Archive for ◊ 6月, 2011 ◊
1634. 量ばかり求めてきた。
1697. 静かに眠れる夜と場所を下さい。
1700. 心・意識の流れがある。
美術館では、常設のアラワカ展ではなくて、地域の、あるいは、若手の画家のためのスペースがあって、壁画いっぱいに、巨木が描かれた力作が飾ってあった。あるいは、音と映像のコーナーもあった。
頭が疲れて来たので、身体をほぐすために、美術館を出た。建物の前庭に芝生の広場があって、小高い、盛り土の丘がある。枯れ木やカズラを集めたトンネルへと足を運んで。眺めるだけでは、面白くないと思って、トンネルを潜って、奥へ、奥へと歩いてみた。突然、見覚えのある顔が、向こう側から、歩いてきた。やれやれ、君は、なぜ、私と同じような足取りで、私に似た顔をして、向かう側から、反対に歩いてくるのだ。
(私)は、もう一人の(私)に対面した。(私)が苦笑すると、そいつも苦笑した。腕組みすると、そいつも腕組みをした。アラカワの遊び心、仕掛けである。壁の、窓ガラスと思えたものが、鏡になった。
「君は、本当に、どこにいるんだい?その君のいる場処ってのは、そんなに、確かなものなのかい?今は何時だ?時空も揺らいでいるぞ」アラワカの乾いた野太い声が響いた。
(私は私である)の世界をアラカワは(私は他者である)の世界へと変えたいのだ。そして、本当に、存在しているのは、どちらだと、観る人を、揺さぶる左右対称の世界、京の龍安寺と奈義の、龍安寺、遍在せよ、遍在せよ、時空はひとつではない、触ってみよ、体験してみよ、アラカワの声が、建築全体に、鳴り響いている。
通常の、バランス感覚が、少しだけ、おかしくなって、微妙に狂い、変な気分になってしまう。気付きである。今まで、ソコに存在しなかったものが存在しはじめる。私の感覚、常識が揺さぶられて、(私)はゆらぎの波の中にいた。
”時空のゆらぎ”アラワカの頭脳の中にあるものを、形にしてみたのが、”奈義の龍安寺”であった。存在は、遍在するのだ。アラカワの思考の助走が終った。これも、ひとつの、実現であり、ステップであろう。
呪文じみているが、確かに、アラカワの(常識)を破壊するエネルギーが充ちている、奈義の現代美術館であった。
時代は決して、直線的に、過去から現在へと流れていない。空間は、決して、静止した箱の中のように在るのではない。遍在している。単なるトリック(光や水や音や風の性質を知尽して)ではなくて、アラカワは、本気である。知るのは第一歩さ、生きてくれよ、それを体験してくれよ、とアラカワの声がする。
11月の、空は、青く、奈義の街は、高原風な晩秋の中に、静かに息づいていた。なだらかな牛の背のような山脈を背景にして、奈義町役場と文化会館が、左右対称の、建築的身体を横たえている。燃え盛る銀杏の木、文化会館では、全国の各地に伝わる、地方歌舞伎の大会の準備で、看板や花々が、飾られている最中であった。
山の中といっても、丘陵地である。畑もあれば、水田もあり、牧草地もある。しかも、伝統の文化がある。そこに世界の、鬼才・アラカワが乗り込んで来た。
半日、一人で、歩いて、観て、触れて、考えて、少々、疲れた。バスで津山に出た。駅前で、B級グルメで有名になった、ホルモンうどんを食べた。満腹である。
朝のお城は、格別であった。
旅の目覚めは、期待と不安が入り混じっていて、日常の、普段の朝よりも、興奮している。ホテルの、見慣れぬ、部屋に、海岸へと打ちあげられた魚のように、異和を覚えながら、出発の準備をする。洗面、トイレ、荷物のチェックと、身のまわりに用心をして、最後にぐるりと部屋を見まわして、よし、忘れものもなし、と呟いて、外に出る。
眼の前は、一面の、朝霧であった。四方の山はもちろん、遠い街の家並みも、白い霧の底に沈んでいて、百メートル先が霞んでいる状態であった。ホテルからお城への坂道を登って、ぼんやりと見え隠れする風景の、神秘的な霧の朝は、正に、正体の知れぬ、アラカワへの旅にふさわしいものに思えた。
もう、何十年も、経験したことのない、濃い霧の流れる、旅の朝であった。高台にある城への道は、その門を閉ざしていたが、城をめぐる樹下の路には、朝の犬の散歩、ウォーキングをする人、小走りにジョギングする人たちが、霧の中から不意に現れて、おはようございますと、さわやかに、声を掛けて、霧の中へと消えていった。
津山城を散歩して、そのまま、街へと下って、朝の吉井川を眺める。そう言えば、吉井勇という歌人がいた。彼は、岡山の出身だったか?すると、吉井川から、ペンネームをもらったことになる。
JRの津山駅の駅前広場に、バス停がある。いよいよ、バスに揺られて、奈義へ。乗客は3人である。津山市内をぐるぐる廻るうちに2人が下降して、私一人になった。貸切り。大名旅行の気分である。霧が濃くて、バスからの風景が見えない。視界は、おそらく、百メートルを切っているだろう。ただ、山の奥へ、山の奥へと、向かっているような気がする。3、40分も走っただろうか、朝霧が一気に消えはじめた。山脈が、なだらかに広がる農耕地が朝日の中に、くっきりと見えた。
奈義町役場前で、バスから降りた。横仙歌舞伎の里・美作という看板があった。道を左に曲ると、背景の山にむけて、一直線に、道路が走っていた。田舎の風景には、似合わない、真直な道である。ケヤキの並木。左手に、すぐに、奈義の美術館だと思える建物があった。茶色に、濃いグレー、そして建物の屋根に、巨大な円筒が、青空を突きあげていた。道路の右手には、文化会館、図書館、町役場の庁舎、幼稚園が、整然と、並んでいた。
(荒川修作+磯崎新)のコラボレーションである。
芝生の前庭がある。木のオブジェがあって、トンネルが、網状に形成されている。
奈義の美術館に入ると、右手に、中庭がある。水に、青空が映っている。水中から、メタリックに光る細い棒が突き出して、縄飛の縄のように孤を描いている。水中には、小石が敷きつめてある。綺麗な、握り拳ほどの石である。椅子に坐って眺めていると、水面に出た棒の半円に、水面に影が写って、まるで、原子の模型のような、円に見える。いくつも、いくつも、円水と戯れている。曲線が、水に呼応して生きもののように見える。天井は、コンクリートの壁、しかも、青空が覗いている。
原子たちが飛び交う奇妙な空間である。見あげたところに、木はないのに、水の鏡には、緑の木が映っている。空と水と木と、石と壁と円い輪。上と下が、水が鏡になることで、逆転して、上下の視点が消えてしまう。水の中の空、水の表面の影、姿、曲線と直線が絡みあって、あたらしい軌跡を作りあげている。水中から突き出た円い棒は、自らの姿を水に映して、自らに重なって、立体空間を創出している。
そこでは、ないものが存在したり、存在するものが、隠れて消えてしまう奇妙な時空のゆらぎがあった。本物とは何か?影とは何か?眺めれば眺めるほどに、まるで、量子力学の世界へと突入したような、妙な気分に陥ってしまう、空間部屋であった。
さて、奥へ進む。
右手に「太陽」SUN(荒川修作)
左手に「月」MOON(岡崎和郎)
デッサン「死なない為に」視覚、イメージ、建築・・・があって、その横に、5月19日、ニューヨークにて死すとアラワカ急死の貼り紙があった。
「太陽」の部屋へと入る。
無数の、老若男女の笑顔が、円筒の空間の壁という壁に、ぴちぴちと生命の気を放っていて、波が、満ち、あふれていて、眺めている私も、光の方へと、心が魅き寄せられていくのがわかった。
何しろ、長く生きてきたが、これだけの笑顔には囲まれたことがないので、なるほど、笑顔が、光である、太陽であると、瞬時に、部屋の命名の意味が理解できた。まるで、地上の楽園が出現したかのようですよ、アラカワさん、私の身体の中を、心の中を、笑顔の放つ風が突き吹きぬけていきます、アラワカさん。
部屋の中央にある、螺旋階段を、身をかがめて暗闇に眼を慣らして、慎重に、一歩一歩昇りはじめると、アラカワの仕掛けが、時空を超えて、別の、異次元への旅であると承知はしていても、やはり、身体は、狭い、暗い螺旋階段に反応して、未知の場所へと向かうことを、拒絶する。しかし、意識は、精神は、一刻も早く、アラカワの、創り出した異次元へ、奈義の龍安寺へ、たどり着きたいものだと、熱く燃えている。まるで、ブラックホールに吸い込まれた者が、ホワイトホールに、吐き出されたいと願っているみたいな息苦しい螺旋階段であった。
光が来た。
眩しい光の中に、巨大な円筒があって、筒の壁に、見慣れた、京都、龍安寺の庭があった。庭が、円い筒の両壁に貼りついていた。もちろん、あの巨石、砂が、左と右に分かれて、そっくり、存在していた。京都の龍安寺を訪れた事がある人なら、アラカワさんも、やってくれるねと、微苦笑するだろう。
私は、公園によくある、ぎっこんばったん、つまり、シーソーの中央に坐って、ゆっくりと天井を眺めた。当然、上下が対象になっていて、シーソーや椅子も、天井から吊り下がっていた。左右、上下対象、つまり、天と地が遍在しているのだ。京都の龍安寺が、時空を超えて、奈義へとやって来た。
時空を超える、タイムマシーンに乗って、アラカワの頭脳が思い描く世界へと直参するのが、奈義の龍安寺であり、遍在せよ、遍在せよと叫び続けるアラカワの声が私の耳にも留いていた。
さて、螺旋階段を下りて、太陽の部屋を出た。
向かったのは、「月」MOONの部屋である。ゆっくりと、足を踏み入れると、自分の足音が、異様に増幅されて、巨大な音になる。足を止める。思わず、天井の高い、ゆるやかにカーブする、狭く、区切られた空間、そう、月形の、部屋を見廻してみる。
美術館の受付けでもらった、一枚のカタログを、そっと落としてみた。人間の耳につくはずのない、小さな音が、ゆあーんゆよーんと、大きな音に拡大された。手で拾うと、ザラザラと音が響いた。歩く、巨人の歩く足音がする。咳をする。巨大な音が発生、弾丸が飛ぶ音か?
普段、われわれが聴いていた(音)とは何か?もっと、もっと、無数の音が発生して、波となって、時空を疾走しているのだ。気がつかずに、耳にとどいている音だけを(音)として、認めて、生きていたことの、妙な、違和感。部屋は、周波数を増幅する装置だった。
沈黙の意味が変わってしまう、部屋である。空間が、決して、ただの、空っぽではない、との証明。音響の不思議を体験する。もう一度、(耳)とは何か、と考え込んでしまう、部屋であった。静かな月。
1. 「『古事記』神話の謎を解く」(中公新書刊) 西條勉著
2. 「新約聖書」訳と注 ルカ福音書(作品社刊) 田川建三著
3. 「ホーキング、宇宙と人間を語る」(エクスナレッジ刊) スティーブン・ホーキング著
4. 「イエーツ詩集」(思潮社刊) 加島祥造訳
5. 「文学のプログラム」(講談社文芸文庫刊) 山城むつみ著
6. 「折口信夫文芸論集」(講談社文芸文庫刊) 折口信夫著・安藤礼二編
7. 「ハイデガー『存在と時間』の構築」(岩波現代文庫刊) 木田元著
8. 「ゲーデルの哲学」(講談社現代新書刊) 高橋昌一郎著
9. 「知性の限界」(講談社現代新書刊) 高橋昌一郎著
10. 「森の生活」上・下(岩波文庫刊) ウォールデン著
11. 「青春の門」第七部(講談社文庫刊) 五木寛之著
12. 「空海の思想的展開の研究」(株トランスビュー刊) 藤井淳著
13. 「少年殺人者考」(講談社刊) 井口時男著
14. 「自由訳般若心経」(朝日新聞出版刊) 新井満著
15. 「福島原発人災記」(現代書館刊) 川村湊著
16. 「黒い雨」(新潮文庫刊) 井伏鱒二著
17. 「三陸海岸大津波」(文春文庫刊) 吉村昭著
18. 「超高齢社会」(アドスリー刊) 坂田期雄著 ●書評 http://www.adthree.com/
19. 「賑やかな眠り」(土曜美術社出版販売刊) 詩集 宇宿一成著
20. 「十六の話」(中公文庫刊) 司馬遼太郎著
21. 「意識の形而上学」(中公文庫刊) 井筒俊彦著
3・11以後は、頭の大半が、地震・津波・原発事故に占領されているためか、読書を楽しむから、読書の果てに、究極を求めてしまう傾向が現れた。
できるだけ、必要のないものは、読まないようにしたい。作品は、作者が、どれだけ、心を深く沈めて書いているかで、だいたいの出来、不出来は決まってしまう。
「東日本大震災」についても、雑誌や単行本や特集記事を読んでいる。同じ言葉を書いていても、同じ主旨の文章を書いていても、被災者であるか、そうでないかで、言葉の意味は、まったく違ってしまう。
例えば、詩人の、和合亮一は、日経新聞にエッセイを書いていた。3・11以前の話である。日常の、(私)をめぐる、個人的な話を、緊張感のない、文章で書いていた。凡庸な詩人だと思って、評価できなかった。
ところが、3・11を体験して、同時進行で書き続けている「詩の礫」は、同じ人間の作品とは思えない、秀れた詩であった。考えて、書いているのではなく、(私)に来る言葉を、そのまま、叩きつけて、書いているのだ。人が変身したというよりも、(場)が(状況)が、和合亮一という詩人を借りて、語らせている、そんな具合である。
西條勉も、今、人間に、何が必要かを、古代の、古典を追うことで、現代を、逆に、照らし出そうとしている。私の、大学時代の友人である。
山城むつみの「ドフトエフスキー」の発想がどこから来たのか、「文学のプログラム」が教えてくれる。「古事記」「万葉集」の、中国語を使って、日本の文章を書くという行為の研究に、その発想の根があった。
井口時男の「少年殺人考」は、異様な殺人者、殺人行為に興味があって、書いたものではなく、殺人者となった少年たちの言葉、言語表現を追求していくというスリリングな一冊である。
今年から、本格的に、密教、空海に関する書物、空海の著作を読みはじめた。「空海の思想的展開の研究」は、700ページを超える大冊である。作者・藤井淳は、まだ、30代の若き研究者。力作。
古典、哲学書、宗教書、そして、宇宙に関する読書が増えている。語学の大天才、30数ヶ国語を自由に話せる(!!)井筒俊彦と司馬遼太郎の対談「十六の話」(所収)は、実に、壮快である。
井筒俊彦の最後の著作「意識の形而上学」は、哲学者、思想家の風貌が遠眺できる本である。
ホーキングの宇宙論を手にする度に、もう、人間には、宇宙そのものを、見定める術は、なくなったと思えてしまう。(ダーク・マターとは何か?)
宇宿一成の詩集「賑やかな眠り」は、声と文字が上手く入り混った、言葉そのものを生きる(詩集)であった。