちてくるのを信じて、待つだけだ。
452. 心の動きは、誰でも、同じようなものなのか、あるいは、個人の心性によって、全く異なるのか。誰が、どのように、証明できる?
453. 言葉に犯されると、(現実)を、言葉で見るようになってしまう。で、のっぺらぼうの(現実)は言葉で染まってしまう。(モノ)は言葉ではないのに。
454. 声が、他人にとどく、不思議だ。
455. 耳で生きる人は、声の調子にも、心の流れを読んでしまう。耳人。垂直に来る声。
456. 眼で生きる人は、見る、読む、意識の魔になる。
457. 五感は、意識に磨きをかけるから、いつも手当が必要だ。
458. あ~あと溜息をつく。息の中にいる(私)を見ている意識が舌を出している。
459. 思いきり欠伸をしたら、気分が楽になった。身体は、実に、正直である。
460 ウイルスが人を食べる。しかし、すべての人を食べ尽くすと、生きていけないから、ある地点で、ウイルスは、人を食べるのを止めてしまう。つまりは、共存の道を選ぶ。宿借りの論理。
461. 揺らぎからすべてがはじまる。時空の歩行。
462. で、どうするんだ?
     探求するにせよ
     研究するにせよ
     運動するにせよ
     商いするにせよ
     とにかく、するということをしていなければ、人間、仕方がない。
463. 精神のリレーよりも魂のリレーが大事だ。しかし、ニンゲンにとっては、魂のリレーの前に、肉体のリレーがいる。肉体は、種の核であるから。
464. 環。鎖。そして、螺旋。
465. 分析に分析を重ねて、ついに、「元型」が見えなくなった。
466. 日常生活の力と「本」のもつ力が均衡しはじめた。
467. 大事に、大事に育ててきたものを棄てたのだから、あとは、無心になって、奉仕の気持で生きねばならない。
468. 眼が合った瞬間に、お互いが、滅びゆく者であると、認め合う、心の交感が、腹に落ちて、疼き、永遠の別れともなる。
469. いつか、また、会えるよと呟いて歩く人の、その背中を、凝っと眺めて、立っていた。
470. 千里眼の君に、特別、語ることもないのだが、見者であることは、辛いねと声を掛けてしまった。
471. 物語を読むというよりも、物語の波に乗っている、一緒に歩いている、その感覚が、最近、大事になってきた。(私)を投射する者に、魅かれて。
472. 短気になった。怒りたい時、一瞬、間を置くこと。間は、怒りを鎮めてくれる。
473. 雪が降って、空間が、賑わい、華やぎ、その密度が濃くなった。空の空間の透明な存在が形をもち、(私)に触れる。
474. 会っても、会っても、人は、語り尽くせないものだ。
475. テレビの声、新聞の声、現場の声、声という声の意味がぬきとられて、単なる記号に思える時がある。声が白紙になるのだ。
476. 「山は山ではない」非山。禅という手法。
477. 言語使用のパターンが眼を曇らせる。
478. 人は、まったく別人になってしまう。(私)である、その持続の根拠も棄てて。
479. どこの子だ、誰の子だと言い続けられて、(私)というカードを切り続ける。
480. 何者かに、(私)は、読み込まれている。意識をも、覗いている者がある。すべてから、離れて、ただ、ただ、そのもののままで、流れていたいものを。
481. 音もなく崩れている。時空の中へ。(私)が(私)自身の中へと雪崩込んでいる。
482. 溺れているニンゲン。いたるところで。差し出す手がない。なんという頽廃。
483. ただ、ただ、放心している。黙って、肩に手を置く人がある。声よりも強い手。
484. ぶらぶらと歩いていると風景もぶらぶらと現れる。
485. どこかに、自然に、結びついている、その感覚さえあれば、大丈夫。普通に生きていける。
486. ものがつるつると滑りはじめると危ない。すとんと透明な深淵に陥ちてしまう。気をつけて。
487. 無数の、無用の断片も、存在するという理由だけで、ニンゲンを支えている。在るという力。
488. 普通の一日の、普通の時にも、どこかへ、迷い込みそうな、奇妙な時空が現れる瞬間が確かにある。
489. 危険だ、危険だと半鐘を鳴らし続けていると、平凡な日常の、本当の危機を見逃してしまう。
490. ふとした瞬間に、アッ、今の(私)を私は見ていた、知っている、予測、予知、即視感。そうそう、そして、この(現実)の中で、この風景を見て、その中を西の方へと歩いていく、誰だ、お前は!!
491. 疲労が過労になって、過労が病気を呼ぶと、休むこと、一息つくこともできなくなる。神経が針になっていて。
492. 子供に、親の姿が見えないように、親にも子供の姿が見えなくなる時がある。その理由は、まったく違うが。
493. ものを食べることに躓いてしまうと、ニンゲンという存在を全否定してしまう。
494. ものを食べる、その、ものは、生きものだから、どうしても、罪の意識がめばえてしまう。美味しい、マズいと、話をしている凡庸さも必要である。
495. とにかく、何があっても、何を言われても、ただ生きることにも「我慢をしている」と言ったのは、武田泰淳(作家)であった。
496. 身体は、気持よくなりたい。精神も気持よくなりたい。しかし、苦痛と不快が来る。快は不快、不快は快。
497. もう、終ってしまう、この一日と床の中で思う。あの感触。闇へ。
498. 独楽(スピン)する太陽。熱射。光を!!

499. いつも、斜面に立っていると、意識している限り、ニンゲンは思考し、行動する。

500. 生きていること自体がダブルバインドである。

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• 金曜日, 1月 15th, 2010

1. 「人生の色気」(新潮社刊) 古井由吉著
2. 「西鶴の感情」(講談社文芸文庫刊) 富岡多恵子著
3. 「世界漫遊随筆抄」(講談社文芸文庫刊) 正宗白鳥著
4. 「美濃」(講談社文芸文庫刊) 小島信夫著
5. 「戦後短編小説再発見」(講談社文芸文庫刊) 小島信夫著
6. 「ブレイク詩集」(岩波文庫刊) ウイリアム・ブレイク著
7. 「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」(講談社文庫刊) 川上未映子著
8. 「イスラーム文化」(岩波文庫刊) 井筒俊彦著
9. 「意識と本質」精神的東洋を求めて(岩波文庫刊) 井筒俊彦著
10. 「日本書史」(名古屋大学出版会刊) 石川九楊著
11. 「生きて、語り伝える」(新潮社刊) Gガルシア、マルケス著
12. 「水死」(講談社刊) 大江健三郎著
13. 「ひべるにあ島紀行」(講談社文芸文庫刊) 富岡多恵子著
14. 「親鸞 上・下」(講談社刊) 五木寛之著

今年は十二分に読書を楽しめる年になりそうである。
10年に一度、出会えるか出会えないかという、大作が出版された。
石川九楊著「日本書史」である。700ページ、A4版という大冊でもあるが、もう、「本」というよりも、命を削って彫りあげた作品だ。
「書」をめぐる作品を、良寛から詩人、吉増剛造まで、論じている。普段は、「書」に関して、あまり熱心ではない私も、「『書』は文学である」という著者の声に導かれて、読みはじめている。人が、10年、20年かけた、考察は、もう、書の研究というレベルを超えて、人間とは何かという次元にまで昇華されていて、圧倒される。文学、書、漢字、その姿、形、意味、意識、思想へと直進する作者の眼は、磨ぎ澄まされて、「無」をも吸収しているのだ。

仕事とは、命懸けの作業である。衝突し、破壊し、崩れ、融合し、合体し、「書」に寄りそう真摯で温かい眼差しは、書に、人そのものを発見する。

半年、一年かけて、舐めるように、触れてみたい「本」の出現である。定価18,000円も、安いものだと思う。

井筒俊彦の「意識と本質」は、思想の深淵を歩行する、人類の知の結晶である。イスラム教を中心に、禅、仏教、そして、マラルメの「絶対言語」、芭蕉の俳句と、東洋思想から、西洋思想まで、とにかく、(知)の人、井筒俊彦の著作は、一生涯をかけた人の、歩みが、堪能できる、本格的な論考だ。

そして、何時読んでも、魂を感じさせてくれるブレイクの詩。
自由自在に時空を超えて語る、90歳を過ぎても、筆の衰えを見せなかった、「美濃」小島信夫の小説。
今回は、語れば限りがない作品ばかりだ。

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• 月曜日, 12月 07th, 2009
301. 人間は、すべて、渦巻き人間である。
302. 生と死は、その度、(私)に生起しているが、いつも、少しだけ生の力が強いために、(私)は生きている。だから、(生)と(死)は、決して、二元論では語れない。(私)という球体に、それらは、同時に存在する。
303. 人間は、風景の中に沈んでしまう。そして、再び、発見される。見ようとする眼があれば。
304. 生きている、接続している(私)の証拠を探ろうとする。自己同一性の確立。当然、記憶というものに、頼る訳だが、その記憶ですら、薄く、ぼやけて、歪み、消え、虫喰い状態である。すると、実は、(私)もまた、あやふやな、記憶のように杳として存在しているのか?!!
305. 強いばかりの人間の眼は、病者には痛いだけだ。
306. 心の、身体の、躓きが、いつも、次のステップへの発条になる。
307. かさぶたの、傷の、下からは、いつも必ず、新しい細胞が貌を覗かせる。
308. 人は、決して、快感からは、ものを考えない。本気で、ものを考えさせるのは、いつも、傷・痛みからだ。もちろん、病いを知る人は、その考えに深みが出来て、竹の節目が、くっきりと、思想に表れてくる。
309. 生きる力は、生きられる力よりも質も量も低く少ない。人は、生きられる時間に生かされている。
310. とりたてて、特別なことをすることのない、1日が、人間には一番良い。冬の日溜りで、ゆっくりと、考えるということだけを考えて、坐っている。
311. 私(ニンゲン)は、決して、同じところ(定点)にはいられない。
312. 定点の移動する座標軸では、絶えず、時間も、空間も、場所も、揺らぎ、伸縮し歪み、ぴったりと(今・ここ)に貼りついている。
313. 現象の総和が世界であるのに、書かれた(本)は、いつも、書かれなかった部分で支えられないと成立しない。
314. モデルになった(モノ)は、いつも、不満が残る。書き手の(私)は、私の視点にしか立てぬ為に、(モデル)になった(モノ)は、もうひとつの視点を要求する。半面の姿、半面の論理。
315. (私)が他者になるという視点が必要になる。つまり、(私は他者である)と。
316. 意識だけになる。誰のものでもなく、誰のものでもある意識。考えるという現象体。
317. 定点・立場・位置(私)の中にあるものが、自由に移動すると、(モノ)も(コト)も、それにつられて、移動する。変化の変化。
318. やはり、私の持ち時間は、あとどのくらいだと言うよりも、私の生きられる時間はどのくらいだと言う方がより正確だ。
319. さっき、買いものに、コンビニへ行って来た。その時間はもうない。時間は、去るのでも消えるのでもない。今・ここに厳然として在るだけだ。そうだよね、池田晶子さん。
320. 突然、言葉の光線が射し込んできて、勝手に泳ぎはじめた。で、私は、静かに、それを追っている。どこへ私を連れていくのかわからないが。
321. 生きているということは、どう考えても(脳)ではなくて、(私)である。(私)という生命だ。だから(脳死)はない。
322. 脳は、生きている(私)を超えられない。
323. 仏になる、どうやら、(死)がわからないのに、死後を語ってしまうところに、宗教の秘儀と核がある。
324. (今・ここ)を歩いているしかない人間だが、どうしても、歩いたところに、時空の道が出来てしまう。それを仕方がないから(過去)と呼ぶ。
325. 神は死んだと、語ってしまったニーチェのあとを生きるのは辛い。不死・全能の神が死んだのだから、後は、宇宙のすべてを人間自身が、背負わなければならない。
326. 生命の張りにも頂点がある。頂点は、完全な成熟の一歩手前にある。
327. 時もまた成熟する、人間の生きられる時間の中で。時熟も滅びの手前にある。
328. 最終の到達点は、十(プラス)と一(マイナス)の合体にある。意識が至る、思考が至る、魂が至る、その地点に(普遍)がある。
329. 塔が建つ、その中心に、心柱がある。人間にも、透明な心柱が貫いている。
330. 南向きで育った木は南側へ
     北向きで育った木は北側へ
     木の声を聴くとは、そういう使用法だ
     「松のことは、松に習え」 古代人は、自然の原理を知尽くしていた。
331. 心も、物質文明の進歩と同時に成熟しなければならぬ。現代人の心は、跛をひいている。
332. 赤ちゃんは、新らしい人間なのだ。古い父と母のように生きれなければニンゲンにはなれない。新らしいは古い。古いは新らしい。
333. 名詞でもなく、動詞でもなく、言葉とはちがう形のメッセージがある。文章を書く人間にとっては、辛い認識である。
334. 21世紀は人間の正念場である。滅びるか、進化するか、誰にもわからないが、すべては(私)の存在形態にある。
335. 刻々と変わる夕陽を眺めていた。私の中に流れていたのは、あらゆるものは、一切、もとに戻らない−そういう思いであった。光に触れると、美と無限が握手している。
336. 手に指があって、指と指の間に隙間がある。その、隙間があることに驚いた。何もない、隙間という空間が、手を造っている。
337. 言葉の根を凝視する。湧きあがり、滲み出してくる(私)の声の根。混沌から明晰へ。
338. なぜ、人は、他人の言葉ばかりで語って、安心しているのだろう。それは、考えではない。知識だ。
339. なぜ、人は、意識の上に、無限の現象の海からたった一つのモノ・コト・コトバを選択するのだろう。
340. ある地点を超してしまうと、(私)が選択したものも、実は、向かう側から、勝手にやってきたと思えてしまう。いったい、誰が考えていることになるのか?
341. モノを見る。その関係の関係の関係を見るというふうにたどっていって、最後に見えるものは何だろうか。見方を知らないものは見えない。
342. なぜ間違ったかは解るのに、間違わないようにするのは、別の問題だ。
343. アレも欲しいし、コレも欲しい、次から次へと欲望のままに、モノを手に入れておいて、環境が汚れて、生き辛くなると叫び声をあげる、まったく虫が好きすぎるわ。
344. ちがう、ちがう、ちがうと声をあげ続けることは、王道へと至る道になる行為のひとつだ。
345. 「自分はそういう性分だから仕方がない」、短気とか、癇が強いとか、暢気とか、学習や訓練ではどうしようもない(資質)や(心性)を考えて、人は、そう言う。生れつき人の顔が、それぞれ異なるように、性分も、また、固有のものか。
346. 「合性がいい」 合理的な説明を越えて、「合性」も、不思議な、関係のありかただ。他人眼にも、自分にも、納得させるだけの確かな根拠がないのに、馬がよくて、(合性)が合う場合がある。
347. 「朋輩」は「友人」「親友」ともちがった独特なニューアンスをもった言葉だ。還暦も過ぎると、少年時代の「朋輩」が掛け値なしに、ありがたく、なつかしい。
348. 山を歩き廻った秋の日、川で泳ぎ、川原に横たわっていた夏の、長い長い一日、足の裏に、背中に残っている黄金時代の少年の記憶。
349. 「言葉を使うな」とその人は言葉で言った。
350. 歩いていると、いつのまにか、歩行は肉体のリズムを作り、心の流れを作り、意識がそれを追い、時間が生起するたびに、何かが発火して、イメージを作り、不意に、言葉となって、私の中心に起きあがってくる。
351. 何処からか、何ものかが集まって、星が誕生する。何ものかである星が分解して、何処かへと散っていく。人間の誕生にも似たようなものか。星が人間であるというのも絵空事でないかもしれぬ。(集合−引く力と分解−分ける力)単純で、簡単で、根源的な+と−という力。在ると無い。
352. 平凡な、日常の中で、無限を感じる時、私の思考は、いつも、痙攣して役に立たない。放心する棒だ。
353. 呼吸に上手につきあうこと。
354. モノ・コト・コトバ。道具と思考。あらゆる揺らぎの中を吹く風がある。その姿が見える人・見えない人。
355. 謎と化してしまうように在る人が在る。
356. 全身にびっしりと貼りついてしまったものは告白すらできない。告白すればその人が死んでしまう。たいがいの告白は、告白ではない。やはり秘密は墓場までもってゆかれる。
357. 一人の作家が”国のかたち”を発言すれば自分の頭で考えたこともない政治家が、誰も彼もが、”国のかたち”とどうするのかと他人に問う。”私のかたち”こそ、自分自身に問うてみる、はじまりは、そこからだろうが。
358. 会話の大半が、他人の言葉に染っている。テレビ・新聞・他人の考えた言葉。ものを考えるという力に満ちた言葉は、そのダイナミズムを実現した文章は、何パーセントあるのか。言葉は、誰のものでもないが・・・。
359. 時計に、暦に、太陽に、木に、風に、風景に、光景に、(時間)を私の外側で確認する習慣が身についてしまって、生物としての私の内側の時間について、考える時が少なくなっている。息・呼吸・意識が、瞬間瞬間に、今・ここに起きあがってくる(時間)に触れ、立ち会っていると、私自身が、生きられる時間と共に、存在する、在る、在る、在ると叫んでいるのがわかる。で、私は、時間の不思議を、私の不思議に重ねて、どちらも、知り尽くすことのない、外も内もない、形もない、しかし、透明な、無限の、運動体として、眺め、感応している。
360. 山に入ると山の音。
     風がなくても山の音。
361. 私の生きる地点にしか時間は発生しない。
362. 生きている時は、最低のものから最高のものまでいろいろなもに触れなければならないが、生活では、(普通)が一番良い。
363. 私の心の振幅にも限度というものがある。針が振り切れると、心は壊れ、生の歩行は中断される。何人も、そういう人を見てきた。
364. 見者、ブレイクよ。なぜ、見えたものを見たと言って、父と母に撲られたのか。あなたの眼は、見者にしか見えないものを見る。(異界)
365. 手が仕事をする。だから、必要以上は考えない、語らない、職人とはそういう人だ。
366. 村の、山の、入会地に、祖母と薪を伐りにいった。少年の時の、枯れ木に射す冬の光を、度々思いだしたりする。奇妙な感触だ。
367. 一日を生きて、空振りのような日もある。しかし、決して、空白や余白ではない。余分な日など一日もない。いつも(私)がいる。
368. ぶらぶらして、心を遊ばせておく日があるからこそ、過度な緊張や持続にも耐えられる。
369. 子供は、時がたつのも忘れて、我を忘れて、遊びに熱中する。叱られても、怒られても。
370. ものごとを先送りするという心の動きが生じると、いつも、あ~あと溜息をつく。解決したくない、いや、決して、片がつくという問題などどこにもない、何か言い訳を探している。やれやれ、腰の重い人だ。生きることは、先送りできないのに。
371. もらったものは、確実に、返さなければならない。それが、約束でなくても、礼節だ。言葉、思想、お金、生命。誰に、どこへ、何時?
372. 生きても、生きても、充分ではないが、決して、納得できるものではないが、普通の人間は、普通の流儀で、さようならと言わねばなるまい。
373. いつまでたっても、葬式や法事の席で、堂々と振る舞えない。おそらく、正しい形式を学びそこなったのだ。(形がいる)
374. 他人の顔が、妙に、うっとおしく感じられたり、汚れていると見える時、たぶん、私の生のヴォルテージは低下している。(同化と異化)
375. 解釈も説明もあきらめて、その文章を声に出して読んでみた。すると、わかるということがわかり、わからないということがわかった。
376. 土の時代は足の裏で、石の時代は掌で、コンクリートと鉄の時代は眼で、原子力の時代は意識で。
377. 「馬が合う」「性格の不一致」 感性・気質・性癖・心性、人と人が長く付き合えたり、別れたりする、その根底には、理論では分析できない微妙なものがある。性格が陰と陽で正反対だから、上手くいく場合もある。似たもの同志で上手くいく場合もある。人と人の、あの、眼に見えないが、心地の良さ、悪さをめぐる、関係は、不思議そのものである。
378. 長い間、光に不思議を感じている。光には質量というものがない、その科学的な事実、おそらく真実を、どうしても呑みこめない。光の出現、光の発生、光という存在が、在るということと上手く結びつけられない。変ないい方になるが、光が消える、光が消滅する、すると闇が来る、闇にも質量はない(?)陰と陽の関係のようにいつも光と闇は論じられる。光がなくて、闇もない、そういう状態はあるまい(?)(無)あるいは、闇だけが、光なしに存在する、それもあるまい。生と死。私には、左手と右手のちがいが説明できないように、どうしても、光というものが、上手く、私自身に説明できないのだ。光は何処から来た?(光は私だ)そんな馬鹿な叫び声もあがる。
379. 「胸が痛むことばかり」 叫び声があがり、人間が傷だらけで痛み続けている。実際、TV・新聞のニュースは、肉体の胸をしめつけるものばかりだ。肉体から心へ、心から肉体へ。死に至る病はどこにでもある。
380 権力・金・愛・原子力と、色々な強い力が存在する。その中でも、もっとも強い力が、時間であろう。時間は、存在の根幹を揺さぶる。時は流れる、二度と戻らぬ。そのパワー。
381. 幼年期、少年期に抱いた疑問が種子だった。その種子を育むために、生きているようなものだ。
382. 「ものぐさ」の代表がオブローモフだ。何もしないで、ただ横たわっている。世の中が騒々しい時は、歩き廻る蟻に混って、一人、二人とオブローモフが生れる。
383. 驚くのにも力がいる。歳を重ねるとそのことがよくわかる。
384. 現在は、いつも、混乱の波に晒されている。もちろん(私)は、いつも(今・ここ)=現在にいる。何が明確か、わかっただろうか?
385. 実は、簡単な現象しか起こっていないのではないか、そこに、人間が現れると、急に、簡単が難しいことに変わるのだ。つまり、世界の原理は、人間の原理ではない。だから、人間・私は躓いてしまう。
386. 時間に色がつく。朝・昼・夜と。時間に姿が現れる。春・夏・秋・冬と。そして、形も、色も、姿もなく、生と死を、一生涯を無化する時間が流れる。
387. 音楽のような、小説のような、写真のような、いくら、説明しても、説明にもならない言葉。呪文を唱える方が、説明になる。いや、そのものを生きられる。
388. 生きる、と言うから、今日から明日へと、道らしきものでもあるかのように錯覚する。座標軸が頭の中にすりこまれている。中心はどこにでもあるし、点は、どこにでも打てるし、(私)自身の居る場処もわからないのに。
389. ぐうたら人間も、何度でも、出発してやろうと思う意識さえ起ちあがれば、まだ、大丈夫だ。
390. 今日、”感情”という言葉は、どのくらい使われているのだろうか。昔は、”感情”が人間そのものと思われるほどに、大事に使われ、大きな意味をもっていた。長い間、生きている人の口から、直接、聴いたことがない。フローベルの小説「感情教育」。情操という言葉は、もっと聴かない。妙な時代だ。大事なものを殺している。いや、日々、殺されることが、あたり前の光景になってしまって、人間自身が、”感情”を育てられない。
391. 身も心も、一切を棄てて、逅走して、隠者になっても、なお、棄てきれぬ(私)が残る。
392. どだい、生きるということ自体が、何か、無理をしていることではないのか?本当に、誰もが思っているように、自然なことなのか、どうも疑がわしい。しかし、かと言って・・・。
393. 自ら望んで生れてきた人は、誰もいない。気がつけば、偶然(私)という者がいた。生きている間は、その(私)のお守をしなければならない。それが大問題だ。
394. で、(私)は死ぬ存在だと告げられる。まあ、生きている間は、生きているだけで、(死)はないのだから、(私)を生きてみる。
395. (私)を隠しているものがある。どうも、(私)がすべての(私)を知悉できないのは、何かが、(私)の眼を隠して、ものが見えないようにしている。あるいは、見者となって、すべてを見てしまってはいけない理由でもあるのだろうか?
396. もう、たいがいの事は、どうでもいいと思いはじめると、生活が破綻していく。生活のほとんどは、無用のような断片ばかりで出来ているから。
397. 精神という独楽の廻る振幅だけが(私)を露出させる。
398. いつも、少しずつ無理をしている。それで、生活は普通になる。身も心も壊れるが。
399. 本気になると死ぬ気になるは、似ていて、近いように思われるが、その一歩は千歩である。
400. 心に皺の刻まれている人の声を聴くと、ホッと眼が醒める。
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• 日曜日, 12月 06th, 2009

「知に働けば角が立つ、情に棹させば流される」(草枕)漱石の言葉だ。

池田晶子は、論理の人・考える人そのものだった。その、池田晶子というニンゲンが死んで、もう、二年になる。(知)の人は、世間の人間が、汗かいて、働き、足を踏んだり踏まれたりしながら、メシを食う、いわゆる(社会的な私)と、ほとんど無縁の人だった。

(私という現象)の不思議を、どこまでも探求する、その、存在を、すべて、解きほぐしていたいという強烈な要求が、池田の文章を支えていた(核)であった。

在ることは、いくら考えても尽きることのない謎であるから、それに挑戦する池田の言葉は、真剣勝負で、実に、インパクトがあった。

その池田晶子が、「魂」について、語る、考察するのが、本書である。

私は、魂は、論じるものではなくて、感じる、観照するものである、と思っているから、池田の、この仕事は、大変、危険なものとなるだろうと考えた。

池田晶子も、そのことは、充分に解っている。しかし、(意識)では、私は満たされぬという思いが日々、増すにつれて、私は魂であるという、命題へと、歩みはじめる。

かつて、小林秀雄も、中断した長篇評論「感想」の冒頭で、魂について、語っていた。「お母さんという蛍が飛んでいた」小林は、その火の玉のような蛍が、死んだ母の魂であると語りながらも、それは、私の実体験であって、私は、そのまま、その現象を信じるが、文章にして、他人に提示する場合には、まるで、文法にもならぬ、童話になってしまうと用心していた。

(信じる)という言葉がポイントである。

論理で考える、魂を考える、いや、その魂へと至る、池田の思考のうねり、その足取りが、実に、魅力的だ。

池田は、魂の考え方から、感じ方、そして、理解の仕方まで、着実に、歩をすすめていく。オウム事件、兵庫県での「少年A」の事件、脳死、父の病気(ガン⇒死)、愛犬の死をめぐって、探求は続くが、どうしても(魂)を語り尽くすことができない。

魂をめぐる考察は、やはり、考えるよりも、信じるの方へと比重がかかっており、論理では容易にその姿を現さない。

魂を象徴するには、実は、ユングのような、方法があるのだ。決して、分析するフロイドではなく、共時的な揺れの中に、ものを捉えていく、ユングの手法。ユングの「自伝」は、魂について、一番、説得力のある本だと思う。

おかしな言いかたであるが、池田晶子というニンゲンが死んでも、その言魂は、魂は、残っている、読んでいる私の中に、と感じる日々だ。

将来どこまで行くのか、その行き先が楽しみな作家・哲学者、考える人の、突然の死は、和歌山への出張の日の、朝、知った。仕事が手につかなかった。これだけの、考える力が生れるのに、また、どれだけの時間と、ニンゲンが必要になるのだろうか、本当に、惜しい人という言葉がぴったりだった。

東京駅で、週刊新潮を購入した。ガンだった。そういえば、文体に、論調に、ある種の変化が現れていた。「魂」について、「死」について、「私」について、死後も、池田晶子の言魂は、私たちの心の中に、垂直に降りてきて、語り続けている。

小林秀雄が死んだ時には、実に、妙な気がした。小林秀雄は死なないと、私は思っていたらしいのだ。なぜ?その、言魂が、あまりにも深く、私の内部に降りてきて、響き続けているものだから、その声の主が、消えてしまうと、私の魂も、消えてしまう、どうやら、そういうふうに考えていたみたいだ。

人は、傷を、病気を、痛みを通して、論理から、魂へと通じる言葉を得ていくものだと思う。論理よりも、肌理のこまかい、人間そのものにぴったりと吸いつくような、表現がある。

池田晶子の文体が、今、大きなターニングポイントに差しかかっていた、それが「魂とは何か」という本である。しかし、考えるという形がそのまま表出されるような、池田晶子の文体は、いつも、素手で、裸のままで、(今・ここ)から出発するという、正に天から、垂直におりてくる、言魂そのものであった。時空を超えて。

追記
やはり、言魂(言霊)は、伝播するものだ。何気なく、雑誌「群像」で、川上未映子の「ヘヴン」という小説を読んだ。とりとめのない、冗餂な作品だと思いながら読んでいたら不意に、小説世界が一変した。

これは、池田晶子の世界ではないか。驚いて、詩集「先端で、さすわ、さされるわ、そらええわ」を読み、初めての小説集「わたくし率 イン歯−、または世界」、芥川賞受賞作品「乳と卵」を熟読した。

池田晶子の言魂が、もう、川上未映子という作家の作品の中に再誕している。驚きであった。精神の、言魂の、リレーが、はやくも実現されている。

実際、川上未映子も、池田晶子の世界に感応して、その言魂の中に、自分の中にあるものと同質のものを発見して、それを、小説や詩という形をかりて、表現している。

単なる影響というのではない、池田の簡潔で、明晰な文体に較べると、川上のそれは、いかにも、関西人らしい、具体の世界で展開される日常そのものの語りであるが、その語りの中に、垂直に、(存在)を直撃する(思う)が混入されている。

魂は、このように、交感するのだ。合掌。

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• 日曜日, 12月 06th, 2009

1. 「動的平衡」(木楽舎刊) 福岡伸一著
2. 「思考の補助線」(ちくま新書刊) 茂木健一郎著
3. 「エレファントム」(木楽舎刊) ライアル・ワトソン著
4. 「夜明けの家」(講談社文芸文庫刊) 古井由吉著
5. 「人とこの世界」(ちくま文庫刊) 開高健著
6. 「世紀の発見」(河出書房新社刊) 磯崎憲一郎著
7. 「生きる勇気・死ぬ元気」(平凡社刊) 五木寛之VS帯津良一著
8. 「隠者はめぐる」(岩波新書刊) 富岡多恵子著
9. 「食・息・心・身」の法則(成甲書房刊) 阪口由美子著
10. 「名づけえぬもの」(白水社刊) サミュエル・ベケット著
11. 「ヘヴン」(講談社) 川上未映子著
12. 「乳と卵」(講談社) 川上未映子著
13. 「わたくし率 イン歯−または世界」 」(講談社) 川上未映子著
14. 「死とは何か」(毎日新聞社刊) 池田晶子著
15. 「私とは何か」(毎日新聞社刊) 池田晶子著
16. 「思考する豚」(木楽舎刊) ライアル・ワトソン著
17. 「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」(青土社刊) 川上未映子著
18. 「残光」(新潮社文庫刊) 小島信夫著
19. 「ドン・キホーテ」(岩波文庫刊) セルバンテス 前3巻 後3巻
20. 「父・藤沢周平との暮し」(新潮社刊) 遠藤康子著

読書は、瞬間爆発の快感と、読み終えたあとの、長く尾をひく、燠火のような燻りと、二つの愉しみがある。

発想一発の驚きは、長い時間がすぎてみると、色褪せるものが多いが、静かな文章は、その味わいがじわじわと利いてくる。先日庄野潤三氏が死んだ。「記録もひとつの文学である」という信条で、日常のなに気ない事柄を淡々と描き続けた。事件も、事故も、作為もない、無作為の文章は、静謐であった。合掌。

文章の姿が、そのまま人柄に、生き方に、そして、思想にもなる、いい例である。

逆に、見事なまでに、読者の眼を、思考を揺さぶり続け、新しい事象の地平をきりひらいてきたライアル・ワトソンも逝った。「豚」と「象」をテーマにした、最終の作品は、まるで、自らの生いたちを語る小説そのものだった。夢をありがとう。
 

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• 月曜日, 11月 09th, 2009

小説がその時代を象徴して、風俗となる時代があった。

石原慎太郎「太陽の季節」
大江健三郎「芽むしり仔撃ち」
三島由紀夫、石原慎太郎、大江健三郎、柴田翔、開高健と、作家が時代を伐りひらいて、その時代のオピニオンリーダーともなった。

しかし、いつまでも、一人の作家が、時代を代表して、疾走できるわけがない。時代が変われば、旧いスタイルになる作家は、棄てられて、また、次の作家が現れ、その繰り返しの周期は、10年、5年、3年と短くなって、終には、毎年、量産される新人の芥川作家たちは、受賞作以上のものを書けずに、世の中から消え去って、数年も生き長らえて、本物の作家となるのは、10年に、数人しか、残らなくなってしまった。

その上に、作家の力が衰弱したのか、小説自体の力が落ちたのか、芥川賞でさえも、世間から注目をひかぬという時代になってきた。

独特のテーマ、文体、知力を持った作家たちが、次から次へと誕生する訳がない。

10代、20代の、若い作家たちの受賞もあったが、感性だけで、何年間も、小説を書ける訳がないし、人生をよく生きていない人の言葉に感嘆する時代は終って、成熟した、分化した、専門化した、複雑性の時代は、作家たちの資質や才能や体力や知力で乗り切れるほどに甘くはない。

しかし、小説は好きの読者は、いるもので、いつも、新しい、力感あふれる、魅力的な作品を求めている。小説は、もっともよく生きている人の姿を写す鏡だから、読者は、現代の空気を、思想を、風俗を、小説の中に発見したがる。

私も、ふらりと本屋さんに立ち寄っては、名前も知らぬ作家の本をペラペラとめくって、立ち読みをする。都市から離れた市だから、本の種類も限られている。

ある日、「肝心の子供」を手にとって、3ページほど読んで、紙面から言葉が起ちあがってくる、新鮮な驚きを覚えたので、購入した。言葉の磁場が強力で、とても、新人の処女作とは思えない、確かな文体があった。一行一行、細部は、肌理が細かくて、具体的であるのに、目を離して、遠くから眺めると、光景が奇妙にゆがんでしまって、焦点を結ばず、時空がゆらいでいるのだった。言葉自体に核があるのだが、まるで、ゼロ記号のように、つるつると滑って、意味をそぎおとしてしまうのだ。

つまり、読者の感情移入を許さない、安心という着地を許さない、文体である。しかも奇妙な魅力に満ちているのだ。

私は、モーリス・ブランショの作品を想った。言葉が言葉を呼び、いわゆる、ふつうの時間、空間を無視して、文章が、自動的に流れ、ぶつぶつ呟くように、ただただ、漂い、流れ、一切の(着地)を拒否している作品。

磯崎憲一郎は、いわゆる、リアリズムを棄てた作家だ。絵でいえば、ピカソ、彫刻ならば、ジャコメッティ、音楽でいえば、シェンベルグ、つまり、小説のキュービズムを実現した作家である。

主人公との一体感のもてる従来の小説ではないから、いわゆる、感動がない。人よりも、言語が、主人公である。意味を求めても仕方がない。(現実)は、分析されて、(日常)は、その時空を奪われて、ひとつのメタ物語へと達している。

だから、これは、いったい、何を書いているのだ、どういう意味があるのだろうという、素朴な読者の問いには一切答えがないのだ。

「本」の帯に「人間ブッダから始まる三代を描いた新しい才能」と書いてあるが、仏教の創造者、釈迦を多少なりとも知っている読者の期待は、すべて、裏切られてしまう。仏教も、修業も、悟りも、ない。

それでも、磯崎の文章には、読者の頭脳を刺激する強い力があって、ぐいぐいと、ひきこみ、ひらめき、衝突、発光、消滅と言ったものが、随所にちりばめられている。

本の奥付けを見ると、2007年11月である。初版本である。おそらく、この種の小説を読みこなす読者は、最高3000名くらいだろう。つまり、磯崎が、小説を書いて、メシを食うのは、大変だ。おそらく、一般の読者は、むつかしい、面白くない、解らないと、相手にしないだろう。しかし、大事に育ててもらいたい”才能”である。そんなことを、勝手に考えながら、歳月が流れた。

「終の住処」が芥川賞を受賞し、作者が、大手商社に勤務する部長だと知って、なおさら驚いた。

商社マンである、しかも、大手の、それが話題にもなって、11万部が売れたと聞き、信じられぬ思いがした。いったい、誰が、あの作者の文章を読みこなすのだろうか?

もちろん、売れると、読まれると、感動するでは、まったく、質のちがった話である。

で「終の住処」を読んでみた。

時空もゆがむ、正に、アインシュタインの時代の小説である。30歳を過ぎた男と女が結婚して、子供が出来、家を建ててというふうな筋書きを書いても、虚しいだけで、11年も妻と口を利かなかったり、数ヶ月も月は満月のままだったりと、いかにも、キュービスム風な小説のスタイルで、リアリズム風に小説を読む習慣の読者は、躓きぱなしになるか、その文章を、ただ、すいすい読んで、考えることもなく、先へ先へと、素通りしてしまうだろう。(月)は(月)ではなく、(妻)は(妻)ではない。物としての月、月と呼ばれている月、いわゆる(現実)も、この小説の中では、磯山の文法に従って、その統治下のもとにある(現実)となっている。

考えてみれば、すぐにわかることだが、(現実=現象)は、言葉の中にはない。これは、小説(フィクション)ではなくて、事実を書いたドキュメントですと語ったところで、実は、言語化する時には、もう、(現実・現象)は、別のものになっている。

人は、エッセイやノンフィクションを(事実)と読みたがるが、そんなことはない。(モノ)は、言葉の外にある。絵の外にある。写真の外にある。事実そのままを写した写真も、また、事実ではなくて、(写真)なのだ。

磯崎は、そのことを、知悉して、充分に、使用している作家である。

小説は、決して、筋ではまとめられないし、プロットの中にもないし、一行一行の文章の中にしかないのだ。

だから、磯崎の小説のストーリーを語っても、何も語らないに等しいほど虚しいのだ。

文体こそが生きものである。
読む瞬間にこそ、リアリティが発生する。

磯崎の小説は、メタノベルである。

しかも、文章の一行一行は、とても(現実)によく似ているくらいに、精緻にできているので、一見(現実)がそこにあると思われがちだが、眼を遠くへ離せば、すぐに、その細部も、得体の知れぬ別のものに変わってしまう。

メンバーにメンバーを加えて、それがクラスになる。メンバーには、クラスのことはわからない。そういう原理で貫かれている。

それにしても、行変えの少ない文章は読み辛い、作家三島由紀夫は、4~5行で、行を変える習慣を守った。

新しい時代の、新しい小説に、新しい才能が挑戦する。ニュートン的な、絶対的な時間の中で、長く育まれた小説が、いよいよ、自由に伸びたり縮んだり、曲がったりするアインシュタイン的時空の中で、どのように成長するか、実に、楽しみな作家の出現である。

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• 月曜日, 11月 09th, 2009

文学が、小説、評論が確かな力をもっていて、時代に、インパクトを与えた時代があった。柄谷は、そんな時代に、文芸評論家としてスタートし、小説家・中上健次と二人三脚で、新しい文学空間を切り開いた。(風景の発見)

その柄谷行人も、1992年、中上健次がガンで死ぬと、文学の現場から去って、文芸批評をも辞めてしまった。

本書では、はじめて、柄谷が、政治・思想について、詳しく語っている。柄谷の愛読者には、なぜ、彼が、文芸評論を辞めるに至ったのか、どんな思想を構築しようとしているのか、興味が尽きない。東大に入学して、学生運動をはじめ、文芸評論家になり、英語の大学講師(教授)をして、生活の糧を得ながら、マルクスの研究から、言語・数・貨幣についての考察、国家・ネーションへと至る道程が、詳しく語られていて、素人にも、よくわかる。

柄谷行人の「探求」は、人間世界の原理を求める道である。世界の(知)に対抗できる論文・評論から思想へと転換した地点が、政治を語りながら解き明かされていて、実に、興味深い本である。

小林秀雄、吉本隆明、秋山駿と、それぞれが、文芸評論から、固有の文章へ、思想へと展開していったように、柄谷行人も、自らの(核)を、マルクス・カントを読み込むことで、構築している。

小林秀雄のドストエフスキー論が、世界に通用するレベルであったように、柄谷のマルクスや「探求」も世界の論文と、肩を並べても見劣りのしないものにと、その志が覗える。

ポストモダンの象徴のように思えた柄谷行人が、実は、その限界を読み取っていて、自らが、ポストモダンを否定しているのも面白い事実であった。

世界を、存在を、宇宙を、一人の人間が知尽するには、余にも、分野が専門化しすぎていて、誰の手にも負えなくなっている。

(政治)は、一に原理、二に行動であると思うが、もの書きは、いつも、(現実)に対して、無力感を痛感する。時代の中でのアクションが、政治家のようには起こせない。それでも、原理によって、ヴィジョンを提示することは出来る。

(現場)で行動すると、文学者や思想家は、必ず、躓いてしまう。それでも人は運動する。(現実)は、いつも、原理のようには動かず、人の予測を裏切ってしまう。

それでも、運動は起こり、思想は樹立される。

柄谷行人が、(文学)から去ってしまったのは淋しい限りだが、(本)は、何も、文学に限らない。今後、魅力的な(本)を出し続けてくれれば、”柄谷行人の宇宙”が、結晶するだろう。思想家・柄谷行人からは、まだ、眼が離せない。

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• 月曜日, 11月 09th, 2009

最前線の(現場)を生きている人の語る言葉ほど面白いものはない。人間と人間の交流の場がある。衝突し、融合し、反発し、分離し、集合し、波風が立ち、絶えず、揺れ、浮遊し、漂い、機動し、一時も、静止することのない人間の群れによる、流動する場が(現場)である。一日一日、その形状は、変化して、止むことがない。

佐藤優の仕事は、外務省の、情報を集める、謀報部員、国家公務員である。ロシア(旧ソ連)の担当職員だ。キャリア組ではない。現場の一兵卒である。しかし、日本を代表するほど、有能で、傑出した外交官として、名を馳せた男だ。

佐藤優の仕事の流儀は、郷に入れば郷に従えで、徹底的に、ロシア人と付き合って、信用を得て、情報をものにする手法だ。

酒ひとつをとってみても、半端ではない。盃を、返し、返され、一晩中、飲み続け、酔って、ふらふらになっても、トイレで吐いて、また、盃を重ね、倒れる寸前まで飲み続ける。もちろん、それが、親交を結ぶしるしだから避ける訳にはいかない。酒を呑めない者にはとても勤まる仕事ではない。

温泉に入れば、仲良くなった男たちは、男の一物を握り合って、お互いの心を通じ合おうとする。

24時間、すべてが、仕事の体制である。もちろん、家庭の犠牲は、当然のことで、佐藤も、妻と離婚をしている。(私)生活というものがない仕事である。

佐藤優は、ロシア人の生活、習慣の中に、完全に溶け込んでしまう。

一番彼に役立ったのが、宗教だった。佐藤は、大学時代に、神学(キリスト教)を学んでいる。将来は、神学を研究して、じっくりと、学問をしたいと考えていた。

ところが、偶然、外務省の、一般試験を受けたら、合格してしまった。

実は、その神学の知が、外交の仕事において、ロシア人との交流において、一番の信用を得た(素)になったと告白している。

人間は、いつ、何が役に立つかわからないものだ。

その有能な、国家の為に、身も心も、私生活まで捧げて働いてきた、佐藤が、「外務省絡みの背任・偽計業務妨害事件で、2005年2月17日に、東京地方裁判所で、懲役2年6ヵ月の有罪判決」を言い渡された。なぜ、全身全霊をかけて、外交官という仕事に打ち込んできた人間に、国は、罪を背負わせるのか?

国を相手に闘う一人の外交官VS検察官とのやりとりは、戦慄さえ覚えるほどの迫力である。と同時に、謀報という仕事に携わる者のあやうい、頼りない、その立場に、身がふるえてしまう。

外務省から犯罪者へ、犯罪者から作家へと変身した佐藤優の姿は、(現場)を精いっぱい生ききったものの、真摯な、しかし、憤怒に満ちた力に象徴されている。

外務省のラスプーチンと呼ばれて、国会議員、鈴木宗男とともに、ジャーナリズムを賑わしたが、(権力)とは、(国)とは、いったい何なのか、泥沼の底に沈められて(個人)には何が出来るのか?身に、突然、降りかかった炎を、いったい、人は、どのように消さばいいのか、長い、長い、苛酷な闘いが始まっている。

だからこそ、表現、(私)が語る言葉こそ、佐藤優に残された、唯一の武器とも言えるのだ。文は、人である。

ロシアは、ドストエフスキー、トルストイ、ソルジェンチンを生んだ国である。その闇は深いが、民衆の力はパワフルで、謎に充ち、歴史の宝庫である。

佐藤優の仕事は、無限にある。

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