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• 木曜日, 4月 30th, 2020

3451. (私)から、どれだけ離れて生きるか、それが問題だ。もちろん(私)を消し去るに越したことはないが。(無私)

3452. (生)の達人には、どうやら(私)がない。達意の文章にも(私)がない。コトバだけが、存在している。

3453. 最高の文体は(私)を消し去ったものである、ただ、意識だけが呟いている。コトバの宇宙である。

3454. 誰が生きているのか(死んでいるのか)何が生きているのか(死んでいるのか)見定めようとしても無理だ。

3455. あれかこれか断言できた時は、まだ、ニンゲンは、ゆるやかに生きていた。今は、あれかこれかとさえ問えない時代である。書かれたものの一番はじめにあったコトバまで冥い。

3456. (私)は、私が考える以上のものである。ゆえに、私などに固執してはいけない。

3457. (木)は、木を生きている。(木)は、いつも見ている木以上のものだ。

3458. (私)を考える、と、私以上のもので(私)は構成されているのがわかる。

3459. 閑かに、静かに生きて(私)の中へ。(私)は、私以上の宇宙であるから。

3460. ヒトは、見えないものを畏れて、不安になり、パニックを起こしてしまう。放射能・3.11の。新型コロナウイルス。そして、ココロ。

3461. 狂う、破綻する、その一歩手前で立ち止まれ。

3462. (他人の死)ばかりが見えていた。新型コロナウイルスは(私の死)を直接、見せてくれる。ゆえにヒトは恐怖に捕らわれる。

3463. (私)があるのではなく(書く)作品の中で(私)が作られていく(バタイコ)のコトバ。

3464. (私)には、完全に作品を作る力はない。書かされている中から、(私)が出現して、作品を作らせられるのだ。

3465. (私)に来るコトバを、(私)自身は、制禦できない。

3466. 意識が考えるよりも、はるかに多くのものが勝手に(私)に来ている。

3467. だから(私)を開いていおいていつでも、来たものを、できるだけ正確に、コトバに変えるだけだ。ゆえに、作品は作家を超えてしまう。

3468. ニンゲンは、全員、刷り込まれたコトバで生きる。どんな天才でも。

3469. 白紙はあらゆるコトバを吸収する。子供は、誰でも、白紙から出発する。しかし、妙な大人が、手を入れる。で、子供のココロは、歪んで、死んでしまい、普通の大人になってしまう。

3470. 世間の人になる。社会の人になる。地球の人になる。もっと、もっと、もっと、宇宙そのものを呼吸できたのに。

3471. 子供のココロには、誰でも、ビッグ・クエッションが発生する。ニンゲンは、なぜ死ぬの?宇宙はどうして誕生したの?(私って何なの?)そして、いつもまにか、ビッグ・クエッションは、忘れ去られて、封印されて、子供のココロから消えてしまう。普通の大人になる。

3472. 脳の記憶よりも、生きている(私)の記憶はもっと大きく深い。他人の、私の記憶など断片である。

3473. (考える)は決して抽象ではない。意識にとっては、いつも具体的なものである。だから(考える)は(生きる)そのもののことである。

3474. わからないことだらけだから、ニンゲンは、(考える)。(生きる)も(死ぬ)も、わかる訳がないから。

3475. 「色は色じゃないんだ!!」アラカワ(荒川修作)のコトバは、実に、禅的である。極彩色の「三鷹天命反転住宅」を創ったアラカワである。

3476. 何が難しい?(私)を、いつまでも、開けっぱなしにしておくことだ。存在の自由度。知識や習慣を学習して、常識を身につけると、あとは(仕事)ニンゲンになって、生きてしまう。つまり、(私)という存在を閉ざしてしまう。開けておけ、開けておけ、(私)を!!

3477. いつまでも、危機の斜面に(私)を立たせ続けること。新しい(私)は、その中から起ちあがる。

3478. 普通の、平凡な日常の中にも無数の危機の斜面がある。見方、考え方、五感の使い方、意識のあり方で、それがわかる。

3479. 新型コロナウイルスのパンデミックは、ニンゲンをパニックに陥落させた!!(他人の死)が直接(私の死)に変化したから。

3480. 狂いもせず、破綻もせず、どうやら古希まで生きてきた。それだけで、もう、大変な道程。充分である。あれやこれやは、言うに足りない。

3481. (私)が私と、正しく関係を結ばねば、ニンゲンとしては生きてゆけない。怪物になる。

3482. 漂流する夜から、朝の時の岸辺に打ちあげられた(私)を発見する時の、あの感触、「今日も一日、生きてゆける。」生きられる時間を手に入れた。

3483. 社会に生きる(私)、世間に生きる(私)、セイカツである。しかし、セイカツする(私)は、存在者としての(私)の、ほんの一部である。もっと、全的に(私)を生きろよ!!(仕事)が(私)だなんて、つまらない。

3484. 一分一秒の休みもなく、絶えず(私)を(今)へと吹きあげているエネルギーがある。エントロピーと呼んでもよい。

3485. (私)は(今)という岸辺の縁りで、呼吸している。何時(今)から滑る落ちるかもわからない。まあ、ひとときのことだ。我慢あるのみ。

3486. いくら考えても、よくわからない(私)の(今)である。水から泡が吹きでるように(今)へと勝手に解き放たれた。不条理だと怒ってみてもはじまらぬ。

3487. で(ここ)はどこだ?(私)は誰だ?と疑っても、闇から闇への問いである。食べて、歩いて、働いて、寝て、一日のニンゲンのリズムに身を任せている。空虚をかかえたまま。魂のリズムだけがある。

3488. 宇宙地図には(私)がいない!!なぜ?(私)という視点は、私の内側にしかないから。誰か、何かが、外からの視点で作った地図の中に(私)は入れない。

3489. (今)も(ここ)も、(私)を抜きには考えられない。(私)のいない(今)も(ここ)も、実は、存在しない。

3490. ゆえに(存在)とは、(関係)の中にしかない。

3491. (私)が地図である。そんな(存在)は、果たして、可能であろうか?

3492. (私)をマッピングする。その(私)は、瞬間に(私)の外になる。

3493. (私)のいる場所、(私)のいる時間、それは、宇宙のどこでもない。決定できないから。

3494. 前(過去)とは後(未来)が。「ある出来事がほかの出来事の前でありながら後でもあり得る」(カルロ・ロヴェッリ)過去は未来で、未来は過去

3495. 過去=過ぎ去ったものも(今)に参入できる。未来=まだ来ぬものも(今)に参入できる。

3496. 一歩を踏み出すためには、未来が見えていなければできない。

3497. 思い出すためには、過去を(今)へと連れ戻さなければ思えない。

3498. 過去も未来も(私)の中で入り混じって、ひとつの現象になる。区別はない。ただ想うものだ。

3499. ニンゲンの、眼も、思考も、五感も、実に”粗い” その”粗い”眼で見て、”粗い”思考で考えて、生きねばならぬ。辛いことだ。

3500. 見えないものばかりがあふれている。一歩先のセイカツも。宇宙も。しかし、透視する。見者になる。

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• 木曜日, 4月 30th, 2020

1 揺らぎから来た
  波が騒ぎ 泡が立った
  風が吹いている ビッグ・バンの風が
  何処から何処へ ∞
 (木)が(私)の中へ
 (私)が(木)の中へ
2 流れる 時間の滝が
 「間」をくぐりぬけて
 (木)がない (私)がいない
3 現れる 消える こともない
 「名前」がないから
 ( )がある )(がない
 ( )があることもない)(がないこともない
4 浮遊する
  空へ 青空へ 漆黒の闇へ
  前に歩くと後ろになる
  上に歩くと下になる
  右に歩くと左になる
  一切が永遠の宙吊り無限放射の鏡
5 宇宙に歩をすすめると
  コトバ系が見事に壊れてしまう
  わが惑星・地球の
  結ぼれの環 コトバよ
  量子のコトバとなって
  死者たちの耳にも届けよ
6 飛ぶ超球へのステップ
  眼がない いいや(ある)やっぱり)ない(
  口がない いいや(ある)やっぱり)ない(
  舌がない いいや(ある)やっぱり)ない(
  皮膚がない いいや(ある)やっぱり)ない(
  意識がない いいや(ある)やっぱり)ない(
  無数の( )と)(の群れが
  泡立っている
  確かに
  宇宙にたったひとつの
  泡箱がある

※「霧箱」「泡箱」「暗箱」と「箱」シリーズのひとつです。

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• 金曜日, 1月 31st, 2020

八月の光の独楽が青空に廻っている夏である。朝から熱の風が吹いている。やれやれ、汗の中を、終日、歩き廻らなければならない。ホテルを出ると、駅は眼の前だ。養老鉄道である。切符を買って、構内に入る。小さな電車が停まっている。ものの2~30分も乗れば、目的地・養老駅に着く。乗客は、2~3割で、自由に好きな席に坐れた。
「ただの水が酒に変わって、何が悪い?何が不思議だ!!ただの水が、なぜ体液になるのか、言ってみろ!!」
アラカワの声が耳の底に響いている。「「石」をパンに変えた人もいるのに」
「幻種」を交配する。あらゆる形は変化する。どのようにも。だから、形などないのだよ。幻である。その「幻種」を交配させる場が、「天命反転地」なのだ。目的ではない。単なる手段だ。
「形」は、ニンゲンがとりあえず見るための「方便」だ。誰にでもわかるように。本当に、大事なのは、見えないものだ。「形」は、いわば、対機説法のために、あるようなものだ。(日常)を生きるニンゲン、君たちのために。
アラカワの声と(私)の思考が混ざりあって、見定めがつかなくなる。大言壮語とも受け取られ兼ねない、アラカワの声は、反芻してみると、実は、ニンゲンにとっては「ビッグ・クエッション」である。
アラカワの発想の根には、いったい、何があるのだろう?おそらく、あらゆるものを疑え(デカルト風)という規則がある。しかし、アラカワは「私は私である」というコトバを認めない。「考える、だから、私がある」というデカルトの声にも反撥する。
もちろん、「(私)は実在である」というサルトルの声にも、NOと言うだろう。アラカワは、眼も信じていないから。見る?何を?どういうふうに?アラカワは(眼)をも殺してしまう。ニンゲンが、日常で、習慣化してきたモノの見方、感じ方、考え方を、否と否定する。アラカワは、原子の人ではなくて、量子の人である。
だから、「天命反転」を主張する。不可能に挑戦する。人類が、地上に、1400億人も生れたのに、まだ、誰一人、向う側から帰って来た人はいない!!「不死の人」もいない。
”仙人”になろうとした、芥川龍之介の小説「壮子春」も、”仙人”を断念してしまった。アラカワは、養老の地で、”仙人”になる道を実験する!!”不老不死”の夢の実現!!
ヒトは、あらゆるものを、「人間原理」として、生きている。そして、死んでいく。アラカワは「宇宙原理」へとステップする。
考えてみれば、ついこの間まで、夜空に、たったひとつ輝いていた星は、ハップル望遠鏡の発明で、2000億個の星の集り。銀河と判明した。まだまだ、ニンゲンは、宇宙の百分の一もわかっていない。
”眼”も”実在”もアラカワは信用していない。一切が当てにならない。とにかく、独力で、一から考えて、実行する。「天命反転」を企てて試みる。
アラカワは、たったひとつの単細胞が多細胞になり、魚になり、鳥になり、哺乳動物になり、猿になり、ニンゲンになるーその進化の40億年の進化の時間を、今、ここで、成し遂げたいのだ。自分の手で、ニンゲンからxを出現させたいのだ。
ゆらり、ゆらりと養老鉄道の小さな電車に揺られて、夏の青空の下にひろがる、街を眺めながら、小さな旅は続いた。
吹きあげてくるコトバの群れに身を委ねていた。眼に写る風景も、夏の光の下では、幻に見えた。熱風が時空を吹きぬけている。
”養老駅”に到着した。アラカワへの旅は、なかなか、直線的には進まない。時空はゆがんでいる。そのゆがみに添って、歩を進めるしか術がない。
駅前広場で”看板”に描かれた地図を見た。ゆっくりと、山の上へ、坂道を歩きはじめた。眼の前に“養老天命反転地”が顕れるはずだ。汗が流れる夏の日和である。

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• 金曜日, 1月 31st, 2020

~大きな試みの詩集~
詩はひとつのコトバ宇宙である。作者の手を離れると、独立したひとつの生きものとなる。コトバ宇宙は、作者の思いをも超えてしまう。あらゆる存在がコトバを放っている。あとは耳を立てて、傾聴すればよい。

若き日の、処女作「部屋」はまだよく生きていないため、語るべき体験もないのに、(意識)だけは鋭く目覚めていて、存在に対して無限放射するコトバを放出する、いわば、秋山駿風な「内部の人間」の物語である。(意識の詩)
川中子は、出発の時から、すでに(知)的なコトバで武装できた詩人である。

問題は、そこに、キリスト者としての、地上での呻きが加わる。

長い中断の後、留学があり、セイカツの糧を得るための仕事があり(学者として)、(詩)に還る時には、最大のテーマが、(宗教)と(文学=詩)の合一となる。

副題や本文に「聖書」のコトバやドイツ語が出現する。「聖書」を「詩」にするという野望?挑戦?試みが見え隠れする。(日本にも、「仏教説話」という試みがある。)

東大教授であり、ドイツ文学・思想の研究者であり、詩人である。そんな存在があり得るのだろうか?
一人いる。西脇順三郎(ノーベル文学賞候補)である。慶応大学の教授、英文学の研究者、そして、詩人。詩集「ambarvalia(アム・バルワリア)」と「旅人かえらず」のシュールな長編詩を書いた第一級の詩人。

(私)は、文学・詩のコトバを三つグループにわけて考えている。
①自らの体験・生を、自分だけのコトバだけで語っている。中原中也、種田山頭火。
②知性そのもので武装した、アレゴリーのコトバ。ボルヘス、カフカ。
③生の体験と(知)を組み合わせたコトバ。宮沢賢治、ティック・ナット・ハン師。小説「ブッダ」田川建三「イエスという男」
川中子義勝は、どの範中に入るのだろうか?②か③か?
(私)は川中子義勝のセイカツと祈りの実践の現場をまったく知らないので、判断できない。((詩)はビジョン、(宗教)は実践。)

キリケゴールの思想、リルケの詩から出発した、川中子の(詩)の試みは、キリスト者(中村不二夫、森田進、加藤常昭)には、身に沁みて実感できるのだろう。(解説より)

「井戸」や「釣瓶」は、モノ自体に語らせるという試みである。副題に「砕けたるたましい」(詩篇)「われ渇く」(ヨハネ伝)が添えられている。
(水が渇いていた)(釣瓶は渇く)(渇き)がどのように見えるか、がポイントの詩である。ビジョンが見えるかどうか?キリスト者ではない、普通の読者である(私)には、おそらく、作者・川中子が見えているものと、同じものは見えない。深く読み込むための、副題ではあると思うが・・・。
(ちなみに、仏教による(渇き=渇愛)は、執着、欲望であって、苦の根源(四苦八苦)である。)

(詩)の方法論も主題も目的も実に明確である。知者であるから。(決して、難解な詩ではない)

デクノボウのコトバ(無知の智)で語る宮沢賢治の詩(東洋の智)と「聖書」のコトバを折り込む川中子義勝の詩を読みくらべてみた。(知者の詩)(西洋の知)

誰にでも、自由に開かれた、普通のコトバで書かれた賢治の詩には(私性)があって、風景や人物が匂い立ち、身に沁みるのに、(知)のコトバ、(聖書のコトバ)で書かれた川中子の詩の深みには、(私)は、まだ、降りていけない。(実感が)
時間を置いて、もう一度、川中子義勝の詩に、挑戦してみよう!!
(はじめて川中子義勝の詩を読んだ感想である。(私)の川中子義勝との(対話)のはじまりでもある!!)(詩)の深さについて。(信仰)の深さについて。(1月26日記)

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• 金曜日, 1月 31st, 2020

①(社会の言葉=ネーミング)と(文学のコトバ=評論)の探求と考察に生きた人。
②「一言半句」に作者の意図を読み込んで、人間を、社会を、世界を発見しようとした人。
③不幸は、突然やってくる。訃報も、突然、舞い込んでくる。11月のある夜、会員の中津川丹さんから、突然の電話。「安藤さんが亡くなりました。」絶句。ただ、悲しい。
④咽喉が渇き、鼓動が早くなって、胸が痛んだ。二階の書斎にあがって、8月に、安藤さんから届いた、一通の長い手紙と一冊の本を机の上において、読み直してみた。深呼吸をして、「般若心経」を三回唱えた。
⑤ヒトはあらゆるものに名前をつける。星に、山に、川に、草に、魚に、もちろん、人間にも、ていねいに。安藤さんの仕事は「会社」に「商品」に名前を付けることだった。その傑作は「セシール」。主著『ネームングは招き猫』。単なる実用書ではなく、「言葉」の発見の書。(社会の言葉で)
⑥「読書会」には、いつもユニークなレポートと解釈、そして珍しい資料持参。青春の「大岡昇平『野火』論」は、見事な、文学のコトバで。(稲門会、図書館の会、年六回出席)
⑦早稲田に入って「文学」を学ぶと、誰でも一度は、作家、詩人、評論家を志すものだ。黒田夏子は『abさんご』で芥川賞受賞(史上最高齢75歳で)。下重暁子は、元NHKの美人アナウンサー。70歳を過ぎて、エッセイ集がベストセラーに。早大、国語国文(教育)卒で、ともに、安藤さんの同級生。
⑧晩年は、「読むこと」に生きて「書くこと」に生きて、「読書会」を魂の交換の場所としていた。「文学の本」を執筆していた安藤さん、出版事情が叶わず、断念。残念無念。「幻の本」に。
⑨「一言半句」の審美眼の人、いつも、物静かだが、心を貫く棒の如き意志の人。私の最後の、送るコトバは、魂よ、安らかなれと「ニルヴァーナ」である。
(岐阜県出身・早稲田大学教育学部国語国文卒 享年84歳2019年10月7日永眠)
(「四街道稲門会だより」より転載)

(注)「幻の本」が、作者・安藤貞之さんの死から四ヶ月たって、見事な一冊の「本」になりました。
タイトルは「樋口一葉を世に出した男ー大橋乙羽」です。日本初の編集者の評伝です。(百年書房刊)
一人でも多くの読者に安藤貞之さんの声がとどけば、と念しております。

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• 火曜日, 12月 17th, 2019
3401. 蟻が大河を渡っている。蟻が山を引いている。ニンゲンが銀河をめぐっている。ニンゲンが他の宇宙へと翔んでいる。

3402. (私)の呼吸を、宇宙の呼吸に合わせること。そのチューニングが一日の(私)の仕事である。

3403. コトバで書けると思っている作家たち(可能性の作家)コトバでは書けぬと思って書いている作家たち(不可能性の作家)

3404. 「石」に魂を奪われた人たち。宮沢賢治、秋山駿、石牟礼道子、吉増剛造、「石族」である。共通点は「無私」。(私)も「石」へ。

3405. 「無関係」は21世紀にはない。一切が結ぼれの中にある。

3406. いつのまにか、眼ではない、コトバで、モノを見ている。コトバに染められて。

3407. (悩み)のないニンゲンなどいない。だから(家)にも、必ず、ひとつ、ふたつの(悩み)が発生する。

3408. 幸せは長続きしない。不幸はいつまでも(傷)となって残るのに。

3409. 歩いて、大きな楠の下で放心して、瞑想して、そぞろ歩きをして、帰ってくる毎日。釈尊は菩提樹を仰ぎ見て、瞑想して、そぞろ歩きをした。気がつくと、(私)も自然に、釈尊の真似をしていた。なんだか、おかしい。
(そぞろ歩き→仏教では<経行>)

3410. アフォリズムは「存在の」のっぺらぼうを赦さない。

3411. ニンゲンの最後の仕事は、あらゆるものに、名前を付けることである。山に、川に、草に、木に、魚に、鳥に、昆虫に、石に、感情に。思考に。2000億個の銀河に。2000億✕2000億個の太陽=恒星たちに。恒星を廻る惑星たちに。

3412. 名前がすべてである。宇宙は名前であり、コトバである。

3413. 文字にも、声にも、どこまでも深める道がある。コトバの道は無限だから。

3414. 見る。(私)の眼で見る。意識の眼で見る。(無)から来たものも。

3415. 見るものを、すべて、コトバに変えるレッスンをしていた時期がある。

3416. ニンゲンから(名前)を抜き取って、匿名にする、単なる数にする。そして、残された、最後の、自由の(内面)さえも、ココロや意識を染め変えて、ニンゲンの尊厳を消し去ってしまう。そんな、暗い時代が到来する予兆が(AI)にはある。

3417. 正しい判断を下して、正しい基準を作って、正しい行動を決める。ニンゲンが行うのではなく(誤ちを犯すから)すべて間違うことのないAIが命令する。そして、その速度、正確さに負けてしまったニンゲンは、ただ、従うだけとなる。いったい、誰が?何が?生きているのか?

3418. ニンゲンは、何かに、迷い、悩み、苦戦して多くの誤ちを失敗の経験からなんとか、より良い(今)を、工夫し、選択して、生きている。
AIには、失敗も誤ちもない。膨大なニンゲンが与えたデーターの中から(正しい解)を選び出す。そのうちに(AI)は、自由に(考える)力をも兼ね備え、新しい(存在者)・(生きもの)となるだろう。

3419. 社会に生きている(私)、仕事をしている(私)よりも、生命記憶としての(私)は、深く、深く(私)を生きている。社会的な(私)などが知る由もない生命記憶としての(私)。

3420. 意識に浮びあがる日常の(私)よりも、40兆の生命記憶である(私)は、深淵をたたえている。

3421. その深みへと、意識を離れて降下していくと、(私)は、宇宙と同じくらいの、(不思議)として、横たわっている。

3422. さて、その深みへと降下するためには、歩き続ける、瞑想する、呼吸になるなどの、単純だが生命記憶を揺さぶって、あらゆるものの根源に達する方法がベストである。

3423. 今日は、意識が火照っている。

3424. 過剰な意識は不眠を呼ぶ。ほとんど病いと同じことだ。

3425. 意識が無限回転すれば、ニンゲンなど食い潰されてしまう。

3426. 歩行のリズムの中へと逃げる。(私)が消えて、リズムだけが残る。

3427. 時には、身体の疲れが必要だ。(考える)力もないほどの疲労が。そして、ただ(存在)している石になる。もちろん、目覚めはある。

2428. コトバよ、量子のコトバとなって、死者たちの耳にも届けよ。

3429. テレビ、パソコン、スマホで、画像を見る、文字を読む。終日、ニンゲンはそれらの情報に振り廻されている。いわば、虚の空間、虚の世界で生きている振りを強いられている。実に、滑稽な演技である。

3430. もちろん、実体には触れないセイカツである。香りも手触りもない。思考することもない。深く考えることもなく、反射している神経と意識。

3431. ああ、一歩、ただ歩くために歩く一歩一歩があれば、百や千の情報の、ネットワークの闇から抜け出せるのに。

3432. もちろん、ニンゲンは、いったい、自分が何をしているのかを知らない。ただ、浮遊している。半分死んでいる。生きているとは言えない。

3433. (私)は、小説を書くのではなくひとつの宇宙を書くのだ。

3434. ニンゲン中心ではなく、木も水も風も石も鳥も魚も山も川も海も空も一切が共生しており、相依相関の中にあるひとつの宇宙。

3435. 文字を書くのではなく、文字に至るコトバを書くのだ。一切の現象、事象が放っているのがコトバだから。

3436. 眼は、見えないものを透視し耳は聴こえない音を幻聴し形のないものには、ココロの指で触れる。もうひとつの宇宙を顕現させるために。

3437. ニンゲンは、まだ、宇宙の百万の一も知らない。宇宙は、コトバで書かれたものであるが、さて、ニンゲンがそのコトバを読み切るまで、滅びずに、生き延びられるか!!

3438. “今”を意識という光で射すことはできるが、射した瞬間に“今”は時空を移動してしまう。永遠の宙吊りだ。

3439. 現象としての(私)を、今日も、普通に生きている、重力に縛られたまま。

3440. “私”を一切から解き放つのは容易ではない。凡庸な日常という着物を脱がねば。

3441. とりあえず、ニンゲンに必要なものは、まったく新しい“ビジョン”である。

3442. ニンゲンなら、誰でも、一人にひとつずつ(ココロの水準器)を持っている。意識という光がそれにあたると、必ず(ココロの水準器)は方向を示してくれる。だから、(ココロの水準器)は、自然に保つべきなのだ。自らの魂を磨くように。決して、狂わせてはならない。

3443. モノを書く者なら、必ず、(コトバの水準器)をもっている。コトバの種子が、コトバそのものになる時、その人の根源において(コトバの水準器)が働いて、意識が触れるものを、適切な、正しいコトバに変えてくれる。ココロを無にしておれば。

3444. 一人のニンゲンが、(私)が、時代に、歴史に、宇宙にぴったりと重なったと思える時が来るのだろうか?何時も、ココは、(私)の場所ではない。今は(私)の時ではないと感じ続けて生きてきた(私)が???終に(私)が私に重なる時がなかったなら、(私)とは、いったい、何者であっただろう。

3445. (私)=非私・・・そんな存在のあり方は、宇宙に、突然、偶然、放り出された者の、差異、ズレ、遅延からくるものであろうか?

3446. 何時までたっても、決して、追いつくことがない、光という乗り物に、永遠に乗れないという感覚。(私)の外部に在る私。

3447. 量子にも意識はあるのかという問いに、量子の無数の塊りである(私)が答える。「もちろん」と。

3448. 「一即無限」である。(一=無限)一が無限でもあるという数の魔。一瞬が永遠であるという時間の魔。

3449. (無)から一切が顕現する不思議の空間、場の魔。

3450. ただ、ただ、不思議を生きるしかない(私)という宇宙。

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• 火曜日, 12月 17th, 2019

荒川修作が、私のココロを掴んで離さない時期があった。不思議な人である。
空海、井筒俊彦と並んで私は、日本人の三人の天才と勝手に呼んでいる。
可能なことに挑戦するのが秀才たちである。不可能へ挑戦する人が”天才”である。(99%の人が、断念して普通に生きる)
荒川修作は、天(宇宙)の法則そのものを、反転させ、あたらしい地平を築こうとした。もうひとつの宇宙を創造する。”私は死なない” ”死ぬのは、法律違反である”と。

岡山県奈義町を訪ねて、数年後に、岐阜県養老町を訪ねるチャンスがあった。
もう、何年になるか?十年は経っているか?時間感覚が波打って、その時の年、月日が、頭から消えている(本当に「時間」は存在するのだろう?荒川さん)
ある夏の、八月に、故郷、徳島県の片田舎の、宍喰にある、老人ホームへ、母を見舞った時があった。
四国から、東京へ、そのまま直行して帰るのも芸がないと思って、岐阜の養老町の”天命反転地”に立ち寄ることにした。
急ぐ旅ではない。ゆっくりと、ゆっくりと旅をすれば、歩けば、”モノ”たちは一番ハッキリと見えてくる。
バスに乗り、汽車に乗り、高速バスで本州へ渡り、大阪から一番遅い電車に乗って、街や山や川や田園を眺めながら、岐阜大垣へ向かった。

いったい、荒川修作は、養老の地で、どんな”天命反転地”を創造したのだろう。長い間、その現場に行くことを夢に見ていた。
”荒川修作”の思考回路、思想を知るには、とにかく、「天命反転地」を自分の足で歩いてみるしかない。「本」を読んでも絶対にわからない。体験なしに、荒川修作の軌跡はたどれない。

電車は、大阪、京都の街を過ぎ、山々や田園の広がるのんびりとした風景の中をゆっくりと走っていく。
眼が楽しい。スピードは、遅ければ遅いほど、風景の中に点在するものたちが、身体の中へと入ってくる。
”関ヶ原”を通れば、天下分け目の”関ヶ原”の当時の合戦の模様が、くっきりと甦ってくる。眼を彼方へと泳がせて、時間の壁を超えて、透視する。あれやこれやで頭の中がいっぱいになる。(時間の反転は?)

約七時間で大垣に着いた。夏の夕方は、まだ、日が高い。大垣は、芭蕉の「奥の細道」の結びの地である。駅前のビジネスホテルに予約して、水の街、大垣を、芭蕉の影を探して、散歩に出た。
街に水路が走り、湧き水のある風景の中を、汗を拭きながら歩いた。芭蕉の銅像があり、記念館があった。
”蛤のふたみにわかれゆく秋ぞ”(最後の俳句)
その夜は、なぜ、荒川修作は”養老町”に、”天命反転地”を創ったのか?川の水が酒に変わるという伝説を思い出して”不老不死”の地、養老が荒川を捉えたのではないかと、勝手に、想像して、夜が明けるのを待った。

アラカワは、アジール(聖域)を探し求めていたのだ。土地の力、場の放つ力、神話の力、森の力、山の力、コトバの放つ力。「養老」は、老いを養う地。ただの滝の水が「不老不死」の、百薬の長・酒になる地。

私の意識そのものを、身体と一緒に旅にむけて放り出しながら、考える旅が、アラワカをめぐる旅にはふさわしい。
「本」を読んだり、「地図」を確かめたり、「資料」にあたったり、いわゆる準備をする必要はない。
「奥の細道」で、芭蕉は、そのまま裸で、風景に衝突している。そこで発火したものが「俳句」になった。コトバに変わった。
アラカワも、アラカワへの旅も、無防備なまま、日の光を受けて、汗をかいて、触手をのばせばいい。
アラカワの、思考の礫は、突然、不意にとんでくる。五感を思いきりひろげて、その思考の礫に衝突してみる。スリルである。夏の夜があける。

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• 水曜日, 11月 20th, 2019

(私)の書架に、哲学者・ジャック・デリタの大作『根源の彼方にーグラマトロジーについて』上・下巻(1977年初版)と『エクリチュールと差異』上・下巻(1976年初版)が並んでいる。
約半世紀ばかり前に出版された、超難解な哲学書である。20代の(私)が何を読みとり、何を読みとれなかったのか、もう、一切が霧の中である。30ヶ国語を自由に読み書きできた、天才哲学者・井筒俊彦が手を焼いた書物である。(私)ごときが、ジャック・デリタの思想を呑み込めた訳がない。
ミッシェル・フーコー(『狂気の歴史』)がジャック・デリタの師である。
ジル・ドルーズ(20世紀の最高の哲学者)と並ぶ思想家・ジャック・デリタ!!
(私)は、ジャック・デリタの論考よりもジル・ドルーズの論考に魅かれていた。

先日、偶然、ジャック・デリタの『プシュケー他なるものの発明Ⅱ』を購入した。久々に、新刊が翻訳された。
「いかに脱構築を受け継ぐか」と帯文に記されている、500ページの大部作品(8700円)(岩波書店)
本書には「前書きのための五十二のアフォリズム」と「不時のアフォリズム」が収録されている。
ジャック・デリタが、アフォリズムを書いていた!!
驚きであった。が、同時に、最後は、アフォリズムに挑戦するのは、当然である、と、納得した。

至高の文とは、アフォリズムだから。アフォリズムとは何か?
3400本のアフォリズムを書いてきた(私)は、ヒトに会うと、必ず「重田、アフォリズムって何だ?」と訊かれる。
眼に見えないもの、形姿。耳にとどかないもの、音声。鼻で嗅げないもの、匂い。舌で味わえないもの、味覚。身体で感じられないもの、感覚。意識で捉えられないもの、思考。
つまり、宇宙が無限に放射するコトバのことである。(私)は、そのように考えている。
哲学者、ジャック・デリタは、アフォリズムを、どのように考えていたのか?
「アフォリズムとは名である」
「裁断、決定、真実、予言、神託、宣告、(非システム)そして箴言・格言である」
アフォリズムは、「切断、分離、標記、境界・・・切り離す力」
「アフォリズムは、ソコにあっても、存在しない。そこに入ることも出ることもできない。つまり、はじまりも終りもない。基礎も目的も高低もなければ、内外もない」
どうであろうか?ジャック・デリタのアフォリズム考である。

ジャック・デリタさーん!!
あなたも、やはり、宇宙の中の無限の中の1として、コズミックダンスを踊っているのですね。
青い光の独楽として、意味も、無意味も、非意味も、無視して、ビッグ・バンの風に吹かれて、宇宙を浮遊する仲間の一人だったのですね。
ニンゲンとして、連帯の挨拶を送ります。至高の宇宙のコトバであるアフォリズム、受け継いで書き続けてみます。

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• 木曜日, 9月 19th, 2019

辺見庸の最新小説『月』を読む(見事な文体の振幅と強度)

ついにとうとうようやく、ぎりぎりのところで、辺見庸が小説家として自らの代表作となる「月」を完成させた。
三島由紀夫の「金閣寺」武田泰淳の「富士」埴谷雄高の「死靈」川端康成の「雪国」等に匹敵する傑作の出現である。
辺見庸といえば、代表作はルポタージュ「もの食う人びと」であった。もちろん詩集あり、評論あり、時評あり、紀行文あり、講演や対談ありと、さまざまなコトバを放ってきた。発言してきた。思想家として。その度、四種類の文体を発見し、辺見庸という思想を構築してきた。文体の進化、思想の深化。

思えば、スタートは、新聞記者の文章であり、作家として簡潔で、素朴で、竹を割ったような文体を重ねた「自動起床装置」(芥川賞受賞)であった。行間に含みをもたせて、余白に語らせる、スタイルであった。随分と地味な作風で、まだ、辺見庸が何者か、わからず、世間の注目を浴びる作品ではなかった。

三島由紀夫が、金閣寺放火という衝撃的な事件(素材)を借りて、自らの存在を、思想を語り尽くしたように、辺見庸も、神奈川県相模原市の障害者施設で発生した(津久井やまゆり園)大量殺人事件(素材)を借りて、その(事実)を想像力を駆使して、小説としての(じじつ)に変換し、ニンゲンとは何者か?存在とは何か?を根源的に問うことで、自らの思想を語ってみせた。(ニンゲンは誰でも病んでいる存在である)

ニンゲンの底が割れても(殺人者となっても)まだ、ニンゲンは、ニンゲンとして存在が可能であるのか?

辺見庸は、小説を、多視点を導入することで、六つの文体で書きわけている。

①はじまりは、呟きであり、意識による独白であり、まるで、モーリス・ブランショの「謎の男トマ」風に、「来たるべき書物」となっている文体。

②ニンゲン存在の深処からくる詩、アフォリズム、ピュアーなコトバ群からなる文体。

③そして、告発、厭世、抵抗、否定と洪水のように吐き出される文体。

④更に、思考に思考を重ねて、なお、その果てまで行こうとするコトバ群の文体。

⑤(現実)に寄り添って、事象をていねいに、ていねいにたどる、リアリズムのコトバの文体。

⑥疾走する、軽妙さの中に虚無や悲しみが走る音楽としてのコトバ・文体。

辺見は、さまざまなコトバを書くことで、自らの文体を鍛えあげてきた。あたかも、この小説『月』を書きあげるためでもあるかのように。

文体が多声的であるということは、同時に、登場人物、ニンゲンも多面的存在であるということだ。文体の中にしか思想はない。ポリフォニー小説「月」は何重もの壁に囲繞されたコトバの群れから成っている。独白あり、崩壊あり、幼児性あり、大衆性あり、知性あり、偏向性あり、俗性と聖性あり、コトバは七変化している。コトバそのものが、自己生成されて、勝手に動いているようにも見える。(力業である)
つまり、存在はコトバである。物語・単なるストーリを追っても、プロットを説明しても、辺見庸が投げかけるコトバの正体は容易に捉えられない。
もちろん、小説は歪んでいる、破綻している、壊れている、なぜ?ニンゲンがそのようにも存在しているからだ。

なぜか、救いのない事件を語る、辺見のコトバの中に、”無限のやさしさ”を感じた。
このココロの揺れは、いったい何だろう?どこからくるのだろう?(「自痴」のムイシュキンのような)

ニンゲン存在のグロテスクの中にも、手で手に触れる、他人への”無限のやさしさ”と覚える場面がある。不思議だ。それは、辺見庸が、さまざまな作品の中で書く”植物たち”への視線に含まれているある心情に似ている。
(在ること)(食べること)(殺すこと)(愛すること)生を構成するエレメント。簡単で、深い。根は同じところにある。つるつる滑ってしまう世間、社会の言葉の浅さと散漫に対して、辺見のコトバは、表面を深淵に変えてしまうほどに、したたかだ。
「月」の結末は?
「ああ、月だ。月に虹がかかっている。」
が余りにも凡庸で破綻していると読むかどうか?あるいは・・・。
三島由紀夫の最後の小説「豊饒の海」第四巻「天人五衰」の結末は?
「この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。・・・」
コトバから生まれてきた三島由紀夫が何もないところに至ってしまう。なぜか?
ニンゲンは、動物・植物・鉱物と共生し、人間原理で生きている。宇宙原理では生きられない。しかし、実は、ニンゲンは、コズミック・ダンスを踊っている存在である。宇宙のビッグ・バンの風に吹かれて。
小説「月」は辺見庸の代表作、金字塔となるだろう。長く読まれんことを!!

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• 木曜日, 9月 19th, 2019

(無)から来た
(私)という骰子を
今日も振り続けている
あれかこれか 左か右か真ん中か
あれでもない これでもない

鳥は 鳥の意識で
(夢=現実)を見る
何を?
見えるものから 見えないものへ

魚は 魚の意識で
(夢=現実)を見る
何を?
見えないものから 見えるものへ

時空の無限放射の中に居る(私)
視点を変えると
(私)は時空へと無限放射されている

ニンゲンは もちろん
ニンゲンの意識で
(夢=現実)を見る
何を?
在るように在るから 想うように在るへ

もう(私)は 私自身を
一日も考える力をなくしている
いや 一時間も いやいやものの三分も
見ろ!!欠伸までしている 混沌の中で

ニンゲンは 本当のものを見ると
気が狂ってしまうから
まあまあ ボチボチ
日々流されて生きている

宇宙の歯車が
時代の歯車が
また ひと廻りして
ひと呼吸遅れて
振り出しに戻った(私)も
ゆっくりと 自然に
(私)の歯車を廻してみる
(私)のリズムで (私)の流儀で

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