Archive for the Category ◊ 作品 ◊

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• 火曜日, 4月 14th, 2015

3001. アフォリズムは、量子のコトバである。詩は、原子のコトバである。小説は、元素のコトバである。

3002. アフォリズムは、時空を跳ぶ。詩は、時空で踊る。小説は、時空を歩く。

3003. アフォリズムから、詩が誕生する時もある。アフォリズムから、小説が誕生する時もある。詩から小説が誕生する時もある。しかし、決して、その逆は、起こらない。

3004. 一人のニンゲン(作家)が、同時に、アフォリズム、詩、小説を書いている。どうか、(私)のコトバを読んで比較してもらいたい。コトバは、結局、存在である、と、わかってもらえるだろう。

3005. 見えなかったモノ、見えなかったコト、見えなかった場所、見えなかった時間、見えなかったヒト、見えなかったカミ、が見えて来て、新しく存在する。もうひとつの宇宙、アフォリズムでありたい。

3006. 宇宙のはじめてのコトバ。量子が量子に私語するその呟きである。音もなく、形もなく、虚空に流れ渡る量子のコトバ。

3007. アラヤ識の深淵から種子としてのコトバがニンゲンにも伝わってくる。

3008. 場を超えて、時を超えて、コトバは、瞬時に交接するのだ。

3009. コトバが先に来て、(現実)がコトバのまま起きる。この不思議を、(私)は、何度、経験したことだろうか。

3010. 即視感でもなく、啓示でもなく、コトとモノの関係が、あたかも、仏教の、縁起のように結びついているのだ。生きているのは、誰だ?何だ?

3011. 人の中に人が棲む。”結ばれ”の究極の形である。

3012. 人が人のように語る。木は木のように語る。鯨は鯨のように語る。石は石のように語る。(語る)方法はちがっても存在が現成することに変わりはない。

3013. 時空に、転写された(私)が在る!!

3014. 四次元に投げ込まれたまま、生きている(私)だ。

3015. 蝉が殻を脱ぎすてる。蛇が皮を脱ぎすてる。ニンゲンの(私)も、一日、一日、(私)を脱ぎ棄てて、生きている。透明で、眼に見えぬ殻と皮ではあるが。

3016. (私)のアイデンティティを、君は、何に、何処に求めている?少年の(私)、青年の(私)、中年の(私)、老年の(私)・・・今だ・・・何時の今か?

3017. (私)という時の流れとともに行く者の、今を、認識するのは、辛いものだ。

3018. 歩くことが考えることであり、歩くことが生きることであり、歩くことがニンゲンであることであり、歩くことが存在そのものであり、歩くことが宇宙である。そんな時空を、私は、歩き続けたい。

3019. コトバは、宇宙エネルギーである。

3020. 原エクリチュールは、波動のコトバに至る。

3021. 波動を声と文字という型に。その原型は「阿」字である。

3022. 超球の時空には、コトバは、一瞬にして、あらゆる場に顕現し、現成し、遍在する。

3023. カミの声も、仏の声も、真言も、コトバへの転調で人の耳にとどく。何人が、その声を聴いたか?

3024. 形も色も質量も、無礙となり、「事」も「理」も1へと至る。

3025. ニンゲンの意識の眼は粗い。ニンゲンの思考の形式は、(考える)その外へ出ることはない。(見えないもの、考えられぬもの)

3026. で、ダーク・マターは眼に見えぬ。量子は考えられぬ。どちらも、宇宙のエレメントである。

3027. 存在から無へ。無から存在へ。無限に流動する宇宙エネルギーだ。

3028. 身体といい、精神といい、(私)は、私という魂に、いったい何をしてあげられるのだろうか?

3029. 瞬間が、一秒で、コトを決する時がある。(私)の一切を開いておけ!!

3030. 見るだけで、聴くだけで、触るだけで、ヒトを変えてしまう力が存在する。

3031. 今日も、木は、垂直に立って木をしている。(私)は、歩いて、ニンゲンをしよう。

3032. いい学校へ行きたい。いい会社へ行きたい。いい仕事をしたい。いい生活がしたい。いい老後を送りたい。いい死にかたをした。さて、ニンゲンは、いったい、何を目的に、生きてきたのか?

3033. 太陽ひとつ、爆発をする。銀河ひとつ、爆発をする。なんの不思議もない宇宙である。3.11は、宇宙の一瞬のまばたきか。それでも、ニンゲンは、絶句し、卒倒するのに。

3034. 最近では、生きる、というよりも、時空に折り込まれているような気がする。

3035. 場は、一切を吸収する。光も影も。

3036. (私)の自由などちっぽけなものだ。宇宙に浮遊してみると、不自由だらけだ。

3037. いのちという繊維を織って、織って、もう境目というものが、見分けられない。

3038. 光に共鳴する日には、いのちが弾ける。闇に共鳴する日には、いのちがくぐもる。

3039. 今、ここに(私)を結んできたが、生の真っ盛りが見当たらない。うろたえるな、ソレがお前だ。

3040. 気配がするので、振りむくと、木がいた。

3041. コトバに乗っ取られた男がいた。(私)が生きているのか、コトバが生きているのか、まるで、21世紀のドン・キホーテである。

3042. どうだい?ボチボチだよ。何かあるか?いいや、特別に。

3043. 妙な者だ。電話を掛けてきて、何も言わない。あれは、生者だったのか?あれは死者だったのか?

3044. 時間が色づくっていうのは、本当だったね。

3045. とりとめのない、単調な、一日、一日、気配まで、薄くなって。鏡は正直だ。

3046. 性欲も、物欲も、欲という欲が痩せ細っていく。さて、光って、散るか。

3047. そろそろ来るか?何が?待っているものが、無限遠点から。

3048. 指を折ってみる。何を数えておるのか、子供みたいに。節くれた指で。

3049. 今日も太鼓が鳴っている。生命の行進のために、虚空で。耳を起てろ。

3050. 死と再生の儀式にはシンバルだ。

3051. (私)は、あなたの手を握ったのに、あなたは、ただの(手)になってしまった。

3052. 声をかける度に、あなたは、いなくなってしまう。

3053. いつまでたっても、あなたの顔を上手に見たことがない。(私)の、見方のせいか?

3054. 空振りの人生も、それなりに、1日の積み重ねの結果であれば、分身に文句は言うまい。(私)は、存在したのだ。

3056. (私)のためだけに生きるから愚痴がでる。(私)を棄てて、他人のために生きてみれば、(声)が返ってくる。生きることは(声)の交感である。

3057. 我執、我欲、我が張りすぎるのも、生きものの本能である。決して、悪いとは言わないが、(無私)がいいに決まっている。

3058. ある歳を過ぎると、ニンゲンは、内的に、内的になっていく。行動で表現していたものが(仕事)消えてしまうと、外の場で発揮していた(私)が、突然、いなくなるからだ。

3059. 闘う相手、敵がいるうちは元気だが、(私)自身との闘いとなると、大抵の人が、音をあげてしまう。

3060. 心の、深部へ、古層へと、降りていく作業は、何がでてきても、決して、驚かないこと。

3061. 「本能」は、生物たちの礎である。しかるに、ニンゲンは、壊れた「本能」で生きている。「本能」よりも「知」を優先させて、生きている。(生)の昂揚は、「本能」から来るものだ。衰弱した(知)は、健全な「本能」に、劣るものだ。

3062. 胃が、腸が、噛みくだき、吸収する器官が健康でなければ、健全な(知)も育つまい。「本能」を軽蔑する(知)は愚劣である。

3063. 終末論は、ニンゲンを死の淵に追いやる。そして、脅かして、跪ずかせるのだ。(宗教に、神に)どこか、おかしいだろう。(私)の死は、終末の世でなくても、いつでもやってくる。

3064. 宗教は、道徳は、倫理は、ニンゲンのどこから発生したのか、もう一度、胸に手を当てて、考えてみよう。

3065. 貧血を起こしている政治家の言葉は、耳にとどく前に、萎えて、消えてしまう。心の、魂の、言葉を語れよ。

3066. 多数決という方法は、口惜しい。必ずしも、(真)ではないという理由で。

3067. 99対1であっても、(我行かん)と、(私)の信念を貫く人もいる。

3068. 隠れた人は、よく生きた。願わくば、(私)も、普通の、任意の点として、生きたい。

3069. 経済、貿易、数字とお金の話ばかりだ。至高のニンゲンのヴィジョンの影すらない。

3070. 眼に見える身体だけがニンゲンなら、こんな楽なことはない。見えないものまでかかえているから(考える)のだ。

3071. 人生、生きるに足るものを、持たなければ生きる意味は半分以下になる。もったいない。

3072. 独りで穴を掘っている。思考が入る穴。(私)がすっぽりと入る穴。

3073. 本能による子育て、教育による子育て、ニンゲンほど手のかかる生きものはいない。

3074. 水のPH。生命の閾。ニンゲンは水を真似て、生きるはずだ。

3075. 一切を見たい、一切を知りたいと、誰もが考えるものだが、生きるとは、いつも、途上であるから、一切は、わからない。で、(私)という物語を仮想して、二重に、生きてみる。

3076. 死ぬという可能性は、誰にもある訳だが、死の不可能性も、誰にでもある。

3077. (生の強度)を高めてみる。どういうことか?何か、素晴らしい仕事をする、そんなものではない。より、多くのことを、壊れる寸前まで、わが身に、引き受けてみることだ。

3078. 宇宙大の、責苦に耐えられる者は、もう人ではない。名付け得ぬものである。

3079. とにもかくにも、生きてきたことであった。すでに、始まっている物語に参加して。見様見真似の、拙い、方法で。

3080. 人間は、二度放り出される。ニンゲンとして生れる時、訳もわからず、ニンゲンとして死ぬ時。

3081. 景色の意味は?ニンゲンは、すべてを読み解けるだろうか?

3082. 「空耳」という言葉がある。なんの音もないのに、音が聴こえてしまう。では「空眼」というものがあってもよい。何もないのに、見えてしまう。あるいは、平凡な山、林、森であるのに、そこに、ひとつのパターンや核を見てしまう。明察か幻視か。

3083. コトバが来る。啓示として、宗教者は体験をする。しかし、(私)のアフォリズムは、宗教体験ではない。それでも宇宙から来る。

3084. 「里道」が発光している。

3085. シグナルを読める人、読めない人。風景は、単なる景色ではない。

3086. 君の書くコトバには、君の指紋が貼りついている。実に、鋭い指摘である。

3087. いったい、指紋を消した文章など存在するのだろうか?

3088. 「完全言語」は、すでにあったか、(神の言)あるいは、来たるべきコトバの謂である。

3089. 生きれば生きるほど「すでに、知っていた」と感じてしまうのは、あらゆるものが、(私)の内部にあったということだ。

3090. (私)の中にないものなど、人は、生きられない。(私)の中にあるからこそ、知ったり、わかったり、納得したりするのだ。

3091. (私)の中にないものなど、ニンゲンは、承知できない。(私)が壊れてしまう。

3092. 意識が寄り道をしてしまう。奇妙な気分だ。

3093. 一日に、何度か、身体をひねる。自然に。ひねらなければ、わからないことがあるのだろう。(知を超える身体のコトバだ)

3094. (私)は、可能性へむけて、語っておるのか?いいや、わかっていることを語っても、仕方がない。不可能だから語りたいのだ。絶対に、コトバにならないと知りながら。

3095. 最近は、コトバが、何を語っているのかよりも、コトバの身振りが気になってしまう。

3096. やはり、コトバは呼ばれてくるので、一人一人の独想など何ものでもない。

3097. 書いていると、書かされている自分に気がつくはずだ。(啓示)

3098. (私)の中に、無数の(私)がいる力。

3099. 呼吸する、かのように、生きる!!

3100. あるとないが、交わって、螺旋状に、宙空に伸びていく、透明な、垂直の縄となって。

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• 月曜日, 3月 09th, 2015

海部郡宍喰町日比原出身の重田昇氏(43)の短編小説集「ビッグ・バンの風に吹かれて」(東京・沖積舎)が長編「風の貌(かお)」の処女出版から18年という長い沈黙を破って上梓(じょうし)された。団塊の世代、立松和平などを学友とする早稲田大学在学中から早稲田文学などに作品を発表し、純文学の旗手と呼ばれた氏も、今では東京で自ら経営する出版会社の社長となっている。五編の短編集からなる作品は沈黙の分だけ重厚なテーマに支えられている。

氏が挑んだテーマとは、人類のまだわからない未知の領域である。「ビッグ・バンの風・・・」は決してSFではなく、現代の知の先端と氏の詩的感性でもって未知の領域を表現しようとする野心作である。

例えば作品「岬の貌」には、泳いでいた男がおぼれ意識不明となり意識が戻るまでに体験する、生と死の境での行為が野太く巧みな筆遣いで描かれている。タイトルとなった作品「ビッグ・バンの風に吹かれて」では、ある男が異次元でのあふれるばかりの光に満たされる体験や、未来を思い出すという体験などをした後、自分の意識ではどうすることもできず、手が勝手に人をナイフで刺してしまうという、奇抜なストーリーが展開されている。

理屈では解明できない経験をした者が、そのことを人に語るとき、二つの答えがすでに用意されている。「うさんくさい」ととりあわないのが一つ、もう一つは信じることである。体験が理性や科学で理解できないとき、人はそう答えるしか仕方がないからである。けれども、重田氏の表現の視点は、そのいずれかに、読者を導くものではない。

作品のテーマである人類の未知の領域や解明できない体験を表現するとき、おそらく重田氏のバックボーンには人間の深層心理を持つ狂気性を探ったミシェル・フーコーとか、まばゆい光におおわれる神秘的体験から精神患者が完治するのをみたユングやトランスパーソナル派の心理学者らの体験が息づいているに違いない。あるいは、二十世紀の物理学の基礎である量子論と相対性理論によって仏教・道教など東洋思想と同じ世界観を持つにいたったフリッチョフ・カプラなどに代表されるニューサイエンスとよばれる物理学者など、結局のところ「人間とは何か」を問うその他の大きな知が渦巻いているのであろう。

こうした現代の先端の知の裏付けと、詩心に基づく、帰納的な人間の探求が重田氏の姿勢であり、その姿勢が孤高の作品を形成させるのであろう。作品は、知の蓄積がもたらした純文学の高みと評価したい。

見識のある文学好きの読者にはぜひお薦めしたい本であり、現代の知を捕らえ直すにはおもしろい一冊である。

最後に作品「夏薔薇(ばら)」などに代表されるように、登場する多くの風景描写は空も海も雨も、私には県南・宍喰町のものであるように思われたことを付記しておく。

(詩人、日本ペンクラブ会員、徳島市新浜町二丁目)

(徳島新聞1991年5月10日号)

【ビッグ・バンの風に吹かれて】※PDFファイルが開きます。

【ビッグ・バンの風に吹かれて 書評】

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• 火曜日, 8月 19th, 2014

イッタイ 何人ノ人間ガ宇宙樹(コズミック・ツリー)ヲ視タカ?
花を見る
花が見る
幻花を見る
幻花が見る
現(うつつ)も夢(ゆめ)も ひとつの事象(コト)である
視よ 花が現成(げんじょう)している

視るも
聴くも
歩くも ひとつの行為(コト)である
決して 別のものではない
根はひとつである
色は音に
音は色に
色も音も歩いている

モノにも
ココロにも
宇宙にも
コトバを 正しく 置く
すべての時空に
存在にも 非在にも
コトバは開かれている
その時
自心の源底に至った時
存在はコトバである
コトバが存在ではない

視ヨ 宇宙樹(コズミック・ツリー)ガ ソノママ
現成シテイルデハナイカ!!

※井筒俊彦のコトバ。『読むと書く』より。

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• 金曜日, 7月 18th, 2014

1. 「空海素描」(高野山大学刊) 竹内孝善著
2. 「異邦人」(新潮文庫刊) カミュー著
3. 「カミュ論」(筑摩叢書刊) モーリス・ブランショ著
4. 「反抗的人間」(新潮社刊) カミュー全集
5. 「革命か反抗か」(講談社刊) カミュー=サルトル論争
6. 「ペスト」(新潮文庫刊) カミュー著
7. 「最澄と空海」(吉川弘文館刊) 佐伯有清著
8. 「空海と密教美術」(洋泉社刊) 竹内孝善・川辺秀美共著
9. 「空海」(吉川弘文館刊) 高木訷元著
10. 「あなただけの空海」(小学館刊) 立松和平・
竹内孝善共著
11. 「空海の本」(学研刊)
竹内孝善・竹内信夫共著
12. 「井筒俊彦全集」第一巻(アラビア哲学) (慶應義塾大学出版会刊)
13. 「昭和の貌」(弦書房刊) 写真:麦島勝 文:前山光則
14. 「新約聖書」訳と注「使徒列伝」
(作品社刊) 田川建三著
15. 「
新約聖書」訳と注「ヨハネ福音書」(作品社刊) 田川建三著
16. 「未明の闘争」(講談社刊) 保坂和志著
17. 「
明治の風、子規と鴎外」(イースト株式会社刊) 壬生洋二著
18. 「名作に見る比喩表現」
(イースト株式会社刊) 壬生洋二著
19. 「流星ひとつ」(新潮社刊) 沢木耕太郎著
20. 「晩年様式集」(講談社刊) 大江健三郎著
21. 「廃炉詩篇」(思潮社刊) 和合亮一著
22. 「宇宙が始まる前には何があったのか?」(文藝春秋社刊) ローレンス・クラウス著
23. 「サバイバル宗教論」(文春部書刊) 佐藤優著
24. 「禅仏教の哲学にむけて」(ぷねうま舎刊) 井筒俊彦著(野平宗弘訳)
25. 「『生』の日ばかり」(講談社刊) 秋山駿著
26. 「<世界史>の哲学」(講談社刊) 大澤真幸著
27. 「井筒俊彦全集」第四巻(慶應義塾大学出版会刊) 井筒俊彦著
28. 「地下室の手記」(旧:地下生活者の手記)(新潮社文庫刊) ドストエフスキー著 江川卓訳
29. 「江戸版 親父の小言」(大空社刊) 解説:小泉吉永

8月の眩暈に続いて、11月に、歩行が困難となった。
眼と耳と、肩と腰の筋肉の硬直。読めない、書けない、話せない、聞けない、歩けないの五重苦が来た。
読むと、眼の中で、活字が泳ぐ。見ると、映像が動いてしまう。大きな音、声は、耳が拒否する。考えがまとまらないので、上手く話せない、従って、書けない。散歩でもと思って歩くと、電信柱が右に左に揺れる。店に入ると、足がすくんで、光が乱反射して、歩けない。
ほとんど、死んでいる。コレは、重田昇ではない。何か、別の生きものだ。

身体からココロへと、症状が転移する。ウツになる。心身症状態である。
約半年間、「読書」ができなかった。六つの病院、九人の医師に診てもらったが、原因がわからない。疲労から過労へ。老化?ストレス?身体の不具合?
結局、終日、「呼吸法」と「瞑想」を行った。ココロと身体を、呼吸で、調整した。瞑想で、苦を解き放った。マッサージから、カイロプラティックへ。

5月に入って、ようやく、(普通)の状態が戻ってきた。杖をついて、歩く毎日から解放された。
やれやれ。
知識では、ココロの病いを知っていたが、自分の心身を通じては知らなかった。あらゆる能力が低下して、機能しなくなることは、ニンゲンにとって、恐怖である。
加齢による病いには、切りがない。ガン、心臓病、糖尿病、高血圧、脳卒中。そういう年齢になったということだ。

「空海」の資料を読みはじめて、もう、三年になる。結局、実践の伴わない、修学では、「空海」は現れない、わからないと解った。

「井筒俊彦全集」の刊行が始った。母校の慶應義塾出版会から。
単行本では読めない作品が、収録されるのがうれしい。全十三巻、ゆっくりと、味わいたい。

田川建三氏による「新約聖書」訳と注も、全六巻まで刊行された、あと二巻、生涯をかけた大仕事である。作品社の健闘をたたえたい。

「昭和の貌」 九州、熊本に生き、地域の文化、人物の変貌を撮り続けた、麦島勝氏による写真集。
どの写真からも、平凡な日常の風景からも、人々の表情からも(昭和)が立ち昇ってくる。貴重な記録である。
風の匂い、人々の表情、気配、どれをとっても、「昭和」である。
なお、文=解説は、前山光則氏。若き日の、文学青年の面影を知っている、私にとっては、忘れられぬ(文学)の友である。東京から、郷里の熊本に帰って、教師をしながら、地域の文化を書いている。

「名作に見る比喩表現」
壬生洋二・詩人。昔の文学仲間である。ブログで活躍。好エッセイを書いている。

「流星ひとつ」
自死した藤圭子と沢木耕太郎の対談。昔の、眠っていた原稿が、「本」となって、出版された。私の、学生時代に、藤圭子は、その時代の色を、歌ってくれた、ココロが共鳴する唯一の歌手であった。
「圭子の夢は夜ひらく」 「新宿の女」などなど・・・。
運命、宿命というコトバを身をもって、引き受け、歌にした、歌手であった。(合掌)

「宇宙が始まる前に何があったのか?」
宇宙論は、いつまでたっても、面白い。謎のまま終るのか、終に、ニンゲンがその正体を、見究めるのか、生きても、生きても、生きても、わからない、宇宙である。

「禅仏教の哲学にむけて」
井筒俊彦は、随分と、英語で論文を発表している。本書は、その英文を、他者が日本文に翻訳した書である。
井筒俊彦の(核)が、発見できる書である。

「『生』の日ばかり」
「死ぬ前に書くということ」 この本のタイトルは、編集者がつけたものである。秋山駿か、「『生』の日ばかり」で出版してもらいたかっただろう。時節を考えた、出版社がつけたタイトルである。
約40年、秋山駿を読んできた。お手紙をいただき、電話で話をし、酒を呑み、釣をして、対談、座談会までしてもらった恩人でもある。
「秋山駿」に対して、私のホームページで連載中の『コズミックダンスを踊りながら』で「鎮魂アフォリズム50作品<内部の人間>秋山駿に捧げる」を書いた。(2951~3000) 約600ページくらいの「本」になる予定である。

「江戸版親父の小言」は、江戸時代の寺子屋の教科書「往来物」の研究者、小泉吉永が発掘し、解説している。
小泉吉永は、学生時代に、神田の古本屋で、「往来物」を手にして、その魅力にとりつかれて、膨大な「往来物」を収集し、研究を続ける学者である。
縁があって、私が経営していた出版社で、優秀な、編集者として、働いてもらった男である。現在は、会社を辞めて、研究者として、活躍している。がんばれ、小泉吉永!!

(7月16日)

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• 水曜日, 7月 16th, 2014

狂いっぱなしの
存在という太鼓を
乱打している者がいる

身体に眩暈が来た八月
精神に眩暈が来た十一月
存在自体に眩暈が来た 何月?三月十一日
超球宇宙も眩暈しているのか?永遠に

独楽(スピン)する左巻きの素粒子たちよ
ニンゲンに垂直に立てと言っても
底もなく 中心もなく
何処に起点が置けるのか
座標軸が決定できぬ

私の自然の乱調である
分裂し
まるで
二十四人の多重人格者のように
一気に
私の内部(なか)へと雪崩れ込んで来た 誰だ?何だ?

歩行は 右へ左へ?上へ下へ?前へ後ろへ?
揺れに揺れて
ここは何処だ?
今は何時だ?
一切の判断も中止 ???宙吊りである

意識はとっくに
ゼロ・ポイントに陥っている
何が出て来ても 不思議ではない 時空の
ゆらぎの中で耐えている

さて
生きる・死ぬがどんなことであったのか
もう
すっかり 消え去ってしまった
終に
五十六億七千年の時が流れたのか
弥勒菩薩よ!!

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• 水曜日, 7月 16th, 2014

ニンゲンには、おびただしいものがやってくる。
事象であれ現象であれ、毎日毎日いや毎秒毎秒やってくるものがある。放っておけば、数秒で、数時間で、数日で消えてしまうものたちが大半である。

(私)は、やってくるものが、コトバに、変換される瞬間に、ノオトに、書き記してみた。約5年間に、3000のコトバが来た。(私)自身にさえ、意味不明のコトバもある。
イメージが来たり、気配が来たり、奇妙な音信が来たり、声が来たり、映像が来たり、その形姿はさまざまである。
深層意識から、無限遠点から表層意識から(私)の中心から、来るものがある。
必ずしも(思考)のみではない。直観もあれば、五感もある。

無数のものが(私)を構成している。
(私)の中で、あらゆるものたちが、コトバとなって、現成する。(私)は、それらのコトバを、アフォリズム(箴言詩)と呼んでいる。
書いた本人も、それらのコトバを読むと、深く、考えざるを得ないものもある。
読者も、3000の、アフォリズムを読んで、共に、コトバを、生きてほしい。

芥川龍之介、萩原朔太郎、埴谷雄高、寺山修司、パスカル、カフカ等が愛用した、アフォリズムの水脈を、私は、受け継ぎたい。現代に再生させる。
未来へ、未知へ、未だ開かれざる存在たちへ、コトバを投げかけてみる。
(私)の宇宙が顕現するものと信じながら。

2014年6月 記

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• 水曜日, 7月 16th, 2014
2951. 「内部の人間」トハ、イッタイ、何者デアロウカ。
内部の意識が無限速度で廻り続けて、あたかも、普通に生きる、生のリアリティと均衡し、あるいは、超えてしまっている人間のことである。(考える)ということを考える、球体の中に棲んでしまった人種(タイプ)だ。秋山駿は、(私)とは何かと問い続けて、「内部の人間」を生きた人である。
2952. 「内部の人間」トハ、誰カ?
北村透谷、中原中也、そして、秋山駿、李珍宇(小松川女子高生殺しの少年)。ラスコールニコフ(『罪と罰』)イポリット少年(『白痴』)地下生活者の役人(『地下生活者の手記』)そして、ドストエフスキーである。
2953. 「内部の人間」とは何者か、と考え始めると、もう、あなたは、「内部の人間」の入口にいる。
2954. 「内部の人間」も、ニンゲンである限り、外部世界・世間・社会に生きねばならぬ。そこで、矛盾が発生する。内部に生きることが、唯一の、絶対の存在の意味をもってしまう「内部の人間」が、果たして、意味を見い出せない外部世界に、どうやって、棲めるのか?生き延びられるのか?
2955. 秋山駿は「内部の人間」の声を「ノート」に記した。生きるために。決して日記ではない。考える・思索ノートである。(『内部の人間』)(処女作)から(『「生」の日ばかり』)(遺作)まで、類い稀な、思想のコトバである。
2956. 石塊(イシコロ)トハ何カ。
ある日、道端に転がっている石塊を拾ってきて、机の上に置いた。どこにでも転がっている、平凡な、普通の石塊である。秋山駿と石塊の対話がはじまる。見る、眺める、触る、噛む、割る、石塊とは何か、十日、百日、千日・・・。石塊は、私とは何者かという問いと同質であり、その存在が、秋山駿の存在を、照らし出した。(私は、一個の、石塊である、と)平凡な、普通の石塊は、秋山駿の中で、(普遍)へと達してしまった。秋山青年の知的クーデターの始まりであった。
2957. 石塊、砂粒、舗石、秋山駿の心性は、無機質の、単純で単調な、簡単なものへとむかっていく。断片、破片、切れ切れの存在へ。秋山駿は、決して、ココロの病者ではない。類似している心性・感情はあるが、分裂している訳ではない。「ノート」が(私)というものを、統一している。(『砂粒の私記』)(『舗石の思想』・・・中期の傑作)
2958. 石塊の行処?
ある日、義母が家を出るというので、秋山青年は、何もあげるものがなくて、一番大事にしていた、石塊をもって走り、義母に手渡した。自分の耳を切って、貧しい女に、手渡ししたゴッホの心性に酷似している。
2959. 秋山駿は、決して、抽象的な人間ではない。実に、具体的な人間である。文学のための文学を嫌った。あくまで、具体的なモノ、ニンゲン、セイカツから、考えることを始めた。存在そのものを考えはじめると、いつのまにか、その思考が、抽象的に見えるだけだ。
2960. 秋山駿のノートのコトバに触れると読者は、火傷をする。なぜか?すべてのコトバが、実際の、生きる為のコトバである、存在自体を考え尽くすコトバだから。強度の強い文体は、必死に生きる、考える、秋山駿の生の姿に比例している。
1000日たった。拾ってきた石塊は、もはや、以前の石塊ではなかった。純粋直観で見た石塊は、石塊そのものであった。ノートのコトバで考えた、石塊の物語である。
2961. 「内部の人間」のコトバと「社会」の言葉。「何をしている?」「考えるということを考えている。」「内部の人間」のコトバである。内部的意識が、語る。存在そのものが語る。私とは何か?と考える私・・・以下同様。それでは、社会に生きてゆけない。社会の言葉は、挨拶にはじまって、約束、契約の言葉である。記号である。ふたつのコトバは交わらない。衝突するのだ。秋山駿は、内部のコトバで生きる人だから、社会の言葉は、耳で聴いて、「なるほど」と返事をして、ココロの中を素通りさせてしまう。
2962. 秋山駿の「なるほど」と「うん」と「どうも」
他人の話を聞き終ると、「なるほど」と秋山駿は言う。決して、わかったという意味ではない。君は、そう思い、考えているのか、という了解の合図である。自分の話が終ると、必ず「うん」と最後に言う。まるで、正確かどうかを、再確認するかのように。他人に、贈り物をもらった時には、「どうも、な」と言う。社会の挨拶や、紋切り型のお礼が嫌手なのだ。ものをもらうと、必ず、持ち重りがする人であった。
2963. 「犯罪」と「内部の人間」
「理由なき動機なき犯行」(殺人)と新聞やテレビで報じられた、小松川女子高生殺しの少年による事件を、社会に抗って、「内部の人間」による犯罪であると断じたのは、秋山駿である。自分と同じ心性と思考を持っている少年に、同類の匂いを嗅ぎつけたのだ。二人の道は別れる。少年(李珍宇)は、内部の意識から一歩を踏みだしてしまう。その意識の延長を、犯行という現実に、接木をした。秋山駿は、ノートという、コトバの世界を創りあげた。そして、石塊になって、社会へ出た。社会で働いた。無用の者として、生きた。「内部の人間」のコトバを、生涯、手離さなかった。
2964. 「内部の人間」には、モノやコトとの自然な「結ぼれ」がない。決して、ココロが分裂している病者ではない。(酷似しているが、まちがってはいけない)ノートのコトバと社会の言葉が離反してしまうのだ。で、(私)のノートの声を殺して、複雑な手続きをとって、はじめて外部世界と関係を結ぶ。世間へ、社会へ、会社へと出ていくのだ。
2965. ニンゲンは、いったい、何を、礎にして、生きているのだろうか?
憲法、民法、戒、道徳、常識、倫理、あるいは、60兆の細胞の声・・・。秋山駿には、(「生」の綱領)がある。一個の石塊から、敗戦の焼け跡から、自らが発見し、創造した、生活とココロの掟である。「内部の人間」が生きるための、厳粛な規則であった。(自分の土地はもたない。自分の家はもたない。自分の子供はもたない。・・・以下、生活の細部に至って、規則がある)そして、83歳の生涯において、(「生」の網領)を実践した。
2966. ほんの、ちょっとしたことが、普通にできない(行為とコトバ)。
心の風景にあるのは、石ころ、砂粒、舗石、モノの断片、切れ切れのコトバ等々。心の病者と「内部の人間」秋山駿の心性は酷似している。しかし、秋山駿は、決して、病者ではない。(私)を統一しようとする、強い意思とノートのコトバをもっているから。ヒトとモノとの”結ぼれ”を喪失している、病者と秋山駿。病者は(私)を喪失しているが、秋山駿は、「石塊としての私」をもっている。石塊が歩くのだ。その実践の形が(私)を形成し、秋山駿となる。
2967. 「石塊とは何かという物語」
秋山駿は、道端に転がっている石塊を拾ってきた。どこにでもある、平凡な、なんの特徴もない、普通の石塊。そして、机の上に置いて、考えた。
①石塊がある。②私は石塊を見る。③私は石塊を考える。④撫でる、割る、砕く、噛む・・・石塊は石塊のままだ。⑤石塊は私に語っている。(石塊のコトバで)⑥石塊が私を見る!!※10日、100日、約1000日・・・石塊との対話が続いた!!⑦私は石塊になる(純粋直観)。⑧石塊!!石塊が現成する。⑨私!!私が現成する。
(私)はノートを棄て、石塊となって会社へ、社会へと歩きはじめる。
2968. 秋山駿の、あの「内部の人間」のノートの思想(コトバ)は、いったい、何処から来たのだろう?
①耳の手術(個の発見)(宇宙の中にただ一人の私)②石塊との対話(意識の発見)③戦後の焼け跡(現実の発見)が三つの原体験である。
2969. では、コトバは、何処から起ちあがったのか?
①中也のコトバは、秋山駿にとってココロの水準器であった。②ヴァレリーのコトバは、秋山駿にとって(知)のクーデターであった。③デカルトのコトバは、秋山駿にとって最も(信)のおける方法であった。④ドストエフスキーのコトバは、秋山駿にとって、魂の交憾であった。⑤小林秀雄のコトバは、秋山駿にとって、文章で、モノを”考える人”の手本であった。⑥ランボーのコトバは、秋山駿にとって、見者の予言であった。
2970. 日本の評論の祖・小林秀雄は、自らの生の評評化を断念して、天才たちの形姿を追った。ゴッホの絵、モーツァルトの音楽、ドストエフスキーの小説等。一方、秋山駿は、自らの生をどこにでもある平凡な、普通の一個の石塊と化し、団地の生活を、世間の声を、犯罪者の物語を、「内部の人間」のノートの思想として、生涯探求し続けた。
2971. 小説ではない。哲学でもない。評論ですらない。もちろん、日記ではない。ノートの思想(コトバ)は、「生」の現場から考える、「内部の人間」秋山駿の裸の形姿である。30年、40年(文学)から遠く離れて実人生を生きてきた(私)も、どういう訳か、秋山駿のノートの思想(コトバ)だけは、読み続けてきた。信頼に足る人間の声、形姿を、自分の眼と耳で追っていたかった。
①『内部の人間』(処女作)②『歩行と貝殻』③『地下室の手記』④『内的生活』⑤『舗石の思想』(最高傑作)⑥『砂粒の私記』⑦『「生」の日ばかり』(絶筆・遺稿集)
秋山駿のコトバは、時代の水準器であった。時代の流れに、社会の変化に、世間の声に、棹を差す、石塊のコトバである。
2972. ①私は石塊を見る②石塊は私を見る③石塊は石塊を見る④私は私を見る
そして「石塊!!」が現成する。「私!!」が現成する。井筒俊彦風に言ってみると。
秋山駿の中でも、1000日の間に、禅など知らずとも、似たような、ココロとコトバの転成が生じていたにちがいない。
秋山駿が使う(普通)は、普通の人が使う普通ではない。(普通)である秋山駿の、平凡な、どこにでもある石塊は、人々が見る、平凡な、どこにでもある石塊ではない。(普通)も石塊も、約1000日の対話を経て、ふたたび、顕現したものである。(石塊!!の現成!!)
2973. (私)の中心(内部)に私がいない。他人(医師)の声が(私)の中心にいる。(私)は、声に占領されている。(私)は、ノミとツチの音に占領されている。声が、音が、(私)の内部から聴こえる。
手術台では、あらゆるものが、手のとどかぬところに、存在した。ヒトもモノも。
(私)自身が私から遠い存在になった。(私)の喪失である。
まるで、蛸のように、裏返しにされて、自分もしらない(私)の秘密を、他人に覗かれる、「恥」の感覚が誕生した。「ホラ、これが脳膜だよ」
幼年期の、耳の手術が、秋山駿の原点・「内部の人間」の心性が誕生した瞬間である。そして、「片耳の男」となった、秋山駿は、大人になっても、自分が話し終ると、必ず「うん」と言うようになった。自分の声かどうか、正しいコトバかどうか、再確認をしているふうだった。
2974. 秋山駿のノートのコトバの中に立つ。いやノートのコトバを共に歩く。どこまで歩いても終らない、コトバの歩行がある。モノやヒトの形そのものが、ゆっくりと、低く、呟く声のもとに、顕現する。単色の、存在そのものの世界が無限に続いている。途轍もないものが、秋山駿という(私)を生きている。
2975. ノートのコトバがわかるためには、ノートのコトバの外へ出なければならない。そして、ふたたび、ノートのコトバの世界へと戻らねばならない。
①私は「内部の人間」である。②私は「内部の人間」ではない。③やはり、私は「内部の人間」であった、と。
2976. 秋山駿は、存在という神との対話を稀求した人だ。ノートのコトバは唯一その為にあった。他人との対話の為のコトバではない。コトバが、至高のも のに至らなければ、ノートのコトバに意味はない。普通は普遍。普遍は普通。石塊は、秋山駿にとって、神(存在)である。あらゆるものに開かれている。
2977. 対話、対談は、いつも、真剣勝負である。火花が散る。白熱すると、秋山駿は、白眼をむくのだ。何処か遠いところを見て、自分の蔵の中 にある、自分のコトバを取り出してくる。相手にも、同じ、真剣を求める。教養や知識や他人のコトバは許さない。必ず、自らの生の現場から掬いあげた コトバでないと、容赦しない。一言に賭ける、秋山駿のコトバは、他人を殺してしまう力をもっていた。
(「お別れ会」の時、法子奥さんが、死ぬ時には、白眼をむかずに、穏やかな死に顔でしたと語ってくれた)
2978. 文芸評論家としての地歩を築くと、(文学)の仕事が増えると、「内部の人間」としての(存在)のノートのコトバが減ってい く。すると秋山駿の本来の、力が衰弱する。ピンチである。コトバを売ることに、嫌悪が生じる。更に、ノートのコトバまで、社会に放出すると、大きな、矛盾 が生じてくるのだ。(生)のリアリティが変質する。(私)のコトバが、社会で、交換される。(私)の危機である。社会化された、秋山駿!!もう一度、否、 何 度も何度も、秋山駿は、コトバの原初に帰ろうとする。石塊を発見したあの、コトバの地点に。
2979. 三島由紀夫と秋山駿
突然、三島由紀夫から電話がかかってきた。法子夫人は、新宿で酒を呑んでいる主人に、連絡をした。「三島由紀夫という、小説家から電話があった」と。
なぜか?
三島由紀夫は、秋山駿に、同志を見た。代表作『金閣寺』の放火の主人公は、「内部の人間」である。犯罪を鋭く分析する、秋山駿に、シンパシーを感じたの だ。そしてその作品に最高の評価を下した。三島由紀夫は、秋山駿のエッセイ「簡単な生活」を、海外で紹介する、(翻訳の)労をとった。後に、『太陽と鉄』 小説でもエッセイでもないこの作品を、秋山駿は、三島のコトバの核だと、後に、評論する。三島由紀夫が、割腹自殺を企った後、秋山駿は、十五年勤めたス ポーツ新聞社を辞めて、筆一本の生活に入る。生命がけで事を為す、三島の姿勢に、共鳴し、鼓舞されたのだ。
「イッタイ、君ハ、何ヲシテイル?「内部の人間」の声ヲ貫ケ—俺ノ事件ヲ考エテクレ!!」
2980. 秋山駿は、労働争議の渦中の人となった。「内部の人間」も労働しなければ食ってはいけぬ。どだい、「内部の人間」として、 「生の綱領」を守って、社会に生きること自体が、大きな矛盾であった。会社の論理とも労働組合の論理とも、折り合いがつかない、衝突する。結局、15年間 勤めた、スポーツ新聞社を退社する。「何時来るかと待っていたよ」「君の笑顔を15年間、一度も、見たことがない!!」そう言われて、会社を去った。社会 の言葉と「内部の人間」のノートのコトバが、正面衝突をした結果であった。
2981. 野に遊ぶ、川に遊ぶ。
石ころだらけの川原に立って、石塊である秋山駿が、釣竿を振る。奇妙な光景であった。誰が言いだしたのか、『歩行』(文芸同人誌)の仲間たちと秋山駿で、 埼玉の川へ釣りに出かけた。屋根裏の哲学者のように、団地の一室で、原稿書きに明け暮れる「内部の人間」を、一瞬、野に解き放ってやろうよという目的だっ た。魚が釣れた。破顔の秋山駿が水の中に立っていた。後にも先にも、こんな場面はなかっただろう。「俺も、こんな面白いこと、やっていたいよ、うん」。 (思い出)
2982. ノートのコトバには、ノートのコトバで応えて。公的な、社会に流通する言葉で、秋山駿を語っても(論じても)文芸評論家・秋山駿の半身しか捉えられない。「内部の人間」の姿は隠れてしまう。
2983. 「内部の人間」秋山駿は、独身者ではない。
①男と女。駿と法子(夫と妻)
②20代は、「ともに、大地を掘る」共同生活者であった。30代は、「大地」が消えて、ひばりが丘の団地の「空虚」が現れた。サラリーマンの生活。
③40代は、文芸評論家とブック・デザイナーの「二人三脚」・共働きであった。
④70代は、共に病んで、老いて、「同行二人」の旅人(人生)となった。(「同行二人」は、本来は四国八十八ヶ所巡礼するお遍路さんと空海のことである。)
⑤80代は、ただの石塊である、秋山駿・「内部の人間」は、石の地蔵菩薩になっていた。(芸術院会員・勲四位)
2984. 「手の力(コトバ)」と「声という力(コトバ)」
意識が、ゼロ・ポイントに達してしまうと、もう、コトバがない。法子さんの痛みは、もう五年になる。朝、昼、晩、夜中、痛みは続く。毎日毎日苦痛の真只中 にいる法子さんに、掛けるコトバがない、秋山駿。そんな時、二人が、手を重ね合わせるだけで、一時、痛みがやわらぐのだ。耐えられるのだ。「手の力(コト バ)」である。”結ぼれ”の究極の形であろう。
病院から、法子さんが自宅に電話を入れる。「駿の声が聴けて好かった。元気?」声という力(コトバ)である。響きの波の中に二人がいる。
2985. 魂が魂を呼ぶ
延命治療を拒み、点滴も鎮痛剤も拒否した秋山駿は、10月2日、死んだ。(享年83歳)その日は、奇しくも、若くして死んだ母の命日であった。(法子さん談)(「お別れの会」にて)
2986. 秋山駿のノートのコトバは、単独者の為のものである。
最晩年に、秋山駿は、二人のコトバというものを、考えてこなかった、と悔いている。病者と、弱者と、貧者と、共に考えるコトバ。お互いの、ココロの一番深いところで、魂を交感できるコトバ。誰が、そんなコトバを、発しているか?
2987. 「内部の人間」秋山駿の咎と罪とは何か?
「生の綱領」を原理、原則として生きる限り、妻には、嫁の役割り、母の役割り、女の本質の役割りを与えられぬ。「内部の人間」の生涯に、巻き込んでしまった、妻への、お詫びがある。
2988. 「内部の人間」は、結局、「内部の人間」へと帰ってくる!!
会社員も、大学講師も、文芸評論家も、社会の役割りであった。至高の、意識のリアリティがある場が、(私)を「内部の人間」へと連れ戻すのだ。少年の、ノートの声が響きわたる時空へと。
2989. 「内部の人間」秋山駿は、未曾有の東日本大震災3・11から、無数の石塊が、「内部の人間」たちが、生れ、起ちあがってく る光景を、予見したにちがいない。敗戦の、焼け跡から、ただの石塊として起ちあがった自分の姿を、3・11の、あの、荒寥たる、無機質の光景に重ねなが ら。
2990. ある時を境に、ノートのコトバの色調が変わる。法子さんの登場の頃。(考える)コトバが(魂)のコトバに、転調しはじめる。書くというよりも、何か、大きなものに、書かされている。
2991. 最後まで本当の(知)を中也のコトバに求めた秋山駿であった。「内部の人間」の声。
コトバは人を遠くまで運ぶものだ。中也のコトバは、秋山駿を、10代から83歳まで運んでくれた。
2942. 秋山駿は、開かれた人であった。誰でもが通れる門を構えていた。誰もに答えるコトバをもっていた。生きれば傷つく人間である。秋山駿は、正しく、傷から歩きはじめた。見れば、そのままの、秋山駿が立っている!!
2943. 倦まず、たゆまず、八十三歳まで(私)を探求した「内部の人間」秋山駿であった。内部のノートのコトバが外部に放たれ、内 部が外部に、歩いた外部が内部になって、さながらメビウスの輪のような存在に、コトバは達して、死んでいった。コトバは、存在へと開かれた。
2994. 内的心象は、いつのまにか、コトバという外的事象となって、勝手に自己回転して、秋山駿の手を離れていった。世間に、社会に「内部の人間」のノートのコトバが種子となって、その「子供たち」が花を咲かせるだろう。
2995. 秋山さん、今、超球宇宙の、どのあたりを歩いているのですか?誰に遠慮もなく、気兼もなく、歩行だけを楽しんでいますか?そちらでは、どんな歩き方で歩いていますか?きっと、小さな、小さな、地球という惑星の歩行とはちょっとちがうのでしょうね!!
2996. 足が不自由になった秋山駿は、杖をついていつもの公園を歩行する。もう(私)が歩いているのではない。(私)が(公園) が、木が草が、あらゆるものが、照らし出されて、在る!!秋山駿は、歩きながら、コズミック・ダンスを踊っているのだ。此岸は彼岸、彼岸は此岸。
2997. ノートのコトバが沈黙する。沈黙が増えると、ノートのコトバは魂のコトバへと変わっていった。(私が語る)が(私は語らされている)へ。
2998. 秋山駿は、普通の、平凡な、簡単な日常の中に、すべてがある、石塊の生に、普遍があると信じて、生きた人である。天才、偉人を描くのではなく、普通の人間の中に、無限があると描いた「私」哲学の人であった。(『信長』は例外)
2999. ニンゲンには、「生・老・病・死」があるから、誰でも、人生に、四度以上、悩みをかかえることになる。実際、二進も三進も いかぬ時があるものだ。(私)が、私自身の内部へとへたり込んで、一歩も進めぬ時があった。若い妻と私が、不幸に、不幸が重なって、どん底に生きている 時、 秋山駿から、一通の手紙をもらった。
『私が敬愛するデカルトという人が、「光があると思って生きれば、必ずそうなる」、信じて下さい。』と。
そのコトバを信じて、生きてみた。コトバは、力であった。
3000. 大事ナ人ガ死ンダ時ニハ、ニンゲンハ、イッタイ、何ヲスレバイイノダロウ?
釈尊は、死の直前に、愛弟子・アーナンダが、泣き、嘆き、悲しみ、取り乱している姿を見て、お前は、まだ悟っていないのか、そして、「法(経)を唱えよ、自らを灯明とせよ」と語った。同じことだろう。
秋山駿なら、自らの足で、生の現場を歩け、歩き続けろ、そして、私のノートの思想(コトバ)を読んでくれと語るだろう。
「私は歩行する!—おそれず、あなどらず、いつわらず、まどわず、自然に。」(『歩行と貝殻』
超球宇宙を歩く秋山駿の姿が見える!!
さようなら、私の秋山駿!!
【追記】
ただ、悲しい。私は、秋山駿のノートの声を読み(聴き)ながら、私の感想とお礼のコトバを書いてみた。願わくば、秋山駿の読者が、それぞれの秋山駿の姿 を、書いてもらいたいものだ。私の知らない、秋山駿を見たい。知りたい。もう一人の「内部の人間」が、その子供たちが、生きはじめているだろう。
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• 月曜日, 4月 07th, 2014
2901. ニンゲンは、何時頃から、何歳頃から、単なる声ではなくて、魂の声を聴き始めるのだろうか?一生、魂の声を聴かない(聴けない)人もいるのだろうか?
2902. (私)が生きているという、普通の実感から、何か、得体の知れない、途轍もないものが(私)を生きているという実感が生じるまで、随分と、時間がかかるものだ。(気付きのないまま、死んでしまう人もいるのだろうか?)
2903. 光とともに来るものがある。闇とともに来るものがある。一瞬のうちに、純粋直観でわかってしまう。コレだ!!と。(私)は宇宙だ!!と。
2904. (私)は宇宙エネルギーの一個の顕れである。それ以上でも、それ以下でもない。(私)は私自身であると同時に宇宙である。1であり、全体である。
2905. 空の色が、あまりにも青すぎて、青を超出して、青に見えなくなった。
2906. (私)が決定した(意思で)。本当に、そうであろうか?(私)を形成しているもの、囲続しているもの、それらの一切が(私)をして、決定せしめているのだ。60兆の細胞たちよ!!
2907. コトバで、(私)を追っても、追っても、引潮のように、遠くへ、退いてしまう。意識が無限速度に達した時、ええい、構うものか、跳べ、(無)へ。
2908. 幻でもよい、幻花でもよい、何かを見つづけなければ、生きてゆけない、3・11の被災者の日々である。
2909. 身体が衰弱し、ココロが折れて、次から次へと自死していく、3・11の被災者よ。現も夢もあるものか、生者は死者に、死者は生者に。
2910. ニンゲンは、色を、形を、見ているのではない。光の貌を見ているのだ。
2911. 似ている?何に?光に。あたり前だ。(私)も君も光から来たものだから。
2912. 歩いて、歩いていると、現成する(私)がある。
2913. 見る。転成する。ふたたび、見る。リアルに。すると、(私)が現成する。(井筒俊彦の声)
2914. 眼も狂う。視差ばかりではない。見るにも、次元があるからだ。
2915. 絶対リアルで見える人は、もう普通の”眼”には戻れない。
2916. 現。現れる。示現する。顕現する。現成する。見ろ。意味は、文字とともに、変わってしまう。
2917. ニンゲンの”無”と宇宙の”無”はまったく、異なるものである。
2918. 証拠は?科学の”無”と禅の”無”を比べてみよ。
2919. 宇宙樹(コズミック・ツリー)がある。信じられるか?見えるか?光に、闇に、見えたり、見えなかったり、無数の宇宙樹が存在している。
2920. 存在をコトバで開いてしまった、空海さんである。自心の源底に至って。さあ、行け、その位相へ。
2921. 人類が滅びると、竹と昆虫の世紀が来る。クマムシは、地上最強の生きものである。木でものない、草でもない、苔でもない、竹という植物の生命力。
2922. 文明が地球を汚染する。(文明=人間)地球のありとあらゆる資源を喰い尽くして、ニンゲンよ、自滅するのか!!
2923. 生命現象に、意味を与えたのはニンゲンだけであろうか?ただ、生きている、ただ存在している、ニンゲンは、そのことに、我慢がならぬ生きものである。
2924. (私)は私に我慢がならぬ。いったい、ニンゲンは、進化をして(変身して)何になりたいというのだ。
2925. 文字(文章)そのものが、声のように、波動をもつことは果たして、可能だろうか?いわば(波動の文字)
2926. 無から無へ(無→有→無)(私)も宇宙も同じ原理である。(21世紀の大発見であろう)
2927. (私)という物質は、もう一人の(私)という反物質と対である。つまり、存在している(私)は、常に存在しない(私)に支えられているのだ。誰が、どうやって、あの世や異次元を、反物質宇宙を、否定できよう。
2928. (私)が消えて、音になる。(私)が消えて、音楽がある。至高の体験であった。宇宙そのものと一緒になって、歌っている。参加している。そんな至福の少年時代があった。「昔の光、今何処!!」である。
2929. (私)の中心にも立てないのに、もう、人生の中央に放り出されていた。19歳。世間に、社会に、世界に、いったい、どうやって、生きていけばいいのか、白紙であった。
2930. 文字も、数も、コトバも、一切が教わったまま、実行された。(私)のものなど、どだい、何もなかったのだ。何時から、ヒトは、(私)のものと思いはじめたのだろう?
2931. 人類が死んで、動物が死んで、絶えて、「竹の世紀」が来る、誰のコトバだったのか、億年単位の時間の流れる音が聴こえて来るコトバだ。
2932. 「物になる」「竹になる」「魚になる」東洋の思考の形である。西洋の思考の形を超えている。
2933. なぜ、コトバは、絶対的な強度をもって人のココロを刺し貫くのだろう。
2934. 至高の時には(私)がいない。
2935. 12キロの道を歩いて、嫁に来た祖母は、鏡台が唯一の嫁入り道具であった。100歳まで、正座をして、朝・夕、鏡台にむかう女であった。
2936. 母の嫁入り道具は、風呂敷につつんだ尋常高等小学校の、成績書ひとつであった。オール甲の成績で、母親が、これしか持って行かせるものがないと、手渡したものだった。父の希望は、背が高くて、賢い女、母の望みは、子供たちを、大学に、学問の道にすすませることであった。身を捨てて、身を粉にしても。
2937. 私の妻の嫁入り道具は、ピアノであった。音楽に生きる娘であった。借家には、私には、立派すぎるものであった。
2938. ニンゲンは、絶えず(私)をしている!!現でも夢の中でも、意識は、絶えず、(私)を捉えている!!気絶でもしない限りは。
2939. (私)をなくしてしまうほどに、歩いて、歩いて、歩き続けると、照らし出された世界に、光景の中にあるものは、色も形もない、魂という存在ひとつである。
2940. (私)が手を振るのではない。さよならと、手を振っているのは、風景そのものであった。
2941. 他界の気配を感じた時はそのまま、上手く、消え去りたいものだ。何も残さず。
2942. 存在の窓口に起っている。朝である。
2943. 来るものと来ないものの汀に起つ。
2944. 見えるものと見えないもの、眼の、境目に起っている。
2945. 関係の結び目、節が見える。
2946. 未生の(私)を問う(私)。
2947. 鳥の声を見て、花の色を聴く。なんの不思議ぞ。
2948. 動いているから鎮まる水。(私)身体の中で。
2949. 眼を閉じる。闇が来る。そして、光が来る。光が見える。意識が消える。やはり、(私)は、光の子だった!!
2950. (私)が消えて、事物が消えて、一切がコズミック・ダンスそのものになっている!!
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• 月曜日, 3月 03rd, 2014
2851. (私)が無限に手を振ると、100億光年の彼方では、ひとつの銀河が大爆発をする。(宇宙的バタフライ効果)なんの不思議があるものか!!東京で一匹の蝶が羽撃くとニューヨークでは大嵐だ(地球的バタフライ効果)
2852. ヒトは、ただの赤ん坊として生れてくる。そして、ただの老人として死んでいく。さて、いったい、何があったのか?諸行無常。なんの不思議もない。
2853. 重いがなければ軽いもない。苦がなければ楽もない。形のある、なしをニンゲンのココロは超えてしまう。
2854. ニンゲンが、宇宙と呼んできたものが、たったひとつの無限の宇宙が、無限個の宇宙のひとつであったと言われても、誰が、どのように、信じるのだろうか?(カミの力でも足りない)
2855. ソレは(私)の身体だから、わかっている!!とんでもない。ソレは(私)が知っている以上のものである。だから、(私)とは、他者である。
2856. (私)を使い切れずに、死んでいくニンゲン。なぜ?銀河系に匹適する脳を持ちながら、ニンゲンは(私)という宇宙のほんの一部を使用して、自らの人生としているのか?
2857. あらゆる状況、あらゆる環境に遭遇してこそ、ニンゲンの全的能力は、発揮される。危機こそ、その瞬間である。
2858. 平々凡々に生きるのも良し。ただし、平々凡々の(私)の使い方で終る。
2859. ドストエフスキーの実人生と小説と、どちらが、異様であろうか?経験のレベルに創作は比例している。
2860. ココロに宇宙を入れる。どこまで広がるか?どこまで認識できるか?どこまで耐えられるか?
2861. 私の眩暈は、3・11の大地震の揺り戻しであろうか?1000日も経ったのに!!心も身体も、(私)という存在自体があの日から、揺れっぱなしである。
2862. (私)の頭にもココロにも入り切らなかった未曾有の揺れは、今も、あの日から時空を超えて、続いているのだ。
2863. 3・11の死者たち、被災者たちに、ココロを寄せた、心やさしき者たちは、ウツ状態から抜け出せないでいる。
2864. 病いも悲嘆も、共振する波である。虚へ、空へ、無へと落ち込んだニンゲンは、容易に回復できないでいる。3・11は、原発は、負の核である。
2865. たった5ヶ月間の、歩行困難で、自然の歩行が思い出せない。
2866. 12月の、椿の蕾と一緒に刻を歩こう。3月には、自然に、深紅の花が咲く、と。
2867. 風景と溶け込んで歩いていた。今は、硬直して、風景に弾かれて、歩いている。
2868. 共感、共鳴、共生の姿勢を取り戻して、自然とともに、歩く日よ、来い。
2869. 左に、右に、風景が傾くから、(私)も、同じように、傾いて、歩いている。ぐったりと疲れ、立ち止って、深呼吸。
2870. 眩暈は、原因不明の病気(?)を次から次へと連れてくる。やれやれ、である。
2871. おそらく、読めない、書けない、起てない、歩けないは、来たるべき(死)へのレッスンとなるだろう。病気や眩暈には、とことん付き合ってやれ。
2872. あなたは、芭蕉派か西鶴派か?旅に病んで夢は枯野を駆け巡る(人生を旅して漂泊の旅を続けたが、病気になっても、私の見果てぬ夢は、枯野を、今も駆け巡っている)この世の月見過ごしにけり末二年(人間人生50年といわれるが、もう二年も、余分に生きてしまったよ、そろそろ向こうへ逝ってもいいだろう)
2873. 病いの時には、病んでいる。病いの感情、病いの思考を呼吸している。
2874. 一切において、文句というものを言わない。与えられた環境を生き切った父であった。
2875. モノ書きは、誰でも、感応する繊細な神経・心性を持っている。いわば、傷つきやすい種族である。
2876. 思考の強靭な糸も、自らの心性によって紡ぎだされる。
2877. 直観、ひらめき、イメージが育って思想になる。無・意識から、コトバが産出されるのだ。
2878. 思考の糸は、意識とともに廻りはじめたら、絶対速度に達してしまう。止まらないのだ。
2879. なんの為の人生?生れてから、どんどん、順に追っていくと、結局、死ぬため、となる。(ニンゲンとして死ぬ、より良く死ぬ?)で(私)の死は、わからない、となっている。
2880. さて?はて?やれやれの人生である。
2881. 覚りの境地は、誰も語れない。(私)ではない。ニンゲンではない。生命ですらない。「人間原理」の一切がない。「宇宙原理」との合体である。その時、もう、もとのニンゲンには戻れない。だから、語れない。ニンゲンのコトバではなく、仏のコトバとなる。
2882. コトバから抜け出せた人は、瞑想の世界で、ただ、生きている。覚りも何も語らない。「空」にいるだけだ。
2883. (私)は、今、ここをなくせない。(私)の外部に立たなければ。で、ニンゲンには、できない。いつまでも、いま、ここの(私)を生き続けている。
2884. (生きる)がむずかしいのは、いつまでたっても、(今)(此処)を生きるしか術がない存在のニンゲンであるからだ。そして、(今)(此処)は、いつも、見知らぬ、新しいものである。
2885. (私)の外部に立って(私)を生きる。つまり、覚りとでもいうのだろうか?異次元に立って、生きる、可能か?
2886. (私)は(私)だという、自己同一性の証明は得られるのか?時間の尺度(幅)を変えて考えてみる。昨日の(私)、10年前の(私)、百年前の(私)、千年前の(私)、魚であった二億年前の(私)。・・・三七億年前の単細胞の(私)・・・。その時、(私)は、どのように存在していたのか?(存在していなかったのか?)(私)はいったい、何だったのか?
2887. 宇宙という巨大時計の中に(私)を置いてみる。生命の種子の爆発する姿が見える。
2888. 無数の生命の連鎖の上に咲いた花(私)。ニンゲン種と呼ばれている。
2889. 単細胞の夢は、とても、一人のニンゲンが考えられるレベルのものではない。無数の地球の生命の群れを視よ。
2890. (見る)には、いくつもの段階がある。ステップできる人は、次から次へと、新しい位相で、モノを見ることが可能だ。もちろん、異次元まで見えてしまう。超球宇宙も、(見る)だろう。
2891. 瞑想。あらゆるものがやってくる。見える。眼がなくても、モンが見える。それは、ココロの顕れであろうか?あるいは、幻想であろうか?それとも、本物であろうか?
2892. 思考、想いが熱をもって、実際の身体を、火傷させる。
2893. 輪廻転生して永遠に生きる、それは、いやだ、絶対に、死に切りたいと思う人は仏教へ。永遠の生命を求める人は、キリスト教へ。
2894. ニンゲンという種が続く限り、(私)は、死ぬことができない。(私)は、時空を超えて、遍在する。
2895. 単細胞から多細胞への飛翔。(個)から(群れ)への飛翔。何が、いったい、そうさせたのか?億年単位で、その闇を考える。
2896. もういいだろう、と思う人。まだもっと、と思う人。(生きる)の意味の考え方がちがうのだ。
2897. ニンゲンは、なんでも、科学しなければ気がすまぬ動物らしい。科学も、また、ニンゲンが発見したひとつの方法であるのに。
2898. 一度、会いましょうよ。特別な話がなくても、顔を見て、お互いの眼を見て、声を聴いているだけで和やかな時が流れる。
2899. とびっきりのものを求めなくても、そこらにあるもので、充分に、楽しみが生れる。苦が生れることもあるが。
2900. なぜ、ニンゲンは、(生)の現場では足りずに、(天国)とか(地獄)とか(極楽)とか(浄土)とかを、創造してしまったのか?(今、ここを生きると言いながら)
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• 日曜日, 9月 22nd, 2013

1. 「abさんご」(文藝春秋刊) 黒田夏子著
2. 「道元」(創元社刊) 大谷哲夫著
3. 「書評紙と共に歩んだ五〇年」(論創社刊) 井出彰著
4. 「ざまくるう」(文芸社刊) 羽島あゆ子著
5. 「草窓のかたち」詩集(思潮社刊) 鈴木東海子著
6. 「原始仏教」(ちくま学芸文庫刊) 中村元著
7. 「新古今和歌集」上・下巻(角川ソフィア文庫刊) 久保田淳訳注
8. 「世界宗教史」全8巻(ちくま学芸文庫刊) ミルチア・エリアーデ著
9. 「哲学の起源」(岩波書店刊) 柄谷行人著
10. 「盤上の夜」(東京創元社刊) 宮内悠介著
11. 「読むことのアレゴリー」(岩波書店刊) ポール・ド・マン著 土田知則訳
12. 「ポール・ド・マン」(岩波書店刊) 土田知則著
13. 「空海の「ことば」の世界」(東方出版刊) 村上保壽著
14. 「哲学とは何か」(河出文庫刊) ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ著
15. 「宗教と宗教の<あいだ>」(風媒社刊) 南山宗教文化研究所編
16. 「スピノザ」(平凡社刊) ジル・ドゥルーズ著
17. 「聖書考古学」(中公新書刊) 長谷川修一著
18. 「空海の智の構造」(東方出版刊) 村上保壽著
19. 「清沢満之集」(岩波文庫刊) 安冨信哉編
20. 「はじめたばかりの浄土真宗」(角川ソフィア文庫刊) 内田樹・釈徹宗共著
21. 「対象喪失」(中公新書刊) 小比木啓吾著
22. 「シシリー・リンダース」ホスピス運動の創始者(日本看護協会出版会刊) シャーリー・ドゥブレイ著
23. 「旅鞄」(角川書店刊) 遠藤若狭男句集
24. 「永遠の空腹」(コールサック社刊) 松木高直詩集
25. 「方丈記」(岩波文庫刊) 鴨長明
26. 「昭和三十年代演習」(岩波書店刊) 関川夏央著
27. 「徒然草」(岩波文庫刊) 吉田兼好著

今年の夏は、60余年生きてきた人生においても、記憶にないほどの、暑さであった。
夏の光と熱が、容赦なく、植物と動物に降り注いだ。
地球温暖化とは言え、真夏日が二ヶ月も続くと、食欲はもちろん、あらゆる生に対する意欲が落ちてしまう。
不眠の夜が続く。熱中症で死者まで出る。
いつもの、朝・夕の散歩まで中止してしまった。筋肉は衰え、ただ、室内で、読書の日々である。
『徒然草』『方丈記』『新古今和歌集』など、昔の人の、声や姿に想いを馳せる。
現代の、現実の、片がつかぬ、様々な問題から解き放たれて、中世に生きてみる。

7月下旬から6泊7日で、高野山大学大学院のスクーリングと熊野三山の旅に出た。熊野古道は、大木と石のある、坂道である。三山、特に、那智大社は、約600段もある石段を登って、降りるだけで、汗が吹き出し、途中で、何度も、立ち止まって、深呼吸をした。なぜ、古代から熊野か?と—考えながら。
真夏日の長旅は、身体にこたえた。帰って、3日目に、眩暈を起こした。
深夜、起ちあがろうとしたら、天井と床がぐるぐると廻った。手をついて、バランスをとるが、立ちあがれない。
そのまま、深夜、病院へ。幸いMRIを撮ったが、脳には異常がなかった。日を改めた、耳鼻科へ。眼が静止しない。勝手にぐるぐる動くのだ。風景が揺れる。歩けない。耳に耳石がある。耳石が三半規管に入ると、脳が異物に反応する。で、眩暈が生じる。
三半規管の故障ではないらしい。医者は、病名も言わず、眼や頭や身体を、よく動かすようにと言うだけだ。
1ヶ月、眩暈を止める薬を呑む。眩暈は、その後、起こらないが、歩く度に右に、左に、身体が揺れ、ふらふらする。
NHKで、”眩暈防止”の番組があった。
①枕を高くすること
②朝起きる時、右の耳を下にして10秒、上にして10秒、左の耳を下にして10秒数える。
家で出来る簡単なことだ。(医者いらず)
毎朝、実行する。薬がきいたのか、NHKの番組—の実戦が利いたのか、幸い、大きな眩暈は起きてない。
しかし、まだ、歩行はふらふらする。つくづく、人間は、心身で生きている動物であると感じ入った。

『abさんご』76歳、最高齢者の芥川賞、その文体、ひらがな文、登場人物、地名が一切ない、会話がない、横書き、夢と現が入り混じっている話題の小説であった。
「読書会」で、みなさんに読んでもらい、感想を聴いた。7~8割の人が、否定的だった。なぜ、このような、読みづらい文章で、書かなければならないのかというのが、その理由であった。
10年に1作品しか書かない。(なるほど、だから、この文章)同人雑誌で、頑張ってきた。”人生”を書くことに捧げた人の文章である。(書くこと=生きること=仕事)
私も、学生時代同人誌「あくた」を主催した。13号まで出した。約7年かけて。詩集を出した同人が3人、小説を出した同人が2人、評論を出した同人が1人、俳句集を出した同人が1人、総勢60人が参加した、昭和の、70年代の、「同人雑誌」盛んなりし頃の話である。
『ざまくるう』羽島あゆ子著も、長い間同人雑誌で、小説を書いている人らしい。プロと素人作家のちがいが、読みとれる作品である。
(主人公=私)の作品であるが、作品世界が現実の(私)=作者の介入で、惜しいかな、小説が濁ってしまっている。分裂している。文章は、ある域に達しているのだが・・・。
黒田夏子と羽島あゆ子の作品を、比較してみると、同じ同人誌を舞台にしてきた作家だが、<作品>に、全人生をかけている人と、そうでない人の、美学の差が見えてしまう。(人生を棒に振る覚悟)

キリスト教なら、田川建三、イスラム教なら井筒俊彦、仏教は?空海は?村上保壽の空海の考察に出合って、はじめて、「空海の研究者」のコトバに出合ったと感嘆した。
結局、研究+実践がなければ、空海の思想は、読み解けない。評論→存在論→宗教実践論へと「空海のことば」を探求した者に、はじめて、邂逅した。感謝。

ジル・ドゥルーズの諸作は、いつも、新しい概念の時空へと導いてくれる、21世紀の、最高の書である。

ポール・ド・マンの諸作を読む。
翻訳者が、そのまま、解説者になり、哲学者になる、土田知則は、ボール・ド・マンとともに歩いている人だ。
それにしても、日本人は、必ず、翻訳から身を起こして、(考える人)になる。日本人の、ひとつの、パターンであろう。

友人の書を読む。
井出彰は、書評新聞とともに、人生を歩んだ人である。同時に、小説家でもある。時代の証人としての、コトバが光っている。
遠藤若狭男(俳人)。
大学の同級生である。「あくた」同人である。教師をしながら、一生、俳句を詠んできた。胃ガン、肺ガンと、転移したガンとともに、生き、俳句を人生の友とした男である。母へ、父へ、故郷・若狭への思いが、絶唱となっている。

それにしても、異常な夏は、9月も半ばだというのに、まだ、30度超えが続いている。
晩夏と初秋が入り混じって、区別がつかぬ、妙な年である。
秋の虫は、恋人を求めて、鳴き続けている。人間は、植物同様、枯れて、青息吐息である。3・11以降原発は、片が付くということがない。コントロールできぬ!!