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• 日曜日, 12月 06th, 2009

「知に働けば角が立つ、情に棹させば流される」(草枕)漱石の言葉だ。

池田晶子は、論理の人・考える人そのものだった。その、池田晶子というニンゲンが死んで、もう、二年になる。(知)の人は、世間の人間が、汗かいて、働き、足を踏んだり踏まれたりしながら、メシを食う、いわゆる(社会的な私)と、ほとんど無縁の人だった。

(私という現象)の不思議を、どこまでも探求する、その、存在を、すべて、解きほぐしていたいという強烈な要求が、池田の文章を支えていた(核)であった。

在ることは、いくら考えても尽きることのない謎であるから、それに挑戦する池田の言葉は、真剣勝負で、実に、インパクトがあった。

その池田晶子が、「魂」について、語る、考察するのが、本書である。

私は、魂は、論じるものではなくて、感じる、観照するものである、と思っているから、池田の、この仕事は、大変、危険なものとなるだろうと考えた。

池田晶子も、そのことは、充分に解っている。しかし、(意識)では、私は満たされぬという思いが日々、増すにつれて、私は魂であるという、命題へと、歩みはじめる。

かつて、小林秀雄も、中断した長篇評論「感想」の冒頭で、魂について、語っていた。「お母さんという蛍が飛んでいた」小林は、その火の玉のような蛍が、死んだ母の魂であると語りながらも、それは、私の実体験であって、私は、そのまま、その現象を信じるが、文章にして、他人に提示する場合には、まるで、文法にもならぬ、童話になってしまうと用心していた。

(信じる)という言葉がポイントである。

論理で考える、魂を考える、いや、その魂へと至る、池田の思考のうねり、その足取りが、実に、魅力的だ。

池田は、魂の考え方から、感じ方、そして、理解の仕方まで、着実に、歩をすすめていく。オウム事件、兵庫県での「少年A」の事件、脳死、父の病気(ガン⇒死)、愛犬の死をめぐって、探求は続くが、どうしても(魂)を語り尽くすことができない。

魂をめぐる考察は、やはり、考えるよりも、信じるの方へと比重がかかっており、論理では容易にその姿を現さない。

魂を象徴するには、実は、ユングのような、方法があるのだ。決して、分析するフロイドではなく、共時的な揺れの中に、ものを捉えていく、ユングの手法。ユングの「自伝」は、魂について、一番、説得力のある本だと思う。

おかしな言いかたであるが、池田晶子というニンゲンが死んでも、その言魂は、魂は、残っている、読んでいる私の中に、と感じる日々だ。

将来どこまで行くのか、その行き先が楽しみな作家・哲学者、考える人の、突然の死は、和歌山への出張の日の、朝、知った。仕事が手につかなかった。これだけの、考える力が生れるのに、また、どれだけの時間と、ニンゲンが必要になるのだろうか、本当に、惜しい人という言葉がぴったりだった。

東京駅で、週刊新潮を購入した。ガンだった。そういえば、文体に、論調に、ある種の変化が現れていた。「魂」について、「死」について、「私」について、死後も、池田晶子の言魂は、私たちの心の中に、垂直に降りてきて、語り続けている。

小林秀雄が死んだ時には、実に、妙な気がした。小林秀雄は死なないと、私は思っていたらしいのだ。なぜ?その、言魂が、あまりにも深く、私の内部に降りてきて、響き続けているものだから、その声の主が、消えてしまうと、私の魂も、消えてしまう、どうやら、そういうふうに考えていたみたいだ。

人は、傷を、病気を、痛みを通して、論理から、魂へと通じる言葉を得ていくものだと思う。論理よりも、肌理のこまかい、人間そのものにぴったりと吸いつくような、表現がある。

池田晶子の文体が、今、大きなターニングポイントに差しかかっていた、それが「魂とは何か」という本である。しかし、考えるという形がそのまま表出されるような、池田晶子の文体は、いつも、素手で、裸のままで、(今・ここ)から出発するという、正に天から、垂直におりてくる、言魂そのものであった。時空を超えて。

追記
やはり、言魂(言霊)は、伝播するものだ。何気なく、雑誌「群像」で、川上未映子の「ヘヴン」という小説を読んだ。とりとめのない、冗餂な作品だと思いながら読んでいたら不意に、小説世界が一変した。

これは、池田晶子の世界ではないか。驚いて、詩集「先端で、さすわ、さされるわ、そらええわ」を読み、初めての小説集「わたくし率 イン歯−、または世界」、芥川賞受賞作品「乳と卵」を熟読した。

池田晶子の言魂が、もう、川上未映子という作家の作品の中に再誕している。驚きであった。精神の、言魂の、リレーが、はやくも実現されている。

実際、川上未映子も、池田晶子の世界に感応して、その言魂の中に、自分の中にあるものと同質のものを発見して、それを、小説や詩という形をかりて、表現している。

単なる影響というのではない、池田の簡潔で、明晰な文体に較べると、川上のそれは、いかにも、関西人らしい、具体の世界で展開される日常そのものの語りであるが、その語りの中に、垂直に、(存在)を直撃する(思う)が混入されている。

魂は、このように、交感するのだ。合掌。

Category: 書評
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