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• 土曜日, 5月 28th, 2011

書くもの、読むもの、講演する内容まで、変更を余儀なくされる、大事件が、3・11である。

当初、講演を頼まれた時、「早稲田文学」の歴史(現在は第10次)をふりかえりながら、その時代時代を映した作家、作品を語ろうと思って、自分流に、30人の作家たちを選んで、表にした。(自然主義文学を中心に)

超高齢者社会であることから、83歳で没するまで、生涯現役で、書き続け、齢をとればとるほど、筆の冴えを見せ「今年の春」(父の死)「今年の初夏」(母の死)「今年の秋」(次男の死)「リー兄さん」(四男の死)と、生きるニンゲンの声と姿を、渋い文体で書き続け、小林秀雄との、トルストイ論争「思想」と「実生活」で、白鳥の本領を発揮した、その正宗白鳥の、現代性、人と作品を、語る予定であった。 「三田文学」荷風と比較しながら。

3・11の衝撃で、急遽、井伏鱒二の、原爆を扱った名作「黒い雨」を、フクシマの原発事故と関連づけて、お話させていただいた。

井伏鱒二は、ヒロシマの隣の市・福山市の出身である。市井の、庶民の生活を、からめ手で語る、姿勢とは、一変して、本格的に、正面から、「ヒロシマ」に立ちむかった作品が「黒い雨」である。ヒロシマの原爆から20年、昭和41年、67歳の井伏は、普通の生活者の視点で、リアリティのある、日記、手記、記録というスタイルで「黒い雨」を書きあげた。

”飢えた子を前にして文学に何ができる?”
”小説を、論文を書く暇があったら、現地に入って、瓦礫の1つでも拾え”
という声に、見事に応えたのが、文芸作品「黒い雨」であった。

出版から40余年、文庫本「黒い雨」は、現在、増刷を続けて、72刷と、読み継がれている。

水、食べもの、着るもの、眠る場所、土木工事、病気の治療、医者、支援金、具体的に、役に立つものが、いっぱいある。時間の推移によって、”必要”なものが変わる。記録する、文学は、心の支援となる。”震災”の傷は、一生消えない。心は、傷ついたまま、被災者は、一生を生きる。

おそらく、フクシマは、人間の思考を変える、ターニング、ポイントになる。その中かから、誇らしい人間、思想、作品が立ちあがってくるにちがいない。おびただしい言葉が、書かれ、話され、語られるであろう。

現在、科学者、政治家の言葉は、「信」を失ない「疑」となった。被災者の人々の声の力に対応できない。

そんな中で、辺見庸(作家・石巻市出身)の言葉と、和合亮一(詩人・南相馬市)の声、ツイッターだけが、光っている。辺見庸「眼の海」(わたしの死者たち)(—「文学界6月号)27篇の詩は、鎮魂の歌である。圧巻である。和合亮一の「詩の礎」ツイッター詩は、リアルタイムで、地震直後の、自らの心の流れと、見るもの、感じるもの、考えるものを、追い続けていて、心にしみる作品となっている。

講演会後、懇談会があった。熱気につつまれた人たちが、次から次に私のところに来て、「黒い雨」を読みたい、もう一度、読書をしてみたい、と感想を語ってくれた。ありがたいことである。一人でも多くの、聴衆の方々が、もう一度(考える)契機にしていただければ、私の拙い、講演会は、成功である。

私も、3・11について、アフォリズム「無」からの出発—1601~1700本を書いた。(「コズミックダンス」を踊りながら)
是非、お読み下さい。

「早稲田125年文学地図」 あなたの文学度チェック表

A : 作家は知っている   B : 作品を読んでいる

A  B
□  □  ①正宗白鳥  「入江のほとり」 「何処へ」 (岡山県)
□  □  ②井伏鱒二  「黒い雨」 (広島県)
□  □  ③横光利一  「機械」 (福島県)
□  □  ⑤石川達三  「蒼氓」 「人間の壁」 (秋田県)
□  □  ⑥尾崎一雄  「暢気眼鏡」 (神奈川県)
□  □  ⑦丹羽文雄  「親鸞」 (三重県)
□  □  ⑧五木寛之  「青春の門」 (福岡県)
□  □  ⑨野坂昭如  「火垂るの墓」 (兵庫県)
□  □  ⑩三浦哲郎  「忍ぶ川」 (青森県)
□  □  ⑪後藤明生  「挟み撃ち」 (福岡県)
□  □  ⑫高井有一  「北の河」 (東京都)
□  □  ⑬立原正秋  「薪能」 「剣ヶ崎」 (朝鮮)
□  □  ⑭秋山駿   「内部の人間」 (東京都)
□  □  ⑮立松和平  「遠雷」 (栃木県)
□  □  ⑯村上春樹  「羊たちの冒険」 (兵庫県)
□  □  ⑰小川洋子  「博士の愛した数式」 (岡山県)
□  □  ⑱保坂和志  「この人の闘」 (山梨県)
□  □  ⑲磯崎憲一郎  「終の住処」 (千葉県)
□  □  ⑳綿矢りさ   「蹴りたい背中」 (京都府)

集計  A :   人    B :   作

●優・文学通      A (18人以上)   B (15作以上)
●良・常識的      A (14人以上)   B (10作以上)
●可・今一歩      A (10人以上)   B (5作以上)
●不可・非文学的   A (5人以下)    B (3作以下)

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• 土曜日, 5月 14th, 2011

西條勉「『古事記』神話の謎を解く」(中公新書)を読む

”古事記”神話を読むということは、現代人にとって、どんな意味をもち、どんな行為と言えるのだろうか?

話し言葉だけで生きていた大和民族が、漢字が中国から伝わって、はじめて、口承されていた神話を、文字を使って、書いた本が”古事記”である。

中国の文字を使って、日本の言葉を文章にするという行為は、翻訳ですらない。

”文字”という記号の力にまかせて、日頃語っていた言葉を、文字に、移植するという行為は、漢字とひらがなとカタカナを自由に使って、思うところを、文章に書き記している”現代人”にとっては、考えられぬ”困難”と、スリルがあったものと推察される。

第一に、I am a boy (私は少年である)という英語を、翻訳ではなくて、そのまま、日本語で読むという行為を考えてみると、気の遠くなるような、奇妙な行為である。

もう、”万葉仮名”で書かれた「古事記」を読める人は、誰もいないだろう。(専門の学者は別にして)どだい、どう読めばいいのかわからない、漢字ばかりである。

その大きな、大きな、文字の移植が、”古事記”を生み、口承の神話を残したと思えば、先人たちの、文字を使って”書く”という行為には、頭が下がる。

そうして、”中国語”を日本風に読むという、前代未聞の、先人たちの行為がはじまったのだ。

本居宣長をはじめ、国学者たちが、生涯をかけて、「古事記」を読み解き、現代人が、さらに、翻訳をして、はじめて一般の読者である、私たちが、祖先の”神話”を知ることができた。

著者の、西條勉は、一生、「古事記」を読み、古代の文学を研究して、大学生たちに、教えてきた、学者である。

本書は、研究書ではなくて、一般の人たちに、「古事記」の成立の意味と、神話の謎を、解きほぐすようにして、書かれたものである。

誰でも、一度は、絵本として、児童書として、「古事記」とは知らずに、いくつからの神話を読んでいる。深く考えることもなく、そのまま、国造りの神話として記憶している。

古事記は、日本という国家があって、その意志が、編集にも、反映されている。その構造を解く、手順が、実に、スリリングである。単なる日本民族の神話ではなかったのだ。

2月に、著者から、本書を贈られて、早速、一読し、西條勉が、一生、古代文学に費やした時間を思った。大学生の頃、はじめて、キャンパスで邂逅した時の、若き日の、「僕、古代の、万葉、古事記を読みたいのです」と語った時の、意欲に満ちた、はじらいを含んだ微笑を思い出したりして、何か、感想を書かねばと、考えていた。

3・11東日本大震災が日本を襲った。日本の、国難である。大惨事である。日本人の、生き方、考え方、文明の、文化のあり方が、一変されねばならぬほどの、大事件であった。大地震、大津波の天災に加えて、史上最悪の”原発事故”が加わった。人災である。

人間のコントロールできぬ怪物、人間が生みだした(科学の知)が放った、原子力という怪物である。放射能の魔力。たった百年くらいしか生きない人間が、数億年も存在し続ける”原子”の世界に、挑戦して、無残に、崩れ落ちた(知)である。人間は、人間原理のうちで、生きているうちはいいが、宇宙原理を相手にしはじめると、とにかく、時間の、空間のスケールがちがう。

小さな、小さな、人間の(知)は、為す術もない。人間の生きられる”閾”は限られている。

無力感と虚脱感に襲われて、本を読む、文章を書くことに、リアリティを感じない日々が続いた。

国のかたち、国のビジョンが、あたらしく創造されなければならない。日本人は、何を生きてきたのか、根源から問い直さなければ、このままの”文明”のあり方では、滅びてしまう。電気というエネルギー、原子エネルギーに頼る人類は、もう、半歩、とりかえしのつかないところへと、踏み込んでいる。

”文明”から、”文化”へと、大きく方向転換を計らなければならない。

もう一度、「古事記」を読もう。いや、今こそ、国のかたちを、はじめて示した「古事記」に、帰ってみよう。私たちの文明が、何を間違ったのか、何を為すべきなのか、古い、古い、書物の声に、静かに、耳を傾けてみよう。

幸いなことに、「古事記」を読む手法は、西條勉の新書が教えてくれた。三浦佑之の翻訳した「古事記」も、数年前に購入して、本棚にある。本居宣長が、柳田國男が、折口信夫が、読み、解釈し、発明したところのものを、もう一度、あたらしく、読み=生きなければならない。

3・11は、(無)からの出発かもしれない。(無)といっても、何もないのではなくて、あらゆるものが、噴出してくる(無)である。

たいがいの「本」は、3・11によってリアリティとその意味を喪失した。「古事記」は、おそらく、3・11の力に耐えられる「本」である。

そこまできて、畏友、西條勉のめざしてきたもの、生きてきた時間が、活気をもって、甦える気がした。

「本」は、それ自体がひとつの宇宙である。(事実)は、文学を使って書かれた時、必ず、作者、編集者の、あるいは国や公の意志が入って、方向付けされる。だから(事実)は、そのまま「本」の(事実)ではない。

「本」を読むとは、その、二重の謎に挑むことである。

もちろん、「神話」も、そのまま(事実)ではない。口承されたものも、また(事実)ではない。書かれたものの、底に、奥に、(事実)は眠っている。

だからこそ、「本」を読むとは、発見することである。

「本書」は、西條勉の発見であり、西條勉の、思考の回路であり、彼の生きた時間が、「古事記」を語らせたのだ。

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