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• 金曜日, 1月 31st, 2020

~大きな試みの詩集~
詩はひとつのコトバ宇宙である。作者の手を離れると、独立したひとつの生きものとなる。コトバ宇宙は、作者の思いをも超えてしまう。あらゆる存在がコトバを放っている。あとは耳を立てて、傾聴すればよい。

若き日の、処女作「部屋」はまだよく生きていないため、語るべき体験もないのに、(意識)だけは鋭く目覚めていて、存在に対して無限放射するコトバを放出する、いわば、秋山駿風な「内部の人間」の物語である。(意識の詩)
川中子は、出発の時から、すでに(知)的なコトバで武装できた詩人である。

問題は、そこに、キリスト者としての、地上での呻きが加わる。

長い中断の後、留学があり、セイカツの糧を得るための仕事があり(学者として)、(詩)に還る時には、最大のテーマが、(宗教)と(文学=詩)の合一となる。

副題や本文に「聖書」のコトバやドイツ語が出現する。「聖書」を「詩」にするという野望?挑戦?試みが見え隠れする。(日本にも、「仏教説話」という試みがある。)

東大教授であり、ドイツ文学・思想の研究者であり、詩人である。そんな存在があり得るのだろうか?
一人いる。西脇順三郎(ノーベル文学賞候補)である。慶応大学の教授、英文学の研究者、そして、詩人。詩集「ambarvalia(アム・バルワリア)」と「旅人かえらず」のシュールな長編詩を書いた第一級の詩人。

(私)は、文学・詩のコトバを三つグループにわけて考えている。
①自らの体験・生を、自分だけのコトバだけで語っている。中原中也、種田山頭火。
②知性そのもので武装した、アレゴリーのコトバ。ボルヘス、カフカ。
③生の体験と(知)を組み合わせたコトバ。宮沢賢治、ティック・ナット・ハン師。小説「ブッダ」田川建三「イエスという男」
川中子義勝は、どの範中に入るのだろうか?②か③か?
(私)は川中子義勝のセイカツと祈りの実践の現場をまったく知らないので、判断できない。((詩)はビジョン、(宗教)は実践。)

キリケゴールの思想、リルケの詩から出発した、川中子の(詩)の試みは、キリスト者(中村不二夫、森田進、加藤常昭)には、身に沁みて実感できるのだろう。(解説より)

「井戸」や「釣瓶」は、モノ自体に語らせるという試みである。副題に「砕けたるたましい」(詩篇)「われ渇く」(ヨハネ伝)が添えられている。
(水が渇いていた)(釣瓶は渇く)(渇き)がどのように見えるか、がポイントの詩である。ビジョンが見えるかどうか?キリスト者ではない、普通の読者である(私)には、おそらく、作者・川中子が見えているものと、同じものは見えない。深く読み込むための、副題ではあると思うが・・・。
(ちなみに、仏教による(渇き=渇愛)は、執着、欲望であって、苦の根源(四苦八苦)である。)

(詩)の方法論も主題も目的も実に明確である。知者であるから。(決して、難解な詩ではない)

デクノボウのコトバ(無知の智)で語る宮沢賢治の詩(東洋の智)と「聖書」のコトバを折り込む川中子義勝の詩を読みくらべてみた。(知者の詩)(西洋の知)

誰にでも、自由に開かれた、普通のコトバで書かれた賢治の詩には(私性)があって、風景や人物が匂い立ち、身に沁みるのに、(知)のコトバ、(聖書のコトバ)で書かれた川中子の詩の深みには、(私)は、まだ、降りていけない。(実感が)
時間を置いて、もう一度、川中子義勝の詩に、挑戦してみよう!!
(はじめて川中子義勝の詩を読んだ感想である。(私)の川中子義勝との(対話)のはじまりでもある!!)(詩)の深さについて。(信仰)の深さについて。(1月26日記)

Category: 書評
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