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• 火曜日, 11月 04th, 2008

ふとした瞬間に、遠い記憶の暗箱の中から立ちあがってくる声を聞くことがある。誰のものか、もう、声の主さえわからぬのに、その声は鮮明で、はっきりとした意味をうったえてくるものもあれば、その形も意味も定かでないのに、どうしても、声の語るところを再確認してみたいものもあって、実に不思議な気がする。

生きるために必要なものばかりかというと、そうでもなくて、吹きあげてくる風が、本当に気持ちがいいねと、なんでもない、日常の風景の中に放たれた声が脳裡に浮かんで、心を声の方にとどめてみる時もある。

人の耳に、心に、突然、吹きつけてくる過去の声たちは、いったい、何を語ろうとしているのだろうか?

透明な風のように快く吹きぬけるものばかりではない。何日も、耳の底に貼りついている声もある。暗く、おぞましい声もある。

それだけ私が、生きてきたという証拠だろうか?

さて、先日突然、私の脳裡に響きわたった声は、正しく、作家・三浦綾子の声だった。

三浦綾子は、朝日新聞の懸賞小説で当選を果たした長編小説「氷点」でデヴューして、その作品は、評判を呼び、テレビドラマにもなって、一世を風靡した。

三浦綾子は、人間の原罪という真摯で、重いテーマを小説という形に溶け込ませて、一般の読者をもまきこんで熱中させた。いわゆる純文学ではないが、人間を問う、力強く、根源的な視点と洞察力をもっていた。

流行作家となって、続々に、作品を発表しながらも、北の大地に根をおろして、北海道は、旭川に終生棲みつづけた。

時代に流されることもなく、終始、自分の声を等身大に放ち続けた稀有な作家であった。

私の手許に一本のテープがある。三浦綾子の歌声が録音された、非常に珍しい私家版だ。

もう昔の話になるが、短編小説集「ビッグ・バンの風に吹かれて」を上梓した折、三浦綾子さんに献本させていただいた。

数日後、三浦綾子・光世の署名入りの感想文がとどいた。「他の追槌を赦さぬ文体の高みがある」と、所収の「岬の貌」(27枚)を絶讃してくれた。

文章がすべて、命であり、魂だと思っている私には、三浦さんの言葉は素直にうれしくもあり、何か落ち着きがわるくなった。

病気がちで、寒い北の大地の冬は大変だろうと思い、ビタミンたっぷりの、南国・土佐のポンカンをお送りした。

一本のテープは、そのお礼としてとどけられたものだ。

早速、テープを廻してみた。ご主人・光世さんの弾くピアノに合わせて、三浦綾子さんが童謡を歌っていた。「砂山」…海は荒海 向こうは佐渡よ…。

三浦綾子の講演会では、寒いですね、コホンと咳をするだけで、愛読者たちは、感動してしまうと、ある編集者に聞いたことがある。それだけ、人々の心と魂を捉えて離さぬ作家だった。

声は、言葉以上に、宇宙を顕すものだ。言葉の意味よりも、もっと深い共振を発揮するのが声である。話し言葉の振動よりも、更に、深い共感を呼ぶのが歌声である。

歌声は、正に、三浦綾子その人だった。

透明で、どこまでも流れて、声の底に芯があり、やわらかく、鋭く、たったひとつのものを求めて歌いあげる歌声だった。

私はそこに“一生懸命”を見た。歌のプロでもなく、上手下手とは無関係の地点で響きわたる、中空に放たれた声には“一生懸命”という姿勢が直立していた。人の心をうち、人の魂を揺さぶった、作家・三浦綾子の神髄が、歌声の中にあった。

先日、書店に立ち寄って、本の顔を覗きながら歩いていたら、文庫本「氷点」上・下が平積みになっていた。手にとって、奥付を見ると、なんと七十数刷と版を重ねていた。

没後、何年になるのだろうか?

三浦綾子の魂は、まだ、作品の中に息づいて、若い人々の心を摑んでいるのだ。

私の中には、歌声が流れている。

文章と声。考えれば考えるほどに、深いコスモロジーが展開されるだろう。

Category: エッセイ, 作品
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