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• 月曜日, 3月 22nd, 2021

3551. ニンゲンは、あらゆるものを(言葉)の世界に封じ込めようとするが、あらゆるものが放つ(コトバ)は(言葉)の外部世界にある。

3552. だから、不可視の「コトバ」を見るもうひとつの眼がいる。

3553. 千里眼、透視者と呼ばれた人は、確かにいたのだ。

3554. 共時的現象は、何度も何度も、私の身に起こっている。私は、その(コトバ)を視た。信じている。

3555. (事実)と(ジジツ)を見分けることだ。時空を歩いて。

3556. 来る(コトバ)を、アフォリズム化する身体は、楽しい。

3557. アフォリズムは「言葉」から「コトバ」に至る橋だ。

3558. 「言葉」という記号から不可視の「コトバ」という存在そのものに至るアフォリズムである。

3559. 「言葉」の向う側の「コトバ」を、透視してくれないか?

3560. 現象・事象は「言葉」ではなく「コトバ」だ。言葉として表現したものは(事実)ではなく(ジジツ)だ。

3561. アフォリズムの「コトバ」は「瞬間の王」と呼んでもよい。

3562. 光に感応する瞬間がある。青空に感応する。木に感応する。水に感応する。石に感応する。草に感応する。土に感応する。(私)とコトバの交流である。あらゆるものは、コトバである。もちろん(私)自身も。

3563. コトバの交換が、瞬間瞬間に現成して(私)の宇宙が顕現する。そして、コトバの海を漂うニンゲンである。

3564. (私)の中に木が立っている。おそらく、木の中にも(私)が立っている。まだ、木と(私)が一緒で未分化で、はるかな太古の時代の記憶が尾を引いている!!

3565. (声)の交信。コロナ禍の中で、旧友たちから便りが届く。手紙で、メールで。もう、長い間、会っていないような気がする。眩暈の後、昔日の、旧友たちの雄姿が甦ってきて。ホッコリとココロが温かくなる。又、会おう!!

3566. 逝ってしまった朋輩たちの残した、俳句、詩、作品、手紙、メールを読み返してみる。コロナ禍の中だからこそ、彼岸と此岸の通信が復活。

3567. 〇の中心に起って、〇を生きる。△の中心に起って、△を生きる。□の中心に起って、□を生きる。〇と△と□が合体する、その事象を生きるのだ。ひとつの宇宙を生きるとは、そういうことだ。

3568. 確か、「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」という古人の言葉がある。なるほど。絵画は色で、音楽は音で表現される。色と音は、一種のコトバである。あらゆるものは、コトバを放っている。「石」には石のコトバがある。いい耳、いい眼を持った人には、見えないものにも、コトバを発見する。(やはり、あらゆる存在はコトバであるか)

3569. 眼の前に、竹が一本あれば、(私)は、一時間、いや一日でも竹のコトバを楽しめる。他に何もいらない。

3570. 石であれ、木であれ、草であれ、小さなひとつの宇宙であるから、ただ、無(私)になって、眺めるだけで充分だ。放っているコトバに耳を傾ける。

3571. (私)を全存在に対して、開けっぱなしにしておくこと。あれやこれやの日々の関係を断って。コトバの風が(私)を吹き抜ける。

3572. ひとつの石ころをとことん考えることが、そのまま(私)とは何者かと考えることになった。そして、「内部の人間」を発見した。今、秋山駿のコトバが身に沁みる。石ころのコトバを聴くいい耳をもっていた。ひとつの石ころとして生き切った秋山駿。

3573. 宇宙の、あらゆるものが読まれている。なぜ?存在はすべてコトバだから。もちろん(私)も読まれている。何に?誰に?わからない。ただ、不思議だ。

3574. (私)とは何か?と問われて、(私)は「コトバ」で作られた者だと答える。

3575. はじめに、来た問いを、生涯持ち続けられる人は少ない。人はいつのまにか、(生きる)間に、セイカツの中で、その問いを、手離して、忘れたふりをして、握り潰してしまう。実に、もったいない。何も片がついていないのに。もう、終りが来る。

3576. 誰でも「人生の検証」が必要な齢がめぐってくる。内省し、検証し、残り少ない日々を、最後の一滴まで使い切ってしまうまで。

3577. ニンゲンは波である。「生」も「死」も。いい波の時もあれば、わるい波の時もある。どんな波でも(私)自身である。サイクルがある。わるい波の時には、ひたすら耐えて、ただ待つ。

3578. ウツの世界へ、ソウの世界へ(私)という波は、その頂点から底辺まで、バイオリズムとなって反復する。

3579. 足もとの深淵に魂も氷りつき、青空の高みに、恍惚となり、あらゆるものを味わってやれ。宇宙の(生)の一回性にかけて。

3580. ココロの波、海の波、重力の波、素粒子の波、あらゆるものは波という形のもとに、伝わっていく。(私)の原型は波。

3581. 文字という「言葉」を読みながら、いつも、その彼方に、深淵に、見えない(不可視の)「コトバ」を読み込むのが、「読書」の真髄である。

3582. 見えないコトバが文字=文章になる(書かれて)。だから、道をたどって、見える「言葉」から、見えない「コトバ」に至る。

3583. 見るは、読む、触れるの果てにある。もちろん、(考える)の向う側にある。

3584. 透視か?幻視か?見定められなくても、ニンゲンは、もうひとつの眼を信じて、(見る)のだ。

3585. 言葉の彼方のコトバを書ける作家が、いったい、何人いるだろうか?

3586. ヒトは、誰でも、生命宇宙という(私)を生きている。高い、低い、深い、浅いに関係なく、ヒトの生命宇宙は、等しく同じものである。

3587. しかし、実は、(私)という生命宇宙の位相は、意識するところのものは、どれも、ちがった貌をもっている。

3588. 同時代を生きているから、ヒトの意識は、時代の色に染められる。(ソレは表面である)

3589. それでも、生きる意識の位相は一人一人、異っている。(深層では)

3590. 誰かに訊いてみれば、すぐに、わかる。君は、いったい、どんな生命宇宙に棲んでいるのか?と。時空は、決して、ひとつではない!!

3591. (私)にも意識が届かぬところにも(私)がいる。

3592. 脳の力が届かぬところにも(私)がいる。

3593. よって、(私)の脳は、(私)のすべてではない。

3594. 生命システムの中の脳。

3595. もちろん、ココロは、脳を超えて在る。

3596. (私)の記憶も、私の部分にすぎない。記憶の間違い、記憶以外にあるもの。

3597. (私)全体は、細胞の、DNAのシステムをも、超えている。

3598. 誰も(私)に会うことはない。完全に。”絶対”という王が死んで久しい。

3599. ヒトが生きれば、どんな心境・思想に至るのか?文豪・夏目漱石は?「則天去私」神話へ。天才・荒川修作は?「天命反転」の思想へ。重田昇は?「一即無限」の心境である。存在を、世界を、宇宙を、表現してみた。私の思想となった。(旧友I君に、空海みたいだねと言われて)

3600. (現実派)の江藤淳は、社会化された(私)の「言葉」で、歴史・文学・芸術を語った。(誰にでも共通する言葉で)「私はひとつの石ころである」という秋山駿の「石ころ」が何か解らなかった。「内部の人間」である秋山駿は「ノートのコトバ」で生きていた。社会の「言葉」の向う側の「コトバ」は、存在そのものであった。江藤淳は、秋山駿を「極楽トンボ」と呼んだ!!

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• 土曜日, 3月 20th, 2021

若くして、その感性で時代の若者たちの「問題」を、ユニークな文体で描き切ったものの、恍惚と不安の作家たち。石川啄木、中原中也、大江健三郎、石原慎太郎、村上龍、綿矢りさ、金原ひとみ、そして宇佐見りん。
(時代)を背負って、その風俗にまで影響を与えた作家たち。
一方で、生きて、生きて、人間も、世間も、社会も吸い尽くして中年で、老年で、突然、登場して、その生きざまで、思想で、文体で、テーマで、世間を驚かせた、作家たち。深沢七郎、石牟礼道子、稲垣足穂、藤沢周平、黒田夏子、夏目漱石、井原西鶴、須賀敦子。
もちろん、どちらが幸運か不幸かは、決定できない。
一人一人の作品と、その生涯をしばし、考えてみると、やはり、若くして作家になった者たちの足取りは、苦しい。辛い。華やいでいるが、その実体は、苦難に充ちている。なぜ?まだ、よく、私を、社会を生きてない者が書く小説は、想像力に頼るあまり、(人間)を丸ごと考える力が不足している。働いたことがない、(現場)を知らないまま、(人間)を書くから、成熟した社会の人の眼に耐えられない内容になる。小説の舞台が、テーマが、狭すぎる。したがって、小説は、ピンチに充ちた苦難の道をたどることになる。
一方で、生きて、生きて、(人間)を知り尽くした上で、作家となった人たちの書く小説は、「人間」が、深く、生き生きしている。テーマは豊富、登場人物もバラエティに豊み、その世界は、読者を魅了して止まない。

今回、三島賞を受賞した『かか』と芥川賞を受賞した『推し、燃ゆ』の二冊を読んでみた。著者は、まだ、21歳の大学生である。書いた小説は、二作。その二作とも、大きな文学賞に輝いた。そして時代の寵児となった。
宇佐見りんは、SNS・インターネットやスマートホンの時代の子である。風俗を背景にして、ストーリィテーラーの文体が見事に、(時代)を切り取っている。この才能は、若き日の、大江健三郎や石原慎太郎の登場を思わせるものであった。

第一創作集『かか』(文藝賞受賞・三島由紀夫賞受賞)
処女作には、その作家のすべて(核)があると言われる。なるほど。
19歳のヒロイン・若者を描いた、20歳の宇佐見りんの作品『かか』にも、それからの彼女の将来を予見させる素材がすべて出揃っている。
インターネット・SNSの時代の単なる風俗小説と思いきや、実は、人間の「生・老・病・死」がすべて入っている小説だ。19歳の多感な女性の日常と非日常を描きながら。
①父の浮気で離婚した母のウツ。
②ババとジジの老い。
③母の病い・子宮筋腫と手術。
④叔母の子・明子の死。
⑤「家」の日常と非日常。
そして、熊野への旅で、対峙する「カミ」
これから、宇佐見が掘り下げていくテーマが、すべて、作品に含まれている。単なる感性の放出ではなく、物語作家としての、確かな「文体」を持っている。
小説を支えるものは「文体」であり、そのディテールの描写にある。モノにぴったりと吸いつくような文体は、三島由紀夫の文体とは正反対。黒田夏子の、練りに練った文体とも対局にある。実に読みやすい。特に、作品を支える、鍵ワードは「かか語」の発見、創造にある。家族・家庭内の「方言」の効果は、小説の柱(核)である。
SNS・インターネットを駆使する若者が、神々の国・熊野へ旅をする。横浜から熊野まで。(日常と非日常)(正気と狂気)の間で揺れるヒロイン。
宇佐見は、作家、中上健次のよき愛読者だという。熊野は、和歌山県(新宮)出身の中上が、好んで書いた、神々の棲む地である。
インターネット・SNSの電子空間を抜けて、自然の、神々の棲む熊野へ、旅するというラストシーンが、実によく描けている。宇佐見りんは、処女作で播いた種を、育て、掘り下げ、長い、長いもうひとつの旅へと出発したところだ。

第二創作集『推し、燃ゆ』(芥川賞受賞)
パソコンもできない。メールもできない。インターネットもできない。スマートホンもできない。もう、時代遅れの、「死んだ人間」である私が、実に面白く読めてしまった作品である。

舞台は、現代の、インターネットのSNSの時代である。「推し」もわからなかった。スターにあこがれる、スターを推しているファンである、という意味。

60年代(昭和)の石原慎太郎の小説の舞台は、湘南。ヨットにのる青年たち。海(自然)と人間。荒れ狂う、青年たちの日々。「太陽族」と呼ばれた。
『推し、燃ゆ』の舞台は、インターネットの、電子空間。ネットが炎上する。アイドルを追いかけて、そこに自らの感情を注入し、一喜一憂するヒロイン。
冒頭は「推しが燃えた。」で始まる。そこに、物語のすべてがある。短く、たたみかける、文章が、いい。
最後は「当分はこれで生きようと思った。体は重かった。綿棒をひろった。」で終わる。まるで、カミューの「異邦人」のような簡潔な文体。余分なものは何もない。
ブログの時代。ブログの言葉。いや、宇佐見りんの書く言葉は、ブログの言葉を離れている。言葉をコントロールしている。(時代)は変わる。時は流れる。風俗も言葉も変わる。しかし「文学」の「言葉」は死んでいない。
宇佐見は、はじめて、ブログやインターネットの言葉を「文学」の「言葉」に変換した、はじめての作家であろう。
同時代を生きているが、やはり、宇佐見は、新人類である。詩人の「最果タヒ」の言葉も新しいが、宇佐見の言葉も新しい。二人とも、言葉の自由度が高い。一人の作家・詩人の言葉が「同時代」を代表する時は、意外にも短い。だから困難はある。
宇佐見や最果の作品が、どんな世界を見せてくれるか、楽しみである。最果タヒや宇佐見りんには「言葉の向うのコトバ」を書ける詩人・作家になってほしい。

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• 火曜日, 1月 12th, 2021

新型コロナ禍の時代である。
セイカツのリズムが随分と変わった。早稲田の、稲門会の「読書会」がなくなった。市民のための「読書会」がなくなった。(他人の声・感想を聞くのは、実に、楽しい)
「読書」は、もちろん、独りで行う行為である。(読めば話したくなり、書いてみたくなる)
ステイ・ホーム、(家にいろ)(外へ出るな)ソーシャル・ディスタンス(距離をとれ)三密を守れ(密集・密接・密閉)。マスクに、手洗いに、うがいの実行。コロナを予防するために、日々の楽しみのほとんどが消えた。「読書会」「映画会」「ゴルフコンペ」「囲碁の会」「散策の会」「新年会・忘年会」「暑気払い」「カラオケの会」「旅」。
ヒトと交流するニンゲンである。ほぼ独居状態で、セイカツしている身であるから、一日に、一回も他者と会話をしない日がある。もっぱら、自分自身との対話である。友から、電話がくると、ついつい、長話になる。人恋しいのである。言葉を忘れそうになる。気がつくと、独り言を言っている。

読むこと、書くこと、歩くこと、瞑想すること、私の一日は、四つの柱でできている。
ところが、夏の猛暑で、熱中症になって、不眠と食欲不振と自律神経失調症が重なって、三ヶ月ほど、読む、書く、歩くの三つの柱が崩れた。残ったのは、呼吸法と、瞑想法だけとなった。
軽い老人ウツが来た。コロナウツの一種か?
毎年、八月に、一年間に読んだ「本」を「読書日記」として、その感想を書いているが、今年はその原稿を書けぬまま、十二月になった。
涼しくなり、寒くなり、どうやら、不眠も解消した。しかし、眼が弱くなった。長時間「本」を読むと、眼がハレーションを起こして、空間が、風景が、活字が歪む。困ったものだ。もう、なかなか、長いものが読めない。俳句(芭蕉)や和歌(西行)を読んで、楽しんでいる。

エネルギーの低下は、そのまま「生」の質の低下である。

もう、言葉の向こうに、コトバがある「本」しか、読みたくない。いったい、何人の作家が、思想家がそんなコトバを書いているのか?数えるほどしかいない。

ひとつの作品に魂を震撼させられると、その作家の書いたすべての作品を読みたくなる。そして、最後に(死んだ人なら)「全集」(著作集・作品集)を読みたくなる。(作品・随筆・日記・手紙)
私の本棚には、今まで、50年間に読んできた「全集」(著作集)が並んでいる。
ドストエフスキー全集、エドガー・アラン・ポー、ヴァレリー、マラルメ、バタイユ、ユング、フロイド、エリアーデー。弘法大師(空海)、北村透谷、夏目漱石、志賀直哉、梶井基次郎、小林秀雄、中原中也、井筒俊彦、宮川淳、須賀敦子、吉本隆明、埴谷雄高、(安部公房、大江健三郎、島尾敏雄作品集)等々・・・。
秋山駿は、「全集」はないが、ほとんどすべての「本」を読んでいる。石原吉郎も、池田晶子も。古井由吉も(現代の最高の作家)(私)の書くコトバの源泉である。

この十年では、三~四年かけて、井筒俊彦全集と、須賀敦子全集を、隅から隅まで読んで、感動した。二人とも、言葉の向こうに、コトバを発見した人であった。

いつも、誰かの「全集」を読んでその人のコトバと共に、生きている。さて、これから、誰の「全集」を読んでみようか?

「ベンヤミン・コレクション」全七巻を入手した。平均600ページもある「全集」?である。
眼が弱ってしまった(私)に、これだけの分量が、読めるだろうか?ベンヤミンの思考を追って、言葉の向こうに、コトバを発見したいと念じている。
(私)が読む、最後の「全集」になるかもしれない。

1.「宇宙と宇宙をつなぐ数学」IUT理論の衝撃(角川書店刊)加藤文元著
2.「空海の行動と思想」(高野山大学刊)静慈圓著
3.「母の前で」(岩波書店刊)ピエール・パシェ著
4.「江藤淳は甦える」(新潮社刊)平山周吉著
5.「プシュケー」(他なるものの発見Ⅱ)(岩波書店刊)ジャック・デリタ著
6.「夏物語」(文藝春秋刊)川上未映子著
7.「ていねいに生きて行くんだ」(弦書房刊)前山光則著
8.「そのうちなんとかなるだろう」(マガジンハウス刊)内田樹著
9.「恋人たちはせーので光る」(リトルモア刊)最果タヒ著
10. 詩集「花あるいは骨」(土曜美術社出版販売刊)加藤思何理著
11.「宮沢賢治 デクノボーの叡智」(新潮選書刊)今福龍太著
12.「海と空のあいだに」石牟礼道子全歌集(弦書房刊)
13. 詩集「QQQ」(思潮社刊)和合亮一著
14.15.「荒川洋治詩集」(続)(続続)(思潮社刊)
16.「法華経」上・下刊 サンスクリット原典現代語訳 植木雅俊訳
17.「ベンヤミン・コレクション①-近代の意味」(ちくま学芸文庫刊)
18.「老人と海」(新潮文庫刊)ヘミングウェイ著
19.「日はまた昇る」(新潮文庫刊)ヘミングウェイ著
20.「武器よさらば」(新潮文庫刊)ヘミングウェイ著
21.「ヘミングウェイ全短編集②」(新潮文庫刊)
22.「ライ麦畑でつかまえて」(白水社刊)サリンジャー著
22.「フラニーとズーイ」(新潮文庫刊)サリンジャー著
23.「山岸哲男詩集」(土曜美術社出版販売刊)
24.「海を撃つ」(みすず書房刊)安東量子著
25.「岸辺のない海 石原吉郎ノート」(未来社刊)郷原宏著
26.「ネーミングは招き猫」(ダビッド社刊)安藤貞之著
27.「一色真理詩集」(土曜美術社出版販売刊)
28.「川中子義勝詩集」(土曜美術社出版販売刊)
29.「鏡の上を走りながら」(思潮社刊)佐々木幹朗著
30.「純粋な幸福」(毎日新聞出版刊)辺見庸著
31.「ベンヤミン・コレクション②-エッセイの思想」(ちくま学芸文庫刊)
32.「樋口一葉を世に出した男-大橋乙羽」(百年書房刊)安藤貞之著
33.「ベンヤミン・コレクション③-記憶への旅」(ちくま学芸文庫刊)
34.「時間はどこから来て、なぜ流れるのか?」(講談社ブルーバックス刊)吉田伸夫著
35.「ベンヤミン・コレクション④-批評の瞬間」(ちくま学芸文庫刊)
36.「22世紀の荒川修作+マドリン・ギンズ 天命反転する経験と身体」(フイルムアート社刊)編著者 三村尚彦・門林缶史
37.「ベンヤミン・コレクション⑤-思考のスペクトル」(ちくま学芸文庫刊)
38.「続・全共闘白書」(情況出版刊)
39.「ベンヤミン・コレクション⑥-断片の力」(ちくま学芸文庫刊)
40.「サピエンス全史」上・下巻(河出書房新社刊)ユヴァル・ノア・ハラリ著
41.「21Lessons」(河出書房新社刊)ユヴァル・ノア・ハラリ著
42.「詩への小路」(講談社文芸文庫刊)古井由吉著
43.「古井由吉-文学の奇蹟」(河出書房新社刊)
44.「ベンヤミン・コレクション⑦-<私>記から超<私>記へ」(ちくま学芸文庫刊)
45.「心教を以って尚と為す」(敬文社刊)小泉吉永著
46.「読書の愉しみ」壬生洋二著

1.「宇宙」と名の付く「本」なら、なんでも読みたい。なぜ?結局、人間は、宇宙を知らなければ、自分たちの「存在理由」も発見できないから。
疑問、問いが発せられるなら、必ず「解」=「答え」はある。
中学・高校の「数学」は嫌手であった。「零の発見」を読んでから、「数学」の面白さに驚いた。超難解な、長年解けなかった「フェルマーの最終定理」や「ポアンカレ予想」についての解説書を読んで興奮した。まだ誰も解けぬ「ABC予想」に挑む、数学者・望月新一が提唱した「未来からきた論文」を(IUT理論)数学者、長年、望月の話を聞き、論文を読み込んできた、加藤文元が一般向きに、解説した「本」。専門の数学者たちにも、わからないという、超難解な論文・理論。なぜ?わからない?今までの、数学に使用されたコトバとはまったく異なるコトバで、書かれている。国際的(国と国)という。望月のコトバは、「宇宙際」である。つまり、宇宙と宇宙をつなぐコトバ・発想で、書かれている。一読したが、十分の一もわからない。再度、挑戦したい、スリリングな「本」である。

2. 静慈圓は、学僧である。しかも「行動の人」である。高野山大学大学院で、サンスクリット語を教わった。徳島県出身。自ら「曼荼羅」をも描いた。何よりも、中国に渡って、長安までの道を、空海が歩いた道を歩いて、(空海の道)をひらいた行動の人。中国と日本の仏教の架け橋を創った僧である。本書は、空海の書いた原文を読んで、空海の思想と行動を読み解いたテキスト。ヒマラヤ・チベットで、様々な曼荼羅を発見し、長安への2400キロの道を歩き(空海ロードと命名)伝燈阿闍梨職位を受ける。高野山清涼院住職。

3. なぜ?何が、思想家・作家・辺見庸のココロを震撼させたのか?辺見庸が、「偉大な本である」「私の聖書である」と絶讃しているので、私も読んでみた。
なるほど、ここには、一切を、自分のコトバで考える、思索者がいる。100歳の母(ユダヤ人)を前にして、見る、語る、思考する、その「文体」が、実に見事である。
モノを考えるということが、どういうことか、「本書」は教えてくれる。やはり、作家は「文体」で考える人種である。散文、記事、レポート、小説、詩、評論を書いている、さまざまな「文体」を創出している辺見庸だからこそ、「本書」を読み解けた。

4. 江藤淳・吉本隆明の時代があった。(右と左であるが、実に仲が良かった)
江藤淳が自死して、もう20年になる。堀辰雄(結核)や太宰治(自殺)を否定した、生命力の、力の人、江藤淳(自らも結核)その江藤淳が、(自殺を否定)妻に死なれ、自らも病んで、これは、もう自分ではないと、自殺した。
江藤淳の思想とは、いったい何だったのか?
「本書」は、編集者として、江藤淳の近くで、日常を知った者が、思想家・江藤淳を、(評論家、裸の人間)考察した、力作である。783ページの大作。

5. 若い頃、デリタの「グラマイトロジーについて」と「差異とエクリチュール」に圧倒された。いったい、これは、何だ?と。碩学・井筒俊彦を唸らせた、デリタの考察。「本書」は、「脱構築の人」デリタの、中期の代表作12のエッセーを収めたもの。私にとって、うれしかったのは、デリタがアフォリズムを書いていた事実である。
「不時のアフォリズム」そうか、デリタも、アフォリズムを最高のコトバと考えていたか。感動、感謝を。

6. 「夏物語」を読む。作家は、結局、書く言葉がどれほど深くにまで届くかに尽きる。誰の言葉でもない、誰でも使っている言葉が、作家の手によって、オリジナルの言葉になる。そして、作家は、言葉の向こう側にあるコトバをも、表出しなければ、本物ではない。川上未映子も、そのことを直観している、数少ない作家の一人であろう、と思う。(詩)からスタートしたのも、ひとつの要因であろう。「夏物語」は、著者がはじめての1000枚の、長篇小説、大作である。読むのが辛くて、2~3回中断した。その理由は?
①私の体調不良、長時間の読書に眼が耐えられない。ハレーションを起こして、空間、風景、文字が歪む。
②「乳と卵」の続篇であるような「貧乏物語」の前半。主人公の原風景。父の不在。貧乏という桎梏!!母系家族。
しかし、単なる人情咄が存在論へと至る後半は、川上が「言葉」から「コトバ」に至る、真骨頂である。この世は生きるに値するのか?で、子供を生む世界であるのか、ないのか?子供は、どこから何から生まれてくるのか?
川上は、近松門左衛門のような関西の(語り=物語)の系譜の上に位置している。伝統をしっかりと継承している。同時に、(考える)という思考の核をも持っている。彼女の特質と心性であろう。
読み終えて、最後の四行がココロの中に響き続けた。
「その赤ん坊は、わたしが初めて会う人だった」
見えるか?川上未映子のコトバが!!

7. 「ていねいに生きて行くんだ(本のある生活)」(熊日文学賞受賞)
日本人には、随筆・随想・エッセイがよく似合う。大作品ではない。日々の思いのあれこれを、自然に、自由に書き綴る。批評眼を光らせて。昔から「徒然草」や「枕草子」という傑作がある。本書は、前山光則が、出版社のコラムページに、書き綴った二百五十余篇の中から、70篇を抽出したものである。日々の出来事・旅の思い出・考え、感想などを「本」にからめて、自由に語っている。
島尾敏雄、石牟礼道子、種田山頭火、淵上毛錢、若山牧水、中原中也と、文学者・詩人・歌人との出会い・邂逅も、いかにも前山光則らしい。
視点、立ち位置が、とても、ヒューマンである。等身大のニンゲンとして、読み、書き、語るその姿勢が、人を、やさしい気持にさせてくれる“人柄“が実にいいのだ。「ていねいに生きて行くんだ」(淵上毛錢の詩の一節)というタイトルにも、作者のココロのあり方が滲みでている。
熊本で高校教師として、セイカツしながら「文学」に生きてきた前山光則である。地に足をつけて。
昔、大学時代、ある出版社で編集のアルバイトをした。その時に、同じアルバイト学生の前山光則に会った。笑顔がよく似合った。当時から「島尾敏雄」を論じて、書く「文学青年」であった。あれから、50余年の月日が流れた。一昨年、ガンで、最愛の妻を亡くした。食事も咽喉を通らぬほど落ち込んで、大丈夫かなと思ったが、こうして「本」を出版するエネルギーを持つに至った。何があっても、書いてこそ「文学者」である。まだまだ続く、エッセイ。楽しみだ。行けるところまで行って下さい。旧友文学仲間の重田昇より。

8. 「そのうちなんとかなるだろう」
内田樹も、終に「自伝」=「私の経歴」を書くようになったかという深い感慨がある。内田樹の「本」は、文庫本と新書で十冊ほど読んでいる。
「レヴィナスの愛の現象学」「私家版・ユダヤ文化論」が内田の思想を代表していると思っている。翻訳者・武道家・大学教授、そして哲学する人である、内田樹。
内田の思想は「師」を得るところからはじまる。合気道の師「多田宏」宗教者の、思想家の師「レヴィナス」
「師」のコトバを翻訳し血肉とする。
つまり、松のことは松に習え、竹のことは竹に習えという形から入る手法である。松のコトバを聞く、竹のコトバを聞く、石のコトバを聞く、という手法は、一番の学習方法である。そこから、自分自身の思考、コトバが紡がれてくる。
「そのうちなんとかなるだろう」(タイトル)は、芸人・歌手の植木等の歌の文句である。「本」の帯には、七つの事件が記されている。
①いじめが原因で小学校登校拒否
②受験勉強が嫌で日比谷高校中退
③親の小言が聞きたくなくて家出
④大検取って東大に入るも大学院3浪
⑤8年間で32大学の教員公募に不合格
⑥男として全否定された離婚
⑦仕事より家事を優先して父子家庭12年・・・
本書は、出版社からの、インタヴュー(語り下ろし)という手法で作られた。(後で加筆)
いわば、小説で言えば「私小説」である。自らの負・傷・苦・悲を語って、昇華させる手法である。七つの事件のどれひとつを取っても、気が滅入って、ココロが折れそうな事例である。おそらく、その瞬間には、内田も頭をかかえて、苦悩したにちがいない。しかし、すべてを、クリアして、生き延びている。それらを支えたものが(合気道)と(宗教哲学=レヴィナス)であったのだろうと推察する。
内田樹が今の内田樹になった理由が、この本の中にはぎっしりとつまっている。(行動=身体)と(思索=精神)二つの歯車を廻し続ける内田樹である。 

9. 「恋人たちはせーので光る」
ここではない、どこかへ、連れていってくれるのが、最果タヒの詩を読む、理由とスリルである。踊る最果タチのコトバを読むのは、実に、楽しい。発行された、すべての詩集に目を通している。
ただ、少しだけ、心配がある。イメージ、発想、直観がいつか、枯れてしまわないだろうか?自己模倣に陥ってしなわないだろうか?(現実)を踏みはずしてしまわないだろうか?コトバの世界・宇宙が収縮してしまわないだろうか?もちろん、(私)の心配など、最果タヒには、一切、関係がない。
「ぼくは一人きりで生きて、神様になろうかと思っている」(座礁船の詩)
「本当は生まれる前から知っていて」(人にうまれて)「呪いたい」「世界を恨んでしまいそう」「言葉は通じないものだ」最果タヒは、確実に、「詩の言葉」から「コトバ」へと移行している。
天才・ル・クレジオになってしまうかもしれない、最果タヒ。

10. 詩集「花あるいは骨」
加藤思何理の詩は、いつも迷宮へとヒトを誘う、あらゆる言葉の幻種を、交配させた詩の言葉に満ちている。感性、発想、心性が、日本人離れしている。
私は、加藤の詩を読むといつも、「バタイユ」を思う。リアリズムでは、読めない詩なのに実に、リアルである。いわば「メタファー詩」である。言葉が、コトバに変化している。「不死の人」ボルヘスを思わせる。七冊目の詩集である。あらゆる時空を、自由自在に走りまわる、そんな詩風は、「来たるべき書物」(モーリス・ブランショ)を期待させる。日本人の読者には、なかなか受け入れられないかもしれない。しかし、長い眼で見ると、一人、二人と、読んで、論じてくれる人が増えていく、そんな詩であると思う。自分自身を信じて。精進する(釈尊)

11. はじめて、今福龍太の「本」を読む。子供から大人まで、宮沢賢治の詩ほど、多くの人に、読まれた(詩)はないだろう!!
市民の読書会で、賢治の「銀河鉄道の夜」を読んでみた。講師として、三十人ほどの、作家たちの作品を選んで、読んできたが、驚いたことに、参加者の大半が、賢治を読んでいて、そのうち半分が、宮沢賢治の故郷、花巻を訪れていることだった。
生前は、詩人たちや、数百人の読者にしか、知られなかった「詩」が、今は、国民の「詩」になっている。
もちろん、専門の詩人、評論家たちも、さまざまな、読み方をしていて、詩の深さを物語っている。宗教と科学と詩が合体したのが賢治の詩、思想であるから、簡単で、やさしい言葉の奥にも、いつも、深いコトバが隠れている。
入沢康夫・天澤退二郎・吉本隆明などの「宮沢賢治論」とも、一味ちがう、今福の論考は、視点は、私には、実に、新鮮だった。こんなにも、じっくりと、楽しく読めた「本」は久し振りである。何よりも、ケンジの詩と匹敵する地の文章が身に沁みた。ケンジの魂の存在まで感じられた。愚者=デクノボーの思想は、今福の発見であろう。だから「読書」はやめられない。感謝。

12. 「苦海浄土」を書いた石牟礼道子の言葉の根は、いったい、どこにあるのだろう?そんな疑問が、私の中にあった。
「海と空のあいだに」は、石牟礼道子の全歌集である。670余首が収録されている。唸った。

いつの日かわれ狂ふべし君よ君よ その眸そむけずわれをみたまえ

雪の辻ふけてぼうぼうともりくる 老婆とわれ入れかはるなり

おとうとの轢断死体山羊肉と ならびてこよなくやさし繊維質

短歌の中に、石牟礼の、心性、感性、思想の芽が表出されていた。(狂)の世界。どこにも(私)の場所がないという心性。「石」に感応する心。(苦)とともにある感情。若くして、ニンゲンの世界に(苦)と(悲)しか見ていない。もちろん、石牟礼は、短歌の言葉の向こうに、「コトバ」を見ている。その「コトバ」が見えなければ石牟礼の言葉は、わからない。
短歌の世界と「苦海浄土」の世界で、コトバは、共振していたのだ。詩文から散文へと、移行しても石牟礼の見るものは、ちっとも変わっていない。解説は、生前、石牟礼道子と親交のあった、文芸評論家・前山光則である。声に、言葉に、生身に、ていねいに寄り添った文章は、正に(魂の交感)を見る思いの、ココロのこもったものであった。

13. 「QQQ」和合亮一の詩集を読む。
来年の三月で、3・11東日本大震災から、もう、十年になる。大地震、大津波、原発事故と人類が経験したこともない大惨事・大事件であった。詩人・和合亮一は、大事件、大災害、大凶事と同時的に、ツイッター詩を書いた。いや、手が動いた。コトバが降りてきた。「詩の礫」である。「詩の黙礼」「詩の邂逅」の三部作を出版した。あれから、もう、九年の月日が流れた、その時は、当然、苦しい、辛い、悲しい、しかし、その後も、苦しい、辛い、悲しいは続いている。
あの時、私は、ニンゲンの生き方、その存在理由も、一切が変わる変わらなければならないと思った。
狂おしい、意識が、ゼロ・ポイントに陥った。そこから、どんなコトバが誕生した?そんな思いで、和合の「QQQ」を購入して、一読した。感想は、複雑で、微妙なものであった。理由は?
今、また、世界中を騒然とさせる新型コロナ・ウイルスが猛威をふるっているからだ。ふたたび、人間の原理、思想が問われている。
(ニンゲンに何が出来る!!)和合のように、同時進行で、この新型コロナ禍のニンゲンを書くことができるか?誰が書いている?毎日、毎日、新聞、テレビの放送、報道は、確かにある。しかし・・・それは・・・おそらく、ニンゲンの根源を問うコトバではない。
さて、大災害の時は、もちろん苦しいが、その後も、また苦しいのだ。和合の新作を読んで、ココロが疼いた。読むのが辛い。大きな、大きな、問いが和合に来るのだが、「詩」のコトバは、それに答えることが出来ない。もう、「詩」の完成など、どうでもいいのだ。ニンゲンの、来たるべき姿を、和合よ、啓示してくれ。

14.15. (現代詩作家)と名乗っている荒川洋治詩集を二冊読む。あれから、今、荒川洋治は、どんな現代詩を書いているのか?と。
同時代人である。同世代である。同じ大学であった。若い頃「水駅」には大きな衝激を受けた。まるで、純粋詩、純粋言語だ、ポール・ヴァレリーの言うところの。見事な詩集だった。いったい、どこで、そんなコトバを身につけたのだろう?これから、どうするのだろう?何を書くのだろう。
文学から、遠く離れて、セイカツしていたので、その後の、荒川洋治は、読んでいない。
現代に、詩人は、生きられるのか?詩を書いて、セイカツできるのか?(中原中也は、父が医者。ほとんど仕送りでセイカツしていた!!宮沢賢治は?父が商人だった。学校の先生は、少し経験したけれど、親がかりのセイカツ。)
荒川の詩「ライフワーク」によると、新聞や雑誌に、書評を書きエッセイを書き、(年間二百本も)セイカツしていた。詩集の出版社を創って(紫陽社)、ラジオのパーソナリティを勤めて、大学の先生になって、セイカツしながら「現代詩」を書き続けた。
荒川のエッセイは、視点が面白い。「文学は、実学である」なるほど。書評も、アッと驚く発見があって、実に、スリリングなものを書く。そして、「詩」は、あらゆるものを素材にして、書き綴っている。詩「美代子、石を投げなさい」は、荒川洋治が、なぜ、(現代詩作家)を名乗るのか、その理由を解きほぐしてくれる傑作だ。俗も聖も、世間も政治家も、現代詩作家・荒川洋治の手にかかると、クスッと笑えてしまい、笑いがそのまま歪みになるー複雑な感慨がある。
特に「父」や「母」をテーマにした詩は、今まで、誰にも書けなかった視点と切り口で、肉親を分解している。唸った。こんな書き方をして大丈夫なの?と。詩の言葉が、誰にでもわかる言葉なのに、いつのまにか、知らない時空に連れ出されて荒川にしか見えない「コトバ」で終ってしまう。なるほど、詩人である。現代詩作家。二週間ほど、二冊の詩集をじっくりと時間をかけて熟読した。(新型コロナ禍の中で)もう、荒川も古希になった。日本芸術院賞、思賜賞を受賞した。(現代詩作家)おそるべし。

16. 「法華経」
仏典の大半は、中国から、漢文として(漢字)無文字の日本へ入ってきた。中国では、サンスクリット語から中国語に翻訳されたものである。(インド人僧・善無畏、中国僧・三蔵法師玄奘などが苦労して翻訳)日本では、中村元が「ブッダのことば」「ブッダの最後の旅」として、釈尊の経典を、サンスクリット語から日本語に翻訳している。経典の王さまと呼ばれている「法華経」を、サンスクリット語から現代文に翻訳した、植木雅俊は中村元の弟子である。釈尊の説いた教え、実践が、誰にでもわかる、日本語として翻訳された。文学的な物語として、読んでも、実に面白い。

17.31.33.35.37.39.43
いつか、本腰を入れて、思想家・ヴァルター・ベンヤミン(ドイツ)を読みたいと思っていた。全七巻、平均600ページの大著である。三年、四年かけて、読み込みたい。いつも、誰かの、全集を読んでいる。ドストエフスキーから、須賀敦子まで。約二十人ほどの、全集を読んできた。
「(私)記から超(私)記へ」タイトルを見ただけで、ゾクゾクする。さて、全巻、読み切れるか?

18.19.20.21
大学(稲門会)の「読書会」の講師をしている。ヘミングウェイを読もう。「老人と海」。「映画会」では、「武器よ、さらば」を観た。短かい、動詞と名詞の文章で、スポード感があって、心地良い。文章と行動の人・ヘミングウェイ。日本の開高健が似ている。

22.
今、なぜ、サリンジャーなのか?60年代に、世界中で、一世風靡をしたあのサリンジャーが、村上春樹訳で帰ってきた。村上春樹の作品の根には、ボガネットやフィッツジェラルドなどのアメリカ文学がある。村上春樹は小説の休暇の折りに、翻訳で文章を鍛えている。
庄司薫の「赤頭布ちゃん、気をつけて」(芥川賞)も、当時、サリンジャーの物真似だと随分騒がれたものだ。サリンジャーの影響は、実に大きい。

23. 
「山岸哲男」は、父をなくし、母をなくし、孤児となった。(まるで川端康成のようだ)そして、文学・詩にむかう。「男と女の」詩ばかり書いている。吉行淳之介、渡辺淳一のように。
なるほど、世の中には、男と女しかいない。男と女の現代の風景詩とでも呼べばいいのか?少し、物悲しい詩風ではなるが・・・。

24. 「海を撃つ」
3・11から、すでに、10年になろうとしている。なかなか、3・11を表現し切った作品には、お目にかかれない。余りにも、余りにも、大きな、大惨事であったから、ニンゲンの言葉が追いつかない。
「海を撃つ」は、偶然、原発事故のあった、福島へと移住した、女性の視点で、現在進行系の、さまざまな事象、現象を追った、地に足のついた記録と考察である。ニンゲンの裸形を追って。安東量子が、偶然、投げ込まれた、原発事故の起きた(現場)で、進化している。その言葉が、実に、重い。

25.
詩人。新聞記者、文芸評論家。リアルタイムで、最高の詩人、石原吉郎の詩を読み続けてきた、郷原宏(H氏賞受賞詩人)による、石原の評伝である。
シベリアのラーゲリーで八年間、苛酷な労働と非人間的な扱いのもとで生きてきた、拘留生活。海を渡って帰国。日本の日常に還っても、ラーゲリーでの傷は疼き続ける。日本語を学び直すために、(詩)を書いた石原吉郎。
あの強度のつよい、文体、詩語はいったい、どこから来たのだろう。そんな長年の私の問いに、「本書」の郷原宏は、見事に答えてくれた。「聖書」を読んだ石原吉郎。「いのちの初夜」(北條民雄)を生涯の愛読書とした石原吉郎。
詩の芥川賞といわれるH氏賞の受賞、詩人会会長、方々での講演、名声は日毎に高くなっていくが、ココロの虚無は、ますます深くなっていった。裸のニンゲン石原吉郎の形姿と詩人の頂点にまで昇りつめた石原吉郎のコトバ。そのふたつの姿を、詩人・郷原宏は、「評伝」として、書きあげた。(石原吉郎)そのものを知る力作であった。

26. 
若き日に、大岡昇平の「野火論」を書いた安藤貞之である。早稲田で、国文学を学ぶ。芥川賞作家(黒田夏子)NHKアナウンサー(元)下重暁子は同級生である。「ネーミングは招き猫」は、単なるコピーライターの「本」ではない。
日本の古典から海外文学まで読み込んだ。「言葉」をめぐる本である。

27.
詩人の中の詩人である。詩人にしかなれない心性をもっている。「父と子」の地獄の関係。コトバの迷宮の中に棲んでいる一色真理。一言も口を訊かない小学生の一色真理。
鎌倉時代の禅僧・明恵は見た夢を、生涯「夢の記」として、書き記した。「一色真理の夢千一夜」は膨大な夢の数々にあふれている。詩の転期は、やはり「純粋病」(H氏賞受賞)であろう。どこまでも、どこまでも、ココロの一番深いところへと降りていくコトバ。
解説を伊藤浩子が書いている。心理学を学問としたフロイドの理論を使って。しかし、実は、一色の詩は、ユングの世界である、と私は思っている。ある会合の度で(ある人を偲ぶ会)一色真理は、初期の詩集と詩の雑誌をプレゼントしてくれた。「戦果の無い戦争と水仙色のトーチカ」「貧しい血筋」等々。やはり、初期詩篇は、まだ、一色真理のコトバになっていない。「純粋病」からが、詩人・一色真理のコトバだ。
なお、「歌を忘れたカナリヤは、うしろの山へ捨てましょか」は、半自伝的作品。全共闘運動の息吹きが、鳴り響いている。闘争家・革命家の一色真理がいる。越えれば発狂するような、危険なコトバの上を歩き続けている一色真理。

28.
書評欄を見て下さい。キリスト者の詩人。

29. 「鏡の上を走りながら」佐々木幹朗。
ほぼ半世紀ぶりに、佐々木幹朗の詩を読んだ。実に、なつかしい名前。同世代である。団塊の世代。全共闘世代。同じ年。
昔、一度だけ、生身の佐々木幹朗に会っている。いや、見たことがある。慶応大学の三田で、石原吉郎の講演会があった。石原は、全共闘世代によく読まれていて、スターであった。パネラーとして、詩人の清水昶と佐々木幹朗が招かれていた。私は、「三田新聞」の編集長、中田一男に呼ばれて、何か、質問をしてくれと頼まれていた。で、「北條民雄の『いのちの初夜』がなぜ、石原さんの生涯の愛読書であるのか、訊いた。北條民雄は、ハンセン氏病を患った作家・川端康成に発見され、認められ、たった23歳で死んだ。天才小説家。たった2年半の執筆生活。佐々木幹朗は、石原吉郎の詩の解説と注釈をした。詩人というよりも、全共闘の、闘士という風格、風貌をしていた。
さて、詩集「鏡の上を走りながら」であるが。
①想像力と技術力を駆使した詩よりも、3・11の現場に出かけて、被災者の話に耳を傾けて、聞き書きした詩が面白かった。こんな詩を、30作・50作と作れば柳田国男の「遠野物語」になるのにと思った。(傾聴の力は、僧たちの説法よりも強い)
②もうひとつ「もはや忘れてしまった平成という時代の記憶」(詩作品)四十三歳から七十一歳までの自伝的記録である。まったく詩らしくない詩である。永井荷風の日記「断腸亭日乗」のような(事実)のもつ力を感じさせた。「何もしなかった」「母が死んだ」「父が死んだ」
そうか。そのように生きてきたのか。そんなことがあったのか。なるほど。やっぱり型に入ったサラリーマンとしては、生きてゆけなかったか。旅へ。海外へ。山へ。ノマドのようなセイカツ。活字の向う側にある、佐々木幹朗の姿を眺めながら、あれから、50年、無常迅速であったな、と、感慨が深まった。

39. 秋山駿が死んで、古井由吉が死んで、もう、声を聴きたい、文章を読みたい作家がいなくなったと思っていた。辺見庸がいた。
小説、エッセイ、紀行文、評論、そして「詩」を書いている。なぜ、辺見庸は、多様なコトバを書くのか?そのスタイルでなければ、書けないものがあるから。私は、そう考えている。
辺見庸が解体されていく。辺見庸のコトバが分解されていく。つまり、辺見庸もニンゲン。そして、老いていくという(事実)。溶けていくのは、辺見のコトバか精神か?この詩集は、その序曲か?世界が、ニンゲンが壊れていくから鏡としての、作家・辺見庸も壊れているのか?(作家に引退はない!!)
(老い)三島由紀夫が、もっとも嫌いおそれてもの。(老い)書けなくなった川端を自殺へと追いこんだもの。(老い)武田泰淳を「目まいのする散歩者」にしたもの。辺見庸もその渦中にいる。

32. 「樋口一葉を世に出した男 大橋乙羽」安藤貞之著
明治の文化の香りが、文章から数多くの写真から、立ち昇ってくる見事な「本」である。評伝である。「大橋乙羽」とは、いったい、何者か?が「本」の主題である。明治の、日本初の編集者の正体を求めて、当時の、本、雑誌、写真、資料や文献を収集して、十数年、それらが語るところのものを分析し、資料の欠けたところは、想像力という橋を架けて、推理して、明治の研究者しか知らない(?)「大橋乙羽」という男を探求した力作である。
安藤貞之は、早稲田で国語・国文学を学び、大岡昇平の「野火論」という評論を書き、卒業してからは、美術・デザインを学び、会社の名前や商品の名前をつける、ネーミングの仕事、コピーライター、編集者、エディターとして、活躍をした。会社退職後は、いつか来た「文学」の道に戻って、「大橋乙羽」の研究に十数年を費やした。編集者、山形・米沢出身の小説家・博文館という出版社の専業家、政治家、文人、作家たちを写した写真家、美術家、装幀家、そして、旅行家と多面的な顔をもつ男であった。
実は、「本書」は、作家・安藤貞之の死後出版された。ガンであった。病床にあっても、なお、書き続けて、妻や子供たちの助けもあって「一冊の見本」を見て、安藤は、旅立った。「日本経済新聞」「東京新聞」大橋乙羽の出身地でもある山形県の新聞でも、書評された。好評であった。
早稲田のOBたちの集い「稲門会」では「読書会」(講師-重田昇一年四回)を行っている。安藤貞之もその中心メンバーであった。一言半句を探求して、いつも、見事なレポートを持参してくれた。「草枕」とは何か?と。「読書会」の後で「重田さん、少し文学の話しませんか」安藤さんとの対話では、どこまでも、いつまでも、終りのない、楽しい「文学談」であった。最後の手紙には、私の詩「何?誰?何処?」を病床で毎晩読んでおります。重田さん詩が、よくわかるようになりました。との手紙。「(無)から来た(私)という賽子を今日も振り続けている」ではじまる宇宙の中のニンゲン(私)を歌った詩である。
多面的な顔をもつ男・大橋乙羽を語りながら、実は、自分の仕事の姿、その意味を、探り続けていたのではなかったか?一人でも多くの人に、この「本」を読んでもらいたい。(合掌)

34. 「時間はどこから来て、なぜ流れるのか?」吉田伸夫著。
「時間」と名のつく「本」なら、なんでも読んでみたい。少し前に「時間は存在しない」というカルロ・ロヴェッリの「本」を読んだ。どうやら、時間は、人間の意識が生みだすものらしい、と。本書では、時間は、過去から未来へと流れていないという主張が展開されている。結局、人間の意識が、その働きが時間を感じてしまう、中心になる。ニュートンの、空間、時間「絶対時間」から、アインシュタインの「時空」が合体した、相対性的な「時間」。時間、空間、意識、そしてニンゲン(私)不思議な現象である。

36. 
天才・荒川修作が死んで、もう、何年になるのだろう?アラカワの「私は死なない」「天命反転」という命題は、今どうなっているのか?誰が引き継いでいるのか?22世紀に(アラカワ)は、どのように生きているのか?
岡山の奈義へ、岐阜の養老天命反転地へ、三鷹の天命反転住宅へと足を運んだ。そして、アラカワの「本」を眺めたり読んだりしている。紀行文風な「アラカワ論」を書きはじめている。

38.
もう、約50年になる。「全共闘」の運動から。あれから、それから、闘争者たちは、どのように、生きてきたのか?75問のアンケートから、それぞれが自由に選んで解答している。456人超の回答が集った。深い、深い溜息。無常迅速の月日の中で・・・。

40.41 「サピエンス全史」
世界中で1000万部以上、売れた「本」。なぜ?著者は、イスラエル人。歴史学者。ユヴァル・ノア・ハラリ氏である。
①認知革命 ②農業革命 ③人類の統一 ④科学革命
「歴史」いわゆる「歴史」を語る視点ではない。新しい切り口。で、モノの考え方、見方が、今までとちがってくる。その発想が、おそらく、多くの読者を刺激したのだろう。新しい(知)
「21Lessons」に、面白い文がある。知人に誘われて、瞑想をはじめた。先ず、呼吸から。吸っては吐く呼吸法。その時、私は、私のことを何もしらないと感じる。「サピエンス全史」よりも、呼吸法・瞑想の方が深い!!と気がついた。毎日、毎日、ハラリ氏は、瞑想をしている。なるほど。実は、私も、呼吸法・瞑想をしている。(知)よりも深い。

42.43
現代日本の最高の文体を誇る作家・古井由吉が死んでから、古井の「本」(ほとんど持っている)を、再読している。「水」や「山躁賦」や「杳子・妻隠」「仮往生伝試文」や「円陣を組む女たち」(処女作)最新の「この道」遺稿集「われもまた天に」など。
「詩への小路」小説家・散文家・翻訳家である古井由吉が「詩」について、「詩のコトバ」について、自由に語っている。そして、リルケの代表作「ドゥイノの悲歌」を自ら翻訳して、注解を加えている。「自分は小説と随想の間に生息する者かと思った」と楽しんで、青春とともにあった「詩」の世界を再現している。
「古井由吉」(文学の奇蹟)が出版された。蓮見重彦、柄谷行人、吉本隆明、小島信夫と「文学・思想」を代表する者たちによる(古井論)

45.
作者の小泉吉永は、かつて、私の経営する出版社の、優秀な編集者であった。高校教師の時、神田の古本屋で「江戸時代の寺子屋の教科書=往来物」に出合う。それから、編集者、大学講師をしながら、「往来者」の研究者、収集家、第一人者となる。現在は(私塾)を開いて、往来物を教え、講義・講演そして、歩いて、(現場)を尋ねる催し物もしている。本書は、その成果のひとつ。頑張れ、小泉吉永!!

46. 「読書の愉しみ」壬生洋二
ヒトは会社を退職しても、ニンゲンを引退する訳にはいかない。さて、何をする?どうやって生きる?この高齢者社会で「老い」は突然やってくる。
壬生洋二は、若き日には、詩人であった。早稲田の学生時代「あくた」という同人誌に、鮮やかなコトバで、(現代詩)を書いていた。もちろん、(詩)で飯は食えぬから大手企業のサラリーマンになった。約四十年、勤めあげて、自由の身となった。
現在は、毎日図書館へ通って「本」を読み、その感想をブログに書いている。もう十年以上。三百回を越えている。好評で、多くの読者を得ている。(他人との対話が成立)「純文学」から「落語」まで。散策の折りに、見たものを写真に撮り、考えたことを文章にする。四季の中に、風景の中に、風俗の中に、発見するよろこびがある。そして、テーマ毎に、分類して、何冊か「本」にしている。十数冊の私家本である。(ひとつの存在理由?)ここに、現代の、無名の一人の、兼好法師がいる。「つれづれなるまま、日ぐらし硯にむかいて、こころにうかぶ、よしなしごとを、そこはかとなく・・・」一言半句の中に、キラリとひらめくものがある。はやり、昔、詩人だった!!

(重田昇のホームページ「読書日記」より、重田ワールド覗いて下さい。)

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• 月曜日, 8月 31st, 2020

死の淵に立つものがある
生の中心に起つものがいる

秋の大風が吹いた。風速62メール。年齢40年の庭の柿の木が傾いた。植木屋たちが電動ノコギリで木を伐り、クレーン車で中空に吊りあげた。現れたのは幹周り約1メートル、高さ60センチの切り株だった。「痛イ!!」木と(私)が同時に叫んだ。

朝の儀式がはじまった。縁側に坐って、2メートルばかり先にある切り株と空になった大空を、毎日毎日眺め続けた。今日で183日目の朝。キラキラ光る木の粉が四方八方に飛び散って、銀河となって黒い土を蔽った日、時が流れて、セルロイドのピカピカ光る断面が、いつのまにか、灰色の黴で覆われ、表面に、いくつかのひび割れが走り、中央に、ひとつ、黒い穴があいた。

喪ってみて、はじめて、見えてくるものがある。空一面を覆っていた6月の新緑、秋の光の中に赤々と輝いていた約300個の熟柿、メジロ、モズ、ヒヨ、シジュウカラと乱舞する野鳥たちの豊饒のイメージが空に。

100日目の朝、切り株がコトバを放ちはじめた。(私)も応えて、コトバを放った。ふたつのコトバが感応して、入り混って、シャッフルされて、インタービーイング(相依相関)の結ぼれが出現。時空のひろがりの中に、小さな、小さなコトバ宇宙が形成された。

実存主義者、フランスのサルトルの小説「嘔吐」の主人公・ロカンタンは、マロニエの木の根を見て吐いた。日本の重田昇と呼ばれている作家は、詩「暗箱」の中で、切り株を眺めているうちに、合体して、共生した。区切り、膜、境目、距離、壁を消し去って、時空のひろがりに浮遊している。

184日目の朝、縁側から、サンダルをはいて、庭に降り、切り株の上に腰をかけた。半眼になって、呼吸を整え、虚空に切り株を思い浮かべて、20分ばかり瞑想をした。

突然、地核から電流のように走るものが来て、切り株と(私)を同時に刺し貫いで、中空へと疾走した。まるで(入我我入)のような心境であった。(私)は、いつの日にか、眼の限度を超えて、あらゆるものを透視してしまう「暗箱」という見者になりたい!!

※「霧箱」「泡箱」に続く「箱」三部作のひとつ「暗箱」です。

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• 月曜日, 6月 29th, 2020

3501. 今日も魂(プシュケー)という(私)を運んでいる。ビッグ・バンの風に吹かれて。(私)という不思議が、コズミック・ダンスを踊っている。

3502. 毎朝、柿の木の切り株を眺めている。もう、何百日も。切り株と(私)の間にある空間のひろがり、いつまでたっても、それが、何か、わからない。

3503. ただ歩くだけの、(歩く瞑想)。美しが丘公園までの、そぞろ歩き。

3504. ベンチに腰を掛けて、六月の深い緑を眺めている。水無月の樹木は美しい。眺めても、眺めても、眺めても飽きない。日が暮れる。

3505. 巨きな楠。一年中、緑の森。新しい芽が出て、葉が開くと一斉に、古い葉が落ちてしまう。四月から五月にかけて。眩しい。自然の歯車が廻っている。

3506. ニンゲンは(私)が持っているものを、使い切って、死ぬことができない。(私)は、私が考える以上のはるかな巨きな何者かであるのに。

3507. 生きる=セイカツをするために使った力が、すべてではない。その力は、ニンゲンが持っている力のほんの一部である。

3508. 眼の前の、空間のひろがりひとつも、充分に、考え切ることができない。時空のひろがりを漂っていて。

3509. 好奇心の塊りであるニンゲンは、宇宙の迷子であるという、その不思議が気に入らない。「(私)は私である」その思考のパターンが、納得できない。

3510. ニンゲンは、未完了のまま、(私)を終ってしまう存在である。

3511. 意識がなければ、ニンゲンは(時間)を認識できない。すると、(時間)とは、意識に写るものである。

3512. 「石」にも(時間)は流れる?時空に存在するもの、しないもの、すべて、意識された時、時空のひろがりがある。つまり、宇宙という時空は、意識が発見する。

3513. (考える)、モノを考える。(考える)ということを考える。存在が考えるのか?(考える)中に存在が現れるのか?

3514. 唯物論者?唯心論者?唯識論者?「空」論者?あなたは、何を選択する?

3515. 「在る」「無い」という二元論を捨てて、ただの「一者」になる。

3516. 「宇宙には、『完全静止』しているものは、何もない」少年の頃、そのことに驚愕した。地球も、太陽も、星々も飛び続けている。「石」は静止している。「木」はそこに立っている。「私」は部屋に坐り続けている。すべて「仮の静止」である。動の中の静である。(無常)だ。で、(今)も(ここ)もわからない。

3517. どんなに長く生きても、百年、千年、万年、ニンゲンが、(私)という小宇宙を、生き切る術はない。

3518. 宙吊り、切断、中断、浮遊、尻切れとんぼ、未完という「物語」を生きているニンゲン。

3519. しかし(私)は死なない。やはり(私)の死はない。

3520. 重田昇は百パーセント死ぬのに。不思議だ。

3521. どうも、(生きる)(死ぬ)という二者択一ではない、第三の方法があるのでは?

3522. (私)は、どうやら、(私)が思っているよりも(無知)である。あまりにも(私)は、不思議に充ちすぎている。

3523. 存在者であることからは(自由)にはなれないよ。ニンゲンだって、特別な存在者ではないからね。

3524. 結局、生きてみると、他人の足を踏んだり、自分の足を踏まれたり、「世間=社会」とはそういうものだから、ね。(関係の関係)

3525. 木や石も草も水も結局、ニンゲンと共生、共存するものだし、ウイルスだって、同じことだよ。

3526. 一緒に、共に、存在して、(傷つかぬ者)なんてないんじゃないか?

3527. 歩行は、いいね。いつも、何者でもない原点を、確認できる。(歩く人)ニンゲンの原型だ。

3528. カミが創造主で、万能ならば、(私)の外部に、カミが存在しなければならない。(私)の内部にいるものは、いったい何者であろうか?

3529. (私)の内部に発見したものも、カミであるならば、(私)もカミでなければならない。一即無限で、カミか?

3530. 外部、どこまでも、延長される外部、無限まで。それは宇宙という超球の自然であろうか?(スピノザ風に)

3531. 祖母は、光り輝く太陽をおひいさんと呼んで、毎朝拝んでいた。カミさまである、と。(なるほど、生命の源だ)

3532. (私)は、超球の宇宙を、カミと呼んでいる。(祖母と似たようなものだ)

3533. 結局(私)は、「入我我入」「相依相関」を生きる存在者か?

3534. 木も、また、歩行しているのに、ニンゲンの粗い眼には、木の歩行が見えない。

3535. 時空のひろがりがあるだけなのに、ヒトは、時間を探したがる。

3536. 日が昇り、日が沈む、明けない夜はない。(ソレは地球だけのこと)

3537. 日は昇りつづけ、昼だけの星。日は沈んだまま、夜だけの星。(宇宙には、そんな惑星があふれている)

3538. まだ、紫陽花は、緑の花、白い花、六月の長雨の中で紫となる。今日は5月31日(色の移ろい)

3539. ニンゲンは、(私)が考えているよりも、10倍も、100倍も素晴らしい。超(スーパー)システムである。

3540. 普通に生きている(私)は、実は(私)をよく知らない。ほんの一部分を使って、平気で、生きている。

3541. 生きていくための、仕事、セイカツの苦労ばかりが語られる。本当は、(私)という存在全体が、新しく、発見されなければならない。

3542. つまり、社会に生きる(私)から、そろそろ、存在そのものを生きる(私)へと、視点を移すべきである。

3543. 未使用の(私)が眠っている!!

3544. もったいない。(私)は、ココロの流れすら知らない。なぜ、モノが、コトが(わかる)かも、知らない。

3545. ニンゲンが(私)の中から掬いあげられるコトバは、ほんの、わずかなものかもしれない。大半は、一瞬、光って消え去ってしまうコトバ群である。

3546. 耳を澄ましても、眼を見開いても、コトバたちは、量子のように(私)の中を通過していく。

3547. 器、形のあるものは、雪崩れをうって(無)へ。

3548. 道を支えている、見えない道。

3549. (一緒に、共に、みんなで、手を取りあって)を合言葉に、汗を流して、苦も悲も乗り越えて、(生)を楽しんできたニンゲンである。(一人では出来なくても、二人なら、大勢でなら、と)突然の新型コロナ・ウイルスの登場で、セイカツの習慣が壊されて(独りで、離れて、ステイ・ホームして、仕事は家で、談笑する口も見えない、マスクをして。)新しい生活スタイルは、ヒトとヒトを切断する。

3550. (触る、撫でる、手を組む、抱く、面と面でむかいあって、息を吐く、耳元で囁く、合体する)ニンゲンを知るための、行為が、旧き、良き時代の習慣になってしまう!!(もう、元に戻らない)新しい生活習慣は、ニンゲンの美点を殺してしまう。(本当に、それで、いいのか?)

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• 木曜日, 4月 30th, 2020

3451. (私)から、どれだけ離れて生きるか、それが問題だ。もちろん(私)を消し去るに越したことはないが。(無私)

3452. (生)の達人には、どうやら(私)がない。達意の文章にも(私)がない。コトバだけが、存在している。

3453. 最高の文体は(私)を消し去ったものである、ただ、意識だけが呟いている。コトバの宇宙である。

3454. 誰が生きているのか(死んでいるのか)何が生きているのか(死んでいるのか)見定めようとしても無理だ。

3455. あれかこれか断言できた時は、まだ、ニンゲンは、ゆるやかに生きていた。今は、あれかこれかとさえ問えない時代である。書かれたものの一番はじめにあったコトバまで冥い。

3456. (私)は、私が考える以上のものである。ゆえに、私などに固執してはいけない。

3457. (木)は、木を生きている。(木)は、いつも見ている木以上のものだ。

3458. (私)を考える、と、私以上のもので(私)は構成されているのがわかる。

3459. 閑かに、静かに生きて(私)の中へ。(私)は、私以上の宇宙であるから。

3460. ヒトは、見えないものを畏れて、不安になり、パニックを起こしてしまう。放射能・3.11の。新型コロナウイルス。そして、ココロ。

3461. 狂う、破綻する、その一歩手前で立ち止まれ。

3462. (他人の死)ばかりが見えていた。新型コロナウイルスは(私の死)を直接、見せてくれる。ゆえにヒトは恐怖に捕らわれる。

3463. (私)があるのではなく(書く)作品の中で(私)が作られていく(バタイコ)のコトバ。

3464. (私)には、完全に作品を作る力はない。書かされている中から、(私)が出現して、作品を作らせられるのだ。

3465. (私)に来るコトバを、(私)自身は、制禦できない。

3466. 意識が考えるよりも、はるかに多くのものが勝手に(私)に来ている。

3467. だから(私)を開いていおいていつでも、来たものを、できるだけ正確に、コトバに変えるだけだ。ゆえに、作品は作家を超えてしまう。

3468. ニンゲンは、全員、刷り込まれたコトバで生きる。どんな天才でも。

3469. 白紙はあらゆるコトバを吸収する。子供は、誰でも、白紙から出発する。しかし、妙な大人が、手を入れる。で、子供のココロは、歪んで、死んでしまい、普通の大人になってしまう。

3470. 世間の人になる。社会の人になる。地球の人になる。もっと、もっと、もっと、宇宙そのものを呼吸できたのに。

3471. 子供のココロには、誰でも、ビッグ・クエッションが発生する。ニンゲンは、なぜ死ぬの?宇宙はどうして誕生したの?(私って何なの?)そして、いつもまにか、ビッグ・クエッションは、忘れ去られて、封印されて、子供のココロから消えてしまう。普通の大人になる。

3472. 脳の記憶よりも、生きている(私)の記憶はもっと大きく深い。他人の、私の記憶など断片である。

3473. (考える)は決して抽象ではない。意識にとっては、いつも具体的なものである。だから(考える)は(生きる)そのもののことである。

3474. わからないことだらけだから、ニンゲンは、(考える)。(生きる)も(死ぬ)も、わかる訳がないから。

3475. 「色は色じゃないんだ!!」アラカワ(荒川修作)のコトバは、実に、禅的である。極彩色の「三鷹天命反転住宅」を創ったアラカワである。

3476. 何が難しい?(私)を、いつまでも、開けっぱなしにしておくことだ。存在の自由度。知識や習慣を学習して、常識を身につけると、あとは(仕事)ニンゲンになって、生きてしまう。つまり、(私)という存在を閉ざしてしまう。開けておけ、開けておけ、(私)を!!

3477. いつまでも、危機の斜面に(私)を立たせ続けること。新しい(私)は、その中から起ちあがる。

3478. 普通の、平凡な日常の中にも無数の危機の斜面がある。見方、考え方、五感の使い方、意識のあり方で、それがわかる。

3479. 新型コロナウイルスのパンデミックは、ニンゲンをパニックに陥落させた!!(他人の死)が直接(私の死)に変化したから。

3480. 狂いもせず、破綻もせず、どうやら古希まで生きてきた。それだけで、もう、大変な道程。充分である。あれやこれやは、言うに足りない。

3481. (私)が私と、正しく関係を結ばねば、ニンゲンとしては生きてゆけない。怪物になる。

3482. 漂流する夜から、朝の時の岸辺に打ちあげられた(私)を発見する時の、あの感触、「今日も一日、生きてゆける。」生きられる時間を手に入れた。

3483. 社会に生きる(私)、世間に生きる(私)、セイカツである。しかし、セイカツする(私)は、存在者としての(私)の、ほんの一部である。もっと、全的に(私)を生きろよ!!(仕事)が(私)だなんて、つまらない。

3484. 一分一秒の休みもなく、絶えず(私)を(今)へと吹きあげているエネルギーがある。エントロピーと呼んでもよい。

3485. (私)は(今)という岸辺の縁りで、呼吸している。何時(今)から滑る落ちるかもわからない。まあ、ひとときのことだ。我慢あるのみ。

3486. いくら考えても、よくわからない(私)の(今)である。水から泡が吹きでるように(今)へと勝手に解き放たれた。不条理だと怒ってみてもはじまらぬ。

3487. で(ここ)はどこだ?(私)は誰だ?と疑っても、闇から闇への問いである。食べて、歩いて、働いて、寝て、一日のニンゲンのリズムに身を任せている。空虚をかかえたまま。魂のリズムだけがある。

3488. 宇宙地図には(私)がいない!!なぜ?(私)という視点は、私の内側にしかないから。誰か、何かが、外からの視点で作った地図の中に(私)は入れない。

3489. (今)も(ここ)も、(私)を抜きには考えられない。(私)のいない(今)も(ここ)も、実は、存在しない。

3490. ゆえに(存在)とは、(関係)の中にしかない。

3491. (私)が地図である。そんな(存在)は、果たして、可能であろうか?

3492. (私)をマッピングする。その(私)は、瞬間に(私)の外になる。

3493. (私)のいる場所、(私)のいる時間、それは、宇宙のどこでもない。決定できないから。

3494. 前(過去)とは後(未来)が。「ある出来事がほかの出来事の前でありながら後でもあり得る」(カルロ・ロヴェッリ)過去は未来で、未来は過去

3495. 過去=過ぎ去ったものも(今)に参入できる。未来=まだ来ぬものも(今)に参入できる。

3496. 一歩を踏み出すためには、未来が見えていなければできない。

3497. 思い出すためには、過去を(今)へと連れ戻さなければ思えない。

3498. 過去も未来も(私)の中で入り混じって、ひとつの現象になる。区別はない。ただ想うものだ。

3499. ニンゲンの、眼も、思考も、五感も、実に”粗い” その”粗い”眼で見て、”粗い”思考で考えて、生きねばならぬ。辛いことだ。

3500. 見えないものばかりがあふれている。一歩先のセイカツも。宇宙も。しかし、透視する。見者になる。

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• 木曜日, 4月 30th, 2020

1 揺らぎから来た
  波が騒ぎ 泡が立った
  風が吹いている ビッグ・バンの風が
  何処から何処へ ∞
 (木)が(私)の中へ
 (私)が(木)の中へ
2 流れる 時間の滝が
 「間」をくぐりぬけて
 (木)がない (私)がいない
3 現れる 消える こともない
 「名前」がないから
 ( )がある )(がない
 ( )があることもない)(がないこともない
4 浮遊する
  空へ 青空へ 漆黒の闇へ
  前に歩くと後ろになる
  上に歩くと下になる
  右に歩くと左になる
  一切が永遠の宙吊り無限放射の鏡
5 宇宙に歩をすすめると
  コトバ系が見事に壊れてしまう
  わが惑星・地球の
  結ぼれの環 コトバよ
  量子のコトバとなって
  死者たちの耳にも届けよ
6 飛ぶ超球へのステップ
  眼がない いいや(ある)やっぱり)ない(
  口がない いいや(ある)やっぱり)ない(
  舌がない いいや(ある)やっぱり)ない(
  皮膚がない いいや(ある)やっぱり)ない(
  意識がない いいや(ある)やっぱり)ない(
  無数の( )と)(の群れが
  泡立っている
  確かに
  宇宙にたったひとつの
  泡箱がある

※「霧箱」「泡箱」「暗箱」と「箱」シリーズのひとつです。

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• 金曜日, 1月 31st, 2020

八月の光の独楽が青空に廻っている夏である。朝から熱の風が吹いている。やれやれ、汗の中を、終日、歩き廻らなければならない。ホテルを出ると、駅は眼の前だ。養老鉄道である。切符を買って、構内に入る。小さな電車が停まっている。ものの2~30分も乗れば、目的地・養老駅に着く。乗客は、2~3割で、自由に好きな席に坐れた。
「ただの水が酒に変わって、何が悪い?何が不思議だ!!ただの水が、なぜ体液になるのか、言ってみろ!!」
アラカワの声が耳の底に響いている。「「石」をパンに変えた人もいるのに」
「幻種」を交配する。あらゆる形は変化する。どのようにも。だから、形などないのだよ。幻である。その「幻種」を交配させる場が、「天命反転地」なのだ。目的ではない。単なる手段だ。
「形」は、ニンゲンがとりあえず見るための「方便」だ。誰にでもわかるように。本当に、大事なのは、見えないものだ。「形」は、いわば、対機説法のために、あるようなものだ。(日常)を生きるニンゲン、君たちのために。
アラカワの声と(私)の思考が混ざりあって、見定めがつかなくなる。大言壮語とも受け取られ兼ねない、アラカワの声は、反芻してみると、実は、ニンゲンにとっては「ビッグ・クエッション」である。
アラカワの発想の根には、いったい、何があるのだろう?おそらく、あらゆるものを疑え(デカルト風)という規則がある。しかし、アラカワは「私は私である」というコトバを認めない。「考える、だから、私がある」というデカルトの声にも反撥する。
もちろん、「(私)は実在である」というサルトルの声にも、NOと言うだろう。アラカワは、眼も信じていないから。見る?何を?どういうふうに?アラカワは(眼)をも殺してしまう。ニンゲンが、日常で、習慣化してきたモノの見方、感じ方、考え方を、否と否定する。アラカワは、原子の人ではなくて、量子の人である。
だから、「天命反転」を主張する。不可能に挑戦する。人類が、地上に、1400億人も生れたのに、まだ、誰一人、向う側から帰って来た人はいない!!「不死の人」もいない。
”仙人”になろうとした、芥川龍之介の小説「壮子春」も、”仙人”を断念してしまった。アラカワは、養老の地で、”仙人”になる道を実験する!!”不老不死”の夢の実現!!
ヒトは、あらゆるものを、「人間原理」として、生きている。そして、死んでいく。アラカワは「宇宙原理」へとステップする。
考えてみれば、ついこの間まで、夜空に、たったひとつ輝いていた星は、ハップル望遠鏡の発明で、2000億個の星の集り。銀河と判明した。まだまだ、ニンゲンは、宇宙の百分の一もわかっていない。
”眼”も”実在”もアラカワは信用していない。一切が当てにならない。とにかく、独力で、一から考えて、実行する。「天命反転」を企てて試みる。
アラカワは、たったひとつの単細胞が多細胞になり、魚になり、鳥になり、哺乳動物になり、猿になり、ニンゲンになるーその進化の40億年の進化の時間を、今、ここで、成し遂げたいのだ。自分の手で、ニンゲンからxを出現させたいのだ。
ゆらり、ゆらりと養老鉄道の小さな電車に揺られて、夏の青空の下にひろがる、街を眺めながら、小さな旅は続いた。
吹きあげてくるコトバの群れに身を委ねていた。眼に写る風景も、夏の光の下では、幻に見えた。熱風が時空を吹きぬけている。
”養老駅”に到着した。アラカワへの旅は、なかなか、直線的には進まない。時空はゆがんでいる。そのゆがみに添って、歩を進めるしか術がない。
駅前広場で”看板”に描かれた地図を見た。ゆっくりと、山の上へ、坂道を歩きはじめた。眼の前に“養老天命反転地”が顕れるはずだ。汗が流れる夏の日和である。

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• 金曜日, 1月 31st, 2020

~大きな試みの詩集~
詩はひとつのコトバ宇宙である。作者の手を離れると、独立したひとつの生きものとなる。コトバ宇宙は、作者の思いをも超えてしまう。あらゆる存在がコトバを放っている。あとは耳を立てて、傾聴すればよい。

若き日の、処女作「部屋」はまだよく生きていないため、語るべき体験もないのに、(意識)だけは鋭く目覚めていて、存在に対して無限放射するコトバを放出する、いわば、秋山駿風な「内部の人間」の物語である。(意識の詩)
川中子は、出発の時から、すでに(知)的なコトバで武装できた詩人である。

問題は、そこに、キリスト者としての、地上での呻きが加わる。

長い中断の後、留学があり、セイカツの糧を得るための仕事があり(学者として)、(詩)に還る時には、最大のテーマが、(宗教)と(文学=詩)の合一となる。

副題や本文に「聖書」のコトバやドイツ語が出現する。「聖書」を「詩」にするという野望?挑戦?試みが見え隠れする。(日本にも、「仏教説話」という試みがある。)

東大教授であり、ドイツ文学・思想の研究者であり、詩人である。そんな存在があり得るのだろうか?
一人いる。西脇順三郎(ノーベル文学賞候補)である。慶応大学の教授、英文学の研究者、そして、詩人。詩集「ambarvalia(アム・バルワリア)」と「旅人かえらず」のシュールな長編詩を書いた第一級の詩人。

(私)は、文学・詩のコトバを三つグループにわけて考えている。
①自らの体験・生を、自分だけのコトバだけで語っている。中原中也、種田山頭火。
②知性そのもので武装した、アレゴリーのコトバ。ボルヘス、カフカ。
③生の体験と(知)を組み合わせたコトバ。宮沢賢治、ティック・ナット・ハン師。小説「ブッダ」田川建三「イエスという男」
川中子義勝は、どの範中に入るのだろうか?②か③か?
(私)は川中子義勝のセイカツと祈りの実践の現場をまったく知らないので、判断できない。((詩)はビジョン、(宗教)は実践。)

キリケゴールの思想、リルケの詩から出発した、川中子の(詩)の試みは、キリスト者(中村不二夫、森田進、加藤常昭)には、身に沁みて実感できるのだろう。(解説より)

「井戸」や「釣瓶」は、モノ自体に語らせるという試みである。副題に「砕けたるたましい」(詩篇)「われ渇く」(ヨハネ伝)が添えられている。
(水が渇いていた)(釣瓶は渇く)(渇き)がどのように見えるか、がポイントの詩である。ビジョンが見えるかどうか?キリスト者ではない、普通の読者である(私)には、おそらく、作者・川中子が見えているものと、同じものは見えない。深く読み込むための、副題ではあると思うが・・・。
(ちなみに、仏教による(渇き=渇愛)は、執着、欲望であって、苦の根源(四苦八苦)である。)

(詩)の方法論も主題も目的も実に明確である。知者であるから。(決して、難解な詩ではない)

デクノボウのコトバ(無知の智)で語る宮沢賢治の詩(東洋の智)と「聖書」のコトバを折り込む川中子義勝の詩を読みくらべてみた。(知者の詩)(西洋の知)

誰にでも、自由に開かれた、普通のコトバで書かれた賢治の詩には(私性)があって、風景や人物が匂い立ち、身に沁みるのに、(知)のコトバ、(聖書のコトバ)で書かれた川中子の詩の深みには、(私)は、まだ、降りていけない。(実感が)
時間を置いて、もう一度、川中子義勝の詩に、挑戦してみよう!!
(はじめて川中子義勝の詩を読んだ感想である。(私)の川中子義勝との(対話)のはじまりでもある!!)(詩)の深さについて。(信仰)の深さについて。(1月26日記)

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• 金曜日, 1月 31st, 2020

①(社会の言葉=ネーミング)と(文学のコトバ=評論)の探求と考察に生きた人。
②「一言半句」に作者の意図を読み込んで、人間を、社会を、世界を発見しようとした人。
③不幸は、突然やってくる。訃報も、突然、舞い込んでくる。11月のある夜、会員の中津川丹さんから、突然の電話。「安藤さんが亡くなりました。」絶句。ただ、悲しい。
④咽喉が渇き、鼓動が早くなって、胸が痛んだ。二階の書斎にあがって、8月に、安藤さんから届いた、一通の長い手紙と一冊の本を机の上において、読み直してみた。深呼吸をして、「般若心経」を三回唱えた。
⑤ヒトはあらゆるものに名前をつける。星に、山に、川に、草に、魚に、もちろん、人間にも、ていねいに。安藤さんの仕事は「会社」に「商品」に名前を付けることだった。その傑作は「セシール」。主著『ネームングは招き猫』。単なる実用書ではなく、「言葉」の発見の書。(社会の言葉で)
⑥「読書会」には、いつもユニークなレポートと解釈、そして珍しい資料持参。青春の「大岡昇平『野火』論」は、見事な、文学のコトバで。(稲門会、図書館の会、年六回出席)
⑦早稲田に入って「文学」を学ぶと、誰でも一度は、作家、詩人、評論家を志すものだ。黒田夏子は『abさんご』で芥川賞受賞(史上最高齢75歳で)。下重暁子は、元NHKの美人アナウンサー。70歳を過ぎて、エッセイ集がベストセラーに。早大、国語国文(教育)卒で、ともに、安藤さんの同級生。
⑧晩年は、「読むこと」に生きて「書くこと」に生きて、「読書会」を魂の交換の場所としていた。「文学の本」を執筆していた安藤さん、出版事情が叶わず、断念。残念無念。「幻の本」に。
⑨「一言半句」の審美眼の人、いつも、物静かだが、心を貫く棒の如き意志の人。私の最後の、送るコトバは、魂よ、安らかなれと「ニルヴァーナ」である。
(岐阜県出身・早稲田大学教育学部国語国文卒 享年84歳2019年10月7日永眠)
(「四街道稲門会だより」より転載)

(注)「幻の本」が、作者・安藤貞之さんの死から四ヶ月たって、見事な一冊の「本」になりました。
タイトルは「樋口一葉を世に出した男ー大橋乙羽」です。日本初の編集者の評伝です。(百年書房刊)
一人でも多くの読者に安藤貞之さんの声がとどけば、と念しております。