Archive for the Category ◊ エッセイ ◊

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• 火曜日, 7月 13th, 2010

偶然に、始まってしまった文章である。(私)に、どこからともなく、声が垂直に降りて来て、ノオトに、それを書き記していたら、こんな形になった。本当は、私は、それを、なんと呼んでいいのか、わからない。毎日歩いている、歩いている時、それが(私)へとやってきて、いつの間にか、1000本になった。突然生れたものが成長をしたのだ。

詩でもない。俳句や短歌でもない。エッセイでもない。もちろん哲学でもない。小説でもない。散文というのでもない。

とりあえず、芥川や朔太郎たちが呼んだように、アフォリズムとすることにした。しかし、西洋の知を真似た、彼等の作品とはちがう、もっと別のものである。シュールレアリズム(自動筆記)に近いかもしれない。

時間が爆発する。
空間が爆発する。
意識が爆発する。
(私)が爆発する。

その中心から声が来る。爆発する形が、アフォリズムである。砕け散って、痙攣し、独楽となり、光となり、疾走し、浮遊し、あらゆるコトとモノたちが、再び、(私)を求めて統一される。

存在の声が、アフォリズムである。だから、なんでもありだ。ニンゲンをめぐる一切のものが、顕現し、消滅し、浮遊し、舞い、踊り、物自体がごろりと横になったり、透明なモノが飛んでいたり、叫び声があがり、啜り泣く声が漂い、お金という神さまが現れたり、あらゆる事象が(私)から発光するのだ。

自由自在である。

思考あり、感覚あり、直観あり、(私)に来るもの達が踊り狂う舞台である。

詩、小説、エッセイ、紀行文、書評、講演と、頼まれるままに、いろいろなスタイルで言葉とつきあってきた。

しかし、今回の、アフォリズムという形は、正に、(私)の中での発見であった。

小説を書くことが、本業であると信じてきたが、このアフォリズムというもの、なかなか、面白い。鋭く、短く、深く、瞬間で、爆発できる。

声が来る限り続けたい。2000本、3000本、いや、声が来なくなれば、中断である。

読者の方からは、アフォリズムは、エクリチュールの最高のものかもしれぬと感想をいただいた。面白いという声が圧倒的である。

アフォリズムは、現代という時代に、似合うかもしれない。

長篇小説「百年の歩行」ライフワーク、1000枚を書きながら、思わぬ副産物が現れたものである。

いったい、コレは何か?何が何をしておるのか?まだ、(私)にもわからない。

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• 月曜日, 2月 22nd, 2010

立松和平の代表作「遠雷」を再読する。というよりも、立松の声を、私の中に甦えらせてみる。影、いや文章から、響いてくるのは、まぎれもなく、立松和平のものだ。

夜、”立松死す”の一報を聴いて、今年、本人に会うことが、不可能になったことを、思い知った。せめて、作品の中に立ち現れる姿を、一晩、見てみようと思ったのだ。「遠雷」の、紙の色も、時間の、経過を語っていて、日に当たって、薄茶色に変化はしているが、(文体)は、現身の本人以上に、その姿を語っている。愚直の中の、やわらかな魂だ。

立松和平の公式のHPを観る。
全小説、第一期、第二期、第三期30巻。全著作、300冊。40年の、軌跡である。
”行動派作家”の名にふさわしく、紀行文、エッセイ、発言、講演、レポート、そして、TV、小説と、多岐に渡った活動の表現がある。

それにしても、中上健次といい、立松和平といい、頑強な身体を誇る者たちから死んでいく。「早稲田文学」の時から、同時代の空気を吸った者として、悲しい限りだ。長寿社会が到来したというのに、その入口で、ポキンと折れてしまう。

立松よ、安らかに、眠れよ。合掌。(2月9日)

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• 水曜日, 7月 08th, 2009

色という現象は、形以上に不思議なものた。特に、白、植物から白い花が咲くのが、とても不思議に思っていた時期がある。ある親しい人が、死期が近づいたある日、なぜなんだどうしても、ものに色が現れるのが不思議でしょうがないよと、しみじみと訊かれた時があった。ある病院のベットの上でのことだ。

一応、光について、初歩的な、科学の知識で説明したが、それを聴いても、ふーんと言って、自分の懐疑を溶解させたふうでもなかった。

光は7色である。虹が自然界の秘密を解く。光がものにあたると、そのものを構成している原子が反応して、ある光の波調は吸収し、ある色の波調は反射する。その原子の性質によって、ものは、それぞれの色をもつ。

だから、闇の中では、色はない。

確かに、そのように話をした。

その人は、一応の知識人であったが、ものが固有に色をもっていて、闇の中でも、そのものが持っている色は消えない、だから、闇の中でも、ものは色を持つと考えてしまう。

そうゆうふうに考えていた。

私は、その問いの不思議よりも、自分の専門とする分野ではなくて、死期が近づくと、 人間として、もっと、根本的なことを知りたくなるものだな、その心の作用の方が不思議だと思った。見舞いとはむつかしいものだ。

その人は、胃ガンで、もう、自分に、死期が近いことを知っていた。その二ヶ月後に死んでしまった。

長い間、色の不思議をかかえていたのだ。

私自身も、光の性質や、原子の周期や性質について、知識としては知っていても、その人と同じように、ものにある色という現象が今でも、不思議である。

どうしても、もの自体に、色の要素ではなくて、色そのものが、含まれていると思いがちなのだ。

しかも、私の場合には、白という色が、不思議である。ものが原子で出来ていると知っても、光がなければ、色がないという、そのこと自体が、なかなか、頭の中で、すっきりと納得されていないものかも知れない。

現在では、科学の進歩で、あらゆる色が作り出される時代になった。色も、また、人間が人工的に、作りだした文明のひとつである。

ある書物で、生れた時から、全盲の人が、色について、確かに理解をしたと書いてあった。どうして、一度も見たこともない、色というものを、理解できたのだろう。光に触れて、全身で、感じることはできるとしても、色は、眼で見なければ見えないものではないのか?

わかるという力は、どこから来るのか?

脳は、見えない色を、どのようにして、理解したのだろう。

眼が不自由で、ものが見えない人が、色について、わかったということ自体が、また人間の不思議である。
見る、知る、想像する、心眼で見る、透視する、幻視する−能力というものは、どこまで進化するのだろう。

生命は、宇宙のすべてを知るために出現したとでも言うのだろうか。闇の底に沈んで、眼に見えないダーク・マターも、人間は、いづれ、知ることになる−存在は、発見された時、存在になる。最近、波という力、あらゆるもののリズムということを頻りに考える。

科学という力を信じることと、全盲の人が色がわかるという力の、どちらが、人間にとって大切なのか、現代人の試金石が、ここにもある。

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• 月曜日, 5月 25th, 2009

昔、映画の時代劇で「もっと心の眼で見よ、お主が見ているのは、単なる現象で、幻よ」というようなセリフを、お坊さんが、若い剣士に語る場面を、何度も見た。

いわく 心眼である。

子供心に、そんな眼があるのだろうか?ものを見るのは、この顔の中心にある肉眼しかないのではないかと反射的に考え、いやいや一流の剣士ともなると、そういう心境、境地に達しなければ、人間として、未熟なのだと思い、「心眼」に反応したものだった。

いつの間にか、科学全能の教育をされて、機械と、コンピューターの時代に育ってしまうと、「心眼」などという言葉さえ忘れていた。

多くの人が、一日中、コンピューターの前に坐って、仕事(作業)をする時代になって、動物としての本能も機能も無視して働くあまりに、ほとんどの人が、ストレスをかかえこみ、画面の中にある数字や文章やグラフに振り廻されて、悲鳴をあげている「現実」を生んだ。

「現実」は、もちろん、画面の中にあるのではない。しかし、画面に浮きあがるものを「事実」として捉え、仕事をすすめていくうちに、「事実」がもっとも強い「現実」としてのリアリティを持ちはじめた。

便利さと効率をひたすら求めてきた結果、動物としての人間の機能は、ある部分だけを鋭く成長させ、別の部分は、日々、退化していくという現実に直面している。

人が、声と声で挨拶を交わし、議論をするのではなく、隣に坐っている人に対しても、メールを送って、「対話」をする。

「声」は、実は、もっと豊かで、表現を持ち、強弱を持ち、さまざまな色彩を放出してくれるものだ。

その「声」も、使用しなければ衰えるだけだ。大声で叫び、大声で泣き、耳許で囁き、甘く呟き、鋭く叱咤する。その「声」を、現代人は、忘れはじめている。

見ること。見ることは見られていることでもある。どこまでも見続ける。眺めて、凝視して、とことん「もの」「ヒト」を見る。

そして、考える。人間の持っている一番大きな力−考えること。
「私」と「社会」を「世界」を「宇宙」を考えるのは、考えるという力をもっている「私」だ。
その「私」が「私」についてどこまでも考える。「私」という不思議を生きている「私」を考える。考えるということを考える。
以下・・・限度がない。

しかし、見ること、考えることの他に、言葉・言語以前の現象、事象についてはどうするのか?

<観照>という言葉がある。
辞書に、こう書いてある。
「①対象を、主観的要素を加えずに冷静なこころでみつめること ②美を直接的に認識すること。直観。」

どうであろうか?
あの、子供の頃の、時代劇の映画で使われていたセリフに似ていないか。
「こころでみつめる」と書いてある。広辞苑に載せているのだから、単なる迷信・妄想ではあるまい。

「心の眼でみる」=「心眼」と、どこがちがうのだろうか。表現が古いから、「心眼」は、知識人には、ニャーと笑われるだけか。あるいは、そのことを、深く考えて、現代風に変え、生かせれば、言っている内容は同じことなのか?

「直観」とは何か?
見る・考えるという方法では捉えられないものが、直観では、わかるということなのか。

「考える」ということでは、捉えられないものがある−言語以前のもの、思考の網にさえ捉えられないもの、確かに「美」は、絵画、音楽、彫刻には、それと認められる。なかなか、言葉では、表現しきれないものも、音や色や形では、容易に現すことができてしまう場合がある。

「心の眼でみる」を「心の耳で聴く」とすれば、どうであろうか。

先日、故郷の海岸で「漣痕」を久しぶりに見た。大地の隆起活動によって、2000万年前の海底が陸地になり、道を作る為に、山の斜面を伐り崩した際に、波のかたちが岩の表面いっぱいに現れたものである。

私は、長い間、「漣痕」の前に佇んで、凝っと、2000万年前の波のかたちを眺めていた。

心は、妙に、動揺していた。何か畏怖すべきものに邂逅していると感じ続けていた。気の遠くなるような、時間の流れの中に、褐色の、無数の波のかたちが顔を出して、まるで、人間を覗き込むように、春の光を浴びて鈍く、重く、輝やいていた。

私は、果たして、人間が、画家が、カメラマンが、作家が、この2000万年の時空を存在し続けてきた「漣痕」を画けるか、写せるか、書けるか?と考えていた。表現できまい。「心の眼」を思い浮かべたのは、そんな時であり、確かに「観照」という現象が「私」に起こっていた。

2000万年の色と形−その存在は、人間の手に負えない、表現をはみでてしまった強度をもって追ってくるので、私は、肉体の眼ではない、30億年生きてきている生きものが内包している、もうひとつの細胞の眼のようなもので対応している自分に気がついた。

私は観照していたのだ。
「心でみつめる」という現象の中に「私」がいた。おかしな表現だが、どうしても、直観よりは、心眼の方が、観照している自分にぴったりと合致していると思えた。

「考える」ということは「信じる」ことではない。だから、私の観照が、どのように思われるか、私にはわからない。

懐疑する人には、一度、漣痕の前に立って、凝っと眺めてみて下さいと言っておくしかない。

なお、「漣痕」は、徳島県の海陽町宍喰の海辺の道にある。町から歩いて、10分ほど、旧道(土佐街道)添いにある。そこから、しばらく歩くと、小高い山の上に、水床壮跡があって、360度の眺望が楽しめる。海と川と山が、絶景である。

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• 金曜日, 5月 01st, 2009

風景は、人の言葉以上に、多くのことを語る場合があるものだ。42年振りに、海陽町の山の奥にある轟の滝を訪ねてみた。

海南の大里の松原を1時間ばかり散策した。海岸線に2キロばかり、幅50メートルもある美しい松林がある。太平洋の荒波と激しい風が防ぐために、植林された松林である。松は、手入れも良くて、大木が天を突いている。下草が刈り込まれている為に、林の中を自由に歩くことができる。松林の中央に、道が走っていて、小さな車が通りぬけられる。

コンクリートの堤防を越えると、広い砂浜が、海に添って、延々と続いている。陸地から、肌理の細かい砂、小さな丸の小石、そして、波打ち際には、角のとれた、少し大きな石が、波の力で、海の底から打ちあげられている。

季節は2月だ。太平洋の暖かい潮流のせいか、あまり寒さは感じない。幼年期に、祖母に連れられて、松原の奥にある、神社の祭りに来たことがある。馬が走り、ダンジリが走り、松林の中へと逃げ込んだ記憶がある。海南高校を卒業した時、歩いて、10分ばかりのところにあるので、海を眺めに来たこともある。

夜、大人になって、海辺から、満天の星を眺めた記憶もある。

海は、水平線で、空と海がせめぎあって、直線ではなく、細かな突起があって、凹凸している。眼のとどくところまで、無数の波が生起しては、崩れ、崩れては起きあがり、岸にむけて、ゆっくりと押し寄せてくる。同じ形の波はひとつもない。凝っと、波の波動を見ていると飽きることがない。

音。波の音、潮騒が、リズムを刻んで、風にのって、耳の中心へと届く。耳、いや、記憶の、心の、もっとも深いところへ、太古の声を運んでくる。

30億年の昔に発生した生命の声だ。人間は、母の体内で、単細胞から、魚、爬虫類、そして、哺乳類・人間へと進化を、たった10ヶ月で再現するという。海は、人間の体内で、延々と生き続けている。身体の7割が水で、しかも、成分は海水に似ている。

海からの声に、心地良さ、郷愁を感じるのは、あたり前の、現象かも知れぬ。30億年の生命のリレーがあって、人間が登場したのかと思えば、自殺など、もったいない。自分の不遇や不幸を嘆いて、自己否定する間があれば、もっと、もっと、30億年という時間の果てにあらわれた「私」を使って、追求して、「死」が来る時まで、一滴残らず「私」という不思議を生き尽くせばよい。

放心する。海にむけて、五感を全開にする。時間が垂直に降ってくる。「私」と刺し貫いて、30億年という時間が流れる。気絶しそうなくらいの悠久の時の透明な貌が海のすがたと波の音に透視できる。

眺めていると、切がない。いつまでも、海に対峙している訳にもいかず、歩きはじめた。

何が起こったのか、何が発火したのか、轟の滝を見たくなった。海部川の源流、一滴の水が動きはじめるところ、海へと至る水のはじまりの場所、いつのまにか、そこへむけて車を走らせていた。

海部川には、大きな橋が二本架かっている。冬場だから、水嵩は少なく、白い砂利石が、流れの両側に山積している。随分と石の多い川だ。つまり、それだけ大量の石を運んでくる水量があるということだ。

田園には、ビニールハウスがあり、農家があり、想像以上に幅広い川原には、丸く、白い石がごろごろ転がっていて、川上にむかうに従って、その石が、形を大きくしていった。道は、舗装こそ終わっているが、山際に添って、川の岸辺を、奥へ、奥へと延びていて、だんだんと幅が狭くなる。

車が擦れちがうことも出来ないほど狭く、曲がりくねって、道の下は、崖、危険、注意、緊張が全身を走る。窓を開けると、もう、町の空気とは別の、山の、気の流れ、樹皮の香りが、鼻孔に入ってくる。ピュアーな空気だ。人家も、ほとんど見えなくなった。川には、石よりも、岩が増えてきた。もう、30~40分は走っただろうか。山容が、川の両側にせりだしてきて、空が山で区切られて、視界が狭まった。

巨岩が犇きあう光景が眼の前に展がったところで、車の走る道は終わった。車の外に出ると、森から、何やら、爽快な、山の気を含んだ風が吹いてきた。何トンあるかわからない巨岩が、川を占領していた。濡れた岩には緑色の苔が生えている。凭れ合い、支え合い、傾き、岩の形はさまざまだが、巨大な岩石の塊りは、時間の相を刻んで見えた。透明な水は、岩と岩をくぐりぬけて、静かに、静かに流れていた。

轟神社にお拝りをした。

冬の日暮れは早く、まだ3時だというのに、今にも曇り空からは、雨の粒が落ちてきそうで、橋を渡ると、森は、灰暗く、苔の生えた石段を登る足許が心もとなかった。

森はマンダラだ。迷宮である。自然が長い時間をかけて造った宇宙(マンダラ)である。巨木が森のシンボルだ。森があるから、神社ができたのか、神神があるから森ができたのか。おそらく、前者だろう。神社は、人が、森の放出する、霊妙な気を吸って、そこに、社を作ったにちがいない。気の流れが、人の心を、畏怖、畏敬という、自然な状態に導いたものだろう。確かに、歩いてみると、森閑とした、音のない時空ではあるが、耳の底には、音以前の音が達しているのがわかる。人に迫ってくるその力を、神妙な気持で受けとめるしかない。心が洗われるとは、そういうことだ。一切の余分なものが、脳裡から消えて、森というマンダラに触れているのだ。

社は、厳として、森の中心に建っていた。寺の仏、神とはちがった、場が放する力、時空が放する力、山が放する力の集合体が、社として在った。神社に何があるか、誰が祀られているかは、問題ではなかった。森そのものが宇宙(マンダラ)であるから、人が、それに感応するのだから、崇めても、当然である。

社から坂道を下ると、滝が姿を顕わした。見事である。右から、左から、数十トンはあると思われる、黒褐色の巨岩が空中にせりだしていた。その割れ目の、中心から、水が、滝となって、流れ落ちていた。岩肌は、まるで生きもののようにぬるぬるしていた。夕闇の迫る、滝の前で、立ち尽くした。頭上から落ちてくる水は冬場のために、さほど多くはないが、滝壺に向けて、垂直に落ちてくる。岩が、樹木が、苔が、巨石が、圧倒的な質感をもっていて、表現以前、名辞以前の、世界を造り出していた。

正に、風景を超える風景だった。

(見る−見られる)という眼の力を超えている。どんな画家も、作家も、写真家も、この光景の力を、表現することはできまい。それは、向う側にある、大きな力が、自然に、わからせてくれる、「観照」という力だと思った。人間も、森の、滝の、マンダラの一部と化してしまっている為に、観察などというものは、何の役にも立たない。ただ、照り返されて、在る、その只中に、あらゆるものが、縁でもって結ばれているのだ。

風が吹く、その瞬間の、機の中にいて、縁によって、ひとつの宇宙の合唱に参加している、そういう光景が、ただ、在るだけだ。

私は、滝に、巨岩に、巨木に、森に、途轍もない時間の流れと存在の不思議を見ていた。

雨が降ってきた。

森と社と山の気を帯びたまま、私は、轟の滝を後にした。

平成21年2月

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

昨年は作曲家・武満徹へのエッセイとか、感想・妻の語り下ろしの本などを目にした。没後10年になるという。もうそんなに時間が流れたのかと、私は辛い思いがした。

私は音楽の専門家ではない。学生時代にブラスバンドに参加したり、クラシックギターを弾いただけの経験しかない。素人だ。

しかし、無限に旋廻するバッハの音楽を聴いていると、音の運動に宇宙を感じるという至福の時を感じるものだ。

私に作曲家・武満徹を教えたのは、学生時代の友人Mである。私のアパートへ、一枚のレコードを持ち込んできた。
「面白い人がいるぞ。まあ、聴いてみろ、驚くから」
「ブマンテツ? って何者だ!」
「馬鹿! タケミツトオルっていう、天才だよ」

ステレオを買ったばかりの時だったので、いろんな友人が次から次へと、レコードを持ち込んできては、一緒に聴いた。

戦慄が全身に走った。今までに聴いたことのない音楽だった。バッハの無限旋廻ではないが、鋭い音の線が虚空に走った。どこにもない時空が出現して、その小宇宙が沈黙までも“音”に変える世界だった。

私は興奮した。“ノヴェンバー・ステップス”だった。私は武満徹の音の磁場にひきつけられて、快感で痙攣していた。

それからだ。曲はもちろん、武満徹の書いた評論、エッセイ、対談を貪り読んだ。

ここに、ひとりの“芸術家”がいる。詩人と呼べる人が中原中也で終わったのなら、作曲家で芸術家と呼べるのは、武満徹が最後の人ではないのか?

今では現代人にとって、芸術家という言葉は死語であろう。文豪・ドストエフスキーとか、谷崎潤一郎と呼んだのも、昔の話だろう。

私はいつか、武満さんに読んでもらえる“作品・小説”を書きたいと夢想していた。

まだ何者でもない、白面の一青年が、妙な考えに陥ったものだ。それも音の魔力か!

誰でも「本」を書き終えると、是非読んでもらいたい人が、何人かいるものだ。私にとって、武満さんはその一人だった。何しろ音以上に、言葉に対しても厳しい批評眼をもち、エッセイストとしても見事な文章を書いた人だ。ちょうど、天才画家・ゴッホの手紙のように。

拙書「ビッグ・バンの風に吹かれて」をお送りしたところ、丁寧なお礼と感想の入ったハガキが届いた。私は子供のように喜んだ。
「あなたの芸術を探求して下さい」と結んであった。「芸術?」 私のはただの作品・小説である。

調子に乗った私は「死の種子」(長編小説)を書き下ろした時、帯に一言いただけないかと、出版社を通じて頼んでみた。
「残念ながら、今は初のオペラの制作で時間がない。本が完成したら、送って下さい」と、断りのハガキが届いた。

私はただただ赤面し、恥ずかしかった。

“世界の武満”がオペラに挑戦する。一刻一刻が黄色のように大事な時間にちがいなかった。

その時、武満さんはガンとも闘っていた。“オペラ”は、ついに幻のものとなった。音が言霊に重なって、球体になるオペラを、是非聴いてみたかったが。

新聞で、武満さんの死を知った時、私は一晩「ノヴェンバー・ステップス」を聴きながら「音、沈黙と測りあえるほどに」エッセイ集を読み耽った。芸術家は作品の中にすべてがある。

それから、あれから、私はいったい何をしてきたのか。確かに「○△□」という小説集を出した。全身全霊を投入した作品だった。

しかし約束した“芸術”には程遠い。

現在「百年の歩行」というライフワークの想を練り、ノオトを執っている。私が音楽で魂を揺さぶられたように、言葉、文章で人の心を掴んで離さない作品の完成。私のヴィジョンは、いつ完成するのかわからないが、武満徹さんからいただいた二枚のハガキに応えられるものが出来ればと、新年から自分自身を鼓舞している。

自分の持ち時間だけは誰にも分からないが…。

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

読書の楽しみは、どんな時代に生きた人のものでも、自由に読めることである。一生出会うこともない、もう死んでしまっている人の声、はるかな・遠方の・別世界にすんでいる人の声、文章には未知の・遠い・遠い人たちも、まるで知人や友人や肉親のように、知ることができる長所がある。

その人の姿や考え方、生きざまがくっきりと浮かびあがる。【本】は時空をとびこえる声の乗り物だ。その声に耳を傾けない手はない。もったいない。人が実人生で会う人間の数も場面も限られている。

では、現に我々が生きている同時代人のことを、よく知っていると言えるのだろうか?

私はなぜ、小説を書くかと問われれば、私自身はもちろん、現在生きている人間を描きたいからだと答えたい。私たち(私)はどこから来て、どこへ行くのか? 私たち(私)は何者か? という大きな謎に対する、私自身の答えを探求したいためだ。

もちろん、生きていること自体が、その行為に直結している。

さて“秋深き隣は何をする人ぞ”の句ではないが、現代という同じ空気を吸って生きてはいても、人は実にさまざまなスタイルで考えたり、生活していたりするものだ。人の心は、容易に理解できない。

私も何人かの気になる作家が書いた【本】は、いつも出版される度に購入して、読み続けている。その声を知りたいからである。現在(いま)何を考え、どう生きているのか、その一人に“池田晶子”がいる。

池田晶子が、わが国で最も難解だ(?)とされている長編小説「死霊」の埴谷雄高を論じはじめた時から注目している。そして新しい自分の手法を考案してから、現在に至るまで、出版された池田晶子の本は、すべて熟読している。

池田晶子はとにかく面白い。いや、彼女の思考の形を読むのが快いのだ。池田晶子は長い不遇の時代があった。いや「植木師に手を入れられた悲しさよ─(中原中也)」ではないが、編集者と衝突した時代があったらしい。

もちろん、本物は、才能は、どんな困難があろうとも、独りで立ちあがってくるものだ。

池田晶子はいつも、この“私”から出発して歩きはじめ、何時(いつ)の間にか迷宮の森へと誘い、驚きのつぶてを投げ、揺さぶり、新しい発見へと導いてしまう思考の力業を発揮してくれる。そこには、いつも考える池田晶子が立っている。端正で、明晰(めいせき)で、寸分の狂いもない文体がある。

まるで考える球体である。触れれば、どこからでも入っていける。もちろん、出口は読者に任されている。読む人の力、眼力に応じて、その内容がいくらでも深くなるように仕組まれている。

池田晶子の本が出る度に、ついつい買ってしまい、時間を惜しまず読み耽ってしまう。愛読者である。一面識もないのに、その直感と思考の形を追うことで、人間としてもっとも良く知った一人になってしまっている。

読むということは、実は同時に、生きることであり、そのスリルのある瞬間を共有しているのだ。

私にとっては、実にわかりやすく、その繊細な思考の糸、言葉の配置までが見えてしまう。彼女の直感が捉えたものが、文章となって起ちあがってくる気配やその手順までが透けて見える。文章・思考が私の心の中央に突き刺さるので、私も読みながら、私の思考を組み立てて対応している。読書とは受け身ではないのだ。私の内部にあるものが、文章を読む瞬間に発火しているのだ。だから面白いのだ。

しかし池田晶子の書くものはむずかしい、わからない、という人が必ずいる。なぜか? 【私】と彼女が言う時の【私】。存在そのものが、社会に生きて身につけているもの(いわゆる社会的私?)と混同されるからだ。出身地、名前、立場、仕事…などなど。

「内部の人間」を書いた秋山駿も、長い間、その為に誤解された。いくつかのポイントを踏まえておけば、秋山駿も、池田晶子も、実に正確すぎるほどの【正論】を述べている人たちだから、なるほどと合点がいくのだ。いわば裸の“私”を問題にしているのだ。

日本には、明治の北村透谷「内部生命論」にはじまって、考える人という系譜があるのだ。埴谷雄高、秋山駿、池田晶子に至る、思考する人たちだ。もちろん、小林秀雄はその中心にいる。

池田晶子は哲学する人というよりも、すべてをただただ考えつくす人だ、という風に私は考えている。存在そのものが割れてしまう地点まで、思考が、考えることが、特異点に衝突して破裂し、狂ってしまう、その一歩手前まで行ってほしい。

その為には、現在の3〜5枚の考えるシリーズとは別に、そろそろ本格的なものにも挑戦してほしい。

私も感想ではなく、きちんとした池田晶子論や、秋山駿論を書かねばならぬ、と考えているが…。

重田昇が選ぶ【池田晶子の本】ベスト3
①「新・考えるヒント」(小林秀雄論)
②「帰ってきたソクラテス」
③「考える日々」

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

ふとした瞬間に、遠い記憶の暗箱の中から立ちあがってくる声を聞くことがある。誰のものか、もう、声の主さえわからぬのに、その声は鮮明で、はっきりとした意味をうったえてくるものもあれば、その形も意味も定かでないのに、どうしても、声の語るところを再確認してみたいものもあって、実に不思議な気がする。

生きるために必要なものばかりかというと、そうでもなくて、吹きあげてくる風が、本当に気持ちがいいねと、なんでもない、日常の風景の中に放たれた声が脳裡に浮かんで、心を声の方にとどめてみる時もある。

人の耳に、心に、突然、吹きつけてくる過去の声たちは、いったい、何を語ろうとしているのだろうか?

透明な風のように快く吹きぬけるものばかりではない。何日も、耳の底に貼りついている声もある。暗く、おぞましい声もある。

それだけ私が、生きてきたという証拠だろうか?

さて、先日突然、私の脳裡に響きわたった声は、正しく、作家・三浦綾子の声だった。

三浦綾子は、朝日新聞の懸賞小説で当選を果たした長編小説「氷点」でデヴューして、その作品は、評判を呼び、テレビドラマにもなって、一世を風靡した。

三浦綾子は、人間の原罪という真摯で、重いテーマを小説という形に溶け込ませて、一般の読者をもまきこんで熱中させた。いわゆる純文学ではないが、人間を問う、力強く、根源的な視点と洞察力をもっていた。

流行作家となって、続々に、作品を発表しながらも、北の大地に根をおろして、北海道は、旭川に終生棲みつづけた。

時代に流されることもなく、終始、自分の声を等身大に放ち続けた稀有な作家であった。

私の手許に一本のテープがある。三浦綾子の歌声が録音された、非常に珍しい私家版だ。

もう昔の話になるが、短編小説集「ビッグ・バンの風に吹かれて」を上梓した折、三浦綾子さんに献本させていただいた。

数日後、三浦綾子・光世の署名入りの感想文がとどいた。「他の追槌を赦さぬ文体の高みがある」と、所収の「岬の貌」(27枚)を絶讃してくれた。

文章がすべて、命であり、魂だと思っている私には、三浦さんの言葉は素直にうれしくもあり、何か落ち着きがわるくなった。

病気がちで、寒い北の大地の冬は大変だろうと思い、ビタミンたっぷりの、南国・土佐のポンカンをお送りした。

一本のテープは、そのお礼としてとどけられたものだ。

早速、テープを廻してみた。ご主人・光世さんの弾くピアノに合わせて、三浦綾子さんが童謡を歌っていた。「砂山」…海は荒海 向こうは佐渡よ…。

三浦綾子の講演会では、寒いですね、コホンと咳をするだけで、愛読者たちは、感動してしまうと、ある編集者に聞いたことがある。それだけ、人々の心と魂を捉えて離さぬ作家だった。

声は、言葉以上に、宇宙を顕すものだ。言葉の意味よりも、もっと深い共振を発揮するのが声である。話し言葉の振動よりも、更に、深い共感を呼ぶのが歌声である。

歌声は、正に、三浦綾子その人だった。

透明で、どこまでも流れて、声の底に芯があり、やわらかく、鋭く、たったひとつのものを求めて歌いあげる歌声だった。

私はそこに“一生懸命”を見た。歌のプロでもなく、上手下手とは無関係の地点で響きわたる、中空に放たれた声には“一生懸命”という姿勢が直立していた。人の心をうち、人の魂を揺さぶった、作家・三浦綾子の神髄が、歌声の中にあった。

先日、書店に立ち寄って、本の顔を覗きながら歩いていたら、文庫本「氷点」上・下が平積みになっていた。手にとって、奥付を見ると、なんと七十数刷と版を重ねていた。

没後、何年になるのだろうか?

三浦綾子の魂は、まだ、作品の中に息づいて、若い人々の心を摑んでいるのだ。

私の中には、歌声が流れている。

文章と声。考えれば考えるほどに、深いコスモロジーが展開されるだろう。