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• 金曜日, 6月 18th, 2010

約千にのぼるアフォリズム集、いちおう目を通させていただきました。
まるで惑星の煌きのように、ひとつひとつが自在な輝きを放ちながらも一定の運行の下にコントロールされた、まさに重田ワールドが眼前にせまってくる思いでありました。

それは、感服であったり、共鳴であったり、戦慄であったり、瞠目であったりしますが、貴兄の思考・思弁の軽やかなダンスに魅了されていることに他なりません。

小生の勝手な希望を言わせてもらえば、このアフォリズム集に、素晴らしい挿絵があったらな・・・ということです。
たとえば、ミロの絵のような明るい抽象的な、リズム感のある挿絵があれば、相乗的に重田ワールドの魅力がさらに広がるように思うからです。

出版を心から待望しております。

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• 金曜日, 6月 18th, 2010

1. 「白川静読本」(平凡社刊)
2. 「フエルマーの最終定理」(新潮社文庫刊) サイモン・シン著
3. 「宇宙創成」上・下(新潮社文庫刊) サイモン・シン著
4. 「事象そのものへ!」(新装復刊) 池田晶子著 トランスヴュー
5. 「詩のかおり詩のひびき」(Obunest刊) 壬生洋二著
6. 「西脇順三郎詩集」(思潮社刊)
7. 「新約聖書 訳と注① マルコ福音書 マタイ福音書」全6巻(作品社刊) 田川建三著
8. 「漢字」(岩波新書刊) 白川静著
9. 「孔子伝」(中公文庫刊) 白川静著
10. 「中原中也の手紙」(講談社文芸文庫刊) 安原喜弘著
11. 「何処へ」「入江のほとり」(講談社文芸文庫刊) 正宗白鳥著
12. 「アムバルワリア」「旅人かへらず」(講談社文芸文庫刊) 西脇順三郎著
13. 「クオンタム・ファミリーズ」(新潮社刊) 東浩紀著

今月は、心が悲鳴をあげている。日々のリズムが狂ってしまって、平常心でものを考えられない。
ニンゲンの規格から外れてしまうほど大きい「天命反転」という思想を掲げて、「私は死なない」と言い放ち、「死ぬのは法律違反です」と断言した荒川修作が、ニューヨークの病院で死んだ。(死んだ?)(アラカワの死)それはいったい何だろう。
頭が上手く、考えられない。現在、荒川の「ヘレン・ケラーまたは荒川修作」(マドリン・ギンズ共著)新刊読んでいる途中であった。腰を据えて、アラカワに立ちむかいはじめているところだから・・・。
「免疫の意味論」の著者、多田富雄氏も死んだ。ニンゲンを、超・スーパーシステムだと、論じた「本」は、実に、刺激的な一冊であった。

※350年間、誰も解けなかった「フエルマーの最終定理」を読む。数という魔に挑む天才数学者の物語である。サイモン・シンの語りが見事である。
「宇宙は数である」と思いたくなる本であった。

※「事象そのものへ!」池田晶子の思考の原点。新装版を再読。止まらない。魅力。

※中原中也の手紙は、詩人の素顔があって、愛読者にはうれしい。

※「詩のかおり詩のひびき」壬生洋二著は、私の大学時代の同人誌「あくた」の仲間の「本」である。70年代の、まだ、詩、小説、思想を語り合う場があった時代に、著者が愛読した詩人たちの「詩」を紹介している。中也、朔太郎、達治、石原吉郎など。若者にはおすすめの解説書。

※白川静の「本」を熟読。

さて、現代人にとって、宗教とは何だろう。雑誌「考える人」で、聖書研究者の田川建三の特集があった。
私は、若い頃、「原始キリスト教史の一断面」と「イエスという男」「宗教とは何か」を読んで、共感、感動、驚愕し、日本にも、古代の原書を読み、一生を、聖書研究に捧げる人がいるのを知った。宗教するニンゲンの生きざまを見た。その田川建三氏が、インタヴューで「神は結局、存在しない」と断言している!!
超一流の研究者の言葉は重い。キリスト教信者にとっては、大変なショックだろう。
しかし、その時代に、宗教が必要だったことは、認めてほしいと言っている。千年、二千年たっても、ニンゲンは、(宗教的)なものを必要とはしているのだ。

その田川建三氏が、「新約聖書」を翻訳して、解注をつけた。全6巻、(現在刊行中)
「聖書」は断片的にしか読んでいないが、田川さんの訳なら、一生かけて、読んでみようと思った。古代人の文字を読みかえすのに、何十年もかけて、宗教を考えて、実戦してきた田川建三氏の大仕事である。

<数>の謎に一生を捧げて挑み続けたアンドリュー・ワイルズ。
<漢字>の研究に生涯を賭けた白川静。
<キリスト教、聖書>の研究が生きることである田川建三氏。
<昆虫>昆虫を観察してでも人は一生を生きられるという感動をくれたファーブル。

(ニンゲン)が生きるという姿が輝いている。

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• 土曜日, 5月 22nd, 2010
901. ニンゲンは、宇宙の風媒花である。行け、時空を超えて。
902. 黄金の時間を食い尽くして生きよう。
903. 神々のいなくなった荒野を歩いている。
904. 経験というものが、役に立つ領域は限られている。生きれば、新しいことばかり。
905. 激しい快楽が、静かな燠火の楽しみに変わってしまった。
906. とりとめのない、普通の一日も、ありがたい。
907. 一応、ニンゲンと呼ばれて生きてきたが、(私)が解ったためしがない。
908. 宇宙の総時間から見れば、ひととき生きて、滅びてしまう。小さな惑星・地球のニンゲンたち。何処まで行けるだろうか?何が出来るだろうか?無限の時空は、存在の秘密を覗き見させてくれるのか?
909. 形態の進化には、億年単位の時間が必要だ。一人のニンゲンには、手も足もでない、気の遠くなるような、無限のひろがりの前にて、内爆発を起こして、むなしい抵抗を試みてはいるが・・・。
910. 「神は存在しない」そう呟かざるを得ない時代に生きているニンゲンが、次に求めるものは、時空の行方か、存在の究極の姿か。
911. 物質も、動植物の生命たちと同じように、もうひとつの記憶体ではないのか。千年、億年の石を眺めていると、そんな妙な気がした。いやいやと頭を振って歩きはじめたが。
912. いつも、一日のはじまりには、正坐をして、一日に向き合う儀式を行う。図面を描いて、計画を立てて、一歩を踏みだす瞬間には心の掛け声。
913. 音速者、光速者、思考者。一歩一歩、歩いてきたニンゲンも飛びはじめた。そして・・・。思考の十一次元へ。
914. 今日も、一日という地球の自転のリズムが刻まれる。泣いたり、笑ったり、昼と夜を分かたずに。
915. 目覚めると、(私)は、そいつに気がついて、いつものように握手をしている。
916. 無限に広い海、無限に広い空と思った頃のニンゲンは、まだ、牧歌的で、幸福であった。
917. 空の青、空の闇、どちらも、果てがなかった。地球の外から眺めてみると、空の青は薄く、細い帯となり、空の闇だけは、どこまでも続く、漆黒の闇・深淵である。「夜と昼」どちらが本当の顔かわかっただろう。
918. どんよりとした曇り空の下、肩にかかる重力が、いやに重く感じられる。
919. 1日の中に(私)が納まりきらぬ日がある。狂おしくて。
920. 会うのは、歩いている人ばかり。歩行する姿も形も十人十色。
921. 町を見て、国を見て、宇宙を見て、最後に見るのは、事象の地平線の彼方にある(私)。
922. 「何処か」は、いつも宙吊りであって、着地点が決まると、(現実)の(今・ここ)に吸い寄せられる。だから、「何処か」へは、永遠に行けない。
923. (私)の死後、ニンゲンたちの死後、宇宙は、何事もなかったかのように、存在し続ける。虚無感が生じるのは、そんな時だ。
924. 夢中になって仕事をしていたら、そろそろニンゲンの終わりの時だった−で、さようならだ。いったい、何をした?
925. 人は、「一生」を生きるのではない。(今・ここ)を生きて、生きて、生きてきたことが、人の一生と呼ばれるだけだ。
926. 無数のニンゲンがいて、会える人は、ほんの一握り。無数のモノが溢れていて、無数のコトが起こって、(私)が関係するのは、手がとどく範囲のものだけだ。
927. 物語は、意識を乗せていくのだ。だから、言葉は、意識が光のように、あらゆるものを照らし出すように在らねばならない。そう、光に耐えられる言葉が必要である。
928. もう、いや、いまや、いまだに、(私)は決定されない。(私)は、不可能だ。
929. ニンゲンと呼ばれている(私)を名付けられない。
930. (私)が、どのようにして(あなた)になれる?
931. 生れ変わるのではなく、生れ直すのは、可能だろうか?つまり、(私)が、ふたたび、生れるのだ。だから、復活でもなく、輪廻転生でもなくて。
932. やはり、魂と呼んでしまうことに問題があるのだな。ソレを。余分な色がつく。
933. 何をしている?と問われたら、迷わずに、照れずに、「文学」をしていると断言できる人が、何人いるだろうか?相手の眼を、正面から見て。作家と呼べる人は少ない。
934. 宇宙を解読するのが、「本」であるのか?宇宙自体が記された「本」であるのか?
935. 一日という時空を書くことは、誰にも出来ない。「一日、何もなし」と日記に書いた人は、何を書いて、何を書けなかったのだろうか?
936. 意識は、いつでも、自然に、在ること、を確認している。
937. 魅入られたように、モノにのめり込む。そのモノが仕事であれば、文句はあるまい。趣味であれば、どうであろうか?悪徳であれば、取り返しがつかない。
938. 宇宙が、宇宙自体が見ている夢のひとつであるならば、当然、ニンゲンも夢見られている存在のひとつにすぎない。(哄笑)
939. 「悩みの種」がなければ、誰も悩まないだろう。生きている限り、悩みが発生する、生きること自体が「悩みの種」だから。
940. 死者たちを見る時、いつも、頭の隅で、いったい、ニンゲンは、何をしてきたのだろうと考えてしまう。
941. 山の中に山があり、その山の中にも、また、山がありというふうに、山は、幾多の山をかかえ込んでいる。
942. 在ることと見ることは、永遠に結びつかなくなった。誰がそうしたのか?量子論のハイゼンベルグだ。
943. 見えなくても、聞こえなくても、話せなくても、ヴィヴィドに生きていたヘレン・ケラーという存在。いったい、彼女の何が生きていたのか?覚醒したのは何か?
944. ほんの少しだけ、感覚を揺さぶられると、もう、ニンゲンは、自分がどこにいるのか、何をしているのか、わからなくなる。空海の手法。戒壇めぐり。
945. 時代には、いつも、その時代にふさわしい死生観が生れる。神話の時代の、宗教の時代の、科学の時代の。宇宙の時代の死生観とは何か?
946. 一番の恐怖は、終りのない苦痛である。永遠は恐怖だ。
947. 気絶する人がいる。無限の中の生の一回性に目覚めて。しかし、歩け!!
948. 歩くと、いつも、中心が動いているという感覚が生じる。(私)という不思議が歩いているから。
949. 痛みは、ニンゲンの、良い部分を殺してしまう。何を考えだすかわかったものではない。
950. 中心を失ったニンゲンは苦しい。どこもが中心であると言われても、救いを、求める、中心もない。
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• 火曜日, 5月 18th, 2010

1. 「ピストルズ」(講談社刊) 阿部和重著
2. 随筆集「一私小説書きの弁」(講談社刊) 西村賢太著
3. 「続審問」(岩波文庫刊) J.L.ボルヘス著
4. 「創造者」(岩波文庫刊) J.L.ボルヘス著
5. 「ヘレン・ケラーまたは荒川修作」(新書館刊) マドリン・ギンズ 荒川修作 共著 定価4,800円
6. 「どうで死ぬ身の一踊り」(講談社文庫刊) 西村賢太著
7. 「マラルメ全集」(全5巻)第1巻「詩・イジチュール」(筑摩書房刊) 訳:松室三郎・阿部良雄・菅野昭正・清水徹・渡辺守章 定価 19,000円

※21年の歳月をかけて、「マラルメ全集」全5巻が完結した。5人の翻訳者の方々にとっては、半生を費した仕事だろう。(訳者の一人、松室三郎氏は故人となっている)

なぜ、21年という長い、長い、歳月がかかったのだろうか?
①マラルメの作品は、実に難解である。(本当に、日本語として訳し得るのか?)
②没後、100年を過ぎて、次々に新しい資料が出て来た。

ちなみに、私が、第1回配本を購入したのは、1989年3月(東京の、八重洲ブックセンター)である。
「ディヴァガシオン他」(単価9,500円) 本文544ページ、別冊・解題・注解334ページ。
銀色の函に入っていた。帯文には「世界は一冊の書物へと到るためにつくられているのです」というステファヌ・マラルメの言葉が刻まれている。

出版社にとっても、息の長い、忍耐のいる、大きな、大きな事業であっただろう。

現在、小説(純文学)が売れない。詩は、もっと売れない。数十、数百冊単位だと云う。しかし、小説を書く人も、詩を書く人も、大勢いる。インターネットで、自由に、詩を書いて、発表している。

せめて、現代詩を書く人たちには、先人たちの詩を読んでもらいたい。
不出生のマラルメの詩に、一度でも触れる機会があれば、その人の詩作は、まったく、ちがったものになるだろう。

存在について、人間について、言語について、これほど、深く考えて、実践した詩人は、他にない。
現在でも、マラルメに匹敵する詩を書ける詩人はいない。(吉増剛造?)
難解なものに挑まない(知性)は、(知)ですらない。最高の詩、マラルメの「絶対言語」、それは、ニンゲンが作り出した、もうひとつの宇宙である。

21年間、待って、「マラルメ全集Ⅰ」を入手した。
感動は、実に深い。だから、読書はやめられない。
出版社・訳者の方々に、一読者として、お礼を言いたい。感謝である。

※ボルヘス再読。実に、切れ味が良い。ボルヘスの博覧強記に触れると、どういう訳か、いつも、日本の天才・南方熊楠を思い出してしまう。

※天才・奇才の荒川修作の「ヘレン・ケラーまたは荒川修作」も、実に楽しみな一冊である。

まだまだ、ニンゲンは、すてたものではない。思考は、活火山のように、爆発をしている。問題は、それを、読者が、共有する努力を惜しまないことだ。時間が足りない。

マラルメやボルヘスの作品に触れると、どうしても、現代の日本の作家たちの作品が、色褪せてみえてしまう。
作者たちは、青くなって、必死に、思考し、文章を紡がねば、いつまでたっても、衰弱する文章しかひねり出せまい。

文学は、科学のようには、進化をしないものだ。思考の密度、文章の格がちがうのだ。
日本の作家で、対抗できるのは、おそらく、零記号のような文体をもつ古井由吉くらいだろうか?古井由吉は、そこに、石が存在するように、文章を存在させる域に達している唯一の人・作家である。

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• 水曜日, 4月 21st, 2010
801. もういいと自分の一生を思う時に、充分に生きたと思う人と、不運と不幸でうんざりだと思う人の差が生じてしまう。
802. 手で、自分の手で、モノを作る、それが一番、ニンゲンらしい仕事だ。
803. 腰の重い人だと言われるが、いざ、出発と決まると、今度は、疾走して、止まらなくなる。不器用な男だ。
804. (私)の死ぬということがわからないように、(私)の生れるということもわからなかった。気がつけば、(私)がいる、(今・ここ)に、それだけだ。
805. 不安、痛み、恐怖、ニンゲンが、逃れたいと思うものの、ベスト3であろう。困ったことに、生きて、存在する限りは、なくならないものばかりだ。
806. 楽しみ、喜び、快楽、感動、感激、法悦、60年も生きているのに、悲と苦の思いばかり多くて、(快)は少ないものだ。何日あった?
807 (数)は宇宙にあるものの名前か?
808. (考える)ことの範疇にないものに対して、(考える)という方法で挑む−それは無謀だ。
809. 1はわからない。1はこわい。1は考えられない。だから、2からはじめる。はじまりの2は1ではない。
810. 夫婦(2)は子供(1)を生む。2は1である。日本語としては、ちっともおかしくはない。しかし・・・。
811. 思考の連鎖がはじまっている。あらゆるものが、結局、ひとつのものに、通底してしまう。
812. 数学の問題を解くように、人生の問題を解く。それは、どだい、無理である。質と位相がちがう。
813. 生きる・一番の必要は、湧きあがるエネルギーだ。衰弱が一番困る。まだ、堕落する方がましだ。
814. すべてを失うことが、快感であり、心が、もっとも落着く人もいる。(自己処罰)
815. モノをもらったり、モノを持つと、妙に落着かず、持ちおもりがする種族(タイプ)が、必ずいる。
816. 誰もが、罪人になることを、拒むわけではない。大きな力で、処罰されて、ホッとする人もいる。早く捕らえてくれ、早く死刑にしてくれと。
817. ニンゲンは、実に、奇妙な生きものだ。助けてくれ、とも、殺してくれ、とも叫んでしまう。
818. 父殺し。王殺し。神殺し。存在殺し。連鎖してしまう、殺すということ。誰が?
819. 引き裂かれたまま生きている(私)
820. 空はいつも泡立っている。光の独楽が廻っているから空間はいたるところで歪んで見える。鏡のように澄んだ青空はない。
821. 「物語」(小説)の場自体がモノを考えてしまう。
822. よく、小説家が、勝手に「物語」が動きはじめたと語るが、フィクション(小説)であれ、ノンフィクション(事実)であれ、言語場を作ってしまうと、そこに、(力)が現れて、その差異が、衝突して、動きはじめ、作家は、本人が書いているのではなく(考え)る磁場に巻き込まれてしまうのだ。
823. 一人の作家が、思考するよりも、さらに、多くのものが、書かれる作品と、書かれない作品の両世界にひろがってしまうのだ。
824. 誰も書けない世界、言葉の外側に、(絶対言語)は立ちあがる。
825. どこまで、心の深淵へと降りていけるか。無意識の、アーラヤ識の、彼方へ。モノとココロが合体する1かゼロの地点へ。
826. モノとコトに囲続されて、形態の不条理へと身を委ねている。
827. 父の父の父の父へ。母の母の母の母へと。(私)は、その透明な糸をたぐり寄せてみる。
828. ニンゲンは、誰でも、いつか、不条理な(私)の死を受容せねばならぬ。現在、そのレッスンが必要だ。
829. すべてを失った者は、死の受容もやさしい。あらゆるものを手に入れたと思った者は死の受容に喘ぐ。どちらが幸せかわからない。幸せは不幸。不幸は幸せ。
830. 死にたいと思う人、生きたいと思う人。同じニンゲンで、まるで、意思のベクトルがちがう。存在することの畏しさ、不思議。
831. 何もいいことがなかった。幸福な日は、数えるほどだった。それでも、ゼロではない。生きて、存在しているだけで。
832. 思い出には限りがない。最低のものから最高のものまで。味わえば、文句はないだろう。で、どうだった?
833. わかっているだろうか?
     ニンゲンが生きるということを。
     ぼんやりと齢をとってしまって。
     死にもの狂いで生きてきた。
     ニンゲンの証明は、結局、自分自身で片をつけるしかない。
834. 平凡、普通。それは、すべて、他人との比較である。計りは(私)の中にある。
835. 文句に、愚痴に、不平に、不満に、悪口に、不快に、出てくるわ、出てくるわ、そんなニンゲンに限って、自分には甘いのだ。
836. この程度のニンゲンだと、自分自身に言いきかせられる人は、まだ、モノがわかっている。バカのバカは、利巧ではないが。
837. たいがいのニンゲンは、いつも、自分を、いい子にして語りたがる。なぜだ?
838. ただし、自分を責めて、責めて、責めて、必要以上に責める人は、自分を滅ぼしてしまう。
839. 結局、お前は、そういうニンゲンだよと他人が言う時、耳に痛いが、半分は当たっている。他人の眼は、厳しい。
840. 批判しても、攻撃をしても、悪口を言っても、隠口をきいても、結局、ニンゲンは、群れから離れられない。世間という世界。
841. おそらく、他人は、誤解をしない。ゆがんでいるものは、ゆがんでいるように見る。
842. 「俺を信じてくれ」という人は、言葉以外の行動の重さを、ほとんどわかっていない。
843. 嘘が、そのまま、身についている人がいる。平気である。嘘をつくのが。で、最後には、自分自身にも嘘をついていて、行き場を失ってしまう。
844. 情の人、知の人という。どちらを信用する?いつも別れ道は、そこにある。
845. 自分自身を大事にする。生きものだから当たり前だ。誰も文句はない。しかし・・・。
846. はじめて、62歳を生きている。だから、新しいことばかりだ。わからないのだ。心も身体も。
847. なぜ、人は、ニンゲンという、存在の、運命を受け入れてしまうのだろう。誕生から死へ。生、老、病、死というものを。100%の絶対だからと。もっと、他の、存在の変容はないものかと、考えないのだろうか?
848. 形があるから、形の変化を見てしまう。形がなければ・・・、いったいお前は、何を言いたいのかと、批難の声が飛んでくる。
849. 飛びっきりの、絶対の、有無を言わせぬ、生の一回性が、宇宙にはあるのだから、心臓がとび出してもおかしてないのに、平気で日々を生きている。その時が来るまで。
850. 死を前にして、作家・評論家の小田実は、「死なない念仏を唱えてよ」と、出家している瀬戸内寂聴に言った。「そんなものある訳ないじゃない」答えである。
851. 現在、いったい、宗教の存在理由はどこにあるのだろう。何をしているのか?何ができるのか?
852. 「 」ではなくて、( )でもなくて、) (を使いたくなる時がある。在るのに無い。居るのに居ない。開かれていて、内と外がない場合。
853. カーテンが風に揺れている。ただそれだけ。
854. 私のような男を受け入れてくれる女には、惚れたくないと友が言った。誰の言葉だったのか?
855. 頭が濁っている時には、ひたすら歩くこと。
856. 回転する独楽の模様の澄みかたが頭脳にも欲しい。
857. ニンゲンは、進化してきたと言われても、(私)は、私自身のことも、よく知らないのに。
858. 日常のセイカツの中に、一本の杭くらいは打っておこう。(現場)の勘がなくなれば、本当の世捨人の思考になる。
859. 銀河と原子の間で、中くらいのニンゲンは、どちらにも行けずに浮遊している。
860. 望遠鏡と顕微鏡が神を殺した。もう、誰も、神のイメージがもてない。
861. 「私小説」が光っている。耳によく響く声で。車谷長吉の声。西村賢太の声。
862. 今日、鶯の初音を聴いた。4月10日は、鶯記念日。
863. 何もしたくないために、言い訳ばかり考えている。おそらく、存在すること自体に、不満、不快があるのだろう。
864. 人が死体になった時の、あの言いようのない、踏しみしだかれた屈辱と悲惨。
865. 気分は、思考を変えられるか?
     気分は、思考を作り出すか?
     気分は、思考を呑みつくすか?
866. 肉体をゆすって、精神のリズムを整える。
867. ニンゲンの視点は小さすぎて、視野は、まだまだ狭すぎて、思考も低空飛行を続けている。もっともっと、超球宇宙へ。
868. いったい何をやっているのか、ニンゲンは、本当のことを解っていない。
869. 無限に続くラッキョの皮をむいている。生きている不思議を、誰も疑わない。
870. (神)を作り出した時代と、(神)を棄ててしまった時代と、どちらが幸せか、俄に断じがたい。
871. 日が昇り、日が沈む、地球の1日に慣れてしまったニンゲンは、宇宙の悠久のリズムに背丈が合わない。
872. 往復運動が思考のダイナミズムを生む。雑多な日常の中の思索活動。
873. 元手のかかった文章は、真夏日に呑む水と同じだ。全身に涼気が走る。心臓が、きゅっと音をたてて鳴る。
874. 気が通う。そんな人が何人いるだろう。
875. 知識だけで書いた文章は、尖っていて、ちっとも味がない。正確なだけで、面白くない。
876. 思考のゆらぎから結晶まで、文章が捉えたとして、宇宙の痙攣は、するりと身を変わしてしまう。
877. 時空の中で、途方にくれないニンゲンがいるだろうか。位置も場所を定まらず。
878. 宇宙飛行士たちは、美しい地球を、誇らし気に語るが、宇宙の暗黒の淵、闇の恐怖、畏怖については、多くを語りたがらない。なぜか?
879. あらゆる物語を聴かされる人、知らされる人にとって、一人の作家など、もはや、なんのことはない。すべては、宇宙へと放たれる精神の軌跡にすぎないから。
880. 無限に続く物語には、「本」としての終わりや始まりはない。宇宙という物語。
881. 最高の作品とは、作者(私)の手から離れて言語そのものの歴史へと化したものである。
882. 石は、石以外にはなりたくないと言っている。水は、水以外のものにはなりたくないと言う。(私)は、永遠に、(私)として存在し続けるだろう。
883. 言語の物質化は、どのように、可能であろうか?分秘される、言葉は、言葉自身をしらない、ただのものになる。
884. ニンゲンは、けっこうアバウトな生きものかもしれない。どんな天才であっても。
885. とことん考えると、脳が痙攣する。そんな時には、解き放ってやれ。頭を棄てて、肉体へと走れ。
886. 泣くという行為がなければ、ニンゲンの悲しみには行き場がない。泣いて、泣いて、声をあげて泣くのだ。
887. 夫婦でも、親子でも、どうしても救けてやれない場合がある。死に至る病いだ。(私)は(あなた)にはなれない。
888. 火山の大爆発。6000年のニンゲンの一切の文明が役に立たない。
889. 他人(ひと)を丸ごと理解しようなんて、どだい、無理である。(私)自身でさえ、その正体が解らないのだから。
890. 書くことは、すでに書かれてしまったことを掘り起こすことかもしれない。
891. ニンゲンは、コズミック・ダンスを踊りながら何処へ行くのか?何をしているのか?一切が、眼隠しされたままだ。
892. 現在のニンゲンは、あらゆる面で、宙吊り状態である。(今・ここ)を通過しているだけの小さな、小さな、小さな存在。
893. 誰かはわからないが、最後のニンゲンは、生命、存在、宇宙のすべてを報らされるように出来ているとでもいうのだろうか。
894. 私たちニンゲンは、永久に「宇宙という巨大な本」を書き続けているマラソン・ランナーである。
895. 永続する(言葉)は、誰のものでもない。個人の(私)を超えて、不死の(言葉)になる。
896. 何が書かれているかよりも、「本」は、すべてのニンゲンに共通する(思考)の形だ。さあ、どんどん考えてくれ。
897. モノやコトがわかるのは、それらがすべて在るものだから。
898. 終日、歯痛で唸っている。何も手につかないだらしなさ。痛み、苦痛の破壊する力。
899. 歩いてみろ、あらゆるものが、思考の発条(ばね)になる。
900. 人生80年、ひとときのまどろみである。
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• 水曜日, 4月 21st, 2010
701. アフォリズムはヴィジョンである。透明な橋を架ける力だ。
702. 昔の人は、よく歩いた。読んだ書物は、次から次へと消えていくが、歩いた足の裏が知っている大地の声とリズムは、不思議と消えないものだ。(現場)が何よりも大事である。
703. いくら考えてもわからないことが、時がたつと、時そのものが教えてくれる。だから、”時”に身をゆだねている。
704. 考えようとするから、わからない。生きようとすれば、わかってくる。
705. いつまでたっても”時”が皆目わからない。発生も消滅も顕現も。モノの時、イノチの時。
706. もっと読みたい、もっと、ムイシュキンと歩きたい、もっと一緒にいたい。合体した魂が、そう叫び続ける。それが、最高の読書だ。読むことが、そのまま生きることになってくる。
707. なぜ、人は、なつかしいという感覚で、モノとヒトを眺められるのだろう。会うこと。別れること。
708. 「またふたたび」という感覚と、「もう二度と」という感覚が、同じ、一人のヒンゲンの中に生じる不思議。
709. 生きることは、(私)を創造した宇宙への返礼である。
710. もう、アレ、コレと考えない。ただ(私)に顕れるものをそのまま記しているだけだ。
711. ここにいるのは誰だ?まさか、幽霊ではあるまいと、宇宙に問いかけると、もっと見ろ、もっと考えろと風が吹いているだけ。何も応えずに。
712. 去るもの、来るもの、通過している(私)は、いつも、(今・ここ)に立ちつくしている。
713. 蛙の鳴く声が、桜の散る空間に響いてくる。妙に狂おしい。春である。
714. もっと、もっと、どこまでも降りていって一番深いところまで。何が見えた?何がわかった?
715. 歩くことが、老いの計りになる。
716. 一人で生きるよりも、二人で生きる方が生き易い。第一、自然である。対のセイカツ。♀と♂。そして・・・。
717. 薄い膜だけが、ニンゲンの、(私)の生きる器である。
718. 何もかもが溶解していく。傷ついて、破れて、壊れて。芯よ起て!!
719. 巨木の生きる姿に、ニンゲンは圧倒されるばかりだ。
720. どんな仕事であれ、とりあえず、自分は仕事をしているという感覚があれば、大丈夫。空虚には呑み込まれない。
721. 何もすることがないと、心は、蛸になって我が身を喰いつくしてしまう。
722. もう、モノを、直接見るだけでは、コトが足りない。それも、ひとつの在り方にすぎないから。
723. 生きものたちは、それぞれ、自らが生きるために必要な形態を持つに至る。不思議だ。
724. 老衰死。病死。事故死。自殺死。他殺死。餓死。戦死。心中死。脳死。処刑死。切腹。狂死。大量殺人死(ジェノサイト)・・・。あ~あ。ニンゲンの死は、一回限りで、ひとつなのに。
725. 芸術は、どこかに”狂”の一滴を注入しなければ輝かない。小説も同じことだ。
726. 空を眺めすぎると(私)が消えてしまう。
727. 身。身体。体。躰。軀。漢字は、他の言語よりも面白い。何よりも、形がものを言う。
728. 「本」を読む。「文章」を読む。昔は、「知」を知ることが面白くて、意味、内容ばかりを探った。今では、何かを自由に思わせてくれる文章が面白い。だから、読まずに、凝っと眺めている。視線に長く耐えられる文章がいい。大半の文章は、眺めていると、崩れ壊れてしまう。
729. 光るものを「光」と命名しても仕方がない。「大日如来」と古人は呼んだ。おそらく、それは、正しい。「1」も、そのように、成立するしかないか?
730. 空海も、南方熊楠も、岡潔も、天才と呼ばれる人たちは「大日如来」を信じた。
731. 死ぬ時には、光の中へと飛び込むのだ。「大日如来」の中へ。横超。
732. 「1。光。大日如来。宇宙。」わかっているのに、わからないものばかりである。
733. 在るものでも、わかりかたをわからないと、まったくそのもの自体がわからない。しかし、信じるか!!
734. 「自然」という暗号を読み解くだけで、ニンゲンは、30億年を費してしまった。
735. 宇宙自体が、自らを記憶しているとすれば、ニンゲンも、大きなものに、記憶されている。
736. 知り得たものの量は、雨の一滴で、それでも、ニンゲンとして生きてゆかねばならぬ。無明。暗愚。
737. 宇宙には、「1」そのものは、存在しない。そんな声が脳裡に響いたので(私)は、無視して、歩き続けた。「1」をめぐる無限を思いながら。
738. (私)の外へと超出すること。
739. 身体が重い、身体が軽いと感じる時のあの微妙な感触、(私)は、(私)という器、入れもの、を思い浮かべている。しかし、まだ、(私)は、その、重い、軽いの膜を知らない。
740. 他人の声に、他人の存在に、誘い出されて響く(私)がいる。モノに、コトに、ニンゲンに誘発されてこそ、共に生きる意味がある。
741. 単独者の(私)という存在、長い間、そう考えていたが、(私)は、どうやら、あらゆるものの、集合した、ひとつの統合体かもしれぬ。だから、分裂していて、解体される。
742. 話をしながら、テレビを観る。点のことばかりを考えながら三角形を思い描く。同時に、二つのこと、三つ以上のことを実行する能力。ニンゲンは、考え得ることは、すべて、可能にしていく生きものかもしれない。(聖徳太子の未来)
743. 「もう、死んだように生きておるよ」と友は、淋し気に笑っているが、活躍の場が消えても、(私)という場は、残っているのだから、(私)という宇宙を歩いてみればいい。
744. 「あらわるモノ・コトは、考えられる対象として存在する。考える、起点は、どこにでも、ごろごろと転がっておる。
745. 見るということは、ひとつの見方である。
746. (私)が存在として顕現した以上、自分自身の存在くらいは、証明してやろうと思うのは、当然の欲望である。何代かかっても、ニンゲンは、宇宙に口を割らしてやれと思い続けるだろう。(沈黙する宇宙への質問状を作ってでも)
747. (声)が来たと言う。神からの(声)が来たと言う。ニンゲンの耳にとどいた(声)は、果たして、宇宙から来たものか?(神は、宇宙ではない)(声の正体は?)(光?)
748. 光は、声にもなる。共感覚があれば。
749. 闇から闇へは赦さない。果たして、誰にものを言っているのか?
750. 眼を閉じても、開いていても、いつも、額の前方に、何かがある。(私)の身体ではないのに、それは、いつも(私)と一緒に存在する。何?
751. 思考には、いくつも層があって、一歩一歩その層をステップしている。
752. ほとんどの「不満」は、自分が、自分自身に対して抱いているイメージよりも、他人が自分に対して抱いてくれるイメージが、劣っているという理由にある。もっと、(私)を見てよ。もっと(私)を知ってよ、もっと(私)の価値を認めてよと、叫んでいるのだ。あ~あ。ぷーふい。
753. 「どうも、(私)はないみたいだ」と言うから「まるで、幽霊じゃないか」と応えると「君に僕が見えるのか」と叫んだ。
754. (ただの人)になってからが、勝負である。衣裳をすべて脱ぎ棄てて、自分自身の貌を、じっくると覗き込んでみる。
755. 生きることは、どうやら、だんだんと、ニンゲンになっていくことである。形姿は、求めたように、現れるから。無数の貌。
756. あらゆる情報を集めて考えてみるか、ひとつのものを、じっくりと、何年も眺めて考えてみるか、(総合者と単独者の眼)
757. 本能半分。学習半分。
758. 生命が進化したとして、生命の系統樹を考える時、一つの単細胞に達するのか、あるいは、単細胞の群れへと達するのか、そこに<1>という数の魔がいるような気がする。
759. 同じように、俺たちの「宇宙」のビッグ・バンは、たったひとつの大爆発であったのか、複数の、多数のビッグ・バンがあったのか?証明もできない問いは、問いですらないのか!!
760. 地に、足をつけて、明日は、郵便局へ行こう。何を送りに?何を伝えに?
761. 歩けるうちには、歩こう。それ以外に、することがあるのか?
762. ニンゲンから(仕事)を取りあげてしまうと、自ら、長い間、放っておいた(私)に立ち向かわなければならない。で、突然、(私)が牙をむく。誰だ、お前は?必死になって、(私)を耕してみるしか他に術はないのだ。
763. なぜ、数があるのか、誰も証明できない。1が証明できないという。(私)とは何かがわからないはずだ。
764. 宇宙に、純粋な(1)として存在しているものなどあるのだろうか?私は知らない。数は深淵だ。足をとられると畏ろしい。
765. 私は、一人のニンゲンであるが、(1)ではない。一本の木は、木としてあるが(1)ではない。
766. 素朴に、自然を見て、在ると思える平凡な領域で生きていると、(自然)が、本当に、あるかどうか証明できぬと唸っている大数学者、自然科学者たちは・・・。知らぬが仏か?
767. ニンゲンは、あまりにも、素直に、(在る)ことを見るために、眼と脳のシステムに委ねすぎているのだろうか?(在る)ように見えると考えたのは、実は、ひとつの見方にしかすぎなった。見方が、ちがうと(在る)は、見えなくもなってしまう。(在る)か(無い)かは、わからなくなる−と、木も石も自然も存在するかどうか、本当は、わからなくなる。
768. 純朴な(1)は、宇宙のどこにも、発見できない。だから、人類の(知)は、まだ(1)を証明できない。6000年の文明とは、その程度のものである。もちろん(私)とは何かを問い続けても、わかるわけがない。
769. 自然の中を、どこを探しても(1)はない。しかし、人は、一枚の葉とか、一個の石とか、一本の木とか、どこかに(1)を探したがる。見る、意識する、どこまで追求しても、結局、自然の中には(1)がない。(ない)ということだけがわかってくる。どだい、(数)は、なぜ、現れたのだろう。(数)とは何か?
770. 木を見る。自然を見る。見えるように見ている。で、その、見えるようにが、崩れてしまうと(自然)は自然ではなくなってしまう。すると(見る)ということも、実は、アテにならない。テレビ画面の接続不良のように、(自然)に点と線が走って、画像が、見えなくなる。(自然)が、そのように崩れてしまう。それでは、(見)ている自然は、在るとも無いともいえなくなる。
771. 考えていては、アフォリズムは書けない。向う側から来るのを待つのだ。五感を解き放って。
772. (私)は、もちろん、宇宙人である。(私)が顕現した理由は、宇宙を知悉するためである。
773. (在る)から(居る)への移行が、宇宙での最高の変革であった。
774. 「小説」を書こうと意識した瞬間から、「物語」の「虚」が、作者の脳裡を掠める。だから、「小説」の文章とエッセイの文章は、まったくちがってしまう。
775. 何もない、実に、頼りないところから、筆(ペン)をすすめると、不思議なことに、小説の文章はのびやかになる。そこに、小説の上質な部分が現れる。いわば、腕の見せどころである。(考える)ことが光る。
776. 文体は思考の回路である。
777. 私たちが居ることは、どうやら、そんなに確かなことでないかもしれない。幽霊のような存在が、(私)の耳許でそう呟いた。眼の前の自然が消えた。1でもあり、2でもある。数でないかもしれない。
778. 存在(モノ)も形も色彩も、見る・見られるという関係をすりぬけると、虚へと移行する。
779. 蛇が自分の尻尾を咥えるようにして1が1を呑みこむことができるのだろうか?
780. 宇宙に生きることは、(1)を探す旅であるかもしれない。
781. (私)とは、途中で、放り出されてしまった存在の名前だろうか。
782. 光の光源を、呼びようがなくて、「大日如来」と云ったのは、おそらく正しいかもしれない。
783. 不思議なことに、物書き(作家)は、その言葉が潔くなればなるほど、死が近くなって、自死に至る。村上一郎、三島由紀夫、石原吉郎。
784. 30億年かかって、生きてきた(私)であるから、自殺は、実にもったいない。
785. いい読み手がいなければ、いい書き手は育たない。読むことと、書くことは、共同作業である。
786. 天皇、エンペラーの問題は、30億年の生命史の中に位置づければ、その姿がよく見えてくる。現実は、人は、たかだか、100年、1000年の単位で考えるから、その姿を見誤ってしまう。
787. 母から生まれてきたが、母の母、そのまた母と考えて、グレートマザーに思いを至すと、30億年も生みつづけている姿に、感動すら覚える。
788. 精神が、もっとも深いところに達すると、それが、そのまま、外部に存在するものに通底してしまう。
789. 外在した脳がスパークする時、いったい、何が起こっているのか、と思うほどの、陶酔の時が来る。
790. 「40年」もサラリーマンをしてくると、会社から放り出された時、どこにむかって、何をしていいのか、まったく見当がつかぬ」と友人が真顔で語った。「誰かに、命令してほしい」とも。
791. 誰でも、自分の(場所)と(役割)が欲しいのだ。
792. 会社生活で忘れていたものは(私)である。停年になると、その(私)が、姿を出して、お前はいったい、何をしてきたのだ、お前はいったい何者だと、怪物のように、突然、牙をむくのだ。
793. 働いてきた(私)は、存在としての(私)よりも小さいのに、(仕事=私)と考えたがる錯覚。
794. 何もかも、狂的な世界であるのに、平気で生きているニンゲン。
795. 訳もわからぬまま、透明な膜の中に突入して、一歩も、歩けぬ時期がある。
796. 日も、月も、季節も、遠くなったり、近くなったり。色彩までちがって見える。
797. 一日に、一度、ひとつは、ものを考えること。
798. 意識もなく、モノに、コトに気分が悪くなって、嘔吐を催す時がある。世界と上手く握手が出来ない。ユーウツな日。
799. 春、三月、空がすみれ色になる。光が変わった。気が昂ぶって、歩いてみたくなった。光の誘惑。
800. 時間をもて余す人、時間が足りない人。やれやれ、自由というものは、やっかいだ。
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• 水曜日, 4月 21st, 2010

1. 「コーラン」上・中・下(岩波文庫刊) 井筒俊彦訳
2. 「悪の華」(岩波文庫刊) ボードレール 堀口大学訳
3. 「巴里の憂鬱」(岩波文庫刊)ボードレール 堀口大学訳
4. 「他力」(講談社文庫刊) 五木寛之著
5. 「風に吹かれて」(角川文庫刊) 五木寛之著
6. 「小説修業」(中公文庫刊) 保坂和志 小島信夫共著
7. 「ミドルワールド」(紀伊国屋書房刊) マーク・ホウ著
8. 「烏有比譚」(講談社刊) 円城塔著
9. 「後藤さんのこと」(早川書房刊) 円城塔著
10. 「金子光晴」(筑摩書房刊) 金子光晴著
11. 「細雪」上・中・下(新潮文庫刊) 谷崎潤一郎著
12. 「詩片集素描」(土曜美術社出版販売) 山野井悌二著
13. 「高野聖」(角川文庫刊) 泉鏡花著
14. 「寓話」(プロジェクトK発行) 小島信夫著
15. 「金融狂荒」(文芸社刊) 相馬尚文著
16. 「暗渠の宿」(新潮文庫) 西村賢太著
17. 「OUT」上・下(講談社文庫刊) 桐野夏生著
18. 「柔らかな頬」上・下(文春文庫刊) 桐野夏生著
19. 「グロテスク」上・下(文春文庫刊) 桐野夏生著
20. 「残虐記」(新潮文庫刊) 桐野夏生著

はじめて、円城塔の小説を読む。
安部公房の直系の作家が登場した。いったい、これが小説と呼べるだろうか?と思えるほど、新しい作家である。
本文よりも、注釈の方が多かったり、骨と皮だけであって、あとは、理論が統一している作品。
理系の作家らしく、実に論理的である。もう一滴そこに血が流れると、実に、面白い作家になる。
安部公房は、ひらがなのつかい方が、上手い作家だった。論理に、肉感性があった。
円城塔は、分野も無視して疾走する。純文学、SF、小説、エッセイ、文章までも、破壊してしまうかもしれない。

ボードレールや金子光晴や泉鏡花や谷崎潤一郎を再読する。青春時代に読んだ本を、60歳を過ぎて読み直してみる。なるほど、そのように、生きたのかと、感慨が深い。

「寓話」は、保坂和志氏が、師と仰ぐ作家、小島信夫の小説である。絶版になった小説を、個人が、復刊するという、困難な仕事に挑戦した保坂和志氏には、エールを送りたい。
この傑作は、ゆっくりと時間をかけて読みたい。

車谷長吉に続く「私小説」作家が誕生した。西村賢太だ。
なぜか、現在、「私小説」を読むと、ホッと安心する。古風だからではない。もっとも、現代的である。
人間が、頭で組み立てた小説には、どこか、薄ら寒い風が吹いているから、「私小説」に現れるニンゲンの形姿が、技巧、戦略を通り超して、(知)以上のものを表出してくれる−その姿が眼にやさしい。

「風に吹かれて」エッセイが時代そのものだった。
五木寛之の金字塔は、小説「青春の門」である。その五木寛之が、満を持して、小説「親鸞」を書いた。熟読した。大先輩に対して、礼を失する訳にもいくまい。じっくりと、再読して、論じてみたい。なぜ、現在、宗教であるのか?

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• 土曜日, 3月 20th, 2010
601. 共感覚というものがある。木を見ていると音楽が聞こえる。数字を見ると絵が浮かぶ。菓子を食べると風景が見える。石に触ると匂いが流れる。まだ、まだ、人間には、不思議な力が存在する。どこまで発見できるか、どこまで開発できるか。
602. (1+1=2)は、科学である。(1+1=3)は、宗教であり、文学だ。論理と想像力と信心。不条理、不可能へと人は、歩みたがるものだ。
603. まるで(私)というものが、一切、存在しなかったかのように、宇宙の時間は過ぎていくから、誕生も死も、人間同志の眼差しの中にしかない。無限の中の1は、零に等しいということか。やれやれ、ニンゲンの叫び声もとどかないか!!
604. 光という存在が、鍵を握っているのは、とうの昔からわかっている。光という音信は、ニンゲンにとどいているのに、その暗号が読みきれない。
605. 宇宙地図は、何時頃、完成するのだろう。迷い児のニンゲンは、浮遊しているだけだ。あてもなく、偶然に偶然を重ねて。
606. お前は、何が楽しくて、何が苦しくて、浴びるように酒を呑むのだ!!赦してくれ、酒呑みの論理。
607. 正しい論理に反揆して、故意に、足を滑らせてみせる、天邪鬼がいる。負のリアリティが欲しいのだ。
608. 世の中、金ばかりじゃないよと言いながら、舌の根も乾かぬうちに、経済、経済が一番、生活第一だよと唱える人がいる。
609. 存在の底はぬけてしまい、時空はゆがみ、ニンゲンのセイカツが、まるで、絵空事のように稀薄になる。
610. 人間は、まだ、太陽のひとつも創りだせない。1000億個の太陽、1000億個の銀河、宇宙という自然は、人間原理を確実に無化してしまう。
611. 異空間、異次元へと通過できる存在でなければ、宇宙の旅は不可能だ。
612. 問いには必ず、答えがある。では、1000万分の1の原子の形を見るように、130億年の超球宇宙を見れないものか?と問うてみる。おそらく、見るという方法自体が、変わらなければなるまい。脳が写す宇宙の見方?何?それ?
613. 宇宙と響き合うように在りたい。(私)は、何者であっても良いと。
614. 先日、高校時代の同級生2人に会った。長い間、別々に、生きてきた3人が、偶然会った。今日の自分が、この場に、この私としているのは、ほぼ(偶然)という力に依っている、それが、3人が出した断定的な結論であった。大きな存在の力を、お互いが認めている証拠だった。
615. 現在(いま)の私の状況は、どうも、形や習慣や法からはみだしていて、身の置き処に、戸惑っている。そんな訳で、私という形態までが、不確かになっている。
616. (私)のイメージが定まらないと、小説も書けない。同時に、私の生きている日常も共振れしている。日常と小説を書くという事実が入り組んでしまって、どちらが、表か裏か見分けがつかない。モノを本気で考えはじめると、いつも、こういう状態になる。
617. モノが完全に露出する時、眼も耳も、全感覚が対応しても、間に合わない。爆発の中の痙攣。
618. モノが、人間の手に負えない深淵を覗かせる。まるで、夢をみる夢のリアリティの畏怖と同じだ。
619. 宇宙の総エネルギーに立ち向かわない(純文学)は、滅びてしまう。
620. 「毎日が日曜日」の齢となった。考えてみれば、色分けされた日々が消えて、一日という時空に、私の影しか写らぬ透明な、鏡が出現したのだから、分身を殺して、私自身を生きられる。
621. 闇に闇を重ねて、一切の形を消し、光という色を消しても、まだ、闇の底の底に、蠢いている者がいる。
622. 時間の経つスピードが、日によって変化をする。遅くなったり、早くなったり、幸いに、まだ、止まることはないが。
623. 最近は、市内に、葬儀場ばかりが増えて、電話で、セールスまでしてくる。それでは、もう死にますか、まだですかと問合せをされているみたいで、実に気分がわるい。無言で受話器を置く。墓の予約、葬式の予約、言葉は、互助会員の募集とまであるが、妙な世の中になったものだ。
624. おそろしいほどのスピードで、文字(言葉)が、私の中から溢れだしてくる。湧きあがってくる宙に浮いた文字を写す手が間に合わない。いったい、私のどこから、その言葉が湧きあがってくるのか、わからない。私は、記述するマシーンになる。
625. どこまでも、読み込んで、読み込んで、コトとモノの森の奥処へと進んでいくこと。
626. 若い頃には「人生は一行のボードレールにも如かず」という芥川龍之介の言葉に妙に感心していた。いったい、何を考えて生きていたのだ。現在(いま)なら「万書(本)は一人の生命(人生)に如かず」と断言できる。
627. 身の振り方を考えろ、そう言われて、突然、夢見ていた若者は、人生のハンドルを切った。ニンゲンの形にはいろいろとあるものだが、ひとつしか、選べない不便さがあった。
628. 銀河と銀河の大衝突を眺めていた。光の錯裂。眼が覚めると冷汗がでていた。頭の芯が疼いて、役に立たない。永遠の徒労感が来た。
629. 大声をあげて、歌を歌う。声にも年輪(齢)がでてしまう。高齢者のカラオケ大会。頭の中には、若き日の消えた夢々。
630. 無いものねだりを承知のうえで、ニンゲンは、もうひとつの命、もう少しと呟いてしまう。もう一年、いやもう一ヶ月、せめてもう一日でもと。
631. 満員電車の歳月が終ったら、身のまわりに、人の姿がない。いつも、何かが過剰で、何かが不足している。ちょうどいい人生などない。
632. お金を使うように、生命を使う。丁寧に、丁寧に、用心して、用心して。それでも、災いと病いと事故が来る。
633. 運が悪い人だと、諦めるわけにはいかないのが、人の情である。何故?理由は?原因は?と声をあげて、他人を、自分を、神を責める。責めて、叫んで、泣いて、静かになって、逝くのだ。
634. 遠くまではるばると歩いた人も、隣近所をうろうろと歩いた人も、結局、私自身へと還ってくる。みんな、同じ終着駅へとたどり着くのだ。
635. 課長、部長、社長という椅子を棄てたら、名刺と肩書きで通用した声が、無視されて、相手の声まで変わってしまう。私も、生のままの声を出した。どうやら、言葉まで、通じなくなった。
636. 肩の荷がおりると、急に、顔付きまで変わってしまった。
637. 名刺を破って、肩書きを棄てると、背をむける人、散る人、去る人、逃げる人、椅子に坐っていたのは幽霊か?
638. 無信心者の現代人には、慈雨の降ることはあるまいが、宇宙の雨は、平等に降る。
639. 深夜、闇の底で、存在の私語をきく習慣が身について、とびっきりの音信の訪れに耳を澄ましているが・・・。
640. 執行猶予の身の上で、ニンゲンは、いつか、爆発してやろうと身構えている。砕け散る星雲のように。
641. 舵はきちんと握っていたはずだが、天の川は、ニンゲンの横切れる川ではない。
642. 透明な扉が次から次へと閉っていく。一人、また一人と、ポロポロ、ポロポロ、扉の向こう側へと姿を消していく。他力に委ねるしか、術がない。
643. 深夜に、目が覚めて、独り坐っていると、身振いするほどの空虚が(私)を襲った。で、コップに一杯の水を呑んだ。
644. 130億年かかって誕生した(私)。(私)の死後も130億年の時間が流れる。ちょうど、心を病んで、身も心も分裂した人が、癒えるのに同じくらいの時間がかかるように。いったい、これは、何だ?時間という魔。
645. 人に邂逅する。何が、大切で、不思議だと言っても、偶然、この世で、人に会い、友人になることほど、貴重で、ありがたいことはない。魂と魂が交感して、響きあう快楽。他に何がある。
646. 気心の知れた仲間との対話は、特別なことを話さなくても、時間が熟れる。
647. 生・老・病・死は、誰にとっても一大事であるが、酒池肉林にうつつをぬかした、若き日々、にがい日々もあった。どうやら、生命にも、うねりというものがある。
648. 煙草はやめて、酒もほどほどに、親切な忠告は耳に痛い。それはそうだと頷きながらも、突然、爆発する、狂おしい声に衝きあげられて、深酒をする。
649. 素粒子を考えても、宇宙を考えても、ニンゲンのセイカツは、一向に、関係なく流れていく。人は普通の、眼の前の実業ばかり見て、経済が第一だから。で、競走で、神経が擦り減る日々を生きる。
650. なぜ、歓喜の歌や詩や小説は、ことごとく、失敗してしまうのだろう。(讃歌)は(悲歌)よりも、よっぽどむつかしいということか。
651. 書けないモノは、事象ではないし、おそらく(現実)でもない。
652. だから、抽象も、観念も、夢も、もちろん(現実)になる(現実)である。
653. 消えていくアレやコレ。別の時空へとスリップしていくものの、何と多いことか。
654. 残ったものだけが(現在)の(私)である。それで、充分か、不足か、淋しすぎるか。長く生きると、人は、誰でも、そのように在る。
655. 眠って、眠って、飽きるほど眠ると、不意に、起ちあがってくるものがある。お前は、いったい、何をしているのだ、と。(何モシタクナイ、何モデキナイ人へ)
656. 歩いて、歩いて、歩いて、見聞をひろめ、日本を、世界を、とびまわっていた人も、結局、最後の一歩でたどり着くのは(私)だ。
657. 苦痛、苦脳は、科学では救えない。現在は、科学、経済の時代であって、宗教は分が悪い。しかし、(救う)という一点が、宗教の存在理由であることにかわりはない。科学、医療、経済、哲学。(宗教)や(文学)は、今こそ、輝かねばなるまい。魂の渇いた時代に。
658. 唯心論と唯脳論
     ①脳の中にすべてがある。
     ②脳の中には、何もない。花も木も、水も空気も、すべてが、(脳)の外に在る。
     ③(脳)は、システムとしてのひとつの機能だ。
     ④見るというシステム。知るというシステム。感じるというシステム。考えるというシステム。
     ⑤そして、そのシステムは、スーパーシステムである(私)のものだ。
     ⑥(脳)は行動しない。行動するのは(私)だ。
     ⑦(脳)にはモノはなく、コトがある。
659. モノとコトは、いつも複眼で見なければ、(全体)が見えない。
660. 魂が歩いている。遍路さんである。お米やミカンやお芋をあげて、その肉体を支えてあげよう。お接待。私の分まで歩いてね。私の分まで祈ってね。
661. 遍路さんに、マレビトを見た少年期。海の彼方から、山の彼方から、運んできたものは、異国の、異界の、未知の言葉の束だった。
662. 「文学」は、お金も、権力も、性も、食も、労働も、殺人も、家も、自殺も、学校も、あらゆるものを、描かねばならない。哲学でも、宗教でも、現れぬ裸のニンゲンを。(私)という宇宙のあらわれる「本」
663. 鈴木大拙は、絵空事ではなく、本気で「浄土くらいあってもいいだろう」と宗教を唱える。人類の夢は、消してはならぬか。
664. 真実を語ることは、必ずしも、正しいとは限らぬ。宇宙の原理は、人間原理とは相入れぬから。
665. ニンゲンの実感できる距離は、どのくらいだろうか?1000キロメートル、1万キロ、1億キロ、銀河系の幅くらい?億・兆・石・京・・・・・もう、絵空事の距離になる。
666. 眼の中に、蚊のような点が飛びはじめた。眼・歯・足と衰えのしるしが襲ってきた。使って、使って(私)が擦り減っていく。あと少しの辛抱だ。そのうち、(私)が飛んでいく。彼方へ。
667. 不思議なことに、どの部屋に入っても、その空間が放つエネルギーや気配がちがう。ホテルは、もちろん、会社、学校、デパート、劇場、食堂、酒場。で、私とその部屋・空間の関係に、濃淡があるのに気がつく。坐っていると、空気の質感までちがっているので、すぐに、相性の度合いが計れてしまう。部屋も生きものである。
668. 何かの本で、「壁が記憶をもっている」という文章を読んだことがある。モノ自体、風景自体、自然までも、当然、記憶の層を持っている。私も、そう感じ、考えはじめている。
669. 人類が滅びても、ビグともしない宇宙である。しかし、時空に生命が発生したのは、奇跡である。宇宙自体を見る眼をもった、ニンゲンが誕生した事実は、誇ってもよい。見られた宇宙もわかっているだろうが。
670. 宇宙そのものが、自分を見てやろうと、生きものを、眼を、誕生させた。宇宙が、宇宙自体を見て、いったい、なんになるのだろう。どこか、おかしい。何が?
671. 毎日、毎日、生命の海を泳いでいる、億・兆の生きものたちに、食べて、食べられての関係の中で、禁止という一本の線を、ひとつの法を、振りかざしてみたところで、ニンゲンに便利で、都合の良いものにすぎない。
672. 蟻を、鳥を、魚を、ニンゲンよりも低いレベルの生物と位置ずけてみたが、実際、本能という学習のみで生きる彼らにも、優れた美点は山ほどある。下等動物と呼んだニンゲンが昆虫に、魚に、鳥に、嘲われるくらいだ。虫けら、獣とあなどっていたが。
673. 10余年の社員生活には、希薄な風が吹いていた。20余年の経営者生活には、突風に、たつ巻に、台風まで吹いていた。
674. スピードと効率だけでは、人間は、いつかは壊れる。花見酒があり、紅葉狩りがあり、緊張の中にも、弛緩のひとときがいる。
675. 旅。眼線をあげて、遠くへと。春の岬。夏の砂浜。秋の渓谷。冬の雪国。歩いて、空の青、歩いて、山の緑。海の光。満天の星。眼も耳も。足も腕も。五感全開の旅へと歩を進める。
676. 魂を磨くために、坐禅をする。食は他人からもらって。(修業者)A
677. 労働だけの日々だ。身体を壊しながら。魂のことなど放っておいて。(サラリーマン)B
678. 働いて、食べて、魂を凝視めて。(現実)は、どうも、中庸にならない。AかBの極端に走ってしまう。
679. 森に入れば、山に入れば、神社に参れば、身も心も、清涼な空気に洗われるが、街に帰れば、家に帰れば、会社に行けば、もう、身も心もストレスで染まる。
680. 毎日、歩いて、歩いて、他人に会ってみればわかる。ニンゲンの容量が見えてくる。
681. 頭が火照り、顔が痙攣し、心が寸断されて、バラバラになるほど、一日、働いてみると、静かに、眠りにつくことも出来ない。そんな時だ、酒、酒、酒と声をあげるのは。
682. きっと、歩き方が悪いのだ。靴の外側ばかりが擦り減ってしまう。で、いつも、(私)は、傾いて歩いてしまう。
683. もうひと仕事と思う反面、やれやれ、また、火事場へと足を運ぶのかと呟く声がある。
684. 昏れていく人、消えていく人、去っていく人、冬は、心身ともに、冷えるので、暗い姿ばかりが目についてしまう。葬式の看板。
685. 暗いニュースを、見ることも、聞くことも、読むことも、できないくらい、傷が深いので、三匹の猿になると女(ひと)はいう。本気だ。見ざる、聞かざる、言わざると。
686. どんな思考をすれば、どんな存在に変化すれば、ニンゲンは、130億光年の宇宙の彼方を手に入れることができるのか?日々、夜々、歯ぎしりしているうちに、終に、存在(こいつ)が、妙なうめき声をあげた。
687. 正しい問いがあれば、必ず、正しい答えがある。−そんな声を信じて。さあ、問え。
688. 宇宙のインフレーションになる。すると、ほぼ、光速で、時空を疾走できる。乗り物、宇宙船に乗るという発想を棄てなければならぬ。自ら飛ぶものに成る。
689. 黙々として、考える、それ以外にどんな方法がある。夜を徹して。光の中でも。
690. 眠りは、実に、不思議だ。一日一日、毎日毎日、ニンゲンは眠る。夜と昼があるから、眠るのか。眠るリズムが襲ってくるから眠るのか。人生の半分も眠っている。もったいない。夜だけの時空、昼だけの時空へと飛び立つと、地球人であるニンゲンは、眠ることができるだろうか?それとも、ずっと眠り続けるのか?果たして、宇宙の眠りとは、何か?
691. 蟻たちの仕事の流儀は見事なものだ。一匹残らず、歩いて、歩いて、餌を運び、巣づくりをして、立派な本能に根ざして子供を残すために、あわただしく働いている。余分な蟻、暇な蟻、手振らで帰る蟻など一匹も見当たらぬ。統一の、組織で、共同の目的にむかって、歩いて、歩いて、働く形式は、ニンゲンよりも、上質かもしれぬ。虫ケラという言葉を返上しなければならない。
692. 人はなぜ、彼方へと想いを馳せるのであろうか。一生かけて、砂漠を歩いて天笠まで行った人、海を渡って、長安の都へ行った人、月まで行って、歩いた人、時空の、彼方は、どんどん遠くなり、いつまでたっても、約束の地へは逞りつけないニンゲンである。
693. 膜。バリア。磁場。外と内。私と非私。壁と襞。在ると無い。棒と筒。点と線。形とのっぺらぼう。何やら、意識が点を追うように、あちらへ、こちらへとびはねて、(私)は、落ち着かぬ。透明な線が、眼の外を疾走しているが、いったい、何が起きているのか、見定めがつかない。揺れている。
694. 存在(これ)の発見、つまり、(私)と呼ばれているものの発見から、すべてが始まった。呼ばれて、呼ばれて、その名前が(私)だと知ることになる。名前を呼ばれ続けると、名前は(私)そのものではないとわかった。で、いつまでたっても、?が(私)である。
695. 「お前という人間は・・・」と他人に言われ続けているが、そのお前と(私)が重なりあった時(ためし)がない。誤解はいつもそこからだ。
696. 売り言葉に買い言葉で、お互いに、相手の欠点、短所、悪口を並べて、批判し続けているうちに、その人も、自分も、ニンゲンからはほど遠い怪物になってしまって、口を噤んだ。気分が沈む。寒いだけ。
697. 善人、悪人も救われるというなら、もう一歩踏み込んで、生きとし生けるもの、すべての存在が、救われると言わねばなるまい。「悪人正機」から「全存在者正機」へと。
698. 狂った魂は、もはや、自分自身の手では、どうしようもないのだから、他力を超えた大きな力に委ねるしか術がない。
699. 泣く暇も笑う暇もなくひたすら歩いて、歩いて、モノを売った。歩く先々に、崖があったが、歩かねば、深淵が口を開けていた。
700. 眉間にタテ皺を寄せて、額が硬直したまま生きていると、笑顔を忘れる。1日1、2度は鏡を見て、笑い方のレッスンをすること。(自戒)
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• 土曜日, 3月 20th, 2010

長い間、大江健三郎の小説を読めなかった。若い頃、「万延元年のフットボール」は、その時代の最高の作品だと思って、2度、3度、熟読をした。ニンゲンという存在の、新しい形が出現したと思い、存在を切開く文体の魅力に、身を委ねた快楽があった。

しかし、それから、発表された、様々な作品を購入はするのだが、途中で、中断してしまった。私の生きている呼吸のリズムと、作品が、反揆しあって、どうしても、リアリティを感じられないのだ。セールスマンとして働いているニンゲンの現場に、大江健三郎の声がとどかない、いや、私の感性が、もっと、別のものを求めていて、大江作品のめざすものから、ブレてしまったのか。

私は、「芽むしり仔撃ち」と「個人的体験」と「万延元年のフットボール」が、大江作品のベスト3だと考えていた。

決して、江藤淳が批判したような、人工的なものを、「万延元年」に認めて、読まなくなったのではない。

読者が、ある作家を必要とする、あるいは、その作品を読み続けるという時には、必ず、自分の生きる、深いところにある理由が、作家と、作品と触れ合わなければならない。

長い、長い、未読の後、「水死」に出会った。2、3日かけて、一気に読み終えた。不思議だ。文体が、全身に貼りついてきた。なぜ、今まで、中断したのだろう。文体は、ほとんど、その人の生理だ。自由自在に変えられるものではない。大江健三郎が変化したのか、読者の私が、変化したのか、とにかく、水を呑むように、私の魂の琴線が鳴り響いた。

やはり、大江健三郎は、おそるべき、才能の人だ。人も文体も変化していた。

「本」は、ニンゲンという存在とその生きかたに至る、すべての現象が、現れていはければならない。「水死」には、初期の、四国の森、「個人的体験」の核となった家族の不幸、そして「万延元年のフットボール」で展開された、存在の探求、すべての、大江健三郎の(核)があった。

大江健三郎は、何を生きてきたのか、今・ここを、どう生きているのか、現代の空気をどう吸っているのか、父をめぐる考察は、思考の襞を、四方八方にひろげながら、戦前・戦後の日本人の、生きざまへ、魂のあり方へと、天皇へと、疾走する。

書くことは、読み込むことである。

どこまで深く、モノとコトを読み込んでいくかが、作家の腕の見せどころであり、大江健三郎は、(知)のすべてを、「水死」に注ぎ込んでいる。

50年以上、最前線で、現役として、「小説」を書き続け、高齢者になった今も、衰えを見せない。

老いあり、病いあり、傷あり、高齢者社会がかかえている問題が、すべて、大江健三郎の身にも振りかかっている。つまり、ノーベル賞作家も、スターも、同じ地面で、生きているのだというリアリティ。

私は、「水死」の中では、死んだ母の姿が一番リアリティがあると思う。作家への、良き批判者・ものを書くこともない人の、良心のあり方が、貫かれていて、胸が痛い。

複雑な構成、数々のアイディア、エピソードにあふれる「水死」ではあるが、物語の紹介は、一切しない。

私が、ふたたび、大江健三郎の小説が、読み通せた理由は、実は、大江健三郎というニンゲンが、現代の、薄い空気を吸いながら、普通に生きている人と、同じ地面に立っている、その姿そのものを、語ってくれる、魂のやわらかさにあった。

鳴り響く声は、未読の30年という時空を飛び超えて、「万延元年のフットボール」へと直結した。それにしても、魂に沁みる。

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• 月曜日, 2月 22nd, 2010

立松和平の代表作「遠雷」を再読する。というよりも、立松の声を、私の中に甦えらせてみる。影、いや文章から、響いてくるのは、まぎれもなく、立松和平のものだ。

夜、”立松死す”の一報を聴いて、今年、本人に会うことが、不可能になったことを、思い知った。せめて、作品の中に立ち現れる姿を、一晩、見てみようと思ったのだ。「遠雷」の、紙の色も、時間の、経過を語っていて、日に当たって、薄茶色に変化はしているが、(文体)は、現身の本人以上に、その姿を語っている。愚直の中の、やわらかな魂だ。

立松和平の公式のHPを観る。
全小説、第一期、第二期、第三期30巻。全著作、300冊。40年の、軌跡である。
”行動派作家”の名にふさわしく、紀行文、エッセイ、発言、講演、レポート、そして、TV、小説と、多岐に渡った活動の表現がある。

それにしても、中上健次といい、立松和平といい、頑強な身体を誇る者たちから死んでいく。「早稲田文学」の時から、同時代の空気を吸った者として、悲しい限りだ。長寿社会が到来したというのに、その入口で、ポキンと折れてしまう。

立松よ、安らかに、眠れよ。合掌。(2月9日)