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• 土曜日, 3月 20th, 2010
601. 共感覚というものがある。木を見ていると音楽が聞こえる。数字を見ると絵が浮かぶ。菓子を食べると風景が見える。石に触ると匂いが流れる。まだ、まだ、人間には、不思議な力が存在する。どこまで発見できるか、どこまで開発できるか。
602. (1+1=2)は、科学である。(1+1=3)は、宗教であり、文学だ。論理と想像力と信心。不条理、不可能へと人は、歩みたがるものだ。
603. まるで(私)というものが、一切、存在しなかったかのように、宇宙の時間は過ぎていくから、誕生も死も、人間同志の眼差しの中にしかない。無限の中の1は、零に等しいということか。やれやれ、ニンゲンの叫び声もとどかないか!!
604. 光という存在が、鍵を握っているのは、とうの昔からわかっている。光という音信は、ニンゲンにとどいているのに、その暗号が読みきれない。
605. 宇宙地図は、何時頃、完成するのだろう。迷い児のニンゲンは、浮遊しているだけだ。あてもなく、偶然に偶然を重ねて。
606. お前は、何が楽しくて、何が苦しくて、浴びるように酒を呑むのだ!!赦してくれ、酒呑みの論理。
607. 正しい論理に反揆して、故意に、足を滑らせてみせる、天邪鬼がいる。負のリアリティが欲しいのだ。
608. 世の中、金ばかりじゃないよと言いながら、舌の根も乾かぬうちに、経済、経済が一番、生活第一だよと唱える人がいる。
609. 存在の底はぬけてしまい、時空はゆがみ、ニンゲンのセイカツが、まるで、絵空事のように稀薄になる。
610. 人間は、まだ、太陽のひとつも創りだせない。1000億個の太陽、1000億個の銀河、宇宙という自然は、人間原理を確実に無化してしまう。
611. 異空間、異次元へと通過できる存在でなければ、宇宙の旅は不可能だ。
612. 問いには必ず、答えがある。では、1000万分の1の原子の形を見るように、130億年の超球宇宙を見れないものか?と問うてみる。おそらく、見るという方法自体が、変わらなければなるまい。脳が写す宇宙の見方?何?それ?
613. 宇宙と響き合うように在りたい。(私)は、何者であっても良いと。
614. 先日、高校時代の同級生2人に会った。長い間、別々に、生きてきた3人が、偶然会った。今日の自分が、この場に、この私としているのは、ほぼ(偶然)という力に依っている、それが、3人が出した断定的な結論であった。大きな存在の力を、お互いが認めている証拠だった。
615. 現在(いま)の私の状況は、どうも、形や習慣や法からはみだしていて、身の置き処に、戸惑っている。そんな訳で、私という形態までが、不確かになっている。
616. (私)のイメージが定まらないと、小説も書けない。同時に、私の生きている日常も共振れしている。日常と小説を書くという事実が入り組んでしまって、どちらが、表か裏か見分けがつかない。モノを本気で考えはじめると、いつも、こういう状態になる。
617. モノが完全に露出する時、眼も耳も、全感覚が対応しても、間に合わない。爆発の中の痙攣。
618. モノが、人間の手に負えない深淵を覗かせる。まるで、夢をみる夢のリアリティの畏怖と同じだ。
619. 宇宙の総エネルギーに立ち向かわない(純文学)は、滅びてしまう。
620. 「毎日が日曜日」の齢となった。考えてみれば、色分けされた日々が消えて、一日という時空に、私の影しか写らぬ透明な、鏡が出現したのだから、分身を殺して、私自身を生きられる。
621. 闇に闇を重ねて、一切の形を消し、光という色を消しても、まだ、闇の底の底に、蠢いている者がいる。
622. 時間の経つスピードが、日によって変化をする。遅くなったり、早くなったり、幸いに、まだ、止まることはないが。
623. 最近は、市内に、葬儀場ばかりが増えて、電話で、セールスまでしてくる。それでは、もう死にますか、まだですかと問合せをされているみたいで、実に気分がわるい。無言で受話器を置く。墓の予約、葬式の予約、言葉は、互助会員の募集とまであるが、妙な世の中になったものだ。
624. おそろしいほどのスピードで、文字(言葉)が、私の中から溢れだしてくる。湧きあがってくる宙に浮いた文字を写す手が間に合わない。いったい、私のどこから、その言葉が湧きあがってくるのか、わからない。私は、記述するマシーンになる。
625. どこまでも、読み込んで、読み込んで、コトとモノの森の奥処へと進んでいくこと。
626. 若い頃には「人生は一行のボードレールにも如かず」という芥川龍之介の言葉に妙に感心していた。いったい、何を考えて生きていたのだ。現在(いま)なら「万書(本)は一人の生命(人生)に如かず」と断言できる。
627. 身の振り方を考えろ、そう言われて、突然、夢見ていた若者は、人生のハンドルを切った。ニンゲンの形にはいろいろとあるものだが、ひとつしか、選べない不便さがあった。
628. 銀河と銀河の大衝突を眺めていた。光の錯裂。眼が覚めると冷汗がでていた。頭の芯が疼いて、役に立たない。永遠の徒労感が来た。
629. 大声をあげて、歌を歌う。声にも年輪(齢)がでてしまう。高齢者のカラオケ大会。頭の中には、若き日の消えた夢々。
630. 無いものねだりを承知のうえで、ニンゲンは、もうひとつの命、もう少しと呟いてしまう。もう一年、いやもう一ヶ月、せめてもう一日でもと。
631. 満員電車の歳月が終ったら、身のまわりに、人の姿がない。いつも、何かが過剰で、何かが不足している。ちょうどいい人生などない。
632. お金を使うように、生命を使う。丁寧に、丁寧に、用心して、用心して。それでも、災いと病いと事故が来る。
633. 運が悪い人だと、諦めるわけにはいかないのが、人の情である。何故?理由は?原因は?と声をあげて、他人を、自分を、神を責める。責めて、叫んで、泣いて、静かになって、逝くのだ。
634. 遠くまではるばると歩いた人も、隣近所をうろうろと歩いた人も、結局、私自身へと還ってくる。みんな、同じ終着駅へとたどり着くのだ。
635. 課長、部長、社長という椅子を棄てたら、名刺と肩書きで通用した声が、無視されて、相手の声まで変わってしまう。私も、生のままの声を出した。どうやら、言葉まで、通じなくなった。
636. 肩の荷がおりると、急に、顔付きまで変わってしまった。
637. 名刺を破って、肩書きを棄てると、背をむける人、散る人、去る人、逃げる人、椅子に坐っていたのは幽霊か?
638. 無信心者の現代人には、慈雨の降ることはあるまいが、宇宙の雨は、平等に降る。
639. 深夜、闇の底で、存在の私語をきく習慣が身について、とびっきりの音信の訪れに耳を澄ましているが・・・。
640. 執行猶予の身の上で、ニンゲンは、いつか、爆発してやろうと身構えている。砕け散る星雲のように。
641. 舵はきちんと握っていたはずだが、天の川は、ニンゲンの横切れる川ではない。
642. 透明な扉が次から次へと閉っていく。一人、また一人と、ポロポロ、ポロポロ、扉の向こう側へと姿を消していく。他力に委ねるしか、術がない。
643. 深夜に、目が覚めて、独り坐っていると、身振いするほどの空虚が(私)を襲った。で、コップに一杯の水を呑んだ。
644. 130億年かかって誕生した(私)。(私)の死後も130億年の時間が流れる。ちょうど、心を病んで、身も心も分裂した人が、癒えるのに同じくらいの時間がかかるように。いったい、これは、何だ?時間という魔。
645. 人に邂逅する。何が、大切で、不思議だと言っても、偶然、この世で、人に会い、友人になることほど、貴重で、ありがたいことはない。魂と魂が交感して、響きあう快楽。他に何がある。
646. 気心の知れた仲間との対話は、特別なことを話さなくても、時間が熟れる。
647. 生・老・病・死は、誰にとっても一大事であるが、酒池肉林にうつつをぬかした、若き日々、にがい日々もあった。どうやら、生命にも、うねりというものがある。
648. 煙草はやめて、酒もほどほどに、親切な忠告は耳に痛い。それはそうだと頷きながらも、突然、爆発する、狂おしい声に衝きあげられて、深酒をする。
649. 素粒子を考えても、宇宙を考えても、ニンゲンのセイカツは、一向に、関係なく流れていく。人は普通の、眼の前の実業ばかり見て、経済が第一だから。で、競走で、神経が擦り減る日々を生きる。
650. なぜ、歓喜の歌や詩や小説は、ことごとく、失敗してしまうのだろう。(讃歌)は(悲歌)よりも、よっぽどむつかしいということか。
651. 書けないモノは、事象ではないし、おそらく(現実)でもない。
652. だから、抽象も、観念も、夢も、もちろん(現実)になる(現実)である。
653. 消えていくアレやコレ。別の時空へとスリップしていくものの、何と多いことか。
654. 残ったものだけが(現在)の(私)である。それで、充分か、不足か、淋しすぎるか。長く生きると、人は、誰でも、そのように在る。
655. 眠って、眠って、飽きるほど眠ると、不意に、起ちあがってくるものがある。お前は、いったい、何をしているのだ、と。(何モシタクナイ、何モデキナイ人へ)
656. 歩いて、歩いて、歩いて、見聞をひろめ、日本を、世界を、とびまわっていた人も、結局、最後の一歩でたどり着くのは(私)だ。
657. 苦痛、苦脳は、科学では救えない。現在は、科学、経済の時代であって、宗教は分が悪い。しかし、(救う)という一点が、宗教の存在理由であることにかわりはない。科学、医療、経済、哲学。(宗教)や(文学)は、今こそ、輝かねばなるまい。魂の渇いた時代に。
658. 唯心論と唯脳論
     ①脳の中にすべてがある。
     ②脳の中には、何もない。花も木も、水も空気も、すべてが、(脳)の外に在る。
     ③(脳)は、システムとしてのひとつの機能だ。
     ④見るというシステム。知るというシステム。感じるというシステム。考えるというシステム。
     ⑤そして、そのシステムは、スーパーシステムである(私)のものだ。
     ⑥(脳)は行動しない。行動するのは(私)だ。
     ⑦(脳)にはモノはなく、コトがある。
659. モノとコトは、いつも複眼で見なければ、(全体)が見えない。
660. 魂が歩いている。遍路さんである。お米やミカンやお芋をあげて、その肉体を支えてあげよう。お接待。私の分まで歩いてね。私の分まで祈ってね。
661. 遍路さんに、マレビトを見た少年期。海の彼方から、山の彼方から、運んできたものは、異国の、異界の、未知の言葉の束だった。
662. 「文学」は、お金も、権力も、性も、食も、労働も、殺人も、家も、自殺も、学校も、あらゆるものを、描かねばならない。哲学でも、宗教でも、現れぬ裸のニンゲンを。(私)という宇宙のあらわれる「本」
663. 鈴木大拙は、絵空事ではなく、本気で「浄土くらいあってもいいだろう」と宗教を唱える。人類の夢は、消してはならぬか。
664. 真実を語ることは、必ずしも、正しいとは限らぬ。宇宙の原理は、人間原理とは相入れぬから。
665. ニンゲンの実感できる距離は、どのくらいだろうか?1000キロメートル、1万キロ、1億キロ、銀河系の幅くらい?億・兆・石・京・・・・・もう、絵空事の距離になる。
666. 眼の中に、蚊のような点が飛びはじめた。眼・歯・足と衰えのしるしが襲ってきた。使って、使って(私)が擦り減っていく。あと少しの辛抱だ。そのうち、(私)が飛んでいく。彼方へ。
667. 不思議なことに、どの部屋に入っても、その空間が放つエネルギーや気配がちがう。ホテルは、もちろん、会社、学校、デパート、劇場、食堂、酒場。で、私とその部屋・空間の関係に、濃淡があるのに気がつく。坐っていると、空気の質感までちがっているので、すぐに、相性の度合いが計れてしまう。部屋も生きものである。
668. 何かの本で、「壁が記憶をもっている」という文章を読んだことがある。モノ自体、風景自体、自然までも、当然、記憶の層を持っている。私も、そう感じ、考えはじめている。
669. 人類が滅びても、ビグともしない宇宙である。しかし、時空に生命が発生したのは、奇跡である。宇宙自体を見る眼をもった、ニンゲンが誕生した事実は、誇ってもよい。見られた宇宙もわかっているだろうが。
670. 宇宙そのものが、自分を見てやろうと、生きものを、眼を、誕生させた。宇宙が、宇宙自体を見て、いったい、なんになるのだろう。どこか、おかしい。何が?
671. 毎日、毎日、生命の海を泳いでいる、億・兆の生きものたちに、食べて、食べられての関係の中で、禁止という一本の線を、ひとつの法を、振りかざしてみたところで、ニンゲンに便利で、都合の良いものにすぎない。
672. 蟻を、鳥を、魚を、ニンゲンよりも低いレベルの生物と位置ずけてみたが、実際、本能という学習のみで生きる彼らにも、優れた美点は山ほどある。下等動物と呼んだニンゲンが昆虫に、魚に、鳥に、嘲われるくらいだ。虫けら、獣とあなどっていたが。
673. 10余年の社員生活には、希薄な風が吹いていた。20余年の経営者生活には、突風に、たつ巻に、台風まで吹いていた。
674. スピードと効率だけでは、人間は、いつかは壊れる。花見酒があり、紅葉狩りがあり、緊張の中にも、弛緩のひとときがいる。
675. 旅。眼線をあげて、遠くへと。春の岬。夏の砂浜。秋の渓谷。冬の雪国。歩いて、空の青、歩いて、山の緑。海の光。満天の星。眼も耳も。足も腕も。五感全開の旅へと歩を進める。
676. 魂を磨くために、坐禅をする。食は他人からもらって。(修業者)A
677. 労働だけの日々だ。身体を壊しながら。魂のことなど放っておいて。(サラリーマン)B
678. 働いて、食べて、魂を凝視めて。(現実)は、どうも、中庸にならない。AかBの極端に走ってしまう。
679. 森に入れば、山に入れば、神社に参れば、身も心も、清涼な空気に洗われるが、街に帰れば、家に帰れば、会社に行けば、もう、身も心もストレスで染まる。
680. 毎日、歩いて、歩いて、他人に会ってみればわかる。ニンゲンの容量が見えてくる。
681. 頭が火照り、顔が痙攣し、心が寸断されて、バラバラになるほど、一日、働いてみると、静かに、眠りにつくことも出来ない。そんな時だ、酒、酒、酒と声をあげるのは。
682. きっと、歩き方が悪いのだ。靴の外側ばかりが擦り減ってしまう。で、いつも、(私)は、傾いて歩いてしまう。
683. もうひと仕事と思う反面、やれやれ、また、火事場へと足を運ぶのかと呟く声がある。
684. 昏れていく人、消えていく人、去っていく人、冬は、心身ともに、冷えるので、暗い姿ばかりが目についてしまう。葬式の看板。
685. 暗いニュースを、見ることも、聞くことも、読むことも、できないくらい、傷が深いので、三匹の猿になると女(ひと)はいう。本気だ。見ざる、聞かざる、言わざると。
686. どんな思考をすれば、どんな存在に変化すれば、ニンゲンは、130億光年の宇宙の彼方を手に入れることができるのか?日々、夜々、歯ぎしりしているうちに、終に、存在(こいつ)が、妙なうめき声をあげた。
687. 正しい問いがあれば、必ず、正しい答えがある。−そんな声を信じて。さあ、問え。
688. 宇宙のインフレーションになる。すると、ほぼ、光速で、時空を疾走できる。乗り物、宇宙船に乗るという発想を棄てなければならぬ。自ら飛ぶものに成る。
689. 黙々として、考える、それ以外にどんな方法がある。夜を徹して。光の中でも。
690. 眠りは、実に、不思議だ。一日一日、毎日毎日、ニンゲンは眠る。夜と昼があるから、眠るのか。眠るリズムが襲ってくるから眠るのか。人生の半分も眠っている。もったいない。夜だけの時空、昼だけの時空へと飛び立つと、地球人であるニンゲンは、眠ることができるだろうか?それとも、ずっと眠り続けるのか?果たして、宇宙の眠りとは、何か?
691. 蟻たちの仕事の流儀は見事なものだ。一匹残らず、歩いて、歩いて、餌を運び、巣づくりをして、立派な本能に根ざして子供を残すために、あわただしく働いている。余分な蟻、暇な蟻、手振らで帰る蟻など一匹も見当たらぬ。統一の、組織で、共同の目的にむかって、歩いて、歩いて、働く形式は、ニンゲンよりも、上質かもしれぬ。虫ケラという言葉を返上しなければならない。
692. 人はなぜ、彼方へと想いを馳せるのであろうか。一生かけて、砂漠を歩いて天笠まで行った人、海を渡って、長安の都へ行った人、月まで行って、歩いた人、時空の、彼方は、どんどん遠くなり、いつまでたっても、約束の地へは逞りつけないニンゲンである。
693. 膜。バリア。磁場。外と内。私と非私。壁と襞。在ると無い。棒と筒。点と線。形とのっぺらぼう。何やら、意識が点を追うように、あちらへ、こちらへとびはねて、(私)は、落ち着かぬ。透明な線が、眼の外を疾走しているが、いったい、何が起きているのか、見定めがつかない。揺れている。
694. 存在(これ)の発見、つまり、(私)と呼ばれているものの発見から、すべてが始まった。呼ばれて、呼ばれて、その名前が(私)だと知ることになる。名前を呼ばれ続けると、名前は(私)そのものではないとわかった。で、いつまでたっても、?が(私)である。
695. 「お前という人間は・・・」と他人に言われ続けているが、そのお前と(私)が重なりあった時(ためし)がない。誤解はいつもそこからだ。
696. 売り言葉に買い言葉で、お互いに、相手の欠点、短所、悪口を並べて、批判し続けているうちに、その人も、自分も、ニンゲンからはほど遠い怪物になってしまって、口を噤んだ。気分が沈む。寒いだけ。
697. 善人、悪人も救われるというなら、もう一歩踏み込んで、生きとし生けるもの、すべての存在が、救われると言わねばなるまい。「悪人正機」から「全存在者正機」へと。
698. 狂った魂は、もはや、自分自身の手では、どうしようもないのだから、他力を超えた大きな力に委ねるしか術がない。
699. 泣く暇も笑う暇もなくひたすら歩いて、歩いて、モノを売った。歩く先々に、崖があったが、歩かねば、深淵が口を開けていた。
700. 眉間にタテ皺を寄せて、額が硬直したまま生きていると、笑顔を忘れる。1日1、2度は鏡を見て、笑い方のレッスンをすること。(自戒)
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• 土曜日, 3月 20th, 2010

長い間、大江健三郎の小説を読めなかった。若い頃、「万延元年のフットボール」は、その時代の最高の作品だと思って、2度、3度、熟読をした。ニンゲンという存在の、新しい形が出現したと思い、存在を切開く文体の魅力に、身を委ねた快楽があった。

しかし、それから、発表された、様々な作品を購入はするのだが、途中で、中断してしまった。私の生きている呼吸のリズムと、作品が、反揆しあって、どうしても、リアリティを感じられないのだ。セールスマンとして働いているニンゲンの現場に、大江健三郎の声がとどかない、いや、私の感性が、もっと、別のものを求めていて、大江作品のめざすものから、ブレてしまったのか。

私は、「芽むしり仔撃ち」と「個人的体験」と「万延元年のフットボール」が、大江作品のベスト3だと考えていた。

決して、江藤淳が批判したような、人工的なものを、「万延元年」に認めて、読まなくなったのではない。

読者が、ある作家を必要とする、あるいは、その作品を読み続けるという時には、必ず、自分の生きる、深いところにある理由が、作家と、作品と触れ合わなければならない。

長い、長い、未読の後、「水死」に出会った。2、3日かけて、一気に読み終えた。不思議だ。文体が、全身に貼りついてきた。なぜ、今まで、中断したのだろう。文体は、ほとんど、その人の生理だ。自由自在に変えられるものではない。大江健三郎が変化したのか、読者の私が、変化したのか、とにかく、水を呑むように、私の魂の琴線が鳴り響いた。

やはり、大江健三郎は、おそるべき、才能の人だ。人も文体も変化していた。

「本」は、ニンゲンという存在とその生きかたに至る、すべての現象が、現れていはければならない。「水死」には、初期の、四国の森、「個人的体験」の核となった家族の不幸、そして「万延元年のフットボール」で展開された、存在の探求、すべての、大江健三郎の(核)があった。

大江健三郎は、何を生きてきたのか、今・ここを、どう生きているのか、現代の空気をどう吸っているのか、父をめぐる考察は、思考の襞を、四方八方にひろげながら、戦前・戦後の日本人の、生きざまへ、魂のあり方へと、天皇へと、疾走する。

書くことは、読み込むことである。

どこまで深く、モノとコトを読み込んでいくかが、作家の腕の見せどころであり、大江健三郎は、(知)のすべてを、「水死」に注ぎ込んでいる。

50年以上、最前線で、現役として、「小説」を書き続け、高齢者になった今も、衰えを見せない。

老いあり、病いあり、傷あり、高齢者社会がかかえている問題が、すべて、大江健三郎の身にも振りかかっている。つまり、ノーベル賞作家も、スターも、同じ地面で、生きているのだというリアリティ。

私は、「水死」の中では、死んだ母の姿が一番リアリティがあると思う。作家への、良き批判者・ものを書くこともない人の、良心のあり方が、貫かれていて、胸が痛い。

複雑な構成、数々のアイディア、エピソードにあふれる「水死」ではあるが、物語の紹介は、一切しない。

私が、ふたたび、大江健三郎の小説が、読み通せた理由は、実は、大江健三郎というニンゲンが、現代の、薄い空気を吸いながら、普通に生きている人と、同じ地面に立っている、その姿そのものを、語ってくれる、魂のやわらかさにあった。

鳴り響く声は、未読の30年という時空を飛び超えて、「万延元年のフットボール」へと直結した。それにしても、魂に沁みる。

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