Archive for the Category ◊ 作品 ◊

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• 金曜日, 3月 18th, 2016

1. 小説「ブッダ」(いにしえの道 白い雲)(春秋社刊) テイク・ナット・ハン著
2. 句集「流砂」(ふらんす堂刊) 光部美千代著
3. 「ブッダの幸せの瞑想」(サンガ刊)  テイク・ナット・ハン著
4. 「死もなく、怖れもなく」 (春秋社刊) テイク・ナット・ハン著
5. 「幽霊の真理」(水声社刊) 荒川修作・小林康夫 対談集
6. 「絶歌」(大田出版刊) 元少年A著
7. 「空海はいかにして空海となったか」(角川選書刊) 竹内孝善著
8. 「江分利満氏の優雅な生活」(新潮文庫刊) 山口瞳著 (再読)
9. 「説話集の世界①②巻」(古代・中世)(勉強社刊)
10. 「中世説話の世界を読む」(岩波書店刊) 小峯利明著
11. 「日本古典文学と仏教」(筑摩書房刊) 石田瑞磨著
12. 「電車道」(新潮社刊) 磯崎憲一郎著
13. 「東京発遠野物語行」(論創社刊) 井出彰著
14. 「井筒俊彦全集」(第11巻-意味の構造)(慶応義塾大学出版会刊)
15. 「仏教文学概説」(和泉書院刊) 黒田彰・黒田彰子著
16. 「新約聖書」(作品社刊) 訳と注 田川建三訳著
17. 「倫理とは何か」(ちくま学芸文庫刊) 永井均著
18. 「科学者は戦争で何をしたか」(集英社新書刊) 盛川敏英著
19. 「犬の力を知っていますか?」(毎日新聞出版) 池田晶子著
20. 「生きて帰ってきた男」(岩波新書刊) 小熊英二著
21. 「天来の独楽」 (深夜叢書刊) 井口時男句集
22. 「詩の読み方」(笠間書院刊) 小川和佑近現代詩史
23. 「空海」(新潮社刊) 高村薫著
24. 「イエス伝」(中央公論新社刊) 若松英輔著
25. 「1★9★3★7(イクミナ)」(金曜日刊) 辺見庸著
26. 「生きた 臥た 書いた」(弦書房刊) 前山光則著
27. 「証言と抒情」~詩人石原吉郎と私たち~(白水社刊) 野村喜和夫著

還暦を過ぎると、急に、眼が弱くなって、文字を追う読書が辛くなる。なにもかも読む訳にはいかない。よく生きた人の、その人自身のコトバとなっている「本」だけに絞り込んで、読書をする。
若い時の読書は、知への衝動であるが、老いた時の読書は”愉楽”である。

1. 「ブッダ」
仏教の開祖、ブッダの生涯を語る物語である。
研究者、学者、作家、おびただしい「本」が、ブッダについて、書かれている。どの本も、一長一短があって、なかなか、完璧なブッダ伝はない。
①資料文献を読み込んでいる
②仏教の実践者である(信心)
③詩心(文体)をもっている
結局、①②③を兼ね備えた人がいなかった。で、どこかに、不満が残る。テイク・ナット・ハン師は、①②③を身につけた人である。物語の瑞々しさ、仏教思想、修行法まで、一切が、表現の中にある。宗教がテーマの最高の小説であった。

2. 句集「流砂」
古武士のような、評論家・井口時男のエッセイで、光部美千代という俳人を知った。俳句が、ここまで、ニンゲンそのものを表現できるのか?と感嘆した。
特に、病死する直前の、俳句は、無限遠点から、降りてきたコトバが、生きものとなって、光部美千代の内部で、ふるえていた!!

5. 「幽霊の真理」
天才であった荒川修作が逝って、もう、何年になるのだろうか?対談者の小林康夫は、アラカワの謎へ、呼び水となるコトバを投げる。実にスリリングな対談集(天命反転)

6. 「絶歌」
元少年Aの「本」
人は、コトバで生きる。少年Aは、誰にも見せず、自らのコトバを、ノオトに書き記すべきであった。存在そのものを支えるノオトのコトバで。(ラスコールニコフの老いたコトバで、ムイシュキンのコトバで)(失望した)

12. 「電車道」
一行よ、起ちあがれ!!迷宮へと歩行する磯崎の小説は、一行一行が、発見であり、スリルあふれる小説世界であった。
しかし、今回の小説は、(説明)の文章が、リアリティを剥ぎ落としていた。残念。設計図なしに、建築をする磯崎の手法が、今回は、空廻りしている。
なぜだろう?百年の時間の流れが、感じられない。

13. 「東京発遠野物語行」
(遠野物語)の研究者。評論ではない。(遠野)とは何か?何処か?作者・井出彰の内部にあるニンゲンにとっての(遠野)が描かれた「本」。

18. 「科学者は戦争で何をしたか」
ノーベル賞を受賞した、科学者益川敏英の、3・11「原発事故」に対する、怒りと警告の書である。
ニンゲンは、科学で、宇宙をどうにかできるのか?政治化へ、軍事化へと、利用され続ける「科学」である。「ニンゲンと科学」を、再考するメッセージが熱い。
科学者の良心が書かせた「本」。

19. 「犬の力を知っていますか?」
池田晶子の「本」は、ほとんど読んできた。いつも、池田の、思索するコトバの波に乗って、時熟する読書の時を楽しんできた。
今回の新刊も、かつて、読んだエッセイばかりであったが、読む度に、作者の声=コトバが、私の中に、響きわたる。
もう、池田晶子が死んで、10年にもなろうとしている。

21. 「天来の独楽」
不思議な縁で、井口時男の評論(秋山駿)を読んだ。そして、俳句を読みに至った。「評論」の文章よりも、俳句の方に、井口時男の肉声を感じた。論理を超えたところにあるコトバが、私の直感を刺したのだろう。
大病の後、光部美千代と共に生きた、俳句の時が、井口時男の中に、甦ってきたのか?
モノそのものになる俳句 コトバそのものになる俳句 ヒトが俳句になる!!
ごろた石のぬくみなつかし河原菊
追悼秋山駿の句がうれしい!!

22. 「詩の読み方」
小川和佑は、私の「小説」の発見者である。はじめて、公的な、書評誌で、私の「風の貌」を読み解いてくれた人である。詩と小説が、両方ともわかる評論家であった。
本書は、ご子息の靖彦君が亡父の生誕八十五年の日に、編んだもの。萩原朔太郎にはじまって、堀辰雄、立原道造、伊東静雄・・・吉本隆明まで14人の近・現代詩人の詩が読み解かれている。

23. 「空海」
宗教に縁がなかった高村薫がはじめて、宗教と宗教者・空海に立ちむかった。
なぜか?(しかも、秘められた宗教-密教に、空海に)
高村は、神戸、淡路大震災を体験している。そして、3・11の、大地震、大津波、原発事故の後、ニンゲンの”知”や”科学”や”論理”の破壊と限界を経験し、それらを超えたものを、考えはじめる。
そこに”密教”があり”空海”がいた。
名著「空海の風景」の著者、司馬遼太郎は、空海の著作はもちろん、研究書、評論とおびただしい文献を読み込んでニンゲン空海の姿を、浮かびあがらせた。
(理)の人である。
高村は、空海の神秘体験(室戸岬の洞窟にて、瞑想する空海の口に、明星と飛び込んできた-宗教体験(入我我入)から、空海へと歩きはじめる(事)の人である。
宗教は、教学(経典)と事相(修行体験)から成る。論理、理性・悟性・思考を超えた世界へ。
高村は「空海」の世界と「弘法大師」の世界へ。ふたりの空海の発見へ。法身・大日如来の語る、コトバの世界へと、歩いていく。
「本書」は、科学的(真)から宗教的(真)へと、跳ぶ、作家高村薫の、大きな挑戦の書であった。いわば、良心の書である。書き終えたところから、高村は、実践の場、秘められた、密教そのものへむかわねばなるまい。

24. 「イエス伝」
幼き日より、イエスのコトバと共に生きてきた若松は、教会の外へ信仰心のない人へ、イエスのコトバを開いていく。
『井筒俊彦・叡知の哲学』を書きあげた若松にとって、イエスのコトバ、マホメットのコトバ、ブッダのコトバは「存在はコトバである」という井筒の哲学へと、昇華されていくのだろう。ここには、21世紀の人間が、宗教に立ちむかう、ひとつの姿勢が、提示されている。

26. 「生きた 臥た 書いた」
淵上毛錢の詩と生涯を、前山光則が書き切った。詩、小説等は、読者がいて、評者がいて、研究者がいて、何よりも「伝記作家」がいなければ、生き延びることができない。
ほとんど無名の「淵上毛錢」という詩人は、生誕百年にして、前山光則という作家の手によって、新らしい生命を吹き込まれ、甦った。
私自身、前山のエッセイ等で、詩人の存在を知った。詩のコトバは、簡単で、平易で、誰にでも読めるものだが、広くて、深くて、実に、あじわいがある。病人で夭折した詩人であるが、結婚して、子供が出来て、病いの中にも、生命力、ユーモア(機知)があり、深き笑いの中に、なんとも言えない、ニンゲンの形姿が浮かびあがってくる「本」である。

27. 「証言と抒情」
詩人、野村喜和夫による「石原吉郎論」である。最後最大の詩人(コトバの力)である、と、私は、信じている。
レヴィナスの思想「イリヤ」とパウル・ツェランの詩を石原吉郎の「詩」に対峙させることで、シベリアのラーゲリーから、海を渡って帰国した、単独者の思想を論じている。
ニンゲンというモノが壊れてしまう体験をした石原が、対話の為に、他人と通じる為に、詩というコトバを、書きはじめる。(ニンゲンの形を求めて)
「位置」が「事実」が「条件」が「納得」が、こんなにも、固有の、石原吉郎だけのコトバになった例を知らない。コトバは誰にもどこへもとどかなかったのではない!!読む人の、心臓に、刺さっている。

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• 火曜日, 3月 15th, 2016
ニンゲンが壊れる!!コトバが壊れる!!

ニンゲンは(善)も(悪)もなんでもやってしまう動物であった。
狂気であれ、正気であれ(兵士)となったニンゲンの振舞いは、正視に耐えぬ残虐・無残なヒレツカンのものであるが、平時(平和)に生きている(私)も、戦時(戦争)の場に生きてみれば、理性も倫理も常識も戒律も役立たずとなって、殺人者、強姦者、盗人になってしまうのであろうか?
辺見庸は、戦争の記録、戦争文学等の、文献、資料を読み込むことで、自らをも、戦場に起たせる-試みを「本書」において、実行した。つまり「1937(イクミナ)年」日本が「戦争」に突入した時点に、起ってみるのだ。

辺見庸の『もの食う人びと』を読んで、もう、何年になるだろうか?
(世界の食の現実)を、告発した、(事実)に(事実)を重ね続ける作品であった。
辺見庸の文体は、今までに、四回変わっている。
①新聞記者のコトバ(事実)
②小説家のコトバ(想像)
③エッセイストのコトバ(論理)
④詩人のコトバ(象徴)
そして、今回の『1★9★3★7(イクミナ)』で、五回目の変身である。
私は、この文体を
⑤量子的コトバ(文体)と呼びたい。
辺見庸の文体が変わった。五回目である。
(事実)を書く、新聞記者のコトバから出発した文章が、終に(事実)は、実は、多面的である、という文体に至ってしまった。
だから、(事実)は(じじつ)となり重要な単語は、ことごとく漢字から、ひらがなへと、移行している。書く人の手と、読み人の眼、それぞれに、コトバが変容してしまう。
だから、ひとつの(事実)を探求する「本書」が、(量子論的事実)の迷宮へと、至ってしまう。ニンゲンには、余りにも負担が大きく、重すぎる「問い」の方法へと、辺見庸は、超出してしまったのだ。
武田泰淳『審判』 堀田善衛『時間』のコトバと、戦争というニンゲンに刻まれたコトバの位相を、限りなく、問い続ける辺見であるが、ニンゲンは、グロテクスなまでに、奇妙な、愚、狂、悲、哀、乱の断面を覗かせる。
息が苦しい。出口がない。「問い」は増殖を止めない。もちろん、単純な、明解な答えなど存在するわけもない。
迷宮の文体である。決して、愚鈍というわけではない。(事実)を決定できず、問いという蛇は、何匹も現れて自分の尾っぽを、呑み込んでいるのだ。
文体が変わるとは、思考が変わることであり、ニンゲンの生き方が変わることであり、生きている、意識やココロの位相が、別のものになってしまうことである。
辺見の(父)を追う文体は、実に、辛い。いや(父=兵士)を見る、考える眼が辛い。
戦争で、ニンゲンの良きものを失ってしまって、ユーレイのように戦後を生きた(父=元兵士)を探る眼が辛い。
当然、その剣は、辺見自身をも斬り刻むことになる。この文体=思考に、耐えられるニンゲンがいるだろうか?死者の墓をあばくのは、ニンゲンの礼節が許さぬが、辺見は、「記憶の墓」をあばき続ける!!
辺見は、噴怒してるのだ。(事実)を消したり、(事実)を歪めたり、(事実)を塗り変えたり、(事実)を無視したり、更に、(虚の城)を築こうとしたり、コトバの意味を抜き取ってしまったり、孔子の「正名論」を否定してしまう「政治家」たちへの、怒りの、コトバの礫である。
辺見は、自分自身を、戦場に起たせて、眼になって、耳になって、思考になって、倫理の水準器となって、日本人を戦争を、糾断する!!
現在、辺見庸は、倒れるところまで歩いていく者である。(覚悟)
辺見さん亡命しないで下さい。ニンゲンは、もう、どこにも行くところがないのですから。コトバで在り続けて下さい。

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• 金曜日, 2月 19th, 2016

(1)21世紀の時代において、受苦の思想は、存在するのだろうか?

「説話」や「説話文学」は、はるか千年も昔のものに過ぎないものであろうか?

①現代に至る、「説話文学(仏教)」の水脈。
昭和三十二年に、突然、異様な文学が出現した。深沢七郎の『楢山節考』である。

自由、平等、平和、自我の確立、基本的人権、マルクスの唯物史観、サルトルの実在主義の時代に、「棄老伝説」を主題とする、まるで、説話のような、しかも、リアリティのある、現代小説が登場した。自然主義の大家(キリスト者)・正宗白鳥、昭和の天才作家・三島由紀夫、戦後派の代表・武田泰淳(浄土真宗の僧)が、絶賛した。

七十歳になると、村人は、神の棲む楢山に、連れて行かれ、そこで、餓死する。生き延びる為に、老人は(私)を棄て、殺すことで、他の者を、生き延びさせる、という内容である。楢山は、死者の山、死の世界であった。受苦の思想のひとつの型か?

真言密教の世界を、現代小説『月山』に表現した森敦である。昭和四十五年の芥川賞(当時六十二歳)。山形県、庄内の、死の山と呼ばれる、出羽三山のひとつに、ある男が、夏から春にかけて、破れ寺に棲み、死と生の間を彷徨する、そして、何処ともなく去っていく話である。幽冥の世界を描く文体は、正に、思想の彫刻であった。中世に地続きの、歴史を感じさせる名作である。小島信夫は、数百年、生き残る、文体・作品と評している。

山川草木悉皆仏性の世界である。

庄内をはじめ、東北地方には、断食をしてミイラとなり、(即身仏)と呼ばれるものが六~七体ある。(即身成仏=真言ではない)現在も、即身仏に法衣を着せて、お寺に(受苦菩薩)として祀っており、多くの信者が参拝している。仏が、人々の、さまざまな苦を引き受けている、現代の実例であろう。

日本人の文化、風俗、ルーツ、歴史に、新しい視点と考察を打ち立てたのは、柳田国男の「民族学」であろう。全国各地に伝わる民話、伝承、昔話、神説を、集めて、分析する「民族学」の樹立は、小説や歴史書以上に、生きる人間、生活する人間の姿を、浮かびあがらせた、大きな仕事であった。

『遠野物語』(岩手の遠野の人、佐々木喜善の語る民話を、柳田国男が、文章にまとめたもの)や『山の人生』には、中世の説話に劣らぬ人間の伝承が息付いている。

日本人とは何者か?という、大きな、大きな主題が、柳田の民族学に展開される。

『日本の昔話』 『地名の研究』 『日本の祭』 『日本の伝説』 『妹の力』 『雪国の春』 『昔話と文学』 『海上の道』 『桃太郎の誕生』等々

若き日に、抒情詩人であった柳田は、文学を捨て、東大卒業後、農産省の役人となって、その立場を利用して、全国津々浦々の民話と伝承を集め、民族学を、科学として、樹立した。

『山の人生』序章に、美濃の国の山人が、斧で、十三歳の息子ともう一人の子供を、打ち殺してしまう話がある。食べるのもが尽きて、子供たちが、これで、わしたちを殺してくれと、材木を枕にして、仰向けに寝た。男は、夕日に、頭がくらくらして、二人の首を切り落とす話だ。柳田は、強く言う。これは現実である。事実は、空想で書いた世界(小説)よりも、はるかに深い。作家、友人の、田山花袋に、材料を提供したが、花袋は、私の力に余る、と拒み、自然主義の『蒲団』を書いた。

折口信夫、南方熊楠、谷川健一と、「民族学」は、学問として、発展していった。

中世の説話も、文学の視点から読むよりも民族学の視点で、読み、考察すべきであろう。

最後に、昭和の”僧侶”が如何に、生きたか、を刻明に描いた作品『快楽(けらく)』がある。戦後派を代表する、思想家・作家・宗教者、武田泰淳の作品である。人肉を食べた話『ひかりごけ』 『わが子・イエス・キリスト』 思想小説『富士』 『司馬遷』など、人間如何に生きるべきか、僧とは?宗教者とは?何者かと問い続けた、泰淳である。浄土真宗の、大寺院の息子。東大で、中国文学を学ぶ。マルクス主義者となる。そして、作家へ。

文学とは?宗教とは?人間とは?そんなに深く、思索した小説家は、他にない。

僧侶となる若者には、絶好のテキストであろう。泰淳のコトバ「我慢しています」

(2)自殺と僧の受苦思想
戦争は人類がかかえている最大の難問である。昭和六十年代のベトナム戦争の折、ベトナムの禅僧が、給油を被って、焼身自殺をした事件があった。人々の罪を背負っての自殺か?戦争に抗議する為の、自殺であったか?ここにも、受苦の思想が息付いていた。

紀州には、南方の、補陀落浄土をめざして、僧たちが、舟で、海へ、沖へ、南へと、漕ぎ出す、風習があった。食べものもなく、飲みものもなく、陽に焼かれて、海、水の中で、自死してしまう。衆生の身代りに、一身に、苦を背負っての、補陀落渡海であった。民衆たちは、有難い、僧の入水に、手を合わせたが、死を恐れて、舟から逃げだす僧たちがいた為に、舟に、板を釘付けにして、脱出できないように、閉じ込めた事例もある。

庄内の断食、紀州の入水(入海)ベトナムの焼身、そして、土や穴の中に入る方法。

神、仏に、生命を捧げて、衆生の苦の、救済を試みる僧たち。

<僧>とは、いったい、何者だろう。

仏、法、僧(三宝)。
発心(菩提心)し、出家し、授戒し、修行して、涅槃(ニルヴァール)に至り、悟り、仏になろうとする者たち。仏の力で、衆生を救済する者たち。

しかし、21世紀の日本では、人間が傷つき、病み、壊れ、十年間、自殺者は、二万人を超え続けている。病い、貧困、失業、いじめ、人間関係の悩み、苦痛、絶望から、自らの手で、生命を断つ。可愛そうに。私の近親者でも、五人の自殺者がでた。自殺は、(私)を二度殺す、悲しい行為である。誰もが、絶望の淵に立った時、一度や二度、神、仏に、助けてくれ!!と叫んだにちがいない。

私の差し伸べた手もとどかなかった。

神や仏の手も。

(3)中世の説話と説話文学
「信仰を啓蒙するために教理をすえた人間生活の具体的事象を語るのが説話である」
「そしてその人間の生活様式の類似性を利用して積極的に編慕されたものが説話文学である」(下西忠著-『密教と説話文学』より)

中世の、説話と説話文学の代表作。
①『日本霊異記』(平安時代の初期)
我が国最古の説話集。作者は、薬師寺の私度僧-景戒。漢文である。全百十六話。因果応報が主旨で、仏教説話。序文では、仏教に対して、間違った考えを持たず、悪を犯さず、善行を積み重ねなさい、とある。

②『今昔物語』(平安後期)源隆国遍?
質・量ともに、我が国最大の説話文学。「今は昔・・・」ではじまる本文。全三十一巻。漢字仮名交り文である。天竺、震旦、本朝と三国の説話。天皇、僧侶、商人、農民、盗賊まで幅広く収録。仏教ものと世俗ものに別れる。

③『発心集』(鎌倉初期)作者は『方丈記』の鴨長明である。漢字片仮名交り文。和と漢が融合している。全八巻。大原、日野に、庵を結んだ長明が、人間如何に生きるべきか、正しい仏教の修行(行い)とは何か、と考えて発心、出家、往生など、さまざまな事例を綴った”正しい仏道”のすすめである。

さて、本題の『宇治捨遺物語』である。(鎌倉初期) 『宇治大納言物語』(現存せず)の影響を受けて成立。従って、編者は?源隆国か?和風、和文脈中心で、漢字ひらがな交り文と、読み易い。「是も今は昔・・・」ではじまる。約八十話の仏教説話、霊験譚、往生譚など。その他、世俗譚、霊異、英雄譚など。正しい僧ばかりではなく、いかさまの僧も登場する。

百三十三話「空入水したる僧の事」

当時、入水は、西方極楽浄土へ、往生するものと信じられていた。京の、祗陀寺の、ある聖が、桂川に入水して、往生を遂げると、予告し、百日懺法を行うと、参拝者が、大勢押しかけてきた。さて、当日、河原の石よりも多い群衆が、入水を見ようと集ったが、聖は、あれこれ文句をつけて、一向に、入水しない。そして、入水したと思ったら、溺れて男に救出される。お金を集める為の、猿芸者であったのか?入水=自殺を、本気で恐れたのか?往生する(信)もなかったのか?滑稽で、無残な、失敗となる。単なる、皮肉、笑話か?僧に対する信頼のゆらぎを描きたかったのか?最後の、編者の一行が、利いている。大和から、瓜を、ある人のもとへ送ってきた、その上書きに、「先の入水の上人」を書いてあった。瓜は大和の特産である。瓜は、水に沈まない。聖の、ジョーク、言いわけであろう。聖は、トリックスター(道化者)を演じているのだ。(哄笑)中世人の笑いが聞こえる。

受苦の精神が笑いものにされた。

3・11以降、私は、一人の死者を心の中に棲まわせている。遠藤未希さん。南三陸町の役場職員。「大津波です、みなさん、高台に逃げて下さい!!」政治家、科学者、学者の声が死んだ中で、その声は、唯一、生きている、受苦菩薩の声であった。合掌。法身は語る!!

(高野山大学大学院レポート)

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• 金曜日, 2月 19th, 2016

(1)中世の思想の、核となる、鍵ワードは”あはれ”と”無常”である。

世界に誇る、中古の、恋愛小説『源氏物語』(あはれ)軍記物語『平家物語』(無常)はもちろん、日本初の、批評の書『徒然草』も、”あはれ”と”無常”が、主題である。

”無常”は、仏教用語である。
諸行無常
諸法無我
涅槃寂静
一切は、ただ、過ぎていく。常なるものは何も無い。無常迅速に変化していく、人も自然も。(発心へ)(出家へ)
”あはれ”は、和語である。

日本人の心性から出たコトバである。
人に、物に、自然に、感動・感嘆するコトバだ。趣きがある。感心する。情がある。悲しい(哀しい)と含む意味は、複雑で、漢字・漢文から来たものではない。

(2)中世という時代
1. 政治
天皇、貴族、武士による、政権闘争、三巴の時代である。天皇中心の政治が終って、貴族が、摂関(藤原道長)が実権を握り、貴族文化(平成時代)の”雅び”が華ひらくが、武士の抬頭によって、鎌倉に、幕府が開かれ、二重権力の治世となる。

保元の乱、平治の乱、源平の合戦、そして南北朝の権力闘争と、軍事力を誇る、武士が天皇・貴族にかわって、政の権力を握った。

2. 宗教(仏教)
仏教の伝来(552年)以来、鎮護国家と済民利他が、仏教の目的であった。しかし、奈良仏教は、学問仏教と呼ばれるように、仏典、漢文を読める、天皇、豪族、学僧、渡来人(僧)たちのものであった。

平安時代は、貴族仏教、権力と仏教が、結びつき、浄土信仰が盛んになる。

厭離穢土 欣求浄土
西方極楽浄土を希求する貴族たちの間に、浄土宗(念仏)が拡がった。

戦乱に次ぐ戦乱、平氏の敗残兵が、数百人高野山へ。疫病、大火、地震、飢餓(『方丈記』)で、現世は、地獄と化して、民、百姓衆生の間から、自然に、仏を求める声があがった。鈴木大拙は、「日本的霊性」が誕生して、はじめて、日本人が、心から、仏教を願ったと分析している。

法然、親鸞の、浄土宗、浄土真宗は、ただ、”南無阿弥陀仏”の六文字の名号を唱えれば、浄土に往生できるという、(他力本願)革命的な、念仏宗教で、民、百姓、衆生の圧倒的な支持を得た。親鸞も、また、戦乱で、父母を亡くして、お寺に入り、僧となった。しかし後に、寺を出て、非僧非俗の身で、念仏による布教を行なった。世は、正に、乱世であった。

3. 日本文
一万年も続いた縄文時代は、土器、土偶を作り、見事な、紋様と彫刻を生み出したが、残念ながら、(文字)の発明には至らなかった。

中国から、漢字が伝わるまで、日本人は、文字を持たず、話し言葉の世界だけで生きていた。

中国語(漢字)を日本語(話し言葉)で読むという、大実験は、世界の、どの民族も、為し得なかった、快挙であった。(万葉仮名)

漢字を、その本来の、意味を無視して、日本語(和語)で読む。(『万葉集』)『古事記』

漢字から、片仮名、平仮名を発明して、漢字読み下し文、漢字片仮名交り文、そして、終に、漢字ひらがな交り文=「日本文」が登場した。中世の、最大の、文化的事件である。

東洋一の漢字学者、白川静は、「日本文」こそ、日本人が発明した、最高の文化であると、力説している。

「日本文」は、漢、和、仏を、自由自在に、盛り込む、正に、思考の器である。

漢字の意味と力強さ、繊細で、複雑な、ひらがなの自由さ、そして、仏教思想の核となる仏語。

『徒然草』も『源氏物語』も、「日本文」の発明なしには、出現しなかっただろう。

(3)兼好の(卜部兼好-本名)批評精神、思考の自由さ、博識は、どこから来たのか?

卜部家は、代々、朝廷に仕える神秖官である。兄は、天台宗の大僧正・慈遍、次兄も、民部大輔・兼雄、兼好(三男)も、蔵人、左兵衛佐として、働いている。(生活人)

有識故実は、もちろん、『識語』(漢)、『摩訶止観』(仏)、『源氏物語』『枕草子』『今古集』(和)、先達の、西行法師、鴨長明の和歌や散文まで、読破している、大知識人である。

生死の年月日は、不明であるが、1283年~1352年、七十歳の頃、没したか?

三十一歳で、出家し、「遁世」し、世捨人の法師となる。沙弥戒を授け、僧となるも、具足戒は授けず、寺院にも宗派にも属していない。(自由な精神)

親鸞が、非僧非俗の者であるなら、兼好は、依・食・住と医を、生活の礎とする、生活人(俗)の眼と、無常、発心、出家-閑かで、簡素な、”寂”の世界で、仏とともに生きる僧(聖)の眼の、複眼を持ち合わせた、人生の達人である。(一町歩の田も持っている)

この立ち位置が、あらゆるものを、(天皇・僧・貴族・武士・百姓)相対比する兼好の持質である。

さて『徒然草』は、出家後、三十七歳から十一年ばかりの歳月をかけて、書かれた「批評」である。(決して、『枕草子』のような、随筆ではない)

序段十全二百四十三段。たった一行の、筒言から、原稿用紙六~七枚のものまである。内容は、人間が生きる、生活全般にわたっている。お金についても、酒、友、恋愛、手紙、祭、家、出世、老い、死、読書・・・もちろん中心は、無常、発心、出家のすすめ、人生の生き方(あはれ)にある。

『徒然草』の特徴は
1. 「無常観」(無常迅速)の表出
2. 「機知(ユーモア)」の出現(知的笑い)(ファルス)
3. 「批評(クリテイク)」精神
4. 「日本文」による思索
にある。
一言半句が、各段の中心となっている。

「あやしうこそ ものぐるほしけれ」(序段)

校注者、西尾実、奈良岡康作は「妙にバカバカしい気持がする」(岩波文庫版)と、現代語で、解釈している。

『徒然草』は、字義の解釈では読めない。兼好の心境そのものを読み込まねば、わからない。

出家した僧・兼好が、人間を、人生を、仏教を、探求するのである。必死で、書き綴る文章が、「バカバカしい気持」である訳がない。(つれづれ・・・は一種のポーズ、スタイル)

ここは、書くこと自体の、神妙な、ココロの状態、(事実と書かれているもの)その境界。(胡蝶の夢-荘子)の世界に似ているのだ。

(4)宗教者、僧に対する、兼好の眼は、実に、相対的で、厳しい。歌聖・西行や、『夢の記』を綴った明恵上人に対しても、批評(エセー)の眼は、冷静である。

なぜか?

末法の時代である。釈尊の死後、正法の時代、像法の時代、そして、法を滅び、悟る者もなく、乱れた世の中の到来である。

兼好も、僧たちの墜落に、厳しい、批判の眼を向けている。

さて、二百三十六段「丹波に出雲とえ小所あり」は、五十二段「仁和寺にある法師」と文章の構造は同じである。

誰かに聴いた、僧たちの話(行動、信心)に、最後の一行で、兼好が批評をするというスタイルである。(伝聞+批評)

丹波の国の出雲神社を読んだ瞬間に、読者は、出雲の国の大社を思い浮かべて、何か、悪いこと(本物と贋物?)を予感してしまう。

僧たちが連れそって、丹波の国の出雲神社を拝み、信を起こし、ふと気がつくと、聖海上人が「御前なる獅子・狛犬、背きて、後さまに立」っているのに気が付き、これは、何か深い理由があるにちがいないと、感動する。神社の神官を呼んで、その理由を訊くと、なあに、子供たちが、いたずらをしただけですと、獅子と狛犬の向きを直した。(笑話)

兼好は「上人の感涙いたづらになりけり」と、皮肉とも滑稽ともつかぬ批評文を、最後に置く。(信を起こすとは何か?)

仁和寺(大寺院)の法師は、長年、思っていた、石清水八幡宮へ、歩いて、お拝りに行き、山の下にある、極楽寺・高良を拝んで帰ってきた。帰って、他の僧に、人々が、山の上へ上へと登っておったが、あれは、いったい、何なのだ?神にお参りするのが目的なのにと話をした。もちろん、本殿は、山の上にある。

兼好の言葉「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。」(祈りとは何か?)

教訓を越えた、痛烈な批評である。

師資相承の仏教である。「戒」律を守ってこその仏教である。伝統を重んじた兼好である。しかも、透徹した眼力は、乱れた世相の中にも、本物を視る。機知がある。批評がある。”無常”と”あはれ”を覚知した兼好の眼。

(高野山大学大学院レポート)

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• 月曜日, 9月 28th, 2015
3151. 時空の無限放射の中に居る(私)。視点を変えると、(私)は、時空へと無限放射されている。

3152. 時間は(私)に無常を告げる。空間は(私)に無我を告げる。さて、あなたは(定点)をどこに置くか?

3153. (死)はない。(死)という概念がある。(無)はない。(無)という概念がある。(生)も(死)も(悟り)も(涅槃・ニルヴァーナ)も概念であるから、コトバを捨てる。思考を捨てる。(私)を捨てる。至高へと、跳ぶ。宇宙である!!

3154. 食べものとは何だろう?食べることはどういうことだろう?と問う人がいたから、テーブルの上にあるミカンを差し出した「食べて下さい」と。

3155. 道はあるか?と問うてはならぬ。道は空である。ホラ、歩いてみなさい。

3156. 道は、顕れることも消えることもない。ただ、足が知っている。(歩く)者がいる。

3157. ニンゲンは、存在し合って、生きている。人間、動物、鉱物と、あらゆるものと共生している。(相依相関)

3158. 宇宙は、存在と非在のシイフォニィである。

3159. 仏教の真理、有から無にはならない。従って、生も死もない。(宗教的事実)

3160. 科学の真理、無から有は生まれる。従って、あらゆる有は無に至る。生も死もある。(科学的事実)

3161. さて(真理)はひとつか?あれも、これも、量子のように(真理)か?決定不能、絶対の死、宙吊りにされた(真理)

3162. 科学の眼では、見えないもの(量子、ニュートリノ)も見える。宗教の眼では、見えないもの(死者、ココロ)も見える。

3163. 色と形を見る眼の顕現は、不思議のひとつである。色や形がなくても、見えてしまう魂の眼は、もっと不思議である。

3164. イエス・キリストが復活するように、宇宙のすべての生命、存在も復活する。宇宙の眼で見れば。

3165. 復活といい、輪廻といい、結局、宇宙の貌の見方に過ぎない。ニンゲンによる。

3166. 見えるものも、見えないものも、結局、コトバが名付けてしまう。

3167. ビッグ・バンの風を眺めながら、地球の風に吹かれている。

3168. 60兆の細胞の揺らぎから、たったひとつの意思が、起ちあがってくる。

3169. コトバは、知慧の実だから、毎日毎日食べ続けなければならない。「仏典」であれ「聖書」であれ「コーラン」であれ。声をあげて、読む、唱える!!

3170. 見ているのは、誰か?(私)と呼ばれている者か?いいや、見ているものは、40億年、生命を運んでいる、リレーされている者。つまり、たったひとつの単細胞が見ているのだ。(私)という形を借りて。

3171. 宇宙は、悠久の時を刻んで、終に(見る)を(考える)を顕現させてしまった!!

3172. (私)がモノをわかるのは、モノを考えられるのは、(個)としての(私)の力だけではない。単細胞から父母に至った膨大な(祖ー先人)たちの力が、億年単位で受け継がれて進化してきたものが(私)の中で、(わかる)とか(考える)として花開いているものでもある。

3173. (私)が考えるーは、実に、細胞たちの、無限増殖への力が、時間を垂直に生き、空間を水平に生き、変化、変身し続けている波動にすぎない。思考の内容ではなく、思考そのものが、生命の顕現である。

3174. ニンゲンの思考の外にあるもの。ニンゲンのコトバの外にあるもの。それを(涅槃・ニルヴァーナ)と、コトバで呼んでいる。だから(涅槃)が何であるか、説明も証明もできない。(無記)

3175. 瞑想で、(非想非非想天)・(第四禅)に至ることは可能であるが、現実に帰っても、コトバでは説明できない。(意識も、無意識もない世界だから)

3176. 歩けば、行くことは、誰にでもできるが、帰ることはむつかしい。(教わるか、他人の助けが必要である)

3177. (私)の一切を解き放つ、宇宙にむけて。それが自由である。究極の。

3178. (私)とあなたは、別のものだ。(A) (私)とあなたは、一緒だ。(B) 深く洞察して、目覚めなければ(A)から(B)へは、跳べない。

3179. 木は木、草は草(A) 木は(私)、草は(私)(B)

3180. 存在の根は、ひとつである。ただ、顕現の仕方がちがう。

3181. 緑+赤+青は、白か黒となる。(光と色)

3182. 何かを為すことが、生きることだと思っていた(私)から、何もしないことが、生きることだと思える(私)へ。

3183. (私)の自然な顕現の発見。朝に。

3184. 目的地には、すでに、もう、たどり着いている。歩いて(私)の中へ。

3185. ぼんやりと生きた(私)あわただしく生きた(私)・今は、閑かに、覚めて生きる。

3186. (考える)をやめて、呼吸になる!!

3187. 地球の核にむけて、閑かに坐っている。(私)を放って。

3188. 一日に一度は(私)の意識の眼を大きくあけてみる。一粒の砂粒から、木へ、地球へ、銀河へ、宇宙へ。そして、静かに、今、ここの(私)に戻る。

3189. (私)の定点を、歩く足元から銀河の宇宙の間に置く。

3190. (私)が一番長く付き合っているものはいったい、何であろうか?夜も昼も。呼吸である。せめて、一日に一度は、ゆっくりと、深く、息を吸って、意識をしよう。(私)は、今、ここにいる。(私)は呼吸である、と。

3191. (私)の細胞も、骨も、脳も入れ変わって、消えて、現れて、絶えず、別のものになっているのに、呼吸だけは変わることがない。(私)と共にいる。

3192. モノを食べるように、ニンゲンは、コトバも食べ続けている。目覚めるためには、真なるコトバが必要だ。

3193. (私)は「妙音菩薩(ガドガダシュヴァル)」になりたい。海の波音のように普遍なるコトバを書き、話し、唱える人に。

3194. 水平に、垂直に生きるためには、コトバそのものにならなければならぬ。

3195. 意識は、(気付き)の為に在る!!

3196. 齢を重ねて、老いても、一日は、いつも、新しい出発である。

3197. 魂を磨き続ければ、平凡な一日にも、新しい(私)は在る。洞察の力が加わって。

3198. ココロの雑草は、抜いても抜いても、生えてくる。生涯、雑草を抜き続けるのが、ニンゲンである。

3199. 宇宙は(無)から、顕現した!!この21世紀の、ニンゲンの、発見が(私)を震撼させた。(「無から有は生じない」-長い間ニンゲンが信じてきた論理・法が破壊された)あらゆるもの、時間、場、空間、生命、存在、非存在は、偶然から発生した驚愕)

3200. ニンゲンは、生きる為の定点(大地・地球、銀河)を、新しく求めなければならなくなった。

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• 月曜日, 9月 28th, 2015

ー生きる知慧としての仏教ー

仏教の知慧が、21世紀の現代を生きる、一人の人間によって、これほど、深く、身をもって体験され、語られた「本」に出会ったのは、はじめてである。
「般若心経」が、実に、見事に、自らの体験の中で、噛みくだかれ、血となり、肉となり、自らのコトバとなって、語られた実例を知らない。
ベトナム出身の禅僧、ティク・ナット・ハン師である。(気付きの呼吸法・瞑想)
『死もなく、怖れもなく』は、単なる「仏教」「般若心経」の解説書ではない。
ベトナムの戦火の中で、立ちあがり、平和と終戦を希求し、行動し、国を追われても、フランスでアメリカで、釈尊の教えを実践し、活動している、禅僧である。
21世紀の科学の時代にあっても、宗教的実践、宗教的事実をもって、地球的(水平)広さで生き、人類的(垂直)深さで生き、(現実)の中に、超越を置く第三の生き方を探求する。
ティク・ナット・ハン師の生きる姿は、感動と共感を呼ぶ、数少ない、宗教者の、現身である。(法身でもあるか?)
3.11で、地震、津波、原発の三重苦に、人間が壊れてしまい、どのように、再生、復活できるか、誰にも、ヴィジョンが示しきれない時空があった。(コトバは死んでいた)
僧や神父や牧師などの、宗教者も、現場に駆けつけて、語り、聴き、唱え、祈った。
ある、大寺院の僧が、東北の海にむかって、念仏を唱えていた。
「般若心経」を、黒板に書き、住民に、説明し、語りかけていた。
僧の顔は、絶望で、青白く、その声は、おそらく、住民の耳にとどいてはいなかった。
大自然は、放射能は、宇宙は、宗教者に、背をむけた、非・意味であった。
地震、津波、原発の前には、あらゆるコトバ、経典も、無力であった。
しかし、戦争の中から、立ちあがった、ティク・ナット・ハン師のコトバは、「生・老・病・死」に対して、釈尊のコトバを、そのまま、身をもって、生き、確かなものとして、人々に訴える力をもっている。
科学的(真)があれば、宗教的(真)もある。
世界を歩く、時代を歩く、水平に、垂直に、超越的に生きる、ティク・ナット・ハン師のコトバに、お礼を!!(歩く瞑想)
ティク・ナット・ハン師の中に釈尊が生きている。
垂直に、超越的に。
コトバが生きている、ニンゲンの中に。(相依相関(インタービーイングの思想))

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• 火曜日, 8月 25th, 2015

3101. 目的を問うな。ただ、歩くために歩け。(歩く瞑想のレッスンをはじめる)

3102. 不可能性へとココロが渇いている。

3103. 事象しか見ない人。現象しか見ない人。心象まで見る人。いくつもの時空をも見る人。無数の、超球宇宙を見抜いてしまう人。

3104. どのステージに立つかで、(私)は決定される。さて、立つのは、誰か?

3105. 場が(私)であるなら、時空・身体での(私)の位置が、(私)を決定する。

3106. (私)は、瞬時瞬時に、定まる。固有の(私)など、どこにもない。

3107. 24人のビリーミリガン。多重人格者は(私)の成立を、証明する。

3108. つまり、(私)は、あらゆる時空に遍在する存在である。

3109. (死)は、単なる、消滅・無ではあり得ない。

3110. 意識の眼がなければ(私)も(宇宙)もない。

3111. 単なる、物質主義者の主義は、壊れた!!(モノ)は、単なるモノではない。(無即有)

3112. 3.11以降、誰にも、コトバは、降りてこなくなった。(啓示は消えた)語られる言葉は、内実のない、単なる、記号ばかりである。

3113. 理由は?天から降りてくる、魂のコトバを聞く、耳をもった人が、いなくなってしまったからだ。

3114. 3.11が、別れ目であった。ニンゲンのもっている一切が、一瞬で奪われてしまう、体験で、目覚める人、コトバが降りてきて、耳に入る人が現れなければならなかった。(また、いつのまにか、学者、政治家、科学者たちが、もとの姿にもどって、もとの言葉を、使いはじめた)

3115. 読めば、わかる文章ではなくて、生きなければ、わからない文章を書かねば。

3116. だから(私)が知りたいのは、よく生きた人の言葉、文章である。決して、よく勉強した評論家や学者の言葉ではない。

3117. ニンゲンは、長い間、(声)で対話をしてきた。活字の言葉ではなくて、生きている人の(声)という言葉で、人と人の信が交換された。人に、会うことが、一番である。

3118. その人全体が、(私)を表現しているから、出合いは、すでに、「大きな言葉(コトバ)」である。

3119. 生きる姿を見る。会えないから「本」で読む。決して、逆ではない。

3120. 思想は言葉の中にしかない?だから、思想をそのまま実践すると、躓いてしまう。

3121. いのちは、お互いに、いのちを、食べあうことによって、ネットワークを作り出している。

3122. 罪の原形は、いのちを食べる、にある。

3123. ニンゲンは、食べるいのちを、分類して、差別化し、聖化し、罪悪化し、お互いの「正義」を、主張しあっている。

3124. もちろん、原理的には、どれも「正義」ではない。空気も吸っても、水を呑んでも「罪」になる。

3125. 他に依らない、いのちは、成立しない。ゆえに、「いのち」が、罪を発生させる。

3126. 共生するしかない、いのちである。とりあえず、境界線を引いて、位相を変えて、宗教は、「戒」を作って、聖化する。

3127. 「人間原理」の中でしか、「正義」も「悪」も、語るしかない。いのちの宿命である。

3128. 仏教は、思考ではなく、洞察である。瑜伽=瞑想は、釈尊・空海の核となる思想である。(非想非非想天)に至れば(第四禅)意識も無意識もない、悟りの覚知の世界である。

3129. 哲学の思考世界が終わったところで仏教の涅槃(ニルヴァーナ)がはじまる。コトバのない世界では、存在がコトバそのものになる。

3130. 釈尊は、コトバなき世界を語れ、といわれて、断るが(無記)、結局、方便として、語ってしまう。で、弟子たちは、「如是我聞」と釈尊のコトバを、文字として残した。

3131. 宇宙はなぜ誕生したのか?宇宙自身を愉しむため。(哄笑)

3132. ニンゲンはなぜ誕生したのか?宇宙そのものを、見て、触って、考えて、その存在を確かめるため。(目的?)

3133. 見る者、考える者が存在しなければ、宇宙は存在しないも同然だ。(無・意味)

3134. 生きるとは?宇宙を呼吸することである。土・水・火・風・空とともに。

3135. 手が現れ、眼が現れ、脳が現れ、一切の誕生は、宇宙が必要としたためであるか?

3136. 沈黙の中にも、一番深いコトバがある。

3137. 直ぐに見えるものは、実は、危険だ。本当は、何も見ていないのも同然だから。見えないものは、もっと危険だ。実は、本当に見るべきものは、その中にこそ、あるのだから。

3138. 否定に、否定を重ね続ける人の深層には、大肯定を望むココロがある。(大欲へ)

3139. 内発するコトバが現成する時、本当の文章が顕現する。(存在の貌が見えるのだ)

3140. 書くこと(エクリチュール)は魔の行為でもある。

3141. 秘中の秘。秘密にして、隠しているのではない。現れ、出ることが、秘なのだ。

3142. 虚と実を、ひと跨ぎしてしまう、その力よ、コトバよ。

3143. 少年A(神戸の殺人者・酒鬼薔薇聖斗)からは、ドストエフスキーの『白痴』のムイシュキンが、出てきてほしかった。(15年たったら、無残な、告白者か!!)

3144. 見えないものは信じない。現実を視るという人へ。(眼の中の眼)(私)も(宇宙)も見えないもので出来ている。(現実)は、とりあえずの姿・形。

3145. 意識(ココロ)も思考も、見えぬものである。しかも、絶えず、流れて、運動している。

3146. 想いが、思考が(ビジョン)形になる。現実を作り出している。

3147. コトバに、息を吹き込んである、そんな文章には、なかなか、出会えないが。(光部美千代の晩年の俳句)

3148. ヒトは、現身で、飛び越えられぬからこそ、せめて、コトバで、跳び超える。文学には、そのダイナミズムがある。だから普遍になる。

3149. 「時間の瀑布」を感じている真昼日である。宇宙に舞う無数の光子とともに、流れる、流れる、時間が瀑布となって。

3150. ニンゲンは、(考える)という次元を三つ以上ステップすることはできない存在である。四つ目の位相に、ニンゲンが到達する時、もはや、それを、ニンゲンとは呼ばない。

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• 月曜日, 8月 17th, 2015

1~8
「井筒俊彦全集」(慶應義塾大学出版会刊)
・第二巻「神秘哲学」
・第三巻「ロシア的人間」
・第五巻「存在顕現の形而上学」
・第六巻「意識と本質」
・第七巻「イスラーム文化」
・第八巻「意味の深みへ」
・第九巻「コスモスとアンチコスモス」
・第十巻「意識の形而上学」
9~15
「大乗仏典」(中公文庫)
・第一巻「般若部経典」
・第二巻「八千頌般若経」 1巻
・第三巻「八千頌般若経」 2巻
・第八巻「十地経」
・第十二巻「如来蔵系経典」
・第十四巻「龍樹論集」
・第十五巻「世親論集」
16. 「『ボヴァリー夫人』論」(筑摩書房) 蓮實重彦著 804ページ、定価6400円 2000枚書き下ろし
17. 「折口信夫」(講談社刊) 安藤礼二著 533ページ、定価3700円
18. 「若山牧水への旅」(弦書房刊) 前山光則著
19. 「古事記」(河出書房新社刊) 「日本文学全集01」 池澤夏樹訳
20. 「危機と闘争」(作品社刊) 井口時男著
21. 「暴力的な現在」(作品社刊) 井口時男著
22. 「親鸞」既往は咎めず(松柏社刊) 佐藤洋二郎著
23. 「『サル化』する人間社会」(集英社刊) 山極寿一著
24. 「まともな日本語を教えない勘違いだらけの国語教育」(合同出版刊) 有元秀文著
25. 「あずらちゃん大ピンチ!」(創英社刊) 中津川丹著
26. 「宇治拾遺物語」(新潮日本古典集成) 大島建彦校注
27. 「発心集」(上・下)(角川ソフィア文庫刊) 鴨長明著
28. 「無名抄」(角川ソフィア文庫刊) 鴨長明著
29. 「日本霊異記」東洋文庫97(平凡社刊)
30. 「密教と説話文学」(高野山大学刊) 下西忠著
31. 「テイク・ナット・ハンとマインドフルネス」特集(サンガ刊)
32. 「沈黙を聴く」(幻戯書房刊) 秋山駿著
33. 「法然と親鸞の信仰」(上・下)(講談社学芸文庫刊) 倉田百三著(再読)

還暦を過ぎて、一人の思想家の全集を、隅から隅まで読む経験は、私にとって、ニンゲンの生涯を、一切を考えつくすという、体験でもある。
井筒俊彦が、単なる、言語学の専門の学者であるならば、そんな勇気は、湧きあがらなかっただろう。
「存在はコトバである」との断言の下には、(存在=言語=信仰)が、一人のニンゲンの中に、同時に、あって、古今東西の人類の(知)を自由自在に疾走する文章は、日本の思想家が達した、最高の(知慧)でもある。
二~三ヶ月に一度、配本される『井筒俊彦』全集は、現在十一巻。あと二回で、終わってしまう。
大きな、大きな、楽しみを与えてくれる「読書」である。

『空海』を読みたいと、はじめた、仏教の修学であるが、空海の著作には、その多くが、経典からの引用や原典に基いた思想が占めている。古代の漢文、中国の詩歌、現代人には、歯がたたぬ白文と、容易に、読み解ける著作ではない。
第一に、「大乗仏典」の知識がなければ、解釈すらできぬ。という訳で、「大乗仏典」を読みはじめた。
三島由紀夫や吉本隆明が『大乗仏典』を、読まねば、と、膨大な、仏典を購入しようとした、意欲と意味が、今更ながら、なるほどと、頷ける。
「インド仏教」「チベット仏教」「中国仏教」そして、日本の古代から中世、近世の仏教、学びはじめると、切りがない。

「『ボヴァリー夫人』論」と『折口信夫』は、大著である。
昔、蓮見重彦の『凡庸なる芸術家の肖像』(マクシム・デュ・カン論)を読んだ。辞典のように厚い本だった。二十枚ほどの、感想、手紙を書いたが、結局、出さずに終った!!
大きな感動の波が来た。しかし、なにしろ、読むのには、一年ほどかかりそうだ。
安藤礼二の『折口信夫』も、大著。気にいった章から、自由に読みはじめた。折口が書いたこと、考えたこと、生きたこと、あらゆるものに触手をのばして、おそらく、「折口」論の決定版をめざしたものであろう。

前山光則。文学の仲間?友達。熊本で高校の教師をしながら、島尾敏雄から山頭火、そして、今回は若山牧水を論じている。牧水の旅の跡を追って、歩き、追体験し、丁寧に、牧水を書きあげている。
若い頃から、地味だが、質実に、生活し、書き、考え、(文学)を手離さずに、生きてきた姿勢には、思わず、拍手を送りたくなる。世の中を下支えしているニンゲンである。

秋山駿の論考では、井口時男が第一人者であろう。
その井口の、中上健次、大江健三郎、村上春樹等の現代を代表する作家への評論である。
古武士のような、「生きること」と「書くこと」への姿勢を追求する考察には、「文学をする」井口の理由と存在が、同時に、開示されていて、好感を持った。

『親鸞』
三人の「親鸞」を読んだ。五木寛之の大河小説の親鸞。津本陽の宗教小説の親鸞。そして、佐藤洋二郎の私的親鸞。
五木寛之は、約40年にわたって「仏教」を修学している。その礎の上に立った、小説である。とにかく、面白い。技が光っている。スリルがある。人間・親鸞が実に魅力がある。風俗・風景・人物たちが、実に、生き生きとして、中世を活動している。
一番、信仰が深い(?)と思われる小説が、津本陽の小説であった。宗教の探求がある。
<宗教と文学>は、決定的に異なる。信仰の深さが、文学の深さではない。仏教は、文学を否定する。その仏教者を、主人公にする小説。『源氏物語』にも、浄土宗・仏教の匂いはあるが、宗教の探求の書ではない。

佐藤洋二郎も、宗教者を主人公とする小説を書く齢になったか、と感慨が深かった。腕力で文章を綴る、若き日の佐藤洋二郎を知っているから、今回の小説は注目した。
しかし、「親鸞」は、現れなかった。作者の思いと親鸞の思いが、入り混じっていて、親鸞その人ではなく、佐藤版・親鸞のように、読めてしまった。
(文学)と(宗教)考えることと信ずることの、明確な、意識化が未分化であった。

「サル化」する人間社会を読むと、人間も、特別な、生きものではない。「進化」の大きな、大きな力を、読みとれて、一呼吸。

「あずらちゃん大ピンチ!」
自分史である。三歳から十二歳まで。世界には、「トム・ソーヤの冒険」や「ハックルベリー・フィン」など、少年文学がある。日本にも、そういう小説が、現れないものか?
中津川丹は、はじめての、自分史で、日本の「トム・ソーヤの冒険」を書いた。小説にする必要がないほど、実生活自体が、数奇な運命に充ちている。
文体も的確で、リアリティがある。(蝶)を追う少年が、そのまま大人になった。戦争で父を失い、戦後を、祖父母と共に、生きる少年の、心情が、見事に結晶している。
小学校の国語の、副読本にしたい作品。NHKは、ドラマ化しないか?

日本の、中世の、書物を読む。小説、説話、日記、物語、随筆。日本文が、だんだんと、根付いて来て、日本文で思考する。作家、僧たちが現れてくる。中世の混沌と闇と光。

現代に、この人だと思える、僧、牧師、神父、宗教者はいないものかと、思っていた。
ベトナム出身の、テイク・ナット・ハン師(禅僧)が私のココロを捉えた。
やはり、寺院や教会の中ではなく、戦場から、実生活の、体験の中から、真の、宗教者は立ちあがるものだ。コトバと行動が、一人の人間の中で、直立している!!

時は、無常迅速に流れる。秋山駿がなくなって、もう、二年になろうとしている。
「沈黙を聴く」は、秋山駿が残した、最後の「本」である。死者と対話できる「本」だ。夢と現の間で、秋山駿と対話をした。
「秋山さん、音信を下さいよ」と念じていたら、深夜に「お別れの会」で流れた(ヴァイオリンの生演奏で)「中国地方の子守唄」が、ラジオから聴こえてきた。
死者との交信は、このように、実現される!!

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• 火曜日, 8月 11th, 2015

如是我聞
(私)は太鼓の音(オト)を耳で聞いた と

無限遠点から
深層意識から
アーラヤ識から
細胞の遺伝子から
神社・仏閣から
祭りの路上から
3・11の東北から
今日も太鼓の音が流れている

空振りの一日も
足の裏がヒリヒリする一日も
不条理の棒を呑み込んだ一日も
太鼓の音さえ聞こえていれば
独りでも夜まで歩いていける
耳を立てて

如是我聞
(私)は太鼓の音(コトバ)を腸管で聞いた と

脳が聞く 耳が聞く 意識(ココロ)が聞く 太鼓の音(コトバ)よりも
腸管が聞く 太鼓の音(コトバ)が 深く やさしい 21世紀の脳の知が破綻した今 生命の原初から生きている腸管をこそ 信ずるべきだ
モノを包む 他者 (他物) を (私) に変換する腸管の力が光っている ココロまで生んでしまった腸管のパワーだ 腸管を開いて

如是我聞
(私)は太鼓の音(パルス)を手で聞いた と

(私) が無限に手を振ると
100億光年の彼方では
ひとつの銀河が大爆発をする
(宇宙的ハンド・パワー効果だ)
なんの不思議があるものか
東京で一匹の蝶が羽搏くと
ニューヨークでは大風が吹く
(地球的バタフライ効果だ)
手は いつまでも 振り続ける
歩いて 踊って 跳んで 一日が終わる
今日も 地球の 宇宙の太鼓の音(オト※コトバ・パルス)が
十一次元の時空に流れていた

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• 木曜日, 5月 28th, 2015

壁はどこまでも進化する。

「私は壁である」とニンゲン・私が言ったら「壁は私である」と壁が応えた。

壁の来歴ステップ1(少女M)
夏の日盛りに、隣りの席に坐っていた、可愛い女の子が、突然、死んだ。たった七歳だった。理由はわからない。何処へ行ったのか知る術もない。探すにも空席があるばかりだ。
コトバが出ない。足が動かない。ココロが叩き割られた。で、登校拒否になった。透明な壁を見た。ニンゲンには途轍もないことが起こってしまう。

壁の来歴ステップ2(朋輩K)
桜の花が風に揺れる時節に、中学校に入学した。隣の町から、土佐のイゴッソが越境入学をしてきた。
阿波の気質は温厚で、コトバはやわらかい。土佐の気質は豪放で、コトバは直截である。ある日、Kが言い放った。
「おんしの笑顔は、何か隠しとる、嘘言ったらあかんぜよ、朋輩になれん」
血の流れが止まった。笑顔が痙攣でひきつった。Kのコトバは、針だった。針を呑むと、イゴッソKとは、生涯の朋輩となった。コトバの壁が崩れた。

壁の来歴ステップ3(友人S)
高校生の時、Sの家を訪ねた。
家の西側に大きな石の壁があった。苔の生えた周辺に時間が刻まれていた。石の壁の中心だけが、何かで掃き清めたように光っていた。
Sは、軟式野球のボールをもっていきて、石の壁にむかって投げはじめた。野球の練習かと聴いたら、いいや、ちがうと答えた。理由を訊いたら、祖父、父、そして、自分と、三代にわたる”仕事”だと言う。石の壁に、ボールを投げるのが、なぜ、”仕事”だと、たびたび問いつめた。
祖父も父もSも、毎日、朝夕、ボールを投げ続けている。千回、万回、億回、兆回投げ続けると、いつか、必ず、ボールは、石の、向こう側へ突き抜ける時がある、その証明の為に、家族は、石の壁にむかっていると、Sは言った。君は、信じるかい?
いかにも、ニンゲンらしい行為である。伝統ある”仕事”を、Sは、生涯続けるだろう。
”不合理ゆえに我信ず”ではない。理論としては、正しすぎるくらい正しいのだ。

壁の、千のステップは、いつまでも、どこまでも続いている。ニンゲンが、眼耳鼻舌身意に頼って生きる限りは。

(平成27年2月16日)

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