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• 水曜日, 6月 22nd, 2011

朝のお城は、格別であった。

旅の目覚めは、期待と不安が入り混じっていて、日常の、普段の朝よりも、興奮している。ホテルの、見慣れぬ、部屋に、海岸へと打ちあげられた魚のように、異和を覚えながら、出発の準備をする。洗面、トイレ、荷物のチェックと、身のまわりに用心をして、最後にぐるりと部屋を見まわして、よし、忘れものもなし、と呟いて、外に出る。

眼の前は、一面の、朝霧であった。四方の山はもちろん、遠い街の家並みも、白い霧の底に沈んでいて、百メートル先が霞んでいる状態であった。ホテルからお城への坂道を登って、ぼんやりと見え隠れする風景の、神秘的な霧の朝は、正に、正体の知れぬ、アラカワへの旅にふさわしいものに思えた。

もう、何十年も、経験したことのない、濃い霧の流れる、旅の朝であった。高台にある城への道は、その門を閉ざしていたが、城をめぐる樹下の路には、朝の犬の散歩、ウォーキングをする人、小走りにジョギングする人たちが、霧の中から不意に現れて、おはようございますと、さわやかに、声を掛けて、霧の中へと消えていった。

津山城を散歩して、そのまま、街へと下って、朝の吉井川を眺める。そう言えば、吉井勇という歌人がいた。彼は、岡山の出身だったか?すると、吉井川から、ペンネームをもらったことになる。

JRの津山駅の駅前広場に、バス停がある。いよいよ、バスに揺られて、奈義へ。乗客は3人である。津山市内をぐるぐる廻るうちに2人が下降して、私一人になった。貸切り。大名旅行の気分である。霧が濃くて、バスからの風景が見えない。視界は、おそらく、百メートルを切っているだろう。ただ、山の奥へ、山の奥へと、向かっているような気がする。3、40分も走っただろうか、朝霧が一気に消えはじめた。山脈が、なだらかに広がる農耕地が朝日の中に、くっきりと見えた。

奈義町役場前で、バスから降りた。横仙歌舞伎の里・美作という看板があった。道を左に曲ると、背景の山にむけて、一直線に、道路が走っていた。田舎の風景には、似合わない、真直な道である。ケヤキの並木。左手に、すぐに、奈義の美術館だと思える建物があった。茶色に、濃いグレー、そして建物の屋根に、巨大な円筒が、青空を突きあげていた。道路の右手には、文化会館、図書館、町役場の庁舎、幼稚園が、整然と、並んでいた。

(荒川修作+磯崎新)のコラボレーションである。
芝生の前庭がある。木のオブジェがあって、トンネルが、網状に形成されている。

奈義の美術館に入ると、右手に、中庭がある。水に、青空が映っている。水中から、メタリックに光る細い棒が突き出して、縄飛の縄のように孤を描いている。水中には、小石が敷きつめてある。綺麗な、握り拳ほどの石である。椅子に坐って眺めていると、水面に出た棒の半円に、水面に影が写って、まるで、原子の模型のような、円に見える。いくつも、いくつも、円水と戯れている。曲線が、水に呼応して生きもののように見える。天井は、コンクリートの壁、しかも、青空が覗いている。

原子たちが飛び交う奇妙な空間である。見あげたところに、木はないのに、水の鏡には、緑の木が映っている。空と水と木と、石と壁と円い輪。上と下が、水が鏡になることで、逆転して、上下の視点が消えてしまう。水の中の空、水の表面の影、姿、曲線と直線が絡みあって、あたらしい軌跡を作りあげている。水中から突き出た円い棒は、自らの姿を水に映して、自らに重なって、立体空間を創出している。

そこでは、ないものが存在したり、存在するものが、隠れて消えてしまう奇妙な時空のゆらぎがあった。本物とは何か?影とは何か?眺めれば眺めるほどに、まるで、量子力学の世界へと突入したような、妙な気分に陥ってしまう、空間部屋であった。

さて、奥へ進む。
右手に「太陽」SUN(荒川修作)
左手に「月」MOON(岡崎和郎)
デッサン「死なない為に」視覚、イメージ、建築・・・があって、その横に、5月19日、ニューヨークにて死すとアラワカ急死の貼り紙があった。

「太陽」の部屋へと入る。
無数の、老若男女の笑顔が、円筒の空間の壁という壁に、ぴちぴちと生命の気を放っていて、波が、満ち、あふれていて、眺めている私も、光の方へと、心が魅き寄せられていくのがわかった。

何しろ、長く生きてきたが、これだけの笑顔には囲まれたことがないので、なるほど、笑顔が、光である、太陽であると、瞬時に、部屋の命名の意味が理解できた。まるで、地上の楽園が出現したかのようですよ、アラカワさん、私の身体の中を、心の中を、笑顔の放つ風が突き吹きぬけていきます、アラワカさん。

部屋の中央にある、螺旋階段を、身をかがめて暗闇に眼を慣らして、慎重に、一歩一歩昇りはじめると、アラカワの仕掛けが、時空を超えて、別の、異次元への旅であると承知はしていても、やはり、身体は、狭い、暗い螺旋階段に反応して、未知の場所へと向かうことを、拒絶する。しかし、意識は、精神は、一刻も早く、アラカワの、創り出した異次元へ、奈義の龍安寺へ、たどり着きたいものだと、熱く燃えている。まるで、ブラックホールに吸い込まれた者が、ホワイトホールに、吐き出されたいと願っているみたいな息苦しい螺旋階段であった。

光が来た。
眩しい光の中に、巨大な円筒があって、筒の壁に、見慣れた、京都、龍安寺の庭があった。庭が、円い筒の両壁に貼りついていた。もちろん、あの巨石、砂が、左と右に分かれて、そっくり、存在していた。京都の龍安寺を訪れた事がある人なら、アラカワさんも、やってくれるねと、微苦笑するだろう。

私は、公園によくある、ぎっこんばったん、つまり、シーソーの中央に坐って、ゆっくりと天井を眺めた。当然、上下が対象になっていて、シーソーや椅子も、天井から吊り下がっていた。左右、上下対象、つまり、天と地が遍在しているのだ。京都の龍安寺が、時空を超えて、奈義へとやって来た。

時空を超える、タイムマシーンに乗って、アラカワの頭脳が思い描く世界へと直参するのが、奈義の龍安寺であり、遍在せよ、遍在せよと叫び続けるアラカワの声が私の耳にも留いていた。

さて、螺旋階段を下りて、太陽の部屋を出た。
向かったのは、「月」MOONの部屋である。ゆっくりと、足を踏み入れると、自分の足音が、異様に増幅されて、巨大な音になる。足を止める。思わず、天井の高い、ゆるやかにカーブする、狭く、区切られた空間、そう、月形の、部屋を見廻してみる。

美術館の受付けでもらった、一枚のカタログを、そっと落としてみた。人間の耳につくはずのない、小さな音が、ゆあーんゆよーんと、大きな音に拡大された。手で拾うと、ザラザラと音が響いた。歩く、巨人の歩く足音がする。咳をする。巨大な音が発生、弾丸が飛ぶ音か?

普段、われわれが聴いていた(音)とは何か?もっと、もっと、無数の音が発生して、波となって、時空を疾走しているのだ。気がつかずに、耳にとどいている音だけを(音)として、認めて、生きていたことの、妙な、違和感。部屋は、周波数を増幅する装置だった。

沈黙の意味が変わってしまう、部屋である。空間が、決して、ただの、空っぽではない、との証明。音響の不思議を体験する。もう一度、(耳)とは何か、と考え込んでしまう、部屋であった。静かな月。

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