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• 水曜日, 6月 22nd, 2011

美術館では、常設のアラワカ展ではなくて、地域の、あるいは、若手の画家のためのスペースがあって、壁画いっぱいに、巨木が描かれた力作が飾ってあった。あるいは、音と映像のコーナーもあった。

頭が疲れて来たので、身体をほぐすために、美術館を出た。建物の前庭に芝生の広場があって、小高い、盛り土の丘がある。枯れ木やカズラを集めたトンネルへと足を運んで。眺めるだけでは、面白くないと思って、トンネルを潜って、奥へ、奥へと歩いてみた。突然、見覚えのある顔が、向こう側から、歩いてきた。やれやれ、君は、なぜ、私と同じような足取りで、私に似た顔をして、向かう側から、反対に歩いてくるのだ。

(私)は、もう一人の(私)に対面した。(私)が苦笑すると、そいつも苦笑した。腕組みすると、そいつも腕組みをした。アラカワの遊び心、仕掛けである。壁の、窓ガラスと思えたものが、鏡になった。

「君は、本当に、どこにいるんだい?その君のいる場処ってのは、そんなに、確かなものなのかい?今は何時だ?時空も揺らいでいるぞ」アラワカの乾いた野太い声が響いた。

(私は私である)の世界をアラカワは(私は他者である)の世界へと変えたいのだ。そして、本当に、存在しているのは、どちらだと、観る人を、揺さぶる左右対称の世界、京の龍安寺と奈義の、龍安寺、遍在せよ、遍在せよ、時空はひとつではない、触ってみよ、体験してみよ、アラカワの声が、建築全体に、鳴り響いている。

通常の、バランス感覚が、少しだけ、おかしくなって、微妙に狂い、変な気分になってしまう。気付きである。今まで、ソコに存在しなかったものが存在しはじめる。私の感覚、常識が揺さぶられて、(私)はゆらぎの波の中にいた。

”時空のゆらぎ”アラワカの頭脳の中にあるものを、形にしてみたのが、”奈義の龍安寺”であった。存在は、遍在するのだ。アラカワの思考の助走が終った。これも、ひとつの、実現であり、ステップであろう。

呪文じみているが、確かに、アラカワの(常識)を破壊するエネルギーが充ちている、奈義の現代美術館であった。

時代は決して、直線的に、過去から現在へと流れていない。空間は、決して、静止した箱の中のように在るのではない。遍在している。単なるトリック(光や水や音や風の性質を知尽して)ではなくて、アラカワは、本気である。知るのは第一歩さ、生きてくれよ、それを体験してくれよ、とアラカワの声がする。

11月の、空は、青く、奈義の街は、高原風な晩秋の中に、静かに息づいていた。なだらかな牛の背のような山脈を背景にして、奈義町役場と文化会館が、左右対称の、建築的身体を横たえている。燃え盛る銀杏の木、文化会館では、全国の各地に伝わる、地方歌舞伎の大会の準備で、看板や花々が、飾られている最中であった。

山の中といっても、丘陵地である。畑もあれば、水田もあり、牧草地もある。しかも、伝統の文化がある。そこに世界の、鬼才・アラカワが乗り込んで来た。

半日、一人で、歩いて、観て、触れて、考えて、少々、疲れた。バスで津山に出た。駅前で、B級グルメで有名になった、ホルモンうどんを食べた。満腹である。

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