Archive for ◊ 5月, 2010 ◊

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• 土曜日, 5月 22nd, 2010
901. ニンゲンは、宇宙の風媒花である。行け、時空を超えて。
902. 黄金の時間を食い尽くして生きよう。
903. 神々のいなくなった荒野を歩いている。
904. 経験というものが、役に立つ領域は限られている。生きれば、新しいことばかり。
905. 激しい快楽が、静かな燠火の楽しみに変わってしまった。
906. とりとめのない、普通の一日も、ありがたい。
907. 一応、ニンゲンと呼ばれて生きてきたが、(私)が解ったためしがない。
908. 宇宙の総時間から見れば、ひととき生きて、滅びてしまう。小さな惑星・地球のニンゲンたち。何処まで行けるだろうか?何が出来るだろうか?無限の時空は、存在の秘密を覗き見させてくれるのか?
909. 形態の進化には、億年単位の時間が必要だ。一人のニンゲンには、手も足もでない、気の遠くなるような、無限のひろがりの前にて、内爆発を起こして、むなしい抵抗を試みてはいるが・・・。
910. 「神は存在しない」そう呟かざるを得ない時代に生きているニンゲンが、次に求めるものは、時空の行方か、存在の究極の姿か。
911. 物質も、動植物の生命たちと同じように、もうひとつの記憶体ではないのか。千年、億年の石を眺めていると、そんな妙な気がした。いやいやと頭を振って歩きはじめたが。
912. いつも、一日のはじまりには、正坐をして、一日に向き合う儀式を行う。図面を描いて、計画を立てて、一歩を踏みだす瞬間には心の掛け声。
913. 音速者、光速者、思考者。一歩一歩、歩いてきたニンゲンも飛びはじめた。そして・・・。思考の十一次元へ。
914. 今日も、一日という地球の自転のリズムが刻まれる。泣いたり、笑ったり、昼と夜を分かたずに。
915. 目覚めると、(私)は、そいつに気がついて、いつものように握手をしている。
916. 無限に広い海、無限に広い空と思った頃のニンゲンは、まだ、牧歌的で、幸福であった。
917. 空の青、空の闇、どちらも、果てがなかった。地球の外から眺めてみると、空の青は薄く、細い帯となり、空の闇だけは、どこまでも続く、漆黒の闇・深淵である。「夜と昼」どちらが本当の顔かわかっただろう。
918. どんよりとした曇り空の下、肩にかかる重力が、いやに重く感じられる。
919. 1日の中に(私)が納まりきらぬ日がある。狂おしくて。
920. 会うのは、歩いている人ばかり。歩行する姿も形も十人十色。
921. 町を見て、国を見て、宇宙を見て、最後に見るのは、事象の地平線の彼方にある(私)。
922. 「何処か」は、いつも宙吊りであって、着地点が決まると、(現実)の(今・ここ)に吸い寄せられる。だから、「何処か」へは、永遠に行けない。
923. (私)の死後、ニンゲンたちの死後、宇宙は、何事もなかったかのように、存在し続ける。虚無感が生じるのは、そんな時だ。
924. 夢中になって仕事をしていたら、そろそろニンゲンの終わりの時だった−で、さようならだ。いったい、何をした?
925. 人は、「一生」を生きるのではない。(今・ここ)を生きて、生きて、生きてきたことが、人の一生と呼ばれるだけだ。
926. 無数のニンゲンがいて、会える人は、ほんの一握り。無数のモノが溢れていて、無数のコトが起こって、(私)が関係するのは、手がとどく範囲のものだけだ。
927. 物語は、意識を乗せていくのだ。だから、言葉は、意識が光のように、あらゆるものを照らし出すように在らねばならない。そう、光に耐えられる言葉が必要である。
928. もう、いや、いまや、いまだに、(私)は決定されない。(私)は、不可能だ。
929. ニンゲンと呼ばれている(私)を名付けられない。
930. (私)が、どのようにして(あなた)になれる?
931. 生れ変わるのではなく、生れ直すのは、可能だろうか?つまり、(私)が、ふたたび、生れるのだ。だから、復活でもなく、輪廻転生でもなくて。
932. やはり、魂と呼んでしまうことに問題があるのだな。ソレを。余分な色がつく。
933. 何をしている?と問われたら、迷わずに、照れずに、「文学」をしていると断言できる人が、何人いるだろうか?相手の眼を、正面から見て。作家と呼べる人は少ない。
934. 宇宙を解読するのが、「本」であるのか?宇宙自体が記された「本」であるのか?
935. 一日という時空を書くことは、誰にも出来ない。「一日、何もなし」と日記に書いた人は、何を書いて、何を書けなかったのだろうか?
936. 意識は、いつでも、自然に、在ること、を確認している。
937. 魅入られたように、モノにのめり込む。そのモノが仕事であれば、文句はあるまい。趣味であれば、どうであろうか?悪徳であれば、取り返しがつかない。
938. 宇宙が、宇宙自体が見ている夢のひとつであるならば、当然、ニンゲンも夢見られている存在のひとつにすぎない。(哄笑)
939. 「悩みの種」がなければ、誰も悩まないだろう。生きている限り、悩みが発生する、生きること自体が「悩みの種」だから。
940. 死者たちを見る時、いつも、頭の隅で、いったい、ニンゲンは、何をしてきたのだろうと考えてしまう。
941. 山の中に山があり、その山の中にも、また、山がありというふうに、山は、幾多の山をかかえ込んでいる。
942. 在ることと見ることは、永遠に結びつかなくなった。誰がそうしたのか?量子論のハイゼンベルグだ。
943. 見えなくても、聞こえなくても、話せなくても、ヴィヴィドに生きていたヘレン・ケラーという存在。いったい、彼女の何が生きていたのか?覚醒したのは何か?
944. ほんの少しだけ、感覚を揺さぶられると、もう、ニンゲンは、自分がどこにいるのか、何をしているのか、わからなくなる。空海の手法。戒壇めぐり。
945. 時代には、いつも、その時代にふさわしい死生観が生れる。神話の時代の、宗教の時代の、科学の時代の。宇宙の時代の死生観とは何か?
946. 一番の恐怖は、終りのない苦痛である。永遠は恐怖だ。
947. 気絶する人がいる。無限の中の生の一回性に目覚めて。しかし、歩け!!
948. 歩くと、いつも、中心が動いているという感覚が生じる。(私)という不思議が歩いているから。
949. 痛みは、ニンゲンの、良い部分を殺してしまう。何を考えだすかわかったものではない。
950. 中心を失ったニンゲンは苦しい。どこもが中心であると言われても、救いを、求める、中心もない。
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• 火曜日, 5月 18th, 2010

1. 「ピストルズ」(講談社刊) 阿部和重著
2. 随筆集「一私小説書きの弁」(講談社刊) 西村賢太著
3. 「続審問」(岩波文庫刊) J.L.ボルヘス著
4. 「創造者」(岩波文庫刊) J.L.ボルヘス著
5. 「ヘレン・ケラーまたは荒川修作」(新書館刊) マドリン・ギンズ 荒川修作 共著 定価4,800円
6. 「どうで死ぬ身の一踊り」(講談社文庫刊) 西村賢太著
7. 「マラルメ全集」(全5巻)第1巻「詩・イジチュール」(筑摩書房刊) 訳:松室三郎・阿部良雄・菅野昭正・清水徹・渡辺守章 定価 19,000円

※21年の歳月をかけて、「マラルメ全集」全5巻が完結した。5人の翻訳者の方々にとっては、半生を費した仕事だろう。(訳者の一人、松室三郎氏は故人となっている)

なぜ、21年という長い、長い、歳月がかかったのだろうか?
①マラルメの作品は、実に難解である。(本当に、日本語として訳し得るのか?)
②没後、100年を過ぎて、次々に新しい資料が出て来た。

ちなみに、私が、第1回配本を購入したのは、1989年3月(東京の、八重洲ブックセンター)である。
「ディヴァガシオン他」(単価9,500円) 本文544ページ、別冊・解題・注解334ページ。
銀色の函に入っていた。帯文には「世界は一冊の書物へと到るためにつくられているのです」というステファヌ・マラルメの言葉が刻まれている。

出版社にとっても、息の長い、忍耐のいる、大きな、大きな事業であっただろう。

現在、小説(純文学)が売れない。詩は、もっと売れない。数十、数百冊単位だと云う。しかし、小説を書く人も、詩を書く人も、大勢いる。インターネットで、自由に、詩を書いて、発表している。

せめて、現代詩を書く人たちには、先人たちの詩を読んでもらいたい。
不出生のマラルメの詩に、一度でも触れる機会があれば、その人の詩作は、まったく、ちがったものになるだろう。

存在について、人間について、言語について、これほど、深く考えて、実践した詩人は、他にない。
現在でも、マラルメに匹敵する詩を書ける詩人はいない。(吉増剛造?)
難解なものに挑まない(知性)は、(知)ですらない。最高の詩、マラルメの「絶対言語」、それは、ニンゲンが作り出した、もうひとつの宇宙である。

21年間、待って、「マラルメ全集Ⅰ」を入手した。
感動は、実に深い。だから、読書はやめられない。
出版社・訳者の方々に、一読者として、お礼を言いたい。感謝である。

※ボルヘス再読。実に、切れ味が良い。ボルヘスの博覧強記に触れると、どういう訳か、いつも、日本の天才・南方熊楠を思い出してしまう。

※天才・奇才の荒川修作の「ヘレン・ケラーまたは荒川修作」も、実に楽しみな一冊である。

まだまだ、ニンゲンは、すてたものではない。思考は、活火山のように、爆発をしている。問題は、それを、読者が、共有する努力を惜しまないことだ。時間が足りない。

マラルメやボルヘスの作品に触れると、どうしても、現代の日本の作家たちの作品が、色褪せてみえてしまう。
作者たちは、青くなって、必死に、思考し、文章を紡がねば、いつまでたっても、衰弱する文章しかひねり出せまい。

文学は、科学のようには、進化をしないものだ。思考の密度、文章の格がちがうのだ。
日本の作家で、対抗できるのは、おそらく、零記号のような文体をもつ古井由吉くらいだろうか?古井由吉は、そこに、石が存在するように、文章を存在させる域に達している唯一の人・作家である。