Archive for the Category ◊ 作品 ◊

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• 月曜日, 8月 17th, 2015

1~8
「井筒俊彦全集」(慶應義塾大学出版会刊)
・第二巻「神秘哲学」
・第三巻「ロシア的人間」
・第五巻「存在顕現の形而上学」
・第六巻「意識と本質」
・第七巻「イスラーム文化」
・第八巻「意味の深みへ」
・第九巻「コスモスとアンチコスモス」
・第十巻「意識の形而上学」
9~15
「大乗仏典」(中公文庫)
・第一巻「般若部経典」
・第二巻「八千頌般若経」 1巻
・第三巻「八千頌般若経」 2巻
・第八巻「十地経」
・第十二巻「如来蔵系経典」
・第十四巻「龍樹論集」
・第十五巻「世親論集」
16. 「『ボヴァリー夫人』論」(筑摩書房) 蓮實重彦著 804ページ、定価6400円 2000枚書き下ろし
17. 「折口信夫」(講談社刊) 安藤礼二著 533ページ、定価3700円
18. 「若山牧水への旅」(弦書房刊) 前山光則著
19. 「古事記」(河出書房新社刊) 「日本文学全集01」 池澤夏樹訳
20. 「危機と闘争」(作品社刊) 井口時男著
21. 「暴力的な現在」(作品社刊) 井口時男著
22. 「親鸞」既往は咎めず(松柏社刊) 佐藤洋二郎著
23. 「『サル化』する人間社会」(集英社刊) 山極寿一著
24. 「まともな日本語を教えない勘違いだらけの国語教育」(合同出版刊) 有元秀文著
25. 「あずらちゃん大ピンチ!」(創英社刊) 中津川丹著
26. 「宇治拾遺物語」(新潮日本古典集成) 大島建彦校注
27. 「発心集」(上・下)(角川ソフィア文庫刊) 鴨長明著
28. 「無名抄」(角川ソフィア文庫刊) 鴨長明著
29. 「日本霊異記」東洋文庫97(平凡社刊)
30. 「密教と説話文学」(高野山大学刊) 下西忠著
31. 「テイク・ナット・ハンとマインドフルネス」特集(サンガ刊)
32. 「沈黙を聴く」(幻戯書房刊) 秋山駿著
33. 「法然と親鸞の信仰」(上・下)(講談社学芸文庫刊) 倉田百三著(再読)

還暦を過ぎて、一人の思想家の全集を、隅から隅まで読む経験は、私にとって、ニンゲンの生涯を、一切を考えつくすという、体験でもある。
井筒俊彦が、単なる、言語学の専門の学者であるならば、そんな勇気は、湧きあがらなかっただろう。
「存在はコトバである」との断言の下には、(存在=言語=信仰)が、一人のニンゲンの中に、同時に、あって、古今東西の人類の(知)を自由自在に疾走する文章は、日本の思想家が達した、最高の(知慧)でもある。
二~三ヶ月に一度、配本される『井筒俊彦』全集は、現在十一巻。あと二回で、終わってしまう。
大きな、大きな、楽しみを与えてくれる「読書」である。

『空海』を読みたいと、はじめた、仏教の修学であるが、空海の著作には、その多くが、経典からの引用や原典に基いた思想が占めている。古代の漢文、中国の詩歌、現代人には、歯がたたぬ白文と、容易に、読み解ける著作ではない。
第一に、「大乗仏典」の知識がなければ、解釈すらできぬ。という訳で、「大乗仏典」を読みはじめた。
三島由紀夫や吉本隆明が『大乗仏典』を、読まねば、と、膨大な、仏典を購入しようとした、意欲と意味が、今更ながら、なるほどと、頷ける。
「インド仏教」「チベット仏教」「中国仏教」そして、日本の古代から中世、近世の仏教、学びはじめると、切りがない。

「『ボヴァリー夫人』論」と『折口信夫』は、大著である。
昔、蓮見重彦の『凡庸なる芸術家の肖像』(マクシム・デュ・カン論)を読んだ。辞典のように厚い本だった。二十枚ほどの、感想、手紙を書いたが、結局、出さずに終った!!
大きな感動の波が来た。しかし、なにしろ、読むのには、一年ほどかかりそうだ。
安藤礼二の『折口信夫』も、大著。気にいった章から、自由に読みはじめた。折口が書いたこと、考えたこと、生きたこと、あらゆるものに触手をのばして、おそらく、「折口」論の決定版をめざしたものであろう。

前山光則。文学の仲間?友達。熊本で高校の教師をしながら、島尾敏雄から山頭火、そして、今回は若山牧水を論じている。牧水の旅の跡を追って、歩き、追体験し、丁寧に、牧水を書きあげている。
若い頃から、地味だが、質実に、生活し、書き、考え、(文学)を手離さずに、生きてきた姿勢には、思わず、拍手を送りたくなる。世の中を下支えしているニンゲンである。

秋山駿の論考では、井口時男が第一人者であろう。
その井口の、中上健次、大江健三郎、村上春樹等の現代を代表する作家への評論である。
古武士のような、「生きること」と「書くこと」への姿勢を追求する考察には、「文学をする」井口の理由と存在が、同時に、開示されていて、好感を持った。

『親鸞』
三人の「親鸞」を読んだ。五木寛之の大河小説の親鸞。津本陽の宗教小説の親鸞。そして、佐藤洋二郎の私的親鸞。
五木寛之は、約40年にわたって「仏教」を修学している。その礎の上に立った、小説である。とにかく、面白い。技が光っている。スリルがある。人間・親鸞が実に魅力がある。風俗・風景・人物たちが、実に、生き生きとして、中世を活動している。
一番、信仰が深い(?)と思われる小説が、津本陽の小説であった。宗教の探求がある。
<宗教と文学>は、決定的に異なる。信仰の深さが、文学の深さではない。仏教は、文学を否定する。その仏教者を、主人公にする小説。『源氏物語』にも、浄土宗・仏教の匂いはあるが、宗教の探求の書ではない。

佐藤洋二郎も、宗教者を主人公とする小説を書く齢になったか、と感慨が深かった。腕力で文章を綴る、若き日の佐藤洋二郎を知っているから、今回の小説は注目した。
しかし、「親鸞」は、現れなかった。作者の思いと親鸞の思いが、入り混じっていて、親鸞その人ではなく、佐藤版・親鸞のように、読めてしまった。
(文学)と(宗教)考えることと信ずることの、明確な、意識化が未分化であった。

「サル化」する人間社会を読むと、人間も、特別な、生きものではない。「進化」の大きな、大きな力を、読みとれて、一呼吸。

「あずらちゃん大ピンチ!」
自分史である。三歳から十二歳まで。世界には、「トム・ソーヤの冒険」や「ハックルベリー・フィン」など、少年文学がある。日本にも、そういう小説が、現れないものか?
中津川丹は、はじめての、自分史で、日本の「トム・ソーヤの冒険」を書いた。小説にする必要がないほど、実生活自体が、数奇な運命に充ちている。
文体も的確で、リアリティがある。(蝶)を追う少年が、そのまま大人になった。戦争で父を失い、戦後を、祖父母と共に、生きる少年の、心情が、見事に結晶している。
小学校の国語の、副読本にしたい作品。NHKは、ドラマ化しないか?

日本の、中世の、書物を読む。小説、説話、日記、物語、随筆。日本文が、だんだんと、根付いて来て、日本文で思考する。作家、僧たちが現れてくる。中世の混沌と闇と光。

現代に、この人だと思える、僧、牧師、神父、宗教者はいないものかと、思っていた。
ベトナム出身の、テイク・ナット・ハン師(禅僧)が私のココロを捉えた。
やはり、寺院や教会の中ではなく、戦場から、実生活の、体験の中から、真の、宗教者は立ちあがるものだ。コトバと行動が、一人の人間の中で、直立している!!

時は、無常迅速に流れる。秋山駿がなくなって、もう、二年になろうとしている。
「沈黙を聴く」は、秋山駿が残した、最後の「本」である。死者と対話できる「本」だ。夢と現の間で、秋山駿と対話をした。
「秋山さん、音信を下さいよ」と念じていたら、深夜に「お別れの会」で流れた(ヴァイオリンの生演奏で)「中国地方の子守唄」が、ラジオから聴こえてきた。
死者との交信は、このように、実現される!!

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• 火曜日, 8月 11th, 2015

如是我聞
(私)は太鼓の音(オト)を耳で聞いた と

無限遠点から
深層意識から
アーラヤ識から
細胞の遺伝子から
神社・仏閣から
祭りの路上から
3・11の東北から
今日も太鼓の音が流れている

空振りの一日も
足の裏がヒリヒリする一日も
不条理の棒を呑み込んだ一日も
太鼓の音さえ聞こえていれば
独りでも夜まで歩いていける
耳を立てて

如是我聞
(私)は太鼓の音(コトバ)を腸管で聞いた と

脳が聞く 耳が聞く 意識(ココロ)が聞く 太鼓の音(コトバ)よりも
腸管が聞く 太鼓の音(コトバ)が 深く やさしい 21世紀の脳の知が破綻した今 生命の原初から生きている腸管をこそ 信ずるべきだ
モノを包む 他者 (他物) を (私) に変換する腸管の力が光っている ココロまで生んでしまった腸管のパワーだ 腸管を開いて

如是我聞
(私)は太鼓の音(パルス)を手で聞いた と

(私) が無限に手を振ると
100億光年の彼方では
ひとつの銀河が大爆発をする
(宇宙的ハンド・パワー効果だ)
なんの不思議があるものか
東京で一匹の蝶が羽搏くと
ニューヨークでは大風が吹く
(地球的バタフライ効果だ)
手は いつまでも 振り続ける
歩いて 踊って 跳んで 一日が終わる
今日も 地球の 宇宙の太鼓の音(オト※コトバ・パルス)が
十一次元の時空に流れていた

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• 木曜日, 5月 28th, 2015

壁はどこまでも進化する。

「私は壁である」とニンゲン・私が言ったら「壁は私である」と壁が応えた。

壁の来歴ステップ1(少女M)
夏の日盛りに、隣りの席に坐っていた、可愛い女の子が、突然、死んだ。たった七歳だった。理由はわからない。何処へ行ったのか知る術もない。探すにも空席があるばかりだ。
コトバが出ない。足が動かない。ココロが叩き割られた。で、登校拒否になった。透明な壁を見た。ニンゲンには途轍もないことが起こってしまう。

壁の来歴ステップ2(朋輩K)
桜の花が風に揺れる時節に、中学校に入学した。隣の町から、土佐のイゴッソが越境入学をしてきた。
阿波の気質は温厚で、コトバはやわらかい。土佐の気質は豪放で、コトバは直截である。ある日、Kが言い放った。
「おんしの笑顔は、何か隠しとる、嘘言ったらあかんぜよ、朋輩になれん」
血の流れが止まった。笑顔が痙攣でひきつった。Kのコトバは、針だった。針を呑むと、イゴッソKとは、生涯の朋輩となった。コトバの壁が崩れた。

壁の来歴ステップ3(友人S)
高校生の時、Sの家を訪ねた。
家の西側に大きな石の壁があった。苔の生えた周辺に時間が刻まれていた。石の壁の中心だけが、何かで掃き清めたように光っていた。
Sは、軟式野球のボールをもっていきて、石の壁にむかって投げはじめた。野球の練習かと聴いたら、いいや、ちがうと答えた。理由を訊いたら、祖父、父、そして、自分と、三代にわたる”仕事”だと言う。石の壁に、ボールを投げるのが、なぜ、”仕事”だと、たびたび問いつめた。
祖父も父もSも、毎日、朝夕、ボールを投げ続けている。千回、万回、億回、兆回投げ続けると、いつか、必ず、ボールは、石の、向こう側へ突き抜ける時がある、その証明の為に、家族は、石の壁にむかっていると、Sは言った。君は、信じるかい?
いかにも、ニンゲンらしい行為である。伝統ある”仕事”を、Sは、生涯続けるだろう。
”不合理ゆえに我信ず”ではない。理論としては、正しすぎるくらい正しいのだ。

壁の、千のステップは、いつまでも、どこまでも続いている。ニンゲンが、眼耳鼻舌身意に頼って生きる限りは。

(平成27年2月16日)

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• 火曜日, 4月 14th, 2015

3001. アフォリズムは、量子のコトバである。詩は、原子のコトバである。小説は、元素のコトバである。

3002. アフォリズムは、時空を跳ぶ。詩は、時空で踊る。小説は、時空を歩く。

3003. アフォリズムから、詩が誕生する時もある。アフォリズムから、小説が誕生する時もある。詩から小説が誕生する時もある。しかし、決して、その逆は、起こらない。

3004. 一人のニンゲン(作家)が、同時に、アフォリズム、詩、小説を書いている。どうか、(私)のコトバを読んで比較してもらいたい。コトバは、結局、存在である、と、わかってもらえるだろう。

3005. 見えなかったモノ、見えなかったコト、見えなかった場所、見えなかった時間、見えなかったヒト、見えなかったカミ、が見えて来て、新しく存在する。もうひとつの宇宙、アフォリズムでありたい。

3006. 宇宙のはじめてのコトバ。量子が量子に私語するその呟きである。音もなく、形もなく、虚空に流れ渡る量子のコトバ。

3007. アラヤ識の深淵から種子としてのコトバがニンゲンにも伝わってくる。

3008. 場を超えて、時を超えて、コトバは、瞬時に交接するのだ。

3009. コトバが先に来て、(現実)がコトバのまま起きる。この不思議を、(私)は、何度、経験したことだろうか。

3010. 即視感でもなく、啓示でもなく、コトとモノの関係が、あたかも、仏教の、縁起のように結びついているのだ。生きているのは、誰だ?何だ?

3011. 人の中に人が棲む。”結ばれ”の究極の形である。

3012. 人が人のように語る。木は木のように語る。鯨は鯨のように語る。石は石のように語る。(語る)方法はちがっても存在が現成することに変わりはない。

3013. 時空に、転写された(私)が在る!!

3014. 四次元に投げ込まれたまま、生きている(私)だ。

3015. 蝉が殻を脱ぎすてる。蛇が皮を脱ぎすてる。ニンゲンの(私)も、一日、一日、(私)を脱ぎ棄てて、生きている。透明で、眼に見えぬ殻と皮ではあるが。

3016. (私)のアイデンティティを、君は、何に、何処に求めている?少年の(私)、青年の(私)、中年の(私)、老年の(私)・・・今だ・・・何時の今か?

3017. (私)という時の流れとともに行く者の、今を、認識するのは、辛いものだ。

3018. 歩くことが考えることであり、歩くことが生きることであり、歩くことがニンゲンであることであり、歩くことが存在そのものであり、歩くことが宇宙である。そんな時空を、私は、歩き続けたい。

3019. コトバは、宇宙エネルギーである。

3020. 原エクリチュールは、波動のコトバに至る。

3021. 波動を声と文字という型に。その原型は「阿」字である。

3022. 超球の時空には、コトバは、一瞬にして、あらゆる場に顕現し、現成し、遍在する。

3023. カミの声も、仏の声も、真言も、コトバへの転調で人の耳にとどく。何人が、その声を聴いたか?

3024. 形も色も質量も、無礙となり、「事」も「理」も1へと至る。

3025. ニンゲンの意識の眼は粗い。ニンゲンの思考の形式は、(考える)その外へ出ることはない。(見えないもの、考えられぬもの)

3026. で、ダーク・マターは眼に見えぬ。量子は考えられぬ。どちらも、宇宙のエレメントである。

3027. 存在から無へ。無から存在へ。無限に流動する宇宙エネルギーだ。

3028. 身体といい、精神といい、(私)は、私という魂に、いったい何をしてあげられるのだろうか?

3029. 瞬間が、一秒で、コトを決する時がある。(私)の一切を開いておけ!!

3030. 見るだけで、聴くだけで、触るだけで、ヒトを変えてしまう力が存在する。

3031. 今日も、木は、垂直に立って木をしている。(私)は、歩いて、ニンゲンをしよう。

3032. いい学校へ行きたい。いい会社へ行きたい。いい仕事をしたい。いい生活がしたい。いい老後を送りたい。いい死にかたをした。さて、ニンゲンは、いったい、何を目的に、生きてきたのか?

3033. 太陽ひとつ、爆発をする。銀河ひとつ、爆発をする。なんの不思議もない宇宙である。3.11は、宇宙の一瞬のまばたきか。それでも、ニンゲンは、絶句し、卒倒するのに。

3034. 最近では、生きる、というよりも、時空に折り込まれているような気がする。

3035. 場は、一切を吸収する。光も影も。

3036. (私)の自由などちっぽけなものだ。宇宙に浮遊してみると、不自由だらけだ。

3037. いのちという繊維を織って、織って、もう境目というものが、見分けられない。

3038. 光に共鳴する日には、いのちが弾ける。闇に共鳴する日には、いのちがくぐもる。

3039. 今、ここに(私)を結んできたが、生の真っ盛りが見当たらない。うろたえるな、ソレがお前だ。

3040. 気配がするので、振りむくと、木がいた。

3041. コトバに乗っ取られた男がいた。(私)が生きているのか、コトバが生きているのか、まるで、21世紀のドン・キホーテである。

3042. どうだい?ボチボチだよ。何かあるか?いいや、特別に。

3043. 妙な者だ。電話を掛けてきて、何も言わない。あれは、生者だったのか?あれは死者だったのか?

3044. 時間が色づくっていうのは、本当だったね。

3045. とりとめのない、単調な、一日、一日、気配まで、薄くなって。鏡は正直だ。

3046. 性欲も、物欲も、欲という欲が痩せ細っていく。さて、光って、散るか。

3047. そろそろ来るか?何が?待っているものが、無限遠点から。

3048. 指を折ってみる。何を数えておるのか、子供みたいに。節くれた指で。

3049. 今日も太鼓が鳴っている。生命の行進のために、虚空で。耳を起てろ。

3050. 死と再生の儀式にはシンバルだ。

3051. (私)は、あなたの手を握ったのに、あなたは、ただの(手)になってしまった。

3052. 声をかける度に、あなたは、いなくなってしまう。

3053. いつまでたっても、あなたの顔を上手に見たことがない。(私)の、見方のせいか?

3054. 空振りの人生も、それなりに、1日の積み重ねの結果であれば、分身に文句は言うまい。(私)は、存在したのだ。

3056. (私)のためだけに生きるから愚痴がでる。(私)を棄てて、他人のために生きてみれば、(声)が返ってくる。生きることは(声)の交感である。

3057. 我執、我欲、我が張りすぎるのも、生きものの本能である。決して、悪いとは言わないが、(無私)がいいに決まっている。

3058. ある歳を過ぎると、ニンゲンは、内的に、内的になっていく。行動で表現していたものが(仕事)消えてしまうと、外の場で発揮していた(私)が、突然、いなくなるからだ。

3059. 闘う相手、敵がいるうちは元気だが、(私)自身との闘いとなると、大抵の人が、音をあげてしまう。

3060. 心の、深部へ、古層へと、降りていく作業は、何がでてきても、決して、驚かないこと。

3061. 「本能」は、生物たちの礎である。しかるに、ニンゲンは、壊れた「本能」で生きている。「本能」よりも「知」を優先させて、生きている。(生)の昂揚は、「本能」から来るものだ。衰弱した(知)は、健全な「本能」に、劣るものだ。

3062. 胃が、腸が、噛みくだき、吸収する器官が健康でなければ、健全な(知)も育つまい。「本能」を軽蔑する(知)は愚劣である。

3063. 終末論は、ニンゲンを死の淵に追いやる。そして、脅かして、跪ずかせるのだ。(宗教に、神に)どこか、おかしいだろう。(私)の死は、終末の世でなくても、いつでもやってくる。

3064. 宗教は、道徳は、倫理は、ニンゲンのどこから発生したのか、もう一度、胸に手を当てて、考えてみよう。

3065. 貧血を起こしている政治家の言葉は、耳にとどく前に、萎えて、消えてしまう。心の、魂の、言葉を語れよ。

3066. 多数決という方法は、口惜しい。必ずしも、(真)ではないという理由で。

3067. 99対1であっても、(我行かん)と、(私)の信念を貫く人もいる。

3068. 隠れた人は、よく生きた。願わくば、(私)も、普通の、任意の点として、生きたい。

3069. 経済、貿易、数字とお金の話ばかりだ。至高のニンゲンのヴィジョンの影すらない。

3070. 眼に見える身体だけがニンゲンなら、こんな楽なことはない。見えないものまでかかえているから(考える)のだ。

3071. 人生、生きるに足るものを、持たなければ生きる意味は半分以下になる。もったいない。

3072. 独りで穴を掘っている。思考が入る穴。(私)がすっぽりと入る穴。

3073. 本能による子育て、教育による子育て、ニンゲンほど手のかかる生きものはいない。

3074. 水のPH。生命の閾。ニンゲンは水を真似て、生きるはずだ。

3075. 一切を見たい、一切を知りたいと、誰もが考えるものだが、生きるとは、いつも、途上であるから、一切は、わからない。で、(私)という物語を仮想して、二重に、生きてみる。

3076. 死ぬという可能性は、誰にもある訳だが、死の不可能性も、誰にでもある。

3077. (生の強度)を高めてみる。どういうことか?何か、素晴らしい仕事をする、そんなものではない。より、多くのことを、壊れる寸前まで、わが身に、引き受けてみることだ。

3078. 宇宙大の、責苦に耐えられる者は、もう人ではない。名付け得ぬものである。

3079. とにもかくにも、生きてきたことであった。すでに、始まっている物語に参加して。見様見真似の、拙い、方法で。

3080. 人間は、二度放り出される。ニンゲンとして生れる時、訳もわからず、ニンゲンとして死ぬ時。

3081. 景色の意味は?ニンゲンは、すべてを読み解けるだろうか?

3082. 「空耳」という言葉がある。なんの音もないのに、音が聴こえてしまう。では「空眼」というものがあってもよい。何もないのに、見えてしまう。あるいは、平凡な山、林、森であるのに、そこに、ひとつのパターンや核を見てしまう。明察か幻視か。

3083. コトバが来る。啓示として、宗教者は体験をする。しかし、(私)のアフォリズムは、宗教体験ではない。それでも宇宙から来る。

3084. 「里道」が発光している。

3085. シグナルを読める人、読めない人。風景は、単なる景色ではない。

3086. 君の書くコトバには、君の指紋が貼りついている。実に、鋭い指摘である。

3087. いったい、指紋を消した文章など存在するのだろうか?

3088. 「完全言語」は、すでにあったか、(神の言)あるいは、来たるべきコトバの謂である。

3089. 生きれば生きるほど「すでに、知っていた」と感じてしまうのは、あらゆるものが、(私)の内部にあったということだ。

3090. (私)の中にないものなど、人は、生きられない。(私)の中にあるからこそ、知ったり、わかったり、納得したりするのだ。

3091. (私)の中にないものなど、ニンゲンは、承知できない。(私)が壊れてしまう。

3092. 意識が寄り道をしてしまう。奇妙な気分だ。

3093. 一日に、何度か、身体をひねる。自然に。ひねらなければ、わからないことがあるのだろう。(知を超える身体のコトバだ)

3094. (私)は、可能性へむけて、語っておるのか?いいや、わかっていることを語っても、仕方がない。不可能だから語りたいのだ。絶対に、コトバにならないと知りながら。

3095. 最近は、コトバが、何を語っているのかよりも、コトバの身振りが気になってしまう。

3096. やはり、コトバは呼ばれてくるので、一人一人の独想など何ものでもない。

3097. 書いていると、書かされている自分に気がつくはずだ。(啓示)

3098. (私)の中に、無数の(私)がいる力。

3099. 呼吸する、かのように、生きる!!

3100. あるとないが、交わって、螺旋状に、宙空に伸びていく、透明な、垂直の縄となって。

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• 月曜日, 3月 09th, 2015

海部郡宍喰町日比原出身の重田昇氏(43)の短編小説集「ビッグ・バンの風に吹かれて」(東京・沖積舎)が長編「風の貌(かお)」の処女出版から18年という長い沈黙を破って上梓(じょうし)された。団塊の世代、立松和平などを学友とする早稲田大学在学中から早稲田文学などに作品を発表し、純文学の旗手と呼ばれた氏も、今では東京で自ら経営する出版会社の社長となっている。五編の短編集からなる作品は沈黙の分だけ重厚なテーマに支えられている。

氏が挑んだテーマとは、人類のまだわからない未知の領域である。「ビッグ・バンの風・・・」は決してSFではなく、現代の知の先端と氏の詩的感性でもって未知の領域を表現しようとする野心作である。

例えば作品「岬の貌」には、泳いでいた男がおぼれ意識不明となり意識が戻るまでに体験する、生と死の境での行為が野太く巧みな筆遣いで描かれている。タイトルとなった作品「ビッグ・バンの風に吹かれて」では、ある男が異次元でのあふれるばかりの光に満たされる体験や、未来を思い出すという体験などをした後、自分の意識ではどうすることもできず、手が勝手に人をナイフで刺してしまうという、奇抜なストーリーが展開されている。

理屈では解明できない経験をした者が、そのことを人に語るとき、二つの答えがすでに用意されている。「うさんくさい」ととりあわないのが一つ、もう一つは信じることである。体験が理性や科学で理解できないとき、人はそう答えるしか仕方がないからである。けれども、重田氏の表現の視点は、そのいずれかに、読者を導くものではない。

作品のテーマである人類の未知の領域や解明できない体験を表現するとき、おそらく重田氏のバックボーンには人間の深層心理を持つ狂気性を探ったミシェル・フーコーとか、まばゆい光におおわれる神秘的体験から精神患者が完治するのをみたユングやトランスパーソナル派の心理学者らの体験が息づいているに違いない。あるいは、二十世紀の物理学の基礎である量子論と相対性理論によって仏教・道教など東洋思想と同じ世界観を持つにいたったフリッチョフ・カプラなどに代表されるニューサイエンスとよばれる物理学者など、結局のところ「人間とは何か」を問うその他の大きな知が渦巻いているのであろう。

こうした現代の先端の知の裏付けと、詩心に基づく、帰納的な人間の探求が重田氏の姿勢であり、その姿勢が孤高の作品を形成させるのであろう。作品は、知の蓄積がもたらした純文学の高みと評価したい。

見識のある文学好きの読者にはぜひお薦めしたい本であり、現代の知を捕らえ直すにはおもしろい一冊である。

最後に作品「夏薔薇(ばら)」などに代表されるように、登場する多くの風景描写は空も海も雨も、私には県南・宍喰町のものであるように思われたことを付記しておく。

(詩人、日本ペンクラブ会員、徳島市新浜町二丁目)

(徳島新聞1991年5月10日号)

【ビッグ・バンの風に吹かれて】※PDFファイルが開きます。

【ビッグ・バンの風に吹かれて 書評】

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• 火曜日, 8月 19th, 2014

イッタイ 何人ノ人間ガ宇宙樹(コズミック・ツリー)ヲ視タカ?
花を見る
花が見る
幻花を見る
幻花が見る
現(うつつ)も夢(ゆめ)も ひとつの事象(コト)である
視よ 花が現成(げんじょう)している

視るも
聴くも
歩くも ひとつの行為(コト)である
決して 別のものではない
根はひとつである
色は音に
音は色に
色も音も歩いている

モノにも
ココロにも
宇宙にも
コトバを 正しく 置く
すべての時空に
存在にも 非在にも
コトバは開かれている
その時
自心の源底に至った時
存在はコトバである
コトバが存在ではない

視ヨ 宇宙樹(コズミック・ツリー)ガ ソノママ
現成シテイルデハナイカ!!

※井筒俊彦のコトバ。『読むと書く』より。

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• 金曜日, 7月 18th, 2014

1. 「空海素描」(高野山大学刊) 竹内孝善著
2. 「異邦人」(新潮文庫刊) カミュー著
3. 「カミュ論」(筑摩叢書刊) モーリス・ブランショ著
4. 「反抗的人間」(新潮社刊) カミュー全集
5. 「革命か反抗か」(講談社刊) カミュー=サルトル論争
6. 「ペスト」(新潮文庫刊) カミュー著
7. 「最澄と空海」(吉川弘文館刊) 佐伯有清著
8. 「空海と密教美術」(洋泉社刊) 竹内孝善・川辺秀美共著
9. 「空海」(吉川弘文館刊) 高木訷元著
10. 「あなただけの空海」(小学館刊) 立松和平・
竹内孝善共著
11. 「空海の本」(学研刊)
竹内孝善・竹内信夫共著
12. 「井筒俊彦全集」第一巻(アラビア哲学) (慶應義塾大学出版会刊)
13. 「昭和の貌」(弦書房刊) 写真:麦島勝 文:前山光則
14. 「新約聖書」訳と注「使徒列伝」
(作品社刊) 田川建三著
15. 「
新約聖書」訳と注「ヨハネ福音書」(作品社刊) 田川建三著
16. 「未明の闘争」(講談社刊) 保坂和志著
17. 「
明治の風、子規と鴎外」(イースト株式会社刊) 壬生洋二著
18. 「名作に見る比喩表現」
(イースト株式会社刊) 壬生洋二著
19. 「流星ひとつ」(新潮社刊) 沢木耕太郎著
20. 「晩年様式集」(講談社刊) 大江健三郎著
21. 「廃炉詩篇」(思潮社刊) 和合亮一著
22. 「宇宙が始まる前には何があったのか?」(文藝春秋社刊) ローレンス・クラウス著
23. 「サバイバル宗教論」(文春部書刊) 佐藤優著
24. 「禅仏教の哲学にむけて」(ぷねうま舎刊) 井筒俊彦著(野平宗弘訳)
25. 「『生』の日ばかり」(講談社刊) 秋山駿著
26. 「<世界史>の哲学」(講談社刊) 大澤真幸著
27. 「井筒俊彦全集」第四巻(慶應義塾大学出版会刊) 井筒俊彦著
28. 「地下室の手記」(旧:地下生活者の手記)(新潮社文庫刊) ドストエフスキー著 江川卓訳
29. 「江戸版 親父の小言」(大空社刊) 解説:小泉吉永

8月の眩暈に続いて、11月に、歩行が困難となった。
眼と耳と、肩と腰の筋肉の硬直。読めない、書けない、話せない、聞けない、歩けないの五重苦が来た。
読むと、眼の中で、活字が泳ぐ。見ると、映像が動いてしまう。大きな音、声は、耳が拒否する。考えがまとまらないので、上手く話せない、従って、書けない。散歩でもと思って歩くと、電信柱が右に左に揺れる。店に入ると、足がすくんで、光が乱反射して、歩けない。
ほとんど、死んでいる。コレは、重田昇ではない。何か、別の生きものだ。

身体からココロへと、症状が転移する。ウツになる。心身症状態である。
約半年間、「読書」ができなかった。六つの病院、九人の医師に診てもらったが、原因がわからない。疲労から過労へ。老化?ストレス?身体の不具合?
結局、終日、「呼吸法」と「瞑想」を行った。ココロと身体を、呼吸で、調整した。瞑想で、苦を解き放った。マッサージから、カイロプラティックへ。

5月に入って、ようやく、(普通)の状態が戻ってきた。杖をついて、歩く毎日から解放された。
やれやれ。
知識では、ココロの病いを知っていたが、自分の心身を通じては知らなかった。あらゆる能力が低下して、機能しなくなることは、ニンゲンにとって、恐怖である。
加齢による病いには、切りがない。ガン、心臓病、糖尿病、高血圧、脳卒中。そういう年齢になったということだ。

「空海」の資料を読みはじめて、もう、三年になる。結局、実践の伴わない、修学では、「空海」は現れない、わからないと解った。

「井筒俊彦全集」の刊行が始った。母校の慶應義塾出版会から。
単行本では読めない作品が、収録されるのがうれしい。全十三巻、ゆっくりと、味わいたい。

田川建三氏による「新約聖書」訳と注も、全六巻まで刊行された、あと二巻、生涯をかけた大仕事である。作品社の健闘をたたえたい。

「昭和の貌」 九州、熊本に生き、地域の文化、人物の変貌を撮り続けた、麦島勝氏による写真集。
どの写真からも、平凡な日常の風景からも、人々の表情からも(昭和)が立ち昇ってくる。貴重な記録である。
風の匂い、人々の表情、気配、どれをとっても、「昭和」である。
なお、文=解説は、前山光則氏。若き日の、文学青年の面影を知っている、私にとっては、忘れられぬ(文学)の友である。東京から、郷里の熊本に帰って、教師をしながら、地域の文化を書いている。

「名作に見る比喩表現」
壬生洋二・詩人。昔の文学仲間である。ブログで活躍。好エッセイを書いている。

「流星ひとつ」
自死した藤圭子と沢木耕太郎の対談。昔の、眠っていた原稿が、「本」となって、出版された。私の、学生時代に、藤圭子は、その時代の色を、歌ってくれた、ココロが共鳴する唯一の歌手であった。
「圭子の夢は夜ひらく」 「新宿の女」などなど・・・。
運命、宿命というコトバを身をもって、引き受け、歌にした、歌手であった。(合掌)

「宇宙が始まる前に何があったのか?」
宇宙論は、いつまでたっても、面白い。謎のまま終るのか、終に、ニンゲンがその正体を、見究めるのか、生きても、生きても、生きても、わからない、宇宙である。

「禅仏教の哲学にむけて」
井筒俊彦は、随分と、英語で論文を発表している。本書は、その英文を、他者が日本文に翻訳した書である。
井筒俊彦の(核)が、発見できる書である。

「『生』の日ばかり」
「死ぬ前に書くということ」 この本のタイトルは、編集者がつけたものである。秋山駿か、「『生』の日ばかり」で出版してもらいたかっただろう。時節を考えた、出版社がつけたタイトルである。
約40年、秋山駿を読んできた。お手紙をいただき、電話で話をし、酒を呑み、釣をして、対談、座談会までしてもらった恩人でもある。
「秋山駿」に対して、私のホームページで連載中の『コズミックダンスを踊りながら』で「鎮魂アフォリズム50作品<内部の人間>秋山駿に捧げる」を書いた。(2951~3000) 約600ページくらいの「本」になる予定である。

「江戸版親父の小言」は、江戸時代の寺子屋の教科書「往来物」の研究者、小泉吉永が発掘し、解説している。
小泉吉永は、学生時代に、神田の古本屋で、「往来物」を手にして、その魅力にとりつかれて、膨大な「往来物」を収集し、研究を続ける学者である。
縁があって、私が経営していた出版社で、優秀な、編集者として、働いてもらった男である。現在は、会社を辞めて、研究者として、活躍している。がんばれ、小泉吉永!!

(7月16日)

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• 水曜日, 7月 16th, 2014

狂いっぱなしの
存在という太鼓を
乱打している者がいる

身体に眩暈が来た八月
精神に眩暈が来た十一月
存在自体に眩暈が来た 何月?三月十一日
超球宇宙も眩暈しているのか?永遠に

独楽(スピン)する左巻きの素粒子たちよ
ニンゲンに垂直に立てと言っても
底もなく 中心もなく
何処に起点が置けるのか
座標軸が決定できぬ

私の自然の乱調である
分裂し
まるで
二十四人の多重人格者のように
一気に
私の内部(なか)へと雪崩れ込んで来た 誰だ?何だ?

歩行は 右へ左へ?上へ下へ?前へ後ろへ?
揺れに揺れて
ここは何処だ?
今は何時だ?
一切の判断も中止 ???宙吊りである

意識はとっくに
ゼロ・ポイントに陥っている
何が出て来ても 不思議ではない 時空の
ゆらぎの中で耐えている

さて
生きる・死ぬがどんなことであったのか
もう
すっかり 消え去ってしまった
終に
五十六億七千年の時が流れたのか
弥勒菩薩よ!!

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• 水曜日, 7月 16th, 2014

ニンゲンには、おびただしいものがやってくる。
事象であれ現象であれ、毎日毎日いや毎秒毎秒やってくるものがある。放っておけば、数秒で、数時間で、数日で消えてしまうものたちが大半である。

(私)は、やってくるものが、コトバに、変換される瞬間に、ノオトに、書き記してみた。約5年間に、3000のコトバが来た。(私)自身にさえ、意味不明のコトバもある。
イメージが来たり、気配が来たり、奇妙な音信が来たり、声が来たり、映像が来たり、その形姿はさまざまである。
深層意識から、無限遠点から表層意識から(私)の中心から、来るものがある。
必ずしも(思考)のみではない。直観もあれば、五感もある。

無数のものが(私)を構成している。
(私)の中で、あらゆるものたちが、コトバとなって、現成する。(私)は、それらのコトバを、アフォリズム(箴言詩)と呼んでいる。
書いた本人も、それらのコトバを読むと、深く、考えざるを得ないものもある。
読者も、3000の、アフォリズムを読んで、共に、コトバを、生きてほしい。

芥川龍之介、萩原朔太郎、埴谷雄高、寺山修司、パスカル、カフカ等が愛用した、アフォリズムの水脈を、私は、受け継ぎたい。現代に再生させる。
未来へ、未知へ、未だ開かれざる存在たちへ、コトバを投げかけてみる。
(私)の宇宙が顕現するものと信じながら。

2014年6月 記

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• 水曜日, 7月 16th, 2014
2951. 「内部の人間」トハ、イッタイ、何者デアロウカ。
内部の意識が無限速度で廻り続けて、あたかも、普通に生きる、生のリアリティと均衡し、あるいは、超えてしまっている人間のことである。(考える)ということを考える、球体の中に棲んでしまった人種(タイプ)だ。秋山駿は、(私)とは何かと問い続けて、「内部の人間」を生きた人である。
2952. 「内部の人間」トハ、誰カ?
北村透谷、中原中也、そして、秋山駿、李珍宇(小松川女子高生殺しの少年)。ラスコールニコフ(『罪と罰』)イポリット少年(『白痴』)地下生活者の役人(『地下生活者の手記』)そして、ドストエフスキーである。
2953. 「内部の人間」とは何者か、と考え始めると、もう、あなたは、「内部の人間」の入口にいる。
2954. 「内部の人間」も、ニンゲンである限り、外部世界・世間・社会に生きねばならぬ。そこで、矛盾が発生する。内部に生きることが、唯一の、絶対の存在の意味をもってしまう「内部の人間」が、果たして、意味を見い出せない外部世界に、どうやって、棲めるのか?生き延びられるのか?
2955. 秋山駿は「内部の人間」の声を「ノート」に記した。生きるために。決して日記ではない。考える・思索ノートである。(『内部の人間』)(処女作)から(『「生」の日ばかり』)(遺作)まで、類い稀な、思想のコトバである。
2956. 石塊(イシコロ)トハ何カ。
ある日、道端に転がっている石塊を拾ってきて、机の上に置いた。どこにでも転がっている、平凡な、普通の石塊である。秋山駿と石塊の対話がはじまる。見る、眺める、触る、噛む、割る、石塊とは何か、十日、百日、千日・・・。石塊は、私とは何者かという問いと同質であり、その存在が、秋山駿の存在を、照らし出した。(私は、一個の、石塊である、と)平凡な、普通の石塊は、秋山駿の中で、(普遍)へと達してしまった。秋山青年の知的クーデターの始まりであった。
2957. 石塊、砂粒、舗石、秋山駿の心性は、無機質の、単純で単調な、簡単なものへとむかっていく。断片、破片、切れ切れの存在へ。秋山駿は、決して、ココロの病者ではない。類似している心性・感情はあるが、分裂している訳ではない。「ノート」が(私)というものを、統一している。(『砂粒の私記』)(『舗石の思想』・・・中期の傑作)
2958. 石塊の行処?
ある日、義母が家を出るというので、秋山青年は、何もあげるものがなくて、一番大事にしていた、石塊をもって走り、義母に手渡した。自分の耳を切って、貧しい女に、手渡ししたゴッホの心性に酷似している。
2959. 秋山駿は、決して、抽象的な人間ではない。実に、具体的な人間である。文学のための文学を嫌った。あくまで、具体的なモノ、ニンゲン、セイカツから、考えることを始めた。存在そのものを考えはじめると、いつのまにか、その思考が、抽象的に見えるだけだ。
2960. 秋山駿のノートのコトバに触れると読者は、火傷をする。なぜか?すべてのコトバが、実際の、生きる為のコトバである、存在自体を考え尽くすコトバだから。強度の強い文体は、必死に生きる、考える、秋山駿の生の姿に比例している。
1000日たった。拾ってきた石塊は、もはや、以前の石塊ではなかった。純粋直観で見た石塊は、石塊そのものであった。ノートのコトバで考えた、石塊の物語である。
2961. 「内部の人間」のコトバと「社会」の言葉。「何をしている?」「考えるということを考えている。」「内部の人間」のコトバである。内部的意識が、語る。存在そのものが語る。私とは何か?と考える私・・・以下同様。それでは、社会に生きてゆけない。社会の言葉は、挨拶にはじまって、約束、契約の言葉である。記号である。ふたつのコトバは交わらない。衝突するのだ。秋山駿は、内部のコトバで生きる人だから、社会の言葉は、耳で聴いて、「なるほど」と返事をして、ココロの中を素通りさせてしまう。
2962. 秋山駿の「なるほど」と「うん」と「どうも」
他人の話を聞き終ると、「なるほど」と秋山駿は言う。決して、わかったという意味ではない。君は、そう思い、考えているのか、という了解の合図である。自分の話が終ると、必ず「うん」と最後に言う。まるで、正確かどうかを、再確認するかのように。他人に、贈り物をもらった時には、「どうも、な」と言う。社会の挨拶や、紋切り型のお礼が嫌手なのだ。ものをもらうと、必ず、持ち重りがする人であった。
2963. 「犯罪」と「内部の人間」
「理由なき動機なき犯行」(殺人)と新聞やテレビで報じられた、小松川女子高生殺しの少年による事件を、社会に抗って、「内部の人間」による犯罪であると断じたのは、秋山駿である。自分と同じ心性と思考を持っている少年に、同類の匂いを嗅ぎつけたのだ。二人の道は別れる。少年(李珍宇)は、内部の意識から一歩を踏みだしてしまう。その意識の延長を、犯行という現実に、接木をした。秋山駿は、ノートという、コトバの世界を創りあげた。そして、石塊になって、社会へ出た。社会で働いた。無用の者として、生きた。「内部の人間」のコトバを、生涯、手離さなかった。
2964. 「内部の人間」には、モノやコトとの自然な「結ぼれ」がない。決して、ココロが分裂している病者ではない。(酷似しているが、まちがってはいけない)ノートのコトバと社会の言葉が離反してしまうのだ。で、(私)のノートの声を殺して、複雑な手続きをとって、はじめて外部世界と関係を結ぶ。世間へ、社会へ、会社へと出ていくのだ。
2965. ニンゲンは、いったい、何を、礎にして、生きているのだろうか?
憲法、民法、戒、道徳、常識、倫理、あるいは、60兆の細胞の声・・・。秋山駿には、(「生」の綱領)がある。一個の石塊から、敗戦の焼け跡から、自らが発見し、創造した、生活とココロの掟である。「内部の人間」が生きるための、厳粛な規則であった。(自分の土地はもたない。自分の家はもたない。自分の子供はもたない。・・・以下、生活の細部に至って、規則がある)そして、83歳の生涯において、(「生」の網領)を実践した。
2966. ほんの、ちょっとしたことが、普通にできない(行為とコトバ)。
心の風景にあるのは、石ころ、砂粒、舗石、モノの断片、切れ切れのコトバ等々。心の病者と「内部の人間」秋山駿の心性は酷似している。しかし、秋山駿は、決して、病者ではない。(私)を統一しようとする、強い意思とノートのコトバをもっているから。ヒトとモノとの”結ぼれ”を喪失している、病者と秋山駿。病者は(私)を喪失しているが、秋山駿は、「石塊としての私」をもっている。石塊が歩くのだ。その実践の形が(私)を形成し、秋山駿となる。
2967. 「石塊とは何かという物語」
秋山駿は、道端に転がっている石塊を拾ってきた。どこにでもある、平凡な、なんの特徴もない、普通の石塊。そして、机の上に置いて、考えた。
①石塊がある。②私は石塊を見る。③私は石塊を考える。④撫でる、割る、砕く、噛む・・・石塊は石塊のままだ。⑤石塊は私に語っている。(石塊のコトバで)⑥石塊が私を見る!!※10日、100日、約1000日・・・石塊との対話が続いた!!⑦私は石塊になる(純粋直観)。⑧石塊!!石塊が現成する。⑨私!!私が現成する。
(私)はノートを棄て、石塊となって会社へ、社会へと歩きはじめる。
2968. 秋山駿の、あの「内部の人間」のノートの思想(コトバ)は、いったい、何処から来たのだろう?
①耳の手術(個の発見)(宇宙の中にただ一人の私)②石塊との対話(意識の発見)③戦後の焼け跡(現実の発見)が三つの原体験である。
2969. では、コトバは、何処から起ちあがったのか?
①中也のコトバは、秋山駿にとってココロの水準器であった。②ヴァレリーのコトバは、秋山駿にとって(知)のクーデターであった。③デカルトのコトバは、秋山駿にとって最も(信)のおける方法であった。④ドストエフスキーのコトバは、秋山駿にとって、魂の交憾であった。⑤小林秀雄のコトバは、秋山駿にとって、文章で、モノを”考える人”の手本であった。⑥ランボーのコトバは、秋山駿にとって、見者の予言であった。
2970. 日本の評論の祖・小林秀雄は、自らの生の評評化を断念して、天才たちの形姿を追った。ゴッホの絵、モーツァルトの音楽、ドストエフスキーの小説等。一方、秋山駿は、自らの生をどこにでもある平凡な、普通の一個の石塊と化し、団地の生活を、世間の声を、犯罪者の物語を、「内部の人間」のノートの思想として、生涯探求し続けた。
2971. 小説ではない。哲学でもない。評論ですらない。もちろん、日記ではない。ノートの思想(コトバ)は、「生」の現場から考える、「内部の人間」秋山駿の裸の形姿である。30年、40年(文学)から遠く離れて実人生を生きてきた(私)も、どういう訳か、秋山駿のノートの思想(コトバ)だけは、読み続けてきた。信頼に足る人間の声、形姿を、自分の眼と耳で追っていたかった。
①『内部の人間』(処女作)②『歩行と貝殻』③『地下室の手記』④『内的生活』⑤『舗石の思想』(最高傑作)⑥『砂粒の私記』⑦『「生」の日ばかり』(絶筆・遺稿集)
秋山駿のコトバは、時代の水準器であった。時代の流れに、社会の変化に、世間の声に、棹を差す、石塊のコトバである。
2972. ①私は石塊を見る②石塊は私を見る③石塊は石塊を見る④私は私を見る
そして「石塊!!」が現成する。「私!!」が現成する。井筒俊彦風に言ってみると。
秋山駿の中でも、1000日の間に、禅など知らずとも、似たような、ココロとコトバの転成が生じていたにちがいない。
秋山駿が使う(普通)は、普通の人が使う普通ではない。(普通)である秋山駿の、平凡な、どこにでもある石塊は、人々が見る、平凡な、どこにでもある石塊ではない。(普通)も石塊も、約1000日の対話を経て、ふたたび、顕現したものである。(石塊!!の現成!!)
2973. (私)の中心(内部)に私がいない。他人(医師)の声が(私)の中心にいる。(私)は、声に占領されている。(私)は、ノミとツチの音に占領されている。声が、音が、(私)の内部から聴こえる。
手術台では、あらゆるものが、手のとどかぬところに、存在した。ヒトもモノも。
(私)自身が私から遠い存在になった。(私)の喪失である。
まるで、蛸のように、裏返しにされて、自分もしらない(私)の秘密を、他人に覗かれる、「恥」の感覚が誕生した。「ホラ、これが脳膜だよ」
幼年期の、耳の手術が、秋山駿の原点・「内部の人間」の心性が誕生した瞬間である。そして、「片耳の男」となった、秋山駿は、大人になっても、自分が話し終ると、必ず「うん」と言うようになった。自分の声かどうか、正しいコトバかどうか、再確認をしているふうだった。
2974. 秋山駿のノートのコトバの中に立つ。いやノートのコトバを共に歩く。どこまで歩いても終らない、コトバの歩行がある。モノやヒトの形そのものが、ゆっくりと、低く、呟く声のもとに、顕現する。単色の、存在そのものの世界が無限に続いている。途轍もないものが、秋山駿という(私)を生きている。
2975. ノートのコトバがわかるためには、ノートのコトバの外へ出なければならない。そして、ふたたび、ノートのコトバの世界へと戻らねばならない。
①私は「内部の人間」である。②私は「内部の人間」ではない。③やはり、私は「内部の人間」であった、と。
2976. 秋山駿は、存在という神との対話を稀求した人だ。ノートのコトバは唯一その為にあった。他人との対話の為のコトバではない。コトバが、至高のも のに至らなければ、ノートのコトバに意味はない。普通は普遍。普遍は普通。石塊は、秋山駿にとって、神(存在)である。あらゆるものに開かれている。
2977. 対話、対談は、いつも、真剣勝負である。火花が散る。白熱すると、秋山駿は、白眼をむくのだ。何処か遠いところを見て、自分の蔵の中 にある、自分のコトバを取り出してくる。相手にも、同じ、真剣を求める。教養や知識や他人のコトバは許さない。必ず、自らの生の現場から掬いあげた コトバでないと、容赦しない。一言に賭ける、秋山駿のコトバは、他人を殺してしまう力をもっていた。
(「お別れ会」の時、法子奥さんが、死ぬ時には、白眼をむかずに、穏やかな死に顔でしたと語ってくれた)
2978. 文芸評論家としての地歩を築くと、(文学)の仕事が増えると、「内部の人間」としての(存在)のノートのコトバが減ってい く。すると秋山駿の本来の、力が衰弱する。ピンチである。コトバを売ることに、嫌悪が生じる。更に、ノートのコトバまで、社会に放出すると、大きな、矛盾 が生じてくるのだ。(生)のリアリティが変質する。(私)のコトバが、社会で、交換される。(私)の危機である。社会化された、秋山駿!!もう一度、否、 何 度も何度も、秋山駿は、コトバの原初に帰ろうとする。石塊を発見したあの、コトバの地点に。
2979. 三島由紀夫と秋山駿
突然、三島由紀夫から電話がかかってきた。法子夫人は、新宿で酒を呑んでいる主人に、連絡をした。「三島由紀夫という、小説家から電話があった」と。
なぜか?
三島由紀夫は、秋山駿に、同志を見た。代表作『金閣寺』の放火の主人公は、「内部の人間」である。犯罪を鋭く分析する、秋山駿に、シンパシーを感じたの だ。そしてその作品に最高の評価を下した。三島由紀夫は、秋山駿のエッセイ「簡単な生活」を、海外で紹介する、(翻訳の)労をとった。後に、『太陽と鉄』 小説でもエッセイでもないこの作品を、秋山駿は、三島のコトバの核だと、後に、評論する。三島由紀夫が、割腹自殺を企った後、秋山駿は、十五年勤めたス ポーツ新聞社を辞めて、筆一本の生活に入る。生命がけで事を為す、三島の姿勢に、共鳴し、鼓舞されたのだ。
「イッタイ、君ハ、何ヲシテイル?「内部の人間」の声ヲ貫ケ—俺ノ事件ヲ考エテクレ!!」
2980. 秋山駿は、労働争議の渦中の人となった。「内部の人間」も労働しなければ食ってはいけぬ。どだい、「内部の人間」として、 「生の綱領」を守って、社会に生きること自体が、大きな矛盾であった。会社の論理とも労働組合の論理とも、折り合いがつかない、衝突する。結局、15年間 勤めた、スポーツ新聞社を退社する。「何時来るかと待っていたよ」「君の笑顔を15年間、一度も、見たことがない!!」そう言われて、会社を去った。社会 の言葉と「内部の人間」のノートのコトバが、正面衝突をした結果であった。
2981. 野に遊ぶ、川に遊ぶ。
石ころだらけの川原に立って、石塊である秋山駿が、釣竿を振る。奇妙な光景であった。誰が言いだしたのか、『歩行』(文芸同人誌)の仲間たちと秋山駿で、 埼玉の川へ釣りに出かけた。屋根裏の哲学者のように、団地の一室で、原稿書きに明け暮れる「内部の人間」を、一瞬、野に解き放ってやろうよという目的だっ た。魚が釣れた。破顔の秋山駿が水の中に立っていた。後にも先にも、こんな場面はなかっただろう。「俺も、こんな面白いこと、やっていたいよ、うん」。 (思い出)
2982. ノートのコトバには、ノートのコトバで応えて。公的な、社会に流通する言葉で、秋山駿を語っても(論じても)文芸評論家・秋山駿の半身しか捉えられない。「内部の人間」の姿は隠れてしまう。
2983. 「内部の人間」秋山駿は、独身者ではない。
①男と女。駿と法子(夫と妻)
②20代は、「ともに、大地を掘る」共同生活者であった。30代は、「大地」が消えて、ひばりが丘の団地の「空虚」が現れた。サラリーマンの生活。
③40代は、文芸評論家とブック・デザイナーの「二人三脚」・共働きであった。
④70代は、共に病んで、老いて、「同行二人」の旅人(人生)となった。(「同行二人」は、本来は四国八十八ヶ所巡礼するお遍路さんと空海のことである。)
⑤80代は、ただの石塊である、秋山駿・「内部の人間」は、石の地蔵菩薩になっていた。(芸術院会員・勲四位)
2984. 「手の力(コトバ)」と「声という力(コトバ)」
意識が、ゼロ・ポイントに達してしまうと、もう、コトバがない。法子さんの痛みは、もう五年になる。朝、昼、晩、夜中、痛みは続く。毎日毎日苦痛の真只中 にいる法子さんに、掛けるコトバがない、秋山駿。そんな時、二人が、手を重ね合わせるだけで、一時、痛みがやわらぐのだ。耐えられるのだ。「手の力(コト バ)」である。”結ぼれ”の究極の形であろう。
病院から、法子さんが自宅に電話を入れる。「駿の声が聴けて好かった。元気?」声という力(コトバ)である。響きの波の中に二人がいる。
2985. 魂が魂を呼ぶ
延命治療を拒み、点滴も鎮痛剤も拒否した秋山駿は、10月2日、死んだ。(享年83歳)その日は、奇しくも、若くして死んだ母の命日であった。(法子さん談)(「お別れの会」にて)
2986. 秋山駿のノートのコトバは、単独者の為のものである。
最晩年に、秋山駿は、二人のコトバというものを、考えてこなかった、と悔いている。病者と、弱者と、貧者と、共に考えるコトバ。お互いの、ココロの一番深いところで、魂を交感できるコトバ。誰が、そんなコトバを、発しているか?
2987. 「内部の人間」秋山駿の咎と罪とは何か?
「生の綱領」を原理、原則として生きる限り、妻には、嫁の役割り、母の役割り、女の本質の役割りを与えられぬ。「内部の人間」の生涯に、巻き込んでしまった、妻への、お詫びがある。
2988. 「内部の人間」は、結局、「内部の人間」へと帰ってくる!!
会社員も、大学講師も、文芸評論家も、社会の役割りであった。至高の、意識のリアリティがある場が、(私)を「内部の人間」へと連れ戻すのだ。少年の、ノートの声が響きわたる時空へと。
2989. 「内部の人間」秋山駿は、未曾有の東日本大震災3・11から、無数の石塊が、「内部の人間」たちが、生れ、起ちあがってく る光景を、予見したにちがいない。敗戦の、焼け跡から、ただの石塊として起ちあがった自分の姿を、3・11の、あの、荒寥たる、無機質の光景に重ねなが ら。
2990. ある時を境に、ノートのコトバの色調が変わる。法子さんの登場の頃。(考える)コトバが(魂)のコトバに、転調しはじめる。書くというよりも、何か、大きなものに、書かされている。
2991. 最後まで本当の(知)を中也のコトバに求めた秋山駿であった。「内部の人間」の声。
コトバは人を遠くまで運ぶものだ。中也のコトバは、秋山駿を、10代から83歳まで運んでくれた。
2942. 秋山駿は、開かれた人であった。誰でもが通れる門を構えていた。誰もに答えるコトバをもっていた。生きれば傷つく人間である。秋山駿は、正しく、傷から歩きはじめた。見れば、そのままの、秋山駿が立っている!!
2943. 倦まず、たゆまず、八十三歳まで(私)を探求した「内部の人間」秋山駿であった。内部のノートのコトバが外部に放たれ、内 部が外部に、歩いた外部が内部になって、さながらメビウスの輪のような存在に、コトバは達して、死んでいった。コトバは、存在へと開かれた。
2994. 内的心象は、いつのまにか、コトバという外的事象となって、勝手に自己回転して、秋山駿の手を離れていった。世間に、社会に「内部の人間」のノートのコトバが種子となって、その「子供たち」が花を咲かせるだろう。
2995. 秋山さん、今、超球宇宙の、どのあたりを歩いているのですか?誰に遠慮もなく、気兼もなく、歩行だけを楽しんでいますか?そちらでは、どんな歩き方で歩いていますか?きっと、小さな、小さな、地球という惑星の歩行とはちょっとちがうのでしょうね!!
2996. 足が不自由になった秋山駿は、杖をついていつもの公園を歩行する。もう(私)が歩いているのではない。(私)が(公園) が、木が草が、あらゆるものが、照らし出されて、在る!!秋山駿は、歩きながら、コズミック・ダンスを踊っているのだ。此岸は彼岸、彼岸は此岸。
2997. ノートのコトバが沈黙する。沈黙が増えると、ノートのコトバは魂のコトバへと変わっていった。(私が語る)が(私は語らされている)へ。
2998. 秋山駿は、普通の、平凡な、簡単な日常の中に、すべてがある、石塊の生に、普遍があると信じて、生きた人である。天才、偉人を描くのではなく、普通の人間の中に、無限があると描いた「私」哲学の人であった。(『信長』は例外)
2999. ニンゲンには、「生・老・病・死」があるから、誰でも、人生に、四度以上、悩みをかかえることになる。実際、二進も三進も いかぬ時があるものだ。(私)が、私自身の内部へとへたり込んで、一歩も進めぬ時があった。若い妻と私が、不幸に、不幸が重なって、どん底に生きている 時、 秋山駿から、一通の手紙をもらった。
『私が敬愛するデカルトという人が、「光があると思って生きれば、必ずそうなる」、信じて下さい。』と。
そのコトバを信じて、生きてみた。コトバは、力であった。
3000. 大事ナ人ガ死ンダ時ニハ、ニンゲンハ、イッタイ、何ヲスレバイイノダロウ?
釈尊は、死の直前に、愛弟子・アーナンダが、泣き、嘆き、悲しみ、取り乱している姿を見て、お前は、まだ悟っていないのか、そして、「法(経)を唱えよ、自らを灯明とせよ」と語った。同じことだろう。
秋山駿なら、自らの足で、生の現場を歩け、歩き続けろ、そして、私のノートの思想(コトバ)を読んでくれと語るだろう。
「私は歩行する!—おそれず、あなどらず、いつわらず、まどわず、自然に。」(『歩行と貝殻』
超球宇宙を歩く秋山駿の姿が見える!!
さようなら、私の秋山駿!!
【追記】
ただ、悲しい。私は、秋山駿のノートの声を読み(聴き)ながら、私の感想とお礼のコトバを書いてみた。願わくば、秋山駿の読者が、それぞれの秋山駿の姿 を、書いてもらいたいものだ。私の知らない、秋山駿を見たい。知りたい。もう一人の「内部の人間」が、その子供たちが、生きはじめているだろう。