Archive for ◊ 4月, 2010 ◊
833. わかっているだろうか?
865. 気分は、思考を変えられるか?
701. アフォリズムはヴィジョンである。透明な橋を架ける力だ。
702. 昔の人は、よく歩いた。読んだ書物は、次から次へと消えていくが、歩いた足の裏が知っている大地の声とリズムは、不思議と消えないものだ。(現場)が何よりも大事である。
703. いくら考えてもわからないことが、時がたつと、時そのものが教えてくれる。だから、”時”に身をゆだねている。
704. 考えようとするから、わからない。生きようとすれば、わかってくる。
705. いつまでたっても”時”が皆目わからない。発生も消滅も顕現も。モノの時、イノチの時。
706. もっと読みたい、もっと、ムイシュキンと歩きたい、もっと一緒にいたい。合体した魂が、そう叫び続ける。それが、最高の読書だ。読むことが、そのまま生きることになってくる。
707. なぜ、人は、なつかしいという感覚で、モノとヒトを眺められるのだろう。会うこと。別れること。
708. 「またふたたび」という感覚と、「もう二度と」という感覚が、同じ、一人のヒンゲンの中に生じる不思議。
709. 生きることは、(私)を創造した宇宙への返礼である。
710. もう、アレ、コレと考えない。ただ(私)に顕れるものをそのまま記しているだけだ。
711. ここにいるのは誰だ?まさか、幽霊ではあるまいと、宇宙に問いかけると、もっと見ろ、もっと考えろと風が吹いているだけ。何も応えずに。
712. 去るもの、来るもの、通過している(私)は、いつも、(今・ここ)に立ちつくしている。
713. 蛙の鳴く声が、桜の散る空間に響いてくる。妙に狂おしい。春である。
714. もっと、もっと、どこまでも降りていって一番深いところまで。何が見えた?何がわかった?
715. 歩くことが、老いの計りになる。
716. 一人で生きるよりも、二人で生きる方が生き易い。第一、自然である。対のセイカツ。♀と♂。そして・・・。
717. 薄い膜だけが、ニンゲンの、(私)の生きる器である。
718. 何もかもが溶解していく。傷ついて、破れて、壊れて。芯よ起て!!
719. 巨木の生きる姿に、ニンゲンは圧倒されるばかりだ。
720. どんな仕事であれ、とりあえず、自分は仕事をしているという感覚があれば、大丈夫。空虚には呑み込まれない。
721. 何もすることがないと、心は、蛸になって我が身を喰いつくしてしまう。
722. もう、モノを、直接見るだけでは、コトが足りない。それも、ひとつの在り方にすぎないから。
723. 生きものたちは、それぞれ、自らが生きるために必要な形態を持つに至る。不思議だ。
724. 老衰死。病死。事故死。自殺死。他殺死。餓死。戦死。心中死。脳死。処刑死。切腹。狂死。大量殺人死(ジェノサイト)・・・。あ~あ。ニンゲンの死は、一回限りで、ひとつなのに。
725. 芸術は、どこかに”狂”の一滴を注入しなければ輝かない。小説も同じことだ。
726. 空を眺めすぎると(私)が消えてしまう。
727. 身。身体。体。躰。軀。漢字は、他の言語よりも面白い。何よりも、形がものを言う。
728. 「本」を読む。「文章」を読む。昔は、「知」を知ることが面白くて、意味、内容ばかりを探った。今では、何かを自由に思わせてくれる文章が面白い。だから、読まずに、凝っと眺めている。視線に長く耐えられる文章がいい。大半の文章は、眺めていると、崩れ壊れてしまう。
729. 光るものを「光」と命名しても仕方がない。「大日如来」と古人は呼んだ。おそらく、それは、正しい。「1」も、そのように、成立するしかないか?
730. 空海も、南方熊楠も、岡潔も、天才と呼ばれる人たちは「大日如来」を信じた。
731. 死ぬ時には、光の中へと飛び込むのだ。「大日如来」の中へ。横超。
732. 「1。光。大日如来。宇宙。」わかっているのに、わからないものばかりである。
733. 在るものでも、わかりかたをわからないと、まったくそのもの自体がわからない。しかし、信じるか!!
734. 「自然」という暗号を読み解くだけで、ニンゲンは、30億年を費してしまった。
735. 宇宙自体が、自らを記憶しているとすれば、ニンゲンも、大きなものに、記憶されている。
736. 知り得たものの量は、雨の一滴で、それでも、ニンゲンとして生きてゆかねばならぬ。無明。暗愚。
737. 宇宙には、「1」そのものは、存在しない。そんな声が脳裡に響いたので(私)は、無視して、歩き続けた。「1」をめぐる無限を思いながら。
738. (私)の外へと超出すること。
739. 身体が重い、身体が軽いと感じる時のあの微妙な感触、(私)は、(私)という器、入れもの、を思い浮かべている。しかし、まだ、(私)は、その、重い、軽いの膜を知らない。
740. 他人の声に、他人の存在に、誘い出されて響く(私)がいる。モノに、コトに、ニンゲンに誘発されてこそ、共に生きる意味がある。
741. 単独者の(私)という存在、長い間、そう考えていたが、(私)は、どうやら、あらゆるものの、集合した、ひとつの統合体かもしれぬ。だから、分裂していて、解体される。
742. 話をしながら、テレビを観る。点のことばかりを考えながら三角形を思い描く。同時に、二つのこと、三つ以上のことを実行する能力。ニンゲンは、考え得ることは、すべて、可能にしていく生きものかもしれない。(聖徳太子の未来)
743. 「もう、死んだように生きておるよ」と友は、淋し気に笑っているが、活躍の場が消えても、(私)という場は、残っているのだから、(私)という宇宙を歩いてみればいい。
744. 「あらわるモノ・コトは、考えられる対象として存在する。考える、起点は、どこにでも、ごろごろと転がっておる。
745. 見るということは、ひとつの見方である。
746. (私)が存在として顕現した以上、自分自身の存在くらいは、証明してやろうと思うのは、当然の欲望である。何代かかっても、ニンゲンは、宇宙に口を割らしてやれと思い続けるだろう。(沈黙する宇宙への質問状を作ってでも)
747. (声)が来たと言う。神からの(声)が来たと言う。ニンゲンの耳にとどいた(声)は、果たして、宇宙から来たものか?(神は、宇宙ではない)(声の正体は?)(光?)
748. 光は、声にもなる。共感覚があれば。
749. 闇から闇へは赦さない。果たして、誰にものを言っているのか?
750. 眼を閉じても、開いていても、いつも、額の前方に、何かがある。(私)の身体ではないのに、それは、いつも(私)と一緒に存在する。何?
751. 思考には、いくつも層があって、一歩一歩その層をステップしている。
752. ほとんどの「不満」は、自分が、自分自身に対して抱いているイメージよりも、他人が自分に対して抱いてくれるイメージが、劣っているという理由にある。もっと、(私)を見てよ。もっと(私)を知ってよ、もっと(私)の価値を認めてよと、叫んでいるのだ。あ~あ。ぷーふい。
753. 「どうも、(私)はないみたいだ」と言うから「まるで、幽霊じゃないか」と応えると「君に僕が見えるのか」と叫んだ。
754. (ただの人)になってからが、勝負である。衣裳をすべて脱ぎ棄てて、自分自身の貌を、じっくると覗き込んでみる。
755. 生きることは、どうやら、だんだんと、ニンゲンになっていくことである。形姿は、求めたように、現れるから。無数の貌。
756. あらゆる情報を集めて考えてみるか、ひとつのものを、じっくりと、何年も眺めて考えてみるか、(総合者と単独者の眼)
757. 本能半分。学習半分。
758. 生命が進化したとして、生命の系統樹を考える時、一つの単細胞に達するのか、あるいは、単細胞の群れへと達するのか、そこに<1>という数の魔がいるような気がする。
759. 同じように、俺たちの「宇宙」のビッグ・バンは、たったひとつの大爆発であったのか、複数の、多数のビッグ・バンがあったのか?証明もできない問いは、問いですらないのか!!
760. 地に、足をつけて、明日は、郵便局へ行こう。何を送りに?何を伝えに?
761. 歩けるうちには、歩こう。それ以外に、することがあるのか?
762. ニンゲンから(仕事)を取りあげてしまうと、自ら、長い間、放っておいた(私)に立ち向かわなければならない。で、突然、(私)が牙をむく。誰だ、お前は?必死になって、(私)を耕してみるしか他に術はないのだ。
763. なぜ、数があるのか、誰も証明できない。1が証明できないという。(私)とは何かがわからないはずだ。
764. 宇宙に、純粋な(1)として存在しているものなどあるのだろうか?私は知らない。数は深淵だ。足をとられると畏ろしい。
765. 私は、一人のニンゲンであるが、(1)ではない。一本の木は、木としてあるが(1)ではない。
766. 素朴に、自然を見て、在ると思える平凡な領域で生きていると、(自然)が、本当に、あるかどうか証明できぬと唸っている大数学者、自然科学者たちは・・・。知らぬが仏か?
767. ニンゲンは、あまりにも、素直に、(在る)ことを見るために、眼と脳のシステムに委ねすぎているのだろうか?(在る)ように見えると考えたのは、実は、ひとつの見方にしかすぎなった。見方が、ちがうと(在る)は、見えなくもなってしまう。(在る)か(無い)かは、わからなくなる−と、木も石も自然も存在するかどうか、本当は、わからなくなる。
768. 純朴な(1)は、宇宙のどこにも、発見できない。だから、人類の(知)は、まだ(1)を証明できない。6000年の文明とは、その程度のものである。もちろん(私)とは何かを問い続けても、わかるわけがない。
769. 自然の中を、どこを探しても(1)はない。しかし、人は、一枚の葉とか、一個の石とか、一本の木とか、どこかに(1)を探したがる。見る、意識する、どこまで追求しても、結局、自然の中には(1)がない。(ない)ということだけがわかってくる。どだい、(数)は、なぜ、現れたのだろう。(数)とは何か?
770. 木を見る。自然を見る。見えるように見ている。で、その、見えるようにが、崩れてしまうと(自然)は自然ではなくなってしまう。すると(見る)ということも、実は、アテにならない。テレビ画面の接続不良のように、(自然)に点と線が走って、画像が、見えなくなる。(自然)が、そのように崩れてしまう。それでは、(見)ている自然は、在るとも無いともいえなくなる。
771. 考えていては、アフォリズムは書けない。向う側から来るのを待つのだ。五感を解き放って。
772. (私)は、もちろん、宇宙人である。(私)が顕現した理由は、宇宙を知悉するためである。
773. (在る)から(居る)への移行が、宇宙での最高の変革であった。
774. 「小説」を書こうと意識した瞬間から、「物語」の「虚」が、作者の脳裡を掠める。だから、「小説」の文章とエッセイの文章は、まったくちがってしまう。
775. 何もない、実に、頼りないところから、筆(ペン)をすすめると、不思議なことに、小説の文章はのびやかになる。そこに、小説の上質な部分が現れる。いわば、腕の見せどころである。(考える)ことが光る。
776. 文体は思考の回路である。
777. 私たちが居ることは、どうやら、そんなに確かなことでないかもしれない。幽霊のような存在が、(私)の耳許でそう呟いた。眼の前の自然が消えた。1でもあり、2でもある。数でないかもしれない。
778. 存在(モノ)も形も色彩も、見る・見られるという関係をすりぬけると、虚へと移行する。
779. 蛇が自分の尻尾を咥えるようにして1が1を呑みこむことができるのだろうか?
780. 宇宙に生きることは、(1)を探す旅であるかもしれない。
781. (私)とは、途中で、放り出されてしまった存在の名前だろうか。
782. 光の光源を、呼びようがなくて、「大日如来」と云ったのは、おそらく正しいかもしれない。
783. 不思議なことに、物書き(作家)は、その言葉が潔くなればなるほど、死が近くなって、自死に至る。村上一郎、三島由紀夫、石原吉郎。
784. 30億年かかって、生きてきた(私)であるから、自殺は、実にもったいない。
785. いい読み手がいなければ、いい書き手は育たない。読むことと、書くことは、共同作業である。
786. 天皇、エンペラーの問題は、30億年の生命史の中に位置づければ、その姿がよく見えてくる。現実は、人は、たかだか、100年、1000年の単位で考えるから、その姿を見誤ってしまう。
787. 母から生まれてきたが、母の母、そのまた母と考えて、グレートマザーに思いを至すと、30億年も生みつづけている姿に、感動すら覚える。
788. 精神が、もっとも深いところに達すると、それが、そのまま、外部に存在するものに通底してしまう。
789. 外在した脳がスパークする時、いったい、何が起こっているのか、と思うほどの、陶酔の時が来る。
790. 「40年」もサラリーマンをしてくると、会社から放り出された時、どこにむかって、何をしていいのか、まったく見当がつかぬ」と友人が真顔で語った。「誰かに、命令してほしい」とも。
791. 誰でも、自分の(場所)と(役割)が欲しいのだ。
792. 会社生活で忘れていたものは(私)である。停年になると、その(私)が、姿を出して、お前はいったい、何をしてきたのだ、お前はいったい何者だと、怪物のように、突然、牙をむくのだ。
793. 働いてきた(私)は、存在としての(私)よりも小さいのに、(仕事=私)と考えたがる錯覚。
794. 何もかも、狂的な世界であるのに、平気で生きているニンゲン。
795. 訳もわからぬまま、透明な膜の中に突入して、一歩も、歩けぬ時期がある。
796. 日も、月も、季節も、遠くなったり、近くなったり。色彩までちがって見える。
797. 一日に、一度、ひとつは、ものを考えること。
798. 意識もなく、モノに、コトに気分が悪くなって、嘔吐を催す時がある。世界と上手く握手が出来ない。ユーウツな日。
799. 春、三月、空がすみれ色になる。光が変わった。気が昂ぶって、歩いてみたくなった。光の誘惑。
800. 時間をもて余す人、時間が足りない人。やれやれ、自由というものは、やっかいだ。
1. 「コーラン」上・中・下(岩波文庫刊) 井筒俊彦訳
2. 「悪の華」(岩波文庫刊) ボードレール 堀口大学訳
3. 「巴里の憂鬱」(岩波文庫刊)ボードレール 堀口大学訳
4. 「他力」(講談社文庫刊) 五木寛之著
5. 「風に吹かれて」(角川文庫刊) 五木寛之著
6. 「小説修業」(中公文庫刊) 保坂和志 小島信夫共著
7. 「ミドルワールド」(紀伊国屋書房刊) マーク・ホウ著
8. 「烏有比譚」(講談社刊) 円城塔著
9. 「後藤さんのこと」(早川書房刊) 円城塔著
10. 「金子光晴」(筑摩書房刊) 金子光晴著
11. 「細雪」上・中・下(新潮文庫刊) 谷崎潤一郎著
12. 「詩片集素描」(土曜美術社出版販売) 山野井悌二著
13. 「高野聖」(角川文庫刊) 泉鏡花著
14. 「寓話」(プロジェクトK発行) 小島信夫著
15. 「金融狂荒」(文芸社刊) 相馬尚文著
16. 「暗渠の宿」(新潮文庫) 西村賢太著
17. 「OUT」上・下(講談社文庫刊) 桐野夏生著
18. 「柔らかな頬」上・下(文春文庫刊) 桐野夏生著
19. 「グロテスク」上・下(文春文庫刊) 桐野夏生著
20. 「残虐記」(新潮文庫刊) 桐野夏生著
はじめて、円城塔の小説を読む。
安部公房の直系の作家が登場した。いったい、これが小説と呼べるだろうか?と思えるほど、新しい作家である。
本文よりも、注釈の方が多かったり、骨と皮だけであって、あとは、理論が統一している作品。
理系の作家らしく、実に論理的である。もう一滴そこに血が流れると、実に、面白い作家になる。
安部公房は、ひらがなのつかい方が、上手い作家だった。論理に、肉感性があった。
円城塔は、分野も無視して疾走する。純文学、SF、小説、エッセイ、文章までも、破壊してしまうかもしれない。
ボードレールや金子光晴や泉鏡花や谷崎潤一郎を再読する。青春時代に読んだ本を、60歳を過ぎて読み直してみる。なるほど、そのように、生きたのかと、感慨が深い。
「寓話」は、保坂和志氏が、師と仰ぐ作家、小島信夫の小説である。絶版になった小説を、個人が、復刊するという、困難な仕事に挑戦した保坂和志氏には、エールを送りたい。
この傑作は、ゆっくりと時間をかけて読みたい。
車谷長吉に続く「私小説」作家が誕生した。西村賢太だ。
なぜか、現在、「私小説」を読むと、ホッと安心する。古風だからではない。もっとも、現代的である。
人間が、頭で組み立てた小説には、どこか、薄ら寒い風が吹いているから、「私小説」に現れるニンゲンの形姿が、技巧、戦略を通り超して、(知)以上のものを表出してくれる−その姿が眼にやさしい。
「風に吹かれて」エッセイが時代そのものだった。
五木寛之の金字塔は、小説「青春の門」である。その五木寛之が、満を持して、小説「親鸞」を書いた。熟読した。大先輩に対して、礼を失する訳にもいくまい。じっくりと、再読して、論じてみたい。なぜ、現在、宗教であるのか?